SDGsGoal9(産業と技術革新の基盤を作ろう)スポンジ・ボブの海底都市に集まった180万人―ミームが映すエジプトのデジタル政治

スポンジ・ボブの海底都市に集まった180万人―ミームが映すエジプトのデジタル政治

【ニューヨークINPS Japan/ATN=アハメド・ファティ】

Ahmed Fathi.
Ahmed Fathi.

指導者はいない。組織もない。あるのはミームと風刺、そして圧倒的な拡散のスピードだけだ。|英語版|

約180万人のエジプト人が、アニメ『スポンジ・ボブ』に登場する架空の海底都市を舞台にしたFacebookグループへと集まった。

単なるデジタル上のジョークとして始まったこの現象は、現代のエジプト社会における集団表現のあり方、そして政治権力がそうした新しいつながりをどう受け止めているのかについて、思いがけない問いを投げかけている。

約200万人のエジプト人が、架空の海底都市へ足を踏み入れた。ところが、その物語は思いがけず、海の上にある「権力」について、極めて現実的なことを教えてくれる結果となった。

私は昨年、Z世代が抗議運動の「基本ソフト」をどのように書き換えているのかについて分析記事を書いた。そこで指摘したのは、従来の抗議運動の「振り付け」が変わったということだ。

カリスマ的な指導者はいない。本部もない。誰も読まないような分厚いマニフェストもない。内部に潜入されたり、幹部を逮捕されたり、あるいは政府との交渉に引き出されたりするような、従来型の政党組織も存在しない。

代わって登場した新しい公式は、「分散化」「ミーム」「スピード」である。

デジタル空間に小さな火花が散る。ひとつの冗談。ひとつのハッシュタグ。ひとつの共有された不満。

そして政府が「いったい誰がこの集まりを組織したのか」と問い始めるころには、すでに何十万人もの人々がそこに集まっている。

当時、私は実際の抗議運動について書いていた。まさか、その「エジプト編」をスポンジ・ボブが提供することになるとは思わなかった。

しかし、実際にそうなったのである。

海底に出現した「エジプトの町」

8月、エジプトで「カーア・アル=ハムール住民の苦情」と名付けられたFacebookグループが登場した。「カーア・アル=ハムール」は、アニメ『スポンジ・ボブ』で主人公と仲間たちが暮らす架空の海底都市「ビキニタウン」のアラビア語名である。

発想は、ばかばかしいほど単純で、それゆえに見事だった。エジプト人たちは、「もしビキニタウンがエジプトの町だったら」という設定で遊び始めたのである。当然のことながら、数日もしないうちに、その町には現実のエジプト社会でおなじみの問題が次々と持ち込まれた。

物価への不満。仕事の悩み。学校への苦情。大家とのトラブル。近所付き合い。

商店も開業し、架空の役人も登場した。官僚的なお知らせも次々と投稿された。

人々は人工知能(AI)を使って、エジプトの日常生活を海底世界に再現した。

どうやら海の底に逃げても、役所の書類仕事からは逃れられないらしい。

ところが、その単なるジョークを巨大な社会現象に変えることが起きた。人々が押し寄せたのである。

それも、驚くほど大量に。

グループは2週間足らずで約180万人のメンバーを集め、投稿は数万件に達した。

著名人や公人も次々と参加し、この架空の海底都市の「住民」を演じ始めた。8月23日には、グループは59日間の一時停止措置となり、再開予定日は10月22日と表示された。そして、この時点でスポンジ・ボブは思いがけず、エジプト政治の世界へ迷い込むことになった。

政治運動ではない、それでも180万人が集まった

このグループ自体が政治的だったわけではない。デモを呼びかけていたわけでもない。革命のマニフェストもない。政治組織でもない。

誰もパトリックをタハリール広場へ向かうデモの先頭に立たせようとしていたわけではない。それでも、200万人近い人々が一つの場所に自発的に集まった。

省庁が招集したわけではない。政党が組織したわけでもない。政府主催の青年会議がバスや弁当を用意したわけでもない。

そして、そもそも誰が率いているのかさえ、はっきりしなかった。

誰が何を組織しているのかを常に把握することに慣れた政治体制にとって、そこに不安の種が生まれる。現地報道では、治安当局がグループ管理者の経歴や思想的傾向を調べていると伝えられた。その後、論争が広がるなかで、管理者側は活動を停止した。

ただし、エジプト当局が閉鎖を命じたという公式な確認はない。それを事実として断定するのは適切ではない。しかし、公式な説明が何であったか以上に興味深いことがある。

エジプト人が、治安当局がスポンジ・ボブのジョークを投稿するFacebookグループを調べているかもしれないと聞いても、さほど驚かなかったことである。

そこに、この話の本質がある。

「自分の影」にさえ怯える権力

アブデル・ファッターフ・エルシーシ大統領の下で12年。現在のエジプトは、近代史上でも極めて中央集権的な政治体制を築いている。

大統領権限は強大だ。治安機構も強大である。組織的な反対勢力は分裂している。街頭デモはまれだ。かつて大規模な動員力を持っていたムスリム同胞団も、国内政治勢力としては事実上解体された。

政権が今にも崩壊しそうで、必死に権力にしがみついているという状況ではない。それでも時折、体制は、あまりに神経質になって「自分の影にさえ怯える」人を表す昔ながらのエジプトの表現そのもののように振る舞う。

12年がたち、今度はどうやら海の底まで調べなければならなくなったらしい。しかし、カーア・アル=ハムールに注目すべき、さらに重要な理由がある。この現象が、私が昨年指摘した新世代の行動様式にほぼ完全に当てはまっているからだ。

新しい世代は、上から下ではなく、横につながる。明確に「組織する」ことなく、組織化されていく。ユーモアを、誰もが理解できる共通言語へ変える。そして、官僚機構が追いつけない速度で動く。

私は以前、この新しい異議申し立ての「基本ソフト」を、「分散化」「ミーム化」「スピード」という3つの特徴で説明した。カーア・アル=ハムールは、抗議運動になることなく、その3つすべてを実演してみせた。

だからこそ興味深いのである。

「指導者は誰だ」「本部はどこだ」

呼び出すべき指導者はいない。組織図もない。分析すべきイデオロギーもない。明確な政治的アジェンダもない。ただ何百万人もの人々が、同じデジタルジョークを共有しているだけである。

治安当局の分析報告書を想像してみよう。「指導者は誰か?」誰にも分からない。「本部はどこか?」ビキニタウン。「イカルドの資金源は?」調査中。

「カーニさんは外国から資金提供を受けているのか?」まあ、彼の商売のやり方を考えれば、調べる価値はあるかもしれない。

「パトリックに政治的所属はあるのか?」不明。

もっとも、彼の知的能力なら、いくつかの上級職に就く資格は十分ありそうだ。風刺は勝手に出来上がる。

しかし、そこから浮かび上がる政治的な教訓は笑い話では済まない。

政治的な意味は別の場所へ移っていく

エジプト当局は長年、オンライン上の表現のかなりの部分を、治安や法律の問題として扱ってきた。

ヒューマン・ライツ・ウォッチによれば、2025年の取り締まりでは、少なくとも29人のオンライン・コンテンツ制作者が逮捕または起訴された。

その中には、「公序良俗」や「家族の価値」といった幅広く解釈可能な容疑が適用されたケースも含まれている。

こうした環境では、人々はすぐに一つのことを学ぶ。

真剣な政治的発言が危険になれば、その政治的意味は別の場所へと移っていくのである。

歌へ。サッカーの応援歌へ。TikTok動画へ。ミームへ。皮肉へ。そして時には、もともと政治とは何の関係もなかった空間にまで流れ込んでいく。

だからといって、カーア・アル=ハムールを抵抗運動と見なすべきではない。

あらゆるバイラルなジョークを「アラブの春」の続編として解釈する誘惑には抗う必要がある。

大半の人々が参加した理由は、単純に面白かったからだ。

エジプト社会における「笑い」の力

しかしエジプトで、ユーモアは決して単なる娯楽ではなかった。それは社会の圧力を逃がす弁であり、非公式の新聞であり、ときには国民的な心の防衛手段でもある。エジプト人は、泣き続けていたのでは時間がかかりすぎるようなことを、笑い飛ばす。

そしてZ世代は、その本能をいわば「産業化」した。印刷機はいらない。必ずしも政党も必要ない。必要なのはスマートフォンとアルゴリズム、そして皆が加工し、共有したくなるほど突拍子もない何かだけである。

これは、政治的な組織化を従来型の組織構造で理解してきた政府にとって厄介な問題を生む。事務所なら閉鎖できる。議長なら逮捕できる。デモなら禁止できる。しかし、ミームとはどう交渉すればいいのか。

皮肉をどう尋問するのか。そして「反対勢力」がスポンジ・ボブだった場合、いったい誰が降伏文書に署名するのか。

「誰が背後にいるのか」

だが、さらに興味深い問いは、これほど強固な権力基盤を持つ政府が、なぜそこまで気にするのかということだ。政治体制の自信は、選挙結果や警察力、制度への支配だけで測られるものではない。時には、「放っておけること」こそが自信の表れになる。

200万人近い国民が、ばかばかしいジョークをめぐって集まっているのを見て、「まあ、単に楽しんでいるだけなのだろう」と判断できることだ。

すべての群衆が陰謀なのではない。すべての管理者が活動家なのでもない。すべての冗談の裏に革命が隠れているわけでもない。そして、あらゆるデジタル現象について、エジプト政治で何度となく繰り返されてきた問いを発する必要もない。

「背後にいるのは誰だ?」時には、本当に誰もいない。

そして、それこそが新しいデジタル時代を、旧来型の政治システムにとってこれほど理解しにくいものにしているのかもしれない。

私は昨年、Z世代は革命を起こしているというより、既存システムを「デバッグ」しているのだと書いた。だがカーア・アル=ハムールは、それとは少し違う可能性を示している。時には彼らは、何かをデバッグしようとすらしていない。ただ笑っているだけなのだ。

しかし、管理されていない人々の集まりすべてに政治的な意味を探すことに慣れた国家にとっては、笑い声さえ疑わしく聞こえ始める。

そして政権発足から12年が過ぎた今、問うべき居心地の悪い問題は、エジプト人が海の底で何をしているのかではないのかもしれない。

むしろ問われるべきなのは、上から見張っている側が、海の底から何かが浮上してくることを、なぜいまだにこれほど恐れているのかということである。

INPS Japan

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