地域アジア・太平洋|タイ|政府によるエイズ対策の転換(後半)

|タイ|政府によるエイズ対策の転換(後半)

【バンコクAPIC/IPS Japan=浅霧勝浩

ここにきて、タイのメディア各紙も、エイズ対策に消極的な政府への批判を強め、エイズの流行はもはや特定のグループに限定されたものではなく、社会全体に幅広く被害が広がっている事実を大々的に報道した(注1)。

こうした状況の中で、もはや政府が観光産業や国内経済保護を理由にエイズ問題について沈黙や否定をするというオプションはなくなった。

また、エイズが社会、経済、文化、政治と多岐な分野に密接に関わる病であることから、もはやこの問題を保健衛生分野に限定して政府の担当部局を保健省内に置いておく事も現実的でないとの認識が広がった。また、従来のように静脈注射薬物使用者(IDU)、男性同性愛者、売春婦といった社会的弱者をエイズ感染の原因として非難することも、現実に起こっている状況にそぐわなくなってきた。

Mechai Viravaidya
Mechai Viravaidya


 政府は、新たにエイズ法案を作成し、タイの全家庭に親族でHIV/AIDS患者が出た場合の保健所への届出を義務付ける一方、保健当局にHIV/AIDS感染が疑わしい者を強制的にエイズ検査にかける権限を認め、さらにはエイズ患者を特定の施設に隔離することを提案した。この動きに対してタイ内外の専門家から、「エイズ患者に対する強制的な措置は科学的な根拠がなく多くの国で既に逆効果であることが証明されている」として激しい非難の声が沸きあがった(注2)。

メチャイ・ウィラワイヤ氏も同法案を痛烈に批判し、「法案はエイズ患者に相談したことがない人物によって作られたものだ。我々はエイズに苦しむ人々に同情と思いやりの気持ちをもって接するべきであり、間違っても刑務所や矯正施設に隔離するべきではない。」とコメントしている。メチャイ氏は、「性産業」を死の産業と呼び、政府がこのエイズ蔓延の元凶に対して有効な規制措置をとらないことを特に批判した。そして、タイに大挙して訪れるドイツ、日本、オーストラリアからの外国人買春観光客に言及して「色情狂どもよ、死にたかったらタイに(買春に)来るがいい!」と警告を発した。

メチャイ氏は、このままエイズの流行を放置すれば3年以内に1,000,000人以上がHIV/AIDSに感染し、特に働き盛りの若い世代に深刻な被害が出てタイ経済は破綻してしまうと警告し、1.全ての売春宿の一時強制閉鎖とエイズに関する啓蒙教育の実施、2.小学校における最後の3年と中学校3年間におけるタイ男性の性行動変容を目的とした(注3)性教育の実施を呼びかけた。

この呼びかけに対する政府の反応は鈍かったが、産業界の反応は対照的に機敏なものであった(注4)。エイズの蔓延がビジネスに及ぼす影響に危機感を募らせた100社以上から、社員へのエイズ啓蒙教育の実施に対する支援の依頼があり、中には、各々の販売/流通ネットワークを通じてエイズ予防に関する情報普及活動を実施する会社もでてきた(注5)。メチャイ氏はPDAにCorporate Education Programを設立し、各社のピア教育者と共にHIV/AIDS感染経路と予防知識の伝達に重点をおいた啓蒙活動を展開した。

メチャイ氏は続いて、PDAに経済学者、社会学者等専門家を招集し、エイズ流行に伴う具体的なタイ経済の損失規模を算出して1990年12月にバンコクで開催された国際エイズ会議で発表した。それによると、もしタイ社会が3年後の1994年をエイズ流行のピークとして抑制することに成功すれば2000年までのHIV/AIDS感染者数は2,100,000人でその内460,000人がエイズで死亡し、経済損失は約80億ドルと算出した。

また、もしエイズ流行が1996年まで拡大した場合は、2000年までのHIV/AIDS感染者数は3,400,000人でその内588,000人がエイズで死亡し、経済損失は約100億ドルと算出した。メチャイ氏はこれらの数値が具体的に観光業を含むタイ産業界やタイ社会全体にどのような悪影響を及ぼすかを次のように説明した:

1.HIV/AIDS患者が職場で増大し病気欠勤・休業状態のものが激増する。2.人手不足が深刻になると賃金及び製品の生産コストが上昇し、外国人投資家にとってタイ社会は魅力的な投資先でなくなっていく。3.タイ政府もエイズ流行拡大に伴い、国家予算をインフラ整備等の生産的なものに対する投資から、患者をケアするための社会・保健関係の分野に重点をシフトせざるを得なくなってしまう。4.タイ観光業の衰退。

1990年12月、メチャイ氏は首相にエイズ問題に関する参考人として閣議に招かれた。チャートチャーイ首相は、メチャイ氏が再度要請した国家エイズ対策委員会の設立について、首相がリーダーとなることは拒否したが、メチャイ氏を同委員会の総裁に指名し、効果的なエイズ対策の指針を策定するよう命じた。しかし、その一ヵ月後に勃発したクーデターで政権が崩壊すると、エイズ対策委員会構想も頓挫してしまった。
 
 しかし、クーデターによる混乱を収拾するため登場したアナン暫定政権の下で、タイのエイズ対策は大きな転機を迎えることになる。アナン新首相は、「エイズは医療分野に限定される問題ではなく人間の行動そのものに深く関わる問題であり、効果的なエイズ対策を実施するには、人間の行動変容に影響を及ぼすことが出来る全てのセクターが参加しなければならない。」と提唱するメチャイ氏の訴えを全面的に支持し、メチャイ氏を内閣官房(Tourisam, Public Information, Mass Communication担当大臣)に迎え、エイズ対策の責任者に任命した。

メチャイ氏はこれによって、はじめて政府の全面的な支援の下に抜本的なエイズ対策を実践に移すことが可能となった。以下、メチャイ氏がアナン政権の下で打ち出したエイズ対策の内容を紹介する。

1.首相を総責任者とする国家エイズ対策委員会の設立(政府のトップが就任したのはウガンダに次いで世界で2番目)。委員は政府、産業界、NGOの代表から構成され、政府委員には従来エイズ啓蒙対策に反対していたタイ観光局も含めた。NGOには教育界、宗教界からも参画した。また、HIV/AIDS感染者もメンバーに加え、感染者の視点を政策に反映させることとした。同時に、内閣官房にAIDS Policy and Planning Coordination Bureauを新設し、エイズ対策のプログラムの策定、予算(注6)に関する主導権を保健省から内閣官房に移した。

2.教育がエイズ対策(National AIDS Prevention and Control Plan)の骨格を形成し、主に2つの狙いがあった。一つ目は、感染防止教育で、エイズとは何か?感染経路は?もし感染した場合どうするか?の3点を重点項目とした。2つ目は、HIV/AIDS感染者に対する理解と思いやりの心を育む教育で、エイズ感染者はどこにでもいる普通の人々で日常生活を通じて他の人々に感染させる危険性はないこと、そして彼らも他の人々と同様、他人の愛情や関心、そして尊敬を受けるに値する人々であることを教育することを主眼とした(注7)。

3.全ての公共放送(488のラジオ局、15のテレビ局)を通じて毎時間30秒のエイズ教育メッセージと毎日2時間(テレビ局のみ)のエイズ特集番組を放送した。メチャイ氏は広告割合を統括するBroadcasting Commissionの副総裁として、30秒のエイズ教育メッセージの放映と引き換えに30秒分追加のコマーシャル使用を許可するインセンティブを提示し、放送界に好意的に受け入れられた。

4.各省庁に対するエイズ教育プログラムを実施し、多くの一般市民と日常的にコンタクトをとる立場にある公務員(農業省の支所、警察、社会福祉事務所等)には、エイズ関連パンフレットなどを配布させた。

5.教育界に対しては、小学校の最終2年間と中学校にエイズ教育課程を加え、生徒達にエイズに関する啓蒙指導ができるよう現場の教師を対象とした研修プログラムを実施した。

6.産業界に対しては、メチャイ氏が従来PDA Corporate Education Programで実施してきた内容をさらに徹底して、各産業セクターにおける社内エイズ教育及び産業界の流通/顧客ネットワーク(銀行窓口や営業先巡回などのビジネスコンタクト)を通じた顧客へのエイズ教育情報の配布を実施した。

7.メチャイ氏は芸能界・映画界に対しても協力を呼びかけ、エイズをテーマとした映画作品やチャリティーコンサートなどが数多く実施された。メチャイ氏はエイズに関するメッセージを含む作品に対して政府の補助金をつけインセンティブとした。また全国の映画館は、本編前の予告編上映時間に無料でエイズ防止キャンパーンメッセージを上映した。

8.売春宿に対しては、100%コンドームキャンペーンを実施し、顧客のコンドーム使用を義務付けるとともに売春婦を対象とした抜き打ちエイズ検査を実施し、違反業者は警告の後、閉鎖に追い込んだ。また、売春宿が集中している地域にはSTDクリニックに対する補助金を交付した。これらの現場サイドにおける取組みを強化する一方、全国の統計・モニタルングシステムの強化を行った。

9.メチャイ氏はAnand政権に参画と同時に、従来エイズ広報に反対してきたタイ観光局(Tourism Authority of Thailand)の総裁に就任し、抜本的な方向転換を図った。従来の総裁が観光誘致とホテル建設を最優先にしてきたの対して、”Tourism with Dignity”というスローガンを打ち出し、a)観光産業におけるエイズキャンペーンの実施、b)買春ツーリズムの根絶(注8)、c)女性観光客の積極的な誘致、d)観光資源である環境と野生動物の保護。

注1:The Nation誌は「チャートチャーイ首相、目を覚ませ!数百万人のタイ人の生命があなたの双肩にかかっている。」という記事を出した。

注2:The Nation誌は社説を掲載し、「この法案は一般市民を保護すると見せかけて、かえってタイ社会に恐怖と不信を蔓延させ、エイズの犠牲者を地下に追いやることによって、今まで以上に深く広範囲にエイズの流行を広げることになる。」と政府を批判した。

注3:メチャイ氏はHIV/AIDS感染の元凶はタイ男性の旺盛な買春需要でありタイ男性の売春宿に対する認識と性行動のありかたを根本から是正しなければエイズ蔓延是正は不可能と考えた。

注4:メチャイ氏は産業界に対しては”Dead staff don’t produce and dead customer don’t buy(your produces).”というスローガンを使用した。

注5:その結果、Avon化粧品の販売員はHIV/AIDS関連パンフレットを持って顧客先を訪問し、当時タイで最大規模のピア教育者ネットワークとなった。

注6:エイズ対策予算は、前政権下1991年予算250万ドルから新政権下で4800万ドルに引き上げられ、資金の流れは内閣官房から各関連省庁及びNGOへ直接渡る仕組みとした。

注7:メチャイ氏は、HIV/AIDS感染の問題を当事者意識を持って理解することと、女性の人格、人権を貶める買春行為の本質を青少年に理解させることの重要性を説いた。そして、タイ仏教界の中にも、言葉のみでなく実践を通じてエイズ対策に協力すべきとして、各地の僧院がHIV/AIDS感染者や孤児に対するケアを開始した。

注8:「買春目的の観光客には、タイ行きのチケットを買わずにそのお金で鼠駆除の薬を買って、自宅で飲まれることを薦めます。」と痛烈な批判を展開した。観光業界トップのこの発言はメディアを通じて世界各国に流され、タイの観光政策の大転換を印象付けた。

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