【IDNベルリン/広島=ラメシュ・ジャウラ】
前代未聞のマグニチュード9.0の地震と津波に続いて起こった福島原発事故の映像は、2008年5月の私の初めての広島訪問と、2010年9月の2回目の訪問の記憶を呼び起こさずにはいられなかった。
広島平和記念公園に穏やかにたたずむ像は、広島・長崎の悲劇を二度と起こしてはならないという人類の強い願いを象徴する多くの千羽鶴によって飾られていた。米国がはじめて核兵器を投下した両市では、約25万人が死亡した。皮肉ではないにしても婉曲的な言い回しで、米国はそれぞれの核兵器を「リトルボーイ」「ファットマン」と名づけた。
「原爆の子の像」と銘打たれたその像は、65年前、原爆投下とそれに伴う無辜の若い身体を貫通した放射線の犠牲となった、佐々木禎子をはじめとする多くの子どもたちを記憶に留めるものだ。
禎子は、1945年8月6日に広島上空で原爆が爆発したとき、2才であった。その3日後、2発目の原爆が長崎で炸裂した。禎子の物語は、有無を言わさず原爆に巻き込まれてしまった老若男女の痛ましい物語のひとつではあるが、深く私の胸に突き刺さった。
私は、原爆を運ぶパラシュートを見つめていて目が溶けてしまった幼い女の子の話や、巨大な黒い水ぶくれを顔に作った男・女・子どもの話、爪からだらりと皮膚をぶらさげたままむなしく助けを求めていた人々の話、家屋が炎に包まれ、家族全員が生きたまま丸焼けにされたという話、人間の目玉や内臓が体から飛び出したという話、そして、なんとか生き残った人間は、死者を羨んだという広島の地獄の惨状を聞いた。
平和のための原子力
「平和のための原子力」の理念を体現し、豊かな生活に必要な経済・産業発展を支えるものとして作られた福島の原子炉とは違い、広島に投下された「リトルボーイ」と長崎を壊滅させた「ファットマン」は、はじめから破壊の道具とされ、人間の生命などまったく顧みずにただ目標を殲滅するために作られたものであった。
振り返ってみると、大惨事に見舞われた福島の原子炉から解き放たれた放射能は、その危険性において、禎子を死に追いやったものと大差はない。「平和のための原子力」は、実際には悪意と殲滅のための道具と化してしまうのか。それとも、最高の善意として用いるために十分なことがなされたのか、そうではなかったのか。それは、歴史が証明するだろう。
いずれにせよ、禎子の物語は、広島・長崎で亡くなった何十万もの人々への敬意として、核兵器のない世界に向かって行動し運動を起こしていく緊急の必要性を強く訴えるものである。
まるで奇跡のように、禎子とその母は核のホロコーストを無傷で生き延びた。禎子は、1955年、風邪をひき首に痛みを感じるまでは、小学校を一日も休むことのない、健康で元気な子どもだった。彼女は歌と運動が大好きで、実際、クラスで一番足が速かった。
禎子の風邪は間もなくして治ったが、首は痛いままだった。
その数日後、彼女の顔は膨らんでしまった。様々な検査の後、医者は禎子が白血病であることを父親に告げた。「余命は長くて1年です」との告知だった。
禎子は広島赤十字病院に入院した。平和記念資料館の記録によると、禎子は、入院してから5ヵ月後、同じ病院で白血病が原因で亡くなった5才の女の子の話を聞いたという。自分自身も白血病だと知った禎子は、自分も生き続けることができるのだろうか、と思い悩んだ。
それから数ヶ月が経過した8月のある日、希望を与える出来事があった。名古屋の高校生が広島赤十字病院の患者に千羽の折鶴を送ってくれたのである。禎子の部屋も、色鮮やかな折鶴で彩られた。
もし「千羽の鶴を折ったら、願いがかなう」という話を聞いた禎子は、熱心に鶴を折り始めた。彼女は生きたかったのだ。彼女は一羽一羽の折鶴に「よくなりますように」と願いを込めながら折っていった。
しかし、彼女の病状は回復することなく、1955年10月25日の朝、禎子は息を引き取った。12才だった。
福島原発事故の結果、こうした物語がこれからの数年の内にくり返されることになるのかどうかは、時が経ってみないとわからない。しかし、今必要なことは、座していることではなく、行動と相互連帯への関心を高めるという決意を実践に移すことである。それは核兵器に関してもいえる。
池田大作創価学会インタナショナル(SGI)会長は2009年9月の提言「核兵器廃絶へ 民衆の大連帯を」の中で、「世界を分断し、破壊する象徴が核兵器であるならば、それに打ち勝つものは、希望を歴史創造の力へと鍛え上げる民衆の連帯しかない」と述べている。
核兵器なき世界は、原子力発電をも不必要とするのか、それとも、人類に利益をもたらすように原子力を制御する研究開発(R&D)へと導くのか。
研究開発
2010年9月の私の広島訪問は、日本の若者は「新しい時代を創る」能力と気概を持った人々であると信じさせるに十分であった。SGI会長にちなんで名づけられた広島池田平和記念会館での出会いは、きわめて勇気付けられるものであった。
私の心に残ったのは、久保泰郎創価学会副会長・総広島長との出会いだった。私が会館を訪れたのは暑い午後のことだったが、彼は、人懐っこい笑顔で私を迎え、ともに講演会場に向かう前のひと時を、思い出に残るお土産と、記念会館についての貴重な話、そして茶菓でもてなしてくれた。
会場では100人を超える聴衆が待っていてくれた。中年層もいたが聴衆の大半は若者たちだった。インドに生まれ、ドイツ在住38年のジャーナリストである私は、この講演で、池田SGI会長が長年発表してきた平和提言と、核兵器なき世界に向けたたゆまぬ努力について所見を述べさせて頂いた。彼らは、熱心に耳を傾けてくれた。
核兵器なき世界という目標へ大きく貢献してきた、これまで世界からの識者を招いて開催してきた一連の講演会は、広島池田平和記念会館の平和と軍縮問題に対する強い関心の表れである。
2010年だけでも、創価学会広島青年部のメンバーは、11月12日から14日まで広島平和記念公園で開催された「第11回ノーベル平和賞受賞者世界サミット」と合わせて、「広島学講座」を開催した。
その際招かれた講演者には、南アフリカのフレデリック・W・デクラーク元大統領、「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」のジャヤンタ・ダナパラ会長、北アイルランドの草の根の運動組織「ピース・ピープル」の共同創設者のマイレッド・コリガン・マグワイア氏がいる。
デクラーク元大統領は、南アフリカのアパルトヘイトの歴史や、同国の核兵器計画を率先して解体した自らの経験、そして世界から核兵器をなくす必要性について話した。彼は、これを実現するには、しばしば暴力につながることもある「脅威への感覚」が、対話による「信頼の感覚」に取って代わられる必要があると語った。アパルトヘイト廃止に重要な役割を果たしたデクラーク氏は、伝説的なネルソン・マンデラ氏とともに1993年にノーベル平和賞を受賞した。
1995年にノーベル平和賞を受賞した「科学と世界の諸問題に関するパグウォッシュ会議」のダナパラ会長は、広島・長崎への原爆投下を人道への罪だと主張した。彼は、市民社会には変革を創り出し政府に影響を与える大きな力がある、と述べ、核兵器廃絶にむけて努力を続ける創価学会に賛辞を送った。
妹の3人の子どもが北アイルランドの宗派抗争のために命を落としたマグワイア氏は、北アイルランドでの紛争を終わらせるために非暴力に訴えた経験をもとに、一対一の対話が持つ大きな力を強調した。彼女は、広島の若者に対して、「唯一の被爆国に生まれた皆さんは、核兵器廃絶を世界に訴える説得力をもっているのです。」と語りかけた。また、戦争放棄をうたった日本国憲法第9条の重要性にも言及した。
マグワイア氏の講演の重要性は、ベティ・ウィリアムズ氏らとともに暴力なき未来というビジョンを推進する「ピース・ピープル」と呼ばれる草の根組織を立ち上げた事実によって、裏うちされている。ウィリアムズ氏もまた、1976年のノーベル平和賞受賞者である。
福島での大惨事に対する反応が示しているように、創価学会の若者たちは、核兵器なき世界、あらゆる形態の暴力なき世界のためにのみ努力しているのではなく、日本の三重の惨事の犠牲者を支援する活動も行っている。彼らは、SGI会長の次の言葉に導かれて、被災者支援活動にも従事している。
「変毒為薬、宿命転換の仏法である。断じて乗り越えられぬ苦難などない。打ち破れぬ闇などない。今こそ無量広大な仏力・法力を現す時である。大変であればあるほど、まず、強盛なる祈りから一歩を踏み出すことだ。」(原文へ)
翻訳=IPS Japan浅霧勝浩
This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.
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