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│パレスチナ│映画│ある街の「非武装の勇気」

【ワシントンIPS=エレン・マッシー】

アイド・モラール氏は、一見ただの物静かな小柄な男に過ぎない。しかし、このまったく無名な男が、パレスチナの非暴力抵抗運動の顔になったのである。

モラール氏は、最近封切られた映画「バドラス」の主人公である。この映画は、イスラエルの設置する「セキュリティ」壁に対抗して、平和裏に抵抗運動を進めるヨルダン川西岸(ウエストバンク)バドラス村の人々を描いている。

ワシントンDCとエルサレムを拠点とするジャストビジョン(Just Vision)が制作した本作品には、次のようなシーンが力強く映し出されている:数十本のパレスチナ国旗をはためかせながら麓のイスラエル軍とブルドーザーに対峙するために岩だらけの丘を歩いて下ってくる村人達の姿、ブルドーザーで無残に掘り起こされ曲がりくねった根をさらけだして赤土に横たわる(おそらく太古からそこに育ってきたであろう)オリーブの木々、そして抗議者の様々な表情…まだあどけない子供達の顔、あたかもこの地の生活と苦悩を顔に刻みこんだような、よく日焼けした皺だらけの老人の顔、しかしこの地に生きることに誇りを持ち、決してこの地を追い立てる迫害には屈しない固い決意と信念に満ちた表情…。

 しかしこの映画のもつ強力なメッセージ性は、欧米のメディアに浸透しているパレスチナ人抵抗運動のイメージとは対照的な点にある。欧米のメディアでは、緑のバンダナとマスクをしたハマス戦士の姿から、イスラエル軍の戦車に投石する子供たちの姿まで、パレスチナ人による「暴力的な抵抗」のイメージが大勢を占めており、本作品「バドラス」のプロデューサーであるロニット・アブニ氏が言う(パレスチナ人による)「非武装の勇気」という側面がヘッドラインを飾ることはない。

先週ワシントンDC地域で催された上映会の一つに出席した地元選出のブライアン・ベアード民主党下院議員は、2009年にオバマ大統領が「パレスチナ人は暴力を放棄しなければならない」と発言したカイロ演説を含むパレスチナ人に対する非暴力の訴えについて言及し、「マハトマ・ガンジーやマーチン・ルーサーキング牧師のような指導者が必要だ」と観衆に語りかけた。そしてモラール氏の方に向き直って「皆さんの目の前に、まさにそのような指導者がいます。」と語った。

ベアード下院議員とミネソタ州選出のキース・エリソン民主党下院議員の両氏が出席した上映会は、米国連邦議会からほんの数百ヤード離れた場所で開催された。両議員は上映後に開催した討論会にもモラール氏、プロデューサーのロニット・アブニ氏、ジュリア・バッカ氏と並んで参画した。

エリソン議員は、下院議会のある議事堂のフロアで有志と共にこの映画のチラシを配っていることを打ち明けた。エリソン議員は、「(議員達から)どれほどの関心を獲得したかは未知数ですが、チラシ配布をやめるつもりはありません。」と語った。

ベアード、エリソン両議員はイスラエル・パレスチナ紛争に対する米国の政策に関して熱心に取組んでおり、下院議会において、しばしば米政界の大多数の意見に反する立場をとってきた。また両議員はゴールドストン報告書を非難する米下院決議に反対した数少ない議員であり、2008年末から翌年初めに実施されたイスラエル軍によるガザ侵攻後にガザ地区を訪問した最初の米国議員団のメンバーでもある。

このように米国の議員が参画して映画「バドラス」の存在について語ることこそ、映画のメッセージを一般の人々に伝えていこうとする制作者達の悲願である。なぜなら映画「バドラス」は、ベルリン国際フェスティバルや先週ワシントンDCで開催されたばかりのシルバードックスフェスティバル等、世界中の映画祭で成功を収めているにもかかわらず、(政治環境が明らかにイスラエル政府支持の)米国では大手の映画の配給元を見つけるのが極めて困難だからだ。

この点についてプロデューサーのアブニ氏は、「映画のテーマが(米国では)あまりにも政治的に厄介なものなのです。私たちは様々な障害にぶつかることになるでしょう。」と打ち明けた。

映画「バドラス」の米国プレミアショーは、60年に及ぶパレスチナ紛争への注目が高まる中で開催されることとなった。ヨルダン川西岸地区(ウエストバンク)におけるユダヤ人入植地政策を巡っては、オバマ政権とメンヤミン・ネタニヤフ首相の間で不協和音がおこっており、さらに先月にはイスラエル軍が公海上で(ガザ地区への救援物資を輸送中の)船上の平和活動家を急襲し殺害するマビ・マルマラ号事件が勃発するなど、占領下にあるパレスチナ領域を巡る国際世論の圧力は変化しつつある。

映画「バドラス」が誕生し、制作者やベアーズ、エリソン両議員のような政策責任者がそのメッセージを多くの人々が聞くべきだと熱心に訴え続けている今日の動きこそがそうした新たに生じつつある変化の一例といえよう。

エルサレム旧市街近くのシェイク・ジャラ村におけるユダヤ人入植地拡大計画に対する抗議運動から、ウエストバンクのビリン村、ニリン村におけるイスラエル当局によるセキュリティ壁建設に対する抵抗運動、そして、今回のイスラエル軍による襲撃事件に先立ってガザへ物資を運んだ5隻の支援船など、非暴力の抗議運動は、パレスチナ占領地域におけるイスラエルの諸政策に対して、事件でもなければほとんど注意を払わない国際世論の無関心にもかかわらず、粘り強い抵抗を継続している。

このような非暴力的な抗議行動は、時として成功を導いている。バドラス村では、イスラエルがセキュリティ壁の設置位置をグリーンラインに近づけ、村の土地の95%を守ることができた。

一方シェイク・ジャラ村では、昨年11月以来の毎週の抗議活動にも関わらず、ユダヤ人入植者の住宅建設が今週になって開始された。しかし映画「バドラス」に描かれているように、村の抗議行動は、多様な宗教、人種、国籍に属する人々が行動をもとにすることに成功している。

映画制作者は、イスラエル当局と対峙した活動家によって現場で撮影された不安定ながら臨場感がある映像と、非武装の抗議参加者への対応に戸惑うイスラエル国境警備隊を含む全ての当事者へのインタビュー、そして各種メディア報道の内容を巧みにつなぎ合わせることで、バドラス村の出来ごとのみならず、パレスチナ占領問題全体をとりまく多面的な側面を観客が理解できるように工夫を凝らしている。

6月中旬に米国映画協会で催された上映会に出席したアイド・モラール氏は、観客に対してシンプルながら率直な英語表現で「今私達が目にしたのは異なる種類のイスラエル人です。」と語った。彼が言及したのは映画の中に登場したバドラス村でパレスチナ人の村人たちと行動を共にするイスラエル人活動家達のことである。

「米国からもバドラス村をはじめセキュリティ壁の建設ルートにある村々に活動家達が合流して行動を共にしています。こうした私たちの非暴力の抗議活動を支えてくださっている米国の人々を誇りに思っています。」とモラール氏は続けた。

抗議活動の現場から数千マイル離れたところで群衆を前に穏やかな物腰ながら明確なメッセージを伝えつづけるモラール氏や映画制作に携わった人々の存在こそが、この映画「バドラス」が持つ最も強力な側面かもしれない。この映画が描いた内容は、バドラスというパレスチナの一つの村、そしてそこで非暴力運動に身をささげる一人の人間に焦点をあてたものにすぎないかもしれないが、この作品は世界が往々にして見過ごしがちな、こうした無名の村人たちの顔や声を生き生きと伝えている。

映画「バドラス」は、来週パレスチナ自治政府の所在地ラマラとエルサレムで公開される予定である。(原文へ)

翻訳=IPS Japan

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|輸送と環境|「危険を克服し、更なる安全輸送を目指す」(江森東)

【東京IDN=浅霧勝浩】

Azuma Emori
Azuma Emori

江商運輸株式会社、今では商社が輸入した危険物-主にファインケミカルと飲料用アルコール-を、港から関東一円(東京都及び隣接5県)の顧客工場まで輸送しているが、の歴史を紐解くと、そこには長い人間のドラマを垣間見ることができる。1969年に先代の江森良夫氏が同社の前身を設立する前は、江森石油株式会社が、東京都、埼玉県で27のガソリンスタンドを経営していた。

息子の江森東氏-現江商運輸社長-が話してくれた同社の歴史は、敗戦から驚異の回復力を持って戦後の「日本」を築きあげた日本人の弾力性を体現したものである。

終戦から6か月前の1945年2月、鎌倉時代(12世紀)から続く埼玉の料亭の跡継ぎであった江森社長の父、良夫の元にも召集令状が届き、陸軍兵士として船で朝鮮に運ばれた。

関東軍勤務を命じられた良夫は、そこから当時日本が実質支配していた「満州国」行きの軍用列車に乗ったが、中国・朝鮮国境通過後、列車は南に方向を変え、最終的には中国南部の広州にたどり着いた。

Gosho Unyu

良夫はそこで僅か3つの戦闘に参加したところで、本国日本は広島・長崎に原爆が投下され間もなく降伏、現地で終戦を迎えることとなった。良夫の部隊は「八路軍」(1937年から1945年まで日本と戦った「新四軍」と並ぶ中国共産党革命軍)の捕虜となった。

息子の東社長は、2年間の捕虜生活を経て中国から帰国した父が話してくれたことをよく覚えている。父良夫は捕虜収容所で日本軍士官達の会話に注意深く耳を傾けていた。それは当時、あらゆる情報が軍士官達のもとに集まってくるからであった。彼らは、「石油こそが時代の要請に不可欠なものであり、日本の敗因は、ある意味で石油不足が原因だ。」と話していた。

戦時中の度重なる爆撃で荒廃し、厳しい食料不足に苦しむ日本に帰国した父良夫は、新しい時代の要請に対応できる新たなビジネスを始めなければならないと確信した。そして、代々続いた実家の料亭を再建するのではなく、代わりにガソリンスタンド経営のビジネスを始めた。こうして江森石油株式会社が誕生した。

しかし時代は下って石油ショックが起こる4年前(1973年)頃になると、父良夫は、石油業界の将来の見通しを憂うようになっていた。そして1969年、江森石油株式会社のタンクローリー部門を分離独立させ、江森運輸を設立した。そしてその8年後、会社名を現在の「江商運輸」に変更した。

当時石油危機が囁かれる中、ガソリンスタンド経営にも陰りが見えていた。

Gosho Unyu


石油についての噂

息子の東社長は当時を思い出して、「当時は世界の石油資源が向こう20年から30年で枯渇するという噂が実しやかに語られていました。そうした状況でしたから、私が拓殖大学を卒業した頃には、父は次々とガソリンスタンドを閉鎖していました。タンクローリーはまだ稼働していましたが、既に自社の石油は運んでいませんでした。」と語った。

「幸い、当時近所に大きな石油備蓄施設があり、父はそこの石油を運ぶことができたのです。そのような状況を見て、私は危機感を覚えたものです。つまり、運送事業経営の安定化を確保するには、日本の基幹産業とリンクした荷物を取り扱うようにしていかなければならないと思ったのです。」と、IDNの取材に応じた江森東社長は語った。

こうした危機感から、息子の東社長は、会社の将来はファインケミカルと飲料用アルコールにあると確信し、それに合わせて会社の運営体制を徐々にシフトしていった。「当初はまだ本格的なファインケミカルの時代ではありませんでした。当社のタンクも鉄製だったので、ファインケミカルを入れるとタンクは腐食しゴムは溶ける状態でした。ですから私は時代の要請に適応できるよう、少しずつステンレスタンクに代えていったのです。」

「私は当時若かったですからどこでも飛び込んで多くの人に会い、自分の考えを聞いてもらいました。幸運なことに、拓殖大学の先輩方を始め年配の方々に可愛がってもらい、多くの助言やチャンスを得ることができたのです。」と江森社長は語った。

江森社長は、当時父親の経営する会社に入社したが、父からそうするように命令されたわけではないという。「実のところ、当時父は運送ビジネスを閉じて貿易部門に活動を絞ることさえ考えていました。もし当時父が私にこの運送会社で働くよう命令していたら、多分違った仕事を選んでいたかもしれません。そんな訳で、当時は時代の要請に応えられない会社なら倒産しても構わないと思っていましたから、思い切ったことができました。また当時はそういうことができた古き良き時代であったのかも知れません。」

その後二つの大手商社(伊藤忠商事、三菱商事)との信頼関係を構築した江森社長は、両社が輸入する基幹産業にリンクした荷物(ファインケミカルと飲料用アルコール)の関東地域における輸送を独占的に手掛けている。

Gosho Unyu

「私たちは、顧客との人間関係を醸成するのはもちろんのこと、荷主企業の厳しい要求に応えられる高い品質を常に向上させていく努力を続けなくてはなりません。」と江森社長は言う。「この点についてISO(国際標準化機構が定めた規格)が日本で導入された際に会社としてどうすべきか取引先に相談しました。その際の回答は、多額の費用を必要とするISOを必ずしも要求・推薦はせず、他の方法でも日本における安全基準を満たしていける方法があるというものだったのです。」

そこで江商運輸はトラック運送事業者の安全・安心・信頼の証となる「Gマーク(安全性優良事業所)」を危険物輸送の会社としては早い段階で認証を獲得した。「結果論ですが、今ではGマークなしに貿易会社の工場内にトラックが乗り入れることは殆ど不可能になっています。荷主企業は安全面に関しては極端と言っていいほど厳しく、私達危険物を扱う運送業者に対して要求されるレベルはかなり高いものです。」と江森社長は語った。

江商運輸は全日本トラック協会が実施するGマーク(有効期限2年)を2005年に取得し、それ以来認証資格を保持し続けている。


更なる安全輸送を目指して

江商運輸では、安全輸送の品質とともに、運転手の安全確保を重視しており、その観点からドライブレコーダー(DR)を導入している。(同社が導入したDRは、事故の映像記録も行うが、運転中のデータが全て記録される仕組みとなっている。さらに点数で総合評価をするようなシステムとなっている。)

「当社が事故防止対策に取組むきっかけは、特別なことではなく、『輸送の安全確保が第一義である』ということだと思います。私どもの輸送品目は危険物の液体が中心であることから、荷主企業から求められる品質基準が非常に高いレベルであることなども影響しています。荷主企業の工場等で積荷の危険物、劇毒物を一滴でもこぼしてしまったら、それは『始末書』ものなのです。こうした、厳しい安全・品質要求レベルに慣れているため、当社はDR導入前も事故はまったくといっていいほどありませんでした。」と江森社長は説明した。

このように安全基準の維持・向上に厳しく取組んできた江商運輸だが、それでも更にDR導入を決意させた理由があった。

「大型トレーラーなどは車体が大きいだけで世間から『怖い』というイメージが持たれています。目の錯覚で『幅寄せされた』など間違った証言を裁判所でされるときもあるでしょう。その際に、問題となる事故前後の映像を収録したDRの映像があれば、不必要な争いを避けることができます。」と江森社長はDRが従業員を守るツールであることを強調した。また続けて、「走行距離が圧倒的に長い営業用の緑ナンバートラックは、それだけ『もらい事故』に遭遇する確率も高くなりますから。」とも語った。

江商運輸は、輸送品目が液体の危険物ということと、輸送車種が大型トレーラーが主力ということもあり、同社の運転手は、危険物や毒物関係を取扱う資格や牽引免許など、各種資格保持者が揃うプロ集団である。「これまでの安全対策も運輸安全マネジメントに基づいてぬかりはありません。」と、江森社長は語った。

そうであっても、DRを導入する際は会社として様々な面で気を遣ったという。

「一番のポイントはDRを全車に一気に導入することでした。」と東社長の息子で専務の江森学氏は語った。江森専務は、安全面をはじめ同社の実務を一手に担当している。

「DR導入に際しては都内に所有する車両のみが助成措置の対象でしたが、運転手全員に対して公平を期する観点から、都外に所有する車両も含めて全営業所の全車両への搭載を完了しました。最初は管理する側もされる側も手探り状態でしたが、双方が改善点を提案し合い、現在では日々の業務に完全に溶け込み稼働しています。」

「DRの導入で一番苦労したのはアイドリングです。荷卸し時など液体ポンプを稼働する必要があるため、アイドリングをとめられません。つまり荷卸し作業のせいでDRの点数が低くなってしまうのです。その後、試行錯誤を経て、最近は当社の業務特性にセンサー設定を詳細に調整できるようになり、運転手に不利益な思いをさせないで済むようになりました。」と江森専務(34)は説明した。

地域への貢献活動

江商運輸は主に危険物を取り扱うことから、地元警察署に協力して交通安全活動を推進するとともに、東京消防庁が主催する様々なボランティア活動にも積極的に参加している。

江森社長は、長年に亘って東京都消防庁管轄の葛西危険物安全協会の役員を務めてきた。同団体は、危険物を取り扱う運輸会社、ガソリンスタンド、関連工場で構成されており、職員への安全教育や東京消防庁と協力した防火意識の向上を目的とした広報活動を展開している。江商運輸は、東京消防庁が毎月14日に実施する防災啓発活動にも積極的に参加している。こうした活動が評価され、2009年3月、東京消防庁は江森東社長に消防行政協力賞(消防総監賞)を授与した。

「父が城東交通安全協会の副会長をつとめる一方で、私は子供向け交通安全教室の開催や、交通安全チラシの配布、交差点での歩行者誘導など、交通安全活動に従事しています。また毎月14日には地元の消防署に協力して同署の広報車の運転も担当しております。」と、江森専務は語った。

Manabu Emori

江森社長は現在59歳だが、ずっと以前からの考えに従って、55歳になったら頃から、会社を代表して前面にでるのは控え、代わりに息子の専務に公的な場に出る機会を譲ってきたという。

「私は息子がどうのように考えているかは分かりませんが、彼には自身の努力で取引先等との信頼に基づく人間関係を構築していってもらいたいと考えています。どうしてもそうした人間関係だけは相続させることができるものではありませんから。時代は常に刻々と変化しており、ファインケミカルを取扱うことが時代遅れとなってしまうことだってあり得ます。先のことは分かりません。だからこそ、息子には会社を時代の要請に適応させるには何をすべきか彼なりのセンスを磨いていく中で、戦略を立てていってもらいたいのです。」と、江森社長は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

グリーン・エコプロジェクトと持続可能な開発目標(SDGs)

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中国・パキスタン原子力取引に沈黙保つ米国


【ワシントンIPS=エリ・クリフトン】

  先週ニュージーランドで開かれた原子力供給国グループ(NSGの総会で、予定されている中国・パキスタン間の原子力取引に懸念が表明された。しかし、米国務省は、記者から追及されても中パ取引に強い態度を取ることを避けた。

中国によるパキスタンへの原子炉2基の売却は、理論的には、中国も加盟する核不拡散条約(NPT)に違反するものである。しかし、米国のオバマ政権が3月に結んだインドの使用済み核燃料再処理の合意についても、同様の批判を招くおそれがある。

中パ合意、米印合意のいずれも、NPT加盟国でない国(インド、パキスタン)の核開発を促進することから、NPTに違反しているとの批判がある。

 米国務省高官は、NSG総会の期間中、中パ取引に関する記者からの質問を避けようとした。6月28日の会見で、クローリー報道官は、中国の原子力取引をめぐる問題が先週のNSG会合で持ち上がってきたが、「米国政府は、将来の計画に関する情報提供を中国に求め続ける。」と述べるにとどめた。

クローリー報道官は記者団に対して、「中国が具体的に何を提案しているのか、その情報を提供するよう中国に求めているところだ。先々は、中パ間の取引に関してNSGの合意が必要になるだろうと考えている。」と語った。

NSGの他の加盟国は、パキスタンへの原子力技術移転の可能性に関して、より明確な態度を打ち出している。

たとえば英国政府は、「パキスタンと民生原子力取引を行うのは時期尚早だ。」との意見を表明している。

オバマ政権が中国によるパキスタンへの原子炉売却計画について、中国政府非難の輪に加わらないのには多くの理由がある。
 
 オバマ政権はこのところ、冷却化した対中国関係の回復に躍起であった。というのも昨年から今年初めにかけて、中国が通貨操作を行っているとオバマ政権が宣言すべきだというプレッシャーが米国内で盛り上がりを見せる一方、同時期に決定された米国による台湾への武器売却が、中国政府の大きな反発を招き、中国が米国を強い口調で非難した経緯があるからだ。

米国はまた、アフガニスタンにおけるタリバン、アルカイダとの戦争遂行のため、パキスタンとの良好な関係を維持しなければならない。アフガニスタンへの補給線を確保する必要がある上、パキスタン国内のタリバン勢力を叩くためにも同国政府の協力が不可欠だからだ。

こうした背景から、ワシントンの専門家らは、オバマ政権が中パ原子力取引に反対することはないだろうとみている。

カーネギー財団核政策プログラムマーク・ヒッブス上席研究員は、「米国とその他のNSG加盟国は計画中の取引に反対するかもしれないが、中国による原子炉輸出を阻止することはできないだろう。」と4月に発表した著書に記している。

またヒッブス氏は同書の中で、「米国に近いNSG加盟国の高官は今月、『オバマ大統領は中国による輸出を公的に批判することはないだろうと考えている』と述べた。なぜなら、米国政府は、パキスタンが民生原子力協力の推進を志向する契機となった米印原子力協力を、フランス・ロシアと共に他のNSG加盟国を押し切って、2008年に成立させた経緯があるからである。また米国政府は、パキスタンとの間に二国間安全保障対話という枠組みを有していることから、パキスタン側の(民生用原子力開発を求める)希望に敏感にならざるを得ない。」と記している。

米国が2008年にNPTの例外として民生原子力技術のインドへの売却を押し通した際、軍備管理関係者は、これはNPTを弱体化させるものだとして非難した。また一方で、「米国に近い同盟国を優遇する二重基準(ダブル・スタンダード)がNPTにはある」との批判もあった。

イランのマームード・アフマディネジャド大統領は、米国が、NPTの加盟国でもなく、核開発を進めてきたインドに抜け穴を認めるようなことをやりながら、他方では民生原子力技術の輸出に制限をかけようとするなど、偽善的な行為をしていると強く非難してきた。

オバマ政権は、核不拡散と核兵器の削減をめぐる挑戦が、米国政府が取り組む世界の最重要課題のひとつだと繰り返し言明してきた。

オバマ大統領は「核兵器なき世界」という目標を何度も語り、核兵器という脅威の世界的な削減の基礎を成す、核軍縮・核不拡散・原子力の平和利用の3つの柱を強調してきた。

NPTは、核拡散のリスクを低減する米国の努力を実現するための最も効果的な手段だと見られてきた。しかし、米国と中国がNPTを脇においてNPT非加盟国と原子力取引を行うようになればNPTは弱体化すると多くの専門家が懸念を示している。

中国がパキスタンを例外扱いして原子力協力しようという計画には批判が集まるかもしれないが、米国がこの問題を巡って中国と公式の場でやりあうようなリスクを冒すとは考えられない。

6月はじめ、専門家らは、「中パ原子力取引はNSG会合における難しい議題になる可能性がある。しかし、中国は原子力協力協定(NSG加盟以前の2004年に中パ間で締結)を用いて、例外的に原子炉輸出を押し切ることになるかもしれない。」と警告していた。

前出のヒッブス研究員は、6月17日、「NSGは米印取引をすでに認めてしまっていることから、中国のもたらした難題に対して、もっとも不満を引き起こさない綱渡りのような解決策を導き出すよう迫られるだろう。」と語った。

またヒッブス氏は、「NSG加盟国の中には、2004年の原子力協力協定を使って中国の対パキスタン輸出を例外扱いすることがダメージを最小限に止める方策だとの見方もあるが、それが信頼に足る解決策かどうかはわからない。もし中国が例外扱いを求めるようなら、NSG加盟国は、パキスタンとの限定的な取引を容認する代わりに、核保全と不拡散上の措置を採るよう中国に求める可能性もある。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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│ベトナム│戦争と平和のテーマを融合し傷を癒す映画

【ホーチミンシティIPS=トラン・ディン・タン・ラム】

30年以上にわたって米国とベトナムとの間に横たわる傷をどう癒すか―あるベトナム人監督がこうしたテーマに挑んだ映画を完成させた。監督・脚本はダン・ナット・ミン氏で、映画の題名は「焼くことなかれ(Don’t Burn)=邦題:きのう、平和の夢を見た」。この映画は、米国によるベトナム軍事介入が加速した1970年代初頭に米軍兵士によって射殺された当時27才の女医ダン・トゥイー・チャム(Dang Thuy Tram)が残した日記を映画化したものである。

 1970年6月、米軍情報担当士官フレデリック(フレッド)・ホワイトハーストは、中部クアンガイ省ドゥクフォー県で掃討作戦後のベトコン基地に入った。そこは小さな病院だった。フレッドはそこで1冊の日記を発見し、南ベトナム軍の通訳(軍曹)に見せた。軍曹は、日記を手に取ると数ページ読み、「この日記は焼いてはなりません。なぜならすでにこの中に火が宿っているのですから。」と語ったという。(両氏は現場で集めた大量の文書から重要なものをより分け、残りを火に投じていた。)それはこの病院の若い女医トゥイ・チャムの日記だった。

日記の中にはこういう一節がある。「昨晩、私は平和の夢を見ました。故郷に立ち戻って、懐かしい人々の姿を見ました。ああ、平和と独立の夢は、3000万のベトナム人同胞の心の中で燃えている。」彼女が夢見た「平和」が、この映画のメインテーマとなっており、ミン監督はこの映画の脚本も手掛けた。また、「きのう、平和の夢を見た」という一節は、日記の英語タイトルとなり、2007年には米国で英語版が出版された。

フレッドは、米国での日記出版から1年遡る2006年にトゥイ・チャムの家族を訪ね、35年間手元においていた日記を遺族に返還した。その後日記は各国語に翻訳された。ベトナム国内では、革命の大儀に殉じた若人の物語として政府やメディアが取り上げ、大いに評価された。

しかしベトナムでは、先の戦争をテーマとした映画が既に多く制作されており、ミン監督は、この映画をそうした部類の戦争映画にして、トゥイ・チャムの日記をプロパガンダの手段としてしまうことだけは是が非でも避けたいと固く心に誓った。

「この映画のテーマは戦争についてではありません。それよりもむしろトゥイ・チャムという一人の女性の美しさと人間性を描いたものなのです。」と、同じくベトナム戦争を描いた名作「10月が来たら」でも広く知られるミン監督は語った。

ミン監督は、「かつての敵国同士が和解することを願って、この映画を作りました。」と語った。米国-ベトナム間には、米軍が戦時中に使用したエージェントオレンジを始めとする枯葉剤の後遺症の問題や米軍の行方不明兵士の問題等が残されているものの、この数十年の間に両国間の外交、経済、政治の分野における和解は進展してきた。
 
 ベトナム戦争(1959年~75)は、米軍が同盟国と共に支援していた南ベトナム政府を北ベトナム共産党政権による国土統一から守るため軍事介入したことから引き起こされた戦争である。ベトナムでは「アメリカの戦争」と呼ばれており、300~400万人の南北ベトナム人と58,000人の米兵が犠牲となった。そして1975年4月、北ベトナム軍がホーチミン市(当時南ベトナムの首都サイゴン市)を陥落させ、1976年にベトナムの統一がなされた。

フレッドはトゥイー・チャムの日記を届けた後も数度に亘って遺族(トゥイー・チャムの母と姉妹)を訪問し、その中で両者の間に友情が育まれた。映画ではこうした側面が直接的に描かれてはいないが、両国の民衆の間の和解が根付いてきていることを示唆する内容となっている。

「フレッドやロバート・ホワイトハースト(同じく従軍経験者で南ベトナムの風土に惹かれ、ベトナム人を妻にした米国人)のようにベトナム戦争の記憶を共有してくれた元米兵の協力なくしてこの映画は完成しなかったと思います。この映画の中にも7名のアメリカ人俳優が米兵の役で登場しています。」と、ミン監督は語った。

以下に紹介するいくつかの反響がこの映画が米国の観客にどのように受け止められたのかを物語っている。新聞報道によると、多くの在米ベトナム人や大学講師、生徒がいくつかの大学で行われた映画「焼くことなかれ」の上映会に続く討論会に参加した。

ニューヨークのカントールフィルムセンターでは、同市に拠点を置く「和解と開発財団」のジョン・カコーティフ専務理事が、ミン監督に対して「憎しみではなく、全編に亘って愛と平和への夢、兵士たちの絆について描いた素晴らしい作品を有難うございます。」と感謝の言葉を述べた。

こうして映画「焼くことなかれ」が、多くの感動した観客が上映後涙目で映画館を後にするなど米国人観客の間で概ね歓迎されている一方、在米ベトナム人コミュニティーの間ではやや懐疑的な見方も存在する。たとえば、「この作品は感情には訴えるものの、もっと本質的な問題-米国によるベトナム介入の正当性そのものや、過去の政治的な歩みの違いから依然として分断されているベトナム南北の問題-まで内容が掘り下げられていない」とする見方だ。 

映画を見たベトナム系アメリカ人の学生の中には、「この映画は、ベトナム戦争の性格、すなわち解放戦争だったのか内戦だったのかといった点や、1975年の米軍撤退後に南ベトナム軍兵士や一般民衆が直面した苦境については描いていない。」とコメントする者もいた。

「この映画が、古くから敵対関係にある者同士の和解を目指したものというのは理解に苦しみます。殆どのアメリカ人にとってベトナム戦争は既に過去の出来事なのです。アメリカ人との和解というのは、あたかも大きく開かれているドアをノックするようなものです。和解をすべきはむしろ南ベトナムの人々とではないのでしょうか。」と、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の学生トラン・タンは語った。

それに対してミン監督は、「観客にはそれぞれの考え方があり、私はそうした異なる様々な考え方を尊重します。」と語った。この作品は2009年には福岡国際映画祭に招待され「観客賞」を受賞している。

またミン監督は、「南ベトナムの問題を扱っていないわけではありません。なぜなら、日記を焼かずに守った南ベトナム軍通訳の軍曹の所在についても触れているのですから。」と反論している。 

しかし映画は、その軍曹の名前についても、その後どうなったのかについても触れていない。いくつかのベトナムメディアはその元通訳の兵士の名を「フアン(Huan)」と報じている。

「トゥイー・チャムの日記は、南ベトナム軍軍曹の理性的で人間味あふれる姿勢がなければ今日まで存在することはなかった。しかし彼の存在は、映画の最後に流れるクレジットに形式的に触れられただけに過ぎなかった。」とベトナムで最も権威ある独立系ウェブサイトタラワス(Talawas)は辛辣なコメントを掲載した。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩


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【ベルリン/東京IDN=ラメシュ・ジャウラ】

著名な仏教思想家池田大作博士は、核兵器及び全ての大量破壊兵器を禁止する国際条約の交渉開始を早期に-理想的には広島と長崎への原爆投下から70年目にあたる2015年を目標に-実現させるよう呼びかけている。 
 
 核兵器禁止条約(NWC)という形で国際条約が締結されれば、核兵器の開発、実験、製造、備蓄、移送、使用及び使用の威嚇が禁止され、核兵器の廃絶が規定されることとなる。条約形式としては、例えば生物・化学兵器や対人地雷といった他の武器分類を禁止した既存の国際条約に類似するものとなるだろう。 
 
1996年以降NWC締結を求める様々な提案が議論されてきたが、今般ニューヨークの国連本部を舞台に5月3日から28日まで開催された核不拡散条約(NPT)運用検討会議で全加盟国による総意としてまとめられた最終文書において、NWCが初めて公式に言及された。

 「こうした新しい時代への胎動をステップボードにNWCの交渉開始を目指すべきです。」と、仏教団体である創価学会インタナショナル(SGI)の池田会長は言う。池田会長は長年に亘って核兵器廃絶を呼びかけてきた。また、昨年9月上旬には核廃絶に向けた5項目の提案を発表している。 

以下は、インデプスニュース(IDN-InDepth News)社のラメシュ・ジャウラ編集長が、IPS通信社との協力のもと電子メールで行った、SGI会長へのインタビュー内容の全文である。 

IDN:5月28日に閉幕したNPT運用検討会議の結果について、どのようにお考えになりますか。核兵器の廃絶に向けて世界が前進するための道を、本当に開いたと言えるでしょうか。それとも、何人かの専門家が主張するように、空疎な約束と決まり文句の羅列にすぎないのでしょうか。 

池田:今回の会議の成果について、さまざまな評価があることは承知しております。残念ながら、核保有国と非保有国との意見の対立は容易に解消されず、当初の議長報告案で示されていた核軍縮の交渉期限の設定が見送られるなど、多くの課題が残されたことも事実です。 

しかし、決裂に終わった前回(2005年)の運用検討会議のような轍を踏むことなく、具体的な行動計画を含んだ最終文書を採択することができた。その背景には、各国の立場や主張の隔たりはあったとしても、「核兵器のない世界」に向けての新たな取り組みの機会を無にしてはならないとの認識が広がりをみせていたことがあると思えてなりません。 

私が座右としてきた東洋の箴言に、「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅「故郷」竹内好訳、『阿Q正伝・狂人日記』所収)という言葉があります。 

すべては、今回の最終文書を“協働作業の足場”とし、各国が力を合わせて道なき道を一歩ずつ踏み固めていけるかどうかにかかっています。と同時に、合意の遅滞なき履行を求める国際世論を高めていくことが欠かせません。その意味でも、各国の政策決定者と市民社会の建設的な対話の場を確保していくことが、重要な鍵となるでしょう。 

IDN:特筆すべき成果をあげるとすれば。 

池田:会議の成果として、私が特に注目したのは、次の3点です。すなわち、全会一致で採択された最終文書において、①「核兵器のない世界」の実現と維持のための枠組みを創設する特別な努力が必要とした上で、核兵器禁止条約に初めて言及したこと②核兵器の脅威に対する絶対的な保証は、その廃絶以外にないと確認したこと③核兵器の使用がもたらす壊滅的な結果を踏まえて、各国に国際人道法の遵守を求めたこと―です。 
 
なかでも核兵器の全面的禁止を求める核兵器禁止条約は、その重要性が非保有国やNGO(非政府組織)の間で叫ばれ続けながらも、時期尚早であるとか、国際社会の現実にそぐわないといった主張が根強く、これまで核問題に関する国際交渉の場では、議題として正面から取り上げられることのなかったものでした。それがついに今回、最終文書での言及という形で実現をみたのです。これはまさに、NPT運用検討会議議長や、軍縮室など国連関係者の努力をはじめ、核廃絶を求める国々と市民社会の熱意と声が一体となる中で可能になったものといってよいでしょう。私ども創価学会の青年部も、今回の会議に寄せる形で、核兵器禁止条約の制定を求める227万人に及ぶ青年世代の署名を日本で集め、国連事務総長とNPT運用検討会議議長に提出しました。 

IDN:これからの取り組みについてはいかがですか。 

池田:こうした新しい時代への胎動をステップボードに、広島と長崎への原爆投下から70年にあたり、次回の運用検討会議が行われる2015年を一つの目標に、核兵器禁止条約の交渉開始を実現させることを、私は強く呼びかけたい。 

その挑戦は困難を伴うでしょうが、条約の制定が時代の要請であることは、私が着目した今回の最終文書における二つの理念に照らしても明らかです。 

最終文書では、「核兵器の完全廃絶が核兵器の使用とその威嚇に対する唯一の絶対的な保証である」とし、核問題の根本解決には、地球上からすべての核兵器をなくす以外にないとの認識を再確認しています。 

また、「核兵器のいかなる使用も壊滅的な人道的結果を引き起こす」として、すべての国に国際人道法の遵守を求めたことは、軍事と政治の論理が先行しがちな核兵器をめぐる議論に、そうした論理に優越すべき「人道性」や「生命の尊厳」の価値に鑑み、警鐘を鳴らすものといえましょう。 

IDN:特にどのような点で、核兵器は人道上の問題と言えるのでしょうか。 

池田:今回の会議の公式行事でも、広島・長崎の被爆者の代表が自らの体験を通し、一日も早い核廃絶の実現を訴えておられました。核兵器がひとたび使用されれば、被害はその時点だけにとどまりません。今なお、多くの人々が後遺症に苦しめられており、過去から現在、そして未来にいたるまで、世代を超えて人間の尊厳を蝕み続ける究極の非人道性――まさにここに、核兵器が“絶対悪”である所以があります。私の師である創価学会の戸田城聖第2代会長が力説していたように、従来の兵器の延長線上で捉えて、状況に応じて使用も可能な“必要悪”と考える余地を一切与えてはならないものなのです。 

この平和を脅かす「重大な危険性」と、人間の尊厳を脅かす「重大な非人道性」を断じて許さないことが、核兵器禁止条約の依って立つ基盤とされるべきであります。そして、国際人道法の精神と原則を核兵器に適用させることにこそ、核時代に終止符を打つための楔があると、私は考えます。 

IDN:パグウォッシュ会議のジャヤンタ・ダナパラ会長は、1995年の中東に関する決議の実施についての合意が、今回のNPT運用検討会議の最も重要な成果であるとしています。しかし専門家は、この合意が中東の非核地帯化に至るかどうかについて懐疑的です。アメリカとイスラエルがいくつかの重要な点について留保していることを考慮すると、こうした懐疑的な見方にも十分理由があると言えないでしょうか。 

池田:昨年、中央アジアとアフリカで非核兵器地帯条約が相次いで発効したことは、「核兵器のない世界」に向けての大きな希望の曙光となるものでした。いずれの地域も、かつては核兵器を開発・保有した国が存在していただけに意義は大きく、これで中南米、南太平洋、東南アジアに続く形で、世界で五つの非核兵器地帯が成立することになりました。 

残る他の地域でいかに非核化の道筋を描くかは大きな課題です。北東アジアや南アジアと並び、中東地域の前途は容易ならざるものがあります。 
 
 こうした中、今回の運用検討会議で、中東地域に核兵器を含むすべての大量破壊兵器のない地帯を設けるための国際会議を2012年に開催する合意がなされました。もちろん、一度の会議をもって展望が直ちに開けるほど、問題は単純なものではありません。 

特に中東では、幾度も戦火を交えた根深い対立が歴史的背景として横たわっているだけに、そもそも会議自体が成り立つかどうかさえ、予断を許しません。しかし、一触即発の状態が続く状況を放置してよいはずはなく、何らかの形で緊張緩和の糸口を模索するための「対話」の回路を開く必要があることは論をまたないのです。 

核時代の混迷を前に「ゴルディウスの結び目は剣で一刀両断に断ち切られる代りに辛抱強く指でほどかれなければならない」と警告したのは、歴史家のトインビー博士でした。長い歳月の中で膠着化した対立構造を解消するには、まずは関係国が「対話」に臨み、互いの疑心暗鬼や不安でもつれた糸を根気強くほどいていく以外にありません。対立ゆえに対話ができないというのではなく、対立ゆえに対話が必要なのです。 

IDN:その点について具体的にお聞かせいただけますか。 

池田:「核兵器のない世界」を築くためには、互いが脅威を突き付け合うような関係ではなく、互いに脅威の削減に努力する中で信頼を醸成し深め合っていかねばならない。その「安心と安全の同心円」を地域や世界に広げていくアプローチへと各国が舵を切ることが肝要でありましょう。 

中東に限らず、北東アジアや南アジアにおいても、地域の国々が未来志向に立った「対話」という新しい一歩を踏み出すことができれば、平和共存に向けた次のステップは何らかの形で浮かび上がってくるのではないでしょうか。 

いずれにしても、明後年の会議の前途には多くの困難が予想されるだけに、市民社会も含めた国際社会全体の後押しが不可欠です。最終文書に「会議は核保有国の全面的支持と関与を得て行われる」とありますが、保有国に加えて、被爆国である日本も他の多くの非保有国と連携しながら、会議の後も継続して対話の環境づくりを支援していくことを強く願うものです。 

IDN:包括的核実験禁止条約(CTBT)、兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約)、核兵器禁止条約(NWC)といった点に関して、NPT運用検討会議での約束が現実のものとなり、繰り返される言葉を拘束力ある約束にするために、市民社会は何をすべきであるとお考えになりますか。 

池田:これまで何度もその重要性が提起されながら、CTBTは96年に採択されたもののいまだ発効できず、カットオフ条約にいたっては交渉開始にさえたどりついていない状況があります。しかし、すべての光明が潰えたわけではありません。 

事実、CTBTは未発効ながらも、核保有5カ国に加えて、インドやパキスタンが1999年以降、核実験の一時停止を続けているほか、CTBT機関準備委員会による国際監視制度の整備が進められてきました。今回の運用検討会議で近く批准することを表明したインドネシアに加え、もしアメリカの批准も実現することになれば、発効に必要な批准は七つの要件国を残すだけになります。また、カットオフ条約についても、交渉開始前から核保有5カ国が生産を停止しているのです。 

IDN:これらの重要な条約を実現に導くためには何が必要でしょうか。 

池田:私は、世界の民衆の圧倒的な意思を結集し、各国の指導者に断固たる行動を迫る国際世論を力強く喚起する中で、もはや誰にも無視できない状況を現出させる以外にないと考えています。 

残念ながら、この二つの条約への関心は軍縮に熱心なNGOを除いて市民社会でそれほど広がりをみせなかった面がありました。しかし、人類の運命と未来にかかわる問題を各国の政策決定者だけに任せたままで良いのかと言えば、答えは断じて「否」です。 

対人地雷やクラスター爆弾の禁止条約を成立させる原動力は、民衆の素朴な常識に反する兵器の非人道性への憤りと、被害の拡大を阻止しなければならないとの危機感の広がりでありました。それと同じように、核兵器の脅威をなくすためには、CTBTやカットオフ条約が防波堤として欠かせないとの認識を市民社会の間で幅広く根づかせ、国際世論を押し上げる力に結晶させていく必要があります。 

今年の1月から3月にかけて、私どもSGIの7カ国の青年部と日本の学生部が「核兵器に関する意識調査」を行った時、回答者から「なぜこんな調査を行うのか?」といった声が多く寄せられたといいます。その背景には、“核兵器の問題は自分たちとは遠くかけ離れたもの”との意識が、少なからず横たわっていることがうかがえます。とはいえ、まったく無関心なのではありません。核兵器の使用は「いかなる場合にも認めない」と回答した人が7割近くにのぼり、半数以上の青年が核兵器に関する議論の活発化によって「核廃絶に向けての動きが生まれると思う」と答えているのです。 

その意味でも鍵となるのは、CTBTやカットオフ条約や核兵器禁止条約の重要性を含め、核問題に関する認識や関心を市民社会の間で粘り強く喚起していくことです。それが、現実の重い壁を突き崩す力となっていくからです。それゆえ私どもSGIも、2007年から展開している「核兵器廃絶への民衆行動の10年」の運動を通して、そのための努力をこれからも重ねていく所存です。 

IDN:「教育」の果たす役割については、どうお考えですか。 

池田:今回の運用検討会議で、日本を含む42カ国が「軍縮・不拡散教育に関する共同声明」を発表しました。今後も、国連軍縮室などの国連の関連機関や、CTBT機関準備委員会などの関連条約機関をはじめ、こうした運動に熱心な国々、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)などの国際的な取り組みや多くのNGOと協力しながら、私どもも「核兵器のない世界」に向けた国際社会の土壌を粘り強く耕していきたい。そして、青年を先頭に「平和を求める世界の民衆の大連帯」を築き上げる中で、その連帯の姿とパワーをもって、現実と理想とのミッシングリンク(失われた環)をつなぎ、CTBTの発効やカットオフ条約の成立はもとより、核兵器禁止条約の締結を目指していきたいと決意しております。 (原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩 



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│環境│構造的問題を提起している原油流出

【ベルリンIDN=ジュリオ・ゴドイ】

ブリティッシュ・ペトロリアム(BP)が引き起こしたメキシコ湾原油流出という環境災害に何かシンボルを求めるとすれば、数十羽の油まみれになったペリカンが、我々の目の前で為すすべもなく死に絶えていく姿であろう。

原油産業界にとって今回のメキシコ湾原油流出事故は、旧ソ連原子力産業にとってのチェルノブイリ原発事故に相当するものと言われている。もしそれが本当ならば、楽観すべき理由はない。ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で起こった大惨事から25年経って、あたかも何事もなかったかのように原子力技術は利用されている。さらに悪いことに、各国の政府、国際機関、並びに電力・建設業界は挙って、原子炉をさらに建設しようと働きかけを世界各地で強めている。彼らの主張は、原子力は環境の観点から必要不可欠というものである。すなわち、原子力は温暖効果ガスを生じさせないことから、将来に亘って気候変動問題に対応していくエネルギー政策において不可欠な要素となるというものである。

 事実、皮肉に聞こえるかもしれないが、今回の原油流出事故はこれまで目を背けてきた問題に正面から取組む機会を提供している。米国の環境活動家達は今回の大惨事についての議論を通じて、従来の生活スタイルに伴う様々なリスクについて市民の目を覚めさせることが出来るはずである。すなわち、原油等の化石燃料には掘削ドリルを入れた瞬間から、燃焼して煙となるまでの生産・消費サイクル全体に亘って(常にこのような惨事を引き起こす)リスクが存在していることから、一刻も早く燃焼燃料としての依存から脱却すべき等の議論が出来るはずである。

しかし少し前まで、米国市民に世界最悪の公害国として地球環境に対する責任感を持たせられるビジョンと資質を兼ね備えた唯一のリーダーとみられていたバラク・オバマ大統領は、今回の対応で、自身の先任者達と同様に近視眼的な見方しかしていないことが露呈された。

オバマ大統領は、この大災害を契機に、外洋におけるさらなる原油掘削作業を禁止し、人々に今日の生活習慣を見直すよう促すといった積極的な対策をとるどころか、むしろ、状況の推移を見守る待ちの姿勢を示している。こうしたことから、オバマ大統領は、「原油流出を止めきれないBPへの『怒り』を覚える」と表明したものの、それに説得力を持った響きはなかった。

世界各国の姿勢も似たようなものである。欧州諸国(この問題に関してはメキシコ、アンゴラもそうだが)は原油に関して独善的になる理由はなにもない。BPの破滅的な原油流出事故は石油開発と消費に関連してこれまで引き起こされた数多くの環境的・社会的大惨事の一つに過ぎない。

英蘭系石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルは、1960年代以来数十年に亘ってナイジェリアのニジェール・デルタ地帯を、地元指導者の反対や国際機関による批判にもかかわらず、環境破壊をし続けている。それにも関わらず、シェルは世界最大の環境ネットワークである国際自然保護連合(IUCN)のパートナーとして環境保護に取組む企業イメージを謳っている。

その間も、他の欧州の原油企業は、―大西洋に毎年数万トンの原油を漏出させながら―北海での掘削を続けている。フランスの原油企業トタールは、ミャンマーのような国々で油田開発を続けている。トタールの前身で悪名高い国営エルフアキテーヌ社は、アンゴラ、コンゴ共和国、ガボンその他のアフリカ諸国で腐敗や内戦を助長した過去を持つ。

こうした欧州の原油企業は自社が油田権益を支配できる限り、そうした国々の独裁者と渉り合っていくことに良心の呵責を微塵も見せることはなかった。

多くの欧州の消費者も燃料消費ということになると良心の呵責を感じないようだ。消費者はドイツ、フランス、スペイン、英国で気候変動問題が議論される前後にライセンス発行されるスポーツ多目的車(SUV)の価格をチェックする一方、パリやベルリン、ロンドンといった都市部において、あたかも高度に発達した現代都市ではなく人里離れた僻地に住んでいる幻想にでも集団で陥っているかのように、大量のガソリンを消費する全地形対応車(ATV)を走らせている。

欧州の大半の都市において、気候変動問題を巡る議論の高まりと並行するかのようにこうした大量の燃料を消費する車が増加している現状は、燃料が手に入るうちにそうした車を運転しておきたいという人々の欲望を反映したものである。

こうした消費者の身勝手な行動は、悪名高きフランスのルイ15世がかつて放言した「わが亡き後に洪水は来たれ!」という言葉を体現しているようなものだ。ただし現代の消費者は、この王の思慮なき政策がフランスの国力を削ぎ、財政を困窮させ、王室の権威を失墜させ、ついにはフランス革命を引き起こしたという事実には目をつぶっている。

それこそが問題の本質なのだ。すなわち先進国の人々は、気候変動に歯止めをかけるためには自身の消費行動を抜本的に転換しなければならないという点を受け入れようとしない。そうした努力の結果は未来になってみないと特定できないという理由によるものである。また同様に、世代間倫理(generational justice)についての議論が活発にされているにも関わらず、多くの人々は依然として現在の仕組みを正当なものとして、(未来の世代のために)犠牲を払うということをしようとしない。こうしたことから、私たちの生活様式を考え直す教育を行うことは極めて困難な状況にある。

しかし、今回のメキシコ湾原油流出事件は、私たちの生活様式の正当性に疑問を投げかけている。従って、それは単にBPやオバマ大統領だけの問題ではなく、結局は私達全てが自らの生活様式も含めて考えるべき問題なのだ。

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

|アフガニスタン|「国の富は国民のものである」とUAE紙

【アブダビWAM】

「アフガニスタン国内で発見された手つかずの大規模な鉱床は、同国にとって両刃の剣となるかもしれない。報道された鉱床の規模は氷河の一角に過ぎないかもしれない、しかしこうした資源が、従来のアヘンに代わって、アフガン民衆、北大西洋条約機構(NATO)軍、タリバンを巻き込んだ新たな争いの火種となる可能性がある。」とアラブ首長国連邦(UAE)の日刊紙が報じた。

「米国防総省と米地質調査所( USGS )が6月14日に発表した推定約1兆ドル相当とされる鉄、銅、コバルト、金、リチウムの鉱床は驚異的な規模である。しかし、これらは数十年に亘って戦争、歴代政権による過酷な支配、腐敗、宗教的原理主義の下で辛酸をなめてきたアフガニスタンの民衆とその政府に属するものである。」

 
「それに加えて、アフガニスタンの民衆は、生活基本物資や食料、水、電気にも事欠いており、子供たちへの教育機会もかなり限られているなど問題は山積している。」とガルフ・ニュースは6月16日付の論説で報じた。

「歴史の中で数多くの外国勢力がなぜ、アフガニスタンの植民地化を試みてきたか。その理由は同国に眠る豊かな天然資源である。このことを理解すれば、なぜ共産主義者(旧ソ連時代のロシア)から資本主義者(米国)、さらにはタリバンまではこの国を支配しようとしたのか説明がつくはずである。」と同紙は付け加えた。

この一兆ドル鉱床問題は、アフガニスタンの経済状況を一変させ、経済的な自立も為し得る可能性を秘めているだけに、注目はどの国がアフガン政府を支援して資源開発を行うかに集まっている。

「その点については既に多くのプレーヤーが独自の計画を持って策動を開始している。しかし、まず着手しなければならないことは、国内の紛争を終結させ、アフガニスタンの治安を回復することである。その後、資源開発にたどり着くには、中央政府、地方政府、及び各地の部族長間の真剣な対話が進められることが不可欠である。」とガルフ・ニュース紙は指摘した。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴


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中国でアジアメディアサミット開催

【北京IDN=マドゥ・ダッタ】

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5月25日から26日にかけて、北京でアジアメディアサミット(AMS)が開催された。このサミット

は、政府間機関であるアジア太平洋放送開発機構 (AIBD)と中国の国家ラジオ・映画・テレビ局(SARFT)が国際機関と共催したものである。

中国共産党中央委員会中央宣伝局の劉雲山局長は、約800人の参加者を前に、このサミットのテーマは、「自らの将来に関するメディアの世界の考え方や懸念、さらには、メディアの責任に対する国際社会の注目と期待を反映したものである。」と演説した。

劉局長はまた、「中国メディアは、政府の積極的な支持のもと、正義を促進するため社会的責任を第一義に掲げ、世論を代弁し、現場からの正確な報道で人民に安心感を与え、情報への世論の監視を保障するよう常に心がけてきました。」と説明した。

 
 しかし、こうしたレトリックには世界各地から参加したメディア関係者(メディア運営・記者)の間から疑問の声が上がった。今回のアジアメディアサミット(AMS)を国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)、国連環境計画(UNEP)と共催した、中国の三大マスメディア(『人民日報』、『新華社通信』、『中国中央電視台(CCTV)』)は、いずれも中国政府の強い影響下にあることは公然の秘密だからである。

研究者のアン=マリー・ブレイディ氏が2008年に出版した研究報告書によれば、中央電視台の記者らは、中国をポジティブなものとして描くようにつねにプレッシャーをかけられていたという。

「2005年8月には、中国である炭鉱事故に関する報道がなされたが、これが中国の国際的なイメージを傷つけるとして、外交部から警告を受けることになった。この事件後、編集部主任や記者らが自己批判文を書かされた」と、同研究報告書は指摘している。

一方、中央電視台に勤務する外国人記者はこの点に関して、「その当時から状況はずいぶん改善されており、その研究報告書で指摘された記者たちは解雇されることはありませんでした。」と語った。

劉局長は会場の参加者に、「中国政府はメディア・文化産業の発展を一層重視していきます。これによって中国のラジオ・テレビ部門に国際交流や国際協力など、様々な新たな機会を創出することになるでしょう。」と語った。

国際交流

劉局長はまた、「中国政府は諸外国のメディアとの国際交流や国際協力及び文明間の対話を促進していくための環境を整えていきます。」を語り、会場の各国メディア関係者の大きな関心を集めた。

「平等、互恵の精神に基づいて、全ての国のメディア、とりわけアジア・太平洋地域のメディアが報道コミュニケーション、人材、情報技術、ビジネス運営、経験の交換等の点で協力関係を強化するとともに、一層の相互理解を目指して各々の能力を共有していくことこそ、私たちが希望していることなのです。」と、劉局長は語った。

王太华同中央宣言局次長は、「中国は、相互の信頼、調整、互恵の精神で世界各地域、国々のメディアと中国メディア間の交流や実際的な協力を模索しながら、諸国間の人民の理解と友情を促進し、世界平和の維持に努めるとともに、共通の開発を実現していきます。」と語った。

しかし劉局長は、「先約」があるとのことで、そのあと行われた国連の潘基文事務総長のメッセージ代読には立ち会わなかった。国連の赤坂清隆事務次長(広報担当)が代読したそのメッセージは、「表現の自由は世界人権宣言の第19条に述べられているとおり、基本的な人権です。国連は全世界でこの権利を擁護していきます。」と指摘していた。

「しかしこの地域(アジア・太平洋)を含む多くの国において、ジャーナリストたちは単に仕事をするだけで、脅迫、投獄や時には殺されるリスクを負わされているのが現状です。ある国々では、独立系テレビやラジオは放送する権利を否定されています。また、政府が新聞の印刷に関して高い税金をかけ裕福な人々のみが新聞を購読できるようにしている国々もあります。またその他にも、インターネットを検閲し、市民や市民記者を投獄している国々もあります。」

「どのケースも、基本的な人権の侵害に当たり、社会・経済開発を妨げていることに他なりません。国連は全ての国々において、メディアの活動を封殺するいかなる動きにも反対するとともに、国家当局の人権擁護の責任履行を追及している人々と協力します。」と、赤坂清隆国連広報局長はメッセージの代読を続けた。

潘基文事務総長の主張は中国だけに当てはまるものではないが、中国のことが念頭にあったのは明らかであった。

メディア政策

中国共産党中央委員会中央宣伝局の王次長は、サミット参加者に対して中国のメディア政策について説明した。
 
 王次長は基調講演の中で「中国政府は国家の政治・経済・社会の進歩をはかるうえでラジオ・テレビの役割を大変重視しています。中国には251のラジオ局、272のテレビ局、2087のラジオテレビ局、44の教育テレビ局があります。そして中国は、ケーブル、地上波、衛星等の手段で、全国民の実にラジオで96.31%、テレビで97.23%に対する放送を実現しました。これは視聴者数でいえば世界で最大規模となるもので、素晴らしい成果です。」

「このネットワークは、単に情報を伝達し娯楽を視聴者のもとに届けることに止まらず、教育を促進し文化の多様性を保護し、社会の調和と進歩を促進するという重要な使命も担っているのです。」と王次長は語った。

また王次長は、「新たな環境とニーズに対応するため、中国は国内の現実的な状況に応じてラジオ・テレビ部門の改革を加速度的に推進していきます。とりわけ、中国はデジタル技術の活用を積極的に推進し、旧来メディアの改善、ニューメディアの開発、視聴者への浸透、放送セキュリティーの向上を図っていきます。」

今回で第11回を迎えるアジアメディアサミット(AMS)は、2010年5月25日~26日の2日間に亘って、初めて中国の北京で開催された。アジア太平洋放送連合(ABU)事務局長に就任したアジア太平洋放送開発機構 (AIBD)のジャヴァド・モッタギ代表は、今回のサミットを「大成功であった」と評した。

次回のアジアメディアサミットについては、ベトナムの声(VOV)が、AIBDに対してハノイで開催を申し出た。VOVは、大衆メディア全般を網羅した高品質の番組提供を心がけており、ベトナム内外に中波、短波を通じた放送を行っている。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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【コーンケン(タイ)IPS=マルワーン・マカン・マルカール

彼女が歌ったステージは、自分のコンサートとは呼べないような場所だった。バンコクで行われたこの

ステージの様子を、そこから450km離れたコーンケンで、人びとはラジオを通じて聞いた。聞いていたのは、このタイ北東部の農村地帯にルーツを持つ「モルラム」( mor lam )というジャンルの歌だ。

歌い手のワニダ・ピンディード(Wanida Pimdeed)が立っていたのは、首都バンコクで広がっている反政府運動の用意したステージであった。抗議活動の参加者たちは、反独裁民主統一戦線(UDD)の支持者たちであり、彼らはその格好から「赤シャツ」と呼ばれている。観客の中には、イサーン(タイ北東部の総称)の出身である人たちが多かった。

「私の歌は全て私のようなイサーンの人々と私たちの苦難について歌ったものです。」と、普段は農作業と家畜の世話をして生計を立てているワニダは語った。

 「私は観客とイサーン語で話をします。イサーン語は、草の根の言葉、社会の底辺で暮らす人々の言葉なのです。」と、ワニダは付け加えた。イサーン語はタイ東北部で使われている方言でバンコクで話されているタイ標準語よりはむしろ隣国のラオス語に近い。

しかし、このステージはアピシット政権が赤シャツ隊を蹴散らすことに成功した5月20日をもって終わりを迎えた。13日から20日にかけてのデモ隊と政府部隊との衝突によって、54人の死者が出た。

しかし、タイ東北部のユニークな文化アイデンティティーに詳しい専門家たちは、UDDのデモ隊が、バンコクで東北部出身者に舞台を提供した点に注目している。イサーンの人口は6600万人のタイ人口の実に3分の1を占めている。

オーストラリアのマクワリー大学でタイの大衆文化について研究しているジェイムズ・ミッチェル氏は、「モルラムはソム・タム(パパイヤサラダ)と並んで、イサーンやラオスの人々にとって自分たちのアイデンティティーを最もよく示すものだといって差し支えありません。しかし、バンコクのエリート層は、モルラムを地方の低級な田舎音楽とみなしてきました。従って、「モルラムがバンコクのテレビやラジオで流されることは今でも殆どありません。」と語った。

イサーンに対する意識の覚醒の歴史は、20世紀初頭にさかのぼる。当時発生した農民暴動の中で、イサーンの人々は、タイ(当時はシャム)中央のエリートから蔑まれていた。現在でもその構造は続いている。バンコクのエリートは、UDD支持者を「無知な人々」だとみなしている。そのようなエリートの差別感が、モルラムへの熱狂を生んでいるのである。

タイの政治・大衆文化における「モルラム」の役割について考える。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

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「核なき世界」への疾走という課題

【ワシントンDC・IDN=アーネスト・コレア】

核不拡散条約(NPT)の2010年運用検討会議の最後の数日、メディアでは暗い見出しが躍り、多くの識者は交渉は決裂に終わるだろうと考えていた。しかし、最終宣言が全会一致で可決された。意見対立の多い問題について一致を見たことは、核軍縮への道における重要な一里塚となった。

NPT運用検討会議は5年に一度開かれるが、前回は決裂に終わった。当時、決裂の原因は米国の前政権にあると多くの代表が非難した。

「NPT運用検討会議は、2005年のあとでもう一度失敗に終わることなどできなかった。核不拡散、核軍縮、原子力の平和利用というNPTの三本柱を強化する文書に合意したことは、(加盟総数190カ国のうち)出席した172カ国による素晴らしい努力の証左です。」とジャヤンタ・ダナパラ博士は語った。ダナパラ博士は「科学と世界問題に関するパグウォッシュ会議」の会長であり、1995年のNPT運用検討・延長会議では議長も務めた。

Jayantha Dhanapala/ Photo by Katsuhiro Asagiri
Jayantha Dhanapala/ Photo by Katsuhiro Asagiri

 成果

ダナパラ博士は、「加盟国が『留意』する再検討部分と、全会一致で採択された『64の行動計画』からなる『結論と勧告』の部分に最終文書を分割する新しい方式は、未来のよい先例になるでしょう。」と付け加えた。

会議の成果は心強いものであり、「世界の新しい政治的リーダーシップと、市民社会組織によって媒介された世界の世論の強い潮流の結果として生まれたものです。『核兵器なき世界』という目標を早期に達成できるように、今後起きるであろう障害を乗り越えて、こういう協働作用を強めなくてはなりません。」とダナパラ博士は語った。

ダナパラ博士の見方では―そしてそれはいくつかの国の代表や識者も同意するところであるが―、会議の「最も重要な成果」は、「ようやく15年を経過して、中東に関する1995年の決議の履行に関する合意がなされたこと。」だという。パグウォッシュ会議は、運用検討会議の間、特にこの問題に焦点をあてたサイド・イベントを開いたり、各国政府代表に対する働きかけを行ったりして、努力をしてきた。

ダナパラ博士は、「中東非核兵器・非大量破壊兵器地帯を設立するための会議を2012年に開催すること、その会議のための準備を行い、会議後にも責任を持ち続けるファシリテーター(取りまとめ役)を任命することを決めたのは、重要な前進でした。また、この決議を履行するにあたって市民社会の果たす役割の重要性に文書で言及したことは、パグウォッシュ会議がこの任務を続けていく後押しになりました。」と語った。

軍縮

元国連事務次長(軍縮担当)でもあるダナパラ博士は、会議の結果について以下の点を指摘した。

「核軍縮に関する最適の結果は核兵器保有国による抵抗によって薄められてしまったが、全会一致で採択された行動計画は2000年運用検討会議の最終文書より前進している。」

「すべての加盟国は、『核兵器なき世界』という目標を達成するために、非可逆的で、検証可能、透明性のある政策を追求するという約束をし、核兵器保有国は、核兵器を完全に廃絶するという『明確な約束』(unequivocal undertaking)を履行するとした。」

「会議は、国連事務総長による核軍縮に向けた『5つの提案』に留意した。この提案の中には、核兵器禁止条約(NWC)の交渉も含まれている。また、核兵器国は、いくつかの問題に関連して、核軍縮に向けて早急にスピードアップすることを約束した。」

再確認

その他の主な合意は以下のようなものである。

包括的核実験禁止条約(CTBT)の重要性を再確認。会議は、核兵器の完全廃絶こそが、核兵器の使用(あるいはその威嚇)をさせない唯一の保証であることを認識。

・ロシアと米国は、4月に締結した核兵器削減条約の履行を促される。

・核拡散を防ぎ「密輸を探知・抑止・防止」する必要性をすべての加盟国に再確認させる。

・密輸への抑止になり、核テロリズムの問題に対処するための既存の協定にまだ署名していない加盟国は、早期に署名すべきこと。

・イスラエルがNPT体制に加入し、すべての核施設を国際原子力機関(IAEA)の監視下に置くことの重要性を再確認。

・NPT加盟国はIAEAに関連するすべての未解決問題を解決する義務があることを再確認。

リーダーシップ

第8回目のNPT運用検討会議はこうして閉幕した。この成功の上に将来的にどんな形で波風が立つことになるのかわからないものの、ダナパラ博士が指摘するように、会議の成果は、現在の政治的リーダーシップのなせる業であったことには疑いの余地はない。

会議のリブラン・カバクトゥラン議長(フィリピン国連大使)は、全会一致可能なラインで、かつ基本原則を犠牲にすることなく、十分な内容を持った合意を導き出すために、労力を惜しまなかった。

また、非同盟諸国(NAM)の指導者らもよく努力した。エジプトのマジド・アブドゥルアジズ国連大使はNAMを引っ張った。

しかし、おそらく最大の影響力を発揮したのは、会議に参加してはいなかったある指導者であろう。つまり、米国のバラク・オバマ大統領だ。彼は1年前、プラハで行った画期的な演説で『核兵器なき世界』というビジョンを聴衆に対して披露し、国際的な集まりにおいて公共政策に影響力を持ち続ける世論の流れを作り出した。

これは長続きしないかもしれない。たしかに、この国では、すでに反動が起きはじめている。だからこそ、ニューヨークで行われた、この前向きで歴史的でもある会議で表明された善意を実現するために、スピードこそが肝要になってくるのである。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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