【ワシントンDC INPS Japan=ヴィクトル・ガエタン】
1945年の8月9日、日本に対して2発目の原爆を投下するという決断について詳しく調べれば調べるほど、その戦術は道徳的に身勝手なものであったように思える。「無条件降伏を強要するために軍事施設を爆撃した」という米国政府の公式見解から一歩離れて現実に起こったことを観察すれば、米国政府は明らかに民間人を標的にし、国際法と軍事行動規範に違反したことがわかる。
バチカンの外交官と公文書館員らは、長崎への核攻撃は、日本とカトリック教会への攻撃であったと確信しており、この悲劇の不可解な側面に対する一般的な困惑をよそに、めったに議論されることがない理論的根拠を提供している。
爆心地:カトリック教会の精神的中心地
2回目の原爆攻撃は、長崎の商業地区と三菱造船所の北に位置する長崎の有名なカトリック集落である浦上地区最大の大聖堂をほぼ直撃した。
長崎とカトリック教会の結びつきは古い:1580年、ある領主(大村純忠)がポルトガルから来たイエズス会の宣教師たちに土地を寄進した。新宗教は瞬く間に広まり、地元の支配者に対する脅威として非合法化された。1597年、26人の殉教者が長崎の丘で磔にされた。幕府が鎖国政策をとった期間も唯一外国貿易が継続的に行われた港が長崎であり、長く続いたキリスト教弾圧(1614年~1873年)の間、隠れキリシタンによる信仰の拠点となった。
浦上地区上空で爆発した爆縮型のプルトニウム原爆「ファットマン」は、即時に約4万人、年末までにさらに3〜4万人の犠牲者を出した。この原爆は、神道や仏教に隠れて信仰を守っていた「隠れキリシタン」の子孫であるカトリック教徒の71パーセント(信徒 1万2千人のうち 8千5百人)を壊滅させた。
米軍の軍事計画担当者がこの地域の歴史とカトリック的意義を知らないはずがない。1930年、カリスマ的なポーランド人のフランシスコ会士、聖マクシミリアン・コルベがこの地に修道院を開いたほど、この地域は精神的な中心地として有名だった。(その11年後、彼はアウシュビッツ強制収容所で殺害された)。
米軍は当時レーダーではなく、目視による爆撃を行っていた。8月9日の朝、爆撃手のカーミット・ビーハンは、雲が開けていくのを見た。その際、原爆投下任務の標的として地図に記されていた眼前に光景はどのようなものだったのだろうか。…それは国立公文書館から消えている。
謎の人物が「長崎」を標的に追加していた
ハリー・トルーマン大統領は、大統領に就任した後に初めて原爆計画について知った。その頃には、政策決定者の間で、ウラン爆弾と爆縮型のプルトニウム爆弾の両方を実験的に使用しようという機運が高まっていた。
軍によって任命された将校と核科学者で構成される 目標検討委員会は、最も人道的でない選択肢、すなわち、少なくとも直径3マイルの都市全体に最大限の被害を与えるように爆弾を爆発させるという選択肢を選んだ。
しかし、ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワー陸軍大将やオマール・ブラッドリー大将のような経験豊富な軍人は、核兵器の使用に反対した。アイゼンハワーは後に、「日本はすでに敗北しており、原爆投下はまったく不必要だった。」と説明している。
機密解除された文書によると、ヘンリー・スティムソン陸軍長官は態度を決めかねていた。彼は焼夷弾爆撃による民間人の犠牲を非難し、6月6日にはトルーマン大統領に「残虐行為においてヒトラーを凌ぐという汚名を米国に与えたくない」と語った。ポツダム滞在中には、文化的価値に基づいて古都京都の保護を要請するために大統領に直談判した。スティムソンが日記で報告したところによると、大統領は同意した。
長崎は5月と6月に作成された標的リストには載らなかった。山がちで不規則な地形が、標的委員会の選考にそぐわなかったのだ。その代わり、長崎は5回にわたって残忍な焼夷弾攻撃を受けた。原爆攻撃の主な標的となった都市は焼夷弾攻撃を免れたので、都市の破壊は原爆投下に伴う壊滅的な爆発と衝撃によるものだったと言えるだろう。また、長崎に連合軍捕虜の収容所があったことも、長崎を原爆攻撃で消滅させることに対する反対議論があった理由の一つだ。
土壇場になって、7月24日付の攻撃命令案に長崎が標的候補として登場した。この日はスティムソン陸軍長官とトルーマン大統領が攻撃目標について議論した日と重なっており、手書きの追記であった。
タイプされた極秘文書は、「広島、小倉、新潟を優先的に攻撃する」と命じている。そしてそこには誰かがペンで「そして」と「記載された優先順位で」を取り消し、矢印で「そして長崎 」を「新潟 」の後に挿入した。長崎が追加されたこの修正文は、翌日正式に回覧された。この文書に最初に注目した歴史家アレックス・ウェラーステインによると、長崎を追加した人物は不明だという。
一連の不幸な出来事
第2次原爆投下作戦に関する米側の証言は、不幸な出来事の連続を措定している:
原爆を搭載したB-29は燃料ポンプに問題があり、一向に現れないカメラ搭載機を待つために飛行時間を浪費した。 小倉に3度にわたって核爆弾の投下を試みたが、標的を目視できなかった。そこで次の標的である長崎に向かったが、到着時はまだ上空が雲に覆われていた。
日本の論者は様々な説を唱えているが、米軍が誤って浦上地区を消滅させたと考える人はほとんどいない。この歴史的な場所が破壊されたのは、浦上天主堂が帝国陸軍の米や食糧を貯蔵するために使われていたからだと考える人もいる。
原爆投下からまもなく、カソリック信者でない長崎の被爆者の一部の間では、街が破滅されたのは異国の神を崇拝する冒涜的な行為が招いたものだとしてカソリック信者をスケープゴートにする反応が見られた。
最近のいくつかの研究では、浦上地区のカトリック被爆者たちが殉教と赦しの思想によって、この不可解な出来事とどのように折り合いをつけていったかを探っている。グウィン・マクレランドは『長崎の原爆を生き延びたカトリック教徒の物語』で、チャド・ディールは『長崎の復活』で、カトリック信徒指導者であり被爆者であり、『長崎の鐘』の著者でもある永井隆博士が果たした重要な役割を指摘している。
永井は、浦上天主堂の廃墟の前で行われた死者への弔辞の中で、原爆投下を神の摂理(犠牲者の死が天罰ではなく神の前での意味ある「潔き」死であったとする説明)によるものだと述べた。この言説はキリスト教徒の犠牲者たちを安堵させたが、その反面、彼らが250年間実践してきた自己抑制を強化し、沈黙させる効果もあった。連合国最高司令官総司令部は、「浦上の聖人」をベストセラー作家にする手助けをした: 永井は国際的な出版を許された唯一の被爆者だった。
その後何十年もの間、日米両国政府は永井の言説を利用し続けた。昭和天皇は永井を直々に訪問さえした。それは永井の説明によって両国の責任が免責されたからである。
バチカンでの見方
バチカンは、1945年8月9日に米国が日本におけるカトリック信仰の中枢部を襲った背後にある偏見について、公の場で議論したことはない。ローマの公文書館関係者や専門家は、米国政府とバチカンが日本を巡って激しい外交論争を繰り広げ、それが戦争中ずっと両者の関係を悪化させたことを私に教えてくれた。
真珠湾攻撃の3ヵ月後、教皇ピウス12世は大日本帝国と外交関係を樹立した。バチカンがそのことを連合国政府高官に伝えると、彼らは憤慨した。サムナー・ウェルズ国務次官は教皇の決定を「嘆かわしい」と呼んだ。フランクリン・ルーズベルト大統領は「信じられない」という反応を示した。バチカン在住の米国特使によれば、ピウス12世の米国政府に対する答えは明確で、 「外交関係とは、相手国のすべての行動を承認することではない。」というものだった。
国家間外交は、カトリック教会が信者を守り、その使命を推進するための不可欠な手段である。1942年、昭和天皇の特使がバチカンに対して長らく求めていた提案を持ちかけたとき、教会は現実的な観点から同意した。というのも、当時は大日本帝国の軍事進出により、より多くのカトリック信者が日本軍の支配下に置かれようとしていたからである。日本軍の占領下にある約2000万人のカトリック信者の精神的な利益を擁護することは、バチカンの基本的な責任であった。
「悪魔との直接対決」への対処
教皇ピウス11世はかつてこう述べている:「魂を救済、或いは魂へのより大きな害を防ぐことが問題になるとき、私たちは悪魔ともでも直接対話する勇気を感じる。」と。壊れかけた世界に対する宣教の場としてのバチカンの外交観は、教会が不道徳な行為者と関わることで妥協すべきではないとする世俗系と宗教系双方の論者によって、しばしば評価されないことが少なくない。しかし、ピウス11世の見解では、それ以前と以後の教皇が結論づけたように、悪意ある政権に対しても影響を与える唯一の方法は、対話を通じて直接関与することである。
浦上天主堂が核爆弾の直撃を受け、日本で最も歴史あるカトリック共同体が消滅したとき、バチカンはそれを、「米国の敵」を外交と対話を通じて「人扱いしたこと」に対する同国の仕返しと考えた。(原文へ)
ビクター・ガエタンはナショナル・カトリック・レジスター紙のシニア国際特派員であり、フォーリン・アフェアーズ誌の寄稿者でもある。著書『God’s Diplomats: Pope Francis, Vatican Diplomacy, and America’s Armageddon』はローマン&リトルフィールド社より出版された。
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