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|中東|イスラエルから和平を求める声

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【テルアビブIPS=ダーン・ボーウェン】

1月10日土曜日夜、ガザ攻撃の即時停止を求め、2,000人あまりの市民が参加して平和集会がテ

ルアビブの中心地にある国防軍司令部と国防省の前で開かれた。ガザ空爆開始後3週間で3回目の集会である。 

この反戦デモを組織した「ピース・ナウ」のYosef Douek氏は「ガザの子どもたちもスデロットの子どもたちも平和で安全に暮らしたいと願っている。こうした軍事行動を継続しても意味がない」と訴える。

 パレスチナとイスラエルの合同NGOである「オルタナティブ情報センター」が1月10日をイスラエルによるガザ戦争反対の力を結集するグローバルデーにしようと呼びかけたことに応え、イスラエルの平和運動グループ「グシュ・シャローム」も「ピース・ナウ」に加わった。 

Yosef Douek氏は「私たちの行動の影響力は極めて限られているとは思うが、世論に働きかけるためにできることを行っている。この国ではメディアは政治的コンセンサスを破ることに関心はなく、同時に私たちのメッセージに対する政治的アプローチもまったくないからだ。少なくともこの段階では皆が愛国心から戦争を支持したいと思っている。だがそれもすぐに変わってくると思う。過去における戦争と同様、世論の支持は崩れるだろう」と述べている。 

戦争に反対する詩人やアーティストの作品を集めて先週出版した小冊子を反戦デモで配布した国際的に著名なユダヤ人アーティスト・作家で活動家のRonen Eidelman氏は「過去の戦争との違いは、暴力が過度に用いられている点。世界の大きな怒りをかっている」と話す。 

イスラエルの左派政党メレツの党員Ido Gideon氏は、イスラエル人にはホロコーストに対する思いがあるようにパレスチナ人にはイスラエル建国時における大虐殺ナクバに対する思いがあると指摘し、「イスラエル人とパレスチナ人は罪ではなく苦悩について話し始めるべきときだ」と言う。 

ガザ攻撃に反対するイスラエル国内の声について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 


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共通の未来のために広島の被爆体験を記憶する

【東京IDN=モンズルル・ハク】

人間の「記憶」というものは、とりわけ戦争と破壊を記録するという点においては長続きしないようだ。人間の苦悩や窮状を描いた様々な時代の詳細な記録が無数に残されているが、人類は恐らくそうしたものを、何か曖昧で抽象的なこと、或いは、日常の現実とは全く関係ない、何か遠いかけ離れた出来事であるかのように捉えるのだろう。漠然と認識されたものは確かな証拠とはなり得ず、かけ離れた出来事が、良心を激しく揺さぶることもないことから、私たちは、打ち続いた悲劇的な現実が落ち着きを見せ、たとえ短期間でも比較的平穏な状況への道筋が見出されれば、瞬く間に、戦争や破壊が人類にもたらしたものを忘却の彼方に葬り去ってしまう傾向にある。

人類の「記憶」が持つこうした脆弱な特性は、いわゆる「より大きな集団の利益」のためという大義名分のもとに記憶を消し去ろうとする人々に常に利用され、進歩の歩みを逆行させてしまうのである。こういう訳で、戦争とそれに続く自滅行為が、平和で平穏な生活を求めているはずの人類の永遠の旅の一部となってきたのである。

こうした過ちの大部分について、真の原因は、人類が、戦争が常にもたらす人間の苦しみの深淵を理解する能力に欠けているというところにあるのかもしれない。私たちがその深淵のほどを無視し続けるかぎり、剣を鋤に打ち直す(=戦いをやめて平和な暮らしをする)のは、今後もはかない夢であり続けるだろう。さてここで、「記憶」が今一度、非常に重要な役割を果たしうるのである。つまりそれは、人類が持つ破壊能力が想像の領域を遥かに超える今日のような時代に、戦争がもたらしうる悲劇の深淵を、少なくとも現実的に捉えることを可能にする役割である。1945年8月6日の広島の原爆を生き延びた14人の被爆者は、まさにこうした理解から、その朝原爆によって引き裂かれた無垢な青年時代の記憶を回想し語ることで、私たちの良心に訴えかけているのである。

沈黙は破られた

Soka Gakkai Hiroshima Peace Committee
Soka Gakkai Hiroshima Peace Committee

『男たちの広島―ついに沈黙は破られた』は、(来年8月6日の)広島長崎の被爆70周年を前にして今年4月に出版された時宜を得た書物である。この本のジャンルは、1927年から39年までに生まれた広島原爆の被爆者14人の体験談を収録したオーラル・ヒストリー(口述歴史)である。彼らはいずれも原爆投下直後の惨状を生き延び、心と身体に深い傷を負いながら、長い人生を歩んできた方々である。彼らの歩んだ道は、被爆の後遺症に苦しみ生涯に亘って通院を余儀なくされるなど、決して平坦なものではなかった。身体に負った傷については、多くの場合、長年の治療を通じて癒すことができたものの、彼らの多くが直面した、社会から暗黙の内に向けられた差別的な態度は、恐らく彼らにとって身体の傷以上に痛みを伴うものであり、長きにわたって心の奥深い部分に傷を残しただろう。

原爆投下直後の時期は、日本が(敗戦間近の)混乱に陥った時期であった。さらに混沌とした戦後期の日本は米国の占領下にあり、戦勝者(=連合国最高司令部:GHQ)は自らが行った邪悪な行為が露見することに当然ながら反対だったことから、当時は被爆者の悪夢のような記憶を語ることはタブーとされた。さらに被爆者は、被爆時の負った惨たらしい傷や変形した身体で生きていかなければならない現実に複雑な心境を抱えており、徐々にこの悪夢の記憶を心の奥底に封印していった。爆心地近くにいたことで余儀なくされた経験について、多くの人が沈黙を保った。しかし、世界にとって幸運なことに、かなりの数の被爆者がのちに沈黙を破り、それぞれの体験を語り始めたのである。『男たちの広島―ついに沈黙は破られた』に収録された14篇の証言は、それぞれがユニークなものである。被爆者が経験してきた苦しみの深さは、ひとつとして同じものがないからだ。

焼け爛れた女性、息絶えた乳児、孤児

木原正さんは、原爆投下直後に遭遇したある悲劇的な光景が脳裏からずっと離れないでいる。木原さんは被爆時に自身も負傷していたが、仲間とともに広島市内各地で路地や崩れた建物の陰に怪我人がいないか捜索・支援活動を続けていた。そんなある夜のこと、見回りをしていると、水を懇願する声が聞こえた。その声はか細く、必死に訴えていたという。木原さんが近づいてみると、それは、乳児を抱いたひどい火傷を負った女性だった。彼女の体は全身が焼けただれており、乳児は母親の乳房を口に含んでいた。しかしよく見てみると、乳児はすでに死んでいることが分かった。木原さんは、その女性が既に息絶えた我が子になお授乳しているかのように抱き続けていたのは、恐らく現実を受け入れられなかったのだろうと思った。木原さんはその時の心情を、「私には何もしてやれませんでした。私は手を合わせて詫び、その場を去りましたが、いまも心が痛みます。」と証言している。

木原さんは若いころ、被爆者であることを隠していた。しかし、65歳になって考えを変え、若い世代に自分の経験を語る決心をした。木原さんは今、息絶えたわが子を焼け爛れた体に抱き水を懇願したあの母親のような恐ろしい経験について、若い世代の人たちには忘れてほしくないと強く思っている。木原さんは、長年に亘って心を痛めてきたあの無惨な光景について、世界のどんな母親にも同じような経験をしてほしくないという望みを抱きながら、他の人びとに証言することができたことで、安堵の気持ちを持っているに違いない。

この最新の証言集にそれぞれの体験を語っている14人の被爆者はいずれも、被爆当時は元気旺盛な少年期の子どもだった。原爆は彼らの明るい将来の夢を奪っただけではなく、悪夢の中でさえ誰も想像できないような形で、彼らの人生を変えてしまったのである。

Photo: The remains of the Prefectural Industry Promotion Building, after the dropping of the atomic bomb, in Hiroshima, Japan. This site was later preserved as a monument. UN Photo/DB
Photo: The remains of the Prefectural Industry Promotion Building, after the dropping of the atomic bomb, in Hiroshima, Japan. This site was later preserved as a monument. UN Photo/DB

中でも私の心に迫ってきたのは川本省三さんの体験談だ。川本さんは、原爆投下から3日後に両親を探し求めて疎開先から広島市内に戻った時、自身が「原爆孤児」になってしまったことを知った。疎開先の寺では僅かな食事が提供されていたが当時11歳で育ちざかりの川本さんにとって、空腹を満たすには十分でなかった。市内に戻ったものの孤児となり引き取り先がなかった川本さんは、やがて浮浪児となり、ただただ生きていくために、時には露天商から餅を盗み、時には(寝場所と食料を提供する見返りに)浮浪児を組織的に搾取していた暴力団の下で働かざるを得なかった。川本さんは、こうした広島原爆がもたらした2重苦(孤児になったのちに、施設に入れず浮浪児として町中に放置され究極の困難)を強いられた子どもたちについて、これまで多くが語られていないことを残念に思っている。川本さんの証言によると、原爆投下前に疎開した広島の小学生は約8600人。そのうち2700人が孤児となったが、幸運にも孤児院に収容されたのは僅か700人で、残りの約2000人は町に放置され浮浪児となったという。

新たな恐怖

14人の被爆者全員を結びつけるものは、共通の苦しみだけではない。自らが体験してきた恐怖を他人に語らずに長い間沈黙を保つという、自らに孤立を課していた点でも共通している。そのような彼らが、沈黙を破り自らの経験を語っていこうと決心した背景には、2011年3月の福島第一原発事故以後に噴出した新たな恐怖に対する危機感がある。それ以降、彼らは、放射性降下物が引き起こす被害について自らの経験を語り伝えていくことを厳粛な責任だと考えているのである。

Fact-finding team from the International Atomic Energy Agency visits Fukushima Dai-ichi nuclear power plant in May 2011. Credit: IAEA Imagebank/ CC by 2.0
Fact-finding team from the International Atomic Energy Agency visits Fukushima Dai-ichi nuclear power plant in May 2011. Credit: IAEA Imagebank/ CC by 2.0

下井勝幸さんは、テレビ番組で福島第一原子力発電所の建屋で働く作業員の姿を見たのを契機に、原爆投下後数日の間に彼の弟の身に起こったことを思い出し、「放射線被爆後に目撃した生と死のストーリーを語らねばならないと思い立った。」と述べている。弟の明夫さんは当時まだ13歳で、原爆投下時には同級生の中村君と路面電車に乗っていた。下井さんは、次に起こったことをこう証言している。「20日ほどたったころでしょうか。弟は髪の毛が抜け、全身に赤い斑点が出はじめました。……弟の肩や腕は、割り箸のように細くなっていきました。……弟はまだ13歳なのに老人のような顔になって死にました。あのとき一緒にいた同級生の中村君も、同じ日に死んだと後から聞きました。」

それから65年以上が経ち、テレビのニュースで福島第一原子力発電所の建屋で作業している人の姿を見て、その作業員の腕にかつて弟を苦痛に満ちた死へと追いやったのと同じ赤い湿疹が出ているように思えた。下井さんはこのことに戦慄を覚え、今こそ沈黙を破って声をあげていかないといけない、と思ったという。

被爆者の証言を記録することは、創価学会広島平和委員会が実施した時宜を得たイニシアチブである。同委員会は、核時代に終止符を打つには、さらに大きく核廃絶を支持する国際世論を高めなくてはならないと考えた。『男たちのヒロシマ―ついに沈黙は破られた』は、長年にわたって記録されてきた広島発の被爆証言集の9冊目であり、「2011・3・11福島原発事故」以降、初めての被爆証言集である。

創価学会広島平和委員会は、被爆者の声を日本国内のみならず世界各国の人々にも広く伝えていくために、最新刊には証言の英訳も付けて発行することを決めた。世界があの最悪の人災からあと1年で70周年を迎えようとする中、この証言集の発行は、単に過去の恐怖を思い起こさせるだけではなく、人類共通の破壊につながるような死の競争を永遠に止めさせるために私たちがとるべき道筋をも示してくれている。(原文へ

アラビア語 | 中国語 | 韓国語 ノルウェー語 | スペイン語

※モンズルル・ハクは、バングラデシュのジャーナリストで、日本などのテーマに関するベンガル語の著作が3冊ある。ダッカの国連広報センターとロンドンのBBCワールドサービスで勤務したのち、1994年に日本に移住。バングラデシュの主要全国紙2紙(『プロトム・アロ』と『デイリー・スター』)の東京支局長で、バングラデシュのその他の重要発行物に定期的に寄稿している。日本や東アジアの問題について英語およびベンガル語で手広く執筆。東京外大、横浜国立大学、恵泉女学園大学で客員教授を務め、日本政治、日本のメディア、途上国、国際問題などを教える。NHKラジオにも勤務。2000年より外国人特派員協会のメンバーで、理事を2期務めたのち、同協会会長も歴任した。

翻訳=INPS Japan

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│インドネシア│国民に敬愛されたワヒド元大統領の死を悼む

【ジャカルタIPS=ヘラ・ディアニ】

インドネシアのアブドゥルラフマン・ワヒド元大統領が入院したというニュースは、当初それほどの関心を呼ばなかった。彼はこれまで、糖尿病や肝臓の病気などで入退院を繰り返していたからだ。それに、世間を賑わわせていたのは、スシロ・バンバン・ユドヨノ現大統領の銀行疑獄の話題であった。

しかし、12月30日、ワヒド氏は、歯の治療手術の後、突然の死を迎える。享年69才であった。

ワヒド氏の訃報が伝わるとインドネシア全土がショックと悲しみに包まれた。自宅のある南ジャカルタには自然に多くの人々が同氏の死を悼んで集まった。そしてインドネシア全土でイスラム教徒のみならず様々な宗派の市民が同氏の冥福を祈る集会を催した。

 東ジャワのスラバヤでは人々が自然と街に繰り出し、キャンドルを灯して行進したり花を手向けたりした。地元紙は、「ワヒド氏はイスラム教徒だが、全ての宗派に恩恵をもたらした人物であった。」とのダルマートマージャ枢機卿のコメントを掲載した。ワヒド氏は、インドネシアの宗教的寛容と政治改革の象徴的存在であった。

ワヒド氏は宗教一家の生まれであった。祖父のハシム・アスヤリ氏はインドネシア最大のイスラム教組織「ナフダトゥル・ウラマー」を創設した(ワヒド氏自身ものちに同団体の総裁になった)。父のワヒド・ハシム氏は、インドネシアの初代宗教大臣であった。

ワヒド氏自身は、カイロやバクダッドの大学へ留学した後帰国して、ジャーナリスト・評論家・学者としての道を歩み始めた。政教分離が彼の持論であった。

1998年、スハルト独裁政権が倒れると、国民覚醒党を結成した。翌99年の総選挙ではメガワティ・スティアワティ・スカルノプトゥリ氏が率いるインドネシア民主党が勝利を収めるが、保守的なイスラム教徒たちは女性が大統領になることを嫌って「中央枢軸」を結成し、ワヒド氏が大統領に就任することになった(在任期間:99年10月~01年7月)。しかし、彼は、メガワティ氏を副大統領に選んだ。

ワヒド氏は、スハルト独裁体制を支えた2つの省庁を解散させ、軍の影響力を削ぎ、中国系住民を差別する仕組みを破棄したりと、自由と寛容の体制作りに向けて努力した。

しかし、それだけに敵も多く、2001年7月には議会から弾劾されて、メガワティ氏に大統領職を譲ることとなった。

現在、法務長官が共産主義と宗教をテーマにした書物の発禁処分を出すなど、非寛容な動きが相次いでいる。このようなときにこそ、インドネシアはワヒド氏の死を悼む必要がありそうだ。

インドネシアのワヒド元大統領の死について伝える。(原文へ


翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|欧州|十字砲火にさらされて凍える国々

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【ブダペストIPS=ゾルタン・ドゥジジン】

天然ガスの供給が停止した中欧およびバルカン諸国では、工場は製造を中断し、学校は休校になり、給水管は凍り、経済はマヒ状態だ。西側が招いた金融危機との苦闘の後には、東側からの経済的な打撃が待っていた。 

ガスの供給停止は、ウクライナとロシアが2009年のガスの価格とウクライナの料金支払い遅延に対する罰金問題について合意に至らなかったことが原因である。欧州向けのロシア産ガスの80%がウクライナを経由しており、ボスニア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、ブルガリア、クロアチア、マケドニア、セルビア、ギリシャが窮地に陥っている。 

ハンガリーのジュルチャーニ首相はウクライナとロシアの戦闘の流れ弾に当たるようなもので承服しがたいとしながら、ガスの使用に制限を設けた。ハンガリーでは暖房の90%はガスを利用しており、暖を取るには経済活動を休止しなければならない。閉鎖した工場もあり、農家は家畜の凍死を心配し、中小企業は製品の質と量への影響を懸念している。

中欧諸国の経済の鍵となる自動車メーカーまでが生産中止に追い込まれつつあり、そうなると国の経済自体に甚大な被害が及ぶ。チェコとハンガリーには小規模のガス備蓄があるが、備蓄のない国は対処に苦しみ、スロバキアは非常事態を宣言し、ガスによる発電がほとんどのため、10日以内に供給が再開しなければ全土で停電という事態もありうるという。

一方で美談もあり、モルドバのヴォローニン大統領は、独立を図っているドニエステル地域の社会施設や病院が危機に瀕したために、少ないエネルギーを分け与えた。電力の供給停止により寒さと闘っているセルビア北部のノビサドに対し、ハンガリーはガスの貸し出しに応じた。またドイツやオーストリアも貸し出しを行っている。

ウクライナとロシアがガスの供給を回復しても、バルカンおよび中欧諸国のガス供給システムが完全に復旧するには数日かかる。影響を受けた国々はロシアのガスプロム社かウクライナに補償を要求するかもしれない。ハンガリーのエネルギー企業Emfesz Kftはすでにウクライナのガス公社を訴えると発表している。ロシアとウクライナはEUの監視団の受け入れには合意したが、早期の解決は難しそうだ。

ロシアとウクライナのガスをめぐる争いの影響を受ける中欧・バルカン諸国について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

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|エイズ・アフリカ|エイズ対策に効果の兆し

【ヨハネスブルグIPS=ザヒラ・カルサニ】

UNAIDS(国連合同エイズ計画)の最新報告書によれば、エイズで苦しんでいる人々は世界で約3,300万人。アフリカのサハラ以南の国々だけで2,200万人を数えるという。感染者は2007年で約270万人増加した。しかし、感染率が高かったアフリカの一部の国では、予防策の成果が上がっている。

例えば、アフリカでエイズ被害が最も多い10カ国の1つルワンダでは、影響の重大さに気づいた政府が、胎児感染の予防に男性パートナーの参加を呼び掛けるなどの予防および治療に強いコミットメントを示した。

 ルワンダ・エイズ管理委員会のアニタ・アシインベ事務局長は、「2004年には妻のエイズ検査に同行する夫は僅か6パーセントだったが、現在では64パーセントに達している。女性は、もし病気が発見されても夫の協力が得られると知って安心している」と語る。同氏は、「例えば、感染した女性が授乳を避けていることに家族の批判があっても、男性がそれは致し方ないのだと説明すれば解決する」と言う。

政府統計によれば、ルワンダの2008年エイズ感染率は、2000年の7パーセントから3パーセントに減少した。エイズに感染した母親から生まれた新生児の感染率は2年前には40パーセントだったが、今では10パーセントに低下している。

一方、ケニアでは患者は増加傾向にある。2003年に行われた健康調査では、感染率は6.7パーセントであったが、「ケニア・エイズ指標調査」は、2008年は7.8パーセントに増加した。

「ケニア・エイズワクチン計画」のオム・アンザラ氏は、「エイズに対する一般の理解は90パーセントに達したので、予防キャンペーンの中心を性産業等で働く高リスク者に移行する」と語る。しかし、「抗レトロウィルス治療が依然鍵だが、ビールス検査や肝臓機能検査などの重要なテストを行わずに抗レトロウィルス剤の使用を拡大すれば、近い将来新たな問題を生むことになる」と警戒する。

南アフリカ・エイズ研究プログラムセンター(CAPRISA)のカリム科学副部長は、年上の男性と性的関係にある18歳から24歳の女性に新たな感染の危険が増大しているという。彼女たちは、年上の男性に安全なセックスを求めることも、彼らの性生活についても問いただす立場にないというのだ。「我々は、禁欲・貞節・コンドーム使用というお決まりのアプローチを取っており、男性の包皮切断手術のエイズ予防効果などについての議論はなされていない」と語っている。

アフリカのエイズ感染についての最新報告を紹介する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

核計画「疑惑」を攻撃抑止に使うイラン

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【ワシントンIPS=ガレス・ポーター】

『ニューヨーク・タイムズ』1月5日付は、イランが山間部のトンネルや壕の中に「原子力複合施設の大部分を隠匿している」と伝えた。

このストーリーは、米国などの諜報機関がコム近くに第2のウラン濃縮施設があることを発見した昨年9月からはじまる。その基本線は、「イランが国際社会の目を逃れて核兵器を製造するために秘密の核施設を持とうとしている」というものだ。

 しかし、あらゆる証拠を総合してみると、事実はまったくその逆であることがわかる。イランは外界の目から核施設の存在を隠そうとしているどころか、逆に、イランが3年以上にわたって地下深くに主要な核施設を隠してきたと西側の諜報機関に信じ込ませようと画策しているのだ。

この驚くべき結論の理由は実に簡単だ。核計画に関するイランの主要な関心は、核施設に対する米国やイスラエルの攻撃を抑止することにある。そのために、イラン政府は、イランの核施設を完全に破壊したりそのすべてを発見することはとうてい無理だと米国やイスラエルの軍関係者に認識させる必要があるのである。

コムの施設とトンネル・ネットワークをめぐる混乱を解くカギは、米国などの諜報機関が、コム核施設の建設が始まるはるか以前から、衛星写真や地上のスパイなどを用いて同施設の密な監視を続けている事実をイランが知っているという点にある。

反体制テロ組織「ムジャヒディン・ハルク」(MEK)の政治部門であるイラン国民抵抗評議会(NCRI)は、2005年12月20日に記者会見を開き、イランの核開発に関連して、コム近くにあるものを含め計4つの地下トンネルがあることを明らかにしていた。
 
NCRIはまた、2002年8月の記者会見でナタンツのウラン濃縮施設の存在を暴露して、イランの核計画に対する強い国際的圧力が作り出されることになった。NCRIの主張の一部は、国際原子力機関(IAEA)の調査報告でも取り上げられたりしている。

しかし、NCRIがコムの件について暴露したとき、コムには核開発に関連したトンネルなどなかったことは明白だ。

イラン当局は、MEKと米・イスラエルとの緊密な関係を考え、海外諜報機関がMEKの暴露したトンネルに監視の焦点を絞るであろうことを十分認識しておかねばならなかった。

米国・欧州諸国は、衛星写真を使ったコムの体系的監視を2006年には開始したことを認めている。

つぎに起こったことは、イランの戦略を分析するにあたって特に重要なヒントを提供してくれている。複数の情報によれば、対空砲兵部隊がコム山間部の基地に移動され、そこに向けてトンネルを掘ったという。

このことは、イラン当局が同施設が監視下にあることを認識していたのみならず、そこへの注目を集めようとしていたことも明確に示している。

この後、諜報部門の中では大きな論争が巻き起こった。諜報部門とのゆかりがあるフランスの安全保障コンサルタントのローランド・ジャカール氏は、「コムの施設は諜報部門の視線を釘付けにさせるための単なる『おとり』であり、実際の核施設はどこか別の場所にあるのだという分析がある。」と、昨年10月の『タイム』誌で紹介している。

もしこのサイトが監視下にないとイランが考えているのなら、わざわざ対空砲兵部隊を移動させる意味はなくなる。

この防空部隊は、明らかに、コムの新施設の建設が継続する様子を外国に監視させるためのものである。科学・国際安全保障研究所(ISIS、ワシントンDC)の取得した衛星画像を分析したポール・ブラナン氏によると、施設建設は2006年中ごろから2007年中ごろのどこかの時点で始まったという。


もちろん、建設がさらに進んでみないと、衛星画像解読のスペシャリストといえども、サイトの正確な目的についてまではわからない。ある米国諜報筋は、9月25日の会見で、2009年春ごろまでは、それがウラン濃縮施設であることについて諜報部門でも見解が一致していなかったと語った。

他方、イランは、自国の核施設の防護のために「受動的な防衛戦略」を採っている明確な証拠を外国の諜報部門に与えている。「受動的防衛組織」のゴラム・レザ・ジャラリ議長は、2007年9月24日にイランのテレビで発した声明において、この戦略は「我が国の重要かつ機密的な施設を隠匿・防護し、その脆弱性を少なくするものだ。」と語っている。

ジャラリ議長は、2007年8月24日、メヘル(Mehr)通信に対して、IAEAに核施設を監視させていること自体、計画の一部だと述べた。『ニューヨーク・タイムズ』が1月5日に報じたように、イスファハンのウラン転換複合施設付近の山中に向けてトンネルが建設されている。

西側メディアは、イランは、コムの施設について西側諜報部門に察知されてはじめて、9月21日のIAEA宛て書簡において同施設に関する通告を行ったと報じている。

しかし、同日にオバマ政権が記者会見で配った「Q&A」集では、「なぜイランは今この施設について告白することを決めたのか?」という質問に対して、「我々には答えがない」と書かれているのである。

実際、イランのIAEA宛9月21日の書簡(その抜粋はIAEAの11月16日の報告書に掲載されている)は、米国とイスラエルの戦争計画者たちを混乱に陥れる作戦のようにも見受けられる。書簡によれば、第2の濃縮施設の建設は「受動的防衛体系の利用などのさまざまな方法を通じて機微の核施設を防護する主権に基づいたものである」とされている。

『タイム』誌のジョン・バリー氏が10月2日に書いているように、諜報関係者たちは、この書簡を、集中的に監視されている10以上のトンネルの中には、公にされていない核施設がさらに存在しているという風に読んだ。

その数日後、マフムード・アフマディネジャド大統領にきわめて近い日刊紙『ケイハン』は、コムの施設の存在を発表したことによって、西側による軍事攻撃はやりにくくなったと論じている。なぜなら、「施設が複数あることは、非常に効果的な防衛的措置となるから」だという。

この記事を読むと、イランは、他の核施設がいったいどこに隠されているのかという疑念を米国・イスラエルの諜報部門の中に掻き立てることによって、彼らの企図をうまく挫いていることがわかる。

イランのトンネル複合体に関する『ニューヨーク・タイムズ』の記事は、「イランの戦略は、イランの核計画に対する致命的な一撃を加える可能性に関する米国とイスラエル内での議論に影響をもたらすことに成功している。」と示唆している。「西側の軍事的・地政学的計算を狂わせる……偽装工作」という言い方を同記事はしている。

イランの「受動的防衛」戦略はオバマ政権に非軍事的解決を主張させる「決定的な要因」になっているとの専門家の見方を同記事は伝えている。

イランの戦略がイスラエルの計算に与える影響ということで言えば、2002年から06年までイスラエル国軍諜報部門の長であったアーロン・ゼーヴィ・ファーカッシュ少将が、親イスラエル的な団体「ワシントン近東政策研究所」が昨年10月に開いた会合で、米国空軍によるイラン空爆を支持する発言をしたという事実がある(それはイスラエルの標準的な立場でもある)。

しかし、ファーカッシュ氏は同時に、「西側諜報部門はイランの全核施設について把握しているわけではない。」とも警告している。また別のところでは、「イスラエルが攻撃に加わることには反対する。」とも発言している。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩


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|欧州|ガス供給停止と政治的冷え込み

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【ブダペストIPS=ゾルタン・ドゥシジン】

経済危機に苦しむロシア、破綻寸前のウクライナ。中央ヨーロッパとバルカン半島を凍えあがらせる紛争の責任がどこにあるのか誰も断言できない。

ウクライナの支払い遅延、ロシア国営ガスプロムのガス供給停止という応酬は2006年以来、毎年恒例となっている。ウクライナのパイプラインに供給されるガスの80%が欧州向け。ロシアはウクライナがガスを抜き取っているとして供給を停止する。

ロシアのプーチン首相はガス供給の再開条件として、EUの監視団派遣を挙げている。「この監視団は12月に派遣すべきだった。EUは過去の教訓を活かしていない」とIPSの取材に応じたハンガリー国際関係研究所のAndrás Deák氏は言う。


ほとんどの欧州諸国が1,000立方メートルあたり400ドルでガスを購入しているのに比べ、ウクライナの購入価格は179ドル。ロシアは250ドルまでの値上げを迫っており、2009年の供給契約は成立していない。

ウクライナはガスプロムへの15億ドルの支払いに中央銀行の資金を使い、2009年にも金と外貨を使い果たして債務不履行となるおそれがあるとユーシチェンコ大統領は言う。しかし、ガスパイプラインのロシアへの売却は拒否している。

ウクライナ国内でエネルギー政策は政争の具になっていると報道機関は指摘する。「期限前議会選挙の可能性が大きくなるなか、ガスの値上がりにつながる契約にサインしようとする者はいない」とDeák氏は言う。一方、世界規模の経済危機は欧州のガス会社の買い控えという形でロシアにも及んでいる。

もっとも影響を受けているのが、備蓄施設を持たず100%をロシアのガスに頼っているバルカン諸国である。ボスニア、チェコ、スロバキア、ハンガリー、オーストリア、ブルガリア、クロアチア、マケドニア、セルビア、ギリシャにも深刻な影響が及んでいる。

このような事態は経由地としてのウクライナの地位を脅かし、信頼できる供給元としてのロシアの地位をも脅かしている。

ロシアによるウクライナへのガス供給停止問題について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

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【モスクワIPS=ケスター・ケン・クロメガー】

ソ連の専制政治終焉後の困難な18年を経て、ロシアは着実に国際舞台に戻ってきた。

「失われた10年」と言われる エリツィン政権後に起きた プーチン政権での急速な発展は、プーチン首相/ メドベージェフ大統領の政権で引き続き発展する期待を持たれている。

しかし、ロシアは、米国オバマ大統領の選任と時を同じくして起こった景気後退と、近隣共和国グルジアウクライナに代表される東欧への 北大西洋条約機構(NATO)拡大の脅威という新たな難問に直面している。

「現ロシア政権は、近隣共和国をはじめとして世界に対し、より断固たる姿勢を示そうとしている。米国主導でグルジアとウクライナをNATOに加盟させようという動きに堪忍袋の緒を切らしたロシアがグルジアで起こした最近の軍事行動は、その証であり、ロシアの威光を高めた。」と米国の軍事・外交専門家のカーペンター氏はIPSに語った。

ロシア政府高官は、世界開発プログラムへの提供資金の増額、世界最貧国への支援金増額、アジア、アフリカでの教育プログラムなどや中南米への資金提供をロシアが実施してきていることを宣伝し、NATO拡大阻止の対策のひとつとしている。

しかし、最新の世界状況はロシアの影響力を低下させるかもしれない。「より確固たる役割を果たしたいにもかかわらず、ロシアの力は、どちらかというと制約を受けている。石油、天然ガスなどの価格が急騰していたときとは違って、それらの価格が暴落した今では、ロシア政権の力は6か月前よりはるかに弱体化し、軍備増強は難しく、世界への影響力拡大は遅れるだろう。」とカーペンター氏は言う。

世界危機について、メドベージェフ大統領は、世界の国々が協力して対応する必要があり、「信用回復なしには、長期ベースで建設的な二国間外交構築の可能性を実現することはできない。」と述べた。しかし、ロシアの金と金属通貨保有量は世界第3位であり、ロシアが嵐を乗り切る助けになるだろうと付け加えた。

ロシア現政権の世界への影響力拡大戦略と世界経済危機の影響について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|国連|戦争も平和もメディア次第

【国連IPS=ナスターシャ・ホフェット】

2003年にラジオとテレビの放送局であるリブレデミルコリーヌ社の二人の記者がルワンダ大虐殺の戦争責任を問う裁判で有罪判決を受けた。紛争期間中にメディアが憎しみをあおるような内容の報道を行うことの危険性が浮き彫りになった判決である。この判決は1993年から94年にかけての同社の報道内容が「ルワンダにおける憎しみをあおり、大量虐殺につながった」ことに基づいており、ニュルンベルグ裁判における反ユダヤ主義報道に対する有罪判決以来初のメディアに対する有罪判決である。

専門家は国連開発計画(UNDP)や世界銀行や国連平和構築委員会などの国際機関が紛争当事国のメディアと協力して適切な対応を取る必要性を指摘している。

紛争を専門とするNGOであるサーチフォーコモングラウンドの代表は「紛争地域においては対話型のコミュニケーションを確立し、政治で決まったことを国民に伝え、国民のニーズ、怖れ、願いなどを政府に提案しやすくすることが有効だ。現状では予算不足で平和構築にメディアが貢献するレベルに達していない。」と述べた。

 コミュニケーションは紛争の再燃防止や治安の維持にも有効であると言う国連広報担当者の指摘もある。

国連平和維持軍は国連全体の半分近くの予算を割り当てられているにもかかわらず派遣先の国において平和維持軍が公共メディアを整備するための予算はごくわずかにとどまっている。

国連開発計画のメディア開発担当者は動員解除や和解や選挙にメディアは積極活用すべきだと指摘する。また平和構築委員会も場当たり的な緊急時だけの対策でなくメディアを視野に入れた紛争対策を考えるべきだとも述べた。

米国平和研究所の代表者は様々な機関同士の連携不足を指摘する。いろいろなプログラムの経験を機関間で共有できるような用語の統一や戦略的枠組みなどが予算不足のため整備できない状態である。

紛争後の選挙により樹立された新しい政府の認知度を高め国民の意見をフィードバックするのがメディアの役目である。たとえばボスニアの紛争後ラジオやテレビの広報活動が効を奏し国内避難民が帰還することができた。1998年に北アイルランドの国民投票で聖金曜日協定が可決されたのもメディアに負うところが大きかった。

とは言え、メディアのインフラが破壊されていたり紛争以前に存在すらしていなかった場合はメディアを活用することはできない。国際機関が全国を網羅するメディアのインフラ整備を支援するべきである。

国連平和維持軍はシエラ・レオネで2000年にRadio UNAMSILと言うラジオ局を開局した。国連は政府が独立の放送局を運営できるようになるまで平和維持軍撤退後も政府がUNAMSILの運営を続けるとの合意を取り付けた。

たいがいの紛争当事国は紛争後メディアを設立する余裕など無いのだから国連が再建戦略を行う上でメディア開発を最優先課題に据え、資金援助を取り付けるべきである。

報道内容とジャーナリズムの公正さを大切にするために研修も重視しなければならない。

紛争問題を専門とするNGO代表者は「私たちは技術支援を行うことでジャーナリストを育て、いろいろな人たちの声を世の中に訴えていきたいと思う。」と述べた。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

|米国-中東|メディア、重要な時期に「ガザに盲いて」

【ワシントンIPS=ジム・ローブ、アリ・ガリブ】

新聞・テレビを含む米主流メディアは、11月4日の米大統領選挙の報道に全精力を注ぎ、同日のイスラエルによるハマス攻撃に関する報道は極めて限られたものだった。

しかしこのイスラエルによる軍事行動は、エジプトの仲介により2008年6月19日に発効、以来およそ4カ月半にわたってほぼ維持されてきた停戦に致命的な打撃を与えたようである。

ハマスはこのイスラエル側の攻撃に報復して、翌5日イスラエル領に35発余のロケット弾を撃ち込み、イスラエルは過去17カ月間の対パレスチナ経済封鎖をさらに強化する事態となった。

 「両者ともに停戦協定を完全に遵守していたわけではないものの、イスラエルによるこの襲撃が最大の協定違反だ」とサンフランシスコ大学のスティーヴン・ズーンズ教授は指摘する。「あの襲撃は大変大きな挑発であり、今から考えればハマスの停戦破棄を誘い出すことを意図したものであったと思う」と述べている。

12月27日にイスラエルがハマス支配のガザ地区空爆を開始した際には、とりわけテレビ・新聞のコメンテーターをはじめ米主要メディアは、停戦違反の責任について、イスラエル領に対するロケット・迫撃砲攻撃を継続し、12月19日に期限が切れる停戦協定の延長を拒否したハマス批判に終始した。

こうしたメディアの論評は、政府高官が米国内のネットワークおよびケーブルテレビのニュース番組に出演するなどイスラエル側の広報戦略に一致するものである。たとえば、イスラエルのリブニ外相はNBCの日曜日政治対談番組「ミート・ザ・プレス」に出演し、ハマス側の停戦違反を主張。11月4日のイスラエル側の攻撃には一切触れずに終わるとともに、番組にはその発言に反論するパレスチナ側のゲストの出演はなかった。

メディア監視団体FAIR(公正で正確な報道)の理事ピーター・ハート氏は「11月4日の襲撃は本質的に、主流メディアの集合的記憶にほとんど存在していない」と述べ、大統領選の報道で賑わうなかイスラエル側の襲撃に関する報道は限られるだろうことをイスラエルは承知していたかもしれないと指摘している。

米主流メディアにおけるイスラエル・ガザ攻撃報道の欠落について報告する。(原文へ

翻訳/サマリ=IPS Japan浅霧勝浩