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|中米|平和の時代でありながらも今なお貧困と暴力が深刻

【グアテマラ・シティIPS=イネス・ベニテス】

1980年代半ばグアテマラ、ニカラグア、エルサルバドルと武力紛争が激化していた中米も、1987年の和平合意成立により和平の基盤が築かれた。それから20年、しかし内戦の背景にあった社会的要因は依然存在し、新たな紛争の潜在的脅威となっている、とアナリストらは警告する。

和平合意は、自由と民主主義において、中米各国は、極貧のない平等主義の社会を達成するため、発展の促進を目指す合意を採択すると言明した。

1996年の和平合意により36年にわたる武力紛争が終結したグアテマラだが、経済的・社会的周縁化と貧困は依然根深く、富の集中が著しい。1日1ドル以下の生活を送る極貧層は、1990年の20%から2000年には一旦16%に減少したものの、2004年には21.5%に再び上昇した。子どもの48%は栄養不良に苦しむ。エコノミストのミゲル・アルトゥロ・グティエレス氏は、貧困と社会的不平等に関しては、ほとんど変わっていないと言う。

 1992年の和平合意によって12年の紛争に終わりを告げたエルサルバドルは、富のより公平な分配や貧富の格差解消に期待が持たれたが、1989年以来の右派国民共和同盟(ARENA)政権のもと不平等と富の集中化が進んでいる。エコノミストのアルフォンソ・ゴイティア氏は「見せかけの法的メカニズムの下で、再び権威主義、弾圧、迫害の問題に直面している。新たな社会紛争の引き金となりうる状況に戻りつつある」と、社会・人権活動家に対する脅迫や攻撃に言及して指摘する。

ニカラグアでは、18年に及ぶソモサ政権に対する武力闘争とそれに続く11年間のコントラによるサンディニスタ国民解放戦線(FSLN)政権に対する反政府闘争、さらには米国による経済制裁で経済が疲弊したことに加え、内戦による100万人以上の難民と4万3000人(3万人の説もある)の犠牲者が生まれたことを背景に、サンディニスタン政権とコントラは停戦を合意、1990年に内戦は終結した。平和が訪れたものの、ニカラグアは米州諸国の中でハイチに次いで2番目に貧しい。極貧層は1990年の19.4%から2006年には14.9%にわずかに縮小しただけで、エコノミストのアレハンドロ・マルティネス・クエンカ氏によれば、2005年において農村人口の70.3%は依然貧困生活を送っている。

1987年の中米和平合意により和平が実現したものの、ミレニアム開発目標(MDG)の履行状況に関する国連開発計画(UNDP)の各国報告書によって貧困が依然深刻であることが明らかとなった中米3カ国について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

米国のモン(Hmong)族の若者が直面する暗い歴史

【サンフランシスコIPS=ゴック・グエン】

米国のモン族コミュニティは、6月4日にカリフォルニア在住のモン族11人が「ラオス政府の転覆を謀った」として逮捕されたことで、一躍米国全土からの注目を集めた。

逮捕者の中には、ベトナム戦争の際、ラオスのモン族の「秘密軍」を率いた77歳のバン・パオ将軍が含まれていた。「秘密軍」は、ラオスとベトナムの共産勢力に対抗して米軍を援護するためにCIAが支援していた。

バン・パオとその共謀者10人は、米国と友好関係にある国の侵略を計画し、いわゆる中立法に違反したとして起訴された。司法省の関係者は、容疑者たちがAK-47アサルトライフル、地対空ミサイルおよび対戦車ミサイル、地雷、ロケット弾、その他の爆発物を入手しようと謀っていたという。

 その後、裁判官がほとんどの容疑者の保釈を命じ、事実審理前協議は7月25日に予定されている。

パオと共謀者が拘束されていた間には、米国に住む数千人のモン族の人々がカリフォルニアの州都、サンフランシスコの裁判所に押しかけ、容疑者全員の釈放を要求した。

抗議するモン族の人々の中にダニエル・シオン(21)がいた。在住するカリフォルニアのストックトンの町で、抗議集会に参加するために若者を組織化しようと活動し、抗議集会では地元の警察とも協力して治安の維持に努めた。シオンは、バン・パオ将軍とその他の人々の逮捕がモン族のコミュニティにマイナスのイメージをもたらしたという。

「ある日、朝起きて仕事に行ったら、やってきた上司に、お前たちはテロリストだと言われた。違いますと答えたが、モン族のコミュニティがテロリスト呼ばわりされることを悲しく思う」とシオンはいう。

両親がカリフォルニアの抗議集会に参加した、ニューヨークシティに住むモン族の米国人大学院生(25)は、「バン・パオを支持するかしないかにかかわらず、今回の抗議は米国のモン族コミュニティを、初めて世代を超えて団結させた」という。逮捕によって、これまで知らなかった歴史を振り返ることになったものもいる。米国に住むモン族の第二世代の多くがそうである。

名前を明らかにしないこの女子学生は、カリフォルニアのフレスノ郊外で育ったという。フレスノには大きな米国人モン族コミュニティがある。子供の頃から、故国の歴史を聞かされていたのは、両親が活動家であり、父方母方双方の祖父は秘密戦争の時に米軍に味方して戦ったからだった。彼女にとってバン・パオと共謀者の逮捕は、戦争の古傷を疼かせるものだった。

「ラオスでモン族が米国に裏切られた過去の再来という印象をもつ」という。「米国は米軍部隊を退却させて、モン族社会を自分たちだけで対処するよう置き去りにした。これがラオスでの人権侵害の引き金になり、そのひとつが広く知られている戦後の大量虐殺で、ラオス政府はモン族を追い詰めて殺し、そのために多くが国外逃亡した」

ラオス政府の手による報復を避けて、多くのモン族は難民として逃げ出した。数万人が隣国のタイで新生活を始めた。現在米国にはおよそ25万人が住んでおり、カリフォルニア州、ウィスコンシン州、ミネソタ州にモン族コミュニティが多い。
 
 1990年代に、タイに住んでいた2万9,000人のモン族がラオスに送還された。米国のモン族の中には、モン族はラオスで差別、迫害、暴行に直面していると主張する者もいる。ラオスに住むモン族は同じような少数民族ユーミエン(ヤオ)族を加えても、およそ650万の人口のうちの10%以下である。

ラオス人民民主共和国(PDR)のフィアネ・ピラコネ駐米大使はラオスでモン族に対する人権侵害が行われていることは否定している。だがアムネスティ・インターナショナルのアジア担当弁護ディレクター、T.クマル氏は、モン族は「人権侵害の観点からひどい状態」にあるという。

ラオスのジャングルに隠れ住むモン族はおよそ2,000人いて、今なお、ベトナム戦争時代の武器を使って、ラオス軍と小規模の戦闘を行っている。クマル氏によれば、この民族は貧窮した危険な状態で生活しており、食糧や医薬品も不足し、軍隊の襲撃をたびたび受けている。

アムネスティ・インターナショナルはラオスに住むモン族の2つの集団について心配している。ひとつはタイからラオスへ送還された人々で女性と子供を含んでいる。もうひとつはいまだにジャングルで勝ち目のない戦いを続けている集団である」とクメル氏はいう。「どちらの集団にも連絡が取れていない。ジャーナリストや国際監視団も接近できない状態だ」

米国に渡ったモン族の第二世代にとって、今回の事件は自分たちの歴史とラオスのモン族の現在の状況について話を始めるきっかけとなった。

ダニエル・シオンは、米軍が終戦後モン族の同盟軍を置き去りにしたことを最近知ったが、米軍に入隊しようという気持ちは変わらないという。モン族社会に「テロリスト」のレッテルを張る人々に対する反証として、シオンは志願してイラクに行きたいと語った。

「我々モン族には故国がない。けれども米国にやってきて、米国が故国になった。自分は故国のための戦闘に参加する。平和のための戦いであり、過去に捨て去った故国のための戦いでもあるから」

数年前、米国のモン族コミュニティは別の問題で分裂した。米国とラオスの通商関係の正常化問題である。両国は2003年に貿易協定を結んだが、それは2005年まで公式のものではなかった。米国のモン族の中には、正常通商関係に反対し、米国は人権侵害をやめるようラオスに圧力をかけるべきだと感じる者がいたからだ。

モン族コミュニティのまた別の人々は、通商関係が促進するのは平和への道だと考えている。

米国ユーミエン同盟代表のセン・フォ・チャオ牧師は、ラオス系米国人の代表の1人として2005年12月にラオスへ渡り、ラオスとの商取引を拡大し、人的パイプを作り上げた。牧師もまた、ベトナム戦争のときに米軍の兵士とともに戦ったが、その後はモン族とはまったく異なる人生をたどった。

チャオ牧師はユーミエン族に属し、この民族はラオス、中国、タイ、ベトナムに広がっている。バン・パオ将軍の逮捕については、牧師の組織は「中立的立場」を取ることを決めている。

「ラオス本国のユーミエン族は騙されてジャングルへ誘い込まれ、1975年から87年まで政府軍の兵士と戦った」とチャオ牧師はいう。「だが生き残ったユーミエン族は武器を置いてジャングルから出てきて、1987年に政府軍側に投降した。それ以来ラオスのユーミエン族はラオス政府および世界と友好的な関係にある」(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩


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|カンボジア|クメール・ルージュ大量虐殺裁判始まる

【バンコクIPS=マルワアン・マカン・マルカール】

カンボジア裁判所特別法廷(ECCC)は7月18日、長らく待たれていたクメール・ルージュ大量虐殺事件裁判の被告5人の名前を提出した。クメール・ルージュは、国民の1/4に当たる170万人を殺害したといわれる。

シエラレオーネ特別戦争犯罪裁判で弁護側顧問を務めた英国のルパート・スキルベック氏は、「大量虐殺は、国籍、人種、宗教を理由とした民族破壊のための暴力行為と定義されているが、政治的理由から人々を殺害したカンボジアの場合は違う」と語っている。

 同裁判により、カンボジアがベトナム戦争に引きずり込まれた60年代から70年代初めに同地域に関与していた大国を動揺させるような事実が明らかになるかもしれない。米国が承認したカンボジア爆撃は既に立証されており、中国が虐殺政策を進めていたクメール・ルージュを支援していたことも明らかになっている。

スキルベック氏は、「虐殺された人々の数を特定するには、米国の違法爆撃について触れない訳には行かない。裁判の過程で、多くの国にとって不都合な事柄が明るみに出るだろう」と語る。

クメール・ルージュのリーダー、ポル・ポトは1998年に死亡。カンボジアでは「屠殺人」として知られるタ・モクも昨年6月に死亡した。カンボジア・メディアによれば、ECCC裁判にかけられるのは、ポル・ポトの副官ヌオン・チェア、当時の首相(former head of state)キュー・サンファン、外務大臣イエン・サリ、トゥオル・スレン刑務所の所長カン・ケク・イアブ(Eav)等5人という。カンボジア裁判所特別法廷による「キリング・フィールド」裁判について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

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|ネパール|毛派、動員解除に難色

【カトマンズIPS=ダマカント・ジェイシ】

ネパールの和平プロセスに対する共産党(毛派)の注文が日ごとに強くなってきている。まず問題になったのが、毛派兵士の動員解除だ。

毛派は、06年5月25日時点で18才未満か、同日以降に入隊した兵士は、同派のキャンプを離れなくてはならないという条件にかつて合意していた。しかし、国連ネパールミッション(UNMIN)の監視の下で行われているこの動員解除プロセスを毛派は妨害し、動員解除よりも先に、治安部門改革の中に毛派元兵士を組み込む計画の策定がまず先だとの条件を突きつけてきた。

 7つの主要宿営地および21の副宿営地における第1段階の調査では、毛派の兵士が3万892人、武器が3428個あることがわかった。しかし、兵士数に比して武器数が少ないのではないかとの疑問が他政党やネパール軍などからは出されている。

他方で、毛派のプラチャンダ議長は、UNMINが毛派の人民解放軍の兵士40%を動員解除するという目標をあらかじめ設定していることを非難した。また、DDR(disarm, demobilise and reintegrate=武装解除、動員解除、再統合)モデルを適用して人民解放軍を破壊しようとしていることについても非難した。

しかし、UNMIN側は、毛派を含めた8党派の間で昨年合意されたことを実行しているに過ぎないと反論している。毛派が宿営地査察の一時停止を求めて以降、毛派を含めた与党各党派とUNMINの間で何度か協議が行われた結果、7月18日、毛派のナンバー2であるバブラム・バッタライが、査察プロセスをあらためて容認することを示唆した。

ジャーナリストのカナック・マニ・ディクシット氏は、こうしたプロセスの中で毛派が世間の目を徐々に気にしだしていることを好意的にとらえ、「毛派はひとつの政治政党へと脱皮しつつあることをこれは示している」と話した。

ネパールでは、毛派の動員解除に加えて、新憲法制定という大きな政治課題も待っている。制憲議会のための選挙は、11月22日に予定されている。

ネパール毛派の動員解除の問題について伝える。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan

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|米国|プロパガンダとニュースの間の曖昧な境界線

【ワシントンIPS=コーディー・アハヴィ】

ノーマン・ソロモン制作のドキュメンタリー映画「War Made Easy」(仕組まれた戦争)がショッキングな事実を伝えている。同映画は、メディア業界および報道内容に関する教育プログラムを提供している非営利機関「メディア教育協会」の依頼により政策されたもの。同協会の顧問には左派学者のノーム・チョムスキー、コーネル・ウェストなどが名を連ねている。

 ソロモンは、ブッシュ政権のイラク侵攻計画を分析しながら、CNNの重役イーソン・ジョーダンが、同社の軍事専門家について自慢する場面を取り上げている。実際CNNの軍事アナリストは退役将校で、イーソンによれば、彼等は米政府のお墨付きを得ているという。これは、ジャーナリスムの独立性という理念を掲げるベテラン・ジャーナリストの怒りをかう発言だろう。しかし、戦時下の米国では、メディアと政府の関係は変化している。ソロモンの作品では、それはメディアと政府の癒着のほんの一例でしかない。

ショーン・ペンがナレーションを務める「War Made Easy」は、9月11日のテロ攻撃以降のブッシュ政権の干渉主義と情報操作を糾弾する反戦映画で、ケーブル・ニュース・ネットワークのビデオ・クリップ、大統領声明、米国の過去戦争のフィルムを使い、過去と現在の宣伝工作技術の比較を行っている。ニクソン大統領のベトナム戦争拡大のレトリックとブッシュ政権の「イラクが台頭すれば、米国は滅びる」との宣言には大きな類似が見られる。

ソロモンによれば、米国の大手メディアは、ブッシュ政権の仕掛けの一部であり、“漏洩情報“を手段に米市民に戦争を売り込んだのである。例えば、CNNのウォルター・アイザックソンは、ニュースアンカーおよびレポーターに対し、視聴者に何故戦争が始まったのかを思い起こさせるよう求めるメモを回覧。その結果、画面一杯に破壊されたグランド・ゼロの清掃の模様が流された。

イラク戦争開始から5年。ベトナム戦争とイラク戦争の歴史的類似が明らかになっているが、「War Made Easy」は、視聴者に政治リーダーおよびニュースアンカーの発言を鵜呑みにするような仕組みを作っているメディアに対する時宜を得た批判となっている。大手メディアの政府加担を批判するドキュメンタリー映画「 War Made Easy 」について紹介する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan 


 

|パラグアイ|ストロエスネル独裁政権の弾圧調査を開始

【アスンシオンIPS=デイビッド・バルガス】

パラグアイの「真実正義委員会」(CVJ)は、35年に亘り同国を独裁支配したアルフレード・ストロエスネルの時代に不法拉致された2000人の犠牲者および家族の証言収集キャンペーン「歴史検証のための証言2000」を開始した。7月10日に始まった同キャンペーンは、スイス政府とパラグアイ・メディアの協力による。 

パラグアイ政府は1996年に独裁の存在を認め(1954-1989)ており、これら証言に基づいて作成される報告書を、政府見解として発表する方針である。CVJのマニュエル・ベニテス・フォロレンティン委員長は、既に1万2350の証言が記録されたと語っている。非政府組織「拘束誘拐者遺族の会」(Association of Relatives of the Detained ?Disappeared)によれば、殺害された人の数は3000から4000に上るという。 

テレビ局は、13年間の刑務所生活を強いられた俳優エミリオ・バレトの話をスポットで流し、犠牲者に対する証言呼びかけを行っている。これまでに、人権活動家、反対政党リーダー、小規模農家の組合活動家、軍内部の反対者などが証言。中には、反対派に共鳴する発言を行っただけで、拘束/拷問を受けた者もいる。

 独裁政権は、社会に深い傷跡を残した。証言採取に当たっている社会学者ホセ・カリオス・ロドリゲス氏は、「民主化導入から20年を経ても、人々は選挙権をいかに行使するかも知らない」と語っている。 

南アメリカに幾つかの独裁政権が存在した1970年代、80年代には、亡命した反対派メンバーに関する情報を各国で交換し、誘拐/殺人を行うコンドル作戦が存在した。1992年に発見された報告書により、同計画に対するストロエスネルの責任も明らかになっている。来年発表予定の報告書では、犠牲者に対する道徳的/金銭的賠償が提案されることになろう。(ストロエスネルは、1989年に失脚しブラジルに亡命。同地で2006年8月に93歳で死去した)パラグアイ独裁政権の反対派弾圧実態調査について報告する。 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 


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|米国|ブッシュ・ムシャラフ関係への疑問の声

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【ワシントンIPS=ジム・ローブ】

パキスタンのムシャラフ大統領との間で米国が築いてきた同盟関係を再考すべきとの声が米国内で上がり始めている。

ムシャラフ大統領は、米国の「テロとの戦い」の協力者である一方、パキスタンの部族地域においてタリバンの活動を黙認することで、実質的にそれを支援する役割を果たしてきた。しかし、パキスタンをこうした2重の役割から脱却させ、できるだけ早く民政移行しイスラム過激派とのつながり断ち切らせるべきだという意見が強くなってきた。

 だが、ブッシュ政権はそうした意見に耳を傾けそうもない。むしろ、イスラマバードのモスクと神学校に対してムシャラフが掃討作戦を仕掛けたことをきっかけにして、部族地域のイスラム過激派を厳しく取り締まってくれるのではないか、と望みをつないでいる。ブッシュ大統領自身は、この掃討作戦の最中、「ムシャラフ氏はこうした過激派に対する戦いの強力な同盟者だ」と発言している。

中央情報局(CIA)でかつて南アジア問題の責任者を務め、クリントン政権とブッシュ政権の両方で国家安全保障会議(NSC)に奉職したブルース・ライデル氏は、「ムシャラフ将軍が、米国の大統領に対して、もし自分を支援しないならば、次の大統領は『ひげの生えた人間』になる、と言っているのを聞いたことがある」とラジオ番組の中で今週発言した。

「ひげの生えた人間」とは、言うまでもなく、イスラム過激派のことである。ムシャラフ大統領は、過激派対策をやるといって自分を米国に売り込んでいるのである。

ライデル氏は、そうした政策を続けるよりも、国外に亡命している民主勢力や国内の民主運動に働きかける必要があるのではないか、と語った。

再考されつつある米・パキスタン関係について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan 

オガデン地方における反政府勢力鎮圧作戦で増大する人的犠牲

【ワシントンIPS=ジム・ローブ】

エチオピアのオガデン地方でソマリ人反政府勢力「オガデン民族解放戦線」(ONLF)とその支援者と疑われる市民に対する鎮圧作戦が強化されており、人権擁護団体の批判とともにエチオピア政府の忠実な同盟者ブッシュ政権からも懸念が高まっている。

鎮圧作戦は、一部専門家によれば、中国人9人を含む74人が殺害された4月のONLFによる中国系石油施設襲撃事件に遡るもので、ソマリ人住民を著しい苦境に陥れていると、7月4日ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)はオガデン地方の状況について声明を発表した。


HRWアフリカ担当ディレクターのピーター・タキランブッデ氏は、「エチオピア軍は村落や財産を破壊し、家畜を没収し、村民を強制移住させている。背景となっている軍事戦略がいかなるものであろうとも、こうした虐待は戦争法を犯すものだ」と述べている。

しかし鎮圧作戦は、イラクの米軍の場合と同じように、隣国ソマリアのゲリラ戦の泥沼にますますはまっているエチオピア軍に更なる重圧をかける結果にもなっている。

エチオピアのメレス首相は先週、イスラム法廷連合(ICU)を権力の座から追い出した昨年末のソマリア介入について「政治的予測を誤った」と失敗を認めた。

ワシントンの議会調査局のアフリカの角地域専門家テッド・ダグネ氏は、「エチオピアのソマリア介入は、ソマリアの不安定さと混乱を一層悪化させ、あらゆる局面においてエチオピアの脆弱性を増した」と評す。

エチオピアのソマリア介入を支持し、侵略後特定の「テロリスト」への攻撃も行なってきたブッシュ政権は、オガデン地方で進められている鎮圧作戦を公には批判していない。

しかし同時に、米高官らは、軍による殺人、レイプ、村落への放火を含む深刻な人権侵害について、またこうした事態が続くことで、アルカイダ民兵をかくまっているとして米政府が非難しているICUやその他反エチオピア勢力をオガデン地方に引き付けることになり、現在は2地方間の紛争に留まっているものをより広範な地域戦争に変容させるのではないかと、非公式に危惧している。

エチオピア軍の反政府勢力鎮圧活動による情勢を報告する。(原文へ)

翻訳/サマリー=IPS Japan

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|ドイツ|アフガニスタンへの軍事関与をめぐる懸念

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【ベルリンIPS=ジュリオ・ゴドイ】

2001年末にドイツがアフガニスタンの軍事介入に乗り出して以来、21人のドイツ兵が殺害され多くが負傷した。さらに開発業務に携わるドイツ人技術者が誘拐されるという事件もあった。軍事活動により多数のアフガニスタンの人々も犠牲になっている。 

ドイツでは、アフガニスタンでのいわゆる「不朽の自由作戦」へのドイツの軍事関与について、懸念が生じ始めている。米国主導のこの作戦には、ドイツの特殊部隊の兵士100人が関わっている。 

ドイツは、北部で復興事業従事者を警護する国連治安支援部隊(ISAF)にも3000人の兵を派遣するとともに、トルネード偵察機6機を投入している。 

メルケル首相のキリスト教民主同盟(CDU)はアフガニスタンでのドイツ軍の活動を支持しているが、連立与党の社会民主党(SPD)は軍事作戦の成果を危ぶみ、市民の犠牲者が多いことが新たなテロを生み出しているとして、議会は軍事介入の承認をやめるように呼びかけている。3月のアフガニスタンへの軍用機派遣決議でも、多くのSPD議員が反対票を投じた。 

緑の党はこの件に関し、特別党大会を開いて議論する予定である。緑の党は2006年の「不朽の自由作戦」参加決議には反対したが、3月のトルネード偵察機派遣については過半数が賛成した。左翼党はドイツ軍のアフガニスタンへの介入に反対している。 

7月7日の世論調査では、CDU支持者55%を含む回答者の66%が、ドイツ軍のアフガニスタンからの撤退を望んでいた。ドイツの憲法は侵略的軍事作戦を禁じており、反対派はドイツの介入が違憲に当たると訴えたが、憲法裁判所は7月3日に憲法違反ではないと裁定した。政府高官はアフガニスタンへの介入はタリバンを退けて復興支援するために必要だとしている。 

10月に議会で予定されている軍事介入再承認の投票で、反対派が介入継続を阻止できるかどうかは確かではない。アフガニスタンの復興には期待通りの進捗が見られないのが現状だが、国民の80%は医療を受けられるようになり、600万人の子供が学校へ通い始めている。復興を進めるには治安回復が必須である。ドイツのアフガニスタン軍事介入問題について報告する。 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩

|アフガニスタン|若き音楽家、古典復活に尽力

【カブールIPS=ジェローム・ルイス】

アフガニスタンの文化の中心地を爆弾やロケット砲で瓦礫の山とすることはできただろうが、数世紀に亘るヒンドスタニー古典音楽に対する人々の愛着を完全に破壊することはできなかった。 

カブール旧市街の1つカラバットは、1990年代の派閥闘争前は、偉大な音楽伝統のメッカであった。 

ガザル(ペルシャの宮廷恋愛詩に基づいた音楽)演奏で1919年に“祖国の父”賞を受賞したがウスタッド・カシミを始めとする有名音楽家達もこの歴史的地区にある土壁の家に住んでいた。 

しかし、1992年のソ連軍追放後に始まった敵対ムジャヒディン(聖戦士)グループの武装闘争で、彼等はカラバットを去った。それから4年後、イスラム神学校出身の過激派タリバンの台頭で、非イスラムのレッテルを貼られた音楽は完全に禁止された。

 音楽が解禁されたのは、米同盟軍がタリバンを制圧した2001年10月以降である。 

それから5年、カラバット再建は進んでいないが、資金不足や大きな困難にもめげずアフガンの若き音楽家達は、同国の伝統音楽継承に努力している。 

30年の戦争で、アフガニスタンは偉大な音楽家の殆ど失った。楽器も破壊された。音楽家達は投獄、殺害され、生き残った人々も多くが海外へ亡命した。 

タリバン時代に成長したシタール奏者ナッシール・アジズは「アフガンの音楽家達は、紛争、強制移住、軽視により大きな試練を経験した」と語る。 

アジスや声楽家ワリ・ファテ・アリ・カーンのような若きアフガン音楽家は現在、偉大な音楽家の遺産を引き継ぐと共に、その伝統に新たな表現を吹き込んでいる。カーンは、“ベイデル”として知られるミルザ・アブドルカデール(1644-1720)の楽曲を歌っている。 

タリバン政権下で育ったアジスは、父のパキスタン、インド古典音楽コレクションや衛星音楽番組を何度も聴きながら、独学でシタールを学んだ。アジズは演奏に際して、(タリバンに音が聞こえないように)シタールの弦にティッシュを巻いて音が出ないようにした。 

 彼は、アフガニスタン音楽家達を代弁して「我々は音楽が本当に好きだ。困難にもめげず、音楽訓練に最善を尽くしている。もちろん、長い道のりということは承知しているが」と語っている。 

今日の姿のヒンドスタニー古典音楽は、1863年にアフガニスタンの文化向上を図るアミール・シール・アリ・カーン王により採用された。それは、インド/アフガニスタン間の数百年に亘る征服と文化融合の結果であったろう。 

現代の北部インド古典音楽の形式/ジャンルを生み出したインド/アフガンの文化融合は、10世紀終わりのイスラムによる北インド征服をルーツとする。 

征服者の多くは南部アフガニスタンの出身で、彼等自身が芸術家、詩人または芸術、文学の庇護者だったのだ。その中でも特に有名なのがサルタン、マムード・ガンズナヴィ(997-1030)であった。フィルダウシ・トウシ(935-1020)の傑作「シャーナマ」は同サルタンの依頼により作曲されたもので、ペルシャ文学の古典とされている。 

文学および芸術はイスラムの伝統であるスーフィズム(イスラム神秘主義)に強く影響された。スーフィの指導者は、精神性が高く、個人の表現を重視し、当時の君主の精神的指導者として機能した。 

彼等はまた、16-17世紀を中心にインドの芸術家および哲学者との芸術的交流を奨励することで、音楽の形式/表現の発展に重要な役割を果たした。 

有名なイスラムの科学者/哲学者アブ・アライアン・ムハンマド・イビン・アーマド・アルービルニ(923-1048)は、特にスーフィズムの世界観の応用を通じヒンズー教イスラム教の融合に貢献した。 

18世紀には、インドに偶像崇拝に代わり唯一神にすがり信愛に達しようとする信仰運動「バクティ運動」が起こり、ヒンズー/イスラムの芸術家および秘儀の更なる融合が行われた。 

新たな美観および芸術を希求する共通の姿勢が、古典ヒンドスタニー音楽を発展させたのである。 

この融合に貢献した最も有名な人物は、タブラやラーガそして声楽/演奏の形式カバーリおよびカヤールを創設したアミール・クシャラウ・エ・バルクヒ(1253-1325:父が北アフガニスタンのバルクヒ出身、母がデリー出身)や、カヤール、ドルパド形式を開拓したムガール帝国のジャラルディン・ムハンマド・アクバール王の宮廷に仕えたミアン・タンセンであった。 

古典ヒンドスタニー音楽の発展に大きく貢献したアフガン出身の音楽家には、世界的に知られるサロードの名手ウスタド・アムジャド・アリ・カーンの先祖であるグラム・バンデギ・バンガシュがいる。バンガシュは、ガンズニからインド中央部のガリオールへ移り住み、アフガンの楽器ルバブをインドの伝統的チューブ・ツィターに属する撥弦楽器サロードに変容させた。 

タブラ、ディルルバ、サロードといった楽器は今も、両国の音楽家に使用されている。 

アフガニスタン古典音楽の専門家セディク・キアム氏は、「インドとアフガニスタンの古典音楽には切っても切れない関係がある。古典ヒンドスタニー音楽は、インドに属するともアフガニスタンに属するとも言い切れない」と語っている。(原文へ) (カブール取材の映像はこちらへ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩 

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