この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。
【Global Outlook=ラメッシュ・タクール】
冷戦時代の兵器統制構造は、もはやその目的を満たすものではない。現代の地政学情勢において、核の二国間対立は核の鎖となった。現行の核兵器管理体制は、軍縮とは二国間の妥協的取引によって成し遂げられるものであり、その両国の存続こそが安定した戦略的二大国体制に依存しているという概念に基づいて構築されている。しかし、ますます多極化する世界秩序において、そのような体制では他の核兵器保有国の選択を制御することも抑制することもできない。(原文へ 日・英)
中国―インド―パキスタンの関係を取り巻く戦略地政学的環境が、その適例である。この核の三つ巴関係は、互いに接する国境、重大な領土問題、1947年よりたび重なる戦争の歴史という点で、冷戦時代にも他に類を見ない。3カ国のうち中国のみが、1968年の核兵器不拡散条約(NPT)加盟国であり、1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT)の署名国である。中国はCTBTをまだ批准しておらず、また、インドとパキスタンはNPTとCTBTのどちらにも署名することを拒否しており、世界の核秩序の基礎をなす条約でもこれらの国の核政策を制御できないことを明確にしている。したがって、これらの国の核兵器、核ドクトリン、核態勢を抑制するために別のメカニズムが必要である。
数十年にわたり、北大西洋地域における実質的な核の二極体制が続いた後、我々は現在、はるかに複雑な時代に直面している。いまやインド太平洋地域にも同等の注意が向けられ、複数の均衡が求められ、能力レベルの大きな差は必然的に戦略的奇襲の可能性をはらんでいる。サイバー戦争、宇宙におけるデュアルユースシステム、人工知能を用いた自律型兵器といった新技術は、力関係に新たな不安定性をもたらしている。このような増大するリスクは、インド太平洋地域において、目的にかなった核規制体制を早急に制度化する必要があることを示している。
「原子力科学者会報」に掲載された論文において、マンプリート・セティ(Manpreet Sethi)氏と私は、中国とインドの核兵器先制不使用政策および態勢が、6月の激しい衝突とその後の緊迫した軍事的にらみ合いの只中でさえ、戦略的安定性にいかに寄与したかについては、世界の他の核兵器保有国も広く見習うべきであり、より広範な国際研究に値すると論じた。この論文で私は、戸田記念国際平和研究所の最近の政策提言を引用しつつ、インド太平洋地域もまた、北大西洋地域で形成された二つのメカニズムが、地域の核の鎖にとってどのような意味を持ちうるかを検討すべきことを論じる。
オープンスカイズ条約(領空開放条約)
5月21日、米国は1992年オープンスカイズ条約から脱退した。この条約は、1955年にドワイト・D・アイゼンハワー大統領が行った大胆な提案に端を発する。当時ソ連政府はそれを拒絶したが、冷戦終期、ジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、1990年の欧州通常戦力条約に基づく戦力の制限を検証するために有効な方法としてこれを再提案した。ソ連崩壊後のロシア政府はこれを受け入れ、オープンスカイズ条約は1992年3月24日に調印され、2002年1月1日に発効した。条約加盟国は2020年までに35カ国に達した。
同条約は、これまでに約1,500件のミッションを承認しており、そのうち500件以上がロシア上空での飛行である。ロシアは、上空を最も多く通過され、最も監視されている国である。飛行は直前の通知によって実施され、主要な軍備と欧州域内での経路を証明する写真が提出される。上空通過については、回数、状況、タイミング、そして監視設備の技術的能力が厳重に監視される。オープンスカイズ条約は、信頼醸成およびリスク低減への政治的取り組みを象徴するとともに、実際的な貢献を行うものであり、飛行のたびに奇襲攻撃への懸念が軽減される。
また、印パ間と中印間でそれぞれ相互拘束的な二国間協定を締結する、あるいは、3カ国すべての間で三国間協定を締結することも考えられる。アルナーチャル・プラデーシュからアクサイチン、ラダック、カシミールを経てアラビア海に抜けるふたつの実効支配線の周辺を上空から査察することは、境界の維持、侵犯の検知、侵入の防止に役立つといえる。2020年春および初夏にガルワン渓谷で発生した事案のように、国防侵犯を早期に検知することで、核兵器による軍事対応の敷居が高くなり、外交的解決に向けて先手を打ちやすくなる。
海上事故防止協定
米露の戦略的対立関係において、潜水艦搭載核兵器は生存性を高め、先制攻撃成功の可能性を低減することによって、安定性を確かなものにしている。それとは対照的に、インド太平洋地域において、潜水艦搭載核兵器によって継続的な海上抑止力を達成しようとする競争は、不安定化をもたらすおそれがある。なぜなら、インド太平洋地域の強国は、十分に練られた作戦構想、堅牢で冗長性を備えた指揮統制体系、航行中の潜水艦の安全な通信を欠いているからである。
1960年代後半、米ソ海軍の間で船舶と航空機が関与する接近事故が数回発生しており、状況がエスカレートして制御不可能になるおそれもあった。このようなリスクを低減するため、1972年5月25日に海上事故防止協定が締結された。同協定は特に、衝突の防止、混雑海域での機動回避、監視対象艦船の挑発や危険を誘発しない安全な距離を維持した監視活動、潜水艦が付近で演習を行っている場合の船舶への通知、相手方の航空機または船舶に対して模擬攻撃を行わない措置を、両サイドに求めている。
他の信頼醸成措置と同様、この協定も、両海軍の規模、兵器、戦力構成に直接影響を与えるものではない。むしろ、機能的な海軍間プロセスによって、相互の軍事活動に関する知識と理解が深まり、事故、誤算、コミュニケーション不足による紛争の可能性が低くなり、平時においても危機においても安定性が強化されるのである。協定の個別の規定ではなく、このような一般原則が、中印パ関係において同様の協定を策定しようとするときに重要な検討事項となるだろう。
核規制体制の制度化
地政学的緊張が高まる中で緊迫する国際安全保障環境、一部の核保有国首脳の無責任な発言、北朝鮮やおそらくイランのような国家への核兵器拡散、最新の核ドクトリンで想定されるこれらの国の役割拡大、新技術の出現、崩壊しつつある軍備管理構造はいずれも、偶発的または意図的な核兵器使用のリスクを増大させている。インド太平洋地域では、軍備管理協定がなく、実際的な信頼醸成措置の歴史もないため、リスクはとりわけ深刻である。
軍備管理措置は、政治的雰囲気が良好であれば容易に開始できるが、政治的雰囲気が緊迫しているほど、それらの必要性がより重大になる。核軍縮は、それが目標としてどれほど望ましくても、また、論理的に正しいことがどれほど明白であっても、依然として見通しのきく範囲の先にある。その一方で、偶発的、非承認、あるいは閾値超過による武力衝突がアジア・世界の核兵器発射という事態を招くリスクが増大しており、それに対する追加的な安全措置の制度化が緊急に必要である。本稿で提案したように、信頼醸成措置とリスク低減措置を制度化し、核規制体制を実践することによって、グローバルレベルでもインド太平洋地域でも、危機時および軍拡競争時の安定化措置を強化することができるだろう。
ラメッシュ・タクールは、オーストラリア国立大学クロフォード公共政策大学院名誉教授、戸田記念国際平和研究所上級研究員、核軍縮・不拡散アジア太平洋リーダーシップ・ネットワーク(APLN)理事を務める。元国際連合事務次長補、元APLN共同議長。
INPS Japan
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