【ワシントンIPS=ガレス・ポーター】
ジョージ・W・ブッシュ大統領が、タリバン政権が2001年10月中旬に提案してきたビンラディン容疑者を穏健派イスラム諸国に引き渡し裁判にかけるとする案を拒否したとき、米国政府は事実上ビンラディン氏のテロ活動に終止符を打つ唯一の機会を放棄したも同然であった。
当時ブッシュ政権には、ビンラディン容疑者を捕縛する軍事計画はなく、タリバン提案を拒否した数週間後、このアルカイダの指導者はパキスタンに逃亡することに成功した。
タリバン政権最後の外相をつとめたワキル・アフマド・ムタワキル氏は、昨年カブールでIPSの取材に応じ、2001年10月15日当時、イスラマバードで米側に秘密会談を持ちかけ、ビンラディン氏の身柄をイスラム諸国会議機構(OIC)に引き渡し9・11米国同時多発テロ容疑で裁判にかける提案をおこなったことを打ち明けた。同元外相は、タリバン政権崩壊後18か月に亘ってバグラム空軍基地に拘束されたが、今はハーミド・カルザイ政権に許されてカブールに在住している。
イスラム諸国会議機構(OIC)は、イスラム諸国(57国)をメンバーとして構成されサウジアラビアに常設事務局を置く穏健な国際機構である(国連に対して常任代表を有している)。OIC加盟国の判事によるビンラディン裁判が実施されていたら、米国による如何なる制裁よりも、アルカイダのイスラム組織としての信用により大きなダメージをもたらしていたかもしれない。
また秘密交渉に際してムタワキル外相は、まず米国がビンラディン氏の9.11同時多発テロへの有罪関与を証明する証拠を提出すべきとする9月下旬以来の要求を取り下げていた。この要求は米国がアフガニスタンのタリバン関連施設への空爆を開始した2日後にあたる10月5日にもタリバンの駐パキスタン大使アブドゥル・サラム・ザイーフ氏によって繰り返されていた。
当時タリバンの外相がビンラディン容疑者を1か国ないしは数か国による裁判にかける新たな提案をしたとの大雑把な報道が流れていた。しかしムタワルキ元外相が昨年IPSに打ち明けるまで、いずれのタリバン関係者も秘密交渉の詳しい内容について語っていなかった。
またムタワルキ氏は、米国との秘密交渉に際して、ビンラディン容疑者をアフガニスタンと2カ国のイスラム諸国が共同で設立する「特別法廷」で裁くという2つ目の提案をしたことも明らかにした。
当時米政府当局は、ムタワルキ氏をタリバン指導者ムハンマド・オマル師の信任を得ている人物と考えていた。駐パキスタン米国大使館が本国に宛てた1998年12月の報告には「彼はオマル師に最も近い政治顧問であり、1997年にはオマル師の外交窓口になっている。」と記されている。
タリバン政権による新提案は、米国が2001年10月7日にタリバン施設を標的としたアフガニスタン爆撃を開始したほぼ直後になされている。このことは明らかにタリバン政権が爆撃とその後に続くであろう米国の攻撃を恐れて、ビンラディン容疑者の取り扱いに関して譲歩する姿勢を示したものと考えられる。
しかしこの段階でブッシュ大統領は、こうしたタリバン側からの新提案を「耳を傾けるまでもない。交渉などありえない。」と宣言して全く取り合わなかった。
しかし米国諜報当局は、数か月前からタリバン政権の内部においてビンラディン容疑者の扱いについて深刻な意見の対立があるとの報告を入手しており、ブッシュ大統領も9月下旬の段階ではその報告に基づいて、タイリバン政権高官との秘密折衝をする権限を米中央情報局(CIA)職員に許可していた。
ジョージ・テネット元CIA長官は回想録の中で、CIAイスラマバード支局長のロバート・グルニエ氏がパキスタンのバルチスタン州でタリバン政権で2番目の実力者オスマニ師と会見したことを記している。
しかしグルニエ支局長はオスマニ師に3つの選択肢を伝える権限しか与えられていなかった。すなわち、タリバン政権ががビンラディン容疑者を米国に引き渡すか、米軍独自にビンラディン容疑者を捜索するのを許可するか、或いはテネット元長官が回想録に記したところの「彼を明確に除去する方法で自ら正義を遂行する」かという選択肢であった。
さらにグルニエ支局長は、10月2日にもオスマニ師に対して、オマル師を追放しビンラディン容疑者を直ちに米国に引き渡すとラジオで声明を出すという提案を行っているが、オスマニ師は先の3つの選択肢とともにこの提案も拒否した。
10月3日、ブッシュ大統領は、「タリバン政権はアフガニスタン国内のアルカイダ組織関係者を引き渡すとともに、彼らのテロ訓練所を破壊しなければならない。さもなくば交渉などあり得ない」と語り、タリバンとの交渉拒否を公に表明した。
ムジャヒディン戦争(1979年以降のソ連によるアフガン軍事介入に対するイスラム諸派による軍事抵抗)時期にCIAパキスタン支局長を務めたミルトン・ベアーデン氏は、ブッシュ大統領がムタワキル外相の新提案を拒否した2週間後にワシントンポストに対して「タリバンにとっては、イスラムの価値観に則った形でビンラディン問題を解決する(=ビンラディン容疑者の身柄をイスラム諸国による裁判で裁く)という面子を保つ方策が必要だった。」と見解を述べている。
「しかし当時の米国政府は、タリバンの言い分に一切耳を貸しませんでした。」とベアーデン元CIA支局長は語った。
ブッシュ大統領は、タリバンと交渉は拒否したものの、一方でビンラディン容疑者を捕捉する軍事計画も予定していなかったため、実質的にビンラディン容疑者と副官達に逃走する自由を与えることになってしまった。事実、ブッシュ大統領はその時点で、ビンラディン容疑者のアフガニスタンからパキスタンへの越境を阻止するために、どの程度の軍事作戦が必要とされるかさえ、把握していなかったのである。
ブッシュ大統領がそうした軍事作戦計画を持ち合わしていなかった背景には、ディック・チェイニー副大統領とロナルド・ラムズフェルド国防長官率いる同政権の安全保障チームの思惑が影響していた。当時両氏はビンラディン容疑者と副官達の捕縛を目的とするいかなる対アフガン軍事作戦にも強硬に反対していた。
ラムズフェルド国防長官とポール・ウォルフォウィッツ次官は、2001年夏の段階でアルカイダが米国へのテロ攻撃を画策しているとするCIAの警告を取り合わなかったばかりか、9・11同時多発テロ後も、同事件がビンラディン容疑者とアルカイダによるものとするCIAの結論に懐疑的であった。
当時のチェイニー氏とラムズフェルト氏の主眼は、あくまでもサダム・フセイン政権打倒のためのイラク進攻に向けた準備が第一義であり、ビンラディン容疑者の問題を、イラク進攻計画の障害にはさせない覚悟であった。
ブッシュ大統領がアフガニスタンに対する軍事作戦を指示する決断をした後の段階においても、アフガニスタン軍事作戦の最高指揮官であるトミー・フランクス米中央軍司令官は、ビンラディン容疑者の捕縛或いはパキスタンへの逃走阻止のための軍事計画の作成を指示されることはなかった。
CIAが2001年11月12日にビンラディン容疑者がカンダハルを発ちパキスタン国境付近のトラボラ地区の洞窟地帯に向かったとの報告を入手した際、フランクス司令官はこの事態に対処するための術を持っていなかった。当時第3軍所属米クウェート駐留軍司令官であったデイヴィッド・W・ラム大佐によると、フランクス司令官は、米大3軍司令官のポール・ミコラセック中将にアルカイダとパキスタン国境の間に(ビンラディン一行の逃亡を阻止する)部隊を派遣できるかどうか尋ねたという。
しかし当時第3軍はクウェートにそうした要請に対応できるだけの兵員も輸送手段も持っていなかった。
ボブ・ウッドワードの著書「ブッシュの戦争」に記されている国家安全保障会議の議事録によると、「そこでフランクス司令官はやむを得ず、パキスタン軍にビンラディン容疑者のパキスタンへの入国を阻止するよう要請せざるを得なかった。」とラムズフェルド国防長官が同会議に証言している。
しかしラムズフェルド長官や政権内の政策顧問たちは、ビンラディン容疑者がパキスタン軍統合情報局(ISI)の長年に亘る同盟者であり、パキスタン軍が彼の捕縛を手助けするはずはなく、このような要請はしょせん滑稽な茶番劇に過ぎないことを知っていた。
クランクス司令官とパルヴェーズ・ムシャラフ大統領の会談に同席したウェンディー・チェンバレン駐パキスタン大使によると、司令官は大統領にトラボラ地区周辺のアフガン‐パキスタン国境地帯に軍を展開するよう要請し、大統領はインドとの国境警備にあたっていた6万人のパキスタン軍を再配置することに同意した。
ただし条件としてムシャラフ大統領は、兵員の再配置には米軍による航空輸送支援が必要と指摘した。ラム大佐によると、その要請に応えるには米軍の一個航空旅団にあたる数百機のヘリコプターと数百人の支援要員が必要だったが、当時の米軍は、その方面にそうした大規模な航空部隊を擁していなかった。
オサマ・ビンラディン容疑者は、外交・軍事いづれの対策も拒否したブッシュ大統領の政策により、事実上パキスタンへ逃亡する道筋が保障されたのである。
ブッシュ政権がビンラディン容疑者の逮捕に真剣でなかったことを言外に認めるかのように、ブッシュ大統領は2002年3月13日の記者会見において、「ビンラディンはもはや重要ではない。」「私は彼にそんなにかまっていられないのだ。」と語った。(原文へ)
翻訳=IPS Japan浅霧勝浩
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