spot_img
ニュースオランダはいかにしてスレブレニツァ虐殺の責任を逃れたか―歴史書の失われた一章

オランダはいかにしてスレブレニツァ虐殺の責任を逃れたか―歴史書の失われた一章

【ウィーンIDN=オーロラ・ワイス】

7月11日、第二次大戦時のユダヤ人虐殺以来欧州で最悪の虐殺事件と認定されているボスニア東部の街スレブレニツァに、虐殺27周年を記念するために数千人が集まった。8000人以上の愛する人々をセルビア人武装勢力によって殺害されたボシュニャク人が嘆き悲しむ中、オランダは虐殺に対する自らの責任を少しずつ消し去ろうとしている。スレブレニツァは、オランダの歴史の中の消えた1ページになろうとしている。

調査によれば、16歳から29歳までの若いオランダ人のうち7割以上がスレブレニツァ虐殺事件について知らないという。オランダの歴史書ではボシュニャク人の虐殺にオランダがいかに関与したかについて書かれていない。ボスニア人コミュニティは、オランダ教育制度に関する文献において、第二次世界大戦以後では最大の虐殺に関するより多くの情報を提供している。虐殺から27年、犠牲者の家族と生存者は毎年、自らの状況に目を向けてもらうことを求めている。彼らがオランダ政府に求めているのは、自らスレブレニツァの記念式典に足を運び、遺憾の意を表明することだ。

Map of Netherland
Map of Netherland

2019年、オランダ最高裁は、スレブレニツァでのボシュニャク人350人の死にオランダ政府が部分的に責任があるとする判決を下した。彼らは1995年、オランダ軍の管理下にあった国連安全地帯から追い出され、結果としてボスニアのセルビア人武装勢力によって殺害されることになったのである。

2014年、オランダ高等裁判所はオランダ政府には3割の罪があると判決を下したが、上告を受けた最高裁は過失割合をわずか1割にまで減じた。

2年前の「スレブレニツァ虐殺記念日」にマルク・ルッテ首相は、SNSなどのあらゆるメディアを使って配信された動画内でこの恐ろしい出来事への反省と後悔を表明した。しかし犠牲者記念の日である7月11日に確認したところ、その動画は削除されていた。

ルッテ首相は他方で、1992年から95年にかけてのボスニア戦争でスレブレニツァ防衛のために派遣されたオランダ人兵士数百人に対しては謝罪した。首相は、第三大隊が不十分な武力と人員によって東部ボスニアを守備するという「不可能な任務」を与えられたことを認めた。オランダは、国連はオランダ軍に十分な航空支援を行わず、軽武装のオランダ軍を見殺しにしたと一貫して主張してきた。

Male mourners at the reburial ceremony for an exhumed victim of the Srebrenica Massacre. Potocari, Bosnia and Herzegovina. July 11, 2007. / By Adam Jones Adam63 - Own work, CC BY-SA 3.0
Male mourners at the reburial ceremony for an exhumed victim of the Srebrenica Massacre. Potocari, Bosnia and Herzegovina. July 11, 2007. / By Adam Jones Adam63 – Own work, CC BY-SA 3.0

アルマ・ムスタフィック(41歳)は14歳の時に父と生き別れになった。それは彼女が最後に父親を見た時であった。彼女はオランダメディアに対して、オランダが虐殺の責任から目を背けていないことを示すために、代表団を派遣し教育を行うことが必要だと主張した。

「第二次世界大戦後に起きたこの大量虐殺について語ることで、ヨーロッパ大陸で再びこのようなことが起こらないようにすることができるのです。」とムスタフィックは語った。

しかし、この事件は、責任があるとされたオランダ人兵士にも影響を与えた。彼らの目の前で、ボシュニャク人の女性・子ども約3万人がわずか3日間で追放されたのである。数多くの女性や女児が強姦され、8372人の男性・男児が殺害された。

オランダ軍第三大隊の一員としてあの作戦に加わった退役軍人のリースベス・ボイケブームはオランダメディアに対して、「もし私が首相だったら、起きたことをもっと正直に認めるだろう。まずは認めることが必要だ。それでだいぶ変わる。しかし、オランダでは、自己反省をするのは大変だ。今も悩んでいる兵士を他にも知っている。私は、自分たちはもっとできることがあったのではないか、と思ったことは一度もない。どうすればよかったのか、自問自答する人は多いが、当時は手いっぱいだった。完全な混乱状態だったのだ。」と語った。

スレブレニツァ事件のためにオランダ内閣が総辞職

Exhumations in Srebrenica, 1996./ By Required text: "Photograph provided courtesy of the ICTY.", Attribution
Exhumations in Srebrenica, 1996./ By Required text: “Photograph provided courtesy of the ICTY.”, Attribution

民間人保護を任務としていた国連のオランダ軍大隊の目前で人々の殺害は行われた。スレブレニツァは、第二次世界大戦以来、欧州における最大の虐殺であった。その後も、科学捜査によってあらたに大規模な遺体の山が見つかっている。

スレブレニツァは、国際的な保護と平和維持をめぐって、オランダ政治で最も熱く論議された問題となった。2002年4月、政府が委託した包括的な「オランダ戦争資料研究所」(NIOD)報告が公開された。スレブレニツァ虐殺においてオランダが果たした役割に関する2002年のこの報告によって、当時の内閣は総辞職するに至った。

2011年、ハーグの最高裁は、大隊が民間人を保護することができなかったことから、犠牲者の家族にはオランダ政府に賠償を請求できる権利があると判示した。2015年、NIODは、スレブレニツァ陥落の状況をめぐって、政府からあらたな調査委託を受けた。

ボスニア戦争時のセルビア人勢力の指導者であったラドバン・カラジッチとその軍司令官ラトコ・ムラジッチはいずれも、国連がハーグに設置した特別戦争法廷によって、スレブレニツァ虐殺に加担した罪で有罪となった。この特別法廷とバルカンの諸法廷は全体として、スレブレニツァでの殺害の罪で50人近いセルビア系ボスニア人を有罪にし、懲役の総計は700年以上になった。

General Ratko Mladic (centre) arrives for UN-mediated talks at Sarajevo airport, June 1993. Photo by Mikhail Evstafiev/ By I, Evstafiev, CC BY-SA 3.0
General Ratko Mladic (centre) arrives for UN-mediated talks at Sarajevo airport, June 1993. Photo by Mikhail Evstafiev/ By I, Evstafiev, CC BY-SA 3.0

虐殺の目撃者であるハサン・ヌハノビッチはこう話す。7月13日、国連の兵士たちはパーティーをしていた。彼はスレブレニツァの虐殺を生き延び、他の生存者と犠牲者家族のために「真実と正義を求める」キャンペーンを開始していた。彼は『国連の旗の下で』という本を書いた。また、事件から10年以上経って、自身の家族の死の責任を求めてオランダを提訴し、勝訴を勝ち取った。

当時、オランダ大隊の通訳だったヌハノビッチは、スレブレニツァが陥落し、国連基地の責任ある立場の人々が町の救援のために行動を起こさず、民間人を保護しなかった様子を目撃した。彼は、国連の設定した安全地帯での保護を求めてポトチャリに約3万人もの難民が到着したのを目撃した。

彼は、どうすればこの民間人を救うことができるか数人の人たちと相談したが、国連保護軍(UNPROFOR)のトム・カレマンス司令官の理解を得ることができなかった。

セルビア勢力のムラジッチ司令官と面会し基地に戻ってきたオランダ大隊は、次の3日間にわたってすべての男性・男児を引き渡した。

人々は基地の近くでも殺害された。オランダ軍は死体を目撃していたし、16年後、同軍の退役軍人たちは、ポトチャリの「国連安全地帯」の内部ですら死体を埋めたと証言した。

ハサン・ヌハノビッチは、オランダ軍の将官たちが兵士に向かって、屋外ではライフルを携帯するな、防弾チョッキを着るな、ヘルメットをかぶるなと命令していたと証言するひとりである。

虐殺へのオランダの加担について扱った報道でヌハノビッチは、「内側にいて、チェトニク人(セルビア人)の手に市民を引き渡していた人々は完全武装をしていた。したがって、オランダ軍は、武器でもって安全地帯から市民を追い出したということだ」と強調した。彼にとって、UNPROFORの役割と罪を分ける境界線、すなわち、オランダと虐殺の遂行者の責任を分ける境界線はきわめて薄く、脆弱なものだ。

オランダ軍が、ハサンの両親や弟も含めたすべての市民をセルビア人に引き渡した時、基地に残っていたボシュニャク人は29人だった。そのほとんどが国際機関で働いていた者たちだった。

「難民を追い出した7月13日の夜、国連の兵士たちはパーティーを開いた。彼らは音楽を楽しみ、ビールを飲んだ。」これを自分の目で目撃したハサンは衝撃を受けた。

報道に登場したハサンは、セルビア兵が発砲する音が聞こえたと証言した。その時点でまだほとんどの男性たちは殺されておらず、まだ救援することが可能だった。真実を追い求め、全ての責任者を司法の手にかけることに全人生をかけるとハサンが誓ったのはこのためだ。

セルビア勢力のムラジッチ司令官と国連保護軍のカレマンス司令官の間では「私はピアニストだ。ピアニストを撃つな」という会話が交わされたという。千の言葉よりも数枚の写真が多くを物語る。1995年7月11日に国連「安全地帯」が陥落した直後、ムラジッチ司令官がスレブレニツァ平和維持軍のオランダ人司令官とワインをすすっている様子をとらえた写真は、そうした歴史的証拠の一枚である。

Thom Karremans/ By Ministerie van Defensie
Thom Karremans/ By Ministerie van Defensie

スレブレニツァのカレマンス司令官は、セルビア系ボスニア人が安全地帯に侵入するのを防ぐ最終手段として短い射撃を行ったことをムラジッチ司令官に詫びた。カレマンスは自身を、他人が書いた楽譜で演奏する謙虚な「ピアニスト」に過ぎないと語った。

「私はピアニストだ。ピアニストを撃たないでくれ」とこのオランダ人司令官は訴えた。会話の雰囲気を和ませようとしたようだ、と証言者は語る。

カレマンスにタバコと酒を渡す前に、ムラジッチは「あなたは悪いピアニストだ」と応じた。

虐殺への加担をめぐる法廷の審理において、カレマンスは、スレブレニツァのオランダ平和維持大隊の司令官に任命されたとき、相当な個人的・心理的プレッシャーの下にあった、と認定されている。彼の上官であるハンス・コージー将軍によると、カレマンスは不愉快な離婚調停の最中にあり、自身の軍務に集中できていなかったという。

カレマンスはスレブレニツァに関する決定のほとんどを副官であるロバート・フランケン少佐に委ねてきた。昨年、オランダの控訴審は、カレマンスもフランケンも、遅くとも7月13日の午後までには、少なくとも一部の民間人をセルビア人が殺害したと信じるに足る根拠があったと認定した。

フランケン退役中佐は、セルビア軍がUNPROFORのメンバーに、スレブレニツァからの亡命者を乗せた輸送隊に同行することを禁じたことについても述懐した。それから数日、フランケンは国連の代表として、「ボシュニャク人の民間人は自発的に[安全地帯を]離れたとスルプスカ共和国軍が記した文書に署名した。」

控訴審の判決は、オランダ大隊の司令部が、保護下にある者が「身体的な脅威」に晒されるようなことがある場合はどこにも「送ってはならない」とするオランダ国防省からの命令に違反していたと述べた。また、カレマンスの上官が「保護下にある難民と民間人を守るあらゆる可能な手立てを取れ」と命ずるファックスが7月11日に送られていたことにも言及した。

一方で、カナダ部隊は軍事作戦「嵐」において(オランダ軍とは)別の行動をとり、セルビアの民間人を保護した。

Prikaz Tabuta prije ukopa poginulih civila./ By Juniki San - Own work, CC BY-SA 3.0
Prikaz Tabuta prije ukopa poginulih civila./ By Juniki San – Own work, CC BY-SA 3.0

同じような状況に直面した他の国連部隊がどのように別の行動をとったかを見れば、本質が見えてくるだろう。スレブレニツァの事件の翌月である1995年8月、クロアチア軍が「嵐」作戦によってセルビア支配地域を解放した後、約700人のセルビア人たちがクニン(クロアチア)の国連軍基地に保護を求めてきた。クロアチアの軍人たちは、戦争犯罪の疑いでこの難民たちを「捜査」するよう要求した。ラトコ・ムラジッチがスレブレニツァで行ったのと同じ主張だ。しかし、カナダ平和維持軍の司令官であるアラン・フォランド将軍はこのクロアチア人の要求を拒絶した。

ハーグ法廷では、もしこのカナダの平和維持軍が、クニンの難民を戦争犯罪の容疑で調査するためにクロアチア人の「恣意的な逮捕あるいは収監」に委ねていたとしたら、「国連憲章違反」に問われたであろうと判示した。(原文へ

INPS Japan

関連記事:

|旧ユーゴスラビア|忘れ去られた人道危機

|ハーグ国際法廷|ラトコ・ムラジッチ被告の裁判始まる

ユーゴスラビアとルワンダで起きた悲劇はそもそも民族間の戦争だったのか?

最新情報

米国桜寄贈110周年記念集会

「共和国の日」レセプション

「核兵器なき世界への連帯―勇気と希望の選択」展

第7回世界伝統宗教指導者会議(インタビュー)

第7回世界伝統宗教指導者会議

NPT再検討会議:関連行事(核の先制不使用)

NPT再検討会議:広島県知事、カザフ大使訪問

NPT再検討会議:被爆者証言

NPT再検討会議:SGIインタビュー

2022 ICAN FORUM in Vienna

パートナー

client-image
client-image
client-image
client-image
client-image
client-image
Toda Peace Institute
client-image
Kazinform

書籍紹介

client-image
client-image
seijikanojoken