【東京INPS=浅霧勝浩】
INPS Japanは、反核国際運動カザフスタン代表団の来日にあわせて東京都内で開催された歓迎交流会(後援:在日カザフスタン大使館)を取材した。昨年2月のロシアによるウクライナ軍事侵攻により、核兵器の使用の危険性が高まる中、今年5月に被爆地広島で開催予定G7サミット(主要7カ国首脳会議)においても戦争の即時終結と核兵器使用回避の問題が大きく取り上げられる予定だ。
当時ソ連の一部を構成していたカザフスタンでは、広島と長崎に原子爆弾が投下された4年後の1949年、東部セミパラチンスクに建設された核実験場(広さは日本の四国に相当)でソ連初の核実験が行われた。その後、1989年までの40年間に、ソ連軍の厳格な秘密管理のもと合計468回の空中・地上・地下核実験が繰り返され、広範囲に拡散した高濃度の放射性廃棄物により、推定150万人~200万人の地域住民に深刻な被害(ガンや死産、先天的異常が多発し、平均寿命が劇的に低下)をもたらした。
こうしたなか、カザフスタンの人々はセミパラチンスク核実験場の閉鎖を求める「ネバダ・セミパラチンスク(セメイ)国際反核運動」という国民的な反核運動を展開し、1991年、ヌルスルタン・ナザルバエフ初代カザフスタン大統領は、当時のソ連指導部の意に反して同核実験場の永久閉鎖に踏み切った。こうしてセミパラチンスク核実験場は市民の運動で閉鎖に追い込まれた世界で初めての核実験場となった。
同年独立したカザフスタン共和国は、核兵器なき世界の実現を国是に掲げ、独立時世界第4位の核戦力(1,410基以上の戦略核兵器と戦術核兵器)の完全廃棄を決定(1994年までにロシアへの移送を完了)、核不拡散条約に加盟して核兵器国から非核兵器国に転換するとともに、2002年5月には包括的核実験禁止条約に批准した。さらに2006年には同じく旧ソ連構成国の中央アジア5か国(カザフスタン、ウズベキスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン)からなる非核地帯の創設に中心的な役割を果たした。また、2021年1月に発効した核兵器禁止条約にも批准し、2024年には同条約の第3回締約国会議を主催することになっている。
東京での歓迎交流会には、「ネバダ・セミパラチンスク(セメイ)国際反核運動」の創設者であるオルジャス・スレイメノフ総裁(高齢のため代理としてヴァレリー・ジャンダウレトフ副総裁が出席)、同運動に初期から参加しカザフ政府が立ち上げた反核キャンペーン「ATOM(廃止する=Abolish、実験=Test、私たちの使命=Our Mission)プロジェクト」の名誉大使を務める、腕のない芸術家カリプベク・クユコフ氏、セミパラチンスク核実験の被害と広島・長崎の原爆について記した小説「悲劇と宿命」の著者サウレ・ドスジャン氏、その日本語翻訳を担当した増島繁延氏、カラガンダ州副知事のエルボル・アリクロフ氏、「世界の記憶」ユネスコプログラム全国カザフ委員会議長ムナルバエバ・ウムトハン氏等が出席した。
この歓迎交流会で登壇したクユコフ氏は、自身の経験に基づき反核画家として彼の作品に込めた思いや、カザフスタンと同様に核兵器の惨禍を経験した日本人との連帯について語った。
以下は、カリプベク・クユコフ氏の講演
本日は、私が口や足の指を使って描いた絵画作品の展示と実演の機会を頂き有難うございます。
私はセミパラチンスク核実験場から100キロ離れた場所で生まれました。
この実験場では1949年から89年まで実に468回の核実験が行われた地であります。
私の両親は核実験で被爆しました。その結果、私は両手のない状態で生まれました。
国連の資料によれば、カザフスタンでは核実験で150万人以上が被爆しました。
1989年、カザフスタンの詩人オルジャス・スレイメノフ氏がネバダ・セミパラチンスク国際反核運動を立ち上げました。その第一の目的はセミパラチンスク核実験場の閉鎖でした。
その初期の段階から私は一員としてその活動に参加してきました。
私は自分の作品を通して核実験の恐ろしさを伝えています。
筆を口にあるいは足の指を使って、核実験で亡くなった方々に思いを馳せながら、自分に課した使命を果たせるよう、祈りながら絵を描いています。
核兵器のない世界を実現するために、世界各地を旅しました。
ある時は国連で、ある時はネバダ、ニューヨークの演壇に立ちまして、数多くの国際会議やフォーラムで演説しました。
1990年の東京、広島、長崎での会議は、忘れることができません。今また、こうして皆様の前に立っています。
ここにおられる皆さんと同様に、核兵器の廃絶は、私のライフワークになりました。
私は、カザフスタンがいち早く核兵器の放棄を決めたこと、核実験をやめ閉鎖したことを誇りに思っています。
またこれは、依然として核兵器に依存する他の国々への良い先例となったと思っています。
日本とカザフスタンは、戦時の核使用と平和時の核実験の違いはあれど、核兵器による被害の歴史を持ち犠牲者がいます。
将来の子孫たちが同じ過ちを繰り返さないためにも、この悲劇を風化させてはなりません。
私は、核兵器の犠牲となった人々のために、そして絵の作者として自身の絵の助けを得ながら、祈ります。
核兵器の犠牲者がこれ以上増えないことを。
私が「最後の犠牲者でありますよう」祈っています。
今回日本に来たのは初めてではありませんが、日本が変わって発展している様子が分かります。
カザフスタンも日本と共に発展し、お互いに理解を深めることができると期待しています。
お集りの皆さんとご家族のご健勝をお祈りいたします。
INPS Japan
関連記事:
ATOMプロジェクト名誉大使カリプベク・クユコフ氏インタビュー