【カトマンズAPIC=浅霧勝浩、ラムヤッタ・リンブー】
私は当時22歳で、長距離トラックの運転手をしている夫と生後数カ月の娘の3人家族で、慎ましいながらも幸せな生活を送っていました。当時の夫の仕事は、荷物を遠くカトマンズやインドのダージリンにまで運送するものだったので、一度の仕事で、数日は家に帰ってこられませんでした。私は、娘の面倒を見ながら、道端に屋台を設けてお茶を商っていました。
そんな私達の日常が突然狂わされたのは、夫が仕事で留守中のある日のことでした。幼い娘が突然肺炎に罹り、村のクリニックに連れていったところ、抗生物質がないので、何とかカトマンズの病院まで行くしかないと言われたのです。私の村からカトマンズまではバスで7時間の距離でした。途方にくれていると、夫の運転手仲間と知人が「カトマンズよりもインドのパンタにいい病院がある。望むなら子供をすぐに乗せていってあげよう」と申し出てくれました。
私達親子は藁にも縋る思いでその運転手の車に乗せてもらい、インドを目指しました。ところが、国境を越えるとその人物は豹変し、私達親子を人買いに売り払ったのです。私達はその仲買人に、インド国境の町からムンバイのKamatipura地区にある売春宿まで連れて行かれ、そこで親子で約200ドルで転売されました。ムンバイは私には初めての土地だったし、ネパール語しか話さない私は、自分の存在を証明するものを何も持っていませんでした。
売春宿に到着するとすぐ私は愛する娘から引き離されました。売春宿の男達は「娘を返して」と必死に抵抗する私を殴りつけ、強姦したうえで、「借金を返すまで『性奴隷』としてここで働くか、娘の命を諦めるか好きなほうを選べ」と脅迫してきました。娘の命を守るため、売春婦になる道を選択するしかありませんでした。
売春宿で私に与えられた仕事場兼住居は、染みだらけの等身大のマットレスより若干大きなスペースのみで、病院のカーテンのようなものでかろうじて仕切られた空間で客をとらされました。そこには当時13人の少女達が監禁されており、皆私のように騙されて連れてこられたネパール人の少女達でした。生き地獄の中で、同郷の彼女達に囲まれていたことが唯一の心の慰めでした。
それから2年間、「Pleasure:快楽」という名の下に、毎日20人近くの男性を相手に、言葉では説明できないような行為を強制されました。最初のうちは、売春宿のオーナーに「なんとか娘に会わせてほしい」と繰り返し懇願しました。しかし、その話を持ち出すと、必ず激しく怒鳴られ、殴りつけられました。私はそのうち懇願するのをやめ、代りに、娘の笑顔を心に思い浮かべながら「きっとこの地獄を生き抜いて娘を取り戻す日がくる」と自分に言い聞かせることにしました。
その後、私を逃がしてくれるという客が現れたこともありましたが、娘の身の上を考えて断りました。そんなある日、通りで皿洗いをしている女性が親しく声をかけてくれるようになり、私の娘を探し出してくれると約束してくれました。私はひたすら日々の生活を耐え、祈り続けました。
そしてこの地獄から解放される日がやってきました。「MAITI NEPAL」というNGOが、警察と合同で私達のいる売春宿に踏み込んでくれたのです。そしてその日は、奇しくもあの皿洗いの女性が約束を守って、私の愛する娘を連れてきてくれた日だったのです。2歳半になっていた娘は、体中傷だらけで皮膚病に犯され、まだ話すこともできませんでした。でも、生きて再会することができたことを、神に心から感謝しました。MAITI NEPALは私達親子をシェルターに受け入れてくれたほか、私達に代って夫を探してくださり、お陰で数カ月後に、カトマンズで親子3人再会を果たすことができました。
私はその後、MAITI NEPALのフルタイムスタッフとして夫と共にムンバイに戻ってきました。私達はMAITI NEPALのスタッフや心あるインドのボランティアと共に、かつての私達親子が経験した境遇にある娘達を見つけ出し、救出するために日々活動しています。娘は、今は6歳になり、私の故郷で母に育ててもらっています。娘には4~6カ月おきに会いに行っています。
私がムンバイに敢えて戻ってきたのには多くの動機付けがありましたが、その中でも最も大きなものは娘の存在でした。彼女はMAITI NEPALのお陰で、今は母の下で普通の人生を夢見て生きていくことができます。しかし、私達のように救出を待っている人達はまだたくさんいます。彼女達の娘達には、売春宿で育ち、いずれは売春宿のオーナーに母と同じ「性奴隷」として引き渡される運命が待っているのです。
私が売春宿で出会った不幸な娘達–14歳までに12回も堕胎手術を受けさせられた娘、わずか8歳で売られてきた娘、売春宿のオーナーに接客を拒否して陰部に硫酸を撒かれて拷問をうけた娘、激しい拷問と殴打で酷い姿にされた娘、胸や乳首に煙草の火を押し付けられて接客を強要された娘–世間は私達を売春婦として軽蔑し無視する。彼女達の痛みがわかる私達が立ち上がらなければ、世界の誰も彼女達を助けてはくれないもの。
私は決して「犠牲者」として見られたくはありません。私は、この人間の尊厳を踏みにじる人身売買を根絶するためにはいつでもこの命を捧げる覚悟をもつ「Activist:活動家」、あるいは人身売買の「生き残り」としての気概を持ってこの問題に取り組んでいくつもりです。
Kamatipura:
世界有数の歓楽街で、地元では「Cages:かご」と呼ばれている。ここで売春婦達は施錠された檻の中での生活を余儀なくされており、外から見ると「かご」に見えるところからその呼称がついたと言われている。マイリは、肌の白いネパール人少女達が多く売春を強要されていると言う。
マイリ親子の場合、救出後、夫との再会を果たせたが、MAITI NEAPLが保護した少女達の中には、家族に引き取りを拒否され、村に帰ることもできない娘達も少なくない。ましてや、配偶者が受け入れるケースは極めて稀である。
(ネパール取材班:財団法人国際協力推進協会浅霧勝浩、ラムヤッタ・リンブー)
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