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「テロとの戦い」に懐疑的なアジア

【シンガポールIDN=カリンガ・セネヴィラトネ】

ワールド・トレード・センターや国防総省(ペンタゴン)が攻撃され、米国が「テロとの戦い」を始めてから10年、数多くの社説や論評が書かれてきた。大半の米国メディアは、とくにオサマ・ビンラディンが殺害されて以降、「テロとの戦い」に勝利しつつあるとのペンタゴンのメッセージを代弁しているが、アジアの新聞はこうした議論に乗っていないようである。

バングラデシュの『デイリー・スター』紙は、「米国は、対アフガニスタン戦争、続いてイラク戦争における一連の行動を通じて、露骨な単独行動主義の時代が到来したことを世界に印象付けた。こうした事態の中、国連は、世界唯一の超大国である米国の政治目標を単に是認する機関として利用された。そしてこの傾向は、残念ながら今回のリビア内戦への多国籍軍介入に際しても見られた。成功という言葉で、米国本土に大きな攻撃がないことを意味しているとするならば、たしかにそれは成功と言えるだろう。しかし、米国が明らかに安全になったからと言って、それは世界の安全を意味するわけではない。この10年間、テロを抑えるのではなく、むしろ、かつてなかったところにイスラム過激主義の勃興を招いてしまった。」と報じている。

War on Terror Photo:IDN

 同紙はまた、「従来より小規模な宗教グループが『反米』感情からアルカイダとの提携関係を深めつつある。こうした過激派は少数であるが、イスラム世界の大半はこの点について沈黙を守っている。」

タイの『バンコク・ポスト』紙は、もし世界がより安全な場所になったかどうかを「テロとの戦い」の成功の基準に据えるならば、米国の政策は逆効果だと論じている。通信と諜報が発達して、いくつかの攻撃計画を事前に阻止したかもしれないが、米国はアフガニスタンでの戦争を勝ち抜くことができなかった。

事実同紙は、ブッシュ大統領が2001年段階でビンラディン容疑者の第三国への身柄引き渡しを提案したタリバン政権との交渉を拒否した(その結果、ビンラディン容疑者は国外に逃れてしまった)点を挙げ、オバマ政権も(再びタリバンとの交渉を拒否することで)同じ過ちを犯そうとしているように思えるとして、「アフガニスタンにおける戦争を終わらせる唯一の方法は、タリバンとの交渉以外にないようだ。」と報じた。

また、「イラクやアフガニスタンで戦争が行われる中での民衆蜂起、市民の権利の停止、数万人にのぼる夥しい市民の死は、「常の戦争はあくまで最後の手段であり、その他の政策を追求するための手段として使われるべきではない」いう教訓を明らかにした。」と論じている。

ネパーリ・タイムス』紙のコラムニストであるアヌラク・アチャルヤは、「米国がより安全になったとは言えない。なぜなら、米国はテロリズムの背景にある原因を理解しようとしてこなかったからだ。」と論じた。米国はテロとの戦いを世界規模で先導したことで、経済破綻と今日の政治的麻痺状態を招くこととなった。

「米国が世界のどこにでも軍を配置し、その行動が招く結果を気にしなくて良かった時代は昔のことである。もし米国が相手を服従させる手段として暴力を長らく独占してきたとしたら、それに終止符を打ったのが非国家勢力の興隆ということになるだろう。もし大国がグローバリゼーションを悪用して遠く離れた地の人々の生活を侵害するようなことをしてきたとすれば、それに反発する勢力は、世界中で反撃する同様の能力を開発してきたといえよう。たとえ米国製巡航ミサイルがきちんと制御されたものであったとしても、外交方針そのものが誤ったものだったとしたら、意味がないのである。」とアチャルヤ氏は述べている。

強硬な態度よりも妥協を

リナ・ヒメゼズ-デイビッドは、『フィリピン・デイリー・インクワイアラー』紙で、9・11の結果として、代理戦争がフィリピンのような国に輸出されてしまったと嘆いている。「このような状況下では、平和を口にしたり、他の状況を構想することが難しくなってしまう。しかし、まさに9・11を心に刻むことによって、今とは違った生のあり方、つまり、紛争よりも協力、スタンドプレーより相互理解、強硬な態度よりも妥協を作り出す必要性に私たちは思いを致すようになるのだ。」

中国社会科学院アメリカ研究所の劉偉東研究員は、『チャイナデイリー』紙に寄稿した論文の中で、「2001年10月7日に(アフガニスタンに対する戦争と共に)はじまったテロとの戦いは、第一次世界大戦(191年7月28日~18年11月11日)と第二次世界大戦(1939年9月1日~45年9月2日)の合計よりも長く続いている。」と述べている。

「米国はテロリストに対して優位に立ったように見えるかもしれないが、実際は膠着状態にあるのが現状である。なぜなら新たなテロ指導者が次から次へと現れており、彼らは最新のコミュニケーション手段を駆使して、欧米諸国に『トロイの木馬』を醸成すべく『電脳戦争』を仕掛けている。」劉氏は、ビンラディン容疑者は10年前にメディアに対して、9・11同時多発テロが米国の経済成長を破壊することを望むと語った点を指摘した。

「オバマ大統領は今年、米国政府は過去10年の『テロとの戦い』に1兆ドルを費やしたと語った。一方、ブラウン大学が発表した研究報告書によると実際の戦費は3.7兆~4.4兆ドルにのぼると見られている。」

敗者と勝利者

シンガポール国立大学リー・クァンユー公共政策大学院のキショール・マブバニ院長は、シンガポールの『ザ・ストレーツ・タイムス』紙に寄稿した論文の中で、9・11同時多発事件から10年後の影響について、3つの短い表現(①米国は無駄な10年を送った、②中国は実のある10年を送った。③世界は人類を一つにする貴重な機会を逃した。)に集約できると記している。

「過去十年は中国にとって最高の十年だっただろう。中国はこの10年間、毎年ほぼ10%の経済成長を果たし、諸外国との貿易関係を飛躍的に伸ばした。そして2008年には外貨準備高が世界一となった。」「中国は、果たして米国の破滅的な外交政策から恩恵を受けただろうか?その答えは単純にイエスだ。米国が戦争に忙殺され国防費を膨張させていった一方で、中国は自由貿易協定の締結に忙殺された10年だった。その結果、中国は世界中の国々との善隣関係を築くことに成功したのである。そして2006年、中国が中国-アフリカサミットを招集した際、事実上全てのアフリカ諸国の指導者が出席したのである。」とマブバニ院長は指摘した。

ある米国人から中国の従弟への便り

シャンハイ・デイリー』紙は、「ある米国人から、中国に住む彼の従弟への手紙」という形式で掲載したやや皮肉を込めた記事の中で、米国がこの10年間にいかにしてそれまで大切にしてきた価値観を失ったかを指摘している。

「今日米国に生きるということは、新しい規範を受入れるということだと、残念ながら言わねばなりません。まず何よりも、自由の権利が急速に後退しまいました。この国で苦役する不法移民を大量に強制送還することが新しい規範になってしまいました。その結果、夫や妻や子供が取り残され生活が壊されることなど当局は気にも留めません。ビザを取得している移民でさえ、不公平な扱いに直面しています。有罪となれば、それが些細な罪であったとしても、強制送還の対象とされてしまうのです。」と手紙は綴っている。

さらにこの手紙では、ある典型的な強制送還の事例が紹介されている。つまり、道で立ち小便をした建設労働者が、猥褻物陳列の罪でカンボジアに送還されてしまったというケースである。しかしこの移民は、小さいときに出てきた故郷のことをまったく知らない。それどころか、妻と子どもを米国に残したまま追放されてしまったのである。

「権利の後退は移民に限ったことではなく、全ての市民に及んでいる。」と手紙は指摘している。「権利の後退はゆっくりではあるが、核心部分において確実に起こっている。それが最も明確に表れているのが全米各地の空港である。そこでは何気ない会話であっても、批判じみた言動が、国外退去処分を受ける理由となりかねないのです。このような新しい米国では、だれもが自身の言動を控え、近所の人々の言動をチェックするようになってしまいました。もし米国がかつて自由と民主主義のためにあったというのであれば、今日の米国はいったい何のためにあるのか、私にはわからないのです。」と手紙の主は、中国の従弟に記している。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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|イエメン|「ノルウェーのノーベル賞委員会は異例の判断をした」とUAE紙

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【アブダビWAM】

「中東全域を席巻した『アラブの春』運動は民主主義と人権の尊重を求める一般の男女によって支えられてきたものだが、こうした努力が、タワックル・カルマン女史のノーベル平和賞受賞によって力強い支持を得ることとなった。」とアラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙が報じた。

人権活動家でジャーナリストのカルマン女史は、アラブ世界で初のノーベル平和賞女性受賞者となった。

 「ノーベル賞委員会は、3名の女性を今年のノーベル平和賞受賞者と選定した。1人目は初のアフリカ大陸での民主的選挙で大統領になったエレン・ジョンソン・サーリーフ(Ellen Johnson Sirleaf)女史で、14年に渡る市民戦争で荒廃した国土を再建してきた業績が評価された。2人目は平和活動家のリーマ・ゴボォエ(Leymah Gbowee)女史で、2003年の内戦を終焉させ民族的・宗教的な差別を超えて女性を組織し平和的選挙を保障する運動へと動かす源流となった点が評価された。サーリーフ女史は2期目の大統領選挙を4日後に控えており、今回のノーベル平和賞受賞は歓迎すべき追い風となった。」とガルフ・ニュースは論説の中で報じた。

同紙は、「3人の母親でもあるカルマン女史の、人権の復活及び抗議する自由を含む表現の自由を追求する活動は、次の4つの重要な要素(すなわち、①アラブの春への貢献、②イエメンにとどまらずアラブ世界全体における女性の役割と地位向上に向けた取り組み、③シリア及び他のアラブ世界各地で民主主義を求めて戦っている民衆に対する道義的貢献、④自らの未来は自ら切り開ける時代が到来したと自覚したアラブの若い世代にとっての指針となる存在となったこと。)を全て満たすものであった。」と報じた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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タイ米の高騰で世界市場はどうなる

【バンコクIPS=マルワーン・マカン-マルカール】

タイの新政権が米の価格支持政策を打ち出し、農民はこれを大いに歓迎しているが、米価格上昇により世界市場での競争力が失われるのではないかとの懸念が出てきている。

タイは毎年1000万トン近くの米を輸出しており、世界の米輸出の3割程度を占める。アフリカではナイジェリアコートジボワール、南アフリカが主要な輸入国であり、アジアではフィリピン(世界最大の米輸入国)やインドネシアなど。先進国では欧米諸国もタイ米の安定した輸出先市場となっている。

8月に誕生したインラック・シナワトラ政権は、7月の総選挙において、貧しい農民から米を買い上げることを公約としていた。そして、現在の市場価格の5割増で米を買い上げる政策が発表されたのである。玄米なら1トン当たり1万5000バーツ(517ドル)、ジャスミン米なら1トン当たり2万バーツ(689ドル)で買い取る。この10年に国際市場で取引されたタイ米の平均値は1トン当たり400ドルであることから、これらの価格はよりかなり高騰したものとなる。

 タイ農業省によると、これまでに農民400万人がこの制度に登録を済ませたという。肥料や農薬、石油価格の上昇に苦しむ農民のこの政策への支持は高い。

これまで、タイ米は国際市場で400ドル/トンほどで取り引きされており、かなりの値上げとなる。タイ米輸出業者協会(TREA)によると、このままでは国際価格は800ドルにも達する可能性があるという。9月半ばの段階ですでに2009年1月以来の最高値となる629ドルであった。

TREAは、これによってタイ米の国際競争力が失われることを危惧している。元タイ米輸出業者協会のヴィチャイ・スリプラサート会長は、先週の記者会見に際して、「政府は一夜にして米価を5%引き上げました。これにより国際市場におけるタイ米の競争力は失われるでしょう。」「政府が数十億バーツを継ぎこんでコメ市場に介入しようとするのは極めておかしない状況です。」と語った。

近隣のベトナムは年間670万トンを輸出している。他方、インドは、4年間にわたる非バスマティ米の禁輸措置を解き、国際市場に復帰する予定だ。すでにインドの業者は200万トンの輸出許可を得ている。

タイの米価格政策と国際市場への影響について考察する。(原文へ

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩

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海部俊樹元総理大臣(INPS Japan会長)の叙勲を祝う会を収録

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【東京IDN/INPS=浅霧勝浩】
 
海部俊樹元内閣総理大臣(INPS Japan会長)の「桐花大綬章」授与を祝う会が10月5日(水)東京都内のホテルオークラで開催され、会場には、海部俊樹を良く知る各党の国会議員、友人、支持者など、約700人が駆けつけた。INPS Japanからは浅霧理事長が参加し、撮影・編集を担当した。

INPS Japan


│スペイン│まるで犯罪者のように扱われる移民

【マラガ(スペイン)IPS=イネス・ベニテス】

「本当につらかった。まるで刑務所みたいだった」とたどたどしいスペイン語で話すのは、アルジェリアからやって来たSid Hamed Bouzianeさん(29歳)だ。彼は、スペイン南部アンダルシア州のマラガにある移民収容所に28日間収容されていた。

マラガ移民収容所は、市内のカプチノス地区にあるかつての兵舎を利用して1990年に設置された施設で、スペイン全土で9つある移民収容所のひとつである。スペインの移民法によると、内務省管轄の移民収容所は、裁判所の命令で強制送還手続きを待つ外国人を収容する非矯正施設である。

しかし社会組織や専門家の間から、こうした移民収容所で人権が侵害されているとする報告が繰り返し提出されている。

「マラガの移民と連帯する会」のルイス・ペルニア代表は、「これらの移民収容所は、欧州連合による偽善的な移民政策を正当化する目的のみのために存在するもので、実態は刑務所同然です。そこには民主主義も、法も、人間性もないのですから。」と語った。

 2009年12月、「スペイン難民支援委員会(CEAR’s)」が、マラガ、バレンシア、マドリッドの移民収容所における収容者の生活環境や法的保護に関する調査を行った『スペインの移民収容所の状況』という報告書を出し、移民らが収容所内で虐待を受けている実態を明らかにした。

ARE’sのサルバ・ラクルツ氏(ロビー活動担当)は、「外国に移住したからという理由で収監するということ自体、受け入れられるものではありません。」と、10月21日から23日にかけて開催された「第一回移民収容所に反対する会全国大会」に参加しているバレンシアからIPSの取材に応じて語った。同全国大会には、スペイン全土から約30団体が参画し、移民収容所閉鎖を目的とする全国規模キャンペーンのあり方を話し合った。

「移民収容所は、アフリカ大陸北岸から欧州に小舟で危険な航海に出るなど、移民を厳しい環境に追いやっている国境警備体制とともに移民を取り巻く悪循環を形成しており、いわば『法規範の中にあるブラックホール』といえる存在なのです。」とラクルツ氏は語った・

Bouzianeさんは、アルジェリアで死の脅迫を受け、2008年に小さな小舟に乗ってスペインに渡ってきた。しかし、自らが難民であることを証明するような文書を何も持っていなかったため難民申請をあきらめ、非正規のまま滞在してきた。それが今年7月になって逮捕され、移民収容所に送られたのである。

しかし彼の国外退去命令は、「5月15日運動」からの11日間にわたる抗議デモを受けて撤回された。

Bouzianeさんの弁護を引き受けた弁護士のホセ・コシン氏はIPSの取材に応じ、「人権高等弁務官事務所人種差別撤廃委員会は今年の3月、スペイン政府に対して、特定の人種・民族を標的にしたプロファイリングに基づいて身元チェックをする慣習を止めるよう勧告しました。しかしスペイン当局は、未だに「人種差別主義」に基づく移民の一斉検挙を行っているのです。」と語った。

一斉検挙の際、身分証明書を所持していない外国人は、そのこと自体が運転時に免許証を所持するのを忘れた程度の軽微な違反にも関わらず、最大60日間にもわたって拘留されている。移民収容所は矯正施設ではない。つまり身分証明書を保持していない移民達が収監されるは、彼らが法を犯したからではなく、強制送還されうると警戒させるための予防措置なのである。

「しかし移民収容所は刑務所と異なり、収監者の人権と自由を保障する特定の規定は設けられていないのです。」とNGO団体「アンダルシア・アコーゲ」のホセ・ルイス・ロドリゲス・カンデラ氏は、IPSの取材に応じて語った。

「法律の規定が及びづらいという点では、刑務所より移民収容所の方が深刻です。」とロドリゲス・カンデラ氏は語った。カンデラ氏は、移民収容所の機能と収監者の法的権利を規定するために包括的な法律を制定しなければならないと確信している。

CEARの報告書によると、収容者には移民法の規定により必ず弁護士が割り当てられねばならないが、58%の収容者が、自分の弁護士を知らないか、弁護士がまったく付いていなかった。

収容された移民たちはバラックや古い建物に、住むための最低限の便宜も与えられないまま監禁されている。マラガの移民収容所は、元々は兵舎だった建物である。またスペイン南端のアルへシラスにある移民収容所は、老朽化が進んだ刑務所同様の施設である。

移民収容所の場合、治安対策から収容者のヘルスケアや食事まで全ての面について、出資母体でもある警察が管理している。一方、刑務所の場合、看守は治安対策のみを担当している。

現在の移民法のもとでは、一時的にパスポートを預けるか週に一回は裁判所に出頭することで、移民収容所への収容を免れることは可能である。

内務省発行の不法移民取締りに関する統計によると、2010年に国外退去になった移民は3万163人で、前年の3万8129人よりは21%減少している。

「建物は老朽化が進んで湿気を帯びており、とても人間を収容するに相応しい場所ではありません。これでは刑務所の方がましです。」とマラガ移民収容所で働いている医師は匿名を条件に語った。この移民収容所はいわくつきの施設で、既に修理のため2度も閉鎖している。

「臨月の妊婦や精神病を患った人々が収容されたケースもありました。」とペルニア代表は語った。また「マラガの移民と連帯する会」によると、通訳やソーシャルワーカーの不足という問題もあるという。

CEARボランティアのハビエル・トレグロッサ氏は、移民収容所制度の効果について疑問を抱いている。トレグロッサ氏は、「調査によると、収容所に入れられていた移民のうち、実際に国外退去になったのはわずか30%に満たない人々です。つまり、身分証明書を所持していないというだけで移民を片端から収監する現在のやり方は経費の無駄だということです。」と語った。
 
また国外退去命令数と実際の執行数には違いがあり、その理由として、執行するための政府の予算不足、移民の国籍を特定することの困難さ、そして、スペインが移民の引き渡し条約を締結していない国籍の移民を収監した場合等が指摘されている。

「スペイン当局は、国外退去させられなかった移民を収容所から釈放した後も、釈放者に退去命令をかけつづけることで、合法的に国内に滞在することを阻み続けているのです。」とロドリゲス・カンデアラ氏は語った。

アンダルシアのオンブズマンであるホセ・キャミソ氏は2006年に「収監されている移民たちが犯罪者のように扱われており、移民収容所が刑務所のようになっている。」として移民収容所の閉鎖を要求した。

「移民収容所は、私たちが作り上げ無理やり稼働させた、無軌道な代物、つまりモンスターなのです。」とペルニア代表は結論付けた。

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

|軍縮|「核兵器をターゲットに」

【シドニーIDN=ニーナ・バンダリ

1953年のある運命的な日、朝7時のことだった。10才のヤミ・レスター氏と数人のアボリジニーの子どもたちは、玩具のトラックで遊んでいたが、突然、小さな爆発音の挟まる巨大な爆発音を聞いた。同時に、彼らの小さな足で踏みしめている地面も揺れた。

 「明るく光った黒い雲が南の空からやってくるのが見えました。雲は、70マイルも広がっている森を抜けてきていました。熱さで焼けるような感覚を覚え、私たちは目を閉じました。その後数日間で、ワラティナのヤンクニトジャトジャラの50人が、発疹、目の炎症、嘔吐、下痢、せきなどに苦しみ始めました。牧場で治療してくれる人などいません。一番近い病院は数百マイル離れていて、そこへの交通手段はありませんでした。」とヤミ・レスター氏は語る。オーストラリア初の核実験場である南部のエミュ・ジャンクションから160kmのところに彼は住んでいた。
 
レスター氏は3週間後ようやく目を開けることができたが、右眼はまったく見えなくなっていた。左眼の見え方は70%ぐらいだった。1957年2月、彼は完全に失明した。昨年心臓発作を起こし、今は車椅子生活になっている。

レスター氏はいま、反核運動家として、オーストラリア赤十字の始めた「核兵器をターゲットに」キャンペーンに力を注いでいる。「英豪両政府が半世紀も前にまずはエミュ・ジャンクションで、次いでマラリンガで核実験を行ったとき、私たちは、それが人間と自然に与える長期的な影響について認識していませんでした。このキャンペーンは、先住民族を教育し、核兵器の与えうる損害といますぐ核兵器をなくさねばならない理由について人びとに気づかせるものなのです。」

今年8月6日にフェイスブック上の模擬投票で始まった「核兵器をターゲットに」キャンペーンは、人道上も環境上も核軍縮が必須であることに焦点を当てている。すべてのオーストラリア人、とくに若い人に対して、親の世代が始めてしまったことを終わらせるよう呼びかけている。

「反核論議が1960年代から70年代の世代を画していたが、真の変化が起こる前に消えてなくなってしまいました。2011年、核兵器の脅威は以前にもまして大きくなっています。今こそ、ベビーブームの世代が反核問題に関心を向け、新しい世代全体が関与すべきときです。」とオーストラリア赤十字のロバート・ティックナー代表は語った。

ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)は6月に発表した報告書の中で「5000発以上の核兵器が配備され、使用可能な状態にある。うち、約2000発が高度な警戒態勢下に置かれている」と述べている。現在、世界全体で2万発の核兵器があるが、その破壊力は広島に投下された原爆の15万倍にも達する。

ティックナー氏は、「私たちがいま目にしているのは、新しい国への核拡散であり、非国家主体が核兵器を取得するリスクであり、偶発的に核兵器が発射されて紛争につながる可能性です。私たちのキャンペーンは、オーストラリア国内で人々にこういう問題への関心を持ってもらうことにあります。私たちは、国際人道法の下で核兵器の使用が禁止される何らかの形の国際条約が結ばれることを望んでいるのです。」と語った。

赤十字は、民間人と戦闘員を区別しない兵器の使用や戦争の手段を禁じている国際人道法の下で負っているその役割ゆえに、核兵器使用禁止の訴えの先導者となっている。オーストラリアは他の194ヶ国とともに、戦争の普遍的規則であるジュネーブ諸条約とその追加議定書を批准している。

ヘレン・ダラム博士は、オーストラリア赤十字の国際法・原則部門の責任者として、「法的な観点から言えば、民間人と戦闘員を区別せず、人間だけではなく環境とインフラ全体に許容できないレベルの被害をもたらす兵器を使用する能力を人類として世界中で持っていることには、まったく意味がありません。従って、核軍縮に向かってより焦点を絞って世界が努力していく法的必然性があります。」と語った。

コフィ・アナン前国連事務総長は、国際社会を「パイロットが眠っているのに高速移動する飛行機」になぞらえて、核軍縮と核不拡散に統合的に対処する世界戦略がないことが、核兵器が依然として人類を脅かし続けている主な理由だと批判した。

オーストラリアは興味深い位置にいる。国家として核兵器を保有してはいないが、米国との防衛関係における取り決めがある。また、オーストラリアには世界の商業的に利用可能なウランの半分が埋蔵されており、オーストラリア農業・資源経済局は同国のウラン輸出は今後5年間で1万7000トン強に達すると予測している。

シドニー大学法学部ポスドク研究員のエミリー・クロフォード博士は、「オーストラリアは、輸出されたウランが、発電や医療用など平和目的のみに使われるようにする措置を導入すべきです。」と語った。

オーストラリア赤十字は、全国会議員に対して、核兵器の使用を禁止する条約を支持するよう求める書簡を送った。「支持を得る自信がありますし、楽観しています。これは私たちの役割の範囲内にある基本的な国際人道問題であると考えています。それゆえに、私たちはこのキャンペーンを公的に開始し、国会議員、政府、一般市民からの支持を得ようとしているのです。」とティックナー氏は語った。

核問題に関する議論を国内外で喚起することを目的としたこのキャンペーンでは、オンライン投票参加者の96%が核兵器使用の禁止を支持した。ソーシャル・メディアを使うことで、広く社会に、とくに若い世代に対してメッセージを伝えるのに有効であることもわかってきた。
 
国際人道法の専門家であるピーター・ギウニ氏は、ニューサウスウェールズ州でキャンペーンのイベントやセミナーを開いている。「人々は、国際社会が核兵器を禁止する決意をまだ固めていないと知って残念に思っていますが、同時に、オーストラリア赤十字が声を上げることを支持してくれています。」とギウニ氏は語った。

キャンペーンは、来年に向けたイベントとフォーラムを11月に開くことでひとつのクライマックスを迎える。「世界中の政府は、どこであろうとも、市民がこの問題に関心を持っていることを理解しなくてはいけません。立ち上がって、核兵器を受け入れることはできないと声に出すことが大事なのです。オーストラリア赤十字は、世界中の赤十字社、赤新月社が集まって核兵器に関する方針を決める11月のジュネーブでの国際会合に向けて議論をリードしていきます。」とダラム博士は語った。

1950年、国際赤十字委員会は、核兵器禁止の合意に向けたあらゆる措置をとるよう、各国に呼びかけた。核兵器使用違法化への取り組みはさまざまにあったが、66年経っても、目に見える変化は起こっていない。

「オーストラリア赤十字の活動は歓迎すべきものです。核兵器の廃絶が、人道上の理由から必要とされている目標であるという議論をより強化することができるでしょう。これは政治の問題ではなく、人間の福祉と生存の問題なのです。」と、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)オーストラリア支部理事のスー・ウェアハム博士は、語った。(原文へ

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女性と女子の力を解放する

【ワシントンIPS=カンヤ・ダルメイダ】

ケニアのエヌーサエン村に生まれたカケンヤ・ヌタイヤは、もし母親が、地元の学校に娘をやると強く主張してくれなかったら、5才で婚約し、13才までに結婚することになっていただろう。

カケンヤは成長すると、父親に「もし高校卒業まで就学を許してくれたら、割礼を受ける」と説き伏せ進学の許可を得た。さらに村の長老たちと交渉して、大学入学のために米国に渡ることを認めさせた。

「私は米国の大学に入って初めて、性器の切除が違法であること、私には権利があること、そして私たちの生まれながらの権利を守る用意のある人々がいることを知ったのです。」とカケンヤは9月12日にワシントンDCで開催された会議で、人権活動家たちを前に語った。

 その後博士課程で学んでいたヌタイヤは、故郷の恵まれないマサイ族の少女達のために、小学校「カケンヤ・センター・フォー・エクセレンス」を設立した。ささやかなスタートだったが、2010年までには100人近い生徒が通う規模へと成長した。

カケンヤは、「来月には世界の人口が70億人を超える」事実について広く啓蒙することを目的に開催された会議(場所:ナショナル・ジオグラフィック本社)に参加した、青年リーダーや人権活動家の一人である。

「世界人口が70億人を超えた今こそ、コフィ・アナン前国連事務総長が『パスポートなどいらない』と訴えた諸問題について話し合う良い機会です。また、こうした国境のない諸問題の中でも、最も差し迫った問題は、貧困を和らげ、ミレニアム開発目標(MDGs)に代表される世界の開発問題の解決に向けた取り組みを前進させるために、女性や女子の力をいかに解放するかということです。」と国連財団のピーター・ヨウ副理事長は語った。

1804年、世界の人口は10億人であったが、123年後(=1927年)、人口は20億人へと倍増した。もし現在のペースが続けば、地球上に毎年新たに7800万人(カナダ、オーストラリア、ギリシャ、ポルトガルの総人口の合計相当)が増えていくこととなる。

言い換えれば、一秒に5人が誕生しており、読者がこの記事を読み終わる頃には世界の人口は167人増加している計算になる。

国連人口基金(UNFPA)によれば、人口増加の大半(100人中97人)はとりわけ女性や女子に対する人権感覚が乏しい途上国で起こっている。

「70億人突破は行動を起こすべきとの警告です。この歴史的転換点に行動を起こすことで、私たちは女性や女子の人生を大きく改善し、現在や将来の世代のために人間開発を推進することができるのです。」と、ババトゥンデ・オショティメインUNFPA事務局長はIPSの取材に応じて語った。

しかし世界の動向は、オショティメイン氏の予測ほど明るいものではない。

UNFPA自身の統計を見ても、世界の非識字者7億7600万人のうち3分の2が女性であり、1億100万人の小学校就学年齢の子ども達がまともな教育を受けていない。さらに性別選択による中絶や育児放棄のために、世界で1億3400万人の女児/胎児が「いなくなって(Missing)」いる。さらに35万人を超える女性(その99%が途上国の女性)が、90秒に1人の割合で出産時の事態が原因で死亡している。

加えて、ナショナル・ジオグラフィックによれば、現代の産業生産体制が人々の定住パターンを大きく変え、何万もの農家が田舎のコミュニティーを捨てて都市部へ移住し、メガシティー(人口1000万人を超える大都市)を形成していった。同社の見積もりによると、1975年時点で世界に3つ存在したメガシティーは2010年には21都市へと急速に拡大した。そして2050年までには世界人口の70%が都市住民になるとみられている。

国連人間居住計画(UN Habitat)によると、こうした都市部人口の内、スラム人口が昨年初めて10億人を突破した。そしてインド、ブラジル、中国といった「新興市場」国に最大級の巨大スラムが点在している。

都市住民の大半が女性で、70%の女性が一生のうちでジェンダーに基づく暴力(主に都市部において)を経験している現状を鑑みれば、人類文明の開発の流れは世界の女性にとって良い兆しとは決して言えない。このような厳しく暗い現実にも関わらず、専門家や活動家は、人口が70億を超えるこの機会を活用して国際社会に根本的な転換を促す絶好の機会だと確信している。

「人口そのものが問題なのではありません。問題は、地域と人間が分断されてしまっている状況なのです。スペースがないのではなく、平等がないことが問題なのです。9億人の若い女性たちが教育や保健衛生へのアクセスもなく生活しています。そしてあまりにも早い時期に出産し、市民として活発に政治に参画する権利や国際社会においてリーダーシップを発揮できるかもしれないという知識から隔絶された状況に置かれているのです。」とオショティメイン事務局長は語った。

「国連ユース・チャンピオン」を務めている俳優のモニーク・コールマンは、ジェンダー平等を推進するために世界中を飛び回っている。そんな彼女が、ユニセフの公衆衛生推進の仕事でケニアを訪問したときのことを語ってくれた。

「私はある部屋に連れて行かれました。そこには、衛生のための機器があると思っていたのです。ところが、私が見たのは、女性が部屋の隅っこに座って縫い物をしている姿でした。この女性が私たちのプロジェクトとどう関係あるのかわかりませんでした。でもあとで、彼女が、再利用可能な布ナプキンを縫っていることを知ったのです。」

「その時私は、外部の人間として、何がその地域の人たちのために必要なのか何もわかっていなかったことを思い知らされました。地元の人びと、とくに女性こそが、問題解決に向けた知恵も技術も経験も持っているのです。こういう女性たちの力をつけていけば、人口70億人という課題に立ち向かっていくことができると思っています。」(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

|イラク|女性の人身取引が増加

【バグダッドIPS=レベッカ・ミュレー】

公務員たちにレイプされたとき、ラニアは16才だった。サダム・フセインがシーア派居住地域であるイラク南部に対する弾圧を進めていた1991年のことだった。「私の兄弟が死刑宣告されていて、彼らを救うための方法が私の体を捧げることだったのです」とラニアは語った。

「家族を恥にさらした」という評判に耐えられなくなったラニアはバグダッドに逃れ、赤線地帯で働き始めた。

軍事占領と宗派間抗争により国家機能が崩壊し、貧困から家族、近隣同士の絆が引き裂かれたイラクでは、売春と人身売買が伝染病のごとく広がりをみせている。イラクでは2003年(米軍を主体とした有志連合軍によるイラク進攻)以来、10万人以上の市民が殺害され、推定440万人のイラク人が難民となったとみられている。

Al-Battaween, the red light street in Baghdad. Credit: Rebecca Murray/IPS
Al-Battaween, the red light street in Baghdad. Credit: Rebecca Murray/IPS

 「戦争と紛争が勃発した所では、例外なく婦女子に対する凄まじい暴力が横行している。」とアムネスティ・インターナショナルは報告している。

ラニアが最終的にやったのは、人身売買のエージェントを補佐して、お客から代金を回収する仕事であった。「もし売春宿に4人の女の子がいて、1日あたりの客が200人いたら、一人当たり1日50人の客をとることになります。」とラニアは語った。

「一回当たりお客から徴収する金額は、今では100ドルが相場です。」とラニアは言う。イラクでは性的経験のない多くの女の子が、北部イラク、シリア、アラブ首長国連邦(UAE)などに5000ドルで売られている。性的経験がある場合はこの半値になる。

バスターミナルやタクシー乗り場には売春斡旋人に雇われた男たちがたむろしており、最もこうした男たちの餌食になりやすいのが、家庭内暴力(DV)や強制的な結婚などから逃げてきた人たちである。また中には、親戚の手によってお金と引き換えに花嫁として売られ、その後人身売買のネットワークに転売されるケースも少なくない。

イラクでは人身売買に手を染める者達の大部分が女性で、バグダッド中心部の老朽化が進んだアルバタウィーン地区などで、不衛生な環境のもとで売春宿を経営している。

6年前、ラニアの売春宿に米軍が押し入り、赤線地帯でのラニアの生活に突然ピリオドが打たれた。売春婦たちは、他の検挙された人々と同じくテロを教唆したという理由で起訴された。
 
収監されてラニアの人生は変わった。女性収容者の半分以上は、売春の罪に問われていた。ラニアはバグダッドのアル・カディミア刑務所に収監されている間に、地元の女性支援グループからアプローチされ、のちに、自らの経験を生かしてイラク中の売春宿に潜入する調査員になったのである。「私は売春斡旋人や人身売買に手を染めている人たちと渡り合っているの。もちろん私が活動家だとは教えないわ。人身売買を生業にしているって言うの。それが情報を取得する唯一の方法だから。もし私が活動家だと知れたら、殺されてしまいます。」

あるときラニアは、他の2人の女の子とともにバグダッドのアル・ジハード地区における米兵専用の売春宿をたずねた。そこでは若い子ではまだ16歳の少女たちが米兵専用の売春婦として働かされていた。宿主の話では、米軍に雇われているイラク人通訳が米兵たちとの橋渡しをしており、女の子たちを米軍基地内外に運んでいるとのことだった。

ラニアの同僚が携帯電話でこっそり潜入先の売春宿で女の子たちの写真を撮ったが、つかまってしまった。ある女の子が「スパイだ」と叫びだしたので、ラニアたちは裸足のまま逃げてきたのである。

1991年に湾岸戦争が勃発する前、イラクにおける女性の識字率は中東で最も高く、また域内のいかなる国よりも医療、教育分野などの専門職への女性の社会進出が進んでいた。

それから20年後、イラク人女性をとりまく現実は大きく様変わりしている。シャリーア法(イスラム法)が次第に日常生活を規定するようになってきており、結婚、離婚、名誉殺人などに関する決定が、従来の法体系の枠外でなされるようになっている。

「この地域で人身売買や売春がひろがりをみせるようになった背景には、複合的な要素が複雑に絡んでいます。」とノルウェー・チャーチエイドは昨年の報告書の中で述べている。

米国が率いた戦争とそれが引き起こしたイラク社会の混乱には、法秩序の崩壊、当局の腐敗、宗教的原理主義の台頭、経済的苦境、婚姻の重圧、ジェンダーに基づく暴力と女性に対する差別、女性・少女の誘拐、犯罪者、とりわけ女性に対する犯罪が罰せられにくい環境、「性産業」のグローバル化に伴う新たな技術の発達等、枚挙にいとまがない。

国際移住機関(IOM)の推計によると、年間80万人がイラク国境を越えて人身売買の犠牲となっているが、イラク国内での動きをつかむのは非常に難しいという。

現在IOMは、省庁間パネルと協力して、2009年以来イラク政府によって停止状態にある人身売買対策法の改正案について新たな判断がなされるようロビー活動を行っている。

イラク憲法は人身売買を違法行為と見做しているが、実際に違反者を起訴できる法律は存在しない。それどころか、人身売買の犠牲者が売春行為の罪で罰せられることが少なくない。

イラク移民省のアスガール・アル・ムサウィ副大臣は、「イラク内外での人身売買に関する報告は上がってきている」としながらも、人身売買問題へのイラク政府の対応が十分でないことを認めた。

ヒューマンライツウォッチ(HRW)は、イラク政府は人身売買問題についてイラク政府はほとんど対策をとっていないと指摘している。HRWのサメール・ムスカティ氏は、「人身売買は2003年時点ではイラクで一般に広がっている問題ではありませんでした。イラクには人身売買に関する実態を把握するための統計がありません。私たちは、この問題がどの程度イラク社会に広がっているのかを把握する必要があります。イラク政府は人身売買に手を染めている者たちのモニタリングも取り締まりも行っていません。そのため関連情報がまったくないのです。」と語った。

ゼイナ(18歳)の事例もそうした目に見えない統計の一部である。人身売買問題に取り組む地元団体「イラク女性自由協会(OWFI)」によると、ゼイナは13歳のときにアラブ首長国連邦のドバイで、祖父の手によって6000ドルで人身売買業者に売られた。彼女はある裕福な顧客が4000ドルで彼女を一晩買い取るまで、顧客に対するサービスとしてオーラルセックスを強いられた。

ゼイナは4年後、UAEの売春宿から逃げ出し、バグダッドの両親の元に戻った。彼女はイラク当局に訴え出て自分を売った祖父を裁判にかけようとした。しかしその後ゼイナは消息を絶ってしまった。OWFIは、ゼイナが今度は母親によってエルビルの人身売買業者に売られてしまったことをつきとめている。

PWFIのヤナール・マフムード代表は、多くの利益をもたらす人身売買に反対する活動のために脅しを受けているという。とりわけ、エマムという名で知られるアルバタウィー地区の有名な売春宿のオーナーを告発してからは、脅迫がひどくなった。「エマムの売春宿では約45名の売春婦たちが、あたかも安い肉屋で扱われている商品のように煩雑な環境で働かされています。売春宿に一歩入れば、少女たちが遮蔽物で隠されることもなく性的に搾取されているのです。従ってこうした売春宿を運営しているエマムの利益は莫大なもので、この既得権益を守るためのスタッフを周りに侍らせています。」と語った。

エマムはイラク内務省との関係が緊密で、その庇護を受けながら売買春産業で儲けているという。OWFIがエマムのビジネスを告発したにも関わらず、彼女の4軒の売春宿のうち、まだ1軒も閉鎖になっていない。

マフムード代表は「イラクでは、10代になった少女たちの世代全体が、こうした犯罪的なイデオロギーにより仕掛けられた戦いにその身を晒されているのです。」と溜息をついて語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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│メディア│語られないストーリー―女性に対する暴力(2009年IPS年次会合)

政治が核実験禁止への努力を曇らせる


【国連IPS=エリザベス・ウィットマン】

ソビエト社会主義共和国連邦は、1949年8月29日、東カザフスタンのセミパラチンスクにおいて、その後456回に亘った核実験の第一回実験を行った。セミパラチンスク核実験場は、ソビエト時代に行われた全ての核実験の3分の2以上が行われたところで、地域住民に核実験が及ぼす影響について警告がなされることはなかった。

核実験場は1991年8月29日に閉鎖されたが、この地域は今日に至るまで、40年に亘った核実験がもたらした深刻な健康・環境被害の影響に苛まれている。

セミパラチンスク核実験場閉鎖20周年と2回目となる「核実験に反対する国際デー」(8月29日)を記念して、世界の指導者と国連関係者が集い、ハイレベルワークショップ(9月1日)及び非公式総会(9月2日)において、核実験の問題が協議された。

 これらの会合では、実に幅広い見解や概念が披露されたが、そこで明らかになったと思われるコンセンサスは僅か1点のみであった。すなわち、世界の核兵器を廃絶するための努力はもとより、核実験を禁止するための努力も、各国の政治的な含みや動機によって、今後の見通しが曇らされているという事実である。

核兵器保有国は、国際関係・安全保障の分野における自国の地位と影響力を保持するために、引き続き核戦力に依存している。また、国際政治における駆け引きが、核実験が人類及び環境に深刻な危険を及ぼし、核兵器が地球を破壊する能力を備えているという事実を覆い隠している。

例えば、セミパラチンスクにおける死亡率は極端に高く、癌を引き起こす疾病の発生率は危機的なレベルである。また深刻な先天性的欠損症もこの地域では一般的で、精神遅滞を伴う症例も平均の3倍から5倍の確率で発生している。そうしたことからこの地域の平均余命は50歳に届かないのが現状である。
 
「40年に亘った核実験で汚染された地域に住み続けてきた住民が3世代を経てどのような影響を受けているか、誰も分かりません。」と、セミパラチンスク地域を管轄する東カザフスタン州のエルメク・コシャバーエフ副知事は、IPSの取材に応じて語った。

現地政府は、住民の伝統的な生計の基盤となる農業を支援する努力を続けているが、放射能によって土や水が汚染されている可能性があるため、そうした支援は困難なだけでなく危険を伴うものとなっている。

おそらく核実験がもたらす影響とともに生きることの恐ろしさを人々が身をもって理解しているからこそ、カザフスタンは核実験と核兵器の禁止を全面的に支持し、自らも核兵器を放棄したのだろう。

核不拡散条約(NPT)は、安全保障の概念が核抑止理論-核兵器を保有していれば攻撃を受けないとする理論-によって推進されていた冷戦の最中である1970年に発効した。

今日、核保有5カ国(中国、フランス、ロシア、英国、米国)を含む189カ国がNPTに加盟している。インド、パキスタン、イスラエルの3か国はNPTに加盟していないが、インドとパキスタンは核兵器の保有を宣言している。一方、イスラエルは核兵器の保有を公式に認めていないが、保有していると広く考えられている。また、北朝鮮は2003年にNPTから脱退している。

包括的核実験禁止条約(CTBT)は1996年に国連総会で採択されたが、未だ発効していないことから、今回の会合ではCTBTを発効させ義務を実行に移すことの重要性が訴えられた。

ジョセフ・ダイス第65回国連総会議長は1日に開催されたハイレベルワークショップにおいて、「現在大半の国々が尊重している核実験モラトリアムは、CTBTの完全履行の代わりにはなりえないのです。」と語った。

同ワークショップの参加者たちは、特に世界の大半の国が核実験はもはや有効ではないという点に合意していることから、CTBTの実施は既に機が熟しており、世界的な核軍縮に向けた決定的ステップとなる点を指摘した。この点について、アニカ・サンボーグ包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)準備委員会事務局長代理は、「むしろ核実験という選択の自由を残しておくことが各国にとって(実質的な抑止力というよりも)ステータスシンボルになってしまっているのです。」と語った。

ワークショップの参加者は、核軍縮や核実験禁止へのコミットメントを議論するうちに、しばしば交渉の焦点が核兵器そのものよりも、各国の政治権力を巡るせめぎ合いになってしまっている点を指摘した。意見発表を行った数名の参加者は、おそらく議論の焦点であるはずの兵器は象徴的な存在にすぎないため、核不拡散体制の進展を望まない国々は、進展を阻止できる点を示唆した。

核不拡散と核実験禁止協議にまつわるもう一つの問題点は、核兵器保有の是非について、誰が保有しても核兵器自体が本来的に危険な存在であるという認識よりは、むしろ保有する国が良い国か悪い国かに分類して判断してしまう先入観である。

2010年NPT運用検討会議で議長を務めたリブラン・カバクチュラン氏は、9月1日のワークショップにおいて、将来における核兵器使用者は国家よりもむしろ非国家の行動者になる可能性が高く、こうした勢力には核兵器で報復すべき所在地が存在しない事実を指摘し、「核抑止論は実際には機能しません。」と語った。

全体として、数多くの前提条件や政治的懸念が、核実験禁止や核軍縮に向けた具体的な進展や生産的な議論を妨げてきたのは明らかな事実である。

9月2日の非公式総会で、イランのEshagh Al Habib国連大使は、名指しは避けたもののイスラエルに対して、「速やかに全ての核施設を国際原子力機関(IAEA)による包括的保障措置下に置くよう」強く求めた。しかしイラン自身もIAEAの査察に協力していないとして非難に晒されている。

IAEAは原子力が平和的な目的のみに使われるよう保証する任務を担った国際機関である。

また同非公式総会で、モンゴルのEnkhtsetseg Ochir国連大使は、「人々の健康と福祉よりも軍事的・政治的配慮の方が重要なのでしょうか?」という問いを投げかけ、続いて「そんなことは決してないはずです。」と強く断言した。

しかし今のところ、核実験禁止に向けた取り組みの中で、そうした軍事的・政治的配慮が最優先されているのが現状である。こうした各国の行動指針が将来変化するかどうかは、時が経ってみないとわからない。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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|リビア|裏路地(Zenga Zenga)に追い詰められているのは誰か?

【アブダビWAM】

「ムアンマール・カダフィ大佐がリビア国内の革命勢力を家から家に、路地裏から路地裏(Zenga Zenga)へと徹底的に追い詰めると脅迫しているテレビの映像(記事の下に添付したYoutube映像参照)は決して忘れないだろう。」とあるアラブ首長国連邦(UAE)紙の編集長は語った。

事実、この映像はウィルスのようにソーシャルネットワークやユーチューブを通じて急速に世界に広まった。そして政治的イベントとしては前例のないほど、歌や映像クリップに加工されて大々的に扱われたのである。もちろん、カダフィ大佐の言っていることを真に受けるのではなく、あくまでもジョークとして軽いノリで扱われたのは言うまでもない。そしてこのようなイメージこそが、アラブ地域や国際社会が捉えているカダフィ大佐の真の姿を投影したものである。カダフィ大佐はピエロのような存在とみなされてきた。人々がアラブサミットの中継番組を見るためテレビの前に座り、カダフィ大佐の演説に耳を傾けたのは、このピエロが次に何を言うか、一種の娯楽として関心を払ったにすぎない。従って誰も、とりわけこの20年間について、カダフィ大佐の言動を真面に受け止めたものはいない。

 「そしてピエロがいれば、舞台と観衆がつきものである。カダフィ大佐には常に観衆がいた。そしてその中には、事実、彼が独裁者になるのを助けた世界の指導者たちがいたのである。彼らは自分たちが支援している人物がテロリストであり、リビアを暗黒時代に率いていくのを認識していた。」とガルフニュースのアブドゥル・ハミド・アーマッド編集長は8月31日の論説の中で述べている。

こうした指導者たちは、カダフィ大佐がロッカビー事件(パンアメリカン航空103便爆破事件)への関与を認めた(リビア公務員の関与を認め事件の責任を負うとした:IPSJ)にも関わらず、数十億ドルの賠償金支払(総額27億ドルの補償に加えて米国人遺族への補償として15億ドルを米国政府に支払った)や、(イラク戦争勃発後の)核計画放棄を評価し関係の修復を図り、カダフィ大佐が「ピエロ的な栄光の座」に居座り続けるのを助ける役割を果たした。

英国、フランス、イタリア他の国々の指導者達は、カダフィ大佐のもとに外交使節を派遣し、様々な取引を持ちかけプロジェクト契約をとりつけた。その間、暗闇に覆われているリビア国民のことは完全に忘れ去られていた。この状況は、かつてのサダム・フセインの場合と類似点はないだろうか?-実に酷似しているのである。

しかし今は、「家から家に、路地裏から路地裏(Zenga Zenga)へと」隠れているカダフィ大佐に話を戻そう。カダフィ大佐は、もしリビアからの脱出に成功していないとすれば、遅かれ早かれ捕まるだろう。その状況もサダム・フセインが穴に隠れているところを発見されたのと類似したものになるかもしれない。もしそうして捕えられたとしたら、カダフィ大佐が最近の演説で連発していた「ネズミ」とは、リビア民衆ではなく、彼自身ということになるだろう。

革命勢力は生死にかかわらずカダフィ大佐の身柄の確保を目指しており彼の首に170万ドルの懸賞金をかけた(ちなみにサダム・フセインの懸賞金は2500万ドルであった)。ではカダフィ大佐の額はどうして170万ドルしかないのだろうか?それは経済危機が影響しているのかもしれない。サダム・フセインは裁判にかけられた。リビア暫定国民評議会ムスタファ・アブドゥル・ジャリリ議長はカダフィ大佐の生死を問わないとしているが、それでは単なる復讐であり、正義の執行にはならない。カダフィ大佐が自殺でもしない限り、フセイン同様に法の裁きを受けさせるべきである。

ピエロに話を戻そう。カダフィ大佐は西側諸国の銀行口座に2000億ドルの資産を残した。一方、リビア国民の5分の1は貧困ライン以下の生活を強いられており、10人に1人は文盲である。そしてカダフィ大佐の長年に亘った革命と恐怖政治の下でどれほどの命が奪われたかは神のみぞ知るである。

他のアラブ指導者と異なり、カダフィ大佐には、自国を国民にとって真の楽園にするチャンスがあった。リビアは世界屈指の豊富な石油資源(アフリカ最大)に加えて人口が600万人余りと比較的少なく、さらに輸出先市場となる欧州に隣接していることから輸送コストも安価に抑えられる立地を備えており、カダフィ大佐はその気になればこの国を先進国へと変貌させることも可能であった。よく知られているように、カダフィ大佐が国民にもたらしものは騒乱と暗黒時代だった。にもかかわらず、リビア国民にためになる改革を行うようカダフィ大佐に圧力をかけようとする動きは国際社会に見られなかった。

それどころか国際社会が当時とった方針は、カダフィ大佐が西側諸国の欲望を十分満足させる限りにおいてカダフィ大佐と取引をするというものだった。つまり誰が本当のピエロだったのか、どちらがどちらを笑っていたのか本当のところは分からない。ただし私が確信を持って言えることは、少なくとも、カダフィ大佐は自らの利益と政権を守ることにのみ執着したピエロであり、世界は彼の観衆であったということである。そして、誰の目にも明らかなとおり、リビア国民はそうした彼の圧政の犠牲者であった。

西側諸国はリビア国民の人権、民主主義、自由について完全に忘れていた。どの国々もカダフィ大佐が独裁者であることは知っていたにもかかわらず、リビア国民が払わされる代償を顧みることなくカダフィ大佐を受け入れたのである。

こうした中、カダフィ大佐は益々大胆、横柄かつ残虐さの度合いを増していった。この段階になると、もはや倫理など存在しなかった。もし政治に倫理が伴わなければ、そこに生まれるのはカダフィ大佐のようなピエロ達である。カダフィ大佐というピエロと彼の観衆たちによって解き放たれた騒乱に翻弄されてきたリビア国民が、今後は路地裏から路地裏(Zenga Zenga)へと追われるようなことにならないよう願うばかりである。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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