「私たちは誰とでも話します。たとえ戦争省であっても」――ワシントンにおける「教皇の代理人」としての任期について、クリストフ・ピエール枢機卿が独占インタビューで語った。
【National Catholic Register/INPS JapanワシントンDC=ヴィクトル・ガエタン】
バチカン外交官として50年近くにわたり、クリストフ・ピエール枢機卿は6大陸で数百回に及ぶ会合に臨んできた。そのため、80歳の誕生日を8日後に控えた1月下旬、米国の「戦争省」で政府高官と面会したことも、本人にとっては多忙な国際外交官の日常の一コマにすぎなかった。
「それが私たちの仕事です。私たちは誰とでも話します。たとえ戦争省であってもです!」フランス生まれのピエール枢機卿は、ローマへの転居準備を進めるなか、Registerの取材にそう語った。聖座の大使館である教皇庁大使館は、1937年に建てられた専用の邸宅で、J・D・バンス副大統領公邸の向かいに立つ。
ピエール枢機卿は、この出来事が過度に大きく取り上げられていると考えており、詳しく語ることにはあまり関心を示さなかった。ただ、国防次官(政策担当)のエルブリッジ・コルビー氏との「率直な」協議を通じて、現政権の世界観と聖座の立場との間に明確な隔たりがあることが浮き彫りになったと認めた。また同枢機卿は、外交案件は本来、国務省が扱うものであり、「戦争省」が扱うものではないという従来の米国外交のあり方からの逸脱も示されたと見ている。
最前線での半世紀
対話は国家から歴代教皇にまで及び、最初の赴任地ニュージーランドは教皇パウロ6世の時代だった。しばしば笑みを浮かべながら語るピエール枢機卿は、教会に仕える司祭外交官たちの並外れた献身を体現している。彼が赴任した国々を列挙するだけでも、その経験の広さがうかがえる。モザンビーク、ジンバブエ、キューバ、ブラジル、スイス、ハイチ、ウガンダ、メキシコ、そして最後に米国である。
ワシントンD.C.の教皇庁大使館には、米国人肖像画家イゴール・V・ババイロフによるクリストフ・ピエール枢機卿の肖像画が飾られている。
彼が担った職務は多岐にわたった。ウガンダでは、エイズ対策としてコンドーム使用のみを推進する副大統領の方針に対し、禁欲教育を訴えた。ブルンジでは教皇大使が殺害された後、大使館を引き継いだ。ハイチでは、カトリック司祭の身分のまま大統領に選出されたジャン=ベルトラン・アリスティド氏の聖職離脱をめぐる対応を担った。メキシコでは、信教の自由を憲法に盛り込む交渉を成功させた。そして米国では、前任者のカルロ・マリア・ヴィガノ大司教が教皇フランシスコの辞任を公然と要求した、前例のない危機にも対応した。。
2016年にワシントンに着任して以来、ピエール大司教は、全米の司教たちと同時に向き合ってきた。各教区の司教個人として、また米国カトリック司教協議会(USCCB)を通じてである。さらに、カトリック系大学をはじめとする幅広いカトリック機関、そして米国政府に対する教皇の主要な対話窓口としても務めた。これは非常に大きな役割である。とりわけピエール枢機卿は、米国の教会の実情を自らの目で確かめるため、全米をくまなく巡るべきだと判断した。教皇大使の最も重要な職務の一つは、新しい司教を選ぶ際に教皇を補佐することであり、そのためには現場で司教たちが直面している課題を理解する必要がある。
「9年間、教皇大使を務めたメキシコから大使館に着任した翌日には、カリフォルニア州オレンジ郡へ飛び、司教総会に初めて出席しました。ですから、私は典型的なワシントン観光客ではまったくありませんでした。」と彼は語った。「D.C.は旅と旅の間に戻る場所でした。D.C.に戻るとすぐ、次の出張の予定を立てていたのです。」
退任した教皇大使は今後、ローマに居を移し、教皇から特別な外交任務を託されれば引き続きそれに応じる予定である。米国での日々を振り返って何を最も懐かしく思うかと尋ねると、ピエール枢機卿はすぐにこう答えた。「何よりも人々です。人々のもてなしと寛大さを心から楽しみました。教皇の代理人として、私は多くのカトリック信者と接しました。人口の20%ですからね。ほとんどの教区を訪ねました。アラスカには4、5回行きました。ハワイにも行きました。雪も楽しみました。カリフォルニアも、フロリダも楽しみました。フェニックスにも行きました。」
「美しさです。」と彼は熱を込めて続けた。「この国の多様性です。」
枢機卿が教皇庁大使館で気に入っていたのは、静けさと黙想にふさわしい雰囲気だった。木々に囲まれた裏庭には、シカやアライグマが姿を見せる。ワシントン市内の美術館や博物館も気に入っていた。しかし何よりも、ピエール枢機卿が力を注いだのは、自身の中心的な使命だった。それは任期の大半を通じて、「教皇フランシスコを米国に伝え、米国を教皇フランシスコに伝えること」だった。
アパレシーダと「希望の大陸」を読み解く
ピエール枢機卿は着任当初、米国の教会指導層が、2007年にラテンアメリカの司教たちによってまとめられた「アパレシーダ最終文書」をよく知らないことに驚いた。同文書は、世界を福音化することに献身する、より宣教志向の教会を求めている。教皇フランシスコは、その主要な編集責任者だった。フランシスコの最初の使徒的勧告『福音の喜び』に見られる多くのテーマは、アパレシーダにさかのぼることができる。
ピエール枢機卿によれば、アパレシーダの重要性を理解するには、それを第2バチカン公会議の文脈の中で捉えなければならない。「教会の歴史は、およそ20の偉大な公会議によって形づくられてきました。そして前世紀における偉大な出来事、聖霊の出来事こそ、第2バチカン公会議でした」と彼は説明した。
「1960年代初頭以来、南米の司教たちは――教皇パウロ6世が南米を『希望の大陸』と呼んだことを思い出してください――5回の大規模な会議を開催することによって、第2バチカン公会議を実践に移しました。アパレシーダはその5回目でした。それはベルリンの壁崩壊後、そしてマルクス主義という奇妙で恐るべきイデオロギーの押しつけが終わった後に行われたのです」
「アパレシーダで司教たちは、信仰と価値の継承の断絶、社会の分断、近代主義、ポストモダンなどを見つめました。これらは多くの哲学者や観察者によって分析されてきた現象です。そこで司教たちは、今こそ再び始めなければならない、当然ながらキリストから再出発し、この新しい世界を福音化しなければならない、と語ったのです」
枢機卿は、この出来事を「今世紀の転換点」と呼ぶ。
彼は、南米で最も多くの巡礼者を集めるブラジル・アパレシーダのアパレシーダの聖母国立大聖堂に集まった司教たちを、聖霊が導いたと信じている。教皇フランシスコの選出を通じて、アパレシーダの洞察は、とりわけ『福音の喜び』という文書の中で普遍教会へと入っていった。そしてピエール枢機卿の見方では、この聖霊の働きは今日も続いている。
「だからこそ、個人的には」と彼は要約する。「私が米国で果たすべき使命の一つとして、教皇フランシスコとアパレシーダについて私が見て取ったことを、米国の司教たちと分かち合うことを掲げたのです」
2007年、ピエール枢機卿はメキシコの教皇大使としての任期を始めたばかりだった。当時、ホルヘ・ベルゴリオはブエノスアイレス大司教だった。「教皇フランシスコは預言者でした。変化する時代、時代の転換期に教会であるとはどういうことかを語っていました。彼は診断を示し、今日どのように福音化するのかに焦点を当てたのです。私にとって、これは非常に魅力的なことでした」
枢機卿は、教皇レオ14世が2007年に示された精神を引き継いでいると見る。「聖父の言葉を読み、聞くと、彼はフランシスコが始めたことと完全に連続しています。毎週、第2バチカン公会議について語っていますし、次の枢機卿会議では『福音の喜び』が議論されます。お分かりでしょう」
「教皇レオは、何よりもまずラテンアメリカの司教です」とピエールは笑った。「米国で生まれた司教ですが、ラテンアメリカの司教なのです。そう言えば、教皇レオについてすべてを語ることになります。同時に、米国についてもすべてを語ることになります。時に人々はそれを認めたがりません」
ピエール枢機卿は、フランシスコとレオの双方を預言者だと表現する。なぜか。「預言者とは、福音について語る人です。教皇レオは政治家になろうとしているのではありません。彼自身が明確にそう述べています。預言者とは、今日の世界にあって、福音の良き知らせを告げ知らせる人なのです」と彼は説明した。
「預言者には優れた洞察が必要です。勇気も必要です。そして今日の世界と対話する力も必要です。キリストの現存と福音の価値を今日の世界に示すこと――教皇レオが行っているのはまさにそれです。しかも非常に的確に、親切に、説得力をもって行っています」
ピエール枢機卿は、発表から20年近くたったアパレシーダ文書の価値を、米国の司教たちが今では理解していると考えているのだろうか。
「この世界に完全なものはありません。しかし、そうだと言えるでしょう」と彼は厳粛に答えた。「私は一つの文書だけの擁護者になりたいのではありません。重要なのは、私の兄弟である司教たちが、貧しい人々を守り、移民を守り、人間の命を守り、死刑に反対して立ち上がる声を聞く時、私はうれしく思うということです。司教たちはイエスに従っていると信じるからです。そして、そのことを神に感謝しています」
米国教会におけるイデオロギーと現実
ピエール枢機卿は、米国の司教たちに対して常に称賛ばかりを述べてきたわけではない。約10年前には、米国カトリック教会に過度なイデオロギー性があると批判することで知られていた。2016年当時、それが教会指導部に対する彼の診断だったのかと尋ねると、枢機卿はまず、なぜイデオロギーが問題なのかを理解しなければならないと説明した。
「イデオロギーの危険は、それが非常に分断的であることです。人は一つの考えの所有者となり、それを押しつけようとし、現実のいくつかの側面を忘れてしまうからです」と彼は語った。
現実は考えよりも重要である、と彼は強調する。「イデオロギーを扱うほうがはるかに簡単です。なぜなら人はそのイデオロギーの所有者となり、自分に同意しない人々は忘れ去られるべき、無視されるべき、あるいは打ち負かされるべきだと考えるからです。これは世界中で起きていることですが、教会の内部にも存在する危険です」
彼は続けた。「ある意味で、米国のカトリックは価値を守る一種の政党のようになっていました。彼らは価値を守り、それをよく行っていました。しかし、それは一種の政治闘争になっていったのです。カトリックであることは、価値を守ることを意味するようになりました。教皇フランシスコはこの状況を見て、『注意しなさい。教会としての私たちは、たとえそれが良い価値であっても、価値を守っているだけではないのです』と言ったのです」
この評価によれば、米国のカトリック指導層は、プロライフ運動を一つのイデオロギーとして自らと同一視するようになり、その結果、他の優先課題が忘れられていった。この焦点化は、文化戦争に寄与する危険をはらんでいる。
ピエール枢機卿はこう要約した。「長年にわたり、この文化戦争が支配的となり、分断を生み出しました。必然的に、『私と共にいないなら、あなたは私に反対している』という姿勢が広がっていくのです」
では現在はどうか。「司教たちは今日、より一致しています。現実の多くの側面に目を向けています。イデオロギーの中で機能すると、人は分裂します」と彼は述べた。
米国教会について敬服するようになった点を尋ねると、ピエール枢機卿は、教会がいかに生産的で、与える存在であるかを強調した。「カトリック信者が成し遂げてきたことを見ると、驚くべき教会堂、活気ある小教区、大学、病院を築いてきました。実に見事です。200年以上にわたる米国カトリックの美しさは、この寛大さにあります。教会の前向きな影響は至るところにあります」
「カトリック信者の国への貢献がこれほど劇的な国を、私は他に知りません。そして、その勇気です。考えてみてください。米国人は移民です。どこか別の場所から来た人々です。彼らは自らの努力によって自分たちの国を変えることができました。そして今もそうし続けています」と彼は語った。
ピエール枢機卿は、カトリックが教育に重点を置いてきたことを特に挙げた。「私はノートルダム大学で名誉博士号を授与されました。なんと素晴らしいキャンパスでしょう。私たちには200近いカトリック大学があります。これは驚くべきことです」
彼はこう観察した。「米国文化は夢の文化になりました。そしてここに来た人々は、自らを自由にするために来ました。アメリカン・ドリームは、プロテスタンティズムに深く刻まれた、ほとんど一つの宗教です。カトリック信者は、とりわけ教育に投資しました。信仰に深く根ざしたまま、アメリカン・ドリームの一部となるためです」
分裂の謎と平和への呼びかけ
誠実なインタビューであるなら、痛みを伴うテーマを避けることはできない。教皇大使にとって、任期中で最も困難だった時期は、前任者ヴィガノ大司教が2018年に教皇の辞任を求めたことで引き起こされたスキャンダルだった。
ヴィガノ氏がなぜ分裂へと進み、2024年の破門につながったのかという問いに対し、枢機卿はこう答えた。「このことについて私はあまり話してきませんでした。なぜなら、私はいまだにこの兄弟の態度に困惑しているからです。彼はいまも私の兄弟、司教としての兄弟です。私は彼を長く知っています。彼を尊重しています。しかし困惑しています。理解できないのです」
「ご存じの通り、これは人生における謎です。80歳になり、人生の終わりに近づく今、私は多くの種類の謎に直面してきました。しかし最大の謎は人間に関わるものです。もちろん、完全な人間などいません。しかし、この兄弟の立場を私は理解できませんでした。ですから、これ以上詳しく述べるつもりはありません。ただ、私にとって確かに心を痛めることでした」
ピエール枢機卿は、自身の故郷ノルマンディー地方の聖人、リジューの聖テレーズと同じように、教会を自分の家と考えていると付け加えた。「彼女はよく『私の母なる教会』と言っていました。私も同じように言います。私は生涯で5人の教皇に仕えてきました。私は常に、教会の中に神の働きを見てきました」
ピエール枢機卿は、ピエルバッティスタ・ピッツァバッラ大司教、ロバート・プレヴォスト大司教と同じ時期に赤い帽子、すなわち枢機卿位を受けた。歴史的に見れば、教皇大使が枢機卿に任命されることは多くなかった。しかしフランシスコは、特に危険または困難な状況で宣教者として奉仕した教皇大使たちを、枢機卿として顕彰した。私は枢機卿に、フランシスコは彼を米国という宣教地で奉仕する司教と見なしていたのかと尋ねた。
「なぜ私が枢機卿に任命されたのかは分かりません」と彼は答えた。「それは例外的なことでした。私は教皇フランシスコと良い関係にありました。この教皇の重要性を強く信じてきました。彼は確かに米国に多くの注意を向けていました。一般に、南米の人々、特にエリート層は、北米で何が起きているかに大きな関心を払います。しかし、その逆はそうではありません。北米は南米で何が起きているかに、もっと注意を払うべきです。私はその両方の場所で生きる特権に恵まれました。私にとって、教皇レオは米国人というより、よりラテン的な方です」
米国の外交政策
現在の情勢に話を戻し、私は教皇大使に対し、1月22日に戦争省当局者が彼を呼び出した理由を尋ねた。「それは明らかに、教皇レオが外交団に向けた演説で、『戦争が再び流行し、戦争への熱狂が広がっている』と述べたことに関係していました」
ピエール枢機卿はこう付け加えた。「教皇レオの最も重要な強調点は平和です。選出後、バルコニーから発した最初の言葉は『平和』でした。彼は一貫してそのテーマを語り続けています」
教皇大使によれば、聖座は、トランプ政権の外交政策が、第2次世界大戦後に支持されてきた政策――国連の創設を助けた政策――から離れていることを非常に懸念している。「昨年末に発表された米国の国家安全保障戦略には、いくつか憂慮すべき点がありました」とピエール枢機卿は述べた。「それは法の力ではなく、力の法を称揚しています。建設的な多国間主義の余地をほとんど残していません。一方で教皇は、外交の古典的な考え方を継続しています」
彼は感情を込めて続けた。「米国の本当の歴史とは、対話のための制度を築いてきた歴史です。ところが今、対話にノーと言うのですか。人々を破壊しておいて、その後に対話に応じると言うのですか。それは決して実現しません。トランプは米国を孤立させ、他者に対抗して米国を偉大にしようとしています。以前の米国は、他者と共に偉大になったのです。米国が偉大になったのは、他者と共にあったからです」
ピエール枢機卿は、教皇が「正戦」についての議論を始めたのではなく、むしろ他の人々がこのカトリックの概念を持ち出したのだと指摘した。レオが述べたのは、ただ「戦争にノー」ということだった。
「現在のイランでの戦争は、正戦とは見なせません」とこの外交官は説明した。「それは防衛戦争ではないからです。交渉するために戦争に行くのではありません。戦争を避けるために交渉に行くのです」
「最近起きていること、すなわち大統領がほぼ毎日のように教皇に言及していることは、人々が教皇を前向きな形で発見しつつあることを示しています。なぜなら、教皇の言うことは理にかなっているからです」
彼は最後にこう結んだ。「皮肉なことに、大統領の攻撃は、教皇レオとカトリック教会の肯定的なイメージを高めているのです」
ビクター・ガエタンは、国際問題を専門とするNational Catholic Registerの上級特派員である。Foreign Affairs誌、The American Spectator、Washington Examinerにも寄稿している。数年間にわたりCatholic News Serviceにも寄稿した。北米カトリック報道協会は過去5年間で、個人優秀賞を含む4つの最優秀賞を彼の記事に授与している。ゲイタンはパリのソルボンヌ大学でオスマン・ビザンツ研究のリサンス(学士相当)を取得し、フレッチャー法律外交大学院で修士号、タフツ大学で文学におけるイデオロギー研究により博士号を取得した。著書『God’s Diplomats: Pope Francis, Vatican Diplomacy, and America’s Armageddon』は2021年7月、Rowman & Littlefieldから刊行された。ウェブサイトはVictorGaetan.org。
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