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日米友好の証「ポトマック桜」―100年の時を経て(石田尊昭尾崎行雄記念財団事務局長)

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【東京IDN=石田尊昭】

Mr. Takaaki Ishida
Mr. Takaaki Ishida

毎年春になると、ワシントンDCのポトマック河畔に咲き誇る桜並木が話題になる。この桜は、今からちょうど100年前、当時東京市長を務めていた尾崎行雄(号は咢堂。議会制民主主義の父)が東京市参事会に諮り、市から日本国民の「日米友好の証」として公式に寄贈したものである。といっても、尾崎一人の「想い」で実現したわけではない。その背景には、当時の日米両国におけるさまざまな人たちの強い想いと尽力があった。その一端を紹介したい。

1909年、ヘレン・タフト米大統領夫人は、ポトマック河畔の景観整備を検討していたが、それを絶好の機会と捉え、夫人に日本の桜の植樹を勧めた人がいた。米国ジャーナリストで女性として初めてナショナルジオグラフィック協会の役員にもなったエリザ・シドモア女史である。1884年に来日したシドモア女史は、桜を愛でる日本人の心と文化に深く感銘を受けるとともに、桜の美しさに魅了された。帰国後も、その美しさを忘れることができず、なんとかして日本の桜をワシントンに植樹したいと考えるようになった。その後24年間にわたって、植樹のための募金活動や、当局への働きかけをしていた女史にとって、今回の整備計画は逃すことのできない千載一遇のチャンスだった。

また、米農務省にいた植物学者デヴィッド・フェアチャイルド博士も、種苗の研究調査団の一人として1902年に来日して以来、日本の桜の美しさに心を惹かれた一人である。その想いは強く、米国の土地で日本の桜が生育可能かどうかを研究するためメリーランド州チェビー・チェイスの自邸に若木を植栽するほどだった。博士は、親交の深い昆虫学者チャールス・マーラット博士とともに友人たちを招いて観桜会を開催したが、友人の招待客の中にシドモア女史がいた。女史と両博士はその場で意気投合。両博士の賛同と協力を得たシドモア女史は早速、大統領夫人に桜植樹を提案しに行った。実は大統領夫人も1905年に来日し桜の美しさに触れていたことから、この提案を快く受け入れ、ポトマック河畔への桜植樹計画が動き出した。

もう一人は、ニューヨークに在住していた著名な化学者で実業家の高峰譲吉博士(タカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。在留日本人会初代会長)である。対日感情の改善と日米親善に長年取り組んでいた博士は、自身も桜並木をつくる計画を持っており、ニューヨーク市に陳情し続けていた。

タフト大統領夫人の意向を知った博士は、今回のポトマック河畔への桜植樹計画に対し、日本から桜2千本を寄贈することを提案し、さらに、その費用は自分を含む在留日本人の有力者たちで分かち合うことまで提案した。それを聞いた水野幸吉・ニューヨーク総領事は高峰博士の発想を高く評価するとともに、桜は東京市の名義で寄贈されるべきとの提案を行った。そしてタフト大統領は、日本からの桜2000本寄贈の提案を受け入れた。

その後、水野総領事や高平小五郎駐米大使らによる調整の末、桜は日本の首都・東京市から公式に寄贈すべきということになり、外務省から東京市に打診があった。尾崎東京市長は以前から、日露戦争(1904~05)の際に好意的だったアメリカへの感謝の気持ちを何らかの形で表したいと考えていたため、これを好機と捉え快諾した。そして1909年8月、東京市会は、桜苗木2千本をワシントンDCへ寄贈することを決定した。

しかし、翌年1月にワシントンDCに到着した桜は、検疫官によって害虫が発見されたため、ハワード・ウィリアム・タフト大統領は、これらの桜の木すべてを焼却処分にせざるを得なかった。それを知った尾崎市長は、健全かつ優良な苗木を育成し、再び贈ることを市参事会に諮り、同年4月に決定した。そして1912年3月、害虫も病気も無い桜の苗木3千本がワシントンDCに到着し、無事ポトマック河畔に植樹された。ちなみにその苗木は、当時の専門家が驚くほど優良で、完璧な出来栄えだったという。
 

 Japanese cherry trees (Sakura), a gift from Japan in 1965, adorn the Tidal Basin in Washington, D.C. during the National Cherry Blossom Festival. The Washington Monument is visible in the distance. Credit: US Department of Agriculture.
Japanese cherry trees (Sakura), a gift from Japan in 1965, adorn the Tidal Basin in Washington, D.C. during the National Cherry Blossom Festival. The Washington Monument is visible in the distance. Credit: US Department of Agriculture.

また、桜寄贈から3年後の1915年には、その返礼として米国からハナミズキの苗40本が贈られ、東京市内の公園や植物園に植栽された。日本国民への返礼の花にハナミズキを選定したメンバーの一人に、上述のフェアチャイルド博士もいた。彼は、米国の子供達が日本の桜を愛でるとき、日本の子供達にも米国のハナミズキを観て喜んでほしい、そうすることで日米友好の絆を深めてほしいという強い想いを持っていた。

ポトマック桜について、もう一つ忘れてはならないことがある。1938年、ポトマックに隣接するタイダル池に米国建国の父の一人トーマス・ジェファーソン第3代大統領記念堂が建設される際、358本の桜の木を切り倒すことが計画された。しかし伐採の当日、ワシントンDCの婦人団体が、自分の体を木に縛り付け抵抗し、270本の桜の命を守り抜いた。

ヘレン・タフト大統領夫人、エリザ・シドモア女史、デヴィッド・フェアチャイルド博士、チャールス・マーラット博士、高峰譲吉博士、尾崎行雄東京市長、そしてワシントンの婦人団体…。もちろん、このほかにも、多くの有名無名の人たちの努力があったことは言うまでもない。特に、二度目の桜寄贈に向け、国の威信をかけて健全な苗の培養に取り組んだ専門家や職人、地域の人々の苦労は計り知れない。ポトマック桜は、そうした先人たちの想いと尽力によって実現し、守られてきたものである。

その桜のもとで、今年もまた「全米桜祭り(National Cherry Blossom Festival)」が3月20日から4月27日の5週間にわたって開催されている。祭りでは、昨年から今年にかけ、さまざまなプログラムを通じて昨年3月11日に発生した東日本大震災の被災者支援の取り組みが行なわれている。特に今年は、被災地・福島の小中学生による太鼓演奏やパレード参加などが予定されている。100年の時を経て、今また両国民による新たな「想い」が、日米友好の「絆」を深めているように思える。(原文へ

IPS/IDN-InDepth News

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日米友好の証「ポトマック桜」ー100年の時を経て(石田尊昭尾崎行雄記念財団事務局長)

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【東京IDN=石田尊昭

毎年春になると、ワシントンDCのポトマック河畔に咲き誇る桜並木が話題になる。この桜は、今からちょうど100年前、当時東京市長を務めていた尾崎行雄(号は咢堂。議会制民主主義の父)が東京市参事会に諮り、市から日本国民の「日米友好の証」として公式に寄贈したものである。といっても、尾崎一人の「想い」で実現したわけではない。その背景には、当時の日米両国におけるさまざまな人たちの強い想いと尽力があった。その一端を紹介したい。

1909年、ヘレン・タフト米大統領夫人は、ポトマック河畔の景観整備を検討していたが、それを絶好の機会と捉え、夫人に日本の桜の植樹を勧めた人がいた。米国ジャーナリストで女性として初めてナショナルジオグラフィック協会の役員にもなったエリザ・シドモア女史である。1884年に来日したシドモア女史は、桜を愛でる日本人の心と文化に深く感銘を受けるとともに、桜の美しさに魅了された。帰国後も、その美しさを忘れることができず、なんとかして日本の桜をワシントンに植樹したいと考えるようになった。その後24年間にわたって、植樹のための募金活動や、当局への働きかけをしていた女史にとって、今回の整備計画は逃すことのできない千載一遇のチャンスだった。


また、米農務省にいた植物学者デヴィッド・フェアチャイルド博士も、種苗の研究調査団の一人として1902年に来日して以来、日本の桜の美しさに心を惹かれた一人である。その想いは強く、米国の土地で日本の桜が生育可能かどうかを研究するためメリーランド州チェビー・チェイスの自邸に若木を植栽するほどだった。博士は、親交の深い昆虫学者チャールス・マーラット博士とともに友人たちを招いて観桜会を開催したが、友人の招待客の中にシドモア女史がいた。女史と両博士はその場で意気投合。両博士の賛同と協力を得たシドモア女史は早速、大統領夫人に桜植樹を提案しに行った。実は大統領夫人も1905年に来日し桜の美しさに触れていたことから、この提案を快く受け入れ、ポトマック河畔への桜植樹計画が動き出した。

もう一人は、ニューヨークに在住していた著名な化学者で実業家の高峰譲吉博士(タカジアスターゼ、アドレナリンの発見者。在留日本人会初代会長)である。対日感情の改善と日米親善に長年取り組んでいた博士は、自身も桜並木をつくる計画を持っており、ニューヨーク市に陳情し続けていた。

タフト大統領夫人の意向を知った博士は、今回のポトマック河畔への桜植樹計画に対し、日本から桜2千本を寄贈することを提案し、さらに、その費用は自分を含む在留日本人の有力者たちで分かち合うことまで提案した。それを聞いた水野幸吉・ニューヨーク総領事は高峰博士の発想を高く評価するとともに、桜は東京市の名義で寄贈されるべきとの提案を行った。そしてタフト大統領は、日本からの桜2000本寄贈の提案を受け入れた。

その後、水野総領事や高平小五郎駐米大使らによる調整の末、桜は日本の首都・東京市から公式に寄贈すべきということになり、外務省から東京市に打診があった。尾崎東京市長は以前から、日露戦争(1904~05)の際に好意的だったアメリカへの感謝の気持ちを何らかの形で表したいと考えていたため、これを好機と捉え快諾した。そして1909年8月、東京市会は、桜苗木2千本をワシントンDCへ寄贈することを決定した。

しかし、翌年1月にワシントンDCに到着した桜は、検疫官によって害虫が発見されたため、ハワード・ウィリアム・タフト大統領は、これらの桜の木すべてを焼却処分にせざるを得なかった。それを知った尾崎市長は、健全かつ優良な苗木を育成し、再び贈ることを市参事会に諮り、同年4月に決定した。そして1912年3月、害虫も病気も無い桜の苗木3千本がワシントンDCに到着し、無事ポトマック河畔に植樹された。ちなみにその苗木は、当時の専門家が驚くほど優良で、完璧な出来栄えだったという。
 
また、桜寄贈から3年後の1915年には、その返礼として米国からハナミズキの苗40本が贈られ、東京市内の公園や植物園に植栽された。日本国民への返礼の花にハナミズキを選定したメンバーの一人に、上述のフェアチャイルド博士もいた。彼は、米国の子供達が日本の桜を愛でるとき、日本の子供達にも米国のハナミズキを観て喜んでほしい、そうすることで日米友好の絆を深めてほしいという強い想いを持っていた。

ポトマック桜について、もう一つ忘れてはならないことがある。1938年、ポトマックに隣接するタイダル池に米国建国の父の一人トーマス・ジェファーソン第3代大統領記念堂が建設される際、358本の桜の木を切り倒すことが計画された。しかし伐採の当日、ワシントンDCの婦人団体が、自分の体を木に縛り付け抵抗し、270本の桜の命を守り抜いた。

ヘレン・タフト大統領夫人、エリザ・シドモア女史、デヴィッド・フェアチャイルド博士、チャールス・マーラット博士、高峰譲吉博士、尾崎行雄東京市長、そしてワシントンの婦人団体…。もちろん、このほかにも、多くの有名無名の人たちの努力があったことは言うまでもない。特に、二度目の桜寄贈に向け、国の威信をかけて健全な苗の培養に取り組んだ専門家や職人、地域の人々の苦労は計り知れない。ポトマック桜は、そうした先人たちの想いと尽力によって実現し、守られてきたものである。

その桜のもとで、今年もまた「全米桜祭り(National Cherry Blossom Festival)」が3月20日から4月27日の5週間にわたって開催されている。祭りでは、昨年から今年にかけ、さまざまなプログラムを通じて昨年3月11日に発生した東日本大震災の被災者支援の取り組みが行なわれている。特に今年は、被災地・福島の小中学生による太鼓演奏やパレード参加などが予定されている。100年の時を経て、今また両国民による新たな「想い」が、日米友好の「絆」を深めているように思える。(原文へ

IPS/IDN-InDepth News

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|シリア|「アナン前国連事務総長の仲介案は内戦回避の助けとなりうる」とUAE紙

【ドバイWAM】

「シリア情勢を巡る最近の動向は、同国が全面的な内戦に向かうのか、それとも全ての関連勢力が妥協に応じるのかの分水嶺に差し掛かっており、注意深く見守る必要がある。」とアラブ首長国連邦の英字日刊紙が報じた。

「国連安全保障理事会は、21日、コフィ・アナン国連・アラブ連盟合同特使(前国連事務総長)による和平提案を直ちに実行するようシリア政府に求める議長声明を採択した。これまでシリアに関する2つの国連安保理決議でバシャール・アル・アサド政権を支持する姿勢を示していたロシアと中国も、今回はアナン特使の仲介案を全面的に支持し、議長声明に賛成票を投じた。アナン特使は早速両国を訪問する予定である。」とガルフ・ニュースは3月24日付の論説の中で報じた。

「安保理議長声明はシリア政府にに敵対行為の停止と民主主義への移行の推進を求めたほか、アサド大統領と反体制派の双方に、「シリア危機の平和的解決に向け、アナン特使の6点からなる提案を直ちに完全実施する」ためにアナン氏と「誠実に」協働することを呼びかけている。議長声明は国連安保理決議より効力が弱いものの、アナン氏による仲介の試みは、全面的な内戦を回避する最後のチャンスだと見られている。また全会一致による今回の安保理議長声明は、シリア情勢を巡って安保理が初めて足並みを揃えたケースであり、その背景には極めて深刻な状態に陥っているシリア内戦に対する安保理メンバーの危機感があると思われる。」とドバイを拠点にするガルフ・ニュース紙は報じた。


 
「アナン特使の和平提案は、停戦、人道支援物資の提供、政府と反政府勢力間の対話というステップから構成されている。いずれも緊急を要する極めて重要なステップであり、これ以上先送りは許されない。これまでに政府、反政府側双方の、とりわけ民間人の人的被害は深刻であり、一刻も早く停戦を実現する必要がある。」

「しかし和平に向けて進展を図るには、シリア国内の全ての当事者が相違点や対立点を一時棚上げにし、このままの状態が続いた場合の損害について冷静に考えなければならない。シリアは深刻な危機に直面しており、民衆の利益を最優先に置いた解決策以外に紛争に終止符を打つ方策はない。」とガルフ。ニュース紙は結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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|中東|危ういスンニ・シーア間の宗派対立(R.S.カルハ前駐イラクインド特命全権大使)

中東地域の危機を乗り越えるために(池田大作創価学会インタナショナル会長)

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【IPS コラム=池田大作

今、イランの核開発問題をめぐって、中東地域で緊張が高まっている。その状況を前に私の胸に迫ってくるのは、核時代の下で世界が直面する課題について「ゴルディウスの結び目は剣で一刀両断に断ち切られる代わりに辛抱強く指でほどかれなければならない」との警鐘を鳴らした歴史家トインビー博士の言葉である。

緊張が武力紛争に転化することへの懸念も叫ばれる中、関係国を含めて政治指導者が、今こそ「自制する勇気」をもって、事態打開に向けて互いに歩み寄ることを強く望むものである。

軍事力などのハードパワーを行使して、根本的に解決できる問題など何もない。一時的に脅威を抑えつけることができたとしても、それ以上に大きな憎しみや怒りを生み出す禍根を残すだけだ。

緊張が高まると、相手を強い調子で威嚇したり、激しい非難の応酬が行われることは、残念ながら国際政治の常となってきた。

Dr. Daisaku Ikeda/ Seikyo Shimbun
Dr. Daisaku Ikeda/ Seikyo Shimbun

 今から50年ほど前の「ベルリン危機」の際、ウィーンでケネディ大統領との会談に臨んだソ連のフルシチョフ首相が、「米国が戦争を望むならば、それは勝手だ。ソ連は受けて立つよりない。戦争の惨禍は同じように受けよう」と言い放ったことが思い出される。

しかし忘れてはならないのは、ひとたび戦争が起これば、一番苦しめられるのは無数の市井の庶民であるという現実だ。20世紀の戦争の時代を生きた世代は皆、同じような体験を共有している。私も戦争で兄を失い、家を焼かれた。空襲の中、幼い弟の手を引いて逃げ惑った記憶は、今も鮮烈である。まして、大量破壊兵器を用いるような事態に発展した場合には、取り返しのつかない甚大な被害をもたらしかねない。その非人道性の最たる兵器こそ、核兵器である。

1961年の「ベルリン危機」でも、その翌年に起こった「キューバ危機」でも、すんでのところで米ソ首脳は踏みとどまった。それはなぜか。一触即発の厳しい対峙が続く中で、両首脳が、その行き着く先にあるものを垣間見たからであろう。

翻って現在、イランの核開発施設への攻撃があれば、どれだけ混乱が広がってしまうのか――。攻撃が報復を生むことは確実であろうし、それが政治的に大きな変動が起きている中東地域にどのような事態を引き起こすかは、予測困難であろう。

国際政治の次元では、不信が新たな脅威を呼ぶ負のスパイラル(連鎖)が続いているが、一方で、中東地域の一般市民のレベルでは「核兵器のない地域」の実現を望む声が少なくないことを、断じて見過ごしてはならないだろう。その一例として、昨年12月にブルッキングス研究所が発表した世論調査によると、イスラエル人の中では二対一の割合で、イランとイスラエルを含めた中東を非核地帯にする合意を支持する、という結果がでている。

こうした人々の率直な思いを現実の形にするために、本年開催が予定されている「中東の非大量破壊兵器地帯化」に関する国際会議を何としても成功させなければならない。両国と中東地域全体にとっても、それこそが、共通の安全保障の新たなステージを切り開く選択肢だ。現在、ホスト役を務めるフィンランドが懸命の努力を重ねているが、被爆国の日本も、対話のための環境づくりの旗振り役となるべきだ。

先の二つの危機を乗り越えたケネディ大統領は、「希望は歴史の慎重さによって鍛えられなければならない」との言葉を残した。

この言葉通り、「核兵器のない世界」への希望も、それを求める人々が様々な試練と危機を忍耐強く乗り越える中で着実に育まれてきた。非核地帯条約の先駆けとなった中南米のトラテロルコ条約も、キューバ危機をきっかけに構想が一気に進展したものだったのである。

“時間の無駄だよ。こんな条約は合意できるわけがない”との声もささやかれる中で、粘り強い交渉を重ねた人々の努力によってトラテロルコ条約は成立をみた。現在では、33カ国全てのラテンアメリカ及びカリブ諸国と五つの核兵器国全てが参加するに至っている。

今、中東地域の危機を乗り越えるために、国際社会に求められているのは、まさにこの「対話をあきらめない精神」と「不可能を可能に変える信念」ではなかろうか。厳しい現実の中で、それがどれだけ険しい隘路だったとしても、「希望」は営々たる平和的努力を通じてしか育まれないことを忘れてはなるまい。(原文へ

池田大作氏は日本の仏教哲学者・平和活動家で、創価学会インタナショナル(SGI)会長である。池田会長による寄稿記事一覧はこちらへ。

IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

核の「あいまい政策」で一致するイスラエルとイラン

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【エルサレムIPS=ピエール・クロシェンドラー】

「この春、はたしてイスラエルは、イランの核施設を攻撃するだろうか?」これが今、国際社会を賑わせている問題である。一方、中東非核兵器地帯を創設しようとする壮大なプロジェクトは、イランの核開発問題に対する解決法が「見つかってから」の非実際的な課題という位置にまで追いやられてしまっている。

奇妙なことに、イスラエルの世論はこの問題に明確な意見を示しておらず、「もっとも事情をよく知る」人々に解決を委ねてしまっている。エフード・バラク国防相のように「もっとも事情をよく知る」人々は、「制裁でイランの核開発計画を止めることができなければ、行動を起こすことを考える必要があるだろう。」と主張している。先週バラク国防相は、「(イランへの対処を)『あとで』などと言っている人は、もう手遅れであることを知ることになるだろう。」と警告した。

 イスラエル国民も含め、多くの防衛専門家が危惧していることは、イスラエルの軍事攻撃がイランとの全面戦争につながりかねないということだけではなく、それによる成果が、イランの核開発計画を僅か数年程度しか後退させられないだろうという点である。

2月3日の『ニューヨーク・タイムズ』に掲載された論評では、「厳しい制裁と協調的な外交こそが、イランの核開発計画を頓挫させる最良の可能性を秘めた方法だ」と論じられている。

他方で、イスラエルの国防関係者達は、金融的なものであれ軍事的なものであれ、正面からイランの核開発問題に取り組まない限り、中東地域が核兵器拡散のカオスに陥ってしまい、場合によっては非国家主体に核兵器が流出しかねないという事態を危惧している。

議論のパラメーターは、(米国による是認の有無は別にして)軍事攻撃か経済制裁か、という幅の中にある。一方、イランの核開発計画を無害化するための戦略として非核兵器地帯を創設するというラディカルな考え方はどうだろうか?

イスラエル政府は、中東非核兵器地帯化の条件として、イスラエルのすべての隣国との包括的和平の達成を掲げている。しかし、現在のイラン体制の性格を考えると、これはほぼ不可能である。それに、アラブ諸国側でも和平交渉における進展は見られない。

しかし、市民活動家にとっての救いは、2010年の核不拡散条約(NPT)運用検討会議をうけて、今年フィンランドでフォローアップ会議(=中東非大量破壊兵器地帯会議)が開催されることである。

この会議では、いかにして中東から核兵器と大量破壊兵器をなくすことができるかについて話し合われる予定である。イスラエルやイランを含めたすべての政府が、ホスト国としてのフィンランドを認めている。イスラエルとパレスチナ双方の専門家によって制作されている季刊誌『パレスチナ・イスラエル・ジャーナル』のヒレル・シェンカー編集長は、「イスラエル政府が非核兵器地帯という考え方を検討する意思をもっていることを、ほとんどのイスラエル国民は知らない。」と語った。

昨年10月、「核戦争防止国際医師の会(IPPNW)イスラエル支部の前スポークスマンが、イスラエルとイランの活動家による会合を組織した。中東安全協力会議を作ろうという市民からの呼びかけに応えてロンドンで開催されたこの会議では、イスラエルとイラン両国民による相互理解の領域の発展が目指された。

しかし、こうした会合は、例外的な事例と言わざるを得ない。なぜならたいていの場合、指導層からの圧力によってこうした議論は封殺されているからである。イスラエルの対外特務機関モサドのメイル・ダガン元長官が、イラン核開発問題には軍事的解決が必要であるとの指導層の判断に疑問を呈した際には、バラク国防相より、「重大な行為」だとしてその行き過ぎた言動を叱責された。

イスラエルの人びとは、大抵の話題についてはオープンに議論をするのだが、こと核の問題となると、タブー扱いしたり、反対意見を述べるにはあまりに複雑な問題だと考えたりする傾向にある。大多数のイスラエル人にとって、核の問題は、政治や軍のトップにある人間だけが、閉じられたサークルの中で議論すべき話題なのである。ヘブライ語で関連の情報が出されることは稀であり、一方、英語の関連情報なら豊富にあるが、分析するのは難しいのが実情である。

またイスラエルにおいて核を巡る公論が存在しないのは、1950年代に核開発を開始して以来、核兵器の保有について「肯定も否定もしない」曖昧政策をとってきたことにも由来している。つまり、「(イスラエルは)中東で最初に核兵器を導入する国にはならない」というのが、この国の公式な建前なのである。

イスラエルはNPT加盟国ではないが、イランは加盟している。しかし、両国ともに、両国の核政策の間に連関があることを認めず、それに言及することを避けている。

自国の核兵器を守る秘密性を保持することで、イスラエル国民は、自らの核の選択に直面することなく、自国の防衛に参加しているのだという感覚を得ることになる。

グリーンピースの地中海地域軍縮キャンペーンを担当しているシャロン・ドレブ氏は、「もし私たちが社会全体として、核兵器のことを何か考えるとすれば、それはイラン問題だということになってしまいます。イランはまだ現実には核兵器を保有していないにもかかわらずです。」「自分の背を見ることができない猫背の人のように、私たちは自分たちが保有している(核)兵器を見ずにいるのです。」

従って、イスラエルの「あいまい政策」の意味するところとは、イスラエル核開発の中心地だとみなされているディモナを国際社会が無視し、イラン核開発の中枢だと見られているナタンツにばかり注目し続けさせるということである。

同様に、イランもまた、核能力の追求に関してあいまい政策を採っている。国際原子力機関(IAEA)は、イランが核兵器開発関連の活動を行っていると11月に報告したが、実際に兵器を開発する決定を下したという「動かぬ証拠(smoking gun)」は見えていない。

イスラエル政府は、その「あいまい政策」が大量破壊兵器と同等にイスラエルの安全を高めるものだとして、高く評価している。核軍縮活動家は、そうした政策の必要性を認めた上で、イスラエルの核能力を暴露しないという制約を尊重するような議論をオープンにすべきだと提案している。こうした議論が実現すれば、かえってイスラエル社会の民主的な性格を強化することになるだろう。

「たとえ一部の人間だけであったとしても、核兵器の必要性やそれが地域や世界に与える危険、軍縮のさまざまな可能性について真摯に議論することは、なお可能です。」とドレブ氏は語った。

イスラエルの「核のあいまい政策」の放棄を主張する人びとは、言うべきことをはっきり言うことで、非核兵器地帯とまではいかないまでも、次第に中東で軍備管理への道が開けてくると考えている。

「もし(イランの核武装)防止に失敗した場合、イスラエルが解決策として軍備管理に目を向ける可能性は低い」と予想するのは、論争を呼んだ『イスラエルと核兵器』を1998年に記したアブナー・コーエン氏である。冷戦期に軍備管理対話の背景になっていたのが、核兵器保有の公式宣言だったことを考えれば、なおのことそうである。

それに、イスラエル国民は、核のあいまい政策は不可抗力であり、イランによる「彼らの存在に対する威嚇」と広く考えられているものに対するもっとも効果的な抑止力であると、ほぼ一致して考えている。

大量破壊兵器問題と極度の敵対関係、非核化の推奨をリンクするアプローチには、その他の考慮を上回る地位が与えられている。コーエン氏は、イランが核兵器を開発しているという想定の下に、「どちらの核兵器国が先に軍縮するかはわからないが、どちらが最後まで軍縮しないかはわかります。それはイスラエルです。」と語った。

多くの市民活動家が、すでに危険な時を刻み始めているイランの時限爆弾の信管を抜くにはイスラエルが「あいまい政策」を止めることだとイスラエル国民が指導者を説得するにはもう遅すぎるかもしれない、と考えている。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|ビルマ|メディアの自由を実現するのは今後の課題(アウン・ザウ、ビルマ人亡命メディア「イラワジニュース」編集長)

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【チェンマイIPS=マルワーン・マカン-マルカール】

20年以上に亘る亡命生活を経て初めてビルマに一時帰国したアウン・ザウ(43歳)氏は、同国の悪名高い検閲委員会との面談をとおして、メディアを取り巻くビルマの現状の一端を再認識した。ザウ氏は、亡命ビルマ人によるメディアコミュニティーの間では名の知られた人物である。

「彼らは私の出版物には価値があると認めました。」と、イラワジニュース編集長のザウ氏は、英語とビルマ語で配信している彼のメディアを90年代初頭以来発禁処分にしてきた当局の検閲委員会(50人の委員で構成)との会合を振り返って語った。

アウン・ザウ氏は先月5日間に亘って祖国を再訪したが、上記の会合をはじめ多くの勇気づけられる経験をした。その中には、ビルマ政府が、ザウ氏に対してビルマ国内の自由な移動や、民主化運動の指導者アウンサン・スー・チー女史をはじめとする知人や反体制派の人物訪問についても、政府の諜報員を尾行につけないと申し出てきた件も含まれる。

 ザウ氏が解放感と未来への希望を感じ取った準文民政府統治下のビルマの状況は、かつて彼が亡命を決意した1988年当時の抑圧的な国内情勢とは対照的なものであった。当時ザウ氏は、当局の目を逃れて農村を転々としながら、国境を越えてタイに亡命した。

1993年、ザウ氏は僅かな資金でビルマの政治問題を報じる「イラワジニュース」を創立した。「イラワジニュース」はその後20年の間に、月刊誌から毎日更新されるオンラインニュースへと大きく変貌を遂げたが、常にビルマジャーナリズムの新現象としてその後各地に広がった「亡命メディア」の先駆け的な存在であった。現在「イラワジニュース」は、ノルウェイ、インド、バングラデシュ、タイに20の支局を擁している。

「ビルマ政府が国内読者による私たちのウェブサイトへのアクセス禁止措置を解除してからは、自分たちをもはや亡命メディアとはみなしていません。」と、タイ北部のチェンマイにある本社編集長室で取材に応じたザウ氏は語った。

以下にインタビューの抜粋を紹介する。

Q:今回、あなたは亡命から24年目の帰国となるわけですが、あなたはその間に「イラワジニュース」を設立し、本国の軍事政権による抑圧の実態を暴いてきました。1962年のクーデター以来、ビルマを支配してきた軍事独裁の時代は終わりに近づいていると思いますか?

A:ビルマでは、多くの変化が起こっており、過渡期にあると思います。つまり、ビルマは確実に重要な帰路に立っているのです。しかし、この変化を知的に、より創造的に生かすことが出来なければ、残念ながらこの過渡期は失われてしまうことになるでしょう。もしそうなれば、大変残念なことです。今が、ビルマにとって正念場の時だと確信しています。

Q:今回のビルマ訪問中に各地を訪問されたなかで、テイン・セイン政権の要人と会うために新行政首都ネピドーにも行っていますね。あなたのメディアは、前軍事政権によるこの新行政首都建設計画について痛烈に批判して来たわけですが、現地をあなた自身訪問してどのような感想を持ちましたか?

A:ヤンゴンに到着して初日の朝に、出来るだけ早くネピドーに来てほしいとの要請が政府からありました。いずれにしてもネピドー訪問は計画していたので、すぐに訪問することにしました。

ネピドーへの途次、私は車の中で同行した人々に、それまでネピドーについて報道した記事(軍事政権による秘密のジャングルの隠れ家だとか、そこにどれだけの大金が注ぎ込まれ、秘密の計画が実行されたか等)について話しながら妙な気分を感じました。実際に自分自身がそこを訪れようとしているのですから…そしてこの目で見たネピドーの印象は、建物のスタイルから、あたかも中国の一都市ではないかと錯覚するものでした。

そして現地では、大統領府の高官達に、大変温かい、極めて丁重な対応を受けました。私たちは、単刀直入に突っ込んだ話し合いをしました。

Q:具体的にはどのような話し合いをしたのですか?

A:ビルマのメディア関連法、報道の自由、検閲委員会等について、メディアを規制する制度を廃止するのか否か?現在ビルマ国内にどの程度の報道の自由が保障されているのか?メディアを取り巻く環境は、昨年からどのように変化してきたのか、そして、今後さらなる規制緩和は望めるのか、という点について議論しました。

Q:そうした議論をしたということは、「イラワジニュース」の拠点をビルマ本国に移すことを考えているのですか?

A:大統領府との会合では、いずれは本国に帰還して「イラワジニュース」の活動を開始したいと考えていることを伝えました。しかしビルマでは、政権を取り巻く有力者、富豪、軍を支配する有力ファミリーがメディア界を支配しており、複雑に入り組んだ出版業界はもとより、出版内容や編集方針にまで介入しているのが現実ですから、はたしでそれが可能なのかどうか?どの程度の報道の自由が認められるのか?といった質問をして我々の懸念を伝えたのです。

しかし、ビルマによりプロフェッショナルなジャーナリズムが育ち、根付く可能性は十分にあると思います。比較的小規模ですが、ビルマにもそうしたジャーナリズムを根付かせようと心に決め、懸命に取り組んでいる人たちがいるのです。彼らには支援が必要です。今後この国のジャーナリストを対象に、ジャーナリズムのあるべき姿や報道の自由や独立、ジャーナリストの使命等について再教育していくうえで、彼らは良きパートナーになると考えています。

Q:ビルマ政府が、国内にそうした活発な独立メディアが育っていくことを許すでしょうか?

A:実際のところ、ビルマ政府は昨年以来、メディアに対する規制を大幅に緩和してきています。以前と比べれば、ビルマ国内で報道や出版ができる領域は増えていると思います。また、政府も今日の国内メディアの現状には失望しており、よりプロフェッショナルなメディアを望んでいます。今回の会談に際して、私たちに国内のジャーナリストの訓練を支援してほしいと要請してきたほどです。

Q:あなたがこれまでビルマ軍事政権に敵視されてきたことを考えれば、この変化は驚きに値しますね。ビルマ情報省やあなたの大敵であるチョー・サン(Kyaw Hsan)情報大臣が、それを受入れるでしょうか?

A:(笑)…チョー・サン情報相とは握手しただけですが、副大臣(ソー・ウィン)とは会談する機会がありました。彼は私と会った際、あたかも長年音信不通になっていた旧友と再会するかのような意味ありげな態度でした。そして彼は「イラワジニュース」の熱心な読者だと言ってきたのです。それを聞いて全く驚きました。

Q:亡命者が長年の紛争を経て(あなたの場合数十年に亘る軍政を経て)平和になった故国に帰国した際に直面する問題の一つに、国内に留まり苦難に耐えてきた同胞から向けられる怒りがあると言われます。あなたの場合も、そうした怒りに直面するでしょうか?

A:それは当然覚悟しなければならないことだと思います。今回の帰国は、いわばハネムーンのようなものだったと思います。テレビ番組で私を見て私の活動に興味をもってくれていた地元の映画俳優がレストランで声をかけにきてくれたり、多くの同胞が、ヤンゴンの市場や通りで、或いはネイドーの商店で声をかけてくれました。しかし亡命者が帰国して各々の専門分野で活動を展開するようになれば、そのうち同胞の怒りに直面することになるでしょう。それは自然な成り行きだと思います。

Q:それでは、ジャーナリズム、保健、教育、金融といった専門技術を持った亡命者は、ビルマに帰国して現実の事態をチェックする時期に来ているということでしょうか?

A:今は故国を訪問して、事態の変化を感じとる時期ではないかと考えています。そのうち、こうした亡命者が本格的にビルマに帰国し、同胞に支援の手を差し伸べる時期が到来すると思います。しかしそのためには、ビルマ政府も亡命者の帰国を歓迎するための施策を考えなくてはなりません。例えば政府は、帰国亡命者が社会秩序を乱す存在だと見られないようにするなど、1960年代以降に亡命した人々が安心して帰国できる環境を整備しなければなりません。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

ヘッドラインの向こうにあるヒューマンドラマを映し出すフィルム・フェスティバル

【トロントIPS=ベアトリス・パエス】

今年で9回目となるトロント・ヒューマンライツ・ウォッチ(HRW)・フィルム・フェスティバルが、TIFFベル・ライトボックス劇場で2月29日から3月9日まで10日間に亘って開催されている。

このフィルム・フェスティバルは、虐待、トラウマ、暴力等の重い問題に正面から取り組む作品を取り上げてきたが、とりわけ、世界各地の人権侵害の犠牲者や活動家による勇気ある闘いを描いた作品が紹介されることでも知られている。

 「出品作品はいずれも、難しい題材を扱ったものですが、一方で視聴者の魂を鼓舞するものばかりです…つまり、登場人物がいかにして過去の人権侵害を克服したか、あるいは、いかにして人権侵害を受けた人々を守ってきたかといった現実が描かれています。」「(これらの作品を鑑賞したら)きっと新聞のヘッドラインが違って見えてくるでしょう。」とプログラム担当のアックス・ロガルスキー氏はIPSの取材に応じて語った。

今年のフェスティバルで最初に上映された作品は特別機(Special Flight)という、スイスのフランボワース収容所に拘留された難民申請者や不法移民に焦点をあてたドキュメンタリー映画である。そこで収容者たちには3通りの運命が待ち構えている-①恩赦、②「特別機」による強制送還、そして③自主的な国外退去である。移民たちに上告の権利はなく、そこでの裁定が彼らの運命を決している。

この作品はフェルナンド・マルガ監督の2008年のドキュメンタリー作品(Fortless:難民申請所を取材)に続くシリーズ第2作である。なお次回作では、国外退去処分になった移民たちのその後を追った一連のドキュメンタリーを制作し、インターネットで配信する予定である。

これは私の故郷…ヘブロン(スティーヴン・ナタンソン、ジウリア・アマティ監督作品)では、ユダヤ人入植者とパレスチナ人住民双方の証言と、長年に亘る両者間の紛争で板挟みになっている人々のインタビューがまとめられている。

この作品でも勇敢な人々が登場するが、元イスラエル軍兵士で、今は立場を変えてツアーガイドとして働いている青年もその一人である。彼は、分裂した街ヘブロンを訪れる観光客に、この街に生きる人々の暮らしや佇まいを、親しみをもってありのままに紹介している。

ナタンソン監督はIPSの取材に「多くの出来事がほとんどニュースにならない中、本作品でインタビューに答えてくれたイスラエル人の中には、ヘブロンの現状について極めて明確に語ってくれる人々がいたのは良かったと思います。」と語った。

古代から預言者アブラハムの墓所がある地として有名なヘブロンには、16万人のパレスチナ人と600人から800人のユダヤ人入植者、そして入植者護衛を任務として進駐してきた2000人のイスラエル兵士が居住している。

この地では、パレスチナ住民にとって、ユダヤ人入植者から嘲りや脅迫、投石を受けるのは日常茶飯事の風景となってしまっている。またときには、両親に扇動されたユダヤ人入植者の子供までが、パレスチナ人に対する攻撃に参加している。

ヘブロンは、かつては交易の一大中心地として、また一神教(イスラム教、キリスト教、ユダヤ教)の聖地として繁栄を謳歌した歴史があるが、今では長引く紛争の影響で、板でふさいだ商店と閑散とした通りが目立つゴーストタウンと化している。

ナタンソン・アマティ両監督は、この作品で、他地域から孤立し、住民同士の対立が深まっている状況を克明に捉えている。

「私たちにできることは状況を観察し質問を投げかけることぐらいでした。この作品にはそうした質問と回答が記録されています。現在のヘブロンの状況を見る限り、今後状況が好転するとはとても想像できません。」とナタンソン監督は語った。

一方、リー・ヒルシュ監督は、ドキュメンタリー作品を通じて、タイラー、アレックス、ケルビー、ジャメーヤといった「いじめ」の標的になった米国の子ども達の日常へを誘ってくれる。

映画The Bully Project(いじめっ子プロジェクト)は、彼らが直面している精神的・肉体的虐待を捉えるにとどまらず、「kids will be kids(所詮子供のすることだから)」といじめ問題について真面に対処しようとしない学校側の驚くべき対応の実態についても暴露している。

そして今年のフィルム・フェスティバルの最後を飾る作品が、モルディブ共和国のモハメド・ナシード前大統領の活動を追った島の大統領である。ジョン・シェンク監督は、カメラと共にナシード大統領に影のように付き添うことで、気候変動問題に対する取り組みから経済の復興や民主主義の育成まで、大統領が直面した様々な難題を捉えている。

ナシード大統領の任期一年目における政界の内幕へのアクセスを許可されたシェンク監督は、このドキュメンタリー作品で、政治的な取引の実態を捉えることに成功している。本作品は昨年のトロント・フィルム・フェスティバルでも上映された。

今回のフィルム・フェスティバルでは、その他2つの作品が上映された。一つは、グアテマラで起こった大量殺戮事件に対する裁きを求める映画グラニート:独裁者の捕え方(監督:パメラ・イエーツ)、もう一つは、ミミ・チャカロヴァ監督がモルドヴァ、トルコ、ギリシャ、ドバイで綿密な取材を重ねて制作した国際人身売買の実態を記録したドキュメンタリー映画セックスの対価(The Price of Sex)である。

「これらの作品は、逃避主義とは対極に位置するものです。なぜなら、これらのドキュメンタリー映画は、あなたがあまり知らないかもしれない現実…つまり誰か他の人が経験した現実の一部を疑似体験させてくれるものだからです。」とロガルスキー氏は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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 【コロンバスIDN=ハーベイ・ワッサーマン】

福島第一原発事故の収束が依然不透明な中、米国では1978年以来初めて、原子力規制委員会(NRC)が原子炉の建設・運転許可を下した。米国では1979年のスリーマイル島原発事故以降、原発の新規建設を凍結してきたが、今回の建設認可はじつに34年ぶりとなる。

福島第一原発では、数千トンにのぼる放射性使用済燃料が未だに危険な状態に置かれており、放射性廃棄物や汚染された水が自然界に流出し続けている。核技術者のアーニー・ガンダーセン氏は、3月11日の大震災・大津波に続いた一連の災害で、同原発の封じ込めキャップが浮き上がってしまい、危険の放射性ガスが噴き出し、水素爆発を誘発した可能性があると発表した。

 米国にも、依然として、[福島第一原子力発電所と同じ]マークI型原子炉が23基存在している。

新たに公開されたNRCの秘密メールは、原発事故直後のNRC内の緊迫した状況を伝えている。東京が避難対象に含まれる可能性や、放射性物質が太平洋を越えてアラスカを汚染する可能性についても言及されていた。

原発推進派は、ジョージア州ボーグルに東芝の子会社「ウェスティングハウス社」製の新型加圧水型軽水炉「AP1000」(1100メガワット)の建設と・運転を許可したNRCの判断を歓迎している。現在ボーグルには2基の原子炉(1号機、2号機)が稼働中で、新規原子炉の建設を主導する電力企業サザン社は、今回建設許可を受けた3号機の2016年後半、4号機の17年後半の運転開始を目指している。

しかし、NRCのグレゴリー・ヤツコ委員長は、5人の委員の中で唯一、建設・運転許可に反対の判断を下した。「福島事故の教訓が原子炉設計にまだ生かされていない」というのが理由である。

一方、建設・運転許可に賛成したNRCの4人の委員は、12月14日に開かれた下院監視・政府改革委員会の公聴会の席で、ヤツコ委員長の「運営手法」を公然と非難していた。しかし今回のボーグル原発を巡る投票結果を見ると、両者の対立の源は、むしろ原子炉の安全性に対する考え方の相違にあるようだ。

今回の建設・運転許可はじつに1978年以来のもので、今回の決定に至るまでに長年の歳月を要した。NRCでは様々な側面が議論されたが、その中にはAP-1000がはたして地震やその他の自然災害に耐えられるかどうかというという指摘も含まれていた。最終計画は未だに完成していない。

ジョージア州に隣接するサウスカロライナ州では、既に原発施設の建設に向けた整地作業が進んでいる。ジョージア州の場合と同様に、サウスカロライナ州の消費者は、好むと好まざるとにかかわらず、原子炉建設の費用を負担させられているのである。新たな原子炉は完成させない方がよいのか、それとも完成させた後に放射能事故に遭遇するのか、納税者は難しい選択を迫られている。

米国の産業界はボーグル原発における原子炉増築許可を「核のルネッサンス」へと続く大きな弾みになるとみている。しかし一方で、日本では全国54基の原発の内、2基(東京電力柏崎刈羽原発6号機、北海道電力泊原発3号機)を除く52基が定期点検等で運転を停止しており、さらに両原発も4月下旬までには停止する予定である。

世界各地で、原発は危機に瀕している。ドイツは、2022年までに全ての原発を停止すると決定した。英国では、米国フロリダ州の場合と同様に、新たな原発計画が法的訴訟に直面している。インドは、2011年、グリーンエネルギーで世界をリードした(前年比52%増、103億ドルを投資)と発表した。一方中国は、福島原発事故を受けて、今後の核エネルギー政策をどうしていくかについて、依然として方向性を明らかにしていない。

そして米国では、ボーグル原発に続くものはなく、既存の原発では、バーモント州のものやニューヨークのインディアン・ポイント原発(NY市から僅か50キロ)などが、政府による非難の対象とされている。また、フロリダのクリスタル・リバー原発は、多額の修理費用に悩んでおり、今後廃炉になる可能性がある。また、カリフォルニア州のサン・オノフレ原発では、配管が破損して汚染水が漏れ出し、放射性物質が大気中に放出したことから緊急停止した。その他にも発電機を動かす蒸気の配管トラブルが全米各地の原発施設で相次いでいる。

他方、日本では、福島第一原発2号機の急激な温度上昇、田坂広志多摩大学教授が内閣官房参与時代に経験した政府の内情の暴露など、問題が終わる気配はない。

田坂教授は、福島第一原発施設の安全に関する政府の保障は、「根拠のない楽観主義に基づくもの」と指摘したうえで、「福島原発危機は依然として解決から程遠い状況にある」と警告した。ジャパンタイムズが2月8日に報じたインタビュー記事によると、田坂教授は、第4号原子炉だけでも、1500本以上の燃料棒が非常に危険なむき出し状態になっていたと証言している。

原因は依然不明だが、原発第2号機が摂氏70度を超える熱を放出し続けている問題について、東京電力は再臨界を抑制するためホウ酸水を注入した。田坂教授らは、これによって放射線物質がますます地下水面と海へ拡散するだろうと警告している。

日本、米国をはじめ世界各地で、福島原発から排出される放射性物質が及ぼす健康被害を巡る熾烈な議論が展開されている中、米国で新型原子炉の建設・運転の認可が下されたという出来事は、将来、20世紀の最も高価な欠陥技術に対する奇妙な判断として振り返られることになるかもしれない。

米国の公共料金納付者や納税者が引き続き費用負担を強いられる状況が続かない限り、米国が国内で原発の新規建設を続けていくことは難しいだろう。そして、福島の事故が最終的な解決に導かれないかぎり、東京、アラスカ、ジョージア等世界中のあらゆる場所が放射能のリスクに直面しているという事態に変わりはない。

※ハーベイ・ワッサーマン氏は、米国のジャーナリスト、グリーンピースUSAの顧問。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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忘れえぬアウシュビッツの恐怖

【オシフィエンチム(ポーランド)INPS=クリスチャン・パペッシュ】

ウクライナ出身の元機械工学教授、イゴール・マリツキー氏(87歳)は、金属製のゲートの下に降り積もった雪の上に立っていた。厚いジャケットを羽織り、頭には青と白の帽子を被り、大きなプラスチックのヘッドフォンをしている。

マリツキーは無表情であった。彼の帽子は、60年以上前の血で汚れている。彼の頭上にある鉄でできた巨大な文字は、アーチの形を成している。そこにある言葉こそが、人間の歴史の中でおそらく最も恐ろしいスローガンであろう。「労働は解放する」(Albeit macht frei)。

ここは、第二次世界大戦中の1940年から45年の間に現在のポーランド南部オシフィエンチム市郊外に設けられた「アウシュビッツ強制収容所」への入り口である。

「私の番号は188005でした。」とマリツキー氏は、彼の左の袖をまくりながら、ほぼ完璧なドイツ語で語った。その袖の下には、消えかけてはいるが、青字で彫られたその番号が浮かび上がっている。マリツキー氏にとって生涯残るこの刺青は、アウシュビッツ収容時代の忌まわしい記憶を常に思い出させる目に見える傷である。

「この収容所に到着してまず腕に刺青をされましたが、その時私は一片の肉片にされた気分になりました。つまり最初から最悪の経験でここでの生活は始まったのです。」とマリツキー氏は語った。

しかしナチス支配下で最大の絶滅収容所であったアウシュビッツ収容所(実際には3つの収容所から構成されていた)に連れてこられた人々のほとんどが、そうした刺青を入れられることはなかった。というのも、虐殺された110万人のうち約8割が、施設に到着後そのままガス室に連れて行かれたり、銃殺されたりしたからである。
 
犠牲者の内訳は大半の90万人を占めるユダヤ人をはじめ、シンティ・ロマ人(ジプシー)、政治犯、エホバの証人、同性愛者、精神障害者、身体障害者、捕虜、聖職者、さらにはこれらを匿った者などであった。1945年1月27日、ソ連赤軍がこの地に侵攻し、7,500人の収容者が解放された。

戦後、アウシュビッツは、人種差別的なナチスドイツの理想にそぐわないと見做された全ての民族・宗教・社会集団を、計画的にまるで工場のように虐殺していったホロコーストの象徴となった。

現在では、世界各地から年間約130万人が訪れており、ポーランド国内の博物館としては最も訪問者が多い施設となっている。

「ここはおそらく防衛的なPR戦略をとっている唯一の博物館だと思います。私たちは芸術家、ジャーナリスト、ビジネス関係者から多くのリクエストを受け取っていますが、通常こうした要請を断るのが私たちの仕事となっています。」と広報担当のパヴェル・スタヴィッキ氏は語った。

収容所跡はホロコーストを人類の記憶に留めるうえで重要な役割を果たしている。そして生き証人である生存者の役割も極めて重要である。ドイツのNGO「マキシミリアノ・コルベ工房」等の団体は、ナチス時代のゲットーや強制収容所の生存者を支援し、学校、大学、元収容所等で記念イベントや国際会議を開催している。

同工房のヴォルフガング・ゲルシュトナー氏は、「アウシュビッツの生存者と学生とが直接触れ合うことが大事です。本に向かって個人的な質問をすることはできませんから。実際に収容経験をした生存者と直接会って話すことはかけがえのない機会なのです。」と語った。

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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【ニューデリーIDN=R.S.カルハ】

シリア問題に関する国連安保理における採決は、この問題がたんに独裁者の追放ということにとどまらず、中東が大きな権力闘争の中心地になってしまったことを示している。

言うまでもなく、中東は石油や天然ガスなどの資源が豊富な場所である。また、イランの核開発疑惑という問題もある。

国連安保理でのシリア非難決議は、主にサウジアラビアとカタールが主導する形でアラブ連盟が提案し、これに西側諸国が乗ったものである。しかし、これによって、西側諸国は、ロシア・中国の拒否権行使に遭うというリスクを冒したのみならず、中東でのスンニ派・シーア派の対立に油を注ぐ結果となってしまった。

 
シーア派は、シリア非難決議は、スンニ派のサウジアラビアやカタールがけしかけて、アラウィテ派(シーア派の一派)主導のバシャール・アサド政権を崩壊させ、同じくシーア派主導のイランを抑えようとしたものだと見ている。一方、西側諸国は、シーア派主導のアサド政権を崩壊させ、同国の最大支援国でシーア派の本拠であるイランに痛撃を見舞う好機とみている。

シリアの指導層はタフであり、この機に乗じて事態の性格を、民主化革命から、スンニーシーア派間の対立へと見事にすり替えてしまった。スンニ-シーア派間の対立説にさらに説得力を持たせているのが、(内戦が報じられるスンニ派が大半を占める地域とは対照的に)シーア派や他の少数派が住民の大半を占めている地域は、概ね平和的でアサド政権を支持しているというシリア国内の状況である。また、同じくシーア派集団であるヒズボラハマスが、その宗派闘争に参画し、アサド政権転覆阻止に動くのではないかとの懸念も浮上している。また同様に、この見方を裏付けるもう一つの事実は、イラクに成立したシーア派主導の政府が、もともと米国の支持を背景に成立したにもかかわらず、アサド包囲網への参画を拒否したばかりか、むしろ積極的にアサド支援にまわっている実態である。こうした政治姿勢は、レバノンの場合も同様である。

戦略的誤り

地理的な偶然というべきか、実に奇異なことであるが、中東で原油が地下に眠っている地域の大半は、シーア派住民が大半を占める地域(イラク南部、サウジアラビア北東部、バーレーン、イラン)と重なっている。世界の石油生産量の27%を担い、世界における確認石油埋蔵量の57%と天然ガスの45%を擁する湾岸地域は、極めて戦略的に重要な地域である。米国のディック・チェイニー前副大統領が言及したように、「この地域こそPrize(=褒美)が横たわる場所」なのである。

西側諸国は、シリアの政権交代を前面に出して国連安保理決議まで持っていくという、戦略的な間違いを犯した。さらにもっと大きな誤りは、スンニ派主導のアラブ国家であるサウジアラビアとカタールの提案に乗って、シリアの「民主化」計画を推し進めたことである。サウジアラビアは他の中東諸国と変わらぬ独裁国家であるし、「民主主義」への貢献と言えば、最近やっと女性の運転を認めた程度に過ぎない。またカタールの貢献といえば、アルジャジーラに本社を置くことを許していることぐらいである。

従って西側諸国の決定は、スンニ・シーア両派間の対立の溝にさらに火を注いだ結果となった。そして両派間の対立の構図が着目されることで、イラン核問題が後景に退く結果を招いたことも、西側のミスであった。シリア情勢が国際世論の注目を集め続け、スンニ派とシーア派間の熾烈な闘争に発展するシナリオは、イランの思うつぼである。そのような状況になれば、西側諸国の干渉は、イラン問題をさらに後景に追いやり、ますます宗派対立を煽ることになるからである。経済制裁が過酷なものになればなるほど、イランの人々は頑なになるだろう。

イランの指導者は国家経営に熟達した人々であり、犠牲と殉教を志向するシーア派の特性を考えれば、極めて手ごわい相手である。クウェートに侵攻して西側による軍事攻撃の大義名分を与えてしまったサダム・フセインとは異なり、イランの現政権が、西側からの軍事的反抗を招きかねないホルムズ海峡封鎖に打って出るとは考えにくい。

イランの最高指導者は、サダム・フセインよりも遥かに戦術に長けている。彼らは、ホルムズ海峡を封鎖すれば、国際世論においてイランに「悪者」というレッテルが貼られること、そして、西側諸国による壊滅的な軍事攻撃を招くのは必至だということを十分認識している。イランは西側に対して強気な発言を続けているが、一方で自国の軍事力が西側諸国が派遣する連合軍には太刀打ちできないこともよく理解している。西側諸国によるイラン攻撃という事態に進展した場合、ロシアと中国は、国連安保理で拒否権を発動する可能性はあるが、イランを庇って西側諸国と軍事的な対峙までするというリスクをおかすとは考えられない。

イランは世界における確認石油埋蔵量の11.1%と約970b/cmsの天然ガスを擁するエネルギー輸出大国である。そして、石油輸出から得られる収益が政府支出の43%を賄っている。この経済構造を見れば、西側諸国が、イランの石油輸出量を削減できれば、政府に深刻な圧力を加えることが可能となり、イラン政府をして西側の要求に屈して核開発を放棄させることができると考えたのも無理からぬことである。

石油を巡る駆け引き

西側諸国は対イラン経済包囲網を構築する過程で、イランからの石油輸入禁止措置後も、サウジアラビアと湾岸諸国からの輸入で供給に支障をきたさないとしてきた。しかしこうした対応は理論的には可能だが、今回の計画で最も説得力が弱い部分である。

サウジアラビアの主要な石油埋蔵地域は、同国の石油大手アラムコ社が拠点を構える北東部地域で、現在は主要な石油採掘地でもある。そしてこの地域は、シーア派が人口の大半を占めている。報道によると昨年この地域でシーア派とスンニ派間の抗争が勃発し、サウジ当局によって鎮圧された。隣国バーレーンで起こった民主化運動も国内のシーア派に深く影響されたものだったが、バーレーン政府とサウジアラビア政府が派遣した軍によって容赦なく鎮圧された。そして暴動の扇動者はイランのシーア派宗教指導者との深い関与があるとされた。

従って、イランの支持のもと湾岸地域に再び宗派対立が引き起こされる可能性を否定するのは現実的ではない。もしこの地域で大規模なスンニ・シーア派間の抗争が勃発し、長引いた場合、石油価格は高騰するだろう。またそうなれば、石油の主要採掘地が不安定となるサウジアラビアは、イランからの石油輸入禁止の穴埋めを実行に移すことはできないだろう。

また、核開発疑惑に関連したイランへの軍事攻撃についても、イスラエル、やや及び腰な米国及び一部の欧州諸国を別にすれば、国際世論の支持は必ずしも高くない。また、石油禁輸による経済制裁という手段自体が両刃の剣となりかねない。石油需要の27%をイランからの輸入に依存している欧州連合の他にも、中国、インド、日本、韓国などのアジア諸国がイラン産石油の主要な輸入国である。従って、イラン情勢に関連して石油輸入の流れが滞れば、これらの国々は大きな打撃を受けることとなる。そうなれば世界経済の安定そのものが脅かされかねないだろう。とりわけ極めて脆弱な経済状態に直面している一部の欧州の国々は、おそらくイラン危機に端を発する経済ショックを凌ぐことはできないだろう。

このように、中東の事態が進展するにつれ、「単に独裁者を排除するための闘い」という単純な見方はもはや通用しなくなってきた。しかし世界の大国は、国連安保理決議等を通じて既に立場を明らかにしてしまっているため、極めて深刻な事態へと発展する危険性が高くなっている。中東情勢の根底にあるスンニ-シーア派の対立構図について十分認識しておくことが、今後公平な解決策を見つけ出していく上で大いに役に立つだろう。(原文へ

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

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