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70億人が都市を埋め尽くす前に行動を

【ベルリンIDN=エヴァ・ウェイラー】

世界の人口全体が90億人になる2050年には、世界の都市部に60億人を超える人々が集住し、食料、エネルギー供給面で深刻な事態に直面しているだろう-これが、経済協力開発機構(OECD)の『OECD環境概観2050』の予想である。

OECDによれば、OECD加盟諸国(34カ国)では2050年までに高齢化率(65才以上の人口が全体に占める割合)が現在の15%から25%になるほか、中国やインドもやはり深刻な労働力不足を経験することになるであろう。

また『OECD環境概観2050』は、近年における経済不況とは対照的に、2050年までに世界の国内総生産(GDP)合計は現在の4倍になると予測している。中国、インドのGDP成長率は徐々に減速していき、一方で、アフリカ大陸は引き続き他の地域と比較して最貧地域であることに違いはないが、2030年から50年にかけて、経済成長率の面では、世界で最も高い伸びを示すとみられている。

経済規模が今日の4倍にまで成長した2050年の世界では、新たな対策が取られない限り、今日よりもエネルギー消費量が80%増加するとみられている。しかしエネルギー構成は現在のそれとほとんど変わらないものとみられ、化石燃料が85%、バイオエネルギーを含む再生可能エネルギーが10%強、その他が原子力エネルギーである。また2050年までには、BRIICS諸国(ブラジル、ロシア、インド、インドネシア、中国、南アフリカ)がますます化石燃料への依存を強めながら、エネルギー消費大国となっている。

また、人口増加に対応して食料生産も増えるが、希少な土地をめぐる紛争が増えるものとみられる。
 
また、主にエネルギー関連の二酸化炭素排出量が70%増加することから、地球温暖効果ガス(GHG)の排出も2050年までには5割増加し、大気中のGHG濃度が685ppmに達すると予想されている。もしそうなれば、今世紀末までに地球の平均気温は産業化以前のレベルに比べて3~6度上昇するが、現在の合意では「2度まで」とされており、差が大きい。

2020年以降に思い切ったGHG削減策が早急に行われない限り、2010年12月の気候変動枠組条約第16回締約国会議(COP16)における合意内容だけでは、気温上昇を2度以内に抑えることは不可能である。

炭素税や「キャップ・アンド・トレード」方式の導入などによって炭素に適切な価格付けをしていかないかぎり、適切な措置をとった場合と比較して、2050年には地球温暖化関連のコストが50%増になるという。

生物多様性もかなり悪化するとみられる。2050年までに多様性が10%減少すると予想されている(とりわけアジア、欧州、アフリカ南部の状況が深刻)。生物多様性減少の原因としては、気候変動と公害に加えて、土地利用方法の変化(農業など)、商用の森林の増加、インフラ開発、生活の場としての利用などがあげられている。

しかし、適切な保護地区の設定によって、事態の悪化が食い止められる可能性がある。現在、地球の陸地の13%が保護地区に指定されているが、領海の場合はわずか7.2%であるという。

OECD報告では、2020年までに陸地・内海の17%、沿岸部の10%を保護地区とする、生物多様性条約愛知会議での合意を実施するために、さらなる措置を求めている。

OECDによる2050年の地球環境の姿の予測について報告する。

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩

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|UAE|「暴力的過激主義」対策会議が開催される

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【アブダビWAM】

グローバル・テロ対策フォーラム(GCTF)の調査検討委員会による「暴力的過激主義対策」をテーマとした第一回会議が、4月3日から2日間に亘ってアラブ首長国連邦(UAE)アブダビのエミレツタワーにおいて開催された。

会期中UAE政府は、今年10月にアブダビを拠点とする世界初となる「暴力的過激主義対策」のための国際センター(International Centre of Excellence on Countering Violent Extremism:CVE) を開設する提案を行った。

2日間の会議では、欧州連合、国連及び29カ国から参加したテロや過激主義に関する専門家が、暴力的過激主義への対応策についての協議を行った。

 UAEのファリス・アル・マズルーイー安全保障・軍事問題担当外務大臣補佐官は、「テロとの戦いを進めていく中、専門家の間で、暴力的過激主義の問題に注目が集まっています。」と指摘した上で、「テロリスト集団を無力化し、その活動を封じ込めるには、安全保障の枠組み、司法制度、対テロ兵力の役割がますます重要になっています。」と語った。

またマズルーイー補佐官は、「しかし国際社会は、個人をいかにテロの道に走らせず、暴力的なオデオロギーから遠ざける有効な方策については、未だに十分な理解を得るには至っていません。」「過激主義は基本的に宗教ではなく、イデオロギーに根ざしたものです。従って、私たちはあらゆる形態の暴力的過激主義の原因を研究していく必要があるのです。」と語った。

グローバル・テロ対策フォーラムの設立メンバーは、UAE、アルジェリア、オーストラリア、カナダ、中国、コロンビア、デンマーク、エジプト、欧州連合、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、ヨルダン、モロッコ、オランダ、ニュージーランド、ナイジェリア、パキスタン、カタール、ロシア、サウジアラビア、南アフリカ、スペイン、スイス、トルコ、英国、米国である。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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核時代のパラドックス(ロナルド・マッコイ「核戦争防止国際医師の会」共同代表)

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【IPSコラム=ロナルド・マッコイ】

気候変動と核戦争は、人間の安全保障と地球の生存にとってもっとも重大な2つの脅威だと言えるだろう。各国政府は気候変動の原因に対処し、核戦争を防止しようとしているが、温室効果ガスを減らし核兵器をなくす政治的意思はさらに強化される必要がある。

気候変動はいまやはっきりと目に見える問題になった。しかし、依然として戦争に訴えることで紛争を解決しようとしているこの世界において、核兵器が存在しているにもかかわらず、自己満足にひたった世界の指導者の中には、核戦争の脅威を比較的抽象的なものとしてとらえ、その存在が視野に入っていない者もいる。

1970年の核不拡散条約(NPT)第6条では、非核兵器国は核兵器を保有せず、核兵器国は既存の核を廃絶していく法的義務を課している(第6条の文言には「非核兵器国」という言葉はない。単に、NPT加盟国に対して「軍拡競争を終わらせるために誠実な交渉を行う」ことを求めているだけである。おそらく、この点を起草者にただすべきだろう)。核兵器国は、文言の上ではこれに合意しているが、実際には、安全保障のために核抑止力に頼りつづけ、核戦力を維持・近代化している。この二重基準が、核の「持つ者」と「持たざる者」の仕組みを永続化させ、ジュネーブ軍縮会議をこの15年間麻痺させ、NPTプロセスにおける停滞の原因となっている。

 冷戦終結から21年、主たる核の主唱者である米国とロシアは、依然として2万発以上の核兵器を保有している。両国ともに、配備された長距離核兵器を2018年までに1550発まで削減することを約した2010年の新START(戦略兵器削減条約)によって、さらなる核削減を進めるとしている。しかし、国内の政治情勢や米国のミサイル防衛計画、イランの核武装の野望などが、その障壁となってきた。

核兵器を保有する国がありつづけるかぎり、他国が核を取得しようという誘因になる。核兵器が存在しつづけるかぎり、決定によるものであれ、偶然や計算違いによるものであれ、いつか使用されてしまうかもしれない。未来にあるのは、拡散対抗措置を取りながら現状維持を図るか、核拡散との危険な共存を図るか、核兵器を全廃するかの3つの選択肢しかない。

1997年、国際法、科学、医学、軍縮問題の専門知識を持った活動家が、根本的な核のジレンマの問題に取り組んだ。核兵器なき世界に向けた法的、技術的、政治的条件を探り、すべての国にとっての安全保障上の懸念を検討したのである。彼らの問いとは、軍事主義と核抑止をベースにした軍事安全保障は、長期的に見て人間と地球の生存と両立しうるのか、というものであった。彼らは、生存は核兵器を廃絶できるかにかかっていると結論し、モデル核兵器禁止条約の策定へと向かった。これは、他の種類の大量破壊兵器である化学兵器・生物兵器に関して採択された条約の成功体験を元に、核廃絶の実行可能性に光を当てたものであった。

国連はモデル核兵器条約を公式文書のひとつとして認めた(国連文書A/C.1/52/7)。120ヶ国以上の国連加盟国が、すべての核兵器の廃絶、生産の禁止、強力な検証体制による核製造の防止を定めた核兵器禁止条約に向けた交渉を行うよう、国連総会で賛成票を投じた。

核廃絶には多くの障害があるが、そのもっとも根本的なものは、政治的意思の欠如と「外交の軍事化」であろう。しかし、過去、現在の指導者の中には発想転換の兆しが見られ、このことが、世界が今後20~30年で核を廃絶することができるのではないかという(やや抑え目の)楽観論の根拠となっている。米国の「冷戦の闘士」であり、政府の安全保障部門の主要人物であったヘンリー・キッシンジャー、ジョージ・シュルツ、ウィリアム・ペリー、サム・ナンの4人が、核兵器なき世界を訴えている。バラク・オバマ大統領もまた、同じような主張をしている。

中規模国家は、最終的に核兵器禁止条約の締結につながるような多国間交渉を引っ張ることができる位置にいる。そのような交渉が始まったならば、世界の市民社会が刺激されて澎湃(ほうはい)たる世論が沸き起こり、核廃絶プロセスに加わる不可逆的なプレッシャーが核兵器国にかけられることになるだろう。それは、地雷保有を放棄して地雷禁止条約を各国に採択させたオタワプロセスに似ている。核兵器を廃絶するためのそうした世界的な努力には、ブラジル、エジプト、アイルランド、メキシコ、ニュージーランド、南アフリカ、スウェーデンから成る「新アジェンダ連合」のような中規模国家による相当な政治的資源の投資を要する。

核兵器禁止条約は、核兵器の開発・生産・実験・配備・貯蔵・移転・使用(その威嚇を含む)を禁止するものである。広い意味では、それは核兵器の一般的な否定を意味し、あらゆる大量破壊兵器に反対する規範を成文化するものである。そうした条約は、外交の軍事化と核兵器への依存から離脱しようとする社会・政治運動を触発することになるだろう。核兵器廃絶の地点まで核軍縮を進め、人間の存在に関わる核戦争の脅威は取り除かれることになるだろう。

核軍縮と核廃絶の重要な違いちがいは、軍縮は基本的には技術的プロセスであるのに対して、廃絶は、軍縮を包含しつつ、核兵器の開発・取得・使用をも禁止する規範的なプロセスであるという点である。

核兵器禁止条約の締結は、時限を切り、強力な政治的意思に支えられた、包括的な多国間交渉を必要とすることになるだろう。このプロセスは、一連の二国間・多国間措置から成り、最終的には、法的拘束力のある取り決め(あるいは諸取り決めの枠組み)につながっていくことになる。このプロセスは、すでに確立されたものではあるが機能不全に陥っているジュネーブ軍縮会議で起こるかもしれないし、国連海洋法条約の採択に成功した諸会議と同じく、一連の特別な国際会議によるものになるかもしれない。

核時代のパラドックスとは、核兵器を通じて権力や軍事安全保障を確保しようとする動きが強くなるにつれ、人間の安全保障という目標が遠くなってしまうことである。環境面での問題が多く発生し、核武装した世界で人類が生き延びるには、過去の失敗から学び、共通の安全な将来を形作っていく必要がある。我々の時代の道徳上の難問とは、核戦争あるいは気候変動による「球規模での自爆」いう、到底考えられないような可能性のことだ。将来にむけた最大の優先課題とは、将来が存在するようにする、ということになるだろう。(原文へ
 
翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

※ロナルド・マッコイは元産婦人科医。「社会的責任を考えるマレーシア医師の会」の創始者、「核戦争防止国際医師の会」(1985年にノーベル賞受賞)の共同代表でもある。

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気候変動の影響を肌で感じるカリブの農漁民

【セントジョージズ(グレナダ)IPS=デズモンド・ブラウン】

ジェイムズ・ニコラスの生活はいつも海とともにあった。カリブ海の島嶼国グレナダの漁民である彼は、毎日の水揚げを地元の人びとや食堂に売り、さらには近隣の島の高級ホテルに提供していた日々のことを思い出していた。

最大時の2010年で、グレナダの漁業は約4000人の雇用を生み出し、輸出だけでも520万ドルの売り上げがあった。

しかし、この数年で、おそらくは地球温暖化によるとみられる影響によって、漁業を取り巻く環境は急速に悪化した。

 南部漁業組合のニコラスさんは、IPSの取材に応じ「私はここの育ちですがが、海岸地帯ではいつも多種多様な魚が獲れたものです。ところが最近では全く獲れない魚も出てきました。おそらく8種の魚が絶滅したと思います。自分は科学者じゃないから地球温暖化のせいだとはいえませんけどね。」と語った。

「しかし一つだけ確かなことは、組合員が獲ってくる魚の量が減り続けていて、みんなが経済的に追い詰められてきているということです。」とニコラスさんは付加えた。

元環境相のカール・フッド外相は、「グレナダ海域で漁獲量が激減しているのは気候変動が直接的な原因であり、しかもその悪影響は漁業以外の産業にも及んでいます。」と語った。

大臣執務室で取材に応じたフッド外相は、「昨年から漁民たちは餌として使っている『ジャック』という魚が獲れないでいます。普通は11月になると沢山獲れる魚なのですが、全く獲れなくなってしまいました。だから漁民は漁に出ることができません。これは漁業における干ばつのようなものです。市場に行っても魚は出てきません。」と語った。

ニコラスさんは、「ジャックが獲れないので、漁民はやむなく米国から鰯(イワシ)を餌として輸入しています。それができない漁民は、漁具を片付けて自宅に留まっているしかないのです。」と語った。

また、セントジョージズ大学海洋生物学プロジェクトのクレア・モーラル氏によると、同じく地球温暖化の影響で海面水位が上昇しており、その結果、魚を含む海洋生物の約25%の生命の基盤となっているサンゴ礁が劣化(白化現象)したり、洪水や干ばつが起きやすくなっているという。

グレナダは2年前のハリケーンで同島南部の観光の目玉であるグランドアンセビーチ(2マイルに亘る浜辺)が甚大な被害を被った。フッド外相は、「グランドアンセビーチの水深がこのところ深くなっています。これも地球温暖化に伴う海岸浸食の表われです。」と語った。
 
大雨で潮位が上がると、島嶼国には深刻な影響がある。国連環境計画(UNEP)によれば、海水面が50センチ上昇するとグラナダの海浜の60%以上が深刻な被害を受けるという。しかし、フッド外相は、「数インチの上昇でも、大きな影響があるのです。」と力説した。

またある政府関係者は、2年前から気候変動による旱魃で、農業も近年最悪といわれる規模の深刻な影響を受けていると指摘した上で、「近年ココナッツやシトラスの木が枯れるという現象がおこっています。以前ではありえないことです。そして今度は季節外れの集中豪雨に見舞われて、作物が大損害を受けています。」と語った。

フッド外相は隣国のドミニカの状況をつぶさに見てきた。ドミニカ国は昨年9月の集中豪雨で大規模な土砂崩れに見舞われ、多くの車・家屋や橋が流された。その結果、電気の供給が滞り、断水状態が続いたコミュニティーも少なくない。

「気候変動の問題は、突き詰めれば問題に対処できるかどうかは十分な対策費を確保できるかどうかにかかっています。つまり本質的にはお金の問題なのです。カリブ海諸国は、長らく続いた経済不況から、ゆっくりながら、ようやく抜けそうとしている時期にあります。そのような状況ですから、気候変動によって引き起こされている諸問題に対処していく必要など持ち合わせていないのです。」とフッド外相は嘆いた。

こうした問題に対して、グレナダなど、カリブ・太平洋地域の43ヶ国が集まって「小島嶼国連合」(AOSIS:カリブ海・太平洋の島嶼国43か国が参画)を組織した。連合を組むことで、数の力を声の力に変えようとしているのである。

「私たちは声を一つにして訴えていきます。…そうすることで、より多くの二酸化炭素排出し、地球を最も汚している大国の耳にも私たちの声が届き、私たちがどこからきているかについて理解させることが出来るのです。私たちは、気候変動問題に関して新たな変化がおこるまで、声を大にして支援を訴え続けていくつもりです。」とフッド代表は語った。

フッド外相は、「国際社会全体が、気候変動問題はきわめて、きわめて深刻な問題だと考えなくてはならないものです。なぜなら、気候変動がもたらしている事態を依然として軽く見ている者がいるからです。我々の任務は極めて重いものなのです」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan山口響/浅霧勝浩

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脅迫をやめて、対話を始めるべきだ(ヨハン・ガルトゥング・トランセンド平和大学学長)

【IPS コラム=ヨハン・ガルトゥング】

我々は現在、国家システムの最悪の部分を目の当たりにしている。侮辱と脅迫、制裁のやり取り、暴力に訴える準備が進められ、米国は有事の際の保障として軍の一部をイスラエルに前方展開している。一方、一般の民衆に対する配慮や、戦争が中や世界に及ぼす深刻な悪影響については真剣に考えられていない。

またメディア報道も、あたかも戦争は不可避かのごとく、両者の対立と事態の悪化を報じるニュースで埋め尽くされており、調停者を介して当事者が対話に臨み、問題解決を模索するという、武力対決よりも遥かに優れた選択肢に関しては、ほとんど報道されていない。

米国とイスラエルは、みずから核兵器保有国であるにもかかわらず、イランの核武装を危惧している。しかし、米国は、ソ連や中国との対話に進む前に、長いことそれらの国の核と共存していた。イスラエルもパキスタンの核と共存している。だとすれば、なぜ、まだ核武装した証拠もないイランと共存できないのだろうか。

 
国際原子力機関のモハメド・エルバラダイ元事務局長がひとつの答えを提供している。それは、西側諸国がイランの体制転換(レジームチェンジ)を望んでおり、核開発疑惑を口実に利用しているというものである。またエルバラダイ氏は、イランのマフムード・アフマディネジャド政権も、「シオニズムのない世界」を目指すとして、シャー体制後のイランやソ連崩壊後のロシア、サダム・フセイン後のイラク等になぞらえてイスラエルの体制転換を訴えている点を指摘している。アフマディネジャド大統領は、「イスラエルを地図から抹殺する」とは発言しておらず、もしイスラエルが1967年6月4日時点の国境を認めるならばイスラエルを国家承認するとしたリヤド宣言を支持している。

西側諸国は、こうした口実を根拠に、対イラン経済制裁を繰り返し、イラン民衆の間に不満と憎悪を掻き立て政府の政策の変更を迫ることを目指してきたが、結果は裏目にでてしまっている。確かにイラン国民はこうした制裁に苦しんできたが、彼らの不満は自国の指導者に対してよりも、むしろ苦境の直接的な原因であるイスラエル、米国、欧州連合、国連や、軟禁状態にある反体制派指導者フセイン・ムサウィ氏に向けられた。

米国・イスラエル両国は、シャー体制下のイランが、米国が任命した中東の管理者としてオマーンのドファール内戦等に積極的に介入していた時代にできれば回帰したいと願っているかもしれない。しかしシーア派のイランを使ってスンニ派が大勢を占める中東地域の秩序をはかろうとした試みには土台無理があった。モハンマド・レザー・シャーはCIAMI6を後ろ盾に断行した1953年のクーデター以来、25年に亘る開発独裁体制を敷いたものの、結局はシーア派と共産党を含む幅広い国民の反発を招いて追放された。

アングロ・アメリカにとっては、諜報部門を使いながら、アラブやイスラム教政権を嘲笑するような態度をとることは普通のことなのかもしれない。しかし、イランにとっては、左翼であれ、中道であれ、右翼であれ、深い恥辱感しか残らない。

さらにイスラエルとアラブ諸国の対立(パレスチナ人との対立はその一部である)構図を考慮しておくことが重要である。事実上中東で唯一の核兵器保有国であるイスラエルが地域の盟主になることが出発点であるとは思われない。では、どのようなシナリオが議論されているのだろうか?

世界有数の石油輸出国であるイランは、ホルムズ海峡封鎖を示唆している。もしそのような事態となれば世界経済に極めて深刻な悪影響が及ぶだろう。とりわけバイオディーゼルに依存している地域では食糧難が引き起こされる恐れもある。西側諸国は、シーア・スンニ派の壁を越えるイスラム教徒の連帯を軽く見てはならない。もしイランに攻撃を加えるようなことになれば、シリアにヒズボラ、ハマス、その他のイスラム集団が手を組むことになるかもしれない。現在のサウジアラビアの立場すら、そのままではいられないかもしれない。

イランに体制転換をもたらし中東の覇権国としてイスラエルの拡張を継続させるという現在の政策は、かえって反イスラエル勢力を活気づかせることとなり、現実的ではない。またイスラエルがイランの核武装を止めさせるとして、たとえ関連施設のピンポイント爆撃に成功したところで、効果は一時的なものでしかないだろう。

それでは出口はあるのだろうか?

欧州では、冷戦期、1973年から75年にかけてヘルシンキ会議が開かれた。欧州に中距離ミサイルを配備したかった米国はこのプロセスを回避したが、それでも、これが東西の緊張緩和をもたらし、1989年の冷戦終結を準備することになった。

和解への第一歩は、ヘルシンキ・プロセスをモデルとした、中東安全平和会議の実現であろう。それは、2012年に予定されている、中東非核地帯化に関する会議に始まる。

中東地域でフィンランドの役割を果たせられるのは誰だろうか?それはもしエジプト国軍がキャンプデービッド合意に伴う米国からの援助が滞るリスクを冒してでも中東平和を志向する用意があるとしたら、「エジプトの新旧勢力」ということになるだろう。もしエジプトがそうした中東和平に貢献する役割を担うとしたら、将来長年に亘って中東における盟主の地位を確実なものとすることができるだろう。

そのような中東和平構想においては、以下のような議題が考えられるだろう。

*イスラエルとイランを含む中東非核兵器地帯

*民衆が自ら政権を選択できるよう自由で公正な選挙を共同で監督する仕組み

*1958年に発効したローマ条約(後に欧州連合へと発展した基本条約)をモデルとした安全保障機構を伴う「イスラエルと近隣諸国による中東コミュニティー」の創設

これらは全て、一時イスラエルも席巻した「アラブの春」の精神に沿うものである。さらに、共同開発のための経済協力を議題に加えてもいいだろう。 

「イスラエルとイランの両方が核兵器を持つのと、両者がそれを持たないのと、どちらがよいか」と質問されたイスラエルのユダヤ人の65%が、どちらも持たない方がよいと回答している。また、64%が中東非核地帯化を支持している。これによってイスラエルが核兵器を放棄しなくてはならないということを説明されても、なおそのように回答しているのである。」

イラン国民も同じように答えるだろうか?おそらくそうだろう。彼らもまた生存を望んでいるのではないだろうか?それは、彼ら自身が決めることだ。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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│グアテマラ│戦争の被害者、忘却の被害者

【グアテマラシティIPS=ダニーロ・ヴァジャダレス】

「1982年、彼らは私のお母さんと15人の人間を殺し、私たちの家を焼き払いました。私たちはいま支援を得ようとしていますが、まだ何も手にしていません。」こう語るのは、グアテマラの先住民族イクシル族のハシント・エスコバルさんである。

「当時彼らは、村人たちを中に押し込めたまま家屋を焼き払っていきました。幸い、私は我が家が襲撃された時に不在だったので、隠れることができたのです。」とエスコバルさんは、内戦の被害がとりわけ大きかった北西部のキチェ県で取材に応じて語った。

彼は、グアテマラ内戦(1960~96)の犠牲者の一人である。左翼ゲリラと政府軍との戦いの中で、主に先住民のマヤインディアンを中心に約25万人が死亡あるいは行方不明になった。国連の支援した「歴史解明委員会(Historical Clarification Commission)」の調査によると、死亡の93%は政府軍側に原因があるという。

1996年12月29日、グアテマラ政府とグアテマラ民族革命連合との間で和平協定が結ばれた。このとき軍側の代表であったのが、1月にグアテマラの大統領に就任したオットー・ペレス・モリーナであった。その際、内戦の被害者に対する補償や先住民のアイデンティティや権利に関する協定が結ばれた。

また2003年には、政府による被害者補償の枠組みが創設された。経済的損害に対して土地や住居などで補償をしたり、心理的な支援などを行うことがそのおもな内容である。

しかし、政府内の腐敗や縁故主義などにより、補償制度を自らの利益のために悪用する政治家が後を絶たない状況が続いており、未だに多くの被害者が補償されるのを待ちわびている。

チマルテナンゴ州の被害者マニュエル・テイさんは、「ここでは2011年に補償プログラムの一環として576軒の家が建てられたが、建築はまだ道半ばです。私たちは家を完成させるために、自分たちで建材を買ったり、職人を雇わなくてはなりませんでした。」と語った。そうした政府支給の家屋の中には建ってわずか3ヶ月でもう床が割れ始めたところもあるという。

しかしテイさんは、賠償金を得るためには政府やNGOによる煩雑な手続きを経なければならなかった。そこでカクチケル・マヤ語で「種子(Q’anil)」という名前の会を立ち上げた。

これまでにテイさんと内戦を生き残った兄弟が獲得した賠償は、36平方メートルの家屋と、3600ドルの現金である。

それでも、賠償プログラムに従事していた元役人達が会計の不正処理をしていたという報道を耳にしていなかったら、犠牲者たちはこんなにも憤りを覚えることはなかっただろう。

紛争遺族会(Associations of survivors of the conflict)を含むNGO19団体が2010年から11年にかけて行った社会監査では、こうした政府による補償事業の問題点として、プロセスの不透明性、恣意的な判断、差別があったことなどを挙げている。

2011年、32の先住民族団体が、政府は内戦被害者に適切な補償を行っていないとして、米州人権委員会(IACHR)に提訴した。

また犠牲者に対する精神面、社会面における支援や、社会復帰を支援する努力が欠けている問題点も指摘されている。

戦争被害者を支援している「犯罪科学分析・応用科学センター(CAFCA)」のセルジオ・カストロさんは、「これまでの補償は経済的・物質的な支援に偏っており、しかも補償がなされた被害者は全体の2割程度にとどまっています。」「一方、被害者達が内戦当時奪われた土地の返却や、破壊された農地への投資、強姦された女性に対するケアといった対策は、政府の補償プログラムに明記されているにも関わらず、実施されていません。」と政府の対応を批判した。

またカストロさんは、「犠牲者と加害者が同じコミュニティーで暮らしている現実を考えれば、内戦で崩壊した社会構造を再建し彼らが再び平和裏に共生していけるようにするためには、犠牲者に対する精神面の支援が大変重要になります。」と語った。

ラテンアメリカでは、チリやアルゼンチンのように、かつて軍事独裁政治を経験した国々では、犠牲者に対して経済的、社会的補償制度を実施した事例がある。またその他の先例では、ドイツ政府がナチスによるホロコーストの犠牲者に対して行った事例がある。

連れ合いを奪われたグアテマラ女性の会(CONAVIGUA)のフェリシア・マカリオさんは、「グアテマラ政府の場合、内戦の被害者に対する支援を真剣に行おうとする意志が欠如しているのです。」と語った。

内戦時代国軍の特殊部隊で戦い和平合意の軍側の代表をつとめたペレス・モリーナが大統領に就任したという政治状況は、内戦の被害者にとって必ずしも明るい兆しとは言えない。

「現大統領が内戦終結を合意した当時の軍側の当事者であったということは、ますます彼は犠牲者へ約束された補償を実行に移す道義的な責任があるはずです。しかし実際のところ、モリーナ大統領がはたして補償プログラム予算をどのように取扱いかを見極めるまでは、なんともいえません。」

被害者補償に割り当てられた2012年の予算は1050万ドル。しかし、社会団体は、約4000万ドルは必要だと議会に訴えかけている。

活動家たちは、内戦で家族や家屋、田畑を失った人々にとって援助は極めて大事という。「とりわけ、精神的、社会的支援は重要です。」とマカリオさんは語った。

「犠牲者への補償は、内戦中に悲惨な暴力を経験してきた人が、その経験を克服していく上で大変重要な役割を果たすことができます。内戦中、グアテマラでは何千人もの女性が国軍による暴行に晒されてきましたが、政府は未だに彼女達に対する支援の手を差し伸べていないのです。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

核廃絶にあいまいな態度を貫くフランス

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【パリIDN=ジュリオ・ゴドイ】

フランス外務省に対して、中東の非核兵器地帯化に関する同国の立場を問うたならば、フランスの大使がニューヨークやジュネーブの国連で行った演説を紹介して、わが国は核不拡散条約(NPT)の世界的な履行を支持しているという公式見解が返ってくるだろう。

確かにフランスは、NPT運用検討会議において採択された決議の目標、とりわけ中東における非核地帯の創設を1990年代中盤以来支持し、1995年会議における特定の決議(中東非核兵器地帯化に関するもの:IPSJ)の履行を呼びかけている。

しかしこれまでの事実関係に目を向ければ、このフランスの見かけ上の強固な立場は、結局は中東非核兵器地帯を創設するという大義に対する単なるリップサービスに過ぎないことが分かるだろう。とりわけ、これがイスラエルの核兵器政策を問題化したり、先の(1995NPT運用い検討会議の)決議履行(=イスラエルのNPTへの加盟)を迫るときに、そのことが明らかになる。

中東の非核兵器地帯化に対するフランスのあいまいな態度は、2010年5月にははっきりとしていた。イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相が、非核兵器地帯化は「偽善的で」「欠陥だらけ」だと評したときのことである。この声明は、NPTの189の加盟国が中東の非核兵器地帯化に関する合意に達したことを受けての反応であった。

NPT未加盟のイスラエルは、「最終文書は中東の現実や中東や世界全体が直面している真の危機を無視している。決議が非常にゆがめられた性格を持っているのだから、イスラエルはその履行に参加する気はない。」と批判した。

安保理理事国であり核兵器国でもあるフランスは、このイスラエルの明示的な態度に対して反応を示さなかった。

フランスの二面的な戦略はすでに2005年から明らかであった。このとき、ジュネーブ軍縮会議(CD)のフランソワ・リバソー仏大使は、同会議の会合において、イランがその「秘密の核開発計画」によって「核拡散の危機」を引き起こしているとして非難した。他方で、リバソー大使は、NPT未加盟のインド、イスラエル、パキスタンについては、「交渉を通じて、核不拡散と輸出規制の国際基準に可能なかぎり引き込む」ことが「のぞましい」と控えめに述べていたのだった。

この3か国はいずれも大規模な核戦力を保有している。こうした対話によっては、少なくとも210発の核兵器―これはインドとパキスタンの核兵器保有量の合計を上回っている―を保有するイスラエルを抑えることができていないという事実を、フランス政府は無視しているようだ。

したがって、イランの核開発疑惑に対する非難を繰り返すことを除いては、中東に関する議論に関して、フランスに見るべき貢献がないことは、驚きに値しない。2011年11月9日、アラン・ジュペ外相は、国際原子力機関(IAEA)の出した評価によって「イランの核開発に関するフランスの懸念は強まることになった」と述べた。

さらにジュペ外相は、「我々はイランに対する外交的な圧力を強めるうえで、次の段階に進まなければならない。もしイランが国際社会の要求を拒み、すべての協力を拒否するのならば、我々は国際社会の支援を得て、イランに対する前例のない規模の制裁を発動することになろう。」と付加えた。

一方でジュペ外相は、イスラエルの核兵器政策や、同国が中東非核兵器地帯化に関する国際会議を拒否していることについて、批判したことはない。

外交関係の専門家らは、EU諸国のほとんどに典型的なこうした二重基準ゆえに、この政策を巡るフランス外交の見識と公正さに疑問を投げかけている。

核不拡散・軍縮議員連盟(PNND)フランス支部のジャン-マリー・コリン代表は、「政府による主張とは反対に、核軍縮に関する議題と討論は、NPT運用検討会議が最後に開かれた2010年5月で終わったわけではない」と語った。

コリン代表は、国連と市民社会組織は(NPT運用検討会議後も)引き続き核兵器のない世界実現に向けた取り組みを進めてきた点を指摘した。そしてそうした取り組みの中でも、とりわけ具体的な成果として、2012年中東会議の実現に向けた動き、特に「フィンランド外務省のヤッコ・ラーヤバ外務事務次官がファシリテーターとして任命された」重要性を強調した。

またコリン代表は、フランス政府は、様々な公式発言とは裏腹に、「実質的な核軍縮を巡る政治的駆け引きにおいては、部外者に留まっている。」と指摘した。

フランス政府は言行不一致が目立っているが、市民社会の方は、大量破壊兵器、とりわけ核兵器が中東で拡散する可能性を危惧している。平和団体の「元追放者・戦時捕虜・抵抗者・愛国者全国連盟」(FNDIRP)はこの1月に発表したコミュニケで、対イラン戦準備を進めているイスラエルを批判している。

またFNDIRPは、イランはNPT加盟国であり、核技術を民生用にのみ利用すると繰り返し公約している点を指摘した。また同団体は、イスラエルによるイランへの軍事攻撃は、中東全域にわたって「予測不可能な結果」をもたらしかねず、さらに、「イランの核研究開発を阻止するために行うそうした攻撃の有効性は不透明であること」に注意を向けるべきだとしている。

さらにFNDIRPは、中東におけるNPTの完全履行を呼びかけ、国連の枠内での議論が「もっとも有益なこころみ」であると主張した。そのうえで、イスラエル、イランをはじめとした中東のすべての国に対して、「中東のすべての国に平和と安全をもたらす非核兵器地帯の創設に向けて必要な措置を国連の枠内で履行すること」を強く求めている。

しかし、こうしたアピールは希望的観測に過ぎないと予測するフランスやスイスの外交専門家もいる。

スイス連邦技術研究所安全保障研究センター(CSS、チューリッヒ)の研究者らは、「構造的な要素を見れば、(中東における核)軍縮は時期尚早である」と考えている。

CSSのリビウ・ホロビッツ研究員は、「スイス連邦技術研究所安全保障研究センター」とわかりやすいタイトルを付けられた報告書の中で、「イスラエルにとって、核軍縮は必要でも望ましくもない。」一方で、「イランの核問題解決が最重要課題であるが、解決はまだ目に見えていない。」と記している。こうした理由によって、また中東のその他の現在の動きに鑑みるならば、「中東でこの先もっとも起こりそうな情勢の下では、軍縮措置が採られることはないだろう。」と予測している。

そのうえでホロビッツ氏は、それよりも、「現在の状況を保つだけでも相当に難しい課題になる。」と付加えた。

ホロビッツ氏はこの報告書の中で、非核兵器地帯という概念は1950年代にポーランドが中欧において提案したものに淵源がある点を指摘した。またホロビッツ氏は、「この構想は実現することがなかったが、これまでに非核兵器地帯が5つできている。中東では、イスラエルが1960年に核保有国になって以来、エジプトとイランが率いる地域のアクターが、非核兵器地帯の創設を呼びかけることでみずからの外交力を高めようとしてきた。」と語った。

中東非核兵器地帯創設に向けた現在の機運は、2010年のNPT運用検討会議で採択されたいわゆる「行動計画」によって生み出された。同計画では、国連・ロシア・英国・米国の四者に対して、中東諸国と協議の上、「核兵器とその他すべての大量破壊兵器を禁止する地帯を中東に創設することに関して」、2012年に会議を招集する準備を進めるよう要求している。

ホロビッツ氏は、現在の政治的なスケジュールでは、フィンランドで会議を開くにはなかなか困難があると指摘した。「米国政府は今年開かれる大統領選挙に手一杯な状況であるが、すべての中東諸国を参加させ、一般的な意見交換にとどめ、とりわけ今後の行動計画については全会一致の決定方式をとった、短い会議を望んでいる。」とホロビッツ氏は警告した。

さらにホロビッツ氏は、2015年に開かれる次のNPT運用検討会議もそれほど先のことではないと指摘した上で、「イランやシリアのように制度を悪用している国にとっては、自らのNPT遵守問題から目をそらさせるための強いインセンティブと貴重な機会を(運用検討会議は)提供することになるだろう。こうして、もっともありそうな帰結は、各国がこれ以上態度を硬化させることなく、レジーム全体に長期的な傷をつけることのないような、よく運営されてはいるがしかし取り立てて実りのない外交行事ということになるのではないか。」と語った。

従ってホロビッツ氏は、「(中東非核兵器地帯実現の)可能性はきわめて低いと言っておくのが安全でしょう。」と結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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日米友好の証「ポトマック桜」―100年の時を経て(石田尊昭尾崎行雄記念財団事務局長)

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【東京IDN=石田尊昭】

Mr. Takaaki Ishida
Mr. Takaaki Ishida

毎年春になると、ワシントンDCのポトマック河畔に咲き誇る桜並木が話題になる。この桜は、今からちょうど100年前、当時東京市長を務めていた尾崎行雄(号は咢堂。議会制民主主義の父)が東京市参事会に諮り、市から日本国民の「日米友好の証」として公式に寄贈したものである。といっても、尾崎一人の「想い」で実現したわけではない。その背景には、当時の日米両国におけるさまざまな人たちの強い想いと尽力があった。その一端を紹介したい。

1909年、ヘレン・タフト米大統領夫人は、ポトマック河畔の景観整備を検討していたが、それを絶好の機会と捉え、夫人に日本の桜の植樹を勧めた人がいた。米国ジャーナリストで女性として初めてナショナルジオグラフィック協会の役員にもなったエリザ・シドモア女史である。1884年に来日したシドモア女史は、桜を愛でる日本人の心と文化に深く感銘を受けるとともに、桜の美しさに魅了された。帰国後も、その美しさを忘れることができず、なんとかして日本の桜をワシントンに植樹したいと考えるようになった。その後24年間にわたって、植樹のための募金活動や、当局への働きかけをしていた女史にとって、今回の整備計画は逃すことのできない千載一遇のチャンスだった。

また、米農務省にいた植物学者デヴィッド・フェアチャイルド博士も、種苗の研究調査団の一人として1902年に来日して以来、日本の桜の美しさに心を惹かれた一人である。その想いは強く、米国の土地で日本の桜が生育可能かどうかを研究するためメリーランド州チェビー・チェイスの自邸に若木を植栽するほどだった。博士は、親交の深い昆虫学者チャールス・マーラット博士とともに友人たちを招いて観桜会を開催したが、友人の招待客の中にシドモア女史がいた。女史と両博士はその場で意気投合。両博士の賛同と協力を得たシドモア女史は早速、大統領夫人に桜植樹を提案しに行った。実は大統領夫人も1905年に来日し桜の美しさに触れていたことから、この提案を快く受け入れ、ポトマック河畔への桜植樹計画が動き出した。

もう一人は、ニューヨークに在住していた著名な化学者で実業家の高峰譲吉博士(タカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。在留日本人会初代会長)である。対日感情の改善と日米親善に長年取り組んでいた博士は、自身も桜並木をつくる計画を持っており、ニューヨーク市に陳情し続けていた。

タフト大統領夫人の意向を知った博士は、今回のポトマック河畔への桜植樹計画に対し、日本から桜2千本を寄贈することを提案し、さらに、その費用は自分を含む在留日本人の有力者たちで分かち合うことまで提案した。それを聞いた水野幸吉・ニューヨーク総領事は高峰博士の発想を高く評価するとともに、桜は東京市の名義で寄贈されるべきとの提案を行った。そしてタフト大統領は、日本からの桜2000本寄贈の提案を受け入れた。

その後、水野総領事や高平小五郎駐米大使らによる調整の末、桜は日本の首都・東京市から公式に寄贈すべきということになり、外務省から東京市に打診があった。尾崎東京市長は以前から、日露戦争(1904~05)の際に好意的だったアメリカへの感謝の気持ちを何らかの形で表したいと考えていたため、これを好機と捉え快諾した。そして1909年8月、東京市会は、桜苗木2千本をワシントンDCへ寄贈することを決定した。

しかし、翌年1月にワシントンDCに到着した桜は、検疫官によって害虫が発見されたため、ハワード・ウィリアム・タフト大統領は、これらの桜の木すべてを焼却処分にせざるを得なかった。それを知った尾崎市長は、健全かつ優良な苗木を育成し、再び贈ることを市参事会に諮り、同年4月に決定した。そして1912年3月、害虫も病気も無い桜の苗木3千本がワシントンDCに到着し、無事ポトマック河畔に植樹された。ちなみにその苗木は、当時の専門家が驚くほど優良で、完璧な出来栄えだったという。
 

 Japanese cherry trees (Sakura), a gift from Japan in 1965, adorn the Tidal Basin in Washington, D.C. during the National Cherry Blossom Festival. The Washington Monument is visible in the distance. Credit: US Department of Agriculture.
Japanese cherry trees (Sakura), a gift from Japan in 1965, adorn the Tidal Basin in Washington, D.C. during the National Cherry Blossom Festival. The Washington Monument is visible in the distance. Credit: US Department of Agriculture.

また、桜寄贈から3年後の1915年には、その返礼として米国からハナミズキの苗40本が贈られ、東京市内の公園や植物園に植栽された。日本国民への返礼の花にハナミズキを選定したメンバーの一人に、上述のフェアチャイルド博士もいた。彼は、米国の子供達が日本の桜を愛でるとき、日本の子供達にも米国のハナミズキを観て喜んでほしい、そうすることで日米友好の絆を深めてほしいという強い想いを持っていた。

ポトマック桜について、もう一つ忘れてはならないことがある。1938年、ポトマックに隣接するタイダル池に米国建国の父の一人トーマス・ジェファーソン第3代大統領記念堂が建設される際、358本の桜の木を切り倒すことが計画された。しかし伐採の当日、ワシントンDCの婦人団体が、自分の体を木に縛り付け抵抗し、270本の桜の命を守り抜いた。

ヘレン・タフト大統領夫人、エリザ・シドモア女史、デヴィッド・フェアチャイルド博士、チャールス・マーラット博士、高峰譲吉博士、尾崎行雄東京市長、そしてワシントンの婦人団体…。もちろん、このほかにも、多くの有名無名の人たちの努力があったことは言うまでもない。特に、二度目の桜寄贈に向け、国の威信をかけて健全な苗の培養に取り組んだ専門家や職人、地域の人々の苦労は計り知れない。ポトマック桜は、そうした先人たちの想いと尽力によって実現し、守られてきたものである。

その桜のもとで、今年もまた「全米桜祭り(National Cherry Blossom Festival)」が3月20日から4月27日の5週間にわたって開催されている。祭りでは、昨年から今年にかけ、さまざまなプログラムを通じて昨年3月11日に発生した東日本大震災の被災者支援の取り組みが行なわれている。特に今年は、被災地・福島の小中学生による太鼓演奏やパレード参加などが予定されている。100年の時を経て、今また両国民による新たな「想い」が、日米友好の「絆」を深めているように思える。(原文へ

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日米友好の証「ポトマック桜」ー100年の時を経て(石田尊昭尾崎行雄記念財団事務局長)

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【東京IDN=石田尊昭

毎年春になると、ワシントンDCのポトマック河畔に咲き誇る桜並木が話題になる。この桜は、今からちょうど100年前、当時東京市長を務めていた尾崎行雄(号は咢堂。議会制民主主義の父)が東京市参事会に諮り、市から日本国民の「日米友好の証」として公式に寄贈したものである。といっても、尾崎一人の「想い」で実現したわけではない。その背景には、当時の日米両国におけるさまざまな人たちの強い想いと尽力があった。その一端を紹介したい。

1909年、ヘレン・タフト米大統領夫人は、ポトマック河畔の景観整備を検討していたが、それを絶好の機会と捉え、夫人に日本の桜の植樹を勧めた人がいた。米国ジャーナリストで女性として初めてナショナルジオグラフィック協会の役員にもなったエリザ・シドモア女史である。1884年に来日したシドモア女史は、桜を愛でる日本人の心と文化に深く感銘を受けるとともに、桜の美しさに魅了された。帰国後も、その美しさを忘れることができず、なんとかして日本の桜をワシントンに植樹したいと考えるようになった。その後24年間にわたって、植樹のための募金活動や、当局への働きかけをしていた女史にとって、今回の整備計画は逃すことのできない千載一遇のチャンスだった。


また、米農務省にいた植物学者デヴィッド・フェアチャイルド博士も、種苗の研究調査団の一人として1902年に来日して以来、日本の桜の美しさに心を惹かれた一人である。その想いは強く、米国の土地で日本の桜が生育可能かどうかを研究するためメリーランド州チェビー・チェイスの自邸に若木を植栽するほどだった。博士は、親交の深い昆虫学者チャールス・マーラット博士とともに友人たちを招いて観桜会を開催したが、友人の招待客の中にシドモア女史がいた。女史と両博士はその場で意気投合。両博士の賛同と協力を得たシドモア女史は早速、大統領夫人に桜植樹を提案しに行った。実は大統領夫人も1905年に来日し桜の美しさに触れていたことから、この提案を快く受け入れ、ポトマック河畔への桜植樹計画が動き出した。

もう一人は、ニューヨークに在住していた著名な化学者で実業家の高峰譲吉博士(タカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。在留日本人会初代会長)である。対日感情の改善と日米親善に長年取り組んでいた博士は、自身も桜並木をつくる計画を持っており、ニューヨーク市に陳情し続けていた。

タフト大統領夫人の意向を知った博士は、今回のポトマック河畔への桜植樹計画に対し、日本から桜2千本を寄贈することを提案し、さらに、その費用は自分を含む在留日本人の有力者たちで分かち合うことまで提案した。それを聞いた水野幸吉・ニューヨーク総領事は高峰博士の発想を高く評価するとともに、桜は東京市の名義で寄贈されるべきとの提案を行った。そしてタフト大統領は、日本からの桜2000本寄贈の提案を受け入れた。

その後、水野総領事や高平小五郎駐米大使らによる調整の末、桜は日本の首都・東京市から公式に寄贈すべきということになり、外務省から東京市に打診があった。尾崎東京市長は以前から、日露戦争(1904~05)の際に好意的だったアメリカへの感謝の気持ちを何らかの形で表したいと考えていたため、これを好機と捉え快諾した。そして1909年8月、東京市会は、桜苗木2千本をワシントンDCへ寄贈することを決定した。

しかし、翌年1月にワシントンDCに到着した桜は、検疫官によって害虫が発見されたため、ハワード・ウィリアム・タフト大統領は、これらの桜の木すべてを焼却処分にせざるを得なかった。それを知った尾崎市長は、健全かつ優良な苗木を育成し、再び贈ることを市参事会に諮り、同年4月に決定した。そして1912年3月、害虫も病気も無い桜の苗木3千本がワシントンDCに到着し、無事ポトマック河畔に植樹された。ちなみにその苗木は、当時の専門家が驚くほど優良で、完璧な出来栄えだったという。
 
また、桜寄贈から3年後の1915年には、その返礼として米国からハナミズキの苗40本が贈られ、東京市内の公園や植物園に植栽された。日本国民への返礼の花にハナミズキを選定したメンバーの一人に、上述のフェアチャイルド博士もいた。彼は、米国の子供達が日本の桜を愛でるとき、日本の子供達にも米国のハナミズキを観て喜んでほしい、そうすることで日米友好の絆を深めてほしいという強い想いを持っていた。

ポトマック桜について、もう一つ忘れてはならないことがある。1938年、ポトマックに隣接するタイダル池に米国建国の父の一人トーマス・ジェファーソン第3代大統領記念堂が建設される際、358本の桜の木を切り倒すことが計画された。しかし伐採の当日、ワシントンDCの婦人団体が、自分の体を木に縛り付け抵抗し、270本の桜の命を守り抜いた。

ヘレン・タフト大統領夫人、エリザ・シドモア女史、デヴィッド・フェアチャイルド博士、チャールス・マーラット博士、高峰譲吉博士、尾崎行雄東京市長、そしてワシントンの婦人団体…。もちろん、このほかにも、多くの有名無名の人たちの努力があったことは言うまでもない。特に、二度目の桜寄贈に向け、国の威信をかけて健全な苗の培養に取り組んだ専門家や職人、地域の人々の苦労は計り知れない。ポトマック桜は、そうした先人たちの想いと尽力によって実現し、守られてきたものである。

その桜のもとで、今年もまた「全米桜祭り(National Cherry Blossom Festival)」が3月20日から4月27日の5週間にわたって開催されている。祭りでは、昨年から今年にかけ、さまざまなプログラムを通じて昨年3月11日に発生した東日本大震災の被災者支援の取り組みが行なわれている。特に今年は、被災地・福島の小中学生による太鼓演奏やパレード参加などが予定されている。100年の時を経て、今また両国民による新たな「想い」が、日米友好の「絆」を深めているように思える。(原文へ

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