ニュースブチャの住民の証言(4):「息子が助かったのは奇跡でした-服のフードに救われたのです。」(アラ・ネチポレンコ)

ブチャの住民の証言(4):「息子が助かったのは奇跡でした-服のフードに救われたのです。」(アラ・ネチポレンコ)

【エルサレムDETAILS/INPS=ロマン・ヤヌシェフスキー】

ロマン・ヤヌシェフスキー by РОМАН ЯНУШЕВСКИЙ
ロマン・ヤヌシェフスキー by РОМАН ЯНУШЕВСКИЙ

ロシア占領後のウクライナの町ブチャで、道路の真ん中に市民の死体が散乱しているという陰惨な写真と映像が全世界に衝撃を与えた。これは21世紀としては完全に異様な光景である。そして、多くのロシア人は、「これは演出だ」というロシア当局の説明を容易に、そして喜んで信じた。しかし、ロシアがどう感じようと、この恐るべき映像は分水嶺となったのである。ロシアと世界中のロシア人は、これから違った扱いを受けることになる。ブチャはロシア軍による犯罪の悲劇的な象徴となったのだ。

第一報によれば、イルピン、ホストメリ、マカロフ、ボロディヤンカでも、占領中に同様の残虐行為が行われたとのことだ。そして、状況が何倍も悪いとされるマリウポリについては、まだ触れていない。

イスラエルの通信社「ДЕТАЛИ(=Details)」は、この街で一体何が起こったのかを、独立した公平な立場で理解しようとするものだ。そして、ブチャの住民が語った内容は戦慄を覚えるものだった。私たちのドキュメンタリープロジェクト「Come and See」の枠組みの中で、ロシアによる軍事侵攻が始まって以来、この町で起こっていることについて集めた住民の証言を公開します。

以下は、ブチャに住むアラ・ネチポレンコさん(49歳)の証言である。3月17日、ロシア兵が14歳の息子ユーリの目の前で夫ルスランを射殺し、さらに10代の息子も殺そうとした。しかしユーリは奇跡的に一命を取り留めた。

ルスラン・ネチポレンコと息子のユーリ 写真:ファミリー・アーカイブス
ルスラン・ネチポレンコと息子のユーリ 写真:ファミリー・アーカイブス

「私は49歳で、長年、保育士として幼い子どもたちを相手に働いてきました。ある時、健康上の理由から、幼稚園の管理職の仕事に移りました。夫のルスラン・ネチポレンコ(47)は、ブチャのエコロジー企業で弁護士として働いていました。私たちの子供はここで生まれました。3人の素晴らしい息子たちです。そして、かつて私の両親は、この街を作るために若い頃ここに来ました。夫の実家が原発事故後、チェルノブイリから避難していたことが出会いのきっかけです。

アラとルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブス
アラとルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブス

(ロシアによる軍事侵攻が始まった)昨年の2月24日は二人とも休みで、早起きする予定も全くありませんでした。朝6時頃、何かの音で目が覚めましたが、すぐには何の音か分かりませんでした。ルスランは私よりもぐっすり眠っていて、目を覚ましませんでした。しかし、すぐにその音は次第に大きくなり、やがて爆発音だと分かりました。

スマホの電源を入れ、SNSを開くと、ボロディミル・ゼレンスキー大統領から「戦争が始まった」というビデオメッセージが届いていました。私たちの町はホストメリ空港の近くにあり、いち早くロシア侵攻の話を聞くことができました。

息子のムーが家族会議を開いてくれて、そこですべてを天秤にかけた結果、私たちはここに残ることにしました。私たちは民間企業で働いており、自分たちの家があり、隣には風呂場やストーブ、薪もありました。火鉢もタンドール(壷窯型オーブン)もある。停電になれば、自分たちの食べ物を直火で調理することができますし、どんな状況でも自給自足が可能でした。また、夫と子どもたちはボーイスカウト運動に参加した経験から、屋外でもどう生き延びるかを知っていました。また、停電に備えて発電機も持っていました。停電になっても、携帯電話の充電くらいはできるように、定期的に発電機をつけていました。食料もありました。私たち自身が誰かに脅威を与えるわけでもなく、危険もあまり感じませんでした。そこで私たちは、この紛争は長くは続かず、自宅で生き延びられると判断したのです。

私たちには3人の息子がいて、末っ子のユーラは14歳です。一番活発で落ち着きがない子ですが、家族会議では、彼に役割を与えることにしました。主人は以前市役所に勤めていたので、そこの知り合いに連絡を取ったのです。その知人から、「人手が足りない。機転が利く人が欲しい」と言われ、ユーラは3月3日からボランティアとして電話応対の仕事を始めました。ブチャ地区では、すでに18時から夜間外出禁止令が出されていました。当日ユーラは当直で、職場から電話をかけてきて、「仕事が終わらないし、食事も提供されるので、ここで一晩過ごします。」と伝えてきました。翌朝走って帰宅すると、朝食だけ食べ、「お母さん、職場に走って帰るよ、みんなが待っている。」と言って再び職場に出かけていきました。

しかし4日に帰宅すると、息子は一転してとても不安そうにしていました。「明日も当番なの」と聞くと、「そうだけど、町中をロシア軍の戦車が走っているから、もう二度と出勤したくない。」と答えました。職場にはCCTVカメラが設置されており、市庁舎や学校、教会の外にもロシアの戦車がいるのが見えたという。ユーラは、とても深刻なことだと理解したのです。持ち前の好奇心を和らげ、本当の危険を察知したのだと思います。一方、ロシア兵は、私たちの街にどんどん定着していきました。

アラ・ネポチレンコと息子たち。上にいるのがユーラ。写真:ファミリー・アーカイブス
アラ・ネポチレンコと息子たち。上にいるのがユーラ。写真:ファミリー・アーカイブス

私たちにとっての悲劇は、3月17日に起こりました。その後、もうこれ以上ブチャにはいられない、危険だと悟ったのです。その2日後の19日、私は子どもたちを連れて街を出ました。両親は家に残り、出て行くことを拒みました。

私の両親もブチャ地区の比較的近くに住んでいました。しかし、電話の調子が非常に悪く、3月8日からは電気もガスも止まってしまいました。主人は定期的に自転車で実家を訪ねていました。私たちの無事を知らせ、食べ物を届けていたのです。両親宅には発電機もなく、連絡はこうして一方通行でした。たまたま、実家の庭にある幼稚園に、ロシア軍が司令部と検問所を設けたため、両親宅にたどり着くために迂回することも、回り込むことも不可能になりました。身分証明書を携帯していれば、ロシア軍は原則的に、私たちの移動を認め、誰が地元の人間かを把握しているようでした。

AP Photo/Vadim Ghirda
AP Photo/Vadim Ghirda

その日、夫は市役所の近くで人道支援物資が配布されることを知りました。私たちは、夫の高血圧の薬が切れていたので、薬と発電機用のガソリンが入手できればと期待しました。ユーラは自ら志願して夫と一緒に行くことにしました。配布場所があまり近くないので、2人は自転車で行くことにしました。夫は、自分と子どもに白い腕章をつけ、自転車とリュックサックにも白い切れをつけて、ロシア兵に民間人だとわかるようにしていました。

タラソフスカヤ通りの人道支援物資配布場所に向かう途中、路地から突然、ロシア兵が出てきて行き先を尋ねながら、自転車から降りるように命じました。彼らは両手を挙げて、「薬をもらいに行っている。」「民間人だから脅威はないし、武器は持っていない。」と答えたそうです。

夫のルスランはユーラを庇いながらやや前に出てロシア兵と話しました。しかし、ユーラが後ろにいることを確かめようと少し振り返った瞬間、ロシア兵が突然彼の夫の左胸を2発撃ち、弾丸は肋骨と肺を貫きました。夫は「ああっ」と言いながら、目を開けたまま歩道に顔を伏せてしまいました。そのロシア兵は続いて息子にも2発銃弾を浴びせました。1発の弾丸は腕を傷つけ、2発目は左手の親指をかすり、ユーラも倒れました。そのロシア兵は息子に近づき、5発目の弾丸を頭部に撃ち込みました。ユーラにとって幸運だったのは、倒れた際に服のフードが引っ張られて頭を隠した形になり、銃弾はフードの布だけを破って頭部に命中しなかったことです。そうでなければ、彼もそこで殺されていただろうと思います。6発目は、そのロシア兵が夫の後頭部に撃ち込みました。

ルスラン・ネチポレンコと息子たち、写真:ファミリーアーカイブ
ルスラン・ネチポレンコと息子たち、写真:ファミリーアーカイブ

ユーラはどうすればいいかわからず、横たわっていました。ロシア兵が立ち去るのを待って、頭を上げて立ち上がり、その場を走り去りました。当時、ユーラは森に逃げ込みましたが家には帰らず、私の勤める幼稚園に駆け込んできました。私の同僚やその子供たちのように、幼稚園には家を爆撃された人たちが隠れ住んでいました。とりあえず応急処置をして、鎮静剤を投与しました。ユーラが落ち着きを取り戻すまで待ち、家に連れて帰りました。

帰宅すると、ユーラは何があったかを話してくれました。私は恐る恐る、「パパは本当に死んでしまったの?怪我をしていて、助けが必要なのでは?」と問いかけました。気丈な息子ですがこの時はさすがに怖がっていて、「ママ、お願いだから行かないで。ロシア兵はとても邪悪で、ママも殺されてしまう。」と懇願し始めました。そこで息子には「行かない」と約束しました。それでも自分に何ができるのか、じっとしていられませんでした。ウクライナ警察に相談したところ、ウクライナ軍がブチャを奪還するまでは何もできないと言われました。

それでも夫の遺体をそのままにはしておけませんでした。近所の人の話では、ロシア軍は前日に新しい兵器を中庭に設置し、前触れもなく撃ってくるから、近づくのは危険とのことでした。しかし夫の遺体は道端ならまだしも、ロシア軍の戦車が行き交う道路に倒れていたので、轢かれないかと心配でなりませんでした。一方、ロシア軍が死体を移動したら、集団墓地に埋葬されかねません。 

そこで私は、ロシア軍になんとか遺体の引き取りを認めてもらおうと考えました。私は夫が射殺される前から、毎日午後2時に両親と電話で連絡をとりあい、全員の無事を知らせることを日課にしていました。悲劇の翌日、約束の時間に父から電話がかかってきて、私はすべてを話しました。すると母が私たちのアパートに来て、途中でタラソフスカヤ通り8Aにあるロシア司令部に行き、遺体の引き取り許可を求めたと伝えてきました。司令部には、19歳くらいのとても若い兵士がいたそうです。許可はおりたのですが、既に夜間外出禁止令が適用されるまで十分な時間がなかったので、遺体の回収は翌日の午前中に行うことにしました。

夫は体重90キロのスポーツマン体型で、私の体力では動かせません。幸い、近所の二人の青年が手伝ってくれることになりました。私たちは一輪車に旗のような白い布をつけた棒をくくりつけ、遠くからでも見えるようにしました。そして母が一人のロシア兵に夫の遺体までの付き添いを頼み込み、夫の遺体にたどり着くと、母が一輪車に合図を送り、私達皆で夫を乗せて連れ帰りました。

こうしてなんとか自宅で夫に別れを告げることができました。息子たちが中庭に穴を掘り、夫の遺体を敷物で包み、穴の底に下ろして土をかぶせました。このような結果になるとは、まったく想像もつきませんでした。

ルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブ
ルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブ

ロシア兵はなぜ、あのような行動をとったのか、なぜ発砲したのか、ずっと考えています。何とも言えませんね。しかし夫が殺害された前日、ブチャのロシア軍がさらにキーウに進撃するためにイルピンで突破を試みて、装備に大きな損失を被り、多くのロシア兵が戦死していたことが関係あるかもしれません。彼らは攻撃的で、場所を変え始め、私たちの地域にも現れました。18歳から60歳までの徴兵年齢のウクライナ人男性は、ロシア兵にとって脅威となる可能性があるので、すべて射殺するようにとの命令があったことは、今では明らかになっています。

今のところ、ロシア側はすべてを否定し、民間人を殺したのはウクライナ軍だと主張しています。しかし、これには納得がいきません。そんなことはあり得ません。

私は人前に出るのが苦手で、演説をするのも好きではありませんが、このような行為を放置しておくわけにはいかないと理解しました。もしかしたら、このことが誰かに何かを警告するかもしれないし、まだ虐殺の真相に疑いを抱いている人々の目を開かせるかもしれません。私の状況はどうすることもできませんが、私が証言することで、何らかの助けになることはできると考えています。21世紀にもこのような残虐な事件があるのは、本当に事実です。(原文へ

INPS Japan

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