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|米国|議会、エイズ対策予算可決するも、禁欲主義の影響強く

【ワシントンIPS=ジム・ローブ】

米下院外交委員会は、2月27日、HIV/AIDS・マラリア・結核対策に今後5年間で500億ドルを支出するための法案を可決した。共和・民主両党の間に合意があり、3月中旬には本会議を通過する見通し。 

この法案は、「2003年エイズ・結核・マラリア対策グローバルリーダーシップ法」を拡大したもので、ブッシュ大統領が1月の一般教書演説で約束した額に200億ドルも上乗せしている。

 エイズ問題に関わる活動家らはこの法案を歓迎する一方で、キリスト教右派の主張する反中絶的な内容を盛った法案に民主党が簡単に賛成してしまったことを批判している。 

「グローバルエイズ連合」(GAA)のポール・ゼイツ代表は、草案段階において家族計画や「リプロダクティブ・ヘルス」のための予算が法案に入っていたにもかかわらず、それが最終段階になって落ちてしまったことに失望の色を隠さない。この法律に従えば、中絶を実行したりそれを推進する活動を行っている病院や団体に対しては、予算が支出できない。 

また、売春と人身売買を否定することを拒んだ団体に対しても、支援を行うことができない。しかし、「健康とジェンダー平等センター」のセーラ・シッペル代表は、性労働者はエイズ感染の可能性が最も高い人びとであり、性労働の否定が支援の条件にされてしまうと、現場で効果的な予防策を打つことはできない、と批判する。 

また、「エイズ救済大統領緊急計画」(PEPFAR)では、予算の3分の1が性的禁欲と婚姻生活における性的貞操を促進するために割り当てられている。 

しかし、米会計検査院(GAO)が2006年に行った調査では、性的禁欲と貞操のために予算を割くことは、母親から子供へとエイズが感染することを防ぐプログラムへの予算支出を妨げる効果を生み出すことが明らかになっている。 

米下院外交委員会が可決したエイズ対策予算について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩 

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国連の怠慢によるアフリカとアジアの「大量殺人」

【国連IPS=タリフ・ディーン

スーダン、最近ではケニアで起きている殺害に、国際社会は積極的に取り組もうとしない。そのために大量虐殺、民族浄化はアフリカの他の地域にも飛び火している。

マイノリティ・ライツ・グループ(MRG)のラティマー代表は、国際社会が断固として行動を起こさなければ、2008年も大量殺人が起きるだろうと予測している。MRGが選んだ、世界でもっとも虐殺の危険が大きい20カ国の半分以上がアフリカにある。 

比較的安定していたケニアでも、選挙をきっかけに民族浄化が始まり、1000人以上が殺された。だが、国連も欧州連合も懸念を示しながら具体的行動を起こさなかった。アジア・中東では、アフガニスタンと隣接するパキスタンとイランの危険度が高まっている。

 国連は2005年の総会で「保護する責任(R2P)」を採択したが、2007年にR2Pは失速した。事務総長の交代との関連を指摘するものもいる。潘事務総長はスーダンと米国から虐殺防止とR2P推進のためのスペシャルアドバイザーを任命し、2008年の改善が期待されている。 

NGOもR2Pを支持する行動を始め、大量虐殺問題に取り組む新たな国際組織、R2Pグローバルセンターが2月14日に結成された。国連、国際刑事裁判所、R2P実践活動とともに、大量殺害阻止を目指していく。 

国連の軍事介入は国連憲章第7章に基づき安保理決議により認められている。しかし今後は、国連、R2Pおよび新たなスペシャルアドバイザーによる、大量殺害が始まる前の初期段階での予防外交を重視した活動が進められていくことになる。 

ルワンダとボスニアでは国連が大虐殺を止めることができなかったが、東チモールではインドネシア軍と民兵による人権侵害を終結させることが出来た。最近では、コートジボワール、コンゴ民主共和国で、国連平和維持軍が民族的虐殺を阻止する極めて重要な役割を果たしている。虐殺を阻止するための国連の活動について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

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企業ロビイスト、南スーダンへの投資を奨励

【ワシントンIPS=アビッド・アスラム】

「南スーダンへの積極的な投資は、長引く経済の停滞・混乱状態から同国を救い出し安定化への貢献に繋がるだろう」 

米国によるスーダンへの一方的制裁に反対している『米国外国貿易評議会(National Foreign Trade Council)』や『USA Engage』などの業界団体は近年、海外から南スーダンへの直接投資を促すよう求めている。 

スーダンでは現在、ダルフール大虐殺による非難と米国からの経済制裁により海外からの貿易・投資がストップしている。しかし、南スーダンでは(中央政府とSPLA(スーダン人民解放軍)との和平合意により)2005年自治権を得ることができたため、貿易や投資は事実上可能である。

 
『USA Engage』のジェイク・コルビン氏は「スーダン北部とは異なり、南部では『米国財務省海外資産管理局(OFAC)』」の規定の下での通商は許可されている。未だこの事実を知らない外国企業が多い」と説明した。 

南スーダン自治政府の通商担当、Deng Nhial氏は海外企業からの支援の必要性を訴えた。「我々南スーダン政府は、世界各国(特に米国)からの直接投資を求めていきたい」 

「同国には農業、漁業、建設、輸送、サービス、観光など、成長の期待できる業界が数多くある。最近、南スーダンでの活動を希望するNGO団体や企業からの問い合わせが増えている」と語った。 

企業家らが進めようとしている南スーダンへの投資について報告する。 (原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 


|オーストラリア|豪首相の手腕に注目 先住民に初の公式謝罪

【メルボルンIPS=スティーブン・デ・タルチンスキ】

「首相として、政府として、また議会を代表して謝罪します」。オーストラリアのケビン・ラッド首相は13日、就任後初めて召集された議会の冒頭で、政府による過去の先住民族への政策を謝罪する文章を読んだ。 

この政策はおよそ100年(1869年から1969年まで)にわたり続いたもので、先住民アボリジニおよびトレス海峡諸島民の子供たちを親元から強制的に奪い、白人の家族の中で白人と同じように育て、彼らのアイデンティティを失わせるといったもの。この強制隔離の被害を受けた人々のことを『盗まれた世代(Stolen Generations)』と呼んでいる。

 今回の歴史的な謝罪会見はオーストラリア国内で多くの関心を集めた。国会議事堂近くに設けられた大型特設スクリーンの前には、大勢のアボリジニや市民が集まり、謝罪決議の模様を固唾を呑んで見守った。 

先住民問題についてジョン・ハワード前首相は長い間、謝罪を拒否する姿勢をとってきた。一方で、公式謝罪を(昨年11月の)総選挙での公約としても掲げてきたラッド首相は、まずは前政権との差を国民にアピールしたように見える。さらに、今回の謝罪後に行われた『Newspoll』の最新の世論調査でも、同首相の支持率は急上昇しているという。 

しかし、謝罪は実行されたものの具体的な賠償方法については言及されていない。『National Aboriginal Alliance』のLes Malezer氏は「賠償がなければ本当の謝罪とは言えない。我々は引き続き政府に具体的な賠償を求めていく」と述べた。 

オーストラリアでは先住民をめぐる問題が山積している。ハワード前政権は、北部準州(ノーザン・テリトリー)の先住民族社会に広まる児童性虐待を受け、連邦政府が準州やコミュニティの権限を停止し直接介入することを指示した。具体的には、就学児童への生活保護支給や、北部準州におけるアルコール禁止令の導入、政府による土地の(5年間)賃貸借契約の取得などである。 

金銭面での補償も含め先住民政策を今後どのように進めていくのか、ラッド政権の手腕が問われることになる。オーストラリアで実現した先住民への初の謝罪と今後の課題について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

│パキスタン│タリバンとの和平協定で女性の人権は?

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【カラチIPS=ゾフィーン・イブラヒム】

パキスタン北西辺境州(NWFP)政府とタリバンが、2月16日、停戦協定を結び、シャリーア法(イスラム法)を実施することを決めた。しかし、これによって女性の人権が侵害されるのではないかとの懸念が出ている。停戦協定においては、タリバンがイスラム司法制度をNWFPのスワット、ディル、チトラルの各地区において実行するとされている。 

タリバンがアフガニスタンを支配していた1996年から2001年にかけては、ブルカで顔を覆うか、家族の男性に付き添われない限り、女性が働きに行ったり外出したりすることは許されていなかった。

 今回イスラム法施行の対象となるスワット地区などでは、すでに女性教育が禁止され、100以上の女子校が閉鎖となっていた。 

また、タリバンが、タリバンに対抗した女性地方議員を射殺したり、地元の踊り子の首を切り落としたりしている。タリバン学生運動(Tehreek-e-Talibanの広報担当ムスリム・カーンは、これらの事件について「女性に模範を示す必要があった」と釈明した。 

同氏は「女性はシャリーア法の適用によって利益を得ることになろう」と話す一方で、「女性はイスラムにおいて適切な場所を与えられる必要がある……女性は工場で働くことや、畑で働くことすら許されない。それは男性の仕事であり、男性がその責任から逃れることは許さない」と述べている。 

タリバンによる女性の権利擁護については、疑問視する声が強い。ディル地区で女性のエンパワメントのために活動する団体「Khwendo Kor」のイブラシュ・パシャさんは、シャリーア法に定められた女性の資産への権利をイスラム法廷が本当に守るとは考えられない、と話す。 

女性活動家であるフェイヤル・アリ-ガウハルさんは、シャリーア法が適用されようがされまいが、司法の利用に関して女性の意見は聞かれていない、と話す。「亡くなった夫の兄弟と結婚するという慣習を女性が拒否することができるのだろうか?」と彼女は疑問を呈する。 

女性による道徳違反があったときにその女性を殺してもよいという「トル」(tor)、紛争解決のために若い女性を男性に差し出す「スワラ」(swara)といった慣習も、はたしてなくなることになるのだろうか。 

パキスタンの与党「アワミ国民党」は和平協定を支持している。あとはザルダリ大統領の承認を待つばかりだが、大統領はタリバンがまず武装解除することが先だと主張している。 

逆に、タリバン学生運動側は、パキスタンの治安部隊がスワット地区から撤退すること、タリバン関係者に恩赦を与えることを要求している。 

タリバンによるパキスタン北西辺境州の支配と女性の人権の問題を考える。(原文へ) 

翻訳/サマリ=山口響/IPS Japan浅霧勝浩 

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|イラン|スンニ派学生の死刑判決に見る不寛容の証拠


【テヘランIPS=キミア・サナティ】

Yaghub Mehrnahad, the Sunni Baluchi student leader on death row Credit: Iranonline

イラン南東部シスターン・バルチスタン州においてスンニ派バルーチー族の市民権活動家でジャーナリストのYaghub Mehrnahad氏(28)に下された死刑判決は、イランの民族・宗教少数派に対する抑圧を浮き彫りにしている。 

Mehrnahad氏は、逮捕当時バルチスタン州立大学の学生だった。2002年に自身が創設した青少年団体の年次会合に出席した後2007年4月26日に治安警察に逮捕された。 

同団体は、青少年の文化活動を支援する活動を行っていた。

IPSの取材に匿名を条件に応えたテヘランの学生活動家は「Mehrnahadはバルチスタン州以外では無名に近かった。同州を軽視していると政府を批判し、NGOイスラム人権委員会と協力していたことは確かだ。しかし暴力を提唱しているわけではなかったので、なぜ死刑判決が下されたのか誰もわからない。ただ、彼の家族によれば拷問を受けていたようだ。その証拠を隠すための死刑判決ではないかとの疑念が持たれている」と述べている。 

Mehrnahad氏の判決とその容疑について、公式な発表はいっさいない。逮捕時に、バルチスタンの活動家が過激派Jundullahを支援した容疑で逮捕されたことが新聞で報道されただけだ。報道の自由もない中で、大半の情報は、彼自身のブログや人権関連のニュースを扱うアミル・カビル工科大の学生のニュース・ポータルに頼るばかりだ。 

バルーチー族は、少数民族そしてスンニ派であることで差別を受けている。スンニ派は憲法上合法的なイスラム宗派として認められているにもかかわらず、シーア派と同等の権利はない。憲法は、最高指導者と大統領はシーア派でなければならないと定めている。 

シスターン・バルチスタン州ではこの3年あまり、政府軍とJundullahを含むバルーチーの武装勢力との武力衝突が起こっている。 

アムネスティ・インターナショナルの報告によれば、2007年1月から8月の間にイランで報告された166件の死刑執行のうち55件がバルチスタンにおけるもので、その多くは麻薬密売や殺人の容疑で公衆の面前で執行されている。イランの死刑執行率は中国に次いで高い。 

Jundullahは2月11日の声明で、Mehrnahad氏との関係を否定し、同氏に対する死刑判決を非難している。 

イランにおけるスンニ派少数民族への抑圧について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

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【コソボ、グラカニカIPS=アポストリス・フォティアディス、ゾルタン・ドゥジジン】

首都プリシュティナが独立を祝うアルバニア系住民で賑わうなか、将来を悲観するセルビア系住民は多い。コソボでは人口200万人のうち92%がアルバニア人であり、セルビア人は4%にすぎない。 

17日のコソボ独立宣言に対抗してセルビアは経済関係断絶による報復を示唆、エネルギーなどをセルビアに依存するコソボは窮地に立つ。 

1999年以来コソボを統治する国連コソボ暫定行政ミッション(UNMK)も、アルバニア人とセルビア人の緊張改善に果たす役割は小さい。

 セルビアの飛び地グラカニカでカフェを経営するセルビア系住民は匿名を条件にIPSの取材に応じ、「多くのセルビア人が週末に町を離れ、生活は厳しくなった」という。セルビア系住民は大学進学、交友関係で困難に直面し、セルビア正教会はNATO軍に守られている状況だ。 

ところがプリシュティナ在住のセルビア人はそれほど悲観的でもない。IPSの取材に応じたセルビア語『Gradanski Glasnik』誌編集長Jelena Bjelica氏は「コソボ政府はセルビア人の市民権を認めており、危険は感じない」という。アルバニア系住民から「共存を願う」いったやさしい声も聞かれる。 

コソボ独立を受け、居住地で異なるセルビア人の反応について報告する。 (原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

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【バンコクINPS=マルワーン・マカン・マルカール

プノンペンの空が大きく変容する。韓国の企業がカンボジアの首都に超高層ビル2棟を建設する計画を正式に発表した。42階建てのゴールドタワーは2011年に、53階建てのもう一棟はその翌年に完成する予定である。 

2006年に11%、2007年には9%の経済成長率を示したカンボジアに、新たな発展のシンボルが加わることになる。「プノンペンポスト」紙によると、超高層ビルの建設計画が目白押しだ。だがカンボジアの開発はプノンペン、シェムリアップ、シアヌークビルの3都市に集中し、1400万人の人口の80%が住む農村部は取り残されている。

 国連の世界食糧計画(WFP)の最近の調査によると、カンボジアはいまだに食糧不足、栄養失調で苦しんでいる。人口の35%(460万人)が1日1ドル以下で生活する貧困層であり、そのうちの90%が農村部に住んでいる。 

たとえばシェムリアップは数年で次々と豪華なホテルができて、14世紀以前に造られたアンコールワットなどの名所に観光客が飛行機で訪れて急成長している。だが観光収入が都市の境界を越えることはない。25キロ離れれば教育もなく職も得られない人々が貧困に喘いでいる。 

ユネスコの世界の教育に関する報告書「グローバルモニタリングレポート2008」によると、カンボジアでは小学校の留年率が最も高く、24%だった。またカンボジアとラオスは幼児の保育および教育の普及率が東南アジアで最も低く、就学前に教育施設に通う3~5歳児はそれぞれわずかに9%、8%だった。 

世界銀行もカンボジアの貧困削減の努力は認めながら、貧富の差が問題であるとしている。富裕層の購買力は45%高まったが貧困層は1%でしかない。アムネスティ・インターナショナルはフンセン首相の開発プロジェクトの強引な進め方に警鐘を鳴らしている。開発のために居住地から強制的に立ち退かされ、さらにひどい貧困に陥る人々も多い。 

開発の進むカンボジアの貧困問題について報告する。(原文へ) 

INPS Japan浅霧勝浩 

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|フランス|アフリカの独裁者との腐敗した関係に新たな疑惑

【パリIPS=ジュリオ・ゴドイ】

フランス各地で汚職事件が問題になる中、クシュネル仏外相がアフリカの独裁者とのビジネスに自らの立場を不当に利用した疑惑が起きた。クシュネル外相を告発したのはジャーナリストのP. ペアン氏による、「Le Monde selon K(Kによる世界)」という著作である。 

この作品によると、クシュネル外相が共同所有し、政策助言業務を行っているIMEDIA 社とアフリカン・ステップス社が、腐敗した独裁者が統治するガボンとコンゴ共和国の政府との有利な契約を得たのは、同外相が医療協力組織の代表を務めていた時だった。ガボンのボンゴ大統領とコンゴのドニ・サスヌゲソ大統領は姻戚関係にある。 

ペアン氏は両アフリカ政府の公式文書によると460万ユーロがクシュネル外相の関与する二社に医療部門のコンサルタント料金として支払われたと主張し、助言は違法ではないが、同外相が当時アフリカ諸国に医療協力を行うEstherの代表を務めていたこと、最後の支払い時には外相に就任していたことを問題としている。

 IPSは証拠となる書類のコピーを入手した。ペアン氏はクシュネル外相が築いている清廉潔白なイメージとの落差を批判する。クシュネル氏は1980年代に社会党員になったが右派のサルコジ政権下で大臣になるために党を離れた。外相は疑惑を否定し、アフリカ政府への医療支援は誇るべき仕事であり、ペアン氏を名誉棄損で訴えると発言した。 

相手がアフリカの独裁者であることもクシュネル外相への疑いを強める要因となっている。組織金融犯罪対策の警察機関OCRGDFによると、両大統領には仏国内に莫大な資産があり、ボンゴ大統領個人でパリと南フランスに33カ所の不動産を所有している。 

2007年末に人道活動組織の告訴でアフリカの独裁者の資産に関する捜査が開始されたが、不正を示す証拠にも関わらず捜査はいったん打ち切られた。昨年12月に汚職監視組織トランスペアレンシー・インターナショナルが新たに告訴したことから捜査は再開されている。 

それでもアフリカの独裁者が裁決や制裁を受ける可能性は低い。サルコジ大統領のそうした国への支援は揺るぎない。 

2008年1月に国際協力担当のボケル副大臣は、国家元首によるアフリカの資源の無駄遣いという発言により免職となった。ペアン氏によると、クシュネル外相にアフリカ諸国から苦情が告げられた。現在ボケル氏は国防省の退役軍人担当副大臣を務めている。 

フランスのクシュネル外相の疑惑について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan 

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クメール・ルージュ裁判で画家が当時の看守と対面に 

【バンコクIPS=マルワーン・マカン・マルカール】 

1970年代にカンボジアで行われた大量虐殺の加害者側と被害者側の2人が、今年中に、プノンペンで開かれる戦争犯罪を裁く特別法廷で対面することになるかもしれない。

そのひとりヴァン・ナト氏にとっては、30年近くもひたすら待ち続けてきた機会となる。彼は、1975年4月から1979年1月まで残虐なクメール・ルージュが政権を掌握していた時期刑務所として利用されていたカンボジアの首都プノンペンの中等学校トゥオル・スレンから生きて出てこられたわずか7人のうちの1人である。

少なくとも1万4,000人の被収容者は、彼のように幸運ではなかった。彼らは、拷問を受け、殺害された。


もうひとりは、過激派組織マオイスト(毛沢東主義派)の間ではS-21の呼称で知られていたトゥオル・スレン刑務所の所長カイン・グェック・イヴ(通称ドゥッチ)である。彼は現在、クメール・ルージュの他の4人の生き残り幹部とともに、国連が支援する戦犯法廷の管理下に置かれている。この戦犯法廷「カンボジア裁判所特別法廷(ECCC)」は、今年中に第1回審理を行う見込みである。

「クメール・ルージュの幹部らが法の裁きを受けるのを30年近く願ってきた。ドゥッチの裁判に出て、きちんとした判決がなされるのか見守りたい」と、1979年1月に自由の身となって以来S-21での1年に及ぶ苦悩を抱え続けてきたナト氏は話す。

しかし、白髪に加え、黒く濃い眉毛の先も白くなった61歳のナト氏は、さらなる行動をとる覚悟もできている。最近の訪問先バンコクで取材に応えた彼は、「法廷が証人として私を必要とするならば、出廷して証言する用意がある。私に出廷を求めるかどうかは、法廷の機密事項だと思う」と述べた。

もし出廷することになれば、カンボジアでの伝説的な存在であるナト氏の立場がさらに強まることは間違いないだろう。彼は、S-21における恐怖を実体験した被収容者のひとりであるばかりでなく、自由の身となって以来、自らの悲惨な体験を絵画を通じて生々しく、率直に伝えることを自らの使命としてきた。それは、彼の記憶から流れ出て凍結した苦悶の一瞬、一瞬を描いたものである。

1980年にトゥオル・スレン・ジェノサイド博物館で初めて絵画展を開いて以来、数々の絵画展を通じて、むち打たれ、爪をはがされる囚人たち、クメール・ルージュの看守に首を輪切りにされる囚人、看守に胸に抱いた赤ん坊を奪い取られ、殴打される母親など、さまざまな囚人の姿が伝えられた。今週バンコクで開幕した絵画展では、鎖につながれた囚人や、2人の看守に連れられていくナト氏自身のやせ衰えた姿も描かれ、心傷む内容である。

ナト氏の絵は、国民の4分の1に当たる170万人近くを殺害したとされる、クメール・ルージュ政権の恐怖をまさに如実に描き出している。乳児すら含む犠牲者の大半は、処刑されたかあるいは強制労働や飢えで死んだ。これには、ナト氏が収容されている間に飢え死にした彼自身の息子2人も含まれる。

キャンバスに向かうためこうした記憶を掘り起こすことで、心が慰められたり、創造的な喜びを味わうことはない。「看守に引きずられていく囚人を描くのは、今もって本当に辛い」と、ナト氏は感情を抑えた声で語った。「当時のあそこでの苦しい記憶が甦る。でもだからこそ絵を描き、暗く悲痛なあの時代を記憶にとどめるのだ」

実際、S-21での体験を書いたナト氏の著書は、彼が絵に描く苦悩がいかに真実に近いものかを物語っている。「トゥオル・スレンの元虐殺者」とナト氏が呼ぶ元看守と相対したとき、ナト氏は彼に刑務所の描写がどれほど正確かを尋ねた。それは1996年初頭に対面した時のことだったが、元看守は「いや、誇張ではまったくない。もっと残虐な場面もあった」と答えた。 

 「看守たちが母親から赤ん坊をもぎ取り、別の男がその母親を棒で殴打している絵を見たか」ナト氏は、著書『カンボジア刑務所ポートレート』で今は解放されたクメール・ルージュの看守に続けて問うたことを記している。「あなたや看守たちは、赤ん坊をいったいどうしたのか。どこに連れて行ったのか」

看守の答は次の通りだった。「連れ出して殺してしまった。赤ん坊は全員殺害するよう命令を受けていた」

「あの可愛い赤ん坊たちを殺害したとは!」と、ナト氏は苦悶に満ちた自らの返答をこのように書いている。「私は言葉を失った。彼の最後の陳述は嘘ではなかった。私は心の奥底で、彼らは子どもには危害を加えなかっただろうと、今までずっと思っていたのに」

しかしこの「トゥオル・スレンの画家」は、こうしてあまりにも多くの苦悩を呼び起こす画家という仕事こそが、刑務所を生きて出られた理由でもあると認めた最初の人物でもある。貧しい農家に生まれたナト氏が拘束され、S-21に連行されたのは、彼の画家としての才能が見込まれてのことだ。それまでナト氏はプノンペンからおよそ300kmの北西部の都市バッタンバンで広告看板の絵描きをしていた。

彼は、刑務所の拷問官から、ほとんど見も知らぬクメール・ルージュの指導者ポル・ポトの肖像画を描くように命じられた。彼は最初、人目を避けた独裁者の白黒写真を基に、モノクロの絵を描いていた。後になって彩色の絵を描くようになった。

当時ナト氏は、生きるために描いていることを知っていた。ミスは許されなかった。一緒に収容されていた画家仲間の中には、描いた肖像画が看守に認められず、処刑された者もいた。

最終的な審判者だったのがドゥッチだ。彼はナト氏が描いたポル・ポトの肖像画を詳しく調べて、「上等だ」、「結構」と言った。

とは言え、ナト氏の仕事がいかにドゥッチに気に入られていたかを知ったのは、クメール・ルージュがベトナム軍によって政権の座を追われた後のことである。1980年トゥオル・スレン・ジェノサイド博物館で働いていた時ナト氏は、刑務所の文書を調べていた研究者からあるリストを見せられた。

それは、1978年2月16日にドゥッチが許可した囚人の処刑リストだった。リストにはナト氏の名前もあったが、「画家は生かしておくこと」と赤インクで書かれていたという。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩


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