この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。
【Global Outlook=ロバート・ミゾ】
世界の屋根が雨漏りしている。より正確には、融けている。脆弱なヒマラヤの生態圏は、気候変動が引き起こした気温上昇による大きな脅威に直面している。これは、生態系への影響をもたらすだけでなく、下流に住む何百万もの人々の生活を、政治的境界や文化を超えて、破壊はしないまでも変えてしまうだろう。次なる世界的大国と目され、「アジアの世紀」の二大主役として競い合ってもいる中国とインドは、経済や政治の安全保障という点でヒマラヤの健全性に負うところが極めて大きい。しかし、気候変動がもたらすであろう運命がこの地域に差し迫っており、そのうちのいくつかはすでに起こりつつあることを考えると、アジアの世紀は控えめに言っても不確実であるようだ。(日・英)
ヒマラヤ地域は、そこに暮らす人間や他の多くの生き物にとって極めて重要であるだけでなく、近隣の数カ国、具体的にはアフガニスタン、インド、中国、ネパール、ブータン、パキスタン、バングラデシュ、さらにはミャンマーの何十億人という人々の命を支えている。ヒマラヤは、北極、南極に次ぐ膨大な量の凍った水が集中していることから「第3の極」とも呼ばれ、ガンジス川、インダス川、黄河、メコン川、イラワジ川といった命を支える主要な河川系の水源となっている。これらの河川は、流域にアジア文明の主要な中心地を擁し、何十億人もの人々に、食料、エネルギー、生計手段を直接的あるいは間接的に提供している。いわゆるアジアの世紀は、これらの川の流域に根差していると言って良いだろう。また、地政学的にも、ヒマラヤ地域には世界で最も重武装された二つの国境(インド・パキスタン間、インド・中国間)があり、そのため軍事インフラの設置面積が拡大している。それがさらに、全体的な生態系の脆弱性に拍車をかけている。
ヒマラヤの氷河が融解していることは、だいぶ前から知られている事実である。科学者らは10年以上前からこの融解について警告し、時には「論争」を引き起こしてきた。しかし、最近の科学研究により、さらに憂慮するべき事実が裏付けられた。当初の記録または予測よりもはるかに速いペースで融解が進んでいるのだ。カトマンズにある国際総合山岳開発センター(ICIMOD)は、2023年の研究で、2011~2020年におけるヒマラヤ氷河の融解スピードはその前の10年間より65%速かったと報告した。報告では、たとえ地球温暖化がパリ協定で定めた通り1.5℃~2℃に抑えられたとしてもヒマラヤ氷河は2100年までに容積の3分の1から半分を失うと結論付けている。ただし、これはまだ最善のシナリオの話である。
イースト・アングリア大学の大規模な研究プログラムでは、気候温暖化のレベルが上昇すると人間や自然のシステムへのリスクがどのように増大するかが検討された。学術誌「Climatic Change」に発表されたこの研究では、地球の気温が3℃上昇するとヒマラヤ地域の約90%で1年以上続く干ばつが起こり、予測される上昇が4℃の場合は4年以上続く干ばつが起こると予想されている。報告書の執筆者らは、破滅的な気候現象を回避するためには、地球温暖化をパリ協定が掲げる1.5℃の限度内に抑える持続的な政策が必要であると繰り返し述べている。
ヒマラヤ氷河の融解による破滅的な影響は現れ始めている。2023年10月、インド北東部のシッキム州のサウス・ロナック湖が決壊し、住宅、橋、高速道路、1,200 メガワット級ウルジャ水力発電所のチュンタン・ダムが破壊されて、30人が死亡したほか、下流の村のさらに多くの人が家を失った。当初、決壊は集中豪雨によるものと報道されたが、インド宇宙研究機関(ISRO)が湖増水の様子を捉えた衛星画像から、氷河湖決壊洪水(GLOF)と過剰降雨の組み合わせによって引き起こされたことが明らかになった。この事態は2013年にすでに予見されており、湖が決壊する可能性は42%であるとインドの国立リモートセンシングセンターが予測していた。それ以前には、インド側のヒマラヤ地域で鉄砲水やGLOFにつながる集中豪雨が数回観測されていた。
GLOFは、ブータン、インド、中国、ネパール、パキスタンにまたがるヒマラヤ地域のコミュニティーに深刻な脅威をもたらしている。2020年、ヒマラヤ地域の重要な氷河湖に関する国連開発計画(UNDP)とICIMODの合同報告では、極めて危険であるとして47の氷河湖が特定された。これらは、決壊して中国、インド、ネパールの下流域に洪水を発生させる恐れがあった。さらに、「Nature」に発表された氷河湖決壊に関する2023年の研究では、世界でGLOFのリスクにさらされている全ての人々のうち50%以上がインド、パキスタン、中国、ペルーに住んでいることが示された。
このような生態学的不安と不確実な未来に直面すれば、予想されているアジアの優位性がどれほど脆弱なものか想像できるというものだ。アジアの世紀は、成熟に達する前にすでに阻まれているようだ。経済成長は生態学的基盤に根差しており、そこでは全ての経済活動が直接的または間接的に生起する。水、物質、生計手段のまさに源泉が脅かされれば、最終的には努力、事業、イノベーションの妨げとなる。気候変動に起因する氷河の融解と湖の決壊は、ヒマラヤ地域に領土を有する国々に今後も破壊的な影響を及ぼし、それによってアジアの興隆をめぐる熱狂に水をかけるだろう。何をなすべきかという問いを地域が一丸となって模索し、差し迫る破滅から自国のコミュニティーを守る手立てを団結して見いだす必要がある。
最近では、市民社会が声を上げ、政府に対してヒマラヤ地域に関する懸念に目を向けるよう求めるようになった。2024年2月、インドのヒマラヤ地域で活動する多くの社会団体や環境団体が、気候変動に対する地域の脆弱性を訴える「ピープル・フォー・ヒマラヤ(People for Himalaya)」宣言に署名した。彼らは、気候災害は生態学的であるだけでなく、政治的、経済的、社会的でもあると主張するとともに、開発プロジェクトを持続可能な形で設計し、ヒマラヤの脆弱な生態系に配慮することを求めた。宣言は、資本主義の強欲さがヒマラヤのさらなる商品化をもたらしているとして、国際金融機関から国や州の政府まで、さまざまな機関を非難している。それらの全てが、ヒマラヤ地域とそのコミュニティーの脆弱性増大に影響しているのだ。同様に、インドのラダック地方出身の気候活動家でありイノベーターであるソナム・ワンチュクは現在、脆弱な先住民のコミュニティーと地域の保全を保証するインド憲法第6付則の特別規定をラダック地方に適用することを求めて、「決死の気候ハンガーストライキ」を実行している。
インドや中国のような経済成長大国は、それぞれ自国の台頭と優越の脚本を書くことに熱心で、しばしば互いに競争しているが、気候に起因する変化によって彼らが直面している脅威は、彼らの野心をひどく損なうものとなる。ヒマラヤの健全性に大きな利害を持つ二つの隣国として、ヒマラヤを差し迫った大惨事から保護し、国境を越えて脆弱なコミュニティーを守る方法を見つけるという目標に向けて、ヒマラヤ地域に領土を有する国々の協調を導くことが両国の共同利益になる。しかし、残念なことに、国境問題と領土保全に関する地政学的検討事項が、依然として両国にとって重要度の高い課題となっている。優先順位の見直しを少しでも早く行うことが、地域にとっては利益となる。
ロバート・ミゾは、デリー大学政治学部の政治学・国際関係学助教授である。気候政策研究で博士号を取得した。研究関心分野は、気候変動と安全保障、気候政治学、国際環境政治学などである。上記テーマについて、国内外の論壇で出版および発表を行っている。
INPS Japan
関連記事: