「ヴォルテールは私の観点に近いことを言ったように思います。彼は、『自分が信ずることのために死ぬ用意はあるが、自分が信ずることのために人を殺す用意はない。』と語った。原理主義を見てみれば、それはひとつの問題だし、社会において個人の利益追求のために引き起こされる暴力を見てみれば、それもひとつの問題です。世界がバラバラに分断され、誰かが誰かを支配しようとすれば、また紛争が生まれ、戦争に巻き込まれるのです」―カルロス・アルベルト・トーレス教授
【名古屋IDN=モンズルル・ハク】
世界市民教育-とりわけ金融投機に対する課税を資金源としたそれーは、健全な愛国主義を促進するだけではなく、平和の大義を育み、国家主義や原理主義的な傾向に対抗するものとなる、とカルロス・アルベルト・トーレス教授が独占インタビューで語った。
カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)教育・情報学大学院の教授(社会科学・比較教育学)であるトーレス氏は、世界市民に関連した問題の専門家である。この10年間トーレス教授は、グローバルな視点から、人権や多元主義、市民権といった問題に取り組むとともに、世界市民教育に関する理論的観点を定義づけるうえで重要な貢献を果たしてきた。1991年、同僚とともにパウロ・フレイレ研究所を立ち上げ、現在その所長を務めている。
11月に名古屋で開催された「持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ世界会議」に参加したトーレス教授は、IDNインデプスニュースに対して世界市民の概念-その次元、可能性、そして理念を現実に変換する際の困難などについて語ってくれた。以下はインタビューの抜粋である。
IDN:近い将来における世界市民の実現について、どの程度楽観視しておられますか?
トーレス:もし楽観視していなければ、このテーマについて話していないでしょう。かつてパウロ・フレイレ氏(ラテンアメリカにおける民衆教育という伝統を切り開いた先駆者とされるブラジル人教育者で、教育を通じた社会変革の象徴とされる人物)は、よく「自分たちの夢の実現に取組まなくてはなりません。夢には、今日の夢もあれば明日の夢もあります。」と言ったものです。私の目標は、私たちが今日の夢を持てるようにすることです。
世界市民という考え方は、概念としていくつかの異なる側面を持っています。一つは、批判的な見方を明確に示すということが挙げられます。次に、新自由主義というグローバルモデルの概念に替わるものという位置づけです。新自由主義は実際、教育に有害な影響を及ぼしてきたと考えています。その影響はとりわけ、「ハイステイクス・テスト(大学入試や資格試験など合否の結果が受験者に極めて大きな影響を与えるような類のテスト)」や「成績責任モデル(学業成績に応じて学校への予算配分が決定される方式)」の領域に表れています。通常それらは、実際に起こっていることと、世界市民教育とどう繋がっているかを把握するというよりも、むしろ権力を操作する手法と結びついているのです。
とはいえ、この(世界市民と言う)概念が成功を収めるには、明確な概念化が必要です。第二に、法的な拘束とでも言うべきものが必要です。つまり国際法の中に、この概念において提案されている定義を擁護する法的要素がなければなりません。第三に、私たちの活動の根拠を明確に示し定義するような原則、つまりこの場合、地球を守り、人々を守り、平和を守るような原則が必要です。
非物質的な価値として平和という言葉を使うとき、私は本気で言っているのです。たとえ個人でも、何らかの平和が達成されるとき、私たちは前進できるからです。あなたが信仰心のある方かどうかは存じ上げませんが、「精神性」に関する私自身の考え方は、内なる平和を達成することと関係しています。そして、内なる平和を達成することで、「成就」の感覚を達成することができるのです。さもなければ、それを手にすることはできません。それは、現実から逃げていることを意味しません。それは、現実に取り組み、自らの闘争を推し進めるためにこの新たに見つけた平和を使おうということを意味するのです。それはパラドックスのように見えるかもしれませんが、そうではありません。平和は社会の非物質的な価値であり、それをグローバルな運動として推進していく必要がある、とでもいいましょうか。
これらを手に入れることができれば、あとは何らかの革命を起こす、ということになるのです。これらの革命はいくつかのレベルにおいて使うことができます。一つ例を挙げましょう。なぜ世界にはこんなに不平等が広がっているのか、ということについてです。それは、平和が必要であるこということを言わずに、システムを巧みに利用して利益を得、蓄財している人達がいるからです。それではこの問題について考えてみましょう。トービン税という考え方があり、欧州では支持されています。トービン税は投機と通貨取引に対して懸けられる極めて低率の課税で、もし誰かが投機行為を行ったら、各取引毎に税を支払わなくてはならない、というものです。課税される額は極めて少額ですが、金融資本主義の循環速度を考えると、全体の額はとても大きなものになり得ます。では、その莫大な税収益をどう使えばいいでしょう? 私なら教育に使います。それは何故でしょう? それは、世界市民を育む教育が必要だからです。これでおわかりのように、これは革命の一つの例であり、他にも例を挙げることができます。
それは、容易かつ即時に受け容れられる概念になるでしょうか? もちろんそんなことはありません。だから、この概念の重要性やその含意、それが日常生活においてどう適用可能かを人々に理解させるような知的説得のモデルを作らなくてはならないのです。最後に、最大のジレンマの一つは、世界市民というこの概念が国民としての市民権の助けとなる方法を見出すことができるか、というところにあります。その答えはイエスだと思います。この点について、私は現在同僚らと取り組んでいるところです。
IDN:この考え方(=世界市民)はナショナリズムとぶつかることになりませんか?
トーレス:ある意味ではぶつかることはありません。なぜなら私たちは地域とグローバルの両方のレベルを見ているからです。もしグローバルなものが地域で作動し、地域的なものがグローバルなレベルで作動するならば、両方がぶつかることはありません。しかし、世界市民は民族的ナショナリズムとはぶつかるでしょう。なぜなら、それは特定の民族集団だけを特権化するようなナショナリズムのモデルだからです。また、誰も収奪すべきではない環境資源を収奪するようなナショナリズムのモデルともぶつかるでしょう。公害が容認されるようなナショナリズムとはぶつかるでしょうし、こうしたナショナリズムは概して一方的で、.環境をまったく顧慮することなく資本蓄積するモデルを手放したくない経済的エリートによってコントロールされたものだと言えるでしょう。
では、愛国主義の点で「世界市民」はナショナリズムとぶつかることになるでしょうか。答えはノーです。どんな種類の愛国主義について私たちは語っているのでしょうか。ここに、政治的・哲学的観点からのこの言説のジレンマの一つがあります。では、これはどうでしょう。パトリア(patria)は、母国(motherland)を意味します。愛国主義とは母国に対する愛です。ですから、母国を愛するということは、他者の母国に対する攻撃を促進することに本質的に熱心になるように人びとを仕向ける可能性があります。したがって、世界市民と平和を推進するという考え方は、全てではないにせよ、一部のナショナリズムのモデルにおける非合理的な傾向を抑えるということなのです。第二の要素は、ナショナリズムとは常に、建国の文書(founding document)、つまり成文憲法の源と結びついているということです。米国憲法は、数多くの他国の憲法に刺激を与えた最も成功した憲法でした。では、米国において愛国主義を定義するものは何でしょうか? 唯一の解答は、自由の理念です。では、どのようにしてその理念に感情的に結びつくのでしょうか?
IDN:アメリカ的な生活様式を通じてですか?
トーレス:しかし、どのようにして自由の理念を定義するのでしょうか? より限定的に、「わかった、このアメリカ的な考えはひとつの例外に過ぎない」と言いたいことでしょう。しかし、自由の理念と結びついた愛国主義の概念を説明するある種の物語を作る必要があると思います。また別の例が欧州諸国の一部で熱心に議論されていて、米国にも広がりを見せています。それは「憲法愛国主義」と呼ばれるもので、憲法をよく観察し、憲法の原則によって生きていこうとする試みです。しかし、ナショナリズムが憲法を抑え込んだらどうなるでしょうか?あるいは、ナショナリズムが、ある一国の内部で基本的な社会化(=社会の規範や価値観を学び、社会における自らの位置を確立すること:IPSJ)にとってきわめて有害となるような愛国主義の政治的な形をとるようになったらどうなるでしょうか? そうしたすべての想定への答えは、私たちには「世界市民」が必要だということです。それは、媒介項として機能するのです。
IDN:この概念は現実にどう機能するのでしょうか?
トーレス:ある種のグローバルな法が必要だと申し上げました。私たちがなさねばならないのは人々を説得することであり、このこと(=世界市民)に関心を持つ集団を作り上げる必要があります。一方で、世界には既に多くの世界市民が存在するのです。
IDN:しかし、他方では、原理主義やナショナリズムの傾向が存在しますね。
トーレス:こうした傾向に向き合い、こうした傾向に平和的に対峙し、説得を試みなくてはなりません。しかし、すでにこの世には世界市民権が存在するのです。環境闘争に関連がある全ての人々のことを考えてみてください。彼らは世界市民です。彼らは私やあなたとは関係のない利益を追求しているのでしょうか。そんなことはありませんね。彼らは、地球の独立した利益を追求しているのです。他にも例えば、飛行機で暮らしているような、今日は大阪で取引をし、明日はマレーシアで別の取引をし、またロンドンに戻ってくるようなビジネスマンがいます。3週間も経たないうちに5つの異なる大陸を股にかけてこうした取引を結ぶのです。彼らもまた世界市民です。彼らには、ビジネス倫理ではなく世界市民倫理に従ってほしいのです。それは長い道のりですが、どこかから始めなくてはなりません。私が最初にこのことに取り組み始めたのは2002年のことでした。学者はこの間、このことに関する矛盾やら、ありとあらゆることを書いてきました。今こそ、いかにして私たちが世界を変えるかに目を向け始めてほしいのです。
私は、「批判理論」という観点から出発しました。批判理論においては、世界を再現するために教えたり研究したりするのではありません。世界を変えるために、教え、研究するのです。これは根本的な原則です。そして、一部でもそれを達成し、もっともっと平和のうちに暮し、地球をもっともっとよく守ることができるならば、私が「グローバル・コモンズ」と呼ぶもの、すなわち、地球や人々、平和を達成することになるのです。
IDN:世界市民を理解するうえで直面する困難のひとつは、軍隊の存在ではないでしょうか。軍隊は通常、仮想敵から「母国」を守るという狭い国家的な観点から訓練を受けています。脱軍事化を行わずして真の世界市民になることが可能でしょうか?
トーレス:軍人などもう必要ないと言える日がいつか来るといいですけど。そう言えたらいいですよね。でも、そんなことは起こらないでしょう。心理分析的に言えば、個人は圧力の上に成り立っています。それを修正したり、コントロールしたり、補ったりすることはできます。しかし、それは私たちの中にあるのです。圧力をいくらか弱めることはできるかもしれませんが、それは私たちの中にあるのです。ひとつは性的刺激であり、それは良いもの、悪いものから暴力にいたるまで数多くのものと関係していますが、同時に、良いもの、悪いものからも関連して起きるのです。なぜなら、もし誰かが突然にあなたやあなたの妻、娘を襲ってきて、あなたが誰かを守るために暴力で対抗したならば、対抗するあなたの能力は明らかに前向きなものとみなされるでしょう。しかし、もしあなたが、挑発も受けておらず特に理由もないのに誰かを襲ったりしたら、それは良いことだとはみなされないでしょう。しかし、あなたも私も、そして誰もが、リビドーと暴力という二つの部分を持っているのです。このために、暴力というオプションを完全になくしてしまうことは無理なのです。
革命は、自分たちが否定されているような状況を終わらせると民衆が決意したときに起こります。革命は暴力的なこともあれば非暴力的なこともあるでしょうが、変化は起こります。私の見方は、市民権について考えるときに直面する真の問題は、あなたは自分の市民権のために死ぬ用意があるか、ということです。あなたは、自分の「母国」への帰属のために死ぬ用意があるか? もしあなたがそうした仕事、たとえば国防軍にでも属していないならば、きっと「イエス」と答えることでしょうね。でももし、徴兵で軍に入れられ、自発的な入隊ではないとしたら、「ノー」ということになるかもしれません。しかし、むしろ、そこまで大胆にはならないでしょう。
ヴォルテールは私の観点に近いことを言ったように思います。彼は、「自分が信ずることのために死ぬ用意はあるが、自分が信ずることのために人を殺す用意はない。」と言いました。原理主義を見てみれば、それはひとつの問題だし、社会において個人の利益追求のために引き起こされる暴力を見てみれば、それもひとつの問題です。世界がバラバラに分断され、誰かが誰かを支配しようとすれば、また紛争が生まれ、戦争に巻き込まれるのです。
しかし、欧州で起こったことを考えてみてください。歴史的に思考してみてください。信じられない数の戦争が、欧州の国民国家の構成と関係があるのです。現状を見てみてください。何の保証もありません。クリミア共和国(今年ウクライナから事実上分離し、ロシア連邦に編入された国家)があり、ロシアがあります。何の保証もないのです。しかし、それでもここまでやってきたのです。(原文へ)
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