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|南アフリカ|重くのしかかる失業問題

【ヨハネスブルクIPS=モイガ・ヌドゥル】

アパルトヘイト(人種隔離政策)が廃止されて10年以上が経過したが、南アフリカの成し遂げたこの政治的偉業は今でも賞賛の的となっている。しかし、経済方面に目を移すと、国内の失業問題は大きな不安要素となっている。

南アフリカの失業率は公式発表では26.2%(労働組合のリーダー達によれば40%超)。「我々は経済成長すれども職は増えないという問題を抱えている。この問題はきちんと議論されるべきだ。」と、南アフリカキリスト教協議会(Economic Justice Network of the Fellowship of Christian Councils in Southern Africa)のマルコム・ダモンは言う。2004年の南アフリカの経済成長率は2000年以来最高の3.7%であった。

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|ネパール|健康|女性ボランティアが活躍する

【カトマンズIPS=マーティ・ローガン】

ショバ・バラルは手際よく小さな男の子の頭を後ろに傾け、もう一方の手で涙の形をした赤のカプセルから数滴を搾り出し男の子があんぐりと開けた口の中に落とした。そして同僚のイシュウォリ・バラルは、噛むことが出来る錠剤を口の中に入れた。

この2人のサリを身に纏った女性たちは、こうして一人の子供が生き残るチャンスを引き上げたのだった。ネパールでは子供人口の半数以上が栄養失調に苦しんでおり年間約75,000人が死亡している。さらに9年間に及ぶネパール政府と毛沢東派ゲリラの抗争は約11,000人の犠牲者を出し、依然として頻発する爆弾攻撃、道路封鎖は、子供たちの保健所へのアクセスを困難にしている。こうした中で、バラル達ほか約48,000人の女性コミュニティーヘルスボランティア(FCHV)の活動は、子供たちの将来に一条の光をもたらしている。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|レバノン|シリア軍と共に沈黙の時代に終止符が打たれる

【ベイルートIPS=マリアン・スティグセット】

 国際社会からの圧力により、ついにシリア軍・諜報機関のレバノンからの撤退が今週実現する。これによりレバノンは30年ぶりに武装闘争と外国軍による占領から解放され、レバノン市民は新たな時代を迎えることとなる。

レバノンでは1990年に実質的な交戦状態は終結していたが、表面的な平和と引き換えにシリア諜報機関の検閲のもと、沈黙を強いられる時代が長年続いた(内戦下の肉親や友人の不条理な死の原因究明やその時代を歴史の一部として批判的に振返ることは許されなかった)。この精神的に鬱屈した(Depressed)感情が、2月のラフィーク・ハリリ前首相の暗殺の際の、真相究明を求める大規模な民衆の行動となって現れた。シリアが去り新たに入手した言論の自由の中で、レバノンの老若男女は、各々の方法で過去・現在・未来に向き合おうとしている。

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|エジプト|旅行者がエジプト経済の生命線を維持している

【カイロIPS=アダム・モロー

4月7日にカイロ市内の歴史地区アル・アザールで外国人を標的としたテロ事件(3人が死亡)が勃発し、ホテル、旅行代理店関係者は1997年の「ルクソールの悪夢」(日本人を含む58人の外国人観光客が殺されエジプト観光産業が壊滅的なダメージを受けた:IPSJ)の再来を心配したが、今回はテロ組織との関連がない個人による偶発的な事件として処理されたことで大事には至らなかった。

エジプトは、混迷を深める中東情勢をよそに2004年には史上最多の810万人(前年比34%増)の観光客が訪れるなど、未曾有の観光ブームに沸きかえっている。しかし、もし今回のようなテロ事件が組織との関与のもと、あるいは連続して起きるようなことがあれば、エジプト経済は瞬時にして致命的な打撃を蒙ることとなる。

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|コロンビア|先住民のコミュニティーに「中立」のオプションは残されていない

【トリビオIPS=コンスタンツァ・ヴィエイラ】

「この数日は、生まれてこれまで泣いたよりも、もっと泣きました」と、ブラウディオ・メンドーサはかつて彼の家であった所の瓦礫の中に座すわりこみながら、IPSの取材に応えて語った。

コロンビアでは1964年以来、政府軍と国内最大勢力の左翼ゲリラ(Revolutionary Armed Forces of Colombia:FARC)の内戦が繰り広げられてきたが、Nasaインディアン達が先祖代々暮すトリビオ(人口約3,000人)は戦火に巻込まれなかった。ところが2003年11月に警察署が街に出来たことから、この政府施設を標的にFARCの攻撃が激化していった。Nasaインディアン達は、政府、FARC双方に中立でありたい旨を懇願してきたが、2週間前、FARCはトリビオの街への本格的な攻撃を開始、激しい銃撃戦の中、多くのNasaインディアンが犠牲になった。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|アフガニスタン|国連使節の罷免が人権侵害と秘密への関心を集めた

【ニューヨークIPS=ウィリアム・フィッシャー】

シェリフ・バシオウニ(1999年ノーベル平和賞候補:エジプト生れ)は、米国の要請でポストが廃止されるまで、アフガニスタンにおける人権問題を調査する国連の責任者の立場にいた人物だが、米国が(アフガニスタンにおける)同国の関係者による人権侵害の事実を隠蔽するために彼の調査を妨害し、挙句に彼を追放したと、米国を厳しく非難して物議を醸し出している。

 
バシオウニは報告書の中で、「1,000人以上のアフガニスタン人が正当な法手続きを得られることなく米軍によって拘束されている。」と指摘し、「このまま虐待の影響が放置されればアフガニスタンに危険でネガティブな政治的環境が醸成されそれが、和平プロセスと全般的な国の再建事業を危機的な状況に追いやることになるだろう」と語った。

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|モロッコ|スラム街から「セメント-ゲットー」に

【カサブランカIPS=アブデラヒム・エル・オウアリ】

過去に起こった悲劇(1981年のパンを求めるスラムのデモ群集に警官・軍隊が発砲、多くを虐殺した事件、2003年5月にカサブランカの金融中心街で起こったスラム出身者による自爆テロ)が、モロッコのスラムの抱える諸問題を浮き彫りにしているが、「モロッコ政府のスラム対策は依然として不十分なものである」と専門家は語る。貧困層の世帯を、従来のスラムから新しいが粗末な作りの建物に集団移転させることが、必ずしも貧民層の中で醸成されてきた緊張関係を解消することにはならないだろう。

 
2003年5月16日、オサマ・ビン・ラディンのアルカイダネットワークとの繋がりがあると見られるテロリストがカサブランカの金融街の中心で引き起こした自爆テロは、40名以上の死者と100名以上の重軽傷者を出した。それから約半年後、ドリス・ジェットウ首相は、「モロッコ政府は毎年100,000戸を目標に、国内の低所得者層を対象とした住宅を建設する」意向であることを発表した。

 
それと同時に、トウフィク・ヒジラ住宅・都市化担当相(Minister-delegate)は、「モロッコ政府は、各市内のスラム地区(=社会不安の温床、特にカサブランカのスラム街は自爆テロリストの供給拠点と見なされている)を撲滅する実行可能な開発計画を有する都市に対して財政措置を優遇する」と発表した。

「5.16自爆テロ事件」は、モロッコ政府に国内のスラム地域に居住する約150万人の貧困層の存在を再認識させることとなったようだ。しかし残念ながらそのことが必ずしもスラム問題の解決に向けた具体的な行動計画へと繋がっていくことはなかった。政府当局は、スラム住民を物理的に不安定で危険な掘立小屋からアパートに移転させたのみで、これらの「元スラム住民」をモロッコ社会に統合したり、移転先地域全体の社会開発のプロセスをこれによって生み出すという努力はなされなかった。

カサブランカ建築家組合前理事長で国際建築家組合(IUA:100カ国以上の職能団体を含む国際建築家組織)科学委員のAzdine Nekmoucheは、政府のスラム撲滅計画について「これには深刻な問題がある」つまり「これでは住民はスラムからセメントで固められた街に移されているだけだ」と語った。

また、「スラム住民のために建設された建物は『縦に聳え立つゲットー』である」とNekmouche は言う。「なぜならこの計画には他の住人との接点を持たせようというUrban Mixtureの概念がないからだ。同等の社会経済レベルに属する市民たち(この場合、スラムの貧困層)を特定の小さな区画に押し込めることで、我々は新たなゲットーを作り出しているにすぎない」「つまり、(ゲットーでは)その地区の住民にとって良き目標となり、他の住民を(将来に向かって)動機付けるような人物がいないということです」とNekmouche 語った。

カサブランカのIdriss el Harti大通り沿いを見渡せば、近代的なビルが並んでいるが、実はその背後に22年前に建てられた低所得者用のアパート群が隠れていることは誰も想像できないだろう。

モウレイ・ラシッド(Moulay Rachid)地区は元ベン・ムシク(Ben M’sik)スラム街の住人のために建設されたところである。ここにスラム住民たちが移されたのは1984年の冬であった。しかし、彼らの新しい「家」は当時まだ完成しておらず、9平方メートルの一部屋に「台所」を兼ねた洗面台、壁と床はコンクリートむき出しの状態で、各入居者が残りの仕上げ作業をすることとなっていた。

モハメッドKが家族と共にラシッド地区に移り住んだのは15歳の時であった。あれから21年経過したが、彼は当時学校に通学するために毎日10キロ以上の道程を歩かなければならなかったこと、ラシッド地区では各ブロックが鎖のフェンスで囲まれていたのを今でも覚えている。「当時ラシッド地区にはバス亭さえありませんでした」とモハメッドは語った。

「私は当時、私達(元Ben M’sikスラム住民)は人間として扱われていないと感じていました。後に当局がフェンスの撤去を行ったとき、私の友人が『どうやら当局は、我々がようやく飼いならされたと、得心がいったようだ』とコメントしたのですよ」とモハメッドは語った。

ラッシド地区への移転より3年遡る1981年6月20日、数十人のモロッコ軍兵士と警察部隊がBen M’sikスラムに侵入し、バンを要求するスラム住民のデモ鎮圧にとりかかった。住民のデモは当初基本生活物資の価格高騰に対する抗議であったが、次第にサボタージュや流血の衝突へとカサブランカで最も貧しい地区を舞台に事態は悪化していった。

軍隊・警察が住民に対し実弾を発砲し徹底的な弾圧で臨んだことから、数千件にのぼる残虐行為が報告された。そして犠牲者達は集団墓地に埋葬された。この事件の後、モロッコ政府は、Ben M’sikを含む全国のスラム「=緊張地帯:tension zones」の問題と向き合わざるをえなくなった。

1981年の「Ben M’sikスラム暴動」は、モロッコ政府にとって、2003年の「5.16自爆テロ事件」時のように、本来であれば、スラム問題が差し迫った未解決の問題であるということを再認識する機会となるべきであった。

カサブランカは、モロッコ王国最大の都市で経済の中心であるとともに、国内のスラムの約半分が集中している場所である。モロッコ政府当局は、Ben M’sikスラムの大半を撤去した後、(元スラム住民の移転先である)ラシッド地区がもう一つの巨大スラム街であるアルマシラと近いことに気づいた。

アルマシラスラムは、モロッコ政府当局が1976年(「Ben M’sikスラム暴動」に先立つ5年前)にカサブランカ-ラバット有料高速道を建設するために数百人のBen M’sikスラム住民を移転させた際に生まれたスラム街である。それまでBen M’sikスラムで社会的な緊張を引き起こすような問題が引き起こされたことはなかったので、スラム住民の移転はスラムからスラムへの単純な移転として処理され、移転住民たちにはアパートが提供されることもなく、(「5.16自爆テロ事件」後のように)移転先にアパートが建設されることもなかった。

「5.16自爆テロ事件」で、カサブランカの金融中心街を爆破した自爆テロリストはこのアルマシラスラム地区から現れた。

「人口過密で失業率・非識字率が高く、住民が物価高騰に喘いでいるラシッド・アルマシラ両地区の実情は、アルカイダと繋がるような過激派にとって、(自爆テロリストを含む支持者を獲得する)格好の舞台と映っている」と専門家は指摘する。

「ラシッド・アルマシラ両地区は、モロッコ裁判所に送られてくる犯罪者の主な供給源になっている」。カサブランカ法曹界のメンバーであるモハメッド・チェムジー弁護士はIPSの取材に応えて語った。「なぜなら、いっこうに改善しない生活条件への絶望から、若者たちは犯罪に走るのです」とチェムジー弁護士は説明した。「そして、この自暴自棄が、過激派のリクルーターの標的になるのです」

モロッコ政府によるラシッド地区を市に昇格させようとする10年以上前からの努力にも関わらず、同地区内の社会・文化関連インフラの状況は改善されていない。それどころか、ラシッド地区の指導者達は自らの権力を乱用しているように思える。

住民達の証言によると、ラシッド地区のスタジアムは今や完全に放棄され、犯罪者にとって便利な隠れ家と化しており、一方、テニスクラブ「ラ・ラケット・ドール」はある種の市庁舎であるかのように違法に改装され、地区代表の親族で地区議会議員が地元行政を食い物にしている、という。

「ラシッド地区の市政開発など、単なる幻想に過ぎない」とチェムジー弁護士は語った。

また、ラシッド地区には広大な工業団地があるが、「それはどちらかというと働く女性や少女達が青春を埋もれさせる墓場のような所だ」とチェムジー弁護士は言う。「彼女たちは若く、やる気一杯で工業団地に入るが、結局は背中の曲がった老婆のようになって出てくることになる」

この工業団地も、スペイン、アルジェリア、中国からの不当に安価な商品の流入に厳しい競争を強いられている上、税金の値上げ、政府の不十分な支援が重なり、多くが倒産や閉鎖の危機に直面している。

「ラシッド・アルマシラ両地区の住民には開発の恩恵に預かる十分な機会が与えられていない。そこで民間セクターによるイニシャティブに大いに期待したいところだが、その選択をした場合でも複雑な問題が山積している」

逆説的に言えば「ラシッド地区に民間イニシャティブを導入しようとする試みは、奥行きが知られていない未知の洞窟を探検するようなものです。まず最初に直面する問題は複雑な行政手続でしょう」と、チェムジー弁護士はIPSの取材に語った。

「新たな店を1軒開設するための単純な許可を取得するだけでも、長い官僚的な手続きを経なければならないのが実情です。すなわち、あなたが把握できるのは手続きを開始した日のみで、いつ手続きが終わるかは神のみが知るというありさまです」

「さらに民間イニシャティブへの障壁となるものは、ラシッド地区に横行する不正・腐敗の構造です」「将来、ラシッド地区に投資しようとする者は、直ちに腐敗した地区役人や関係機関の気まぐれに奔走されることになるでしょう」と、チェムジー弁護士は語った。

モロッコ政府のスラム根絶政策は、1981年の「Ben M’sikスラム暴動」や2003年の「5.16自爆テロ事件」への対応の際に見られたように、殆どが散発的かつ対処療法的なものに終始している。

にもかかわらず、モロッコ国内の一部の市は2007年に、そしてその他の諸都市は2010年にそれぞれ「スラムのない街」を宣言することを予定している。しかし、専門家の間では、(単にスラム街を地図上より根絶することよりも)むしろ「ゲットーをなくす:Ghetto-free」街を目指した施策の方がモロッコにとって有益ではないかという点で、一致を見ているようだ。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

収入への道は今、東へ延びる

【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

バルカン半島の数千人にのぼる男たちはより良い収入を求めて東に向かっている。その内の多くは、トラックを運転してイラクの米軍基地に食糧を運搬する仕事に従事している…。バグダッドはベオグラード(旧ユーゴスラビアの首都)から2400キロ離れている。また、イラクの米軍基地に留まって働く者も少なくない(基地ではマケドニア人やバルカン半島出身の労働者が各種サービスを提供している)。

イラク、ロシア、中東各地の新しい仕事、すなわちそれらの地域に食料を運搬する仕事から得られる月収は最高2000ドルであり、旧ユーゴスラビア地域(現在のスロベニア、セルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア)における平均月収が200ドルに満たないことを考えれば魅力的な収入である。

 トラック運転手たちは、フロントガラスに道中の安全を保障する「新たなパスポート」―旧ユーゴスラビア大統領シップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito、1892年~1980年)の写真―を掲げて、目的地に向かって旅立っていく。チトー大統領が逝去したのは25年も前のことだが、彼が非同盟運動の礎を築いた中心人物の1人(※1960年、チトーは、エジプトのナセル、インドのネルー、ガーナのエンクルマ、インドネシアのスカルノと第1回非同盟会合を開催した:IPSJ)であることから、彼の写真は今でも(中東地域で)広く好感を持って受け止められている。
 
「イラク人達は今でも彼(チトー)を覚えている」とトラックドライバーのミロラッド・ミレティッチ(58歳)はIPSに語った。「チトーの写真は幸運をもたらすお守りのようなもので、この写真をフロントガラスに掲げると国境を問題なく通過できる」
 
彼ら長距離運転手には幸運あるいはチトーの写真が伝える「親善」のイメージが必要である。「(チトーの写真を掲げていることで)不安が解消され、知らない土地で助けが必要なときでも物事がスムースに運ぶ」とミレティッチは語った。「(イラクの)チクリットとモスル近郊でクロアチア人ドライバーを巻き込む事件が起こってから、運転手は皆、不安で一杯なんだ」 
 
2人のクロアチア人運転手イヴォ・パヴチェヴィッチとダリボル・ブラゾヴィッチは3週間前、輸送車の車列が何者かに襲撃された際に殺された。これに対して、クロアチア外務省は危険地域への輸送の仕事を取らないよう警告を発したが、イラク、アフガニスタンに向かうクロアチア人トラック運転手の数は増加し続けているのが現状である。
 
この傾向は、中東方面や長大なシベリヤ、モスクワ近郊での事件に直面しながらもロシアへの物資の運搬に従事するセルビア人の場合にも当てはまる。
 
最近モスクワ郊外で発生したそのような事件を紹介すると、中部セルビアの街Kragujevacから出稼ぎにきていたヒリスティヴォイェ・ルーキッチ(58歳)はモスクワ郊外で電子部品を運搬中、無理やり車から引きずり出された。ルーキッチはこの経験を「不愉快な冒険」を振返っているが、彼はその後5日間、小さな家で身を隠さなければならなかった。「ロシアには2度と行かない」とルーキッチは言う。
 
しかしほとんどのバルカン半島出身の運転手は危険を覚悟で東への運搬業務に従事している。今日、ギリシャ、トルコのハイウェイ沿いにはどこでも、ヨルダン、イラク、アフガニスタンと行き交うボスニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人運転手の姿を見つけることができる。「この沿線はあたかも動く『小さなユーゴスラビア』ですよ」とミレティッチは言う。

彼は今までに4回イラク入りしており、現在5回目となるイラクの米軍基地への物資運搬の準備を進めている。「前回の輸送隊にはクロアチア人、ボスニア人、それとセルビア人も何人かいました」「(イラクでは)マケドニア人の出稼ぎ労働者が私たちを泊めてくれたのですよ」と、ミレティッチは言う。

1990年代の内戦はこれらの人々を引き裂いた。「私たちは決して当時の内戦のことは口にしません」とミレティッチは言う。「私たちの(今直面している戦争)は生き残りをかけたものですから、すなわち、日々を生きていくためのバンを得ることの方が、政治よりも重要な問題なのです」

「運転手達の収入を求めた東への旅は、旧ユーゴスラビア地域の人々の人口移動の方向性が東に傾きつつる現状を反映したもので、(従来西へ向かっていた)伝統的な人口動態の方向が『劇的に変化した』ものです」とセルビア労働・雇用・社会性政策省(Ministry for work, employment and social policy)のイヴァナ・チブロヴィッチはIPSに語った。

1960年代、少なくとも100万人の労働者がバルカン半島からドイツ、フランス、スイスに出稼ぎに出かけて行った。後に、より職能レベルの高い比較的小数の人々が西側に移住していった。そして90年代の内戦時代には約40万のセルビア人青年達が米国、カナダ、オーストラリアへと移住して行った。その結果、保守的に見積もっても海外在住のセルビア人は約300万人にのぼる。セルビアの人口は約750万人である。

ボスニア・ヘルツェゴビナの場合、政府の推計によると、内戦中に国を離れたボスニア人は約100万人にのぼり、彼らは戦後もそのまま海外に留まる傾向にある。この在外ボスニア人は全ボスニア人人口の4分の1を占める。

「(内戦中海外移住せず)旧ユーゴスラビアに留まった人々にとって、経済状況はひどいものだった」と社会学者のスレコ・ミハロヴィッチはIPSに語った。「1995年に平和が回復すると、それまで可能であった海外移住の様々な道は閉ざされてしまった」。そして(今まで移民を受入れてきた)西ヨーロッパ諸国の労働市場が収縮し「今や人々は受入れてくれるところはどこへでも仕事を求めて向かわざるをえない状況です」と彼は語った。

この現状を象徴しているのが、中東諸国への長距離トラック輸送車列の出発点であるクロアチア―セルビア国境の街バトロビッチの光景である。「収入さえ良ければ、私は行きます」とミレティッチは言った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

|開発|食糧援助があなたの傍の小さなスクリーンに

【ロンドンIPS=サンジェイ・シュリ】

あなたは干ばつの被害を受けた地域上空を旋回している飛行機のコックピットにいます。そして数千人もの飢餓に苦しむ人々が地上で待っています。彼らの命はあなたの行動にかかっているのです。飛行機を山の急斜面に移動させ最初の救援食料を投下してください。

(画面が切り替り)その救援食料を搭載したトラックがぬかるむ危険な道を進んでいますそして――あなたが運転するトラックと食料を待ち望む飢餓に苦しむ人々の間に――反乱兵が現れます。

 
あなたは、仮想現実の世界に構築された食料支援任務の真っ只中にいるのです。

ローマに本部を置く世界食料計画(WFP)が公開した世界の飢餓問題をテーマとした最初の人道援助ビデオゲーム「食料部隊:Food Force」は、インターネットから無償でダウンロード可能でウィンドウズ、マックどちらのパソコンでもプレイが可能である。その目的は、世界における食糧支援の必要性を、子供たちが理解できる言語で認識を高めることにある。

このゲームは、ソニーのプレイステーションが提供する最新ゲームのような複雑さには太刀打ちできないかもしれないが、ゲームに熱心な子供たちの興味を惹きつけるには十分な内容を持っているとのことである。

「コンピュータゲーム業界は常に進化しており新たな技術が常に導入されている。しかしこのFood Forceは、これだけ洗練されたレベルのゲームとしては初めてのものとなります」と、WFPロンドン事務所のグレッグ・バローはIPSに語った。「このゲームには三次元の立体キャラクターが登場し、音楽パッケージも備え付けられている。プレーヤーは、ゲームを通じて人道援助活動が直面する様々な挑戦を疑似体験し、そこである程度洗練された作業をこなしていけるように作られている。

「市販のゲームソフトに慣れている子供たちでも、Food Forceを同様のレベルのゲームと認識するでしょう」とバローは言う。

このゲームの対象年齢は、8歳から13歳で、シェイラン(Sheylan.)という架空の島を舞台に、食糧支援が必要な人々に救援食料を届ける6つのミッションが収録されている。

プレーヤー達は、Food Forceの緊急援助要員を駆使してゲームを進めていく。これらのキャラクターは飛行機やヘリコプターを操縦し、武装した反乱軍兵士達と援助物資輸送車列のルートについて交渉をし、時間制限内に食料調達の兵站パズルを解く。そして最終的には、創意工夫して、目的地のコミュニティーに対して長期的な食料の安全を確保できる体制を構築していく。

プレーヤーはそれぞれのミッションをクリアする毎に点数を獲得でき、世界中のプレーヤーと比較することができる。

Food Forceは、木曜日(4月14日)にボローニャで開催された世界児童書フェア(the International Children’s Book Fair)で発表され、現在英語版が利用可能であるが、その他の言語版についても近く公開予定である。

WFPは、学校の教師がこのゲームに関心をもち、授業で活用しながら食糧問題を取り上げて行くことを希望しているFood Forceのゲームウェブサイト(http://www.foodforce.konami.jp/)にはダウンロード可能な教師用パッケージも用意されている。

「Food Forceは、両親が安心して子供達に自宅でプレイするよう励ませれる作品であり、また、教師が授業の中で使用したいと思うような作品です」と、4月14日の発表のなかでWFPのニール・ギャラガ広報部長は語った。「多くの父兄が、ビデオゲームで描写される血や暴力に子供たちが晒されていることを問題にしています。その点Food Forceは、楽しくアクション満載の(従来の問題あるビデオゲームに代わる)選択肢になると思います」

世界食料計画は世界最大の人道支援機関で、毎年80カ国以上の平均9000万人の人々に(内、5600万人は空腹に喘ぐ子供たちである)食糧援助物資を届けている。

また、ゲームウェブサイトが提供するものはゲームに留まらない。このサイトを通してプレーヤーは、クリックの先に飢餓の現実があることを知る。そして、そのサイトを通じて、世界で飢餓に直面している人々に少しばかりの貢献をする機会が与えられるのである。

「このゲームの開発にはかなりの時間を要しました」と、バローは語った。「WFPは多くの手段を通じて、飢餓対策上直面する様々な挑戦について説明してきました」「このゲームは、市販の商用ゲームに夢中になっている世界の全ての子供達を対象に、彼らが飢餓問題に対する認識を高めていくことを目的としています」

WFPは今回のゲームに対する反響を詳しく分析して後続のゲーム開発を進めるかどうか検討したいとしている。「私たちはこのゲームがどの程度成功するのか、そして、どのくらいの子供たちと教育機関が関心を持って活用してくれるかを知りたい」と、バローは語った。

「今日、子供たちとのコミュニケーションには最新の技術が欠かせない」と、ギャラガは語った。「世界の先進国の子供たちは、いつ餓死するとも分からない状況の中で床につくのがどのようなことなのか理解できない。Food Forceはハラハラドキドキするダイナミックなゲーム展開で子供たちの興味を引き出し、エイズ、マラリア、結核による死亡者の合計を上回る犠牲者を出している『飢餓』に対する理解を深めることを目的としています」(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

日系人強制収容の不当性を訴えた闘士86歳で逝去

【IPS Japanアーカイブ】

フレッド・コレマツは、第2次世界大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)、北カリフォルニアのカークスプルで86年の生涯を閉じた。

フレッド・コレマツ(Fred Toyosaburo Korematsu)の40年に及ぶ(第二次世界大戦中の日系人強制収容の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁でも否決され有罪が確定した(1944年)。ところが最後は一転して犯罪歴は抹消され……しかも米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」「大統領自由勲章」が授与された。

 
コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も酷いものの1つである。

日本軍による真珠湾奇襲攻撃から間もない1942年2月、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、全ての日系人の強制収容を認可(大統領命令9066)、12万人に及ぶ日系人は市民権の有無に関わらず各地の収容所に送り込まれた。(※この大統領令は、カリフォルニア・ワシントン・オレゴン及びアリゾナ州在住で日本の血を引く人々全員を、老若男女を問わず、手荷物以外の財産を処分して有刺鉄線で囲まれた収容所に移住することを命じたもので、日系人はその後ほとんど3年間を収容されて過ごすことになった。= IPS Japan)
 
コレマツ氏の両親もこの時収容所に送られたが、コレマツ氏は収容所行きを拒否、当局によって逮捕、起訴され、刑務所に収監された。そして1944年米最高裁はルーズベルト大統領の強制収容措置の正当性を支持、コレマツ氏の訴えを却下した。

ここでアメリカ市民権組合(ACLU)北カリフォルニア支部の専務理事兼弁護士のアーネスト・ベーシック氏(Ernest Besig)が登場する。当時ベーシック弁護士は、日系人の強制収容措置の違憲性を訴えるテストケースを探しており、コレマツ氏への協力を申し出た。ベーシック氏は、コレマツ氏の保釈金5000ドルを用意したが、憲兵はコレマツ氏の釈放を拒否した。
 
コレマツ氏は保釈どころか日系アメリカ人を一時収容する競馬場に連行され(他の日系人収容者と共に)馬小屋に暫く抑留された後、ユタ州トパーズ収容所に送られた。

一方、コレマツ氏の日系人強制収容の違法性と彼自身の無罪を訴える訴訟は悉く退けられた。1944年、日系人収容措置はやっと解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」としてその後大企業や公的な職につくことは出来なかった。
 
それから約40年経過した1981年、法史研究科のピーター・H・アイロンズ氏は、米法務省に対してコレマツ事件関係の裁判所記録の原文を請求した。そこでアイロンズ氏は、検察側が(証拠隠しを行い)最高裁で偽証していたことを見出した。

2年後、裁判所は特赦を申し出たがコレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。

こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符を打った。

5年後、ジェラルド・R・フォード元大統領は、日系人強制収容措置を「国家的な過ち」として非難した。1983年、連邦議会の調査委員会(日系アメリカ人の排除と拘禁に関する委員会)は全員一致で、日系人の強制収容を人種的な偏見と戦時のヒステリー状況、及び政治指導層の失敗により引き起こされたものであり、軍事上も強制収容する正当性はなかったと結論づけた。

5年後、当時のロナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容措置を「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対して、1人当たり2万ドルの賠償金を支払うことを決定した。そして1999年、当時のビル・クリントン大統領はコレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。

「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています……プレッシー、ブラウン、パークス……」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。「その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」

クリントン大統領が言及した「プレッシー」と言及した人物は靴職人ホーマー・プレッシー氏のことで、1890年彼が30歳の時、東ルイジアナ鉄道の「白人専用席」に座った罪で投獄された。

人種問題にとりつかれていた当時の社会状況を反映して、プレッシー氏は「8分の7は白人、8分の1は黒人」と分類された。当時のルイジアナ州法の規定ではこの分類は「黒人」に相当し、従って、プレッシー氏は「有色人種席」に座ることが法的に妥当と判断された。

プレッシー氏はこの判決を憲法違反として最高裁まで上告し続けた。(プレッシー対ファーガソン裁判
)しかし彼の訴えは却下され、後の1954年に米最高裁が従来の「隔離すれども平等」の規定を否定するまで陽の目を見ることはなかった。

その違憲判決の契機となった訴訟はブラウン対教育委員会事件」として知られ、当事者の少女は小学3年生のリンダ・ブラウンであった(クリントン大統領が言及した2人目の人物)。彼女は、黒人であるがゆえに、僅か7ブロック離れた所に白人の小学校があるにも関わらず、鉄道操車場を超えてカンザス州トペカにある黒人小学校まで1マイル(約1.6キロ)の道程を歩いて通学しなければならなかった。

リンダの父オリバー・ブラウン氏は娘を近くの白人学校に入学させようとしたが、校長に拒否された。そこでリンダ・ブラウンは、全米黒人向上協会(NAACP)トペカ支部の支援を得て1951年、トペカ教育委員会を提訴した。

裁判で、全米黒人向上協会は「学校の人種隔離政策は、黒人の子供たちに彼らが白人より劣っているというメッセージを送っている。従って、学校が本質的に平等な教育環境を提供する場として機能していない」と主張した。

この訴訟は米最高裁まで持込まれ、1954年最高裁は「公的教育の分野において『隔離すれども平等』という原則は成り立たない。隔離した教育施設は本質的に平等ではない」との裁定を全員一致で下した。

このリンダ・ブラウンの訴訟チームを率いたのがサーグッド・マーシャル氏で、彼は後に全米初の最高裁黒人判事に就任した。

ローザ・パークス氏(クリントン大統領が言及した3人目の人物)は、「公民権運動の母」を称せられてきた人物であるが、1955年12月、彼女が市営バスで白人乗客に席を譲るのを拒否した当時、アラバマ州モントゴメリーで裁縫婦として働いていた。

バスの運転手の通報によりパークス氏は逮捕され、裁判の結果、地域条例違反で有罪の宣告を受けた。彼女のこの行動は、その後全市にわたる黒人による市バスボイコット運動へと発展し、それは1年以上に亘って繰り広げられた。そしてこのボイコット運動を通じてそれまで無名のマーチン・ルーサー・キング牧師が一躍全米で知られる存在となり、結果的に、米最高裁による市バスにおける人種隔離を違法とする裁定へと繋がっていった。

しかしながら、フレッド・コレマツ氏にとって、2004年4月、米最高裁が、キューバのグアンタナモ湾米海軍基地に同時多発テロ以降(アラブ系の人々を)「敵性戦闘員」として収容していることを不当とする訴えに、米司法当局が応えられるか否かの判断を迫られている現実は、かつての記憶(日系人強制収容の悪夢)を再び呼び覚ますものであった。

コレマツ氏(当時84歳)は、裁判所の友(friend-of-the-court:係争中の事件の当事者ではないが、かかわりのある第三者として裁判所に意見を述べることのできる人)の意見書の中で、「政府(ブッシュ政権)の採用している極端な立場は、私にとって全く馴染みのものです。(=ルーズベルト政権が当時日系人に対してとった極端な立場)」と述べている。

結局、米最高裁は、グアンタナモ湾(米海軍基地)に外国籍の人々を法的手続きなしに抑留するブッシュ政権の政策は憲法違反であるとの裁定を下した。
 
「今日、アラブ系アメリカ人の中には、かつての日系アメリカ人と同様の経験を強いられている人々がいます。私たちは決してその過ちを繰り返してはならない」とコレマツ氏は語った。

アメリカ市民権組合(ACLU)北カリフォルニア支部専務理事のドロシー・エーリッヒ氏は「もしフレッド・コレマツ氏がいなかったら、第二次世界大戦中の日系人強制収容(―最も恥ずべき米国史の一時期―)の事実は、私たちの歴史の中の単なる付随的な事件として人々の記憶に残ることもなかったでしょう」と、IPSの取材に対して語った。

「コレマツ氏の行動は、世代を超えた全ての人々の心の扉を開けたのだと思います。同時多発テロ直後の時期にあって、「市民の自由」を守ろうとするアメリカ市民自身の能力は、60年前に自らの憲法で保障された権利を守るべく静かに立ち上がった1人の人間の勇気ある行動によって、計り知れないほど、高められたのです」

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩