【ニューヨークIDN=リサ・ヴィヴェス】
「ある人々にとっては、彼女は高名な知識人であり、アフリカのフェミニストの先駆者であり、反植民地主義の政治活動家であった。しかし、彼女の名前も偉業も一般的にはほとんど知られていない。」と、スタンフォード大学アフリカ研究センターの所長で、伝記「Written Out(抹消される)」 の著者であるジョエル・カブリタ氏は語った。
南アフリカ共和国(南ア)出身のアフリカーナ人の母とモザンビーク出身のポルトガル系の父との間に生まれたカブリタは、自身の系譜を活かして、レジーナ・ゲラナ・トワラの生涯を調査した。
本書は、ゲラナ・トゥワラの文学的、政治的貢献を明らかにするとともに、彼女のレガシーを抹消(Write out)しようとした白人学者、アパルトヘイト当局者、政治家たちの存在を明らかにしている。
1908年に南アに生まれたゲラナ・トワラは、1913年に制定された原住民土地法の犠牲者である。この法律により、南アの黒人は土地を奪われ、町や都市への移住を余儀なくされた。このためトゥアラは、30代でナタールの農村からヨハネスブルグに移り、教師として働くようになった。
有名なウィットウォーターズランド大学で学び、1948年に卒業したトゥアラは、黒人女性としては南ア史上2人目、社会科学専攻では初の大学卒業生だった。彼女は同時代の女性に関する研究を行い、女性たちのための(=母親と学校に通う女子生徒らが放課後に来て本を読める)図書館を立ち上げた。
1960年、エスワティニ初の政党であるスワジランド進歩党の創設者の一人となったが、その後、アフリカ民族会議(ANC)をルーツとする非暴力の多民族抵抗運動「不当な法律に対する反抗キャンペーン」に参加し、逮捕された。
1948年に人種差別的なアパルトヘイト政権が誕生すると、トワラは反アパルトヘイトの政治活動に携わるようになった。
1968年に亡くなったトワラは、夫との手紙や長編の原稿、新聞のコラム集などを残し、カブリタはトワラの伝記を書くことになった(現在、オハイオ大学出版局から出版されている)。
トワラの家族と親しいカブリタは、「私は30年以上にわたってトワラの書簡にアクセスすることができました。個人的なものから政治的なものまで、ユニークなアーカイブです。また、トワラと彼女の夫は、ネルソン・マンデラとウィニー・マンデラ夫妻の親しい友人だったため、大きな出来事や有名人についての言及があり、この時代の黒人政治の記録であると同時に、親密な家庭生活の記録でもあります。」と語った。
「アフリカの歴史は、いわゆる大物とされる男たちによる規範に支配されていると思います。つまり、誰が歴史に記憶され、誰が忘れ去られるべきかという、公式な記憶のプロセスがあるのです。」
現在、カブリタは、アフリカの物語から取り残された人々の声を特定し、共有する方法に焦点を当てている。彼女は、アフリカの黒人女性作家のデジタルアーカイブを作ることから始めようと考えている。「アフリカの一部の読者にとって、高価な書籍にアクセスするのは難しいので、ウェブサイトを作りたいのです。また作品によっては、ラジオ番組で朗読することで、作者の声を蘇らせることができると考えています。」と、カブリタは語った。(原文へ)
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