【パロアルト(カリフォルニア)INPS=エマド・ミケイ】
アラブ人ジャーナリストとしてここシリコンバレーにいると、4人会えば4人の人がかならず、「アラブの春」はフェイスブックによってもたらされたものだと言う。ここに3週間もいると、フェイスブックを開設したマーク・ザッカーバーグ氏を、プライバシー権を訴えてエジプトの監獄に入れられているハスーナ・エルファタトリ氏(Hassouna El-Fatatri)と勘違いしそうだ。
「中東専門家」を自称してきた欧米の多くの人々(諜報機関、シンクタンク、外交官、テレビによく出る学者やジャーナリスト等)は、昨年12月からアラブ地域を覆った変革の波を予想できず、事態の進展に文字通り「言葉を失う」とともに、彼らの権威は地に落ちてしまった。
その埋め合わせでもしようと思ったのか、「アラブの春」と欧米のつながりが奇術のごとく飛び出してきた。すなわち、ソーシャルネットワークが「アラブの春」をもたらしたとする説である。
この抜け目のない広告戦略は瞬く間に世界に広がり、今日欧米諸国では、アラブ固有の社会変革の要因に対して、ほとんど目を向けなくなってしまっている。しかし1年を過ぎでもなお燃え続けているアラブ革命の原動力は、まさしくアラブ固有の要員によるものなのである。
「アラブの春」で人びとが主に使っていたツールは、グーグルでもフェイスブックでもツイッターでもなかった。それは、「アイ・レボルト(I-Revolt)」と呼ばれる彼ら独自の簡単なアプリケーションであった(レボルトは反乱の意:IPS)。
エジプト、チュニジア、シリア、イエメン、そしてしばしばその他のアラブ諸国において集団抗議行動が組織された際に最も使われたツールは、フェイスブックでもツイッターでもなく「Friday-book dot come rally now」であった。もしこの名称に思い当たるものがなければ、グーグルで、「怒りの金曜日」(Friday of Rage)、「解放の金曜日」(Friday of Liberation)、「出発の金曜日」(Friday of Departure)などと検索してみるとよい。
アラブ諸国では、毎週金曜正午の祈りに数百人、時には数千人の人々がモスクに集まって祈りを捧げるのが慣習だが、まさに人々が自然と足を運ぶ週一回のこの儀式こそが、抗議者を街頭に呼び込む主要な舞台として、「アラブの春」抗議行動における恒例の風景になったのである。
たしかに、1月25日に最初の抗議行動が人口8500万人のエジプトで起こったとき、フェイスブック、Gメール、ツイッター、或いはインターネット全般が参加を呼び掛けるツールとして役に立ったかもしれない。しかし、1月28日金曜日こそが、真の意味でのエジプト革命とそれに続くドミノ現象が始まった日であった。
つまり毎週金曜日に集まる習慣が抗議行動の理由だったのではなく、これさえも先述の「アイ・レボルト(I-Revolt)」の1アプリケーション-しかも身近で利用しやすい-に過ぎなかったのである。
そして2番目に最も効果を発揮したアラブの人々にとってユーザーフレンドリーなツールは、昔なじみのA4サイズのチラシであった。稀にタイプしたものもあったがこうしたチラシの大半は、白いA4用紙に手書きで抗議集会の場所を書き込んだものであった。こうしたチラシは、織物産業の中心地マハラ・アル=コブラ市の労組リーダーや不満を募らせているスエズ運河の港湾労働者達が好んで活用した。
こうした労働団体がストライキの構えを見せたことが、全国的な操業停止という事態を恐れていたエジプト国軍を最終的に民衆側に立たせる決定的な要因となった。
そして私がエジプトで目の当たりにした革命の灯を支えた3番目のツールは、事態を憂慮した民衆が各々の愛する人々に固定電話で伝えたシンプルな口コミであった。彼らは口々にムバラク大統領の過酷なやり方がいかに行き過ぎたものであるかを報告したのである。
さらにこのリストに、汎アラブ的なテレビメディア、とりわけムバラク大統領に批判的な報道を行っていたアルジャジーラ、BBCアラブ語放送、アルアラビア、そして米国が出資しているアルフーラが民衆の声を広める上で果たした役割を加えることができる。こうして見てくると、ソーシャルメディアがエジプト国内で果たした役割はごく限られたものであったことが分かるだろう。
事実、ムバラク大統領は民衆が抗議集会を計画したり組織する能力を抑え込もうと全てのコミュニケーション手段を切断したため、インターネットの使用が不可能になったのである。
ドバイ政治大学院(the Dubai School of Government)によると、2010年12月現在アラブ首長国連邦(UAE)は、アラブ地域で最大のフェイスブック利用率を誇るという(国民の45%がアカウント保持)。それに比べて、同時期のエジプトにおける国民のフェイスブックアカウント保持率は僅か5%に過ぎなかった。しかし、革命が起こったのはUAEではなくエジプトだったのである。この数字だけ見ても、フェイスブックが革命を導いたという説の主張の怪しさがわかる。
それではシリアとイエメンの場合はどうだろうか?これらの国々はエジプトと比べてインターネットの普及率はずっと低く、欧米の影響にもあまり晒されていない、にもかかわらず、抗議活動は野火のごとく広がりをみせているのである。両国で抗議者を集めているツールはフェイスブックではなく、地元の慣習等から自然に出来上がった「ソフトウェア」、すなわち、金曜礼拝、口コミ、チラシ、電話線、親族関係、そしてテレビ放送だったのである。
確かにユーチューブに投稿された映像やその他のネットワークにアップロードされた多くの写真が重要な役割を果たしてきたことは疑いの余地がない。しかしその役割は専らエジプト国内で起こっていることを記録し外の世界にそうした声を伝えるというものであった。こうしたソーシャルネットワークの役割が、はたして「アラブの春」の初期段階において民衆革命の支えとなっただろうか?答えはNOである。
欧米諸国は、チュニジア革命が起こったとき、失脚したザイン・アル=アービディーン・ベン・アリー大統領が国外逃亡する直前になるまで、なんの対応もしようとしなかった。その後、ある意味ソーシャルメディアのお蔭で、欧米諸国がやっと事態の深刻さに気づいた際の反応も、当初はお決まり一辺倒の「ベンアリ大統領、ムバラク大統領の政権維持を模索する」というものだった。
さしあたって、欧米の諸団体が「アラブの春」に関する正確な分析とそれに続いて有益な政策提言を入手しようとするならば、まずは深呼吸し、自らの失敗を認める勇気について熟考するとともに、しなかったことについてクレジットをとろうとする悪弊をやめ、アラブ地域において実際に何が起こったかをじっくり深く見据える必要がある。
もし欧米諸国がそうして自らの見方を変えることができれば、中東地域で起こっている出来事をありのまま捉えられるようになるだろう。そうなれば、「アラブの春」を支えたツールは、「フェイスブック」ではなく、「フライデー(金曜日)ブック」ともいうべきアラブ固有の社会変革要因であったことが理解できるだろう。
翻訳=INPS Japan浅霧勝浩
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