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|沖縄|世界に響く平和への想い

【IDN東京=ラメシュ・ジャウラ】

ここドイツのベルリンに暮らしていると、世界を欧州の視点から捉えがちである。それは第二次世界大戦の教訓についても同じで、無意識に欧州の過去65年の経験のみに焦点を当ててしまいがちなのだ。しかし東アジアを訪れるとこうした視点を調整できるのみならず、歴史に対する新たな洞察を深めることができる。中でも日本は、下からの変革のプロセスを経験してきた顕著な事例である。 

この変革の原動力となったのは、凄惨な沖縄戦広島長崎への原爆投下で被った拭いきれない人々の苦悩を、人種・信条・肌の色、国籍を超えた力強い平和運動へと変革してきた日本の市民社会である。

 こうした変革に取り組んできた主な市民社会組織に、仏教系NGOで、池田大作氏の名前とともに有名となった創価学会がある。池田氏は1947年に入会し、彼の師で、戦時中の政府の方針に反対し迫害・投獄を経験した戸田城聖第2代会長の死から2年経過した1960年5月、創価学会会長に就任した。 

Daisaku Ikeda/ Photo Credit: Seikyo Shimbun
Daisaku Ikeda/ Photo Credit: Seikyo Shimbun

池田氏は戦後の混乱期に戸田氏と出会った。当時戸田氏は、創価学会の再建に取り組んでいる最中であった。創価学会は、1930年、戸田氏と同じく教育者である牧口常三郎氏(初代会長)によって創立されたが、戦時中に軍国主義政府の弾圧を受け壊滅状態に追いやられた。戸田氏は一人の人間の無限の可能性に焦点をあてる日蓮仏教の哲学こそが日本に社会変革をもたらす鍵となると強く確信していた。 

池田氏が創価学会の会長に就任して最初に手掛けた取り組みの一つが、世界各地に在住する会員間のより頻繁な交流を促す国際的なネットワークの構築であった。池田氏は、会長就任後最初の4年間で、南北アメリカ、欧州、アジア、中東、オセアニアを歴訪し、今日192カ国・地域に1200万人の会員を有する海外組織の基礎作りに乗り出した。 

こうした流れを背景に、1975年1月26日、51カ国・地域から創価学会会員の代表がグアム島に集い、創価学会インタナショナル(SGI)が発足、池田氏がSGI会長に就任した。グアム島は、第二次世界大戦で有数の血なまぐさい戦場となった地であるが、この新たな平和運動を立ち上げる会合の地として、あえて象徴的に選ばれたのである。 

以来、SGIは90カ国・地域に現地法人・関連組織を持つ世界的なネットワークへと発展していった。各地のSGIは、それぞれの社会において、日蓮仏教の実践と哲学の研鑽に加えて、平和・文化・教育の分野で多彩な運動を繰り広げている。またSGIは、平和の文化の構築、核兵器廃絶、持続可能な開発、人権等をテーマとした大規模な展示会を世界各地で開催してきている。 

創価学会青年部は、日本内外における平和活動の推進に重要な役割を果たしている。こうした青年達が連携を図るための重要なプラットフォームに、広島、長崎、沖縄で毎年開催される青年平和連絡協議会(広島・長崎・沖縄3県サミット)がある。青年達はここで平和を推進していくための適切な方法や手段について協議している。具体的には、平和教育に関する展示や、講演会、世論調査に加えて、反戦出版物の発行や、被爆者や戦争経験者の証言を映像に記録する活動等が取り上げられてきた。 

創価学会青年平和会議(YPC)と同女性平和文化会議(YWPCC)は、若者たちに素晴らしい活躍の場を提供している。私が訪れた広島、東京、沖縄で両組織のメンバーに出会えば、誰もがこうした青年男女が言行共に平和運動に情熱と不屈の精神で取り組んでいる姿に感銘を受けるだろう。 

こうした青年たちの平和運動は、太平洋戦争時におけるかつての日本の敵国との間に橋を架けるべく、確固たる信念で取り組む池田SGI会長の行動によって、さらに強固なものとなっている。1968年9月8日、池田氏は、そうした思いから創価学会学生部約20,000人を前にした演説の中で、日中国交正常化を呼びかけ、その実現に向けた具体的な提言を行った。 

この背景には、池田氏の長兄である喜一氏が戦争に召集され、その後、続いて他の3人の兄も召集されたという、自身の体験があった。喜一氏は戦死。亡くなる前に長兄が語った、中国人民に対する日本軍の扱いが酷すぎるとの言葉は、絶えず池田氏の胸に残っていた。 

 Portrait of Chinese Premier Zhou Enlai (1898-1976)/ By unknown author, Public Domain
Portrait of Chinese Premier Zhou Enlai (1898-1976)/ By unknown author, Public Domain

当時、日本国内では依然として多くの人々が中華人民共和国を敵国と認識しており、同国は国際社会においても孤立を深めている時期であった。こうした中、池田氏の提言は批判に晒されたが、一方で、中国の周恩来国務総理(首相)を含む、両国の関係修復に関心を持っていた日中両国の人々からの注目を浴びた。 

また池田氏は、1970年代になると各国政治指導者との対話を開始した。当時は米ソ超大国間の緊張が高まり、人類絶滅をもたらす核戦争の脅威が迫っていた時期である。池田氏は、こうした閉塞状況を打開し、戦争勃発を回避するための対話のチャンネルを開くべく、1974年から75年にかけて中国、ソ連、米国を順次訪問し、周恩来中国首相、アレクセイ・コスイギンソ連首相ヘンリー・キッシンジャー米国務長官と会談した。 

仏教指導者によるこのような活動はユニークなものであるが、ドイツの有名な社会民主党党首ヴィリー・ブラント氏が、西ドイツの外相、首相として推進した和解政策を髣髴とさせるものである。ブラント氏の和解政策は、かつての侵略国でホロコーストの加害国であるドイツと被害国の間の二国間関係に雪解けをもたらしたのみならず、1989年のベルリンの壁崩壊とそれに続いた2つのドイツ国家の平和的統一へと続く道筋を切り開いた。 

池田氏の平和哲学における顕著な特徴は、対話を通じて共生の道を切り開くというものである。池田氏は、世界中の文化、政治、教育、芸術等、各界の有識者と会い意見交換を行ってきた。対談集が発刊されている有識者の中には、英国の歴史家アーノルド・トインビー博士ミハイル・ゴルバチョフ元ソ連大統領、神学者のハーベイ・J・コックス教授、未来学者のヘーゼル・ヘンダーソン博士、ブラジルの人権擁護者アウストレジェジロ・デ・アタイデ氏、中国文学の巨人金庸氏、インドネシアのイスラム教指導者アブドゥルラフマン・ワヒド氏がいる。 

1983年、池田氏は平和提言の執筆を開始し、以来今日に至るまで、SGI発足の記念日に当たる1月26日に毎年発表している。これらの提言は、人類が直面している諸課題についての見解を示すものであり、同時に仏教哲学に根差した解決策や対応策を提案するものである。こうした提言の中には、国際連合の機能強化のための具体的な行動指針も述べられており、その中で池田氏は、世界平和構築に欠かせない存在として、国連が市民社会をより積極的に関与させる能力を強化するよう提案している。また平和提言はしばしば、国際問題における膠着状態を打開するため、対話が果たしている決定的な重要性を例示している。 

ウェブサイト上にある池田氏の経歴によると、彼の平和への取り組みの原点は、戦時中の自身の経験に加えて、師である創価学会第2代会長戸田城聖氏が、亡くなる1年前の1957年に発表した「原水爆禁止宣言」である。 

戸田氏は核兵器を悪そのものとして厳しく批判するとともに、核兵器の使用は、イデオロギー、国籍或いは民族的アイデンティティーの観点からではなく、「人間性」と奪うことのできない「人類の生存権」という普遍的な次元から糾弾されなければならないと主張した。 

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創価学会沖縄研修道場/ Photo by Katsuhiro Asagiri

創価学会沖縄研修道場と世界平和の碑は、創価大学民音音楽博物館財団法人民主音楽協会とともに、人間の日々の生活に強い影響を与え、地に足の着いた教えである仏教の卓越した精神性を具体化した施設である。 
 
 桃原正義氏は、「今日の創価学会沖縄研修道場は、1977年、米国空軍のメースB核ミサイル基地跡地に建てられたのです」と目を輝かせて語ってくれた。(メースBは核弾頭搭載が可能な戦術ミサイルで1960年代、沖縄のいくつかの基地に配備されていた) 

(敷地内に取り壊されずに残っていた)ミサイル発射台は、1984年に「世界平和の碑」へと生まれ変わった。巨大なコンクリート構造物(100メートル×9メートル)は厚さ1.5メートルの外壁に覆われており、かつては中国を標的にした核ミサイルの発射台として使われていた。「池田SGI会長の提案で、ミサイル発射台には手を加えず、戦争の恐ろしさを永遠に語り継ぐ記念碑としてそのまま残すことにしたのです」と桃原氏は付け加えた。創価学会沖縄研修道場には、設立以来、中国人を含む外国人が訪れている。 

また沖縄には、1945年の沖縄戦に准看護婦として動員された194名の女学生と17名の教師達を祈念して建てられた「ひめゆり平和祈念資料館」と「ひめゆりの塔」がある。 

私はガイドから、2つの女学校(沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校)の生徒たちが共に動員され「ひめゆり学徒隊(戦後の呼称)」として戦場に送り出されたというありのままの事実だけでは語りつくせない、胸が張り裂けそうな悲惨な話を耳にした。彼女たちの中で、「鉄の暴風」として知られる修羅場から生還したのは僅かに5名のみだった。 

「ひめゆり平和祈念資料館」には戦前・戦中における女学生たちの等身大の視点が紹介されている。館内には沖縄戦で犠牲となった多くの女学生たちの写真や所持品の他に、彼女たちが体験した恐ろしい戦場の様子の再現や戦争の悲惨さを訴える生存者の証言が展示されている。 

沖縄戦において連合軍は、圧倒的な数の船舶や装甲車両を投入し、莫大な砲弾で熾烈な攻撃を加えたことから、その様子は「鉄の暴風」と例えられている。こうした中、10万人以上の民間人が殺害、負傷、あるいは自殺したと報じられている。また戦争中、多くの民間人が米軍の捕虜になったり降伏することがないよう、日本軍により自殺を命令されたという。 

2010年9月に沖縄を訪れた際、沖縄戦の目撃者にこの点を確認したところ、当時民間人は軍から自身や家族の自決用に手榴弾を渡されたとの証言を得た。また、軍当局のプロパガンダ(宣伝)により多くの民間人が崖から身を投げた。このような事例は「集団自決」と呼ばれた。こうして沖縄戦の結果、島民人口の実に4分の1近くが命を失った。 

沖縄戦の犠牲者の名前を刻んだ非宗教的な戦争記念碑「平和の礎」を訪問したが、ここでさらに洞察を深めることができた。「平和の礎」は沖縄戦最後の戦いが行われた摩文仁の地に、沖縄戦と終戦50周年を記念して1995年に建てられた沖縄戦跡国定公園の中でも重要な記念碑の一つである。 

たしかに戦場で亡くなった人々の名前を刻んで慰霊するという点では、平和の礎もワシントンDCのベトナム戦争戦没者慰霊碑(戦没兵士の名前が刻まれている)と似ている。しかしガイドから、平和の礎では、沖縄戦で亡くなった全ての人々の名前を、国籍や軍人、民間人の区別なく碑に刻んでいくというユニークな取り組みを行っていることを知った。2010年6月23日現在、慰霊碑は太平洋岸の近くに花崗岩で屏風の形状に建立された記念碑に、240,931人の名前が刻まれている。 

私は池田大作氏が数十年に及ぶ自らの軌跡を小説に描いた大著『新・人間革命』の中に、沖縄の辿った苦難の道を記しているのを知った。 

池田氏は記している。「沖縄は、あの大戦では、日本本土の『捨て石』とされ、日本で唯一、地上戦が行われ、住民の約四分の一が死んだ悲劇の島である」「さらに、戦後も、アメリカの施政権下に置かれ、基地の島となってきた。これもまた、かたちを変えた、本土の『捨て石』であったといってよい。村によっては、基地の占める面積は、九割近いところもあった。しかも、アメリカの極東戦略のうえで、『太平洋の要石』とされ、中距離弾道ミサイルのメースB基地も四カ所に設けられ、また、原子力潜水艦の補給基地としても、重要視されていた」 

「基地周辺の住民は、米軍のジェット機や輸送機の墜落、演習による自然破壊等々に苦しめられ続けてきたのである」 

池田会長の大著『人間革命』は次の言葉で始まる。「戦争ほど、残酷なものはない。戦争ほど、悲惨なものはない。…愚かな指導者たちに、ひきいられた国民もまた、まことにあわれである。」この物語の主題は、「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」というものであり、かつての悲惨な戦場を真に幸福な社会に転ずる著者の決意が込められている。(原文へ)取材記事の映像
  
翻訳=INPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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|軍縮|被爆地からの平和のシグナル

世界政治フォーラムを取材

食料価格バブルを引き起こす投機活動

【アックスブリッジ(カナダ)IPS=スティーブン・リーヒ

投資家たちが食糧への投機で数十億ドルにのぼる利益を手にする一方、「食料バブル」は記録的な食料価格の高騰を引き起こし、数百万人が飢え、多くの国々が政情不安に陥った。―世界の専門家たちはこういう見方で一致しつつある。 

ウォールストリート街の投資会社や銀行は、ロンドンその他欧州諸国の類似機関とともに、ドットコムバブル、証券バブル、そして最近の米国、英国の住宅バブルを引き起こした責任がある。しかもこれらの機関は、それぞれのバブルが崩壊する前に、膨大な利益と自らに配分するボーナスを抜き去っていった。

そして投機資本が次に狙ったのが現物市場である。その結果はどうなっただろうか?国連食糧農業機関(FAO)によれば、昨年6月から12月にかけて、世界の食糧供給量と需要に関して大きな変動がなかったにも関わらず、食料価格は平均で32%もあがったという。 

専門家達は、世界の小麦貯蔵量が安定していたにも関わらず、昨年6月から12月の間に小麦の市場価格が70%も跳ね上がった背景には、食料への投機しか考えられないと述べている。 

オックスファムカナダのロバート・フォックス氏は、現在の食糧価格高騰で約10億人が飢餓に苦しむとの見通しが出ている点について、「世界は食糧不足の状態に陥っている訳ではないのです。にも関わらず、食糧価格が世界の最も貧しい人々の手に届かないようなレベルに高騰しているのです。」と語った。 

「今や飢餓は食糧生産の問題ではなく、所得レベルの問題となっているのです。この状況は、食料価格が高騰し暴動を引き起こした2007~08年ごろからまったく変わっていません。従って今日再び、記録的な食糧高騰が、エジプト、アルジェリア、ヨルダンなど世界各地で暴動を引き起こしている現状は驚くには値しません。」とフォックス氏はIPSの取材に応じて語った。 

食の権利に関する国連特別報告者のオリビエ・デ・シューター氏は、「かつては天候が食料価格を決定する大きな要素でしたが、もはや事態は変わっています。米国で農産部の先物取引に関する規制が緩和されたため、数年前から穀物市場に数兆ドルにものぼる巨額の投機マネーがつぎ込まれたのです。」と報告している。 

デ・シューター氏は、2007~08年の食糧価格危機を分析した報告書の中で、米国で2000年に商品先物近代化法が成立し、食料を先物取引の対象とすることが可能になった背景を記している。 

かつての先物取引はこのようなものだった。たとえば、農家のブラウン氏が、1月にカーギルのような巨大企業に2011年収穫の穀物を1トン当たり100ドルで売る先物契約を結んだとする。秋になれば、カーギルはその穀物を製パン会社や家畜を肥育する飼養会社に先方との合意価格で売却する。このような「先物契約」は、生産者と穀物商社の双方を極端な価格変動からある程度守る役割を果たしていた。 

しかし、2000年に米国で商品先物近代化法が成立した後は、カーギルはブラウン氏との「先物契約」自体を1トン当たり120ドルでウォールストリート街の投資銀行に売ることが可能になった。そしてその投資銀行が今度はそれを150ドルで欧州の投資会社に売り、それがまた米国の年金基金に175ドルで売却される…という具合に連鎖が続いていく。こうして「デリバティブス」「インデックスファンド」「ヘッジ」「スワップ」といった複雑な金融商品とともに、食糧は高い収益を上げる投機バブルの一部となってしまったのである。 

デ・シューター氏は昨年9月の報告の中で、「深刻な欠陥を抱えた世界の金融システムが2007~08年に起こった食糧危機の主な原因となった。」と結論付けている。 

「穀物市場の価格変動から得られる短期的な利益を求めて投機資本が次々と参入したのです。」と農業経済学者のジャヤティ・ゴーシュ氏は2007~08年の食糧価格高騰に関する最近の分析報告書の中で記している。 

「米国の住宅バブル崩壊で、大手投資家、とりわけヘッジファンドやペンションファンドといった機関投資家や銀行までもが新たな利益を求めて投資先を探していたのです。」とニューデリーにあるジャワハルラール・ネルー大学のゴーシュ教授はジャーナル「農業改革」の中で述べている。 

「食糧投機は注目の的となり、規制緩和を追い風に取引額は2002年の7700億ドルが、2007年には7兆ドルにまで急拡大しました。そして金融機関が米国の住宅市場やその他の市場で被った損失を補うため2008年前半に利益を引き上げるまで、食料価格は高騰し続けたのです。」とゴーシュ教授は語った。その後2008年の秋までには食料価格は安定を取り戻したが、それでも食糧投機バブル前と比べるとかなり高値のままであった。 

「2008年12月現在、FAOは33カ国が厳しい或いはある程度厳しい食糧危機に見舞われており、その内17か国については同年10月の状況よりも事態が悪化していると見積もりました。」と、ゴーシュ教授は語った。 

2008年の世界における穀物生産量は記録的な大豊作であった。 

そして今、2010年中旬に始まった食糧価格バブルの最中にある。「全く対応策が打たれていない現状では、今の事態は驚くに値しない。」とゴーシュ教授は記している。このような投機的な金融活動を防止したり少なくとも制限したり規則は未だに存在していない。2010~11年の食料価格高騰は、昨夏のロシアの干ばつと、インド・中国における需要の急増が原因だとされてきた。しかし、FAOが発表した統計によれば、中印による食料消費量は、むしろ減少していたのが実態である。「その理由は主に、(価格高騰のため)多くの人々が十分な食料を購入する余裕がなかったのです。また、インドの場合、穀物に代えて野菜や酪農製品をより多く摂取する食生活の変化があったことも背景にあります。」とゴーシュ教授は説明した。 

ロシアの旱魃は最近の投機バブルを誘発した。ロシアはたしかにこの旱魃で収穫高が33%激減したが、実はその損失分を埋めるに十分な小麦を備蓄していた。ロシア政府は、この備蓄小麦を放出かわりに多国籍穀物商社の説得を受入れて小麦禁輸措置に踏み切ったのである。 

「その結果、こうした穀物商社はエジプト、バングラデシュ、その他の国々への低価格での穀物売買契約をキャンセルし、ロシア国内において高騰した市場価格で小麦を販売することができたのです。」と、GRAIN(小規模農家を支援する国際NPO)のデヴリン・キューエック氏は言う。 

「今では大企業がロシアの農業の大半を支配しているのです(ロシアではグレンコア、カーギル等の外資系の民間穀物トレーダーとロシア資本の民間穀物トレーダーが穀物市場をほぼ完全に支配しており、そこに国家の直接的な影響力は非常に弱くなっている:IPSJ)。」と取材に応じたキューエック氏は語った。 

GRAINは、ロシア内外の投資機関が巨大な「農業企業グループ」をいかにロシア国内、とりわけ南部穀倉ベルト地帯(こうした農業企業グループが穀物生産の40~50%を支配)に形成しているかを報告している。 

ロシアは小麦の主要輸出国であるが、スイスの商品取引商社グレンコアがロシア産小麦粉の大半を輸出しているGRAINの調査が明らかにしたところによると、グレンコア社はロビー活動を通じてロシア政府の小麦粉禁輸決定を引き出し、それによってペナルティーを受けることなく低価格で設定されていた(小麦粉輸出の)契約書をキャンセルすることに成功したという。 

ロシア政府はまた、穀物禁輸措置にともなう「ダメージ」を緩和するため、穀物農家に対して総額10億ドル相当の低利融資や補助金を拠出することを約束した。 

「こうして、エジプトのような国々は欺かれてひどい目にあい、穀物商社は大儲けをしたのです。」とキューエック氏は語った。(原文へ) 

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩 

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国連、中東各国による弾圧を非難

【国連IPS=タリフ・ディーン

軍や警察による民衆デモの弾圧がバーレーン、イエメン、リビア、イラク、イランと広がる中、通常は控えめな国連の潘基文事務総長が、抑圧的な権威主義体制に対する批判を強めている。とりわけ、ジャーナリストに対する攻撃を強く非難している。

加盟国によって支えられている組織の常として、国連事務総長はたいてい加盟国の政治的過ちへの非難を避ける傾向にある。

そのような慣行は、潘事務総長が、コートジボワールのバグボ大統領を非難することで破られた。ローラン・バボ氏は、昨年11月の大統領選挙の結果を認めず、大統領職をアラサン・ワタラ氏に譲ることを拒否している。

 国連人権高等弁務官のナビ・ピレイ氏もまた、平和的なデモに対する弾圧をやめるように、中東・北アフリカ諸国の政府に呼びかけている。

NGOも非難の輪に加わっている。アムネスティ・インターナショナルもそのひとつだ。同団体の中東・北アフリカ問題担当マルコム・スマート氏は、バーレーンで政府の弾圧によりデモ隊に死者が出ていることに関連して、中立的な調査を行うべきだと要求している。

また、イエメンでは、AP通信、アルジャジーラ、アルアラビアなどのメディア関係者も暴行を受けている。

潘基文事務総長は、ムバラク大統領が追放されたエジプトに関して、選挙支援をすでに申し出ている。

潘氏は言う。「もう一度言おう。状況は、抑圧ではなく、大胆な改革を求めている。持続可能な進歩は、人びとが力を持ち、政府が民衆の声に応え、成長の果実が社会にあまねく行き渡るようなところにおいて、根付くことができるだろう」。

北アフリカ・中東での民衆抑圧に対する国連の態度について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩

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|UAE-トルコ|リビア国民に対する緊急人道援助を実施

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【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)のアブドッラー・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン外相は72月25日、「UAEはトルコ政府と協力してリビアの民衆に対する緊急援助を行う。」と語った。

同外相はUAEを公式訪問中のアフメット・ダーヴトオールトルコ外相と開いた共同記者会見の席で、緊急援助のためのUAE機2機を26日にトルコ経由でリビアに派遣する予定であることを発表した。

 ダーヴトオールトルコ外相は、「両国は人道的観点から緊急援助物資がリビアの民衆に届くようあらゆる手段を尽くすつもりだ。」と語った。

また両国外相は、「UAE・トルコ両国はリビアの民衆を支持しており、彼らにより良い未来が訪れることを願っている。両国政府はそのような未来が実現すれば喜びを共に分かち合うだろう。」と語った。

さらに両外相は、リビアで行われている暴力・殺人行為及びインフラ破壊を厳しく糾弾するとともに、リビア政府に対して直ちに暴力の行使を控え流血の時代を終結させるよう呼びかけた。さらに今回の内乱で命を落とした人々の遺族に心からの哀悼の意を表するとともに、怪我をした人々の早期の回復を祈る旨の声明を出した。

またアブドラ・ダーヴトオール両外相は、25日、アブダビにある修復工事が完了した在UAEトルコ大使館の開館式に出席した。アブドラ・ダーヴトオール外相は挨拶の中で、「UAEはトルコにとって大変親しい国である。近年両国間の親善関係は急速に進展してきており、トルコはUAEを中東地域において戦略的に最も重要な同盟国とみなしている。」と語った。
 
翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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|軍縮|核保有国のダブル・スタンダード(レイ・アチソン「リーチング・クリティカル・ウィル」代表)

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【IPSコラム=レイ・アチソン】

2月5日、新しい戦略兵器削減条約(START)が発効した。新STARTは、いかなる時点においても核弾頭の配備数を1550発までに制限する米露間の協定である(旧協定では上限が1700~2200発)。しかし、協定では核弾頭保有数までは制限していない。現在、米国が8500発、ロシアが1万1000発保有しているとみられている。

 2010年5月、ロシアと米国を含む、核不拡散条約(NPT)の全加盟国である189ヶ国が核軍縮と不拡散を進める行動計画に合意した。同計画の「行動1」は、「NPTおよび『核兵器のない世界』という目的に完全に合致した政策を追求すること」を加盟国に義務づけている。2005年と2010年には、NPT上の5つの核兵器保有国(中国、フランス、ロシア、英国、米国―これらは国連安全保障理事会の常任理事国でもある)が、核兵器の完全廃棄を達成するという「明確な約束」をおこなった。軍縮義務は、NPT第6条に埋め込まれた、条約の主要部分である。第6条はまた、核軍拡競争の終了に向けて交渉を行うよう核兵器保有国に義務づけることによって、核兵器の近代化や投資を終わらせることを義務づけている。

こうした法的義務があるにもかかわらず、すべての核兵器保有国は、自国の核兵器および関連施設を今後数十年で近代化する計画に着手するか、あるいはそうした計画を持っている。

米国の既存核弾頭の近代化が進行中だが、その目的は、弾頭の耐用年数の延長と、場合によっては新規の能力を追加することにある。核兵器の部品を組み立てるための新規インフラへの投資を増やすことも続けられている。ロシア政府も、核戦力の三本柱である大陸間弾道ミサイル、潜水艦搭載ミサイル、長距離爆撃機を強化する意向を明らかにしている。

2010年、フランス海軍は、M-51とよばれる潜水艦搭載弾道ミサイルを配備した。2010年代末には、新型弾道が装着されるものとみられる。英国はトライデント・システム近代化の計画を延期したが、計画事態を廃棄したわけではない。中国は新型の移動ミサイルと新しいクラスの弾道ミサイル搭載潜水艦を配備している。核弾頭の数も増やしているとされる。

NPT非加盟国に関して言えば、米国の最新の諜報報告書によると、パキスタンが最近の数年間で核戦力を強化して弾頭数を90~110発にまで伸ばし、兵器用核分裂物質の生産能力を強化しようとしている。NGOが2010年に推定したところでは、インドは攻撃的核戦力の三本柱を強化しつづけているだけではなく、弾道ミサイル、弾道ミサイル搭載原子力潜水艦、さらにおそらくは核巡航ミサイルまでも導入する計画を持っている。イスラエルの計画についてはわからないことが多い。

こうした核兵器の強化が国際安全保障と核不拡散体制の安定性にもたらす意味合いには、非常に大きなものがある。2010年のNPT運用検討会議では、核兵器を保有しない大多数の加盟国が、核保有国のダブル・スタンダードを批判した。つまり、核兵器保有国が核不拡散を抑制しようとする一方で、自らの核兵器は強化しようとの姿勢のことである。多くの核兵器保有国の指導者らが「核兵器なき世界」を追求するといまや口にしはじめたものの、これらの国の予算や政策をみれば、その約束が裏切られているのは明らかである。こうした状況が非核兵器保有国の中に苛立ちと冷笑をうみ、NPT体制の信頼性に傷をつけているのである。

ノルウェー大使はこのようの警告している。「核兵器なき世界というものをたんなるビジョンに留めておくことはできない。それは、我々NPT加盟国が達成しなくてはならない目標なのである」。核拡散を防止するために核技術にさらに制限をかけようとする西側諸国は、そうした方向性を押し付けることができなかった。なぜなら、非核兵器保有国の大部分は自国の活動に制約がかけられることを拒み、核兵器保有国は核兵器保有国で自国兵器への投資を続け、完全軍縮へのプロセスとスケジュールに合意することを拒んだからである。

核兵器を近代化する計画は、核軍縮実現に向けた短期的見通しに暗い影を投げかけている。一部の政府と大多数の市民社会は核兵器禁止条約(NWC)の交渉を開始させるべく努力を続けているが、核保有国は多国間軍縮協議に加わる用意が当面なさそうである。しかし、核戦争の危機を取り除こうと思うのならば、永続的な核兵器の脅威を生み出すことをやめるべきである。それが、プロセスの最後ではなく、まず最初に考えられなくてはならないことである。(スペイン語

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

※レイ・アチソン氏は、「リーチング・クリティカル・ウィル」の代表。同プロジェクトは、核軍縮を唱道し核兵器問題の監視を続ける婦人国際平和自由連盟(WILPF)によるもの。アチソン氏は、同プロジェクトによる出版物の編集、および、NGOによる論集『軍備管理を超えて―核軍縮への選択と挑戦』の編集にも携わった。

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│米国・イラン│非現実的目標で失速する核問題協議

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【ニューヨークIPS=アリ・ガリブ】

1月末にイスタンブールで行われた協議は、イランと米国および西欧諸国との間の緊張を解く突破口になるどころか、その入り口にすら届かなかった。この30年間の米国・イラン関係を見てきた者にとっては、驚くに値しないだろう。

米国は、国連安全保障理事会常任理事国(米国、ロシア、中国、英国、フランス)とドイツからなる「P5+1」の一部として、イランの核開発に関するこの協議に参加していた。米国および西欧では、イランは核兵器開発を目指していると広く考えられているが、イラン側は単なる平和的な医療・エネルギー目的であると主張している。

 協議の後半はエジプトでの危機によって影が薄くなってしまったとはいえ、協議で何の動きも生み出せなかったことで、米国の専門家らは、策略に富み頑固なイランをどう取り扱ってよいかわからなくなってしまった。

対イラン協議に関する米国の見方は、イランの能力から、米国による提案や期待の内容に至るまで、非現実的な想定ばかりであるという点で、多くの専門家は一致している。
 
 ジョージ・ワシントン大学のマーク・リンチ氏は、「交渉の終わりは見えません。私たちの考えるような確固としたものは手に入らないでしょう。現在のオプションの多くが、こうした誤った希望を掲げています。」「問題を解決するはずだとされているオプションのどれ一つとして、実際には機能しないでしょう。単にまた別の戦略的な言葉で置き換えられる程度のことです」と語った。

交渉があまりに進展しないので、このままではイランが本当に核兵器開発に向かうのではないかという危惧も出てきている。もしこれが本当なら、イランの核兵器化阻止のために国際社会ができることはほとんどないだろう。

ワシントンDCに本拠を置く軍備管理協会(ACA)の不拡散専門家グレッグ・ティールマン氏は、ワシントンで開かれた会議において、「もしイランが核兵器を本気で開発し配備しようとするのならば、万難を排してそうするでしょう。」と語った。

米国は、同盟国や国際機関の支援を得て、いわゆる「二重トラック」方式でイランの核開発を阻止しようとしている。この戦略の基本は、核開発放棄に対して利益でもって報いる関与政策と、核開発に対して高い国際的コストを示す懲罰的措置としての制裁の二つである。

しかしティールマン氏は、「これらのオプションでイランを核放棄に導けるかもしれないが、もしイランの指導部が本気になったならば、誘惑を無視し、コストを食い尽くし、制裁は無効になるだろう。」と指摘した。

またティールマン氏は、「右派が提起し政策サークルで盛んに議論されている軍事攻撃というオプションですら、完全にイランの核開発を止めることはできないだろう。」「一部で主張されている空爆ですら、あくまで核開発の速度を緩めることができるだけで、終わらせることはできません。イランを侵略し占領でもしないかぎり、イランによる核兵器取得の企図を完全に終結させることはできないでしょう。」と語った。

さらにティールマン氏は、「イランに『ウラン濃縮停止』を迫るよりも―それは、イランの核開発の進展度に関係なくずっと言われてきた非現実的な目標である―イランの核開発の動きを密に監視することに焦点を移した方がいい。(イランの核開発を監視するのに)必要な透明性の問題に戦略的な焦点を移すべきだ。」と語った。

国家安全保障ネットワーク(NSN)とアメリカの進歩センター(CAP)が共催した同じ会議において、スティムソン・センターのバリー・ブレックマン共同設立者(核軍縮専門特別フェロー)は、「米国の二重トラック政策はバランスが取れていない」と論じた。

「米国は政策のバランスを見直す必要がある。この2年間、強制の側面ではよくやっているが、インセンティブを与える方面ももっと強調されるべきだ。」

ブレックマン氏は、この問題に関してスティムソン・センターから出た報告書の共著者であるが、同報告書は、米国は核問題を超えてイランとの関与政策を強めるべきだと主張している。ブレックマン氏は「これがもっとも緊急の問題」であるという。

またブレックマン氏は、世界中の米国外交官がイランの外交官と『通常の関係』を持つことを認められていないのは『愚か』だと断じ、たとえば麻薬密輸のように、共通の利害のある領域に関して二国間関係を深めることを求めた。そして、「もっと現実的なアプローチ、もっと寛容なアプローチを通じて、外交にチャンスを与えるべきだ。」と語った。

実際、イランは制裁によっていくらかはふらついており、中東での影響力拡大には歯止めがかかっている。

「イランの覇権強化は、2005年、06年頃とは違っている。」とリンチ氏は同じフォーラムで語った。

リンチ氏によれば、イランは最近のアラブ世界での政情不安を利用しようとしているが、それに影響を与えることができずにいるという。「アルジャジーラの視聴者は権威主義体制に対する抗議活動に深いシンパシーを抱いています。アラブの民衆にしてみれば、(2009年のイラン大統領選挙抗議デモ「緑の革命」に際して、イラン政府が国内反体制派を弾圧したことで)イランの中東でのソフトパワーが削がれることになってしまったのです。」

イランの中東での影響力が低下する中、インセンティブを与える方がよりイラン指導層に訴えかけるかもしれない。しかし、リンチ氏は、米国は自らの提案の信頼性をより高めるためにより多くのことをせねばならないという。

リンチ氏は、対イラン制裁と、レバノンやイスラエル・パレスチナ紛争のような問題に関する米国の立場とを結び付けている米国の法律について言及した。こうした法律の存在のために、イランとの協議において制裁を緩和することが難しくなっているのだという。「もし交渉力を上げようとするのならば、約束はきちんと実行するという確実なシグナルを送れるようにしておかねばならない。」とリンチ氏は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩


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|アフリカ民衆蜂起|アフリカの独裁者クラブからメンバーが脱落した(ロセベル・カグミレ)

アフリカの独裁者クラブからメンバーが脱落した(ロセベル・カグミレ)

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【カンパラIPS=ロセベル・カグミレ】

ウガンダの大半の人々は2つのカテゴリーに分類できる-つまり現政権を恐れる人々のグループと現政権後の生活を恐れる人々のグループである。

現政権を恐れるグループの人々の脳裏には、過去に若者がデモを行った際、首都カンパラに現れた重装備の兵士達の記憶が焼き付いており、デモを行っても暴力で鎮圧されるだろうと考えている。一方現政権後の生活を恐れる人々は、誰が現在の指導者に代わって国政を運営できるか、想像さえできない状況である。

完全に国内の民衆の力で達成したチュニジアの革命の余波は、その後アラブ世界全体に波及した。アフリカの人々はチュニジア、エジプト、アルジェリア、イエメン、スーダンで起こった抗議活動の経緯を注意深く見守った。ウガンダでは多くの人々が、全く信じられないという様子で、テレビ(アルジャジーラ等の国際通信社の放送が受信が可能)に映る諸外国のデモの様子に見入った。彼らは意を決したアフリカの人々が銃の助けもなく政権に立ち向かう姿を殆ど目にしたことがないからだ。

 ツィッターやフェイスブックには、ウガンダでも同様の民衆革命が起こりかねないとする警告やそれを期待するメッセージで持ちきりである。私は、ベンアリが政権の座を追われた際に最初のメッセージを掲示した:「アフリカの独裁者クラブからメンバーが1名脱落した、彼らは今までのありかたについてある程度考え直すことだろう。」

しかし、私はもっと具体的に書くべきだったかもしれない:「今のところ、チュニジア革命の余波を感じているのは、スーダンのオマール・バシール、エジプトのホスニ・ムバラク(既に先週辞任)、アルジェリアのアブデラズィズ・ブーテフリカ、そしてリビアの自称王の中の王ムアンマール・カダフィぐらいだろう。」

民衆蜂起の背景にあるもの

北アフリカにおける民主化デモの背景には、主に失業、貧しい生活水準、そして自由の抑圧に対する不満があった。

エジプト人口のほぼ3分の2は、ホスニ・ムバラクが政権を掌握してから生まれた世代である。北アフリカ諸国では共通して、支配者が王侯のような生活をしている一方で、失業率が高い水準のままとどまっている。またこれらの国々では、深刻な不正・腐敗が横行し中流階級は税金を払う意義を見いだせないほどである。また貧困層の生活レベルが非常に厳しい状況におかれている点も共通である。例えばチュニジアの場合、2009年現在で、清潔な水にアクセス可能な人々は農村人口の僅か1%に過ぎず、失業率は14.2%に上っていた。

こうした北アフリカの状況はウガンダにおいても多くの類似点を見いだすことができる。

ウガンダでは青年層が総人口の実に77%を占める。2008年の世界銀行の報告によると、ウガンダは世界で国民の平均年齢が最も若い国であると同時に、青年層の失業率が最も高い国であった。また2008/09年度版「アフリカ開発指標」によるとウガンダ人青年層の実に83%が失業状態であった。

アフリカ開発指標によると、ウガンダは北アフリカ諸国よりもさらに厳しい状況におかれている。地域人口2万人をカバーするソロティ紹介病院を訪問したが、産科の病床は僅か3台しかなく、薬局では頻繁に在庫切れをおこす状態であった。大半のウガンダ人は、なけなしの生活費を健康管理に充てている。

初等教育の義務化により数万人の学生が入学したが、その結果必要な施設の不足が顕在化する一方、多くの教師が何カ月も無給で働かざるを得ない状況が続いている。2009年版の世界銀行報告書によると、現状に不満な教師の平均欠勤率は週1日(出勤ノルマは週5日)にのぼり、義務教育課程に従事する教師の25%が必要なレベルに達していなかった。

マケレレ大学社会調査機関(MISR)が先月発表したレポートによると、ウガンダの学校に通う生徒数は、午前のクラスが平均94人と超過密な状況となっている。しかし政府当局が給食問題について対応できていないことから、午後のクラス、とりわけ食糧事情が不安定な地域のクラスにおいては出席率が低くなっている。

世界エイズ・結核・マラリア対策基金からウガンダ政府に寄付されたエイズ・マラリア対策費の内、160万ドル以上が横領、不正流用されたことから、ウガンダは2005年に同基金からの支援を一時停止されている。

このスキャンダルに関与した大臣がロンドンに向かう飛行機の中で私に次のように語ったことがある。「大統領は基金からのお金がどこに行ったか知っていますよ。」その後の様々な証言から、消えた資金の一部は2005年にウガンダで実施された多党制を問う国民投票に使われたことが明らかとなっている。

ヨウェリ・カグタ・ムセベニ大統領はこの25年間政権を掌握しており、今年2月の大統領選挙で再選を目指す意向である。こうした状況を考えると北アフリカの民衆蜂起はウガンダでも起こりうるだろうか?

こうした社会的背景を比較してみればウガンダの若者の中にも北アフリカの革命がナイル川を遡って南に波及してくると期待する者がいるのも理解できる。それは全く想像できないという訳ではないが、ウガンダ社会の現状をよく観察すると、ウガンダの民衆は、ムセベニ大統領や政権に対して立ち上がりそうにはない。

都市化は市民と政府との関係に大きな影響を及ぼす。アフリカの都市住民は一般的に農村部の住民より政府に大きな期待を持つ傾向にある。ウガンダの都市部住民は政府の実態を理解するようになってきており、一般的にムセベニ大統領に投票しない傾向にある。

また北アフリカ諸国の識字率は70%強と比較的高く、北アフリカ諸国は、いくつかの例外を除けばサブサハラアフリカの国々と比べて都市化が進んでいる。

北アフリカでは食料価格の高騰が民衆蜂起の背景にある大きな要因となったが、ウガンダでは人口の8割が農村部に住んでおり、食糧価格の高騰が国民の生活維持に深刻な打撃を及ぼすには至らなかった。ウガンダは肥沃な土地に恵まれており大半の人々は自身の庭や農地で収穫できるものを食している。ウガンダの農村部で育った私もそうだが、ウガンダ人は一般に政府に対していくつかのイメージを持ってはいても、その中に飢餓、サービスの失敗、政策の欠如といったものは含まれていない。

多くのウガンダ人、とりわけ老年層の人々は、常に恐怖と隣り合わせだったウガンダの血みどろの過去(イディ・アミンの独裁政治)を経験しており、トラウマを引きずっている。彼らはムセベニ大統領のみがウガンダの平和を保障できる存在だと信じているのである。ムセベニ大統領も、この点を意識して、1986年に自身がいかに政権に就き内戦を終結させかについて日々言及している。「我々は解決に向けて立ち向かう。」というムセベニのお決まりの演説は、あたかもウガンダが直面している全ての問題が反政府勢力による「サボタージュ」にあるといっているかのようである。

過去25年に亘ってムセベニ大統領はウガンダ国民が要求できる唯一のベーシックニーズである「平和」を提供してきた。

「チュニジア革命の経験から、革命は一晩で突然起こるものでないことが分かります。革命が勃発するまでには様々な出来事が積み重なり、機が熟していくのです。そして実際に民衆蜂起が発生するには勢いが必要なのです。」と、ブルッキングスドーハセンターのイブラヒム・シャーキー研究員次長は語った。

「今日、チュニジアの人々は、1984年の『パンよこせ蜂起』や隣国アルジェリアで1988年に起こったデモ(同国の一党独裁体制を終わらせ民主改革をもたらした)が今回の民衆蜂起に影響を及ぼしたことを認識している。同じくエジプトの人々も、現在の民主化要求運動に先立つ2008年4月6日の賃上げ要求デモや2007年の食糧要求デモの意義を認識している。」

サブサハラの独裁者達は枕を高くして寝ている

シャーキー氏は、「十分な教育を受けた貧困層の人々は、大半が教育を受けていない不安だらけのウガンダ人と比べて、より暴力的な抗議活動を組織し不安定な状況を引き起こすことが出来る。」と分析している。

ウガンダの十分に教育を受けた若者たちは、能力的にはチュニジア-エジプトで起こったような動きをリードすることが可能であるが、実態は政権側にいる彼らの父親たちと同様に不正にお金を取得することに躍起となっている。彼らは効果的に機能する組織というものを目の当たりにしたことがなく理解していない。また、「奪えるものは手に入れようと躍起になる」習慣が依然としてウガンダでは横行している。そして2月18日の大統領選挙を控えて巨額のお金がウガンダ全土で配られている。

また、ウガンダ政府が援助資金に大きく依存している現実が、民衆の政府に対して疑念を抱かないもう一つの理由である。

ウガンダには、「“Abo balya esente zabazungu gwe abifaakoki?(彼らは白人の金を食い物にしているのだ。どうでもいいではないか?)”」という言葉がある。アフリカの人々は、資金を政府の所有物か、或いは政府に対する西側諸国からの贈り物と未だに見做している傾向がある。アフリカ諸国で政府のアカウンタビリティ(説明責任)に対する要求が高くない背景にはこうした意識が影響している。

また北アフリカの民衆蜂起は、宗教や社会階層の違いを乗り越えて民衆の幅広い支持を集めた。しかしそれとは対照的にウガンダでは、誰もが共通の大義を探すどころか、常に互いの出身地域や部族の違いに注目する傾向にあるなど、国民の間の分裂や亀裂は至る所に見受けられる。

従って、私は今のところ、北アフリカで進行している革命がウガンダのようなサブサハラアフリカ諸国にも意義ある変革をもたらすよう希望する一方で、私の祖国ウガンダが次の民衆革命の舞台となり、ニュースに報じられる可能性については疑わしいと思っている。
 
翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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│イスラエル‐パレスチナ│リングの中では、攻撃は平和的に

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【エルサレムIPS=ピエール・クロシェンドラー】

試合開始のゴングが鳴り響く。ここは、エルサレム西部にある防弾シェルターを改装したボクシンググラブだ。パレスチナ人のボクサーがコーナーから飛び出して、リング内を駆け回り、イスラエル人の相手とパンチを交わした。

もし彼がノックアウトを取ったら、イスラエル・パレスチナ紛争への新しい形の癒しとなるのだろうか?2人はお互いの不和をリングの中で永遠に解決しようというのであろうか?

  実は、この場所はまったく反対の意味を持っている。民族によって分断されたこの街では、ここは奇妙な場所だ。

地下に隠れて、イスラエル人とパレスチナ人が同じ愛を共有する。平和や寛容、共存とはほとんど相容れない、スポーツの中ではもっとも暴力的なものへの愛である。

ユダヤ人、アラブ人、信仰家、世俗派、ロシア移民、外国人労働者、男に女。皆がここ「エルサレム・ボクシングクラブ」で練習を積んでいる。リングではパンチを繰り出し、生活においてはパンチなど使わなくてもいいようにする術を覚える。
 
 クラブの常連2人と会った。右は、ライトヘビー級のイスマイル・ジャアファリ(36)。東エルサレムのパレスチナ占領地である向こう町のジャベル・ムカベルでトラック運転手をしている。

左は、ライト級のアキバ・フィンケルスタイン(17)。ヨルダン川西岸占領地区のイスラエル入植地ベトエルで宗教学校に通っている。伸び盛りの選手だ。最近では、親善試合で欧州のタイトルホルダーを破った。

彼ら2人が練習ラウンドの前に吐かねばならないのは、普通に見られるような、自分の強さを誇示し自己満足をもたらすような言葉ではない。「リングの中では、僕らはみんなボクサー。出自は関係ない」とイスラエルでジュニアのタイトルを持つフィンケルスタインは言う。「ここではみんな平等だ。どんな宗教か、どんな民族かは関係ない。」とジャアファリもいう。

クラブは、ルクセンブルク兄弟によって運営されている。「すべての人間には悪の部分がある。だから敵対や暴力が起こるのです。」と兄のエリ・ルクセンブルクはいう。「情勢について新聞で目にする。頭に血が上る。そこで、ここに練習に来る。この小さな場所の内に、お前のすべての怒りを持ち込んでくるんだ……」。
 
 「でも、フェアプレイは絶対だ!争いを解決するためにみなここに来ているんじゃない。それは神の禁ずるところだ」と弟ガーションの声が響く。「俺らは子どもたちをよーくみてる。もし、ファイトの中に憎しみが垣間見えたら、そいつはリングから放り出す。俺らは単にファイティング・スピリットを養いたいだけだ。ボクサーは兵士であり、紳士でなければならん。お互いを尊重せねばならん」とガーションは釘をさす。

ルクセンブルク兄弟は1960年代初めに旧ソ連でボクシングの名声を得た。二人ともヘビー級だ。エリは2度ソ連のチャンピオンになり、ガーションはウズベキスタンのチャンピオンになった。「子どものとき、俺らはユダヤ人への嫌がらせから自分たちを守るためにボクシングを習わなきゃならなかった。要はサバイバルということです。」とエリは回想する。

1972年、はじめてイスラエルの地に降り立ったガーションは、イスラエルの不倒のチャンピオンに何度もなった。そしてまた、強烈なナショナリストでもあった。「コーチを始める前は、アラブ人はこの国の障害であり、共存できないと思っていた。でも、ボクシングがこれだけお互いを近づけるなんて、信じられないね」。

ジャアファリは、ルクセンブルク兄弟の後押しを得て、クラブで14年も訓練を積んでいる。イスラエルのチャンピオン戦ではレフェリーも務めている。彼にとっては、「スポーツは境界を越えるもの」。「グローブをはめ、政治的状況はリングの外においてくる」。

言うは易く、行うは難し―紛争がもっとも激しかったころ、イスラエルのクラブ員とぶつかってどうにもならなくなるのを避けるため、クラブには出入りしないようにしていたことをジャアファリは思い出す。

ガーションなら、彼に電話をしてクラブに出てこいというだろう。「外の政治的状況がなんだ」「俺らはここにいるんだ」「俺らは友達以上のものだ。ここは家庭のようなもの、俺らは家族のようなものだ」。ジャアファリは興奮しながらそう言う。

エルサレムでは、イスラエル人とパレスチナ人が、別々の、互いに干渉しない生活を送っている。住居や教育が分かたれ、政治的情念も分かたれ、すべてが互いへの無関心につながっている。

練習マッチを行うリングの上には、モハメド・アリのポスターが鎮座している。「版図を変えるために、国の間の戦争は行われる。しかし、貧困との闘いは、変化を生み出すために行われる」とボクシング界のこのレジェンドはかつて言ったことがある。

このイスラエル人とパレスチナ人を結びつけるものは、ボクシングへの情熱だけではなく、彼らの社会的背景だ。彼らの多くが、貧困地区の出身なのである。

若い人たちの新しい日常生活を創り出すようルクセンブルク兄弟から刺激を受けたジャアファリは、自分の住んでいる地区でボクシングクラブをやり始めた。クラブのメンバーがよくやってきて試合を繰り広げている。ジャアファリの育てたボクサーは、パレスチナのチャンピオン戦を多く勝ってきた。

別のパレスチナ人であるギト・ザカルカがウォーミングアップを先導し、リングの中をジョギングして回る。ザカルカを見ているのは、若く未来もあるイスラエルのボクサーたちだ。フィンケルスタインは、クラブの安全な境界線の外では、パレスチナ人と時間を共にすることはないことをよく知っている。

それでもなお、少しずつ、ボクシングは彼を変えてきた。「昔は、アラブ人なんて馬鹿な連中、テロリストだと思っていました。」と彼は困ったような表情で認める。「でも、ここでは、パレスチナ人と接してみて、みんないいやつだし、みんな友達です。ものの見方を手に入れるにはここはすごくいい場所です。アラブ人の悪口を言っているやつがいたら、お前はアラブ人がどんなやつか知らないくせに、といってやりますよ。」

ゴングがまた別の練習ラウンドの終わりを告げた。フィンケルスタインとジャアファリはグローブ越しの友好の握手を交わす。
 
 聖書の時代には、イスラエルのダビデ王はペニシテの巨人ゴリアテと戦った。人々は、血みどろの戦いに駆り出された。

「ダビデとゴリアテは死ぬまで戦った。ここでは、俺らはラウンドを積み重ねて、ポイントを取っていくだけです。」とフィンケルスタインはいう。

ラウンドを積み重ねてポイントを取ることは、イスラエルとパレスチナが63年間の紛争の中でやってきたことだ。彼らはゴングの音で救われるのだろうか?「これは戦争だ。そしてそこには人生がある。収めることはできるはずだ」。ガーション・ルクセンブルクは、自信をもってそう語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan
 

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|エジプト|ホスニ・ムバラクの引き際(アーネスト・コレアIDNグローバルエディター・元米国スリランカ大使)

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【ワシントンIDN=アーネスト・コレア】

26年前、もう一人のアメリカ大統領が、米国の同盟国の独裁者に特使を派遣し、独裁政権の幕引きを警告したことがあった。

ロナルド・レーガン大統領は、親友で相談相手のポール・ラクソルト上院議員をフィリピンに派遣し、フェルディナンド・マルコス大統領とのこの困難な折衝にあたらせた。その結果、マルコスは2年後に自由で公正な選挙を実施することに合意した。

 しかしフィリピン国民はマルコスに2年もの猶予を与えなかった。数か月後、マルコスの退陣を求める民衆の抗議の声がマニラの街を埋め尽くした。民衆のデモ行進は平和的なものだったが決定的なものだった(エドゥサ革命)。民衆がマラカニアン大統領宮殿に迫る中、マルコスは緊急回線でラクソルト上院議員に電話をかけアドバイスを仰いだ。この際、ラクソルト議員は「今が潮時だ。潔く身を引くべきだ。」と伝えたという。エジプトのホスニ・ムバラク大統領にとっても「潮時がきた」というべきだろう。

衝突

「世界はエジプトで前例のない民衆行動を目の当りにしているのです。」と、世界銀行前副総裁でアレキサンドリア図書館館長のイスマイル・セラゲルディン氏は語った。

セラゲルディン氏によると、民主化デモに参加した多くの民衆は青年に率いられたもので、政府に対してより幅広い自由と民主化の実現、生活必需品の価格引き下げ、並びに就労機会の拡大等もっともな要求を掲げている。こうした改革を即時実施するよう要求する群衆に対して、当初警察が暴力的な介入を試みたが、撃退されてしまった。

「次に軍隊がデモの現場に派遣されたが、民衆は軍を歓迎し、当初彼らの存在はデモに対する実力行使というより暴動を抑止する象徴的なものにすぎなかった。事態が悪化したのは、暴漢や(おそらく当局側が派遣した)扇動者が現れ略奪が開始されてからだった。これに対してデモに参加していた青年たちは、グループ分けをし、交通整理、近隣住民の保護、重要公共施設(エジプト考古学博物館やアレキサンドリア図書館等)の警備にあたった。

デモ参加者、とりわけ青年たちが、軍に協力して略奪者から文化遺産を守ろうとしたのは印象的な光景であった。

米国による当初の反応

エジプト情勢に対するオバマ政権の当初の反応は、静観しつつ、「ムバラクが去った場合の」中東予想図、国益への影響等を分析するというものであった。オバマ政権は、政権内部の中東専門家に加えて幅広い学者、政策責任者に意見を求め、それらを検討、凝縮していった。
 
 オバマ大統領は2009年6月4日にカイロで行った演説(本文末の映像資料を参照)で「結局、人権を保護する政府が、より安定し、成功し、しっかりとした政府になる、ということです。意見を抑圧しても、それを消してしまうことはできません。米国は、たとえ同意できない意見であっても、世界中で平和的・合法的なすべての意見を述べる権利を尊重します。そして私たちは、選挙によって選出された平和的な政府が、国民全員を尊重する統治を行うならば、そうした政府をすべて歓迎します。」とエジプトの聴衆に語りかけた。

しかしオバマ大統領は、エジプト情勢に対する米国の明確な態度を決定する前に、その判断が米国の貿易、中東情勢そして国内政治に及ぼす影響を慎重に検討しなければならなかった。その結果、一般教書演説ではチュニジア革命に対する支持を表明したものの、その後のエジプト情勢に関する言及は避けた。

しかしまもなく、エジプトに真の安定を回復させるには、ムバラク政権の下では不可能だろうという見方が明らかになった。

幕引きを巡る駆け引き

しかし30年に亘って無制限の権力を保持してきた軍事指導者に「潮時がきた」というメッセージを伝えることは容易なことではない。オバマ大統領は、元ベテラン外交官で事業家のフランク・ウィスナー大使にこの任務を託した。

ウィスナー氏はエジプト、インド、フィリピン、ザンビア等の大使や国防次官を歴任した人物で、ムバラク大統領とも親しい関係にあると言われている。

ウィスナー大使との面談後、ムバラク大統領は声明を発し、きたる9月の大統領選挙に出馬しない意向を国民に伝えた。これはムバラク大統領の譲歩とも言えるが、一方で容易には引退しないという米国政府に対する明確なシグナルでもあった。

ムバラク大統領は今回の状況に直面して自らを「悲劇のヒーロー」と見做しているようである。彼は国民に向かって次のように語りかけた。「本日皆さんにお話し申し上げているこのホスニ・ムバラクは、長年エジプトと国民のために尽くしてきた年月を誇りに思っています。この親愛なる国は私の祖国であり、全てのエジプト人の国です。私はこの国で生き、この国のために戦いその国土と国益を守ってきました。そして私はこの国で死ぬつもりです。私の功罪は他の人々と同じくやがて歴史が判断することでしょう?」

政治的限界

「国家の守護者」を自認するムバラク大統領は引き続き次の大統領選挙まで権力を行使し従来通り選挙過程も支配する意向である。そうなれば現状維持となり具体的には次のような展開となるだろう。

・ムバラク大統領の前任者アンワル・サダト大統領が暗殺された際に宣言された「非常事態宣言」は以来今日まで施行されたままだが、今後も解除されないだろう。

・今回の反政府運動が最も盛り上がった際に見られたように、通信施設や社会的ネットワークを政府の意のままで断絶したり再開したりする等、政府による政治活動への制約は今後も引き続き加えられるだろう。

・選挙法や選挙に関する慣習は従来通りとなり、選挙操作でムバラク大統領の子息を当選させようとする試みを防ぐことは出来ないだろう。

ノーベル平和賞受賞者で前国際原子力機関事務局長(IAEA)のモハメド・エルバラダイ氏は、今回の民主化運動参加者にある程度のリーダシップを提供してきたが、ムバラク大統領の発表を「詐欺行為」であり「ふざけた内容だ」と評した。

ムバラク大統領と約30分に亘って非公式に会談したオバマ大統領は、エジプトにおける変革をこれ以上遅らせてはならないと公に主張する必要性を感じた。オバマ大統領は短いテレビ演説の中で、「エジプトの指導者を決定するのはいかなる国の役目でもない。それはエジプト人のみがなせる事項である。明らかなことは、私は今晩、ムバラク大統領に対して、秩序ある権力移譲こそ重要であり、平和裏にかつ今からすぐにでも取り掛からなければならないという私の真意を伝えるということです。」と語った。

暴漢の登場

まもなく、ムバラク大統領と同僚は権力移譲に関して異なる考えを持っていることが明らかとなった。反政府デモの参加者は挑発もしないのに仕掛けられた攻撃から自衛する以外は、当初から一貫して平和裏の抗議行動を行ってきた。

しかし2月2日(水)の朝になると、暴漢が出現した。彼らの一群はバスに分乗してタハリール広場を囲むエリアに乗り込んできた。そしてもう一群は鞭を振り回しながら馬とラクダに乗って広場に乗り込んできた。そして広場に終結していたデモ参加者に対して、「ムバラク大統領は去らない」と叫び続けながら攻撃を加えた。

ニューヨークタイムスのコラムニストであるニコラス・クリストフ氏は以下のように報道している。「暴漢たちはマチェーテ(大鉈)、折り畳み式の西洋ナイフ、こん棒、石で武装していた。彼らは皆、同じスローガンを唱え、ジャーナリストに対して同様に攻撃的な態度をとった。彼らは明らかに組織化され事前に指令を受けていた…。」

数人の地元並びに外国人のジャーナリストが攻撃の対象となり、暴漢たちは彼らへの脅迫、機材の破壊や、追い払おうと執拗に追いかけるなどの試みがなされた。中には拉致されたものもいた。アメリカ人のジャーナリストでは、ABC放送のクリスチャン・アマンプール、CNNのアンダーソン・クーパーがこのように暴漢の標的となった。

軍は暴漢の攻撃に参加しなかった。しかし彼らを止めもしなかった。暴漢が広場に到着する少し前、軍当局の広報担当官が国営テレビに登場し、民主化運動の支持者に対して次のような質問を投げかけた。「私たちは安全に通りを歩けるか?規則正しく職場に戻れるか?子供たちと通りに出だり学校や大学に通えるか?店や工場やクラブを開店できるか?」

「正常な日常生活を復帰させることができるのは皆さんなのです。」と広報官は付加えた。「あなたたちの要求は受け取りました。私たちは皆さんの要求を知っています。軍は皆さんとともにあります。」そう言って、広報官はデモ参加者が帰宅するよう強く促した。

隙間が埋まりつつあるのか?
 
 
その後起こったことについて、目撃者達は、「それまで軍は、大統領反対派と支持派を分けるように広場の警備を固めていたが、衝突が始まると一切干渉しなかった。兵士の殆どは軍の装甲車や戦車の後ろや中に引き下がった。」と証言している。

はたして軍当局は暴漢が配置されることを事前に知っていて衝突を避けようとデモ参加者の帰宅を促したのだろうか?それとも暴漢による反政府デモ参加者への暴力を止めようとしなかった軍の動きは、軍当局とムバラク政権の間に存在するかもしれないと考えられていた意識のずれが埋まりつつある、或いは既に埋まったということを意味するのだろうか?

民主化を求める勢力を攻撃させ、あえて混乱を作り出し、それを口実に従来の強権支配を正当化させる弾圧計画が進行しているのだろうか?もしそうした計画がムバラク政権の戦略として進められているとするならば、国際社会はムバラクの政権移譲を「今すぐにでも」開始するよう一層の危機感をもって圧力をかけなければならない。

想定されるシナリオ

しかし現実には以下のようなシナリオを想定する必要があるだろう。

ムバラク大統領は30年の長きにわたって「政権に留まり続ける」ことができる能力を示してきた。様々な材料がムバラクの「潮時」であることを示唆してはいるが、多くのエジプト問題専門家は、ムバラクは今一度自身の権力維持を目指し、権力移譲に動くことはないだろうとみている。

一つのシナリオは、ジョークで有名なエジプト人の間で流行っている次の政治ジョークによく描かれている。

このジョークには、米空軍の飛行機がカイロに飛来し、隔離された某所に海兵隊の厳重な警備のもと待機するところから始まる。そしてついに「確かな情報筋」として、ムバラクが数カ月にわたる政権維持の試みの果てに、ついに民衆からも、政治パートナーからも軍からも支持を失ったことを悟り、安全に国外に逃亡する手段として航空機が手配されたのだという風評が流れる。

この話を聞きつけて、民主化運動の指導者たちが、「ムバラクは、欠点はあったものの、(彼のこれまでの功績を考えると)このまま黙って国を後にさせるのは忍びない。せめてムバラクを訪問して、旅の無事ぐらい祈ろうではないか。」ということに決する。

そしてムバラクの大統領宮殿を訪問した民主化運動の指導者たちは、対応に出たムバラクの側近に「大統領にお取次ぎしますので暫くお待ちください。」と、ムバラクの執務室の外で待つよう指示される。執務室に入った側近はムバラクに向かって、「大統領閣下、民主化運動の指導者たちがドアの外に来ておりまして、閣下にお別れを申し上げたいと言っております。いかがいたしましょうか?」するとムバラクは、「おおそうか。それはご苦労なことだ。ところで、彼らはどこに行くのかね?」と尋ねた。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

*アーネスト・コレア氏は元スリランカの外交官で、駐カナダ、キューバ、メキシコ、米国大使、またメディアと開発に関するコモンウェルス特別委員会の委員長を歴任した。またジャーナリストとしては、セイロンデイリーニュース、セイロンオブザーバーの編集長、シンガポールのストレイトタイムスのコラムニストと務めた。現在、IDN-InDepth Newsのグローバルエディター、編集委員及び国際協力評議会(GCC)のメディアアスクフォース議長を務めている。


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【パリIDN=ジュリオ・ゴドイ】

julio godoy
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米国のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、非情で腐敗したニカラグアの独裁者アナスタシオ・ソモサ(大統領在職1937年-47年、51-56年)について、「彼は『Son of a Bitch(ろくでなし)』だが、『我々の』ろくでなしだ。」と言ったという伝説がある。
 
 今日に至るまで歴史家の間では、このルーズベルト大統領の発言について、はたしてソモサについて言及したものか、それとも同じく当時のラテンアメリカ(ドミニカ共和国)における親米独裁者ラファエル・トルヒーリョ(大統領在職1930年-38年、42-52年)に言及したものかで論争が続いている。いずれにしてもソモサもトルヒーリョも実に『Son of a Bitch(ろくでなし)』であったことには変わりがない。
 
しかし両者とも生粋の反共産主義者であり、それこそが米国の親しい同盟者となりえる唯一の条件でもあった。そして両独裁者は、その後死ぬまで、ルーズベルトが言及した「『我々の』ろくでなし」であり続けたのである。トルヒーリョは1961年、おそらくCIAが操作したと思われるグループにより暗殺された。一方、ニカラグアの支配者としてソモサの跡を継いだ息子は1979年のサンディニスタ革命で政権の座を追われ、1年後亡命先のパラグアイでニカラグアが放った暗殺者に殺害された。

しかし米国はトルヒーリョ、ソモサとの経験から教訓を学ぶことはなかった。その後の米国歴代の大統領が-或いはこの点について欧州各国政府が-エジプトの独裁者ホスニ・ムバラク(大統領在職1981年-)やチュニジアの泥棒政治家ザイン・アル=アービディーン・ベンアリ(大統領在職1987年-2011年)について類似のコメントをしたかどうかは知られていないが、過去30年に亘って彼らが両独裁者を「我々のろくでなし(Our Son of a Bitch)」と見做していたことは明らかだ。

Rafael Trujillo of the Dominican Republic. Official photograph published in several Dominican newspapers. August 1952. Copyright expired (D.R. copyright is life plus 50 years), Public Domain
Rafael Trujillo of the Dominican Republic. Official photograph published in several Dominican newspapers. August 1952. Copyright expired (D.R. copyright is life plus 50 years), Public Domain

ムバラク、ベンアリ両氏は、イスラム原理主義を徹底的に弾圧する一方でイスラエルに対して穏健な姿勢をとったことから、米国やフランス政府は、両者がそれぞれ支配するエジプト、チュニジアを西側同盟国と認め、両政権の腐敗や不手際については黙認する姿勢を続けてきた。例えばフランス歴代政権は1987年以来一貫して、ベンアリ大統領を地中海南岸の安定・平和・経済成長の擁護者として讃えてきた。またフランス政府は、ベンアリ大統領の腐敗や残忍性に関する指摘に対しては、「誇張である」として一蹴するか、単純に無視する姿勢を示してきた。 

1年前に、2人のジャーナリストがベンアリ政権の腐敗の内幕を検証した著書「La Regente de Carthago(カルタゴの統治者)」が出版された際、フランス当局は同書を黙殺した。フランス政府にとって、あえて第三者からベンアリの強盗行為について指摘させるまでもなかった。南フランスからヨット数隻が強奪された事件が発生したが、ベンアリの悪名高い妻レイラ・トラベルジィの2人の姪が直接的に関与していた。しかもそれらのヨットは後にトラベルジィの姪の名義で登録された上でチュニジアの港で発見されたのである。

1月中旬、ベンアリの政権維持が民衆蜂起により危うくなると、フランス政府は独裁者に事態の「正常化」を支援するため警察部隊の派遣を申し出た。結局、フランス政府は、ベンアリが敗北を認め首都チュニスから国外亡命する段階に至って初めて、泥棒と拷問人からなる政権を支援してきたことを悟った。

しかし欧米諸国政府のアラブ独裁者達との関係は、後者の振る舞いを黙認していたことにとどまらない。ベンアリ、ムバラク、その他のアラブ独裁者たちはフランス銀行、スイス銀行及び各国行政機関の支援を得て、個人蓄財に励んできた経緯がある。フランスの不正監視組織「シェルパ」によると、ベンアリの個人蓄財はパリ及びフランス各地に点在する高価な不動産を含めて少なくとも50億ドルにのぼる。シェルパのウィリアム・ボルドン代表はこの点について、「この莫大な財産はベンアリ氏がチュニジアの大統領としての合法的な所得で築き上げたものではあり得ない。」と語った。しかしベンアリの蓄財は、スイス銀行の公式発表にある4兆ドルにものぼるムバラク大統領による「エジプト信託」の規模にはとうてい及ばない。

欧州及び米国の歴代政権は、西側民主主義が掲げる価値観の優越を盛んに説く一方で、独裁者達との関係は地中海南岸地域に限定されたものではなかった。過去10年から20年の間、悪名高い独裁者であるガボンのオマール・ボンゴ、赤道ギニアのテオドロ・オビアン、コンゴ共和国のドニ・サスヌゲソ、そして元共産党の旧敵であるアンゴラのジョゼ・エドゥアルド・ドス・サントスさえもが(興味深いことにこれらはいずれも石油資源が豊かな国々である)、50年前にトルヒーリョやソモサがそうであったように、フランス、米国、英国、ドイツ政府から無条件の支持を享受してきた。

欧米諸国のイランに対する強硬姿勢は、これらの国々が一方でイスラエルの政策に寛容な姿勢を示し、イランの周辺諸国の独裁・腐敗政権を支援している実情と照らし合わせれば、典型的な2重基準(ダブルスタンダード)と言わざるを得ない。また欧米諸国のこうした偽善行為こそが、中東地域の平和と安定を目指す自らの努力を台無しにしている原因でもある。

腐敗・不正に対する対処についても、欧米諸国は失敗したと言えよう。なぜなら、チュニスで起こった民衆蜂起やフランスの「シェルパ」等の不正監視団体による圧力に晒されて初めて、しかも躊躇しながら、フランスやスイスの司法機関は、独裁者の口座凍結や、時にはそうした財産の祖国への返納に応じる決定を下す始末だからである。

例えばジャック・シラク元フランス大統領が現在が暮らしている住居はというと、レバノンを過去約20年間に亘って支配してきた大富豪ハリーリ一族の所有するパリの豪邸である。シラク氏は全く家賃を払っていない。明らかにハリーリ氏は「純粋に友情から」シラク氏に無料で豪邸での滞在を許可しているのである。

欧米諸国が(彼らの敵や彼らの利益と関係ない人々を殺害したり財産を奪う)泥棒や殺人者との共謀から教訓を学んだかどうかは、今のところ不明である。しかしトルヒーリョやソモサの時代まで遡って欧米諸国がそれら独裁者との共謀から教訓を学んだかどうかを一つの判断基準として今日の状況を推定するならば、その答えは多分に「教訓を学んでいない」という結論に辿り着かざるを得ないだろう。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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