【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ】
旧ユーゴスラヴィア連邦でもっとも人の目に触れることのなかった秘密が明らかになった。「裸の島」を意味する「ゴリ・オトク(Goli Otok)」島にかつて国内唯一あったグラーク(ソ連式強制労働収監所:65年前に設立)に収監されていた1万6101人の囚人名簿がインターネット上で公開されたのだ。
この名簿公開は、1991年の旧ユーゴスラヴィア解体後、相次いで独立した旧連邦構成諸国に現在生存している数少ない元囚人本人やその家族からの強い反応を引き起こした。
これは、当時ゴリ・オトクに収監された多くのボスニア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人、スロヴェニア人、セルビア人等にとって、当時の悲惨な体験がいかに今日に至るまで精神的な負担となりつづけ、家族にとっても世代を超えた身内の恥として認識されてきたかを示している。
「私は以前から母方の祖父の人生に何が起こったのかを知りたいと思っていました。」と語るのは、セルビア共和国の首都ベオグラードで教師をしているスミリャナ・ストイコビッチさん(45)である。
彼女は、2000年に亡くなった祖父のスタンコさんが、第二次世界大戦前に見習い靴職人をしていた時の話や戦争中にパルチザンとして、ナチス・ドイツ兵と戦った時の話をしてくれたのを覚えている。「しかし、話はいつもそこから急に飛び、孫たちが生まれた1960年代以降になったものです。戦後の空白の期間に何が起こったのかについては、祖父に質問しないよう言われてきました。」とストイコビッチさんは語った。
その後ストイコビッチさんは、祖父がゴリ・オトク強制労働収容所に7年間収監されていた事実を知った。「祖父は、当時ソ連の大義を確信していた共産主義者として、(ユーゴスラヴィアの指導者ヨシップ・ブロズ・)チトー元帥(1892~1980)よりもソ連のヨシフ・スターリン書記長を好ましく思っていると発言したに違いありません。…今は、祖父がなぜゴリ・オトクに収監されていたことを一切語らなかったのか、理解できます。」とストイコビッチさんは語った。
ゴリ・オトクは、クロアチア北部の海岸から沖に6キロ離れた小さな無人島で、1948年にソ連圏を離脱する決意をしたチトー首相率いるユーゴスラヴィア政府が翌年7月、島を国内反体制派を収監する巨大な監獄へと作り変えた。
このチトー首相による決断は、スターリン書記長に対する「歴史的なノー」として知られている。当時スターリン書記長は、「チトー首相は資本主義や西側資本主義国家の下僕に成り下がっている」と非難し、ソ連から刺客を放つ一方でユーゴスラヴィア共産党の同志に、チトー政権の転覆を盛んに働きかけていた。第二次世界大戦を通じて共にナチス・ドイツ軍と戦ったソ連とユーゴスラヴィアの共産主義者らはこの事件が起こるまで長らく同盟関係にあったのである。
「当時の多くの共産主義者にとって、スターリンが間違っているという発想は全く考えられないものでした。」とゴリ・オトク・ベオグラード協会のゾラン・アサニン会長は語った。
アサニン氏をはじめ当時の粛清を生き延びた人々の証言や回想によると、1948年のある日、共産党関係者は様々な党会合の場で、「チトー首相よりもスターリン書記長を好ましく思っているか?」という質問に答えるよう求められたという。これに「はい。」と答えたものは、裁判手続きも判決文もないまま、秘密裏にゴリ・オトク収容所に連行された。その際の粛清プロセスは徹底しており、最も近い親族でさえ、連れ去られた人々の消息を知る術が全くなかったのである。
こうして「祖国の裏切り者」とされた人々は、アドリア海に面する港町バカールに集められ、そこから船でゴリ・オトク島(4.7キロ平方キロ)に移送された。島内には4カ所に収監施設が設けられていたが、衛生状態は劣悪で施設と呼ぶには程遠い状態だった。
ゴリ・オトク島は、夏はうだるように暑く冬は凍てつく過酷な気候で知られている。収監者は、島内の採石場で、「裏切り者」という看守の罵声や暴力に晒されながら労働を強いられた。時には、看守の指示で、収監者同士殴り合うよう強制されることもあった。
またここでは、1日に割り当てられる食料がわずかな水と粗末なパンに限られていたため、収監者は常に飢えと渇きに苦しんだ。
最近公開された収監者名簿によると、この強制労働収容所が開設された1949年から最後の収監者がユーゴスラヴィア本土各地の一般刑務所に移送された1956年までの間に、腸チフスや心臓疾患の放置などの病気や自殺により413人が獄中で死亡している。
ゴリ・オトクに収監されたものは、生きて出所できても、その後長年に亘って政治的な権利をはく奪されたうえに、就労機会も奪われた。「裏切り者の家族」として秘密警察や近隣住民、友人からの差別に晒されてきた家族から、受け入れを拒絶されるものも少なくなかった。
収監者を肉親に持つ人々の証言によると、当時子どもたちは父親が長い「出張」に行っていると聞かされていた。また妻たちは収監されている夫たちから(本人の意思に関わらず)離婚を言い渡された。しかし中には、さらに過酷な要求を矯正されたケースもある。
「私は大学での職を保持するためには党会合で夫を公然と非難し、さらに、夫には今後一切娘を会わせないと公約しなければなりませんでした。当時私はこの政府の圧力に屈し、言われる通りのことをしました。娘は私のしたことを今でも許してくれません。」とラダ・B(88歳)は語った。
ゴリ・オトク強制労働収監所に関する事実が少しずつ明らかになってきたのは、チトー首相の死後にユーゴスラビア連邦が崩壊し、前共産党政権に関する秘密文書が出回るようになってからである。しかし、連邦の崩壊後まもなく血で血を洗うユーゴ内戦が相次いだために、その後の情報公開はしばらくの間、遅々として進まなかった。
クロアチア、セルビア、スロヴェニアがゴリ・オトクに収監された被害者に対する補償を進めるようになったのは、つい最近のことである。ゴリ・オトクに収監された人々の多くは無実の罪を着された人々で、共産主義者ですらないものも少なくなかった。
アサニン氏の調査によると、セルビアには現在、ゴリ・オトク強制労働収容所の生存者が約300人いる。彼らはセルビア政府法務省に対して、政治的復権と賠償請求を訴えている。
セルビア政府は、ゴリ・オトクでの収監1日あたり700ディナール(8.5ドル)を支払うことを元被収監者に約束し、これまでにゴリ・オトク収容所の生存者或いは直径相続人に5300万ディナール(640,000ドル)の賠償金を支払っている。
一方、ゴリ・オトクの囚人名簿が公開されて以来、元囚人の他にも犠牲となった人々に当時何が起こったのか真相を掘り起こす関係者からの匿名情報が俎上になるようになり、様々な反響を呼んでいる。
例えば、ベバと名乗る女性は「(公表された囚人名簿に)叔父の名前を見つけました。彼は政治について日頃からジョークを言っていたので、それが理由で収監されたのだと思います。」とコメントしている。またバネと名乗る男性は、「私の祖父は、特権的な共産党指導層向けの外交誌を、全ての人が読めるようにすべきだという考えを述べただけで収監所に送られたのです。」と記している。
旧ユーゴスラヴィア各地の人々が、ゴリ・オトク強制労働収監所で自分の親族の身に何が起こったのかについて情報を入手しようと、電子メールで盛んに情報交換を行っている。こうした犠牲者家族間の情報交換の中から、長年に亘る沈黙が破られ、いかにして無実の人々が一夜にして忽然と消え去り、ゴリ・オトク島に連行されたかについての当時の状況が明らかになってきている。
「当時ゴリ・オトクに連行されうる危険性は誰もが直面していました。理由は、他人より資産を持っている、噂の対象になった、誰かがある人の妻を我が物にしたいと企んだ等、あらゆるこじつけが罷り通ったのです。しかし当時はユーゴスラヴィアをソ連圏から離脱させ独自の路線を確立しようという、必要ならば非常手段をも必要とする非常事態下にあった時代なのです。当時、ユーゴスラヴィア国民は自国の指導者を信じるしかありませんでした。そうしなければ自分たちの将来がどうなるか、全く先行きが見えない時代だったのです。」とある元大学教授は当時を振り返った。
ゴリ・オトク島は、強制労働収監所が閉鎖された後は放置されたままとなっている。今日、この島を訪れるのは、時折、興味本位で収監所跡を見にくる観光客ぐらいである。(原文へ)
翻訳=IPS Japan
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