地域共通の未来のためにヒロシマの被爆体験を記憶する

共通の未来のためにヒロシマの被爆体験を記憶する

【東京IDN=モンズルル・ハク】

人間の「記憶」というものは、とりわけ戦争と破壊を記録するという点においては長続きしないようだ。人間の苦悩や窮状を描いた様々な時代の詳細な記録が無数に残されているが、人類は恐らくそうしたものを、何か曖昧で抽象的なこと、或いは、日常の現実とは全く関係ない、何か遠いかけ離れた出来事であるかのように捉えるのだろう。漠然と認識されたものは確かな証拠とはなり得ず、かけ離れた出来事が、良心を激しく揺さぶることもないことから、私たちは、打ち続いた悲劇的な現実が落ち着きを見せ、たとえ短期間でも比較的平穏な状況への道筋が見出されれば、瞬く間に、戦争や破壊が人類にもたらしたものを忘却の彼方に葬り去ってしまう傾向にある。

人類の「記憶」が持つこうした脆弱な特性は、いわゆる「より大きな集団の利益」のためという大義名分のもとに記憶を消し去ろうとする人々に常に利用され、進歩の歩みを逆行させてしまうのである。こういう訳で、戦争とそれに続く自滅行為が、平和で平穏な生活を求めているはずの人類の永遠の旅の一部となってきたのである。

こうした過ちの大部分について、真の原因は、人類が、戦争が常にもたらす人間の苦しみの深淵を理解する能力に欠けているというところにあるのかもしれない。私たちがその深淵のほどを無視し続けるかぎり、剣を鋤に打ち直す(=戦いをやめて平和な暮らしをする)のは、今後もはかない夢であり続けるだろう。さてここで、「記憶」が今一度、非常に重要な役割を果たしうるのである。つまりそれは、人類が持つ破壊能力が想像の領域を遥かに超える今日のような時代に、戦争がもたらしうる悲劇の深淵を、少なくとも現実的に捉えることを可能にする役割である。1945年8月6日の広島の原爆を生き延びた14人の被爆者は、まさにこうした理解から、その朝原爆によって引き裂かれた無垢な青年時代の記憶を回想し語ることで、私たちの良心に訴えかけているのである。

沈黙は破られた

『男たちの広島―ついに沈黙は破られた』は、(来年8月6日の)広島長崎の被爆70周年を前にして今年4月に出版された時宜を得た書物である。この本のジャンルは、1927年から39年までに生まれた広島原爆の被爆者14人の体験談を収録したオーラル・ヒストリー(口述歴史)である。彼らはいずれも原爆投下直後の惨状を生き延び、心と身体に深い傷を負いながら、長い人生を歩んできた方々である。彼らの歩んだ道は、被爆の後遺症に苦しみ生涯に亘って通院を余儀なくされるなど、決して平坦なものではなかった。身体に負った傷については、多くの場合、長年の治療を通じて癒すことができたものの、彼らの多くが直面した、社会から暗黙の内に向けられた差別的な態度は、恐らく彼らにとって身体の傷以上に痛みを伴うものであり、長きにわたって心の奥深い部分に傷を残しただろう。

Soka Gakkai Hiroshima Peace Committee

原爆投下直後の時期は、日本が(敗戦間近の)混乱に陥った時期であった。さらに混沌とした戦後期の日本は米国の占領下にあり、戦勝者(=連合国最高司令部:GHQ)は自らが行った邪悪な行為が露見することに当然ながら反対だったことから、当時は被爆者の悪夢のような記憶を語ることはタブーとされた。さらに被爆者は、被爆時の負った惨たらしい傷や変形した身体で生きていかなければならない現実に複雑な心境を抱えており、徐々にこの悪夢の記憶を心の奥底に封印していった。爆心地近くにいたことで余儀なくされた経験について、多くの人が沈黙を保った。しかし、世界にとって幸運なことに、かなりの数の被爆者がのちに沈黙を破り、それぞれの体験を語り始めたのである。『男たちの広島―ついに沈黙は破られた』に収録された14篇の証言は、それぞれがユニークなものである。被爆者が経験してきた苦しみの深さは、ひとつとして同じものがないからだ。

焼け爛れた女性、息絶えた乳児、孤児

木原正さんは、原爆投下直後に遭遇したある悲劇的な光景が脳裏からずっと離れないでいる。木原さんは被爆時に自身も負傷していたが、仲間とともに広島市内各地で路地や崩れた建物の陰に怪我人がいないか捜索・支援活動を続けていた。そんなある夜のこと、見回りをしていると、水を懇願する声が聞こえた。その声はか細く、必死に訴えていたという。木原さんが近づいてみると、それは、乳児を抱いたひどい火傷を負った女性だった。彼女の体は全身が焼けただれており、乳児は母親の乳房を口に含んでいた。しかしよく見てみると、乳児はすでに死んでいることが分かった。木原さんは、その女性が既に息絶えた我が子になお授乳しているかのように抱き続けていたのは、恐らく現実を受け入れられなかったのだろうと思った。木原さんはその時の心情を、「私には何もしてやれませんでした。私は手を合わせて詫び、その場を去りましたが、いまも心が痛みます。」と証言している。

木原さんは若いころ、被爆者であることを隠していた。しかし、65歳になって考えを変え、若い世代に自分の経験を語る決心をした。木原さんは今、息絶えたわが子を焼け爛れた体に抱き水を懇願したあの母親のような恐ろしい経験について、若い世代の人たちには忘れてほしくないと強く思っている。木原さんは、長年に亘って心を痛めてきたあの無惨な光景について、世界のどんな母親にも同じような経験をしてほしくないという望みを抱きながら、他の人びとに証言することができたことで、安堵の気持ちを持っているに違いない。

この最新の証言集にそれぞれの体験を語っている14人の被爆者はいずれも、被爆当時は元気旺盛な少年期の子どもだった。原爆は彼らの明るい将来の夢を奪っただけではなく、悪夢の中でさえ誰も想像できないような形で、彼らの人生を変えてしまったのである。

Hiroshima aftermath/ Public Domain

中でも私の心に迫ってきたのは川本省三さんの体験談だ。川本さんは、原爆投下から3日後に両親を探し求めて疎開先から広島市内に戻った時、自身が「原爆孤児」になってしまったことを知った。疎開先の寺では僅かな食事が提供されていたが当時11歳で育ちざかりの川本さんにとって、空腹を満たすには十分でなかった。市内に戻ったものの孤児となり引き取り先がなかった川本さんは、やがて浮浪児となり、ただただ生きていくために、時には露天商から餅を盗み、時には(寝場所と食料を提供する見返りに)浮浪児を組織的に搾取していた暴力団の下で働かざるを得なかった。川本さんは、こうした広島原爆がもたらした2重苦(孤児になったのちに、施設に入れず浮浪児として町中に放置され究極の困難)を強いられた子どもたちについて、これまで多くが語られていないことを残念に思っている。川本さんの証言によると、原爆投下前に疎開した広島の小学生は約8600人。そのうち2700人が孤児となったが、幸運にも孤児院に収容されたのは僅か700人で、残りの約2000人は町に放置され浮浪児となったという。

新たな恐怖

14人の被爆者全員を結びつけるものは、共通の苦しみだけではない。自らが体験してきた恐怖を他人に語らずに長い間沈黙を保つという、自らに孤立を課していた点でも共通している。そのような彼らが、沈黙を破り自らの経験を語っていこうと決心した背景には、2011年3月の福島第一原発事故以後に噴出した新たな恐怖に対する危機感がある。それ以降、彼らは、放射性降下物が引き起こす被害について自らの経験を語り伝えていくことを厳粛な責任だと考えているのである。

fact-finding team from the International Atomic Energy Agency visits Fukushima Dai-ichi nuclear power plant in May 2011. Credit: IAEA Imagebank/ CC by 2.0

下井勝幸さんは、テレビ番組で福島第一原子力発電所の建屋で働く作業員の姿を見たのを契機に、原爆投下後数日の間に彼の弟の身に起こったことを思い出し、「放射線被爆後に目撃した生と死のストーリーを語らねばならないと思い立った。」と述べている。弟の明夫さんは当時まだ13歳で、原爆投下時には同級生の中村君と路面電車に乗っていた。下井さんは、次に起こったことをこう証言している。「20日ほどたったころでしょうか。弟は髪の毛が抜け、全身に赤い斑点が出はじめました。……弟の肩や腕は、割り箸のように細くなっていきました。……弟はまだ13歳なのに老人のような顔になって死にました。あのとき一緒にいた同級生の中村君も、同じ日に死んだと後から聞きました。」

それから65年以上が経ち、テレビのニュースで福島第一原子力発電所の建屋で作業している人の姿を見て、その作業員の腕にかつて弟を苦痛に満ちた死へと追いやったのと同じ赤い湿疹が出ているように思えた。下井さんはこのことに戦慄を覚え、今こそ沈黙を破って声をあげていかないといけない、と思ったという。

被爆者の証言を記録することは、創価学会広島平和委員会が実施した時宜を得たイニシアチブである。同委員会は、核時代に終止符を打つには、さらに大きく核廃絶を支持する国際世論を高めなくてはならないと考えた。『男たちのヒロシマ―ついに沈黙は破られた』は、長年にわたって記録されてきた広島発の被爆証言集の9冊目であり、「2011・3・11福島原発事故」以降、初めての被爆証言集である。

創価学会広島平和委員会は、被爆者の声を日本国内のみならず世界各国の人々にも広く伝えていくために、最新刊には証言の英訳も付けて発行することを決めた。世界があの最悪の人災からあと1年で70周年を迎えようとする中、この証言集の発行は、単に過去の恐怖を思い起こさせるだけではなく、人類共通の破壊につながるような死の競争を永遠に止めさせるために私たちがとるべき道筋をも示してくれている。(原文へ

※モンズルル・ハクは、バングラデシュのジャーナリストで、日本などのテーマに関するベンガル語の著作が3冊ある。ダッカの国連広報センターとロンドンのBBCワールドサービスで勤務したのち、1994年に日本に移住。バングラデシュの主要全国紙2紙(『プロトム・アロ』と『デイリー・スター』)の東京支局長で、バングラデシュのその他の重要発行物に定期的に寄稿している。日本や東アジアの問題について英語およびベンガル語で手広く執筆。東京外大、横浜国立大学、恵泉女学園大学で客員教授を務め、日本政治、日本のメディア、途上国、国際問題などを教える。NHKラジオにも勤務。2000年より外国人特派員協会のメンバーで、理事を2期務めたのち、同協会会長も歴任した。

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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