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援助と社会保障を削り、核兵器予算を増やす各国政府

【国連IPS=ハイダー・リツヴィ】

国連の主導する軍縮問題に関する協議が7月23日にジュネーブで再開されるなか、核備蓄維持の予算を減らし、その分を開発予算に回すよう核兵器国に求める声が大きくなっている。

米国に拠点を置く「核時代平和財団」のデイビッド・クリーガー代表は、「核兵器に依存し続けること自体が意味を成さないように、核兵器に費やされている資金にも意味がない」とIPSの取材に対して語った。

このコメントは、国連加盟国193ヶ国中9ヶ国だけが、核兵器を削減するとの公約にも関わらず、核兵器の維持と近代化にあてる予算を増やし続けている事実を示唆している。


独立系機関の推計によると、昨年、核兵器国は1050億ドルを関連の予算に当てた。米国だけでも610億ドルを費やしている。

米国を拠点とした軍縮を訴えるグループ「グローバル・ゼロ」によれば、2011年、ロシアは149億ドル、中国は76億ドル、フランスは60億ドル、英国は55億ドルをそれぞれ核兵器に費やした。

 
4つの事実上の核兵器国もまた同じような行動パターンを示し、核兵器への予算を増やした。すなわち、インドは49億ドル、パキスタンが22億ドル、イスラエルが19億ドル、北朝鮮が7億ドルである。

「グローバル・ゼロ」によるこのコスト計算は、核兵器の研究・開発・調達・実験・運用・維持・更新にかかる予算のみであり、多くの関連活動を含まれていない。今年の支出額も同じぐらいになるだろうという。

このことは、多くの政府が、長きにわたる経済不況による財政上の制約に直面し、社会保障予算をさらに削減しようとする中で起こっている。

クリーガー氏は、世界の数多くの人びとが飢えや病気、住居なき生活などで苦しんでいるときに、核兵器の予算を増やそうとするのは「けしからんこと」だと語った。

「核兵器は、ミレニアム開発目標(MDGs)達成のために用いることができるはずの資源を吸収してしまっている。」とクリーガー氏は語った。

国連の専門家らは、開発のために年間4000億ドルが必要だとしている。しかし、ほとんどのドナー国が公約を果たさないため、この目標を達成することはますます難しくなっている。

国連によると、政府開発援助(ODA)には1670億ドルの不足があり、そのために2015年を目標としたMDGsのすべてを達成することが難しくなっている。平和活動家によれば、この不足は、核兵器の維持と近代化にかかるコストを大幅に削減することで容易に乗り越えることができるものだという。
 
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のティム・ライト氏は、声明の中で、「核兵器国は、彼らの核戦力のために1日あたり3億ドルを費やしています。」「明らかに、われわれすべての脅威となるこの兵器にこうした資金を使うよりも、まともな道があるのです。」と述べている。

核不拡散・軍縮に関連した問題で国連と緊密な協力をとって活動する非政府組織である「リーチング・クリティカル・ウィル」(Reaching Critical Will)によると、現在、世界には推定で1万9500発の核弾頭があるという。

新START(戦略兵器削減条約)が2010年に署名されたが、米ロ両国とも、既存の核戦力を強化しつづけている。英国、フランス、中国、それに他の4つの事実上の核兵器国についても状況は同じである。

5つの公式の核兵器国の関連支出の実態は、透明性が欠如しているために詳細まではわからないが、研究者らによると、事実上の核兵器国に関しては、核兵器支出の正確なデータを得ることはより困難であるという。

たとえば、核不拡散条約に加盟していないパキスタンの場合、核兵器のコストに関するアカウンタビリティはまったく存在しない。それは国家機密事項なのだ。

パキスタンの核関連コストに関する質問に答えたあるパキスタンの外交官は、最近こう話した。「わかりません。米国の外交官などに聞いてみたらどうでしょうか。彼らだって、どれだけのお金を使っているか国民に知らせているでしょうか。」と語った。

この答えは、公式の核兵器国が公にした数字もまた正確なものではないことを示唆している。しかし、この地域の平和活動家は、この議論に反論する。

プリンストン大学で平和と安全保障に関するプロジェクトを率いるジア・ミアン氏は、「すべての核兵器国は、核計画を国民に知らせないままスタートしています。核政策の内部で何が起こっているのか、そして公金がどれだけ使われているかを秘密にすることで、社会の目から逃れようとしているのです。」と語った。

「核政策の最初の犠牲者は、それが保護しようとしている当の国民自身です。」と彼は述べ、パキスタン国民の約半数は、読み書きができないのにも関わらず、GNPの1%しか保健・教育に費やしていないという最近のデータを示した。

クリーガー氏は、核兵器国の指導者らが「世界からこれらの兵器をなくそうとしないことは、苦しむ人々に対する冷酷な無関心を示していると同時に、(核兵器国の)国民自身が核兵器の標的にされているということを意味するのです。」と語った。

国連の軍縮会議[IPSJ注:ジュネーブ軍縮会議(CD)のこと]は、9月14日に会期末を迎える。国連総会に毎年の報告義務があり、65ヶ国で構成される同会議は、自ら議題を定めることができ、全会一致方式で運営されている。

過去には、核不拡散条約包括的核実験禁止条約など、主要な国際取り決めの交渉の場になったこともあった。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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南シナ海と中国の海軍戦略(ロジャー・ベイカー米民間情報機関ストラトフォー東アジア専門家)

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【トロントIDN=ロジャー・ベイカー、チャン・ジヒン】

この10年間で、南シナ海は、東アジアでもっとも多くの紛争の火種を抱えた場所になってしまった。中国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、台湾がそれぞれに南シナ海の一部あるいは全体への領有権を主張し、近年では軍事的な対立にまで発展してきた。

南シナ海には多くの島があり、天然・エネルギー資源も豊富で、世界の海運の3分の1が関わっている海域であることから戦略的価値はいずれの国にとっても明らかである。しかし、中国にとっては、南シナ海への権利を主張することは、たんなる実利の問題を超えて、海洋への歴史的な主張を行いながら、いかにして非対立的な外交政策を維持していくかという1980年に鄧小平最高指導者(当時)が打ち立てた従来の外交政策のジレンマの根幹に関わる問題なのである。

 中国政府(当時は国民党政府)は国共内戦末期の1947年、南シナ海の諸島とその周辺海域に対する領有権を主張した。しかしその後数十年間は、近隣諸国が各々の独立運動に専念せざるを得なかった状況にあったことから、中国は自らの主張を擁護する努力をほとんどする必要がなかった。ところが、こうした国々も、今日では海軍を増強し、(南シナ海への領有権主張を含む)新たな外交関係の模索や、領海内資源の開発と哨戒警備に積極的に取り組む動きを見せている。一方、中国国内では、領土問題について如何なる譲歩も許さないとする国民感情が渦巻いていることから、鄧小平以来の静かな外交政策は現実的なオプションではなくなってきている。

 中国の海洋理論の進化

中国は広大な大陸勢力であるが、一時期は日本海からトンキン湾に至る沿岸を支配するなど(18世紀の清)、長大な海岸線を領有している。にもかかわらず中国の関心は、伝統的に大陸内部に向けられたものであった。一方、中国が海洋に目を向けたのは極めて限られた時期(例:元時代の時代の日本、インドネシア遠征、鄭和が活躍した明の永楽帝時代等)で、しかも内陸の国境が比較的安定していることが前提だった。

伝統的にみて、中国に対する脅威は、海からではなく内陸からのものが中心であった。つまり時々現れる海賊よりも、北方や西方から中国への侵入を繰り返す遊牧民族との戦いが主だった。

また外国との貿易は、大半が内陸を通じたものか、限られた港を拠点とするアラブ人や外国籍の商人の手によるものだった。したがって、中国の外交的関心事は、一般的に陸上部の国境を維持することにあったと言ってよい。

「9点破線」(中国語では「九段線」)を解釈する

今日における中国の領海に対する主張の論理と近隣諸国との領土紛争を理解するためには、まず最初に、いわゆる「9点破線」と言われる南シナ海に中国の管轄権が及ぶ領域としておおまかに引かれた境界線(形状から別名「牛の舌」ともいわれ、南沙・西沙両諸島がすっぽりその中に入る)について理解する必要がある。

中国は、国民党政権時代の1947年に、南シナ海の領域画定に関して「11点破線」(eleven-dash line)という考え方を打ち出した。しかし、当時の中国の関心事は共産党勢力との内戦にあり、これはあまりよく練られた戦略ではなかった。

敗戦で日本が中国大陸から撤退した後、国民党政府は、海軍士官と測量チームを南シナ海の島々に派遣し、翌年内務省から南シナ海全域を囲う点線(=「11点破線」)の内側は中国の管轄海域であると主張した地図(「中華民国行政区域図」)を発行した。

「中華民国行政区域図」は、詳細な座標を欠いた代物だったにも関わらず、中国が領有権を主張する際の根拠とされた。そして1949年に(国民党政府を台湾に追いやって中国本土を統一した)中華人民共和国が誕生すると、共産党新政権は正式にこの図を採択した。1953年には、おそらくベトナムとの紛争を緩和するために、破線を2つ減らして今日に続く「9点破線」が提唱されるようになった。

中国のこの主張に対して、当時、近隣諸国からほとんど異が唱えられなかった。当時東南アジア各国にとって自国の国家独立を達成することが最優先課題だったからである。中国政府は、これを近隣諸国及び国際社会による黙認と解釈する一方で、あえて問題視されることを避けるため、この問題を自ら積極的に取りあげることをしなかった。中国政府は、「9点破線」そのものを中国の不可侵の領土として正式に宣言することを避けてきたが、「9点破線」を自国の領海を示す歴史的基礎に置いている。一方、国際社会はこの中国の主張を認めていない。
 
南シナ海への領有権を主張しているベトナム、フィリピンといった近隣諸国と同様に、中国の長期的な目標は、拡大・近代化が進む海軍力を駆使して、南シナ海の諸島や小島を実質的に支配下に置き、戦略拠点の確保と天然資源開発を行うことである。中国の軍事力が依然として脆弱だったころは、中国政府は主権問題を一旦棚上げし、紛争当事国に対して共同開発を提案することで、領海を巡る紛争を回避しつつ、中国海軍の準備が整うまでの時間稼ぎをするという戦略を支持していた。

また中国政府は、南シナ海の領有権を主張する東南アジアの国々が連携して対峙してくる事態、つまり多国間協議の枠組みでは、「9点破線」の主張が敗れるのではないかとの恐れを抱いていることから、領土交渉の主導権を握り続けられる二国間交渉にこだわってきた。

「9点破線」は法的根拠が乏しく、常に近隣諸国との紛争の火種となってしまったにもかかわらず、中国政府は今さらこの主張を取り下げられなくなってしまっている。それは、南シナ海の領有問題に対する国際社会の注目が集まり、近隣諸国との競争が激しくなっているなか、「9点破線」内を自国の領海と考えている中国の一般国民も、政府に対してより積極的な対応をとるよう圧力をかけるようになってしまったからである。

その結果、中国政府は、領海に対する主張を受入れさせようと共同開発を持ちかければ相手国の反発を買い、かといって、相手国との関係に配慮して領海に対する主張を控えれば国内世論の反発を買う(とりわけ中国の漁民は、しばしば独自の判断で係争中の領海に侵入し、政府は止む無くそうした行動を支持せざるを得ない状況が作り出されている)という極めて困難な立場に置かれている。すなわち、国内政治を優先すれば、近隣諸国との外交関係が悪化し、外交関係を優先すれば、国内からの激しい反発を予想しなければならないというジレンマに陥っているのである。

開発途上にある中国の海洋戦略

「9点破線」に伴う複雑な諸問題、中国の国内政治状況、変動する国際システムの全てが発展途上にある中国の海洋戦略の形成に影響を及ぼしている。

毛沢東国家主席の時代、中国の関心は国内に向けられており、海軍はまだ弱く、いずれにしても海洋進出の足枷となっていた。この時期、自国の領海に対する中国の主張は曖昧なもので、積極的に権利を主張する行動をとらなかった。またこの時期は近隣諸国が独立闘争に気を取られていたことから、中国はあえて自国の権益を強く主張する必要に迫られることはなかった。従って、この時期の海軍戦略は沿岸部を外国の侵略から保護するという防衛的なものであった。一方、1970年代末から80年代初頭にかけての鄧小平が最高指導者をつとめた時代には、国内経済改革の動きに合わせて海洋戦略もより現実的なものへと変化した。この時期、中国政府は領土問題をあえて棚上げにしつつ、東シナ海・南シナ海の共同経済開発を模索した。そのため、この時期の軍事支出は、引き続き陸軍とミサイル部隊の拡充に重点がおかれ、海軍の役割はおおむね中国の沿岸海域の防衛に限定されていた。

この鄧小平による戦略は、その後20年に亘って中国の海洋戦略の基調を形成することとなった。この間、南シナ海では、近隣諸国との紛争が散発的に起きたが、一般的にこの時期の中国政府の方針は、あからさまな衝突は回避するというものだった。またこの時期、中国海軍は、南シナ海で支配的な役割を果たしている米海軍に対抗できる立場にはなく、また、近隣諸国に対抗して領海権を強く主張できる状況にもなかった。この時期、中国政府は軍事力よりはむしろ政治・経済的な手段を講じて、地域における影響力の拡大を目指していた。

しかし、南シナ海の海底資源を係争国と共同で開発するとした試みは、概ね失敗に終わった。この時期、中国は高い経済成長を背景に、軍事費、とりわけ海軍力の強化に力が入れられるようになったため、以前のような沈黙の政策を続けることが難しくなってきた。また近隣諸国も、こうした中国の方針転換に危機感を募らせ、その多くが、米国に対して、中国の台頭に対抗する形で南シナ海における役割を一層活発化するよう求めるようになった。

中国による「9点破線」と領海に関する主張を巡る問題は、各国が国連海洋法条約の規定に従って領海に関する主張を報告する必要に迫られたことから、国際社会の注目を集めることとなり、領海を巡る中国と近隣諸国の論争に国際社会の調停が入る可能性が高まった。中国は、南シナ海から見込まれる権益を期待して同条約の締結国となっていたが、条約の発効にともない、東シナ海の領有権を主張する近隣各国の相次ぐ訴えに対抗して、多数の反論と余儀なくされることとなった。こうした中国の反応は、近隣諸国に中国がアジアにおけるヘゲモニーを露骨に志向していると映り、警戒感を強めさせる結果となった。

こうした中国の動きを問題視しているのは南シナ海の領有権を主張している東南アジア諸国だけではない。日本と韓国はエネルギーの補給経路として南シナ海に大きく依存している。また米国、オーストラリア、インドといった国々も、貿易及び軍の通過海域として、南シナ海の戦略的な重要性を認識している。これらの国々は、中国の動きを、南シナ海への自由なアクセスを覆そうとする潜在的な前触れではないかと懸念を深めた。これに対して中国は、外交上の問題解決における軍の役割を高めるとともに、次第に強硬な発言で反応するようになった。

外交政策を巡る議論

鄧小平は1980年、中国の外交政策の輪郭について、「まず世界情勢を観察し、中国の位置づけを確保、外交問題には静かに対処し、決して自らの能力を見せず、チャンスの到来を待つ、そして腰を低くして、決して地域のリーダーの地位を狙ってはならない」と語った。こうした基本理念は、中国政府が行動を起こす際のガイドライン或いは行動を起こさない場合の言い訳として、中国外交政策の根幹を占めてきた。しかし、中国を取り巻くアジア情勢及び国内状況は、鄧小平が改革に着手した頃とは大きく変貌を遂げており、大幅な伸びを見せている中国経済及び軍事力の現状は、もはら彼が「能力を隠し、チャンスの到来を待つべき」とした発展段階を既に超えていることを物語っている。

中国政府は、より積極的な政策を通じてのみ、従来の大陸勢力から海洋国家へと変貌を遂げることが可能であり、そうして初めて、南シナ海全域を自国の安全保障に有利な形で再編成できると理解している。もしそれができなければ、域内の他の国々やその同盟国、とりわけ米国が中国の野望を封じ込めるか、或いは脅かすことになるだろう。

鄧小平の政策のうち、少なくとも4つの点が現在再検討中、或いは変更を加えられている。すなわち、①不干渉政策から創造的関与への変容、②二国間外交から多国間外交への変容、③対応型外交から予防型外交への変容、④厳格な非同盟政策から準同盟政策への変容、である。

創造的関与とは、他国の内政に積極的に関与することで海外における中国の権益保全に取り組む方法の一つとされており、従来の不干渉政策からより柔軟な外交への転換を意味するものである。中国は過去においても、資金その他の手段を活用して他国の内政に干渉したことはあるが、政府の正式な方針転換を受けて、今後海外の現地状況に一層関与を深めていくことになるだろう。

しかしそうすれば、「中国は、欧米帝国主義の覇権を目の当たりにして、同じ途上国として助けの手を差し伸べているにすぎない」と従来から主張してきた自らのイメージを台無しにすることになりかねない。中国は、政治変革を開発・技術援助の条件にする欧米諸国とは対照的に「援助はするが内政に干渉しない」と約束して、途上国との友好関係を拡大してきた。ところが中国の方針転換が知られるようになれば、欧米に対して有利に進めてきたとされる途上国との関係にも陰りがでてくることになるだろう。

中国は、長年に亘って、自国の権益が関わる国際上の問題を解決する手段として、関係当事国との二国間協議を優先してきた。また、多国間協議の枠組みに参加した場合でも、国連安保理における行動実績が示しているように(拒否権を行使して制裁決議を頓挫させても、積極的に代替案を示すことはほとんどなかった)、議論をリードするというよりは、足を引っ張る存在であった。とりわけ1990年代を通じて、中国は、自国の比較的弱い立場を考えれば、多国間協議からほとんど得られるものはなく、むしろ他の強豪国の影響下に組み込まれるのではないかと恐れていた。しかし中国経済がその後目覚ましい躍進を遂げたことにより、こうした状況は一変することとなった。

中国は、今日では自国の権益確保の手段として、二国間外交よりもむしろ多国間外交を推進するようになっている。東南アジア諸国連合(ASEAN)上海協力機構、日中韓サミットへの参加は、いずれも積極的に多国間協議の枠組みを活用することで当該ブロックの政策の方向性に影響を行使していこうとする中国の意志の表れである。また中国には、多国間協調路線にシフトすることで、小国に対する安心感を与え、他国が米国との同盟に走ることを防ぐ狙いがある。

中国は、どちらかと言えば対応型の外交方針を伝統的に採用してきたため、問題が表面化する前に危機を察知したり、予防策を講じる機会を逸することが少なくなかった。天然資源へのアクセス確保に努力してきた地域でも、現地の情勢変化に不意を突かれ、応答戦略も準備できていなかったというケースもあった(スーダンと南スーダンの分裂はそうした最近事例の一つである)。中国は現在、従来の対応型外交から、紛争に発展する可能性がある潜在勢力や争点をより良く理解し、単独或いは国際社会と協力して一触即発の状況を緩和するような、予防型外交へとシフトする可能性について議論している。そのような外交方針の変化が南シナ海に及ぼす影響について言えば、中国は、従来の曖昧な「9点破線」理論よりもむしろ南シナ海における領海に対する主張を明確にしてくるだろう。また、中国が積極的にリーダーシップを発揮できるようなアジア安全保障メカニズムを構築するという構想を、これまで以上に積極的に推し進めるだろう。

中国の同盟政策に関する立場は、特定の国を標的にした同盟に参画しないとした1980年代に鄧小平が提案した政策を踏襲したものである。この非同盟政策は、中国に独立した外交政策姿勢を保持させるとともに、同盟関係に引きずられて国際紛争に巻き込まれるリスクを回避するためのものであった。中国には朝鮮戦争に参戦したことで台湾奪回計画が頓挫し、米国との関係も数十年に亘って後退した苦い経験がある。しかし、冷戦構造が崩壊し、中国の経済・軍事的な影響力が拡大を続ける中、従来の厳格な非同盟政策に対しても、改めて見直しが議論されている。中国政府は、北大西洋条約機構(NATO)が東へ拡大する様子や、米国がアジア・太平洋地域において軍事同盟を強化する動きを、慎重に観察してきた。

このまま非同盟政策を堅持していたのでは、中国はこうした軍事同盟グループと、一国で対峙する事態になりかねず、そうなった場合、中国には現在の軍事・経済力で有効に対処する術がない。そこで中国政府は、この弱点を補いながらも、他国への依存を回避する方策として、準同盟政策への変容を模索している。具体的には、中国が(明らかなライバル関係にある国々とも)戦略的パートナーシップの構築を積極的に進めたり、中国軍が他国との軍事交流を積極的に進めつつあるのは、この新戦略に沿ったものである。この新方針は、米国に対抗する同盟を作り上げるというよりも、米国の同盟諸国への接近を図ることで、対中同盟を米国に作らせないことが主眼である。中国政府は、この海洋戦略に基づいて、インド、日本、韓国の海軍とともに海賊対策作戦に従事しているほか、海軍間の交流や共同演習の実施も提案している。

将来を展望して

中国は大きな変革期を迎えている。経済大国となった今、中国は伝統的な外交政策の見直しを余儀なくされている。南シナ海の問題は、中国本土に最も近い位置にあるために、中国の幅広い外交政策を巡る諸議論の縮図ともなっている。中国の領有権に関する主張が曖昧だった点は、南シナ海が静かだった頃には有効に作用した。しかし、この点は今となっては中国のニーズに応えていない。むしろ中国が海洋権益と海軍の活動を拡大させる中、地域の緊張関係は悪化している。全ての交渉を中国との2国間交渉に限定しようと試みたり、傍観主義的なアプローチをとるといった古い政策ツールは、もはや中国のニーズに応えていない。鄧小平から受け継いだ、南シナ海の係争国に共同開発を呼びかける政策は、殆ど成果を挙げることができなかった。また、国連海洋法条約に関連して各国が領海に対する主張を報告する中で、中国が「9点破線」内の領海への権利を改めて表明したことは、国内の愛国主義に火をつけると同時に、近隣諸国による対抗手段を誘発することとなった。

海洋戦略に関して明確さに欠けているもかかわらず、中国は「9点破線」に基づいて従来の主張をさらに強化する意思を示した。中国は外交政策転換の必要性を認識しているが、こうした外交政策の変容は大きな矛盾もはらんでいる。領有権を強く主張しすぎれば他国を刺激することになり、逆に軟弱化すれば国内世論が黙っていない。しかし、いずれにせよ変化はすでに始まっており、そのことは、中国の海洋戦略や世界における地位に影響を与えずにはおれないだろう。(原文へ

翻訳=IPS Japan

マラリア対策で網を広げるパプアニューギニア

【ポートモレスビーIPS=キャサリーン・ウィルソン】

パプアニューギニアでは、人口の90%がマラリアに罹患する危険性があり、毎年190万件が報告されている。しかし、殺虫効果を施した蚊帳を吊ることで、マラリアを劇的に減らすことができる。

世界保健機構(WHO)によれば、世界の人口の半分が、蚊によって媒介されるマラリアに罹患する危険性がある。2010年には世界で2億1600万件のマラリアが報告され、うち65万5000人が死亡している。

パプアニューギニアでは、地球温暖化の影響によって蚊の活動が活発化し、マラリア患者数が20万人増えると政府は予想している。

殺虫蚊帳は1986年に世界で初めて導入され、パプアニューギニアでは1989年に全国的な配布が始められた。2004年には、「エイズ・結核・マラリアに対抗するグローバル基金」の資金を獲得することに成功した。それ以前から全国配布に尽力している「マラリアに対抗するロータリーの会」と政府の協力の下、全人口の80%への配布を終えている。

 その結果、マラリアの罹患率は、2009年の12%から2011年の8%へと、かなり低下している。

しかし、課題がないわけではない。蚊による耐性の獲得と資金の継続性という2つの問題だ。

パプアニューギニアでは、殺虫剤として現在使われているデルタメトリンという物質への耐性を蚊が得たという結果はまだ出ていないが、通常は夜に活動する蚊の活動時間が少し早まってきたという報告がなされている。

他方、資金面については、グローバル基金からの資金が2014年に切れるが、その後の資金をどう確保するかが大きな問題となっている。

パプアニューギニアにおけるマラリアとの闘いについて報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan

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「リビア政治は歴史的に重要な分岐点にある」とUAE紙

【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙は18日付の論説の中で、7日に実施されたリビア制憲(定数200)議会選挙結果について「リビアは歴史的に決定的な瞬間を迎えている。」と報じた。

「カダフィ前政権崩壊後にリビアが経験してきた紆余曲折を考えれば、今回の選挙を経てリビア議会が成立する見通しが立ったことは重要な一歩である。(新生議会は、議会発足と同時に解散する暫定統治機構「国民評議会」に代わって新首相を選任する予定:IPSJ).
政治プロセスが動き始めた今、焦点は国家再建と開発プロセスに向けられるべきである。」とガルフ・ニュース紙が報じた。

また同紙は、マフムード・ジブリール前暫定首相率いるリベラル派の「国民勢力連合(NFA)」が、政党に割り当てられた80議席中39議席を獲得し筆頭勢力になった点について、「NFAは、リビアが長年抱えてきた諸問題の解決を訴えてきた諸派の連合体である。今回の選挙結果を見る限り、『アラブの春』を経験した他の国々(エジプト、チュニジア)とは異なり、リビア国民は、イスラム原理主義勢力によるリーダーシップや同勢力が率いる連立政権を選択したのではないことは明らかだ。」と報じた。なお、イスラム原理主義組織ムスリム同胞団の「正義建設党」の獲得議席は17議席にとどまった。

 また同紙は、「新政権誕生までには、(議席数が全体の2割に留まっている)NFAをはじめとする様々な政党が、過半数勢力を目指して、定数の6割を占める無所属議員の囲い込みや連携を模索する動きが活発化するだろう」と指摘し、「リビアが、リベラル派勢力が優位を占める国になるかどうかは、議会内の勢力図の行方によって決まるだろう。」と報じた。

また同紙は、「女性候補は議会に30議席を獲得するなど健闘した。この結果、リビア議会200議席のうち16.5%を女性が占めることとなる。」と報じ、今回の選挙で女性候補が大きく躍進した点を伝えている。

「リビアの人々が成し遂げようとしていることにとって、次の一連の政治ステップが重要な役割を果たすことになるだろう。リビア国民は、これから国のインフラと未来を構築していく過程で、心を一つにして団結していく必要がある。」とガルフ・ニュースは結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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シリア政府、アレッポ争奪戦にさらに軍を投入

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【ドーハAJ=特派員】

活動家によると、シリア第2の都市アレッポ(首都ダマスカスから北に355キロ)で政府軍と反政府軍間の戦闘が報じられて6日目となる中、政府は新たに数千人規模の増強部隊をアレッポに派遣した。

25日には、政権党バアス党地方本部から近いアル=ジャマイヤ地区中心部で戦闘が報じられた。また、人権擁護団体「シリア人権監視団」は、アレッポ市南部のカラセー地区では、反乱軍が警察署に放火した、と報じた。

バシャール・アサド大統領打倒を目指す反政府蜂起は、既に16か月目に突入しているが、この数週間の間に、内戦の様相も、かつての首都から遠く離れた地方における蜂起から、アサド政権の主な支持基盤である2大主要都市アレッポと首都ダマスカスの支配を巡る戦いへと変貌してきている。

 シリア自由軍のアブデル・ジャバール・アル=オカイキ報道官は、AFPの取材に対して、「シリア北西部イドリブに配置されていた数千人規模の政府軍部隊が、政権にとって(イドリブよりも)より戦略的に重要なアレッポに再配置された。」と語った。

また活動家らによると、25日朝の段階で、アレッポ市南部のスカッリ地区から多くの民衆が逃れていた。

隣国レバノンのベイルートからシリア情勢を報じているアルジャジーラのルーラ・アミン記者は、アレッポを巡る戦いは、アサド政権及び反政府勢力双方にとって極めて重要なものとなっている、と語った。

「反政府勢力にとって、この革命を成就ためには、商業の中枢であるこの大都市を是が非でも手中に納めなければなりません。だからこそ、政府にとってもアレッポを巡る戦いは、今後の命運を分ける決定的なものとなるため、あらゆる武器を投入して全力で反乱軍の鎮圧にあたっているのです。」と、アミン記者は語った。

ダマスカスにおける政府軍の攻勢

シリア人権監視団
は、7月25日にはシリア全土で30人以上が暴力で落命し、またその前日には158人の殺害が報じられていた、と語った。

また英国に拠点を置く同監視団は、ダマスカスにおける反乱軍の最後の拠点の一つアル・ハジャルル・アスワド地区で、政府軍との衝突があったと報告した。同地区で蜂起が始まって10日目のことであった。

政府軍は追い詰められた同市南部地区の攻撃に、攻撃ヘリコプターと重機関銃を使用した、と同監視団は報告した。

また活動家や住民らは、政府軍はダマスカス北部郊外の反乱軍の支配地域アル=タル地区への制圧を試みた際に重砲やロケット砲で攻撃を加えたため、住民の間にパニックが起こり、数百の家族が街からの逃れた、と語った。

「今や軍用ヘリコプターが街の上空に飛来し、住民は爆発の音で目を醒まし、逃げ惑っています。」「既にこの地区の電気と電話は寸断されています。」と、活動家のラフェ・アラムさんはアル=タル地区を見下ろせる丘から、電話で語った。

シリア自由軍のアル=オクアイディ報道官は、政府が増援部隊をアレッポに投入している理由について、「市街戦が熾烈を極めており、23日にはいくつかの地区が反乱軍の手によって『解放された』ため。」と語った。

「アレッポでは激戦が続いていますが、多くの政府軍兵士は逃亡したり、その場で投降するものも少なくありません。政府軍の士気は極めて低いといえます。」とアル=オクアイディ報道官は語った。

アル=オクアイディ報道官は、先般、「(アサド大統領支持派に言及して)血まみれのアサド一味の手からのアレッポ解放を目指す作戦が始まった。」と発表していた。

商業の中枢で250万の人口を擁するアレッポは、1年以上に亘って暴力的な状況から免れてきていたが、最近になって反政府蜂起の新たな最前線と化した。

無差別砲撃

またアレッポ県各地の住民は、口々に政府軍がアル=ジンナーの街に対して無差別な攻撃をしかけていると非難した。

ロイター通信が入手したアマチュアビデオには、住民によると車が迫撃砲の攻撃を受け3名が死亡、1名が負傷したとされる戦闘直後と思われる映像が収録されていた。

反政府活動家らは、政府軍と反乱軍はこの地域で激戦を繰り広げた、と語った。

「このように砲弾が撃ち込まれるなんて、この村に何の落ち度があったというのでしょう。この村には武装グループの痕跡すらないのに、毎日10発もの砲弾を撃ち込まれています。」「村が標的にされた唯一の理由は、私たちが自由を要求したからとしか考えられません。」とある住民は語った。

また25日には、囚人が反乱を起こし建物の一部を占拠しているホムス中央刑務所において、治安部隊と囚人間の戦いが引き続き繰り広げられた。

シリア人権監視団は、刑務官に加えて正規軍が作戦に投入された結果、数名の「死傷者がでた」と報じた。

ホムスの中央刑務所における囚人の反乱は先週勃発し、その後アレッポの中央刑務所においても、類似の反乱が発生している。

シリア人権監視団は、「ホムスでは、反乱軍の兵士がアル=カラビ地区で政府軍の狙撃兵に射殺された。」と報じるとともに、当時政府軍は「15分毎に平均3発の砲弾」を打ち込んでいたことを明らかにした。

翻訳=IPS Japan

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【IPS HIV/AIDS研究事業現地取材からの抜粋】

本プロジェクトは、深刻化するHIV/AIDS問題に関して、仏教界として地域コミュニティーに貢献することを目指して僧侶達自身によって始められたもので、僧侶がHIV/AIDS感染者と一般コミュニティーの仲立ちをしながら、仏教の教えに基づいて共生していける環境作りを目指している。 

タイ社会では伝統的に僧侶は「仏の智恵を説く教師」として敬われており、村人たちも僧侶の発言には謹んで耳を傾ける習慣がある。本プロジェクトは、僧侶の「教師」としての役割を重視しており、僧侶や尼僧は、僧院でHIV/AIDSに関する知識と、その知識を仏教の教えに基づいて効果的に村人達に伝達する技術(participatory Life Skills Development approach)を身につけた後、地域コミュニティーの中に入り込んで活動を展開している。

 僧侶達は、HIV/AIDSに対する感染者と一般民衆双方の無知と無関心がHIV/AIDS感染拡大の根底にあるとの理解から、村人に対するHIV/AIDSに関する正しい知識の普及、特に感染予防及び感染拡大抑制の方法を伝えることを重視している。一方、HIV/AIDS感染者に対しては自ら患者の托鉢を受付けて食すと共に患者のもとを訪問して精神的なカウンセリングを行ったり、エイズ孤児を引き受けるなど、率先した行動を通して、コミュニティーに対して患者を受け入れ支援するよう説いている。 

HIV/AIDS感染者と一般民衆の共生は十分可能: 

「私たちは、村人の有志と共にHIV/AIDS感染者のためのサポートグループを組織している。村人は伝統的に僧侶に心を許して自身の抱える諸問題を相談するので、僧侶達は、HIV/AIDS感染者を特定次第、サポートグループや政府の支援プログラムと繋げている。感染者で働けるものは、僧侶とサポートグループが仲立ちとなって様々なコミュニティー活動に参加させる一方、支援が必要な家庭に対しては僧侶が托鉢や寺への寄付を感染者家庭に分け与え、共に生きていく希望を持つようカウンセリングを行っている。 

また、地域の病院と提携して、HIV/AIDS患者のための伝統薬草の栽培、配布も行っている。一方、主に若い僧侶は地域の大学や集会所に若者を集めて、HIV/AIDS感染に関する正しい知識とそれに基づく性行動の是正を呼びかけている。 

また、人身売買の犠牲者やエイズ孤児を積極的に僧院に受け入れている(人身売買の犠牲者の大半は女性で、Sangha Metta Projectでは彼女達を尼僧院において受け入れ、トラウマのケアや自立に向けた支援を行っている。また、少女達の出稼ぎを防止する目的で、収入創出事業も手掛けている)。 

このように、地域コミュニティーの崩壊に繋がるHIV/AIDSの深刻な脅威に直面して地域の僧院とコミュニティーが一体となって活動できたことは、双方の信頼感とコミュニティーの結束に対する自信へとつながり、この草の根レベルにおける自助努力・相互扶助の輪は、国境を越えてビルマのシャン州へも広がった。現在では、タイに在住するシャン族の青少年並びにシャン州から招いたビルマ人の僧侶を対象に、HIV/AIDS講習をはじめ、本プロジェクトのスキームとノウハウを伝えている」。(Laurie Maund, manager of the Sangha Metta Project) 

青少年の行動変容を引き起こすには重要情報の反復と木目細かなフォローが不可欠 

「ここタイ北部では、HIV/AIDSの感染経路や予防方法に関する青少年の理解度はかなり高いと思う。しかし、同時に多くの誤った風説に惑わされているのも事実である。例えば、蚊がHIV/AIDSウィルスを媒介するといった風評を信じている青少年は少なくない。様々なNGOがHIV/AIDS啓蒙活動と称して各地でワークショップを展開するが、一過性のものが大半で、地域の青少年の性に関する疑問に必ずしも十分に答えないまま、去っていくものが少なくない。 

特に、HIV/AIDS感染の将来を左右する青少年の行動変容を実現しようとするならば、啓蒙活動は地元に根付いた形で重要情報を繰り返し反復し、地道に木目細やかなフォローアップをしていくことが重要である。残念なのは、タイにおけるエイズ対策が『成功した』と評価されるが故に、国際社会からのエイズ教育への資金が先細りになってきていることである。 

HIV/AIDS問題はコミュニティーの問題であり、現地のリソースが最大限に動員され、地元住民がこの問題に自主的に取り組める技術・ノウハウが伝達されてはじめて長期的な効果を期待することが可能となる。しかしながら、政府や多くのNGOによる啓発事業をみると、地元住民の意識向上や技術移転に繋がるような活動をしているとはいえないものが少なくない。予算を機械的に執行することに終始するのではなく、それをどのようにインパクトあるものに改善していくか、もっと工夫をする必要がある。」(Laurie Maund, manager of the Sangha Metta Project) 

IPS HIV/AIDS研究事業現地取材からの抜粋 
(現地取材班:IPS Japan浅霧勝浩、マルワーン・マカン・マルカール) 

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|ボスニア・ヘルツェゴヴィナ|トルコの視線に苛立つバルカンの人々

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【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

1990年代に旧ユーゴスラヴィア連邦が解体して以来、外国の政治家による発言が、この地域の人々の間に、白熱した激論を引き起こすというということはほとんどなかった。

2001年以来、かつてユーゴスラヴィアを構成した独立諸国の関心は、長きに亘った紛争で荒廃した自国の経済立て直しに専ら向けられており、地政学的な議論は、主に隣接諸国との遅々として進んでいない和解プロセスの分野に限られてきた。

こうした中、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相が先週、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナは今や彼の国(=トルコ)に委ねられている」と発言したことから、バルカン諸国(アルバニア、ボスニア、ブルガリア、クロアチア、マケドニア、モンテネグロ、セルビア)に激しい議論が巻き起こっている。

 エルドアン首相は、先週アンカラで開催された自身が率いる与党公正発展党(AKP)の全国代表者会合において、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナは私たちに託されたのです。」と語った。

エルドアン首相は、2003年に死の床にあったボスニア・ヘルツェゴヴィナのアリヤ・イゼトベゴヴィッチ初代大統領を訪ねた際に同大統領が述べた言葉を思い起こし、「彼(イゼトベゴヴィッチ氏)は私の耳元で次の言葉を囁きました。『ボスニア(とヘルツェゴヴィナ)の今後を君(トルコ)に委ねたい。これらの土地は、元はオスマン帝国の一部だったのだから。』」と語った。

イゼトベゴヴィッチ氏は、1992年に始まったボスニア・ヘルツェゴヴィナ独立戦争を指導し、同国の初代大統領になった人物で、2003年、心臓病で死去した。

どんな国であったとしても、国の将来が勝手に外国に「委託された」という話は、国民の激しい反発を招くのに十分である。とりわけボスニアの場合、イスラム教徒のボシュニャク人、カトリック教徒のボスニア系クロアチア人、正教徒のセルビア人を含む多様な民族・宗教コミュニティーから構成されるモザイク国家であることから、エルドアン首相の発言は、一層深刻な反発と論争を引き起こすこととなった。
 
現在のボスニアでは、クロアチア系市民とセルビア系市民が全人口(約400万人)の半数以上を占めており、彼らにとって第一次世界大戦まで500年に亘ったオスマン帝国支配は、ほぼ例外なく「過酷な圧政の時代」として記憶されている。
 
ボスニアのセルビア系政治家からは、すかさずトルコ首相の発言に対する怒りの声が上がった。

スルプスカ共和国(ボスニア・ヘルツェゴヴィナの連邦を構成するボスニア系セルビア人を主体とする国家)議会のイゴール・ラドイチッチ議長は、「ボスニア・ヘルツェゴヴィナは、(他国に)相続される土地ではありません。」と強調した。一方、ボスニア系クロアチア人の指導者ドラガン・コヴィッチ氏も現地メデイァによるインタビューの中で、「故イゼトベゴヴィッチ氏が、祖国を自分の判断で他国に託せると確信するほど強大な権力を持っていたかは疑わしい。」と、疑問を投げかけている。

またこの論争はインターネットを通じて瞬く間に広がり、地域のウェブサイトはあたかも異なる民族間の言葉の応酬が繰り広げられる戦場と化した呈がある。

反イスラムで団結した(セルビア、クロアチア系等の)非イスラム教徒の市民は、エルドアン発言への怒りと露わにするとともに、ボスニアにおけるイスラム教の影響に対する恐れを公然と語るようになった。

「ボスニアは90年代の紛争以前は世俗国家でしたから、イスラム教徒でない人々にとって、ここサラエボで今日多くの女性がスカーフやアバヤといった伝統的なイスラム風の衣装を身にまとっている光景は、どちらかというと奇異に映るのです。」と、ボスニアの首都サラエボでツアーガイドを営むジアド・ジュスフォヴィッチ(47歳)氏はIPSの取材に応じて語った。

「また一方で(大半の国民の)目にはまだはっきりと見えていないものの、新たな兆候が表れています。例えば、失業者でも定期的にモスクに礼拝に訪れるようになれば資金援助を得られるとか、戦争未亡人が、子どもとともに敬虔なイスラム教徒になれば、最高600ドルの支援を得られる、といった動きです。こうしたイスラム教徒に対する援助は、1990年代にサウジアラビア、インドネシア、マレーシアが始めたものです。」とジュスフォヴィッチ氏は付加えた。

実利的な外交政策

ベオグラードの歴史家スラヴェンコ・テルジッチ氏はセルビアの主要日刊紙「ポリティカ」に、エルドアン首相がおこなった宣言は、「バルカン諸国にとって危険な発言だ。」と述べている。

またテルジッチ氏の同僚セドミール・アンティッチ氏は、トルコの動きを「前代未聞の挑発行為」であり、「ボスニア、クロアチア、セルビア政府は正式に非難声明を出すべきだ。」と語った。

しかしアナリストや専門家から見れば、トルコ首相によるこのような発言は、驚くにあたらないという。

「(エルドアン首相の)発言は、トルコが野心に満ちた外交政策においてバルカン半島との関わりを重視しているという政治的現実を反映したものです。」とベオグラード大学のダルコ・タナスコビッチ助教授(東洋学)はIPSの取材に応じて語った。

トルコ問題を長年取材してきたジャーナリストのヴォジャ・ラリッチ氏は、エルドアン首相の発言は「偶然発せられてものでも、予期されない内容でもない。」と見ている。

「エルドアン首相率いる公正発展党(AKP)は、トルコを、旧オスマン帝国領土だった地域に影響力を及ぼす地域勢力に押し上げたいと努めてきました。従って、トルコ政府が目を向けているのは、ここバルカン半島だけではなく、中東地域やイスラム的背景を持つ旧ソ連構成国も含まれるのです。」と、ラリッチ氏は語った。

タナスコビッチ助教授は、エルドアン首相の発言が、ボスニアにおいてトルコ政府の拡張主義的なものの見方に対する恐れと警戒感を引き起こした点を指摘して、「あの『遺産』発言は、やや逆効果だったと思います。」と語った。

またラリッチ氏は、「トルコの外交政策は、歴史家やアナリストが『新オスマン主義』と呼ぶ高度な実利主義に裏打ちされたものです。」と付加えた。タナスコヴィッチ助教授は、ここの『新オスマン主義』について、イスラム主義とトルコナショナリズム、さらにオスマン帝国主義とも言える「オスマン帝国時代を懐かしむ」外交戦略が融合したもの、と説明した。

ラリッチ氏は、「トルコ外交を特徴づけるものは、この実利主義と言えます。トルコ人は昔から優れた貿易商人として知られていますが、彼らはその才能をいつでも、どこでもいかんなく発揮しているのです。」と付加えた。

サラエボ在住のボリヴォイ・シミッチ氏は、最近寄稿したコラムの記事の中で、「国や人種、民族の違いに関わらず、利益のみに関心を示す民間資本は、未だボスニアには到来していない。これまでのところ、ボスニアはトルコを含む多くの国々が積極的に『政治的な関心』を示してきたのとは対照的に、投資対象としては、まだ十分安定した国とは見られていないのだ。」と述べている。

しかしバルカン半島におけるトルコの経済的プレゼンスを見れば、こうした状況にも今や変化が生まれていることが分かるだろう。トルコ経済省によると、トルコとバルカン諸国間の貿易額は2000年の29億ドルから2011年には184億ドルに拡大している。

同時に、トルコからバルカン諸国への直接投資額は、2002年の3000万ドル規模から2011年には1億8900万ドル規模まで拡大している。

トルコ政府関係者によると、「2011年にトルコが行った海外投資のうち、7%がバルカン諸国向け」で、投資分野は通信、銀行業、建設、鉱業、小売業など多岐に及んでいる。

また、文化面においても、バルカン諸国におけるトルコの存在感はこのところ急速に拡大してきている。

「トルコのメロドラマは、南アメリカの番組よりも人気を博するようになっています。」とタナスコヴィッチ助教授は、IPSの取材に対して述べている。

タナスコヴィッチ助教授は、バルカン諸国を席巻している多くのトルコテレビ番組に言及して、「トルコについて肯定的なイメージを作り上げているのは、まさに(いわゆるソフトパワーと言われる)この戦略なのです。」と語った。

今年2月から6月にかけて「スレイマン大帝」を描いた大河ドラマの最初の55話がバルカン地域で放映されると、数百万人の人々がテレビ画面にくぎ付けになった。

この大河ドラマはあまりにも人気を博したので、様々な社会学者らが、この社会現象の分析に乗り出したほどだった。

「トルコ的な東洋要素とは、この地域の数百万の人々にとって、共通の文化的アイデンティティーや、何百年にもわたって伝えられてきた言葉が持つ共通の要素を思い起こさせる、懐かしい雰囲気を象徴するものなのです。」とラリッチ氏は語った。

またトルコは、ボスニアに2つの大学―サラエボ国際大学(IUS)と国際ブルチ大学(IBU)―を設立している。後者は、トルコのイスラム聖職者イマーム・フェトフッラー・ギュレン師を含む個人有志の支援で設立された学校である。

またラリッチ氏は、「トルコの海岸リゾート地が次第に人気を博してきているのも、トルコとの関係が深まっている表われです。」と付加えた。

従来セルビア人の間で人気の休暇旅行先といえばモンテネグロギリシャであったが、今ではトルコの地中海沿岸リゾート地が3番目の人気旅行先になっており、今年前半期だけでも14万のセルビア人が空路訪れている。そしてこの先数か月に亘って現地を訪れるセルビア人観光客はさらに増加する見込みである。

「トルコは本当に楽しい所だわ。」とイヴァナ・ジュラスコヴィッチさん(40歳)は語った。彼女は今年トルコのリゾート地ボドルムを再訪する予定だ。

「sanduk (箱), kapija (門), hajde (さあ来なさい), taman (十分), carsav (リネン), secer (砂糖), kackavalj (チーズ) 或いは kralj (王)という『トルコ語』は、セルビア語とも共通しているので、(トルコで)こうした言葉を耳にすると、心が落ち着くのよ。」とジュラスコヴィッチさんは付加えた。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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|UAE|ドバイ首長、ラマダン月を迎えて554人の囚人に恩赦を与える

【ドバイWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)の副大統領でドバイ首長のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下は、ドバイ各地の刑務所から554人の囚人(内、93人がUAE国籍)を釈放するよう命じた。

この情け深い措置は、慈悲と赦しの月であるラマダン(今年は7月20日~)の到来に合わせて実施されたものである。

ドバイ首長国のイサム・イーサ・アル・フマイダン司法長官は、「恩赦は、ムハンマド首長が、釈放された囚人たちに、今一度社会生活に復帰する機会を与えることで、過去の過ちを正し、社会の高潔な一員として家族やコミュニティーに善意を尽くす新たな人生を歩んでもらいたいとの気持ちを反映したものです。」と語った。

 「この寛大な措置は、囚人たちにとって、まともな人生を再出発させるまたとない機会であり、まさに聖なるラマダン月を迎えて、彼らの家族にも幸せをもたらすものとなるでしょう。」とフマイダン長官は付加えた。

ドバイ検察庁は、既にムハンマド首長の布告を実施に移す準備に着手している。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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│フランス│緊縮財政で核軍縮は進むか?

【パリIPS=ジュリオ・ゴドイ】

変化する国際政治秩序と国内の劇的な予算情勢により、フランスは、1950年代末以来保持してきた極端に高価な核戦力の放棄を検討せざるを得なくなってきた。

フランスの政治家や識者の一部は、この火急の必要に対応することが意義あることであるかに見せかけるため、核不拡散条約(NPT)を強化し、世界の核戦力を削減する国際的取り組みに向けた一歩とこの動きを位置づけようとしている。

しかし、深刻な予算危機に直面したフランス政府が、ポール・キレ元国防相が言うように「そもそも発射することが想定されていない」コストのかかる兵器を維持することができなくなった、というのが実情である。

6月半ばにこの論争を意図せず起こしたのは、与党社会党のミシェル・ロカール元首相であった。ロカール氏は、パリの放送局BFMのインタビューにおいて、核兵器をあきらめれば「フランスは年間160億ユーロを節約し、まったく無用な兵器を放棄することができる」と語った。

 
ロカール氏は後にこの発言は「冗談だった」と述べ、核軍縮を論じることは「非常に重大なことなので、もしそれに疑問を呈そうとするならば、慎重にやらねばならないし、時間をかけて準備し、真剣な議論に耳を傾けねばならない」と語った。

冗談かどうかは別として、ロカール氏の発言は雪崩のような論争を引き起こした。そしてまだ明確な結論はでていない。

他方、社会党のフランソワ・オランド大統領は、予見しうる将来において政権が核兵器を放棄するつもりはないとしている。

オランド大統領の立場は、核兵器を保有することで、たとえ見せかけのものとはいえ、フランスに比類なき政治的地位が与えられ、他の4つの国連安保理常任理事国である英国、中国、ロシア、米国と対等になれるという古い議論を下敷きとしている。

核兵器を持たないフランスは、その現実的な地政学的役割に戻ることになるだろう。つまりは、平凡な経済と動乱の国内情勢に打ちひしがれた中堅国家に回帰するということだ。

国際戦略研究所(パリ)のパスカル・ボニファス代表は、「冷戦の終了と、現在起きている国際情勢の地殻変動に直面して、(フランスは)自らの世界政治戦略と国家安全保障政策における核兵器の役割を再考せざるを得なくなっているのです。」とIPSの取材に対して語った。

しかし、ボニファス氏は、「もしフランスが核兵器を放棄するのならば、その国際的な大国としての信頼性は失われ、戦略面においてフランスの地位は格下げになるだろう。」と警告している。
 
「(1950年代末に)シャルル・ドゴール大統領(当時)が核武装を決定したとき、その目的は、米国やソビエト連邦と並ぶ世界大国としてのフランスの地位を保つことにあったのです。」とボニファス氏は指摘した。

つまり、ドゴール氏のフランスにとって、核兵器とは軍事的必要から保有されたものというより、地政学的な象徴であったことになる。ドゴール大統領は、目に付かない形で、冷戦真っ盛りの1961年12月に出された公式声明でこのように認めている。

「これから10年後には、我々は8000万のロシア市民を殺害しなくてはならないかもしれない。ソ連がたとえ8億のフランス人を殺すことができるとしても、8000万人のロシア人を殺害する能力を備えた国を攻撃しようとは思わないだろう。」

フランスが直面している経済的苦境

それから50年後、冷戦の記憶が悪夢の領域に消え去って行く中、8000万のロシア市民を殺さなくてはならない可能性は、以前にもまして考えづらくなっている。フランスにとっての新たな国家的悪夢とは、公的な債務危機であり、国際的に見た経済パフォーマンスの悪化という事態である。

6月中旬に発足したオランド政権は、すでに予測されている国民総生産(GNP)4.4%分の赤字に加えて、予測されていなかった100億ユーロにものぼる予算不足に直面している。

フランス会計検査院は、7月2日に発表した報告書の中で、オランド政権の前のニコラ・サルコジ政権が予測した4.4%という高水準の赤字を解消するために、増税し支出を削減しなくてはならないと警告している。

欧州委員会の数値によると、フランスは、2013年の赤字を3%に抑えるためには、増税あるいは歳出削減で240億ユーロを捻出しなくてはならない。

さらに追い打ちをかけるように、自動車メーカー「プジョー」のような大企業が、大量のレイオフ(一時解雇)と海外への大規模工場移転の意向を明らかにしている。

オランド大統領は、現在の経済不況に耐えるために国家財政を救いフランス産業を支援すると同時に、より競争的な将来に向けて準備を進めるという、途方もない政治的課題に直面している。

多くの識者や政治家によれば、不必要な支出、とりわけ純粋に象徴的な地位しか持たない核戦力を減らし、それをより合理的な使途に振り向ける誘因がかつてなく大きくなっているという。

国会国防委員会の元委員長であるキレ氏は、IPSの取材に対して「核兵器は高価な愚策です。」と指摘した。またキレ氏は、核兵器がフランスにとっての「生命保険」であるという従来からの議論を真っ向から否定し、「(生命保険)というよりもむしろ死亡保険と言った方が相応しい。」と語った。

キレ氏は、今後数年のうちには核兵器関連予算が増加するのは間違いないという。それは、核兵器体系を更新し、潜水艦のような高価な関連装備を調達する必要があるからである。

1986年から92年まで首相官邸で軍事顧問務めたベルナール・ノーラン退役将軍もまた、核軍縮を呼びかけている一人である。
 
「核兵器が必要だという議論は冷戦期には説得力があったかもしれないが、世界の戦略環境は1990年以来大きく変化しました。1980年代と同じような議論をしていても仕方がないのです。」とノーラン氏は語った。

核兵器なき世界を提唱している国際的プロジェクト「グローバル・ゼロ」の一員であるノーラン氏は、不必要な資産を維持する圧力にオランド大統領が屈しているように見えることに遺憾の意を示した。

「この件に関するオランド氏の発言は、きわめて同調主義的なものです。」とノーラン氏は指摘した。

しかし、匿名で答えたその他の軍事専門家らは、フランスのいかなる元首も、核兵器国としてのフランスの地位を自発的に消し去ってしまった人物として歴史に名を残したくないと考えるだろう、と述べている。(原文へ

IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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|UAE|ホルムズ海峡を迂回するハブシャン-フジャイラ石油パイプラインが開通

【フジャイラWAM】

モハメド・ビン・ダーン・アル・ハムリ石油相は15日、「ハブシャン-フジャイラ石油パイプライ」の開通式に出席した。これは、UAEの首都アブダビのハブシャン油田とオマーン湾に面する同国東部フジャイラ港の約370キロを結ぶ陸上パイプラインである。

「本日は、パキスタンの製油所向けの50万バレルの原油が、アブダビとフジャイラを結ぶ新たなパイプラインを通じて運ばれた。」とパイプラインプロジェクトを運営している国際石油投資社(International Petroleum Investment Company, IPIC)のカデム・アルクバイシ常務は語った。

 ハブシャン-フジャイラ石油パイプラインは、最大で日量180万バレルの原油を輸送可能な(UAEの原油生産量は日量約250万バレル)ほか、原油積み出し港のフジャイラには、100万バレルを保管できるタンク8か所、多目的輸送ターミナル9か所、沖合原油積込み設備3か所が備えられている。

アルクバイシ常務は、「アブダビ首長国は、このパイプラインが完成したことによって、原油輸出に要する時間、手間、費用を大幅に圧縮できるとともに、(世界の海上輸送原油の4割が通過する)ホルムズ海峡を迂回して直接オマーン湾に原油を輸送することが可能となった。ハブシャン-フジャイラ石油パイプラインプロジェクトは、この種のプロジェクトとしては、アブダビ首長国がこれまで手掛けた事業の中で最も重要なものだ。」と指摘した。

フジャイラ首長府のサイード・アル・ダンハニ長官は、「フジャイラをUAE産原油の輸出港とする新たなパイプラインの開通は、観光ブームに沸くUAEの経済開発を一層促進させるものになるだろう。(イランによるホルムズ海峡封鎖の脅しに直面して)国際社会が安定した原油入手ルートの確保に熱い視線を送る中、原油輸出港としてのフジャイラの戦略的な価値は、中東地域のみならず国際的にも極めて重要なものになっている。」と語った。

翻訳=IPS Japan戸田千鶴