【ニューヨークThe Astana Timesナジマ・アブオヴァ】
3月3日~7日、ニューヨークの国連本部で開催された「核兵器禁止条約(TPNW)第3回締約国会議(3MSP)」において、カザフスタンの核実験の被害者と反核活動家が、核の正義と核兵器の人間および環境に及ぼす長期的影響について議論を主導した。
沈黙を破る——被害者の証言

18歳のディアナ・ムルザガリエワさんは、セミパラチンスク核実験場での核実験の4世代目の被害者として、サイドイベントで衝撃的な証言を行った。彼女は、口をテープで塞ぐという象徴的な行動からスピーチを始めた。
「私が9歳になるまでは、まさにこのように感じていました」と、ムルザガリエワさんは語った。
彼女は発話障害(ジスアースリア)を伴う脳性まひを患って生まれた。これは、彼女の地元で行われた核実験による放射線被曝が原因と診断された。
「私の声帯は正常に機能しませんでした。他の子どもたちが笑ったり、歌ったり、遊んだりしている間、私は黙ったまま、自分を表現することができませんでした。」と彼女は振り返る。
彼女は幼少期を病院やリハビリセンターで過ごし、深刻な放射線障害を抱えた子どもたちに囲まれていた。その多くは孤児や捨てられた子どもであり、絶え間ないいじめに苦しんでいた。9歳になるまでに、彼女は放射線による脚の変形を修正するための複数の手術を受けていた。
それでも、彼女は自らの苦しみを行動へと昇華させることを決意した。
「私は環境と障がいを持つ子どもたちのために戦うと誓いました。彼らの目となり、耳となり、声となると約束したのです。」と彼女は述べる。
話すことができなかった幼少期、彼女は執筆を通じて自らを表現する手段を見つけた。14歳のとき、彼女は障がい児の夢と環境問題をテーマにした童話を書き、翌年には200部を出版し、その売り上げを病気の子どもたちの支援に寄付した。
しかし、彼女の物語は彼女一人の苦難ではない。
「私の42歳の母は、幼少期から聴覚障害を抱えています。祖母は癌を患い、すでに亡くなりました。曾祖母は9人の子どもを出産しましたが、1歳を迎える前に全員が亡くなりました。」と彼女は語る。
彼女の曾祖母は1932年、核実験場近くのカラウル村で生まれ、核実験が始まると強制的に移住させられた。1949年8月29日の最初の核実験の際、曾祖母は妊娠中であり、その後生まれた娘は1年しか生きられなかった。
「これらの話は、私だけのものではありません。何世代にもわたり沈黙を強いられてきた多くの家族の物語です。」と彼女は訴える。
スピーチを締めくくる際、彼女は大きな決意を示した。
「長年、私は話すことができないと思われていました。しかし、今、私は皆さんの前に立ち、沈黙を強いられてきたすべての人々の声を届けています。」と彼女は力強く語った。

共鳴する証言:核の悲劇を共有する記憶

1980年代から反核運動に関わり、Acronym Institute for Disarmament Diplomacy(AIDD)の事務局長を務めるレベッカ・エレノア・ジョンソン氏は、ムルザガリエワさんの証言に深く心を動かされた。
「セミパラチンスク核実験に関するドキュメンタリー作品「私は生きぬく:語られざるセミパラチンスク」を上映するサイドイベント(創価学会インタナショナル(SGI)、国際安全保障政策センター(CISP)、カザフスタン共和国政府国連常駐代表部の共催事業)のドキュメンタリーの内容も非常に力強いものでしたが、彼女の証言にはそれ以上の力がありました。」とジョンソン氏は語る。
特に、ムルザガリエワさんが「祖母はカラウル村の出身」と語った瞬間、ジョンソン氏は運命的なつながりを感じた。

「1989年、私はグリーンピースの核実験禁止条約の国際コーディネーターとしてカラウル村を訪れました。オルジャス・スレイメノフ氏が『ネバダ・セミパラチンスク運動』を立ち上げたばかりの頃で、私は国際会議に招かれ、カザフスタンを訪問したのです。」と彼女は回想する。
当時、彼女は放射線被曝による病気で子どもを3人失い、最後の生き残った息子を看病していた母親と出会った。そのときの記憶が、ムルザガリエワさんのスピーチによってよみがえった。
「もしかしたら、あの女性は彼女の祖母だったのかもしれません。誰にも分かりません。でも、これこそが、核兵器が80年間もたらし続けてきた恐ろしい被害の人道的な側面なのです。」と彼女は語った。
核爆発の記憶を描く

カザフスタンの画家であり、世界的な反核活動家であり、カザフスタンの親善大使を務めるカリプベク・クユコフ氏もまた、自らの証言を共有した。
「私の人生、そしてカザフスタンの歴史そのものが、核実験の恐怖を象徴しています。」と彼は語る。
彼はセミパラチンスク核実験場から100kmのイギンディブラク村で生まれたが、母親の被曝の影響で生まれつき両腕がなかった。
「私の故郷では、崩壊した家、汚染された家畜、そして放射線による深刻な遺伝的影響を目の当たりにしました。」と彼は述べる。
彼は56歳になるまでの半生を核廃絶運動に捧げ、自身の苦しみを芸術に昇華してきた。
「私の絵画には、核実験がもたらした悲劇のすべてが描かれています。私は、世界に安全な未来について考えるよう訴えています。」とクユコフ氏は述べる。
3MSP TPNWの展示では、クユコフ氏の絵画が展示され、核実験の傷跡を訴えかけた。
最後に、彼は力強く訴えた。「今こそ、核の狂気を止める時です」(原文へ)

INPS Japan/The Astana Times
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