【バンコクAPIC/IPS Japan=浅霧勝浩】
タイは90年代初頭に政府、産業界、メディア、NGOなど社会のあらゆるセクターを動員したエイズ対策を実施して当初の爆発的なエイズの流行を抑制することに成功した世界でも数少ない国であるが、この思い切ったエイズ対策が可能になった背景には、今日もタイで「ミスターコンドーム」と親しまれている人物の活躍があった。
タイでは当初エイズは同性愛者やIDU(薬物常用者:静脈注射の共用で高い確率で感染する)など一部の限られた人々の間に感染する外来の病気であり、最初の事例発見後数年が経過しても一般のタイ人には関係ないと考えられていた。
また、タイ政府は1987年を”Visit Thailand Year”と定め、軌道に乗ってきた外国投資を背景に観光産業を大幅に飛躍させるべく世界各国で政府を挙げた観光客誘致に取り組んでいた時期であり、政府は観光イメージを損なう恐れのあるエイズ問題に対して、沈黙する姿勢をとった。メチャイ・ウィラワイヤ氏は、当時既に欧米で解明されていたHIV/AIDS感染パターンから推測して、買春率が高いタイ社会はHIV/AIDS流行の危機的な状況にあり、政府主導の強力な教育キャンペーンが必要との見解を政権内部で働きかけたが政策に取り上げられなかった。
そこで、メチャイ氏は、官房長官としてではなく、タイのNGOであるPDA(Population & Development Association)の総裁としての立場で、エイズの感染経路と予防法を説明する各種教材(オーディオテープ、ビデオ、パンフレット、本など)を作成し、メディア、政府、産業界に対してエイズ予防キャンペーンを実施した(注1)。しかしそれに対する政府の反応は鈍かった。
1988年、メチャイ氏は官房長官の職を辞して1年間渡米し、ハーバード大学に客員研究員としてエイズ対策の最先端を研究する一方、ロックフェラー財団を初めとする将来のタイにおけるエイズ対策事業を支援することになる援助機関を開拓した。この頃、タイにおけるHIV/AIDS感染は同性愛者間の流行からIDU間の流行の波に移っていた。
タイ政府は、National Sentinel Surveillance Surveyを開始し、ハイリスク人口における流行状況のモニタリングに着手したが、メチャイ氏が主張する一般国民を対象とした強力な教育キャンペーンは実施されなかった。メチャイ氏はそこで1989年6月にカナダのモントリオールで開催された国際エイズ会議に基調講演者として参加し、タイから送られてくる最新のデータに基づいて、エイズに晒されているタイ社会の危機的な状況を国際社会に対して訴えた(注2)。
その直後、メチャイ氏はタイに帰国したが、政府はエイズ問題を依然として性行動に起因する問題ではなく、あくまでも医療分野の問題とする立場をとり、沈黙を守っていた(注3)。一方、タイのエイズ流行は既に第2波のIDU間の流行を超えて第3波の売春婦間の流行が始まっていた(感染率約6%)。
メチャイ氏は、”Mr. Condom”と異名をとった家族計画キャンペーン等でのメディアに対する圧倒的な知名度(注4)と政府、産業界、NGO、及び英米学術機関との太いパイプを活用して、あえてタイ「性産業」の既得権益者(売春宿経営者、一部警察・政治家等)の反対を押し切って、大胆なエイズ予防キャンペーンを実施した。
以降、Chuan氏は「性産業」の既得権益層の徹底的な攻撃にあい、新聞各紙もChuan氏の政治生命は長くないと予想する事態となった。ついに当時のチャートチャーイ首相は欧州周遊中、「タイにエイズ問題はない」と改めて言明せざるをえなかった。巨大な既得権益勢力の抵抗にあって、政府も軍も公式にエイズ問題に取り組む姿勢を打ち出すことは出来なかった。
メチャイ氏は、反対勢力に対して先手を打つために、すぐさま、タイ「性産業」の象徴的なパッポン通りにボランティアと賛同者を引き連れて乗り込み、”Condom Night with Mechai”と題した派手なデモンストレーションを実施する一方、タイ政界のトップに対して直接的なアプローチを敢行した。
パッポン通りでは、メチャイ氏は拡声器ごしに「エイズとの戦いに勝つために皆が結束しなければならない。私たちタイ人は嘗て首都アユタヤを2度ビルマ人に奪われたが最後は奪回できた。このエイズとの闘いにも勝つことができるのだ。」と訴え、ヘリウムを充填したコンドームを風船代わりに人目を惹きながら、エイズ防止のメッセージのプラカードを並べて行進した。
会場では、道行く人々を巻き込んで、キャンペーンT-shirtsを懸賞にしたコンドームの膨らまし大会、各種性感染症を表記したダーツを使ったクイズ大会、Miss Condom Beauty(注5)を選ぶコンテストなど、数々の奇抜な催しで多くの群集を惹き付けた(注6)。このイベントにはメチャイ氏の後輩ハーバード大学MBAの学生達がスーパーマンのような衣装に身を包んだCaptain Condomに扮してGo-Go-Barを廻りSafe Sexを訴えた。メチャイ氏自身も、バーやナイトクラブに立ち寄り、コンドームを配布しながら、「これが(コンドーム)あなたの命を救います。このことに慎重でなければ死ぬのですよ。」と訴えて廻った。
この突然のイベントには、タイ国内のメディアのみならず、諸外国のメディアもこぞって取材に訪れた。メチャイ氏は各国のメディアを前に次のように演説した。「タイであからさまにエイズ防止キャンペーンを行うことは、観光客を遠のかせることにはなりません。なぜなら、ニューヨーク、ロンドン、パリといったタイよりもエイズ感染率が高い都市に対して、相変わらず多くの人々が訪れているではないですか。
重要なことは、我々がエイズの問題に正面から真剣に取り組むことで、タイを訪れる観光客に対して、この死をもたらす病の問題について我々は無頓着ではないですよという姿勢をしっかり伝えることです。もし仮にエイズが本当に旅行者を遠のかせるのならば、それは買春目的の観光客ということですからタイにとってはいいことではありませんか。エイズと効果的に戦うために私たちに今残されている時間は3年しかありません。もしそれまでに売春婦を通じて急速に広がっているエイズの流行を阻止できなければ、手の打ちようがなくなってしまいます。」そして、メチャイ氏の主張は、タイ全土のみならず、世界各地に配信され、大きな反響を引き起こした。
次に、メチャイ氏は、タイ政界の実質上の最高権力者であるチャートチャーイ首相及びChavalit将軍へのアプローチを試みた。メチャイ氏は、まずチャートチャーイ首相に対して、首相を首班とする国家エイズ対策委員会の創設を具申したが、拒否されたばかりか、政府が管轄する488のラジオ局と6つのテレビ局においてエイズ関連の情報を放送することも断られた。
しかし、Chavalit将軍は、近年深刻化していたタイ軍人間のエイズ感染の拡大と保健省発表の数値の低さ(注7)に懸念を持っており、「3年以内に対策を講じないと手遅れになる」と主張するメチャイ氏の主張を受け入れ、1989年8月14日、上記政府系メディアの中から軍が実質的に管轄する3分の2を動員して3年間に亘るエイズ防止教育キャンペーン(注8)を実施することを発表した。
一方チャートチャーイ政権は、それでも様々な理由を挙げて抜本的なエイズ対策を実施することに抵抗した。例えば、政府がエイズ対策に慎重な理由として、1.エイズの流行は一時的でまもなく収束するとの説を挙げる、2.予算不足から段階的な戦略を立てる必要性を強調する、3.エイズ感染関連情報は、他国がタイを中傷するために使用することを防ぐために徐々に公表していく必要性を説く等、を挙げたが、その間にも、HIV/AIDS感染は急速に深刻化し、1990年の2月にはタイ全国の関係者を戦慄させるチェンマイ大学によるタイ北部(Chiang Mai, Lampang, and Lamphun)で実施されたランダムサーベイの結果が報告された。
これによると、性感染によるHIV/AIDS感染率は保健省発表の全国数値10%を遥かに上回る59%~91%にのぼった。また、チェンマイの売春婦における感染率は44%~72%で一般の庶民が出入りする下級売春宿ほど感染率が高い傾向が確認された。また、感染者の44%は未成年で、売春婦として働いて6ヶ月から1年で約70%がHIV/AIDSに感染しているという結果が出た。
そして、この傾向は1990年6月に発表された全国の売春宿の女性を調査した保健省のNational Sentinel Serveillance dataでも前年を6%も大幅に上回る14%という結果で裏付けることとなった。(後半に続く)
注1:「もしタイ人が今エイズの脅威に気付かなければ、すぐにエイズは蔓延し手をつけられない事態になる。」「私たちはこの病気を抑えこまなければならない。今、行動しないと、手遅れになるかもしれない。」(Mechai Viravaidya, 1987)
注2:この際、タイにおいてもエイズは6つの波(1.男性同性愛者、2.IDUs、3.売春婦、4.買春顧客、5.買春者の妻又は恋人、6.母子感染)を経て蔓延すると警告した。「エイズがタイの一般市民の間に爆発的に広がる事態を回避するには、今すぐにタイ社会の全てのセクターの参加を得て圧倒的なエイズ対策教育を実施しなければならない。」(Mechai Viravaidya, 1989)
注3:一方、タイ政府の中にもエイズ問題に積極的に取り組むべきとの意見は出始めていた。当時公衆衛生大臣のChuan Leekpai氏は1988年10月、「エイズはタイにとって深刻な問題であり、これ以上の感染を防ぐためにも、我々はタイの巨大な『性産業』を抑制しなければならない。」と発言し、マレーシア政府がタイ国境地域の売買春産業地域Hat Yaiへの買春観光自粛を勧告して地元「性産業」関係者と対立した際にも「性産業」を擁護しない姿勢をとった。
注4:メチャイ氏は、タイ政府の国家経済開発局を皮切りに政府官僚として国内の開発問題に取り組む一方、GNPというペンネームでタイの貧困問題、経済格差など開発に関する本音の部分を新聞・雑誌に寄稿し、タイ内外で好評を博した。また、Nicholaというペンネームで人気ラジオのパーソナリティーを勤めたり、人気テレビドラマに主役で登場するなど、タイのメディアでは若い頃から有名人であった。
注5:「私はミスユニバースに対抗してミスコンドームのビューティーコンテストをプロモートしたい。なぜなら、こちらの方が多くの人の命を救うことになりますからね。」(Mechai Viravaidya, 1989)
注6:これらの手法は家族計画キャンペーンの際に使用したものを参考に実行されたが、今回のエイズ防止キャンペーンは、家族計画キャンペーンの時のようなジョークとユーモアで群集を惹きつけるという手法はとらなかった。この点をメディアに質問されてメチャイ氏は、「確かに家族計画の時には常にユーモアを使っていたが、エイズにユーモアは使えない。人が死ぬことに関してなんら可笑しいことはないからね。」と答えている。
注7:1989年の保健省発表のHIV/AIDS感染者数は10,000人であったのに対して、他のサーベイデータは150,000人から200,000人を示していた。
注8:キャンペーン広告の作成にはメチャイ氏のハーバード時代に支援を約束したロックフェラー財団が資金支援に乗り出した。このようにタイ国軍が全面的にメチャイ氏のエイズ防止キャンペーンを後押ししたことから、他のタイ政府系各局の中にも国軍系メディアの前例に従うところも出てきたが、一方で、メーチャイ氏のエイズ宣伝は過剰でタイの観光産業に悪影響を及ぼすとする政府内の批判も根強く、エイズ関連情報の放送を徹底的に拒否する放送局も少なくなかった。
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