【ルンドIDN=ジョナサン・パワー】
ブダペスト駐留のスウェーデン人外交官で、ナチス・ドイツ占領軍の手を逃れてスウェーデンに逃れられるよう、少なくとも6000人のユダヤ人に「保護証書」を発行したラウル・ワレンバーグ氏についてはよく知られている。ワレンバーグ氏はユダヤ人虐殺計画を察知し、責任者の将校と交渉して阻止することにも成功した人物であり、米国は同氏に史上2番目(第一号はウィンストン・チャーチル英首相)の名誉市民権を付与している。
また、ナチス・ドイツ占領下にあった多くのデンマーク人が、小舟を使って約7000人のユダヤ人を、海峡を越えて当時中立国であったスウェーデンに入国させた素晴らしい取り組みについてもよく知られている。
また、ドイツ人ビジネスマンのオスカー・シンドラー氏についても、のちにスティーヴン・スピルバーグ監督による名作「シンドラーのリスト」で有名になった。映画では、シンドラー氏が、いかにしてポーランドの工場を利用して数千人におよぶユダヤ人を保護したかが描かれている。
一方で、ウィンストン・チャーチル首相が、ナチス・ドイツの強制収容所の存在について、実態を知りたくはないと語ったとされる大戦末期に、そうした収容所から人々を救うために多大な尽力をしたスウェーデン人貴族、フォルケ・ベルナドッテ伯については、どれほど多くの人が知っているだろうか。
シェリー・エムリンク氏は、最近出版したベルナドッテ伯の伝記のなかで、これまで謎だった多くの部分に光を当て、同氏の生涯を鮮明に蘇らせている。
ゆうまでもなく、スウェーデンにおいてベルナデット伯は、ワレンバーグ氏のように人々の記憶に残る歴史上の人物である。彼はフランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの幕僚の一人でスウェーデン議会の招きで王位を継いだジャン=バティスト・ジュール・ベルナドッテ元帥(カール14世ヨハン)の子孫である。カール14世ヨハンは国民に人気の君主で、それまでデンマーク領だったノルウェーを併合して同君連合(スカンジナビア半島の統一)を実現した功績を残している。
スウェーデンによる対外戦争はこの時のデンマークとの戦争が最後となった。1814年以来、スウェーデンは平和主義とはいわないまでも、一貫して中立の立場を堅持してきた歴史がある。後に、フォルケ・ベルナドッテ伯が、当時ヒトラー政権の第二の実力者であったハインリッヒ・ヒムラーへの定期的なアクセスを確保し、次々と大規模な囚人の解放を交渉できた背景には、こうしたスウェーデンの歴史がある。
元将校でもあったベルナドッテ伯も、この王家の理想主義を受け継いでいた。彼はかつて「私たちがこの世に生まれてきたのは、自身が幸せになるためではなく、他者を幸せにするためだ。」と記している。
ナチス・ドイツによる絶滅計画は、ユダヤ人のみならず、ロマ、同性愛者、共産主義者、売春婦、ドイツ人と結婚した外国人女性、反体制派として起訴されたドイツ人女性が対象とされ、ヒムラー指揮下の親衛隊将校アドルフ・アイヒマンが実行にあたっていた。
ベルナドッテ伯はヒムラーとの会談を画策し、3度にわたる会談を実現した。交渉は難航したが、デンマーク人とノルウェー人の囚人をスウェーデン赤十字の保護下に置けるよう一か所の収容所に集めることに同意させるなど、少しづつ譲歩を獲得していった。
ヒムラーは、1944年までに、ドイツの敗北を予感するようになっていた。ベルナドッテ伯は、ヒムラーの弱みに付け入ることで、ヒムラーが連合軍に絶滅収容所の証拠が発見されないように焼却炉の破壊や生き残ったユダヤ人を皆殺しにする計画を未然に防ぐ決意を固めた。彼はヒムラーに対して、ドイツが連合軍に敗北した際に自身をアドルフ・ヒトラー総統よりも良く見せる工夫をすべきだと説得を試みた。
しかし、ヒムラーはベルナドッテ伯との協力関係が知られればヒトラーの逆鱗に触れることを恐れており、ベルナドッテ伯に対する譲歩は遅々として進まなかった。
結局、ヒムラーは譲歩の第一弾として、1000人のユダヤ人を含む約7500人の女性の囚人をラーフェンスブリュック強制収容所から解放することに同意した。ヒムラーは、スウェーデン赤十字社のバスが強制収容所の入り口までくることを認めたのだ。ベルナドッテ伯は、ソ連軍が収容所に先に到着すれば女性たちが凌辱されることを恐れ、急いで救出作戦を進めていった。その後もあらゆる手段を講じて、終戦までにさらに30000人の救出に成功している。
ヒムラーはベルナドッテ伯との最後の会談で、ある取引をもちかけた。内容は、もしベルナドッテ伯がスウェーデン政府を通じて連合軍最高司令官のドワイト・アイゼンハワー将軍に対して、「ドイツはソ連の前進を食い止める協力をする用意がある」というヒムラーのメッセージを伝えるならば、すべての強制収容所の囚人を解放するというものであった。
ベルナドッテ伯にとってヒムラーの提案を本国政府に伝えること自体、なんのリスクを伴うものでもなかったが、この機会を利用してヒムラーからさらなる譲歩を引き出すことに成功した。デンマークとノルウェーに駐留していたドイツ軍の降伏を認めさせたのである。
エムリンク氏の伝記には、その際、ベルナデット伯が発揮した行動力、狡猾さ、説得力の強さが余すところなく描写されている。こうした情熱は戦後に国連に請われて調整官としてパレスチナに赴任した際にも発揮された。しかし、ベルナドッテ伯は、エルサレムをイスラエルの首都であると当時に新生パレスチナの首都とすべきという考えを支持したために、武装シオニストの過激派分子の標的となり殺害されてしまった。この事件は、20世紀における大いなる運命の皮肉の1つに数えられている。後にイスラエルの首相をつとめたイツハク・シャミル氏は、ベルナドッテ暗殺を立案した人物だった。
ベルナドッテ伯は享年54歳だった。彼が襲撃を生き延びていたらどのような功績を残しただろうかについては、推測することしかできない。恐らく、念願だった2国家共存解決案をイスラエルに受け入れされるべく説得工作を試みただろう。ベルナドッテ伯の意志の力は伝説的なものであった。(原文へ)
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