和平交渉が行き詰まるコンゴ民主共和国から、宗教的共存の維持に苦闘するレバノンまで。宗教指導者や国際情勢の専門家らは、外交上の約束と戦争の現実との間に広がる隔たりを問い直した。
【アッシジ(イタリア)INPS Japan=浅霧勝浩】
コンゴ民主共和国東部では、遠く離れた各国の首都で和平協定が結ばれる一方、戦闘が続き、家族は住み慣れた土地を追われ、武装勢力は豊富な鉱物資源を有する地域の支配を争っている。|英語版|

首都キンシャサのフリドラン・アンボンゴ・ベスング枢機卿にとって、この矛盾は現代外交の根本的な欠陥を物語っている。政府間で合意が成立しても、平和を実現するために必要な政治的条件が整えられるとは限らないのである。
「戦っている相手を排除する対話は、対話ではありません。それは独白にすぎないのです」
アンボンゴ枢機卿は、アッシジで開かれた国際会議に向けて準備した演説で、こう訴えた。
この問題は、聖エディジオ共同体が主催した3日間の国際平和会議の一環として、10月26日に開催された「武力の時代に、いかなる平和を目指すのか」と題するフォーラムの中心的な議題となった。
教皇ヨハネ・パウロ2世がアッシジで歴史的な宗教間平和集会を開催してから40年。参加者たちが直面したのは、政治的な判断において軍事力の影響が再び強まる一方、それを抑制するための国際制度が十分に機能していない世界の現実だった。
和平協定でも終わらない戦争
コンゴ民主共和国東部では、30年にわたり、相次ぐ戦争や武装反乱、豊富な天然資源をめぐる争いが続いてきた。
アンボンゴ枢機卿は、国連の統計として、国内避難民が600万人を超え、2600万人以上が深刻な食料不安に直面していると述べた。
同氏は、ワシントンやドーハを舞台とする外交努力にもかかわらず戦闘が続いている現状を指摘し、政治的な分断や暴力を支える経済的な利害を克服しない限り、協定だけで平和は実現できないと訴えた。

コルタンや金、錫石などの豊富な鉱物資源は、武装勢力や外部勢力の間の争いを助長してきたという。
しかし、枢機卿は、その責任がすべて国外にあるという見方も退けた。
カトリック教会と、プロテスタント諸教会の主要な連合体であるコンゴ・キリスト教会は、包括的な対話を通じて国民の結束を再建することを目的とした「平和と共生のための社会協定」を提唱している。
だが、この取り組みは、誰を対話に参加させるのか、交渉開始前にどのような条件を課すのかをめぐって抵抗に直面している。
アンボンゴ枢機卿は、被害者が正義と責任の追及を求めることの重要性を認めた。その一方で、武装した敵対勢力を交渉から排除すれば、戦争を終わらせること自体が不可能になりかねないと警告した。
その後の質疑応答では、教会が政治当局や武装・非武装の反対勢力との接触を続けていることを説明し、深く分断された社会で宗教組織が仲介役を果たす可能性を示した。
戦争の最中から平和を準備する

フォーラムの司会を務めたイタリアの元外務副大臣で、聖エディジオ共同体の活動に長年携わってきたマリオ・ジーロ氏は、戦争が国際政治の手段として再び正当化されるようになったと指摘した。
ジーロ氏は、軍事的な対立を現実的な選択肢とみなし、平和構築を非現実的な理想と決めつける考え方に異議を唱えた。
戦争はいったん始まると、それを引き起こした指導者ですら制御できない勢いを持ち、さらなる怨恨を生み、当初の目的をはるかに超えて紛争を長期化させることがあるという。
そこで同氏が示したのが、「平和のリアリズム」という考え方だった。戦闘が続いている最中から、和解に向けた準備を始めるという発想である。
その出発点となるのは、政治文化と言葉の使い方だとジーロ氏は論じた。反対する相手を、もはや理解や承認の対象となり得ない敵として描く言葉に社会が慣れてしまえば、暴力を正当化することも容易になる。
同氏はまた、政治的な立場によって犠牲者の苦しみに序列をつけることにも警鐘を鳴らした。
対話には、世界を自分たちと敵対する側に分け、前者の苦しみにだけ共感し、後者の苦しみを無視する誘惑に抗う姿勢が欠かせないというのである。
レバノンが抱える共存の難しさ
レバノンのジョゼフ・アウン大統領の政治顧問を務めるジャン・アジズ氏は、個人、宗教共同体、国家という三つの関係から平和構築の問題を論じた。
持続的な平和のためには、この三者の間に均衡が保たれなければならないという。
個人には尊厳と自由、そして生活を営む手段が必要だ。共同体には独自のアイデンティティーを守る権利がある一方、暴力や排除を拒む責任もある。国家は主権を行使するに当たって、その権力が無制限ではないことを認識しなければならない。
中東についてアジズ氏は、パレスチナ問題の永続的な解決と、レバノンの多元的な政治体制の維持が、地域の安定に不可欠だと述べた。

Credit: Community of Sant’Egidio / Assisi 2026
同氏によれば、レバノンにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の共存は、脆弱さを抱えながらも、守るべき重要な政治的試みである。
しかし同氏は、宗教的なアイデンティティーが今も緊張を生み出している現実を認めた。
対話の目的は、あらゆる違いをなくすことではない。違いが暴力を正当化する口実にならないようにすることだという。
国際法を実行するのは誰か

アルジェリア出身で、衛星テレビ局アルジャジーラのジャーナリストとして知られるハディージャ・ベンゲンナ氏は、国際法の選択的な適用を問題視した。
中東をはじめとする各地の紛争を例に挙げ、制裁や外交的圧力、法的措置が、一貫した原則よりも大国の利害によって左右されることが多いと批判した。
特に、国連安全保障理事会の常任理事国が、国際社会の多数が支持する措置であっても拒否権によって阻止できる制度を問題視した。
一方で同氏は、国際司法裁判所(ICJ)や国際刑事裁判所(ICC)を含む国際司法制度の重要性も強調した。
これらの裁判所には判決や決定を直接執行するための独自の強制力がないものの、人権侵害などの政治的代償を高め、力の弱い側が責任を追及する道を開くことができるという。
これに対しジーロ氏は、安保理の制度について、より現実主義的な見方を示した。
拒否権制度の不平等を認めながらも、それが大国を国連の枠組みの中にとどめる役割を果たしてきたと論じた。こうした妥協がなければ、国連そのものの存続が困難になっていた可能性があるという。
両者の見解の違いは、国際制度の改革に伴う根本的な緊張関係を浮き彫りにした。
強大な国家が持つ特権に挑むべきなのか。それとも、不完全であっても対話を可能にしている仕組みを維持すべきなのか、という問題である。
和解に先立つ相互承認

イタリアの地政学専門誌『Limes』編集長のルーチョ・カラッチョーロ氏は、現代の戦争では、相手の人間性そのものを否定する傾向が強まっていると警告した。
同氏はまた、AIの軍事利用の拡大と、従来は政府が担ってきた戦争と平和に関する決定に、民間の巨大テクノロジー企業が影響力を及ぼしている現状を問題視した。
しかし、その議論の中心にあったのは、政治の正統性という問題だった。
カラッチョーロ氏によれば、対話そのものが目的になってはならない。対話が成立するには、相互承認が必要である。
それは、対立する双方の軍事力が対等であることを意味しない。互いに、人間として平和に生きる同じ権利を持つ存在だと認めることである。
交渉を行い、合意を実行する能力を備えた正統な政治制度がなければ、持続可能な平和を築くことはできない。
同氏は、その責任を担う政治制度の再建を訴えた。
これに対し、インドの作家で「新しい南アジアのためのフォーラム」創設者のスディーンドラ・クルカルニ氏は、異なる側面を強調した。
マハトマ・ガンジー、アッシジの聖フランチェスコ、教皇フランシスコの思想を踏まえ、非暴力とは不正義を受動的に受け入れることではなく、それに積極的に立ち向かう行動だと論じた。
同氏は、宗教共同体が内面的な変革と、組織的な非暴力の社会運動を結び付けていく必要があると訴えた。
若者が未来に希望を持てる社会へ
議論はやがて、失業や政治的排除、自らが引き起こしたわけではない紛争に直面する若者たちの問題へと広がった。
アンボンゴ枢機卿は、コンゴの若者が武装集団に参加する背景には、将来への希望を失っている現実があると指摘した。

クルカルニ氏は、若者には不正義に抗議する権利があると擁護する一方、非暴力の運動こそ幅広い社会的支持を獲得し、持続的な変革を実現しやすいと論じた。
こうした発言によって、平和の意味は停戦や外交協定を超えて広がった。
若者が尊厳を持って生き、社会に参加し、経済的に自立できる現実的な道筋を見いだせない社会では、真の安定を実現することは難しい。
10月27日に発表された閉会式の平和アピールは、軍事支出から人々の基本的な生活の必要へと政策の優先順位を転換するよう訴え、宗教共同体に対しても、信仰を暴力の正当化に利用することを拒むよう求めた。
対話の成果を何で測るのか
しかし、このフォーラムで、戦争を終結させるための簡単な処方箋が示されたわけではない。
むしろ、議論から浮かび上がった最も重要な結論は、対話と平和は同義ではないということだった。対話とは、敵対する相手をも排除せず、人間の尊厳を守り、紛争を長引かせている利害関係にも向き合わなければならない、政治的にも人間的にも困難を伴う取り組みなのである。

コンゴ民主共和国をはじめとする紛争地域で、その成否を測る尺度となるのは、締結された和平協定の数ではない。合意が実際に履行され、暴力が減り、避難を余儀なくされた人々が安全に故郷へ戻り、若者たちが武器を取る以外の未来を選べるようになるかどうかである。
それには、政治指導者が約束を実行する責任を負い、国際社会が和平への関与を継続し、宗教共同体や市民社会が対立する人々の間に信頼を築くことが欠かせない。何より、和平交渉の当事者たちが、戦争によって苦しんできた人々の生活を、外交上の駆け引きより優先させる必要がある。
アッシジの会議が示したのは、対話が戦争を終わらせる保証にはならない一方、それを放棄すれば、敵対する人々の間で合意を築く可能性そのものが失われかねないという現実だった。
平和の実現を最終的に証明するのは、会議の閉幕時に発表される宣言でも、外交文書に記された約束でもない。紛争の影響を受ける人々が、恐怖に支配されることなく、尊厳と希望を持って暮らせる日常を取り戻せるかどうかなのである。
INPS Japan
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