ニュース視点・論点広島・長崎への原爆投下は避けられた(デイビッド・クリーガー核時代平和財団所長)

広島・長崎への原爆投下は避けられた(デイビッド・クリーガー核時代平和財団所長)

これまで唯一戦時に核兵器が使用された悲劇的な記念日が近づいているが、1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を落とす必要がそもそもあったのかどうかという問いを考えてみる必要がある。実際、米国が「リトルボーイ」と「ファットマン」を投下したのは、敗北がほぼ見えており降伏しかかっていた国であったとみなしうる証拠は多い、と語るのは、「核時代平和財団」のデイビッド・クリーガー所長である。

【サンタバーバラIDN/NAPF=デイビッド・クリーガー】

1945年8月14日(日本時間8月15日正午)、日本は降伏し、第二次世界大戦が終わった。米国の政策決定者らは、原爆投下が降伏を早めたと論じてきた。しかし、日本の決定に関する歴史研究が教えるものは、日本が最大の関心を寄せていたのはソ連の参戦であったということだ。

 日本は、天皇制が保持される(国体護持)という前提のもとで降伏した。米国は、原爆投下前に、ハリー・トルーマン大統領に対してなされたアドバイス通りのことを行った。すなわち、天皇制を保持することを認めると日本に対して示唆したのである。こうしたことから、歴史家は、日本の都市に二発の原爆を落とさなくても、あるいは連合国軍が本土上陸攻撃を行わなくても、戦争を終わらせることができたのではないかと考えている。

米戦略爆撃調査団は、原爆が使用されなくても、ソ連が参戦(8月9日に日ソ中立条約を破棄して参戦した:IPSJ)しなくても、連合国軍が本土上陸を行わなくても、戦争は1945年12月31日以前に、おそらくは同年11月1日以前には終結した可能性が高いと結論している。

広島・長崎への原爆投下以前、米国は、通常兵器によって思うがままに日本の諸都市を破壊して回った。その当時、日本にはもはや抵抗のすべがなかった。米国は、原爆投下時点で敗北がほぼ見えており降伏しかかっていた国に対して原爆を投下したのである。

原爆投下が対日戦争終結の原因ではないとの有力な証拠があるにもかかわらず、多くの米国人、とりわけ第二次世界大戦を経験した人々は、それこそが終戦を導いたものだと考えてきた。太平洋戦線に送られていたか、これから送られる予定になっていた米軍人の多くは、原爆のおかげで、硫黄島沖縄で戦われたような熾烈な戦闘を日本の海岸で行うことなく命拾いしたと信じている。彼らが考慮に入れていないのは、日本は降伏しかかっていたということであり、米国は日本の暗号を解読して日本の降伏が近いと知っていたことであり、米国が日本からの申し出を受け入れていたならば、原爆を使わずとも戦争を終わらせることが可能だったということである。

連合国軍の将官のほとんどが、原爆投下の報に接して驚愕の反応を示している。欧州連合国軍総司令官のドワイト・アイゼンハワー将軍は、日本がまもなく降伏すると理解しており、「あんな恐ろしいもので爆撃する必要などなかったはずだ。」と語っている。米陸軍航空隊司令官のヘンリー・アーノルド将軍も、「原爆があろうがなかろうが、日本はすでに崩壊寸前だった。」と指摘している。

野蛮な兵器

トルーマン大統領の下で陸海軍総司令官(大統領)付参謀長をつとめたウィリアム・リーヒ提督は、この点について、「広島、長崎へのこの野蛮な兵器の使用は、対日戦を進めていくうえで実質的に何の助けになるものでもなかった。日本はすでに敗北しており、降伏寸前であった。我々は、原爆を最初に使用することで、暗黒時代の野蛮人と共通の倫理基準を採用することになってしまった。戦争は、女性や子どもを破壊することによって勝利できるものではないのだ。」と述懐している。

トルーマン大統領が「歴史上もっとも素晴らしいもの」と表現したものは、実際のところ、配下の軍事指導者らによれば、比肩するもののない臆病な行為であり、老若男女の大量殺戮にほかならなかったのである。原爆の使用は、ドイツと日本の民間人に対してなされた空爆、民間人の生命と戦争法をますます無視した空爆の極致であった。

長年戦ってきた人々にとって、戦争の終結で大きな安心がもたらされた。しかし、他方には、自分たちの作り出してしまったもの、その創造物がいかにして使われたかについて悔悟している核科学者らがいた。ハンガリーから米国に移住した物理学者で、ドイツが原爆を開発している可能性と、米国も開発に着手する必要性についてアルベルト・アインシュタイン博士に警告したレオ・シラード博士もそうした一人であった。アインシュタイン博士は、シラード博士の説得に応じて、ルーズベルト大統領へ警告書を提出し、それが契機となって、まずは、核連鎖反応を維持するウラン使用の可能性を探る小さなプロジェクト、続いて、最初の原爆を製作することになるマンハッタン・プロジェクトが現実のものとなったのである。

民間人の命を救う試み

シラード博士は、原爆が日本の民間人に対して使われないよう最大限の努力をした。彼はフランクリン・ルーズベルト大統領との面会を希望したが、大統領は1945年4月12日に死去した。次にハリー・トルーマン新大統領と面会しようとしたが、トルーマン大統領はシラード博士をサウスカロライナ州スパータンバーグに呼び、上院議員時代の自身の教育役であったジミー・バーンズ氏と会わせた。しかし、バーンズ氏はシラード博士に否定的であった。そこでシラード博士は、日本の都市にすぐに原爆を投下してしまうのではなく、デモ使用することを求めて、マンハッタン・プロジェクトの科学者らを組織しようとした。しかし、同プロジェクトを率いていたレスリー・グローブス将軍はこの具申を自らの所で留め置き、トルーマン大統領がこのことを知ったのは、原爆がすでに使用された後のことであった。

原爆の使用は、その他多くの科学者を悲嘆させた。アインシュタイン博士は、ルーズベルト大統領に書簡を寄せたことを深く後悔した。彼はマンハッタン・プロジェクトに参加しなかったが、このプロジェクト開始を促進するために自らの影響力を行使したからである。

アインシュタイン博士は、シラード博士と同じく、米国の原爆プロジェクトの目的はドイツの原爆使用を抑止することにあると考えていた。しかし、ひとたび原爆が開発されるとそれが日本に対して攻撃的に使用されたことに深い衝撃を受けた。アインシュタイン博士は、残りの人生の10年間を原爆の廃絶のために捧げた。彼は次の有名な言葉を残している。「原子から解き放たれた力は、我々の考え方を除けば、すべてを変えてしまった。そして我々は、空前絶後の破滅に向けて突き進んでいる。」(原文へ

※デイビッド・クリーガー氏は、核時代平和財団所長。核兵器廃絶運動の世界的リーダーのひとり。 

翻訳=INPS Japan

最新情報

中央アジア地域会議(カザフスタン)

アジア太平洋女性連盟(FAWA)日本大会

2026年NPT運用検討会議第1回準備委員会 

「G7広島サミットにおける安全保障と持続可能性の推進」国際会議

パートナー

client-image
client-image
IDN Logo
client-image
client-image
client-image
Toda Peace Institute
IPS Logo
Kazinform

書籍紹介

client-image
client-image
seijikanojoken