【ジャカルタIPS=ヘラ・ディアニ】
インドネシアのアブドゥルラフマン・ワヒド元大統領が入院したというニュースは、当初それほどの関心を呼ばなかった。彼はこれまで、糖尿病や肝臓の病気などで入退院を繰り返していたからだ。それに、世間を賑わわせていたのは、スシロ・バンバン・ユドヨノ現大統領の銀行疑獄の話題であった。
しかし、12月30日、ワヒド氏は、歯の治療手術の後、突然の死を迎える。享年69才であった。
ワヒド氏の訃報が伝わるとインドネシア全土がショックと悲しみに包まれた。自宅のある南ジャカルタには自然に多くの人々が同氏の死を悼んで集まった。そしてインドネシア全土でイスラム教徒のみならず様々な宗派の市民が同氏の冥福を祈る集会を催した。
東ジャワのスラバヤでは人々が自然と街に繰り出し、キャンドルを灯して行進したり花を手向けたりした。地元紙は、「ワヒド氏はイスラム教徒だが、全ての宗派に恩恵をもたらした人物であった。」とのダルマートマージャ枢機卿のコメントを掲載した。ワヒド氏は、インドネシアの宗教的寛容と政治改革の象徴的存在であった。
ワヒド氏は宗教一家の生まれであった。祖父のハシム・アスヤリ氏はインドネシア最大のイスラム教組織「ナフダトゥル・ウラマー」を創設した(ワヒド氏自身ものちに同団体の総裁になった)。父のワヒド・ハシム氏は、インドネシアの初代宗教大臣であった。
ワヒド氏自身は、カイロやバクダッドの大学へ留学した後帰国して、ジャーナリスト・評論家・学者としての道を歩み始めた。政教分離が彼の持論であった。
1998年、スハルト独裁政権が倒れると、国民覚醒党を結成した。翌99年の総選挙ではメガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ氏が率いるインドネシア民主党が勝利を収めるが、保守的なイスラム教徒たちは女性が大統領になることを嫌って「中央枢軸」を結成し、ワヒド氏が大統領に就任することになった(在任期間:99年10月~01年7月)。しかし、彼は、メガワティ氏を副大統領に選んだ。
ワヒド氏は、スハルト独裁体制を支えた2つの省庁を解散させ、軍の影響力を削ぎ、中国系住民を差別する仕組みを破棄したりと、自由と寛容の体制作りに向けて努力した。
しかし、それだけに敵も多く、2001年7月には議会から弾劾されて、メガワティ氏に大統領職を譲ることとなった。
現在、法務長官が共産主義と宗教をテーマにした書物の発禁処分を出すなど、非寛容な動きが相次いでいる。このようなときにこそ、インドネシアはワヒド氏の死を悼む必要がありそうだ。
インドネシアのワヒド元大統領の死について伝える。(原文へ)
翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩