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ナイジェリアで急増する栄養失調、緊急対応が必要

【アブジャIPS=プロミス・エゼ】

2024年6月、26歳のザイナブ・アブドゥルさんは、2歳の娘の顔色が悪くなり、体重が減少し、下痢を繰り返していることに気づいた。しかし彼女は驚かなかった。なぜなら、ジハード主義と結びついた武装強盗団に故郷のカダダバ(ザムファラ州北西部)から追われ、難民キャンプで生活するようになって以来、家族は十分な食糧を確保できていなかったからだ。

彼女の不安は、国境なき医師団(MSF)が運営する医療センターで現実のものとなった。診断の結果、娘は急性栄養失調に陥っていたのだ。

Map of Nigeria
Map of Nigeria

「即応型栄養治療食(RUTF)を受け取り、それがとても役立ちました。注射や薬、ミルクを与えられて、娘は少しずつ回復しています。以前とは違い、元気を取り戻してきました。」と、アブドゥルさんはIPSの取材に対して語った。

アブドゥルさんの娘は幸運にも回復しつつあるが、同じ状況で命を落とす子どもは少なくない。ナイジェリアでは深刻な栄養失調危機が発生しており、特に北部地域では貧困、食糧不足、医療サービスの不足、そして生活費の高騰が大きな要因となっている。同国は世界で最も高い5歳未満児の発育阻害率(32%)を記録している。

ユニセフ(UNICEF)によると、ナイジェリアでは約200万人の子どもが栄養失調に苦しんでおり、その大半が北部に集中している。毎日約2,400人の5歳未満児が命を落としているという。

暴力の影に潜む危機

専門家によれば、北部の栄養失調の主な原因は治安の悪化にある。北西部では、武装グループが農民を土地から追い出し、市場を閉鎖し、地域社会から金銭を巻き上げている。この暴力により、220万人以上が避難生活を余儀なくされ、多くが過密状態の難民キャンプで限られた資源の中で生きている。

北東部では、長引く紛争が農業や食糧生産を妨げている。土地に戻った家族も、軍が駐留する町から離れた場所で農作業を行うことを恐れ、飢餓に直面している。

食糧不足は極めて深刻で、一部の家族はキャッサバの皮を食べて生き延びるほどだ。

「私たちはひどく苦しんでいます。ほとんど食べるものがなく、武装強盗団に追われて4年以上も農業ができていません。適切な住居もなく、今も空腹のままです。政府の支援を切実に必要としています。」と、ザムファラ州の難民キャンプに住むハンナトゥ・イスマイルさんは訴えた。

ザムファラ州の州都グサウにある診療所のアミヌ・バララベ医師は、「この問題がすぐに解決されなければ、さらに悲惨な状況になる可能性がある」と警鐘を鳴らした。

政府は武装集団の掃討作戦を何度も展開し、人々の農地への帰還を促しているが、バララベ医師は「もっと抜本的な対策が必要だ。」と主張した。彼は、治安の悪化がすでに医療サービスを麻痺させ、地域での栄養失調の診断と治療を困難にしていると嘆いた。「解決策は治安の回復です。現地の人々はほとんど守られておらず、危険に晒されています。彼らは常に恐怖の中で生きています。もし政府が本格的な支援を提供し、平和をもたらすために強力な行動を取れば、状況は改善するでしょう。この不安定な状況と戦うために、政府は迅速かつ断固とした対応を取らなければなりません。自分の町や村で暮らせず、キャンプで寝泊まりしなければならない人々がいるのは、非常に痛ましいことです。」と、バララベ医師は語った。

人道危機

長年にわたり、赤十字国際委員会(ICRC)やユニセフ(UNICEF)、国境なき医師団(MSF)などの組織は、栄養失調の悪化に警鐘を鳴らし、より多くの人道支援の必要性を強調してきた。彼らは繰り返し、ナイジェリア当局や国際機関、支援者に対し、この危機の根本原因に直ちに取り組むよう呼びかけている。

2024年、MSFはナイジェリア北部で29万4000人以上の栄養失調の子どもたちに医療を提供した。しかし、難民キャンプの過密状態により、治療スペースが足りず、患者を床に置いたマットレスの上で治療するしかない状況になっている。

2024年半ばまでに、ICRCは支援している医療施設での5歳未満児の重度の栄養失調症例が前年と比べて48%増加したと報告した。

さらに、資金不足により、栄養失調の子どもたちへの支援が難しくなっている。治療用食品(RUTF)の不足が続いており、状況はますます悪化している。世界的に急性栄養失調の症例が増加しているにもかかわらず、国連の人道支援計画には、ナイジェリア北西部の地域が含まれていない。

ナイジェリア・ラゴスの栄養士オルワグベミソラ・オルコグベさんは、栄養失調が子どもの成長、人材育成、経済発展に深刻な影響を与え、社会全体を後退させる負の連鎖を生み出すと懸念を示した。「幼少期の慢性的な栄養失調や発育阻害は、脳の発達を妨げ、学習障害や行動上の問題を引き起こします。その結果、教育の質が低下し、成人後の生産性が下がり、貧困の連鎖が次世代へと受け継がれてしまうのです。」と、オルコグベ氏はIPSの取材に対して語った。

失敗した対策

SDGs Goal No. 2
SDGs Goal No. 2

2020年、ナイジェリア政府は「国家食品・栄養多部門行動計画(National Multisectoral Plan of Action for Food and Nutrition)」を発表した。この2021~25年の取り組みは、食糧安全保障と栄養失調対策を目的とし、農業投資を通じた食糧生産の向上に重点を置いている。しかし、イバダン大学のイドリス・オラボデ・バディル博士は、政府の農業投資が依然として不十分であると指摘した。

ナイジェリアでは農業がGDPの24%を占め、労働人口の30%以上が農業に従事しているにもかかわらず、政府の資金投入は依然として少ない。これは、2003年の「マプト宣言(Maputo Declaration)」でアフリカ連合(AU)が掲げた農業予算の10%目標を大きく下回っている。

バディル博士は、この農業投資の不足が生産性を低下させ、急速に増加する人口の食糧需要に対応できず、食糧安全保障の問題を悪化させていると指摘した。「危機地域の農民が耕作できなくても、近隣地域の農民が食糧生産を支えることは可能です。しかし、そのためには農業技術指導サービスを通じた研修プログラムの提供などの支援が必要です。 残念ながら、多くの州の農業指導機関は十分に機能しておらず、改善が求められます。」とバディル博士は語った。

さらに、「農民には必要な農機具や資金の支援も重要ですが、過去の試みは汚職の影響を受けて頓挫しました。この問題を解決するには、より厳格な説明責任のシステムを構築する必要があります。また、農業を単独で発展させるのではなく、他の産業との連携が不可欠です。道路や橋、貯蔵施設、電力供給などの基本インフラを復旧することで、農業生産性の向上と長期的な課題解決につながるでしょう。」と語った。

政府は紛争地域や経済的に困窮する地域を対象に、無料で穀物を配布する政策を実施しているが、広範な汚職や資源の横流しにより、必要としている人々に支援が行き届いていないのが実情だ。

暗い未来?

セーブ・ザ・チルドレンによると、2025年4月までにナイジェリアで新たに100万人の子どもが急性栄養失調に陥る可能性があるという。

ユニセフ(UNICEF)も、政府に対し栄養プログラムの強化と一次医療の拡充を求めている。特に、2025年にはナイジェリア北西部で新たに20万人の子どもが栄養治療食を必要とすると警鐘を鳴らす。

ザムファラ州の難民キャンプで暮らすアブドゥルさんにとって、政府の支援は不可欠だ。

「私たちは緊急に食糧支援を必要としています。 飢えに苦しむ子どもたちの姿を見ていられません。ほとんどの日は朝に一度だけ食事をし、それ以降は翌日まで何も食べられません。時には夜遅くまで空腹のままです。子どもたちは空腹で泣き続け、ついには疲れ果ててしまいます。でも、私たちには何も与えるものがないのです」と、アブドゥルさんはIPSに語った。(原文へ

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トルコにおけるクルド人武装勢力との紛争終結への努力、シリア情勢が試練に

【London Post】

40年以上続く武装勢力との紛争を終結させるための話し合いが、トルコに平和への期待をもたらしている。しかし、シリアにおけるクルド人勢力の不安定な状況やトルコ政府の意図に対する不確実性により、多くのクルド人は今後の行方について不安を抱いている。

北大西洋条約機構(NATO)加盟国であるトルコに対して1984年に反乱を起こしたクルド労働者党(PKK)の指導者で、現在服役中のアブドゥッラー・オジャラン氏は、和平プロセスの一環としてPKKに武装解除を呼びかける意向を示しているとされる。

この紛争により、これまでに4万人以上が命を落とし、主にクルド人が住む南東部の発展を阻害し、深刻な政治的分断を引き起こしてきた。

トルコの親クルド派政党である国民民主主義党(DEM)は昨年12月下旬にオジャラン氏と面会し、その後、オジャラン氏の提案を議論するため、エルドアン大統領の公正発展党(AKP)を含む他の政党と協議を行った。両陣営はこれらの会談を「前向き」と評価している。

DEMの関係者2名はロイター通信に対し、同党が1月15日にも北西トルコのイムラリ島にあるオジャラン氏の収監地を再訪し、和平交渉に向けた具体的な計画をまとめることを目指していると述べた。

「このプロセスが形を成し、法的枠組みを確立するための明確なロードマップが、オジャラン氏との2回目の会談で決まると期待しています。」と、DEMのギュリスタン・キリッチ・コジイギット国会議員団副団長はロイターに語った。DEMは国会で第3位の議席数を持つ政党である。

オジャラン氏がどのような取引を求めるかは不明だが、DEMは彼がトルコにおける「民主的変革」の努力に言及したと伝えている。クルド人は長らく、より多くの政治的・文化的権利や経済的支援を求めてきた。また、DEMはオジャラン氏の釈放を要求している。

シリアのバッシャール・アサド政権の崩壊により、和平プロセスの動向は一変している。

シリアのクルド人勢力は苦境に立たされ、トルコ支持の勢力が対峙しており、ダマスカスの新しい支配者はアンカラと友好関係にある。

トルコは、クルド人民防衛隊(YPG)を「テロリスト」でありPKKの一部だとしており、彼らが解散しなければシリア北部に越境軍事作戦を行う可能性を警告している。しかし、YPGはイスラム国との戦いで米国と同盟しているため、事態はさらに複雑化している。

アサド政権の崩壊がPKKの武装解除の可能性にどのような影響を与えるかは依然不透明である。今週のインタビューで、PKKの有力な指導者は、オジャラン氏の努力を支持すると述べたが、武装解除の問題についてはコメントしなかった。

シリアのクルド人勢力の指導者は、さらなる紛争を回避するためのトルコとの合意の一環として、PKKを含む外国人戦闘員がシリアを離れることを提案している。

「銃口を向けながら平和を語る」

コジイギット氏は、このような状況下でトルコが和平プロセスを進めることは、アンカラにとって最大の試練であると述べた。

「(シリアの)コバニでクルド人に銃口を向けながら、トルコで平和について語ることはできません」と彼女は述べた。「クルド問題は複雑な問題です。それはトルコ国内の動向だけでなく、国際的な側面からも取り組むべきです。」

さらに、シリアの将来においてクルド人が発言権を持つことをトルコは認めるべきだと彼女は付け加えた。

トルコ政府は、エルドアン大統領の主要な同盟者による昨年10月の提案を受けて始まったオジャラン氏との会談について、これまでほとんど言及していない。しかし、AKPの主要人物がDEM代表団との会談後、楽観的な見解を示した。

「すべての人々が、このプロセスに貢献するための善意ある努力を見せています」とAKPのアブドゥッラー・ギュレル氏は火曜日に述べ、今年中に問題を解決することを目標としていると付け加えた。「これからのプロセスは、私たちがこれまで予想していなかった全く異なる展開につながるでしょう。」

彼はその「異なる展開」が具体的に何であるかについては明言しなかったが、別のAKP議員は、PKKが武装解除するための環境が2月までに整う可能性があると述べた。また、PKKメンバーへの恩赦の可能性について問われたギュレル氏は、「一般的な恩赦は議題に上がっていない」と答えた。

主要野党である共和人民党(CHP)の指導者オズギュル・オゼル氏は、クルド人が直面する問題に対処するため、全政党が参加する国会委員会を設置するべきだと提案した。

南東部のクルド人たちは、過去の失敗を踏まえ、和平の可能性に対して懐疑的である。その不確実性は世論調査にも反映されている。最近SAMERが南東部やトルコの主要都市で約1,400人を対象に実施した調査では、回答者のうちわずか27%が、オジャランが紛争終結を呼びかけたことが和平プロセスに発展すると思うと答えた。

最後の和平交渉は2015年に崩壊し、その後、暴力の急増と親クルド派政党メンバーへの弾圧を招いた。ギュレル氏は、現在のプロセスが10年前の交渉とは全く異なるものになるとし、状況は変わったと述べた。

エルドアンの姿勢が鍵に

Recep Tayyip Erdoğan. Credit: Wikimedia Commons.
Recep Tayyip Erdoğan. Credit: Wikimedia Commons.

DEMのコジイギット氏によれば、和平プロセスへの信頼を高めるためには、エルドアン大統領からの支持表明が重要だという。

「彼がこのプロセスに関与していることを直接確認すれば、大きな違いが生まれるでしょう。もし彼が公然と支持を表明すれば、社会的な支持は急速に広がるはずです」と彼女は述べた。

しかし、エルドアン大統領はこれまでのところPKKに対する強硬な姿勢を維持しており、今週の閣議後には「暴力を選ぶ者たちは武器とともに葬られる」と述べ、シリアのクルド人勢力に対する軍事行動の警告でよく用いる「ある夜、突然行動するかもしれない」という表現を繰り返した。

エルドアン大統領は「最終的には兄弟愛、団結、調和、そして平和が勝利するだろう」としつつも、「もしこの道が塞がれるなら、ベルベットで包まれた国家の鉄の拳を行使することをためらわない」と警告した。

エルドアン大統領の発言の重要性については、ディヤルバクルを拠点とする世論調査機関SAMERのコーディネーター、ユクセル・ゲンチ氏も強調している。

「エルドアン氏とその周辺の強硬なレトリックが、(クルド人の間で)新たなプロセスへの信頼感の復活を妨げています」とゲンチ氏は述べ、多くのクルド人がシリアのクルド人の将来について懸念していると指摘した。

国内では、トルコ政府はクルド問題に取り組む意思を示し、先月には南東部と他地域との経済格差を縮小するための1,400億ドル規模の開発計画を発表した。

紛争の終結はトルコ全土で歓迎されるだろうが、政府は、PKKとオジャラン氏に対する40年にわたる血の歴史を背景に、多くのトルコ人が抱く敵意を考慮しながらバランスを取る必要がある。

イスタンブールで観光業に従事するメフメト・ナジ・アルマガン氏は、「私は絶対に支持しません。このような取引や交渉には賛成できません。それを殉職した兵士たちやその家族への侮辱だと考えています。」と語った。(原文へ

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インドとパキスタン―国境で分かれ、核の遺産で結ばれる

【クエッタLondon Post=スマイヤ・アリ、サラ・カズミ】

1998年5月11日、インドは一連の5回にわたる核実験を実施し、当時のアタル・ビハーリー・ヴァージペーイー首相率いる政府は、インドが正式な核保有国となったことを宣言した。

これに対抗し、パキスタンはその1週間後の5月28日に5回の核実験を成功させた。

こうして南アジアは核保有国が対峙する地域となった。しかし、それから数十年経った今も、核実験の影響を受けた住民の苦しみはほとんど語られることがない。

India conducted five nuclear tests in May 1998 at the Pokhran range in Rajasthan.Image Credit Hindustan Times)

インドにおける被害:

インドは5月11日を「国家技術の日」として祝っている。インド初の核実験は1974年、北部ラジャスタン州のポクランで行われた。ニュースサイト「Scroll」によると、ポクラン周辺の村々では、がんや遺伝性疾患、家畜の皮膚病の発症が一般的に報告されている。

英字メディア「London Post」は、ポクラン村の住民であるヘマンット・ケトライ氏に話を聞いた。彼は、「核実験とがんの因果関係は証明できないが、自分の知人の中で約25人ががんを患っている。」と語った。

また、「The Caravan」の報道によれば、核実験の後、村の住民には白血病や皮膚炎、目の焼けるような痛みなどの健康被害が見られたという。ケトライ氏は、「影響を受けた村には政府の支援がほとんど届かず、訪れるのはジャーナリストだけだ。」と嘆いた。

ニュースサイト「The Citizen」によると、核実験が行われた地域では、病院などの基本的なインフラが整備されておらず、奇形の子牛が生まれたり、牛が原因不明で死ぬことが多発している。しかし、これが放射線の影響であると証明するのは難しいという。

インドの核実験は、ラジャスタン州のチャチャ、ケトライ、ロハルキ、オダニヤの村々で行われた。

ポクラン村の住民であるヘマンット・ケトライ氏は、「この地域では、核実験を誇りに思い、不満を口にしないのが一般的な考え方だ。」と語った。

パキスタンにおける被害:

パキスタンは、ラシュコー(ラスコ)・チャガイの人里離れた山岳地帯で核実験を実施した。この成功は国民に誇りをもたらしたが、同時に核実験地近くの地域社会には大きな傷跡を残した。この問題は今日までほとんど顧みられていない。

Image Credit:The Nation
Image Credit:The Nation

「ラシュコー」という言葉はバローチ語に由来し、「ラス」は「道」、「コー」は「山」を意味する。この地域は「山々の入り口」とも呼ばれ、チャガイ県とカラン県にまたがる。

核実験が行われる前、ラシュコーは豊かな緑と活気ある村々に囲まれ、数十の集落が農業を営みながら暮らしていた。

しかし、核爆発後、静寂は絶望へと変わった。放射線の影響により、がん、腎不全、皮膚病などの健康被害が多発し、500人以上の死亡が報告された。住民の多くは過酷な環境に耐えられず、カランなどの都市部へ移住し、祖先の土地を後にするしかなかった。

環境の悪化はさらに深刻だった。かつて肥沃だった土地と水源は荒廃し、自然の湧き水が枯渇した。ナツメヤシやブドウ、タマネギ、小麦が実っていた農地は不毛の地となり、伝統的な農業を営んでいた人々は生計を立てる術を失い、村を離れざるを得なくなった。

にもかかわらず、政府は被害を受けた地域への支援をほとんど行っていない。病院やがん治療センター、基本的な医療施設すら設置されておらず、多くの住民は貧困に苦しみながら、クエッタなど遠方まで治療を受けに行かなければならない。

安全な飲料水の確保も依然として深刻な問題である。ある軍人が個人的に設置した浄水プラントが一部の村にとって唯一の頼みの綱となっているが、大半の住民はいまだに清潔な水を確保できていない。

放射線の長期的な影響は、子どもたちの先天性障害や発育異常といった形で顕在化しつつある。しかし、これらの影響を調査・軽減するための公式な研究や取り組みは行われていない。

核実験当時に政府が掲げた開発計画は、ほぼすべてが実現されていない。カランやチャガイの地域は依然として極度の貧困にあえぎ、インフラ、教育、産業への投資はほとんど行われていない。電気や学校、道路などの基本的な設備すら整っておらず、地域は孤立したままだ。

ラシュコーの住民は、自分たちの犠牲を認め、支援するよう政府に何度も訴えてきた。彼らは子どもたちの奨学金、現代的な医療施設、経済発展のための施策を求めている。この地域には豊富な鉱物資源が眠っており、適切に活用すれば復興のきっかけになり得るが、政府の取り組みはほとんどない。

核実験はパキスタンにとって名誉をもたらしたが、ラシュコーの人々には健康被害、環境破壊、経済苦難という重い負担をもたらした。住民は、自分たちの犠牲が忘れ去られ、声がかき消されていると感じている。

地元の政治家パルヴェズ・リンド氏はこう語った。「私たちはこの核の偉業を胸に抱えて生きてきたが、政府は私たちに背を向けた。」

20年以上が経った今も、ラシュコーの人々は政府の認識と支援を待ち続けている。果たして、国家はこの地域の人々の犠牲を正当に評価し、彼らにふさわしい支援を行うことができるのか—その答えはまだ見えていない。(原文へ

This article is produced to you by London Post, in collaboration with INPS Japan and Soka Gakkai International, in consultative status with UN ECOSOC.

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バングラデシュは「アラブの春」と同じ運命をたどるのか?

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。

【Global Outlook=デバシシュ・ロイ・チョウドリ】

この国が「アラブの春」経験国の多くと同じ運命をたどり、世俗的独裁から別の独裁に切り替わるという現実的な危険がある。

今月、バングラデシュのシェイク・ハシナ・ワゼド首相(現在は失脚)に抗議する学生と兵士らが挨拶を交わすなか、ダッカのシャーバッグ地区で見られた光景は、13年前の2月のある晩にカイロのタハリール広場で起こったことの記憶を呼び覚ました。タハリール広場の暴動は、30年にわたってエジプトを支配したホスニ・ムバラク政権に終止符を打った。同様にシャーバッグの暴動でも、2カ月にわたる膠着状態の末、強大なバングラデシュ軍がハシナ支持から手を引いたことで力の均衡が崩れ、抗議者らに有利に傾いた。()

ハシナに政権の幕を下ろさせ、インドへの逃亡を余儀なくさせた民衆の抗議には、「アラブの春」との明らかな類似点が見られる。しかし、あちらはめでたく終わらなかった話であるだけに、残念な比較である。事実、あの瞬間の舞台となった国々のほとんどは、人権を守る民主主義国家ではなく別のタイプの独裁国家へと移行した。

世俗的独裁者の不名誉な失墜

ハシナは、ホスニと同様、一見すると世俗的な支配者であった。しかし、彼女は、現代的な独裁術を身に着けていた。統治機関を掌握し、反対派を投獄し、選挙を不正操作し、選挙の実施によって民主主義国家の体裁を維持しながらも世界第3位の人口となるイスラム教徒多数派国家を一党独裁国家へと変容させた。15年にわたる強権支配の劇的な終焉は、いまや新生バングラデシュへの希望をかき立てている。ノーベル賞受賞者が暫定政権のトップに就き、「Z世代革命」を率いた学生たちの強い要求により、統治機関における全面的な粛清が行われているところだ。

希望は、ありありと感じられる。しかし、不安もしかりである。なぜなら、ハシナの世俗的独裁によって空白化した政治空間を最終的に誰が埋めるかが、現時点では不明のままだからである。

政権崩壊を引き金として、特にハシナが党首を務めるアワミ連盟の職員や支持者に対する暴力や放火が誘発されている。アワミ連盟は、1971年にパキスタンによる厳しい支配からのバングラデシュ独立を導いたという栄誉ある歴史を持つ同国最古の政党である。ハシナによって長年抑え込まれてきたイスラム教的要素が再び自己主張するようになると同時に、憂慮すべきレベルの暴力が、この国の宗教的少数派、特に1億7,000万人の人口の約8%を占めるヒンドゥー教徒に対して向けられるようにもなっている。イスラム強硬派が強力な政治勢力として再浮上するという懸念が、いまやバングラデシュに大きく迫っている。

イスラム主義のパキスタンからのバングラデシュ独立

バングラデシュはパキスタンの一部だったころ東パキスタンと呼ばれていた。パキスタンのパワーエリートが東パキスタンのベンガル民族主義者と権力を分かち合うことを拒否したことを受け、血の海の中から国が誕生した。バングラデシュとインドにまたがる多宗教集団であり、ベンガル語という共通言語に基づく独自の文化的伝統を持つベンガル人に対し、米国の支援を受けたパキスタン軍司令官らは大虐殺の暴挙に出た。それにより難民がインドに逃亡し、それを受けてパキスタンとインドの間に戦争が起こった。パキスタンが屈辱的敗北を喫したことで、東パキスタンは分離を果たし、ハシナの父でありベンガル人の抵抗運動を率いたシェイク・ムジブル・ラーマンの指揮のもと、バングラデシュを建国したのである。以来、包摂的なベンガル文化に基づくナショナリズムがバングラデシュの政治を支配してきたが、ベンガル人であることよりもイスラム教を国家と国民の最も重要なアイデンティティーと見なす排他的イスラム・ナショナリズムの政治勢力と競い合うことを余儀なくされている。

進歩的世俗主義と宗教原理主義というこれら二つの対立する勢力は、1947年に英国の植民地支配者がインド亜大陸を去り、インドとパキスタンを二つの異なる国に分離して以来、バングラデシュの政治において共存してきた。二つの地域はインドによって真ん中から分割されていたにもかかわらず、英国は現バングラデシュを含むイスラム教徒人口が多い地域のほとんどをパキスタンに渡した。

つまり、東パキスタンのイスラム教徒としてのアイデンティティーが1947年のインドからの分離をもたらし、バングラデシュのベンガル人というアイデンティティーが1971年のパキスタンからの分離をもたらしたのである。以来、この国の政治闘争はこれら二つのアイデンティティーの争いであり続けてきた。

相反する国家イデオロギー: 世俗主義対イスラム主義

ベンガル民族主義の旗手として、ハシナは、2009年に2期目の首相の座に就いて以来、急進的な世俗主義者としての立場を打ち出してきた。彼女の強硬路線は、息子のサジーブ・ワゼド・ジョイと元米軍将校のカール・J・チョバコ(Ciovacco)が2008年11月に共同執筆した「ハーバード・インターナショナル・レビュー」掲載論文にさかのぼることができる。その中で彼らは、バングラデシュのイスラム化のリスクを強調し、急進化を抑える手段としての世俗化を提案している。ハシナは、自身の支配を強固にするために世俗化を戦略的に利用し、イスラム主義組織だけでなく対抗政党をも弾圧し、全ての政治的反対勢力にイスラム主義者のレッテルを貼った。

中東の大部分と同様、西側も(インドのような地域国も含め)ハシナの独裁から目をそらした。なぜなら、それ以外の選択肢はイスラム主義になると恐れたからである。革命が終わり、生活が平常に戻った今も、国家権力を実際に誰がコントロールするかについてはほとんど不透明である。ハシナの失脚によって最も利益を得る勢力が誰かを考えると、多くの不完全さや虚飾にまみれた世俗的国家バングラデシュは衰退の一途をたどる可能性が高い。

運動を率いた学生たちはバングラデシュに対する進歩的ビジョンを掲げており、有名なマイクロファイナンスのパイオニアであるムハマド・ユヌス率いる暫定政権はリベラルなロードマップを提示している。しかし、どちらも、権力を保持する組織的な政治構図を持たない。ユヌスが力を持つのは、学生らの信頼を勝ち得ている間のみであり、バングラデシュは、事態が収拾するまで国内外の緊張をなだめるためにリベラルな顔をする必要がある。学生たちが力を持つのは、街路を占拠している間のみである。その後はどうか? また、彼らは、イスラム強硬派に賛同する者も多く、均質な組織体ではない。ダッカ大学のある学部長は、学生がキャンパス内でコーランを朗誦するのを許可しなかったことを理由に8月下旬に辞職に追い込まれた

バングラデシュを衰弱させる?

国家運営に当たる暫定政府には、反ハシナ運動を扇動した進歩的な「反差別学生運動」のリーダー2人が含まれている。また、学生らは、アワミ連盟と主要野党のバングラデシュ民族主義党(BNP)の二頭支配を終わらせるため、彼ら自身の政党を立ち上げることを検討していると伝えられている。バングラデシュでは伝統的に、二大政党と軍が代わる代わる権力を握っていた。しかし、アワミ連盟は混乱状態に陥っており、新たな政党が仮に結成されるとしても成功を収めるかどうかは分からない。とすると、軍、BNP、そしてBNPとかつて同盟関係にあったイスラム主義組織ジャマーアテ・イスラーミーが、ポスト・ハシナのバングラデシュで受益者となる可能性がある。バングラデシュはある種の独裁を別の独裁と交換しようとしているのだろうかと考えてしまうのも、無理はないだろう。

インドでかすむリベラリズムの道しるべ

バングラデシュ自体がイスラム主義に傾いていることは別として、現在、同国の政治をさらに複雑化しているのは地域を取り巻く環境である。ナレンドラ・モディ首相率いるインドでヒンドゥー至上主義政治が台頭し、この巨大な隣国の世俗的価値観が顕著に衰退していることは、バングラデシュ国内のイスラム主義者の声をいっそう強め、以前であればインドを南アジアのリベラリズムの道しるべとして挙げたであろうバングラデシュのリベラル派を弱体化させるばかりである。

インドのヒンドゥー至上主義指導者らは、インド人イスラム教徒を他者化する悪態として「バングラデシュ」を使っており、インド国内のイスラム嫌悪の政治に隣国を直接関連付けようとしている。そのため、バングラデシュは、インドの多数派優位主義的なアイデンティティー政治の影響から身を守ることがいっそう難しくなっている。ヒンドゥー・ナショナリズムを掲げる与党インド人民党(BJP)の首脳らは、街頭演説の際、しばしばバングラデシュ人の「移民」をインドの資源を食い尽くす「シロアリ」と呼ぶ。それは、インド人イスラム教徒もその中に入るという隠微なほのめかしである。ニューデリーがハシナの独裁政権を無条件に支援してきたことも、インドに対する反発をいっそう高め、イスラム主義者らの意を強くするばかりであった。権力の真空においてイスラム主義者が優位に立ち、その結果、軍が彼らを抑えるために口実を作って首を突っ込み、国際社会が全面的にそれを支持するというシナリオも、エジプトを見れば荒唐無稽ではない。

ここには、バングラデシュにリベラリズムの輝かしい黎明をもたらす吉兆はない。蜂起の成功が真の民主主義への移行につながることは、結局のところ滅多にないのだ。2010年に「アラブの春」が始まり、ある程度の限定的成功を収めたチュニジアを除き、専制主義に対する民衆の抗議を経験した他の国々の中で、その後実際に民主主義が定着した国は皆無である。

内戦に陥った国もあれば、負けず劣らず専制的な体制に置き換わっただけの国もある。エジプトは、ホスニ・ムバラクを退陣させたが、ムスリム同胞団の影響を食い止めるために、結局、民主主義も人権も一顧だにしない軍司令官アブドゥルファッターハ・エルシーシが後任となった。リビアではカダフィ追放が武装集団の増加とイスラム主義政治の復活をもたらし、経済は崩壊し、長期化する内戦によって国は破綻国家となった。

バングラデシュ自身も、民衆蜂起が独裁者追放に成功したものの、永続的民主主義の確立には失敗したという残念な実績がある。学生らによる1990年の民主化を求める抗議運動は、皮肉にもハシナを反体制指導者の一人とし、軍事独裁者に文民政権への権力移譲を余儀なくさせた。6年後、そのBNP政権はハシナによって打倒された

バングラデシュの課題: リベラリズムを支える実質的条件の創出

繰り返される民衆の怒りは、排他的統治体制、エリートによる政治支配、常態化している政治的・経済的な力の剥奪、あからさまな泥棒政治、激しい所得格差に対する潜在的なフラストレーションがずっと存在していることを示している。永続的な変化をもたらすためには、これらのより深刻な不満に取り組む必要があると考えられる。

ハシナ政権は、平均余命就学率など、人間開発指数のほとんどの項目で称賛に値する改善を実現したが、不平等の水準は高いままで、人口の約13%にあたる2200万人がいまなお貧困ラインを下回る生活をしている。定年を超える年齢の人々の3分の2は年金を受給しておらず、失業給付金制度もない。

バングラデシュには100を超えるソーシャルセーフティネット・プログラムがあるが、それでも、特にこの国が直面する脆弱性を考えるなら、それらはまだ不十分である。気候変動の影響を受ける中心地的存在であるこの国は、2021年の気候変動リスク指数で7位にランクしている。今後25年間で、気候変動によりバングラデシュ人の7人に1人が居住地を追われる可能性がある。極端な気象現象、塩分濃度の上昇、海面上昇による陸地の浸食によって、人々はすでに移住を余儀なくされている。現在、国土の一部が壊滅的な洪水に見舞われており、300万人近い人々が孤立状態にある。

より切迫した問題は雇用不安である。「アラブの春」が席巻した全ての国々の中でチュニジアだけが、一定の民主的移行を達成した。その理由は恐らく、エンパワーされた労働者階級がすでに存在し、有力な労働組合連合があり、それが真の変化を強制するだけの構造的な影響力を発揮したからである。バングラデシュでは、労働組合の組織化運動は常に非合法化され、暴力的な弾圧さえ受けている。労働者のうち労働組合に加入しているのはわずか5.1%で、搾取的条件で働くことが多い安価で未組織の労働力を背景に、バングラデシュは輸出競争力を維持している。この問題を無視してきたあげく、バイデン政権は2023年11月、バングラデシュの警察が労働者のリーダーを銃撃し、最低賃金法改正を求める組合員を弾圧したことを非難せざるを得なくなった。

Location of Bangladesh
Location of Bangladesh

このような基本的不平等の状況を変えることが、バングラデシュに民主主義を再構築するカギとなるだろう。要するに、「バングラの春」が変革を実現するためには、バングラデシュには新たな社会契約が必要である。市民的自由が厳しく抑制された年月が終わり、自由の気風が漂うこの国には、新たな可能性があふれている。どこでも民衆蜂起の後には必ず起こることだが、バングラデシュでも構造改革を求める声が上がっている。学生らは、体制の腐敗を正し、ユヌスが「第2の解放」と呼ぶものを遂行することを誓っている。

ベンガル語を公用語と認めることを求め、ついにはパキスタンからのバングラデシュ独立へとつながった1950年代の言語運動から、それ以降の軍事および文民独裁政権に対する多くの反乱まで、学生運動は紛れもなくバングラデシュという国を形成してきた。今回学生たちは、一見無敵と思われた独裁政権に立ち向かっただけでなく、ハシナ失脚後の指導者なき国を安定させる道筋も示した。彼らは、社会秩序を落ち着かせ、治安をもたらし、混乱の中で損害を受けた公共の場を清掃し、修理した。

しかし、広範囲にわたる体系的変化を達成することはまた別の問題である。独裁者の打倒は、それに比べればまだ容易に感じるかもしれない。

デバシシュ・ロイ・チョウドリは、香港に拠点を置くジャーナリスト、研究者、著作家。「To Kill A Democracy: India’s Passage to Despotism」(OUP/Pan Macmillan)の共著者。戸田記念国際平和研究所の「民主主義の危機と課題」研究プログラムの国際ワーキンググループのメンバーである。

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誰が絶滅の危機に瀕するナイジェリアの沿岸都市を救うのか?

かつて活気ある経済と文化的重要性で知られたナイジェリアの町、エイトロ(Ayetoro)。現在では、気候変動がもたらす破壊の現実を象徴する悲劇的な場所となっている。市場、サッカー場、コミュニティ図書館、技術ワークショップ、そしてこの町で最初に建てられた教会といった重要なランドマークは、海に沈むか破壊されてしまった。さらに、町の豊かな文化遺産を象徴する王宮も、いまや湿地の水に囲まれてしまっている。

【エイトロ、ナイジェリアIPS=プロミス・エゼ】

2021年、ナイジェリア南西部の大西洋沿岸にある町エイトロに住む53歳のオジャジュニ・オルフンショさんは、迫りくる海によって自宅を失った。

Map of Nigeria
Map of Nigeria

かつてオルフンショさんと5人の子どもたちにとって安らぎの場所だった広々とした10部屋の家は、上昇する海水の容赦ない力によって飲み込まれてしまった。行き場を失ったオルフンショさんは、高台に住む家族に頼み込み、自分たちを受け入れてもらうしかなかった。木材とアルミニウム板で作られた小さな仮設シェルターが、以前の快適な家の代わりとなった。

彼女は今、かつて繁盛していた仕立て屋の仕事場を海に奪われ、衣服の修繕で生計を立てようと苦闘している。


「以前は大きな仕立て屋をしていて、服も販売していました。でも、海がすべてを奪ってしまいました。お店はいつもお客さんでいっぱいだったのに。」と、オルフンショさんは涙を流しながら語った。

エイトロで海面上昇との戦いが始まったのは2000年代初頭だが、その影響は時間とともに悪化している。地元住民によれば、町の約90%が現在では水没しているとのことだ。

Ayetoro resident Akinwuwa Omobolanle gestures towards a swampy expanse, a result of recurrent floods. Credit: Promise Eze/IPS
Ayetoro resident Akinwuwa Omobolanle gestures towards a swampy expanse, a result of recurrent floods. Credit: Promise Eze/IPS
Ojajuni Oluwale lost two houses to the encroaching waters. Credit: Promise Eze/IPS
Ojajuni Oluwale lost two houses to the encroaching waters. Credit: Promise Eze/IPS
Emmanuel Aralu lost his business to the raging waters and now struggles to feed his family. Credit: Promise Eze/IPS
Emmanuel Aralu lost his business to the raging waters and now struggles to feed his family. Credit: Promise Eze/IPS

通り、家屋、学校、さらには墓地までもが上昇する潮に飲み込まれ、何千人もの住民が住処を追われた。

多くの住民が、迫り来る水から逃れるために高台を求め、何度も移住を余儀なくされている。かつてコミュニティの強さを象徴していた建物は、今では空っぽの廃墟として海の犠牲となっている。

「多くの人々が町を離れました。」と、エイトロの広報官であるオモイエレ・トンプソン氏は語り、人口が2006年の約3万人から最近では僅か5,000人にまで減少したと指摘した。


「数百万ドル相当の財産が破壊されました。地域の努力で建てられた産婦人科センターや工場を含む何百もの住宅が、海の浸食により壊滅しました。」と彼は付け加え、「多くの住民が現在では掘っ立て小屋で生活している。」と語った。

エイトロの苦境は特異なものではない。世界中の沿岸地域が同様の課題に直面している。気候変動によって引き起こされる海面上昇は深刻な破壊をもたらしており、将来的に問題がさらに悪化することが予測されている。

SDGs No. 13
SDGs No. 13

アフリカ戦略研究センターのデータによれば、アフリカの海岸線は過去140年間、一貫して海面上昇を経験している。この傾向が続けば、2030年までに海面が0.3メートル上昇すると予測され、大陸の1億1,700万人が脅威にさらされると言われている。

ナイジェリアは、ギニア湾沿岸という広大な海岸線を持つため、気候変動に対して最も脆弱な国の一つである。北部では砂漠化が進む一方、南部の沿岸地域は上昇する海面という新たな脅威に直面している。

USAIDによると、海面が0.5メートル上昇した場合、世紀末までにナイジェリア沿岸部に住む2,700万人から5,300万人が移住を余儀なくされる可能性がある。海面上昇は、農業や漁業など、エイトロ経済の基盤を成す人間活動に壊滅的な影響を与える恐れがある。

海面上昇は世界的な脅威をもたらしているが、多くの国はこの問題に対処するための積極的な措置を講じている。例えば、オランダでは国土の約3分の1が海面下に位置しており、一部の地域は海から土地を取り戻すことに成功している。しかし、専門家らはIPSの取材に対して、ナイジェリア政府がエイトロの窮状に対してほとんど関心を示していないと指摘している。緊急の対策が取られない限り、この町は近い将来、写真や歴史書の中だけの存在になってしまう可能性があると警告している。

A once-thriving technical school now stands battered and desolate. Credit: Promise Eze/IPS
A once-thriving technical school now stands battered and desolate. Credit: Promise Eze/IPS
The community’s only remaining school, a fragile makeshift structure, has been repeatedly relocated due to relentless sea surges. Credit: Promise Eze/IPS
The community’s only remaining school, a fragile makeshift structure, has been repeatedly relocated due to relentless sea surges. Credit: Promise Eze/IPS

大西洋の消えゆく宝石

1947年にキリスト教の使徒派宣教師によって設立されたエイトロは、かつて自立と進歩の象徴として輝いていた。この町の宗教的価値観に基づいたコミュニティ中心の生活様式は、強い団結感を育み、「幸福の街(Happy City)」という愛称を得ていた。

1960年代から70年代にかけて、エイトロは農業、工業、教育といった分野での発展で知られるようになった。この町にはナイジェリア初の造船所があり、船舶製造や漁業といった産業を発展させた。また、1953年にはナイジェリアで2番目に電力を導入した町となった。これらの進歩により、エイトロは観光客や移住者にとって魅力的な場所となった。

しかし、かつて美しかったビーチや活気あるインフラは、今や遠い記憶となっている。かつて経済の活気と文化的な重要性で知られたエイトロは、現在では気候変動がもたらす破壊の現実を象徴する町となっている。

市場、サッカー場、コミュニティ図書館、技術ワークショップ、そして町で最初に建てられた教会といった主要なランドマークは、海に沈むか破壊されてしまった。さらに、町の豊かな文化遺産を象徴する王宮も、いまや湿地の水に囲まれてしまっている。

崩壊した生活

エイトロの多くの住民にとって、漁業は長い間主要な生計手段だった。しかし、海面上昇により良い漁獲を得ることがますます難しくなっている。水辺までの距離が増えたことで、漁に出るための燃料費が高騰し、すでに限られた財政にさらなる負担をかけている。さらに、農地や水源が塩水によって汚染され、農業はほぼ不可能になっている。

住民の権利を守るために活動しているトンプソン氏は、「事業が失われたため、人々は完全な貧困状態で暮らしています。」と語った。

2024年5月、彼はエイトロ住民のための平和的な抗議デモを企画した。このデモには子どもから高齢者まで数千人が参加し、政府の行動を求めて行進した。彼らのプラカードには「私たちを救って」「今すぐエイトロを救おう」と書かれていたが、その努力にもかかわらず、政府は対応を示していない。

町に残された唯一の病院もひどい状態にあり、設備が不十分である。有資格の医療従事者は地域を離れてしまった。緊急時には、住民が病人をボートで隣接する地域の病院に運ばなければならない。しかし、悲しいことに、多くの患者がその旅の途中で命を落としている。

Battered shanties dot Ayetoro. Credit: Promise Eze/IPS
Battered shanties dot Ayetoro. Credit: Promise Eze/IPS
The ruins of buildings stand as silent witnesses to the relentless sea surge. Credit: Promise Eze/IPS
The ruins of buildings stand as silent witnesses to the relentless sea surge. Credit: Promise Eze/IPS

破られた約束

エイトロの助けを求める声はこれまでに無視されたわけではないが、その対応は不十分か、汚職によって台無しにされることが多くあった。

2000年、エイトロの住民たちは、海の侵食が悪化する中、政府に助けを求める手紙を何度も送った。しかし政府が対応したのは2004年になってからで、ニジェールデルタ開発委員会(NDDC)を通じて「エイトロ沿岸保護プロジェクト」を立ち上げ、町をさらなる洪水から守るための防波堤を建設すると約束した。しかし、このプロジェクトに割り当てられた数百万ドルが流用されたとされ、実際には何も行われなかった。

「新聞で介入について読みましたが、現場には施工業者も機材も一切来ることはありませんでした。」とトンプソン氏は語った。

2009年、このプロジェクトは別の企業「ドレッジング・アトランティック」に再度委託されたが、再び何も実現しなかった。

ナイジェリアは2021年に「気候変動法」を導入し、気候問題に取り組むことを目指した。しかし批評家たちは、この政策も他の紙上の政策と同様に、実行に必要な政治的意志を欠いていると指摘している。

38歳の3児の母、イドウ・オイェネインさんは、これらの失敗したプロジェクトに誰も責任を取らないことに憤りを感じている。彼女は、政治家たちが選挙期間中だけコミュニティを訪れ、空虚な選挙公約をするだけだと語った。

「沿岸の海面上昇は私の家族に計り知れない困難をもたらしました。子どもたちを支えるために生活必需品を販売していたお店は洪水で完全に破壊されました。それは単なるお店ではなく、私たちの主な収入源でした。洪水が事業を台無しにして以来、子どもたちの世話をしたり、学校の費用を賄ったりすることができなくなりました。」とオイェネインさんは語った。

「私たちは、政府や団体からの支援を必要としています。生活を立て直すために、金銭的支援や啓発プログラムがあれば、大きな違いが生まれるでしょう。」

彼女の子どもたちは現在、コミュニティに残された唯一の学校に通っている。その学校は木造の仮設小屋で構成され、不安定な板道でつながれ、湿地の地面に杭で支えられている。この学校は、海の侵食のために何度も移転を余儀なくされた。

住民によると、かつてこのコミュニティには3つの学校があったが2つを失い、残った1校だけで対応しているため、何百人もの子どもたちが学校に通えなくなっている。

「以前、学校は約4年間閉鎖されていました。再開しても、地域の被害のために子どもたちが学校に通うのが不可能でした。これが私たちにとって最大の痛みです。」とトンプソン氏はIPSの取材に対して語った。

企業の責任と公共参加アフリカ(CAPPA)のシニアプログラムマネージャー、ジコラ・イベ氏は、ナイジェリア政府が優先事項を再構築する必要があると考えている。

「ナイジェリアの州当局がコミュニティ福祉と環境正義を遺産の重要な要素として認識しない限り、エイトロのような地域は無視、搾取、気候変動の影響を受け続けるでしょう」とイベ氏は語った。

The monarch’s palace, now surrounded by swampy waters, tells a tale of loss. Credit: Promise Eze/IPS
The monarch’s palace, now surrounded by swampy waters, tells a tale of loss. Credit: Promise Eze/IPS

化石燃料の呪い

エイトロの海面上昇に対する脆弱性は、この地域で行われている石油探査活動によってさらに悪化している。ナイジェリアの石油資源豊かな地域に位置するエイトロは、同国の総石油生産量に貢献している。

かつてエイトロの王妃だったアキンウワ・オモボランレ氏は、地域での石油採掘活動を中止するよう、国内外の石油企業に求めている。

「1990年代にエイトロで天然資源を発見した外国人の到来と海洋での原油採掘が、私たちが直面している問題の主な原因の一つです。彼らが石油を採掘し始めて以来、問題はますます悪化しています。」とオモボランレ氏は語った。

石油会社は破壊への責任を否定しているが、環境専門家たちは正義を求めている。

「海面上昇が地球温暖化によって引き起こされているのは間違いありませんが、エイトロやニジェールデルタの多くの石油資源豊かな地域の窮状は、多国籍の石油・ガス企業による無謀な資源採掘の直接的な結果でもあります。何十年にもわたり、これらの企業はほとんど完全な免責状態で活動し、環境破壊の痕跡を残してきました。」とイベ氏は指摘した。

さらに彼女は、ナイジェリア政府がこれらの企業に責任を負わせ、被害に対する補償を要求することはなく、「歴代の政府は企業利益や収益の確保を優先し、エイトロのようなコミュニティの福祉を軽視する共犯関係を選んできたのです。」と語った。この無関心によって、エイトロの町は、まず地球規模の気候変動の影響に、次に利益を追求する産業の抑制されない貪欲さによって二重に脆弱な立場に置かれている。

グリーンピース・アフリカの気候・エネルギーキャンペーナーであるシンシア・N・モヨ氏は、アフリカが化石燃料から持続可能なエネルギー源へ移行することが不可欠であるとIPSの取材に対して語った。彼女は、化石燃料は環境への脅威であるだけでなく、抑圧、搾取、新植民地主義を助長すると主張した。

「科学は明白です。我々の地域で経験している極端な気象現象は、化石燃料への依存が続いていることの直接的な結果です。これらの現象は、世界中の脆弱なコミュニティに大混乱をもたらしています。アフリカでは、気候変動の影響は壊滅的で、サイクロン、台風、洪水が発生し、毎年数十億ドルの被害が生じています。」とモヨ氏は語った。

モヨ氏は、海洋での石油やガス掘削への投資が増加すれば、海洋生態系を損ない、沿岸地域のコミュニティの生計を破壊する流出事故など、深刻な環境被害を引き起こす危険があると警告した。これは気候危機をさらに悪化させるだけだと彼女は説明した。

「このような活動は、再生可能エネルギーへの移行を目指す意味のある努力や約束を損ないます。石炭や石油のような化石燃料は、人々と地球に害を及ぼす、壊れた不公平で持続不可能なエネルギーシステムの中心にあります。」と彼女は指摘した。

暗い未来?

エイトロの住民たちにとって、時間は残り少なくなっている。政府の支援が不足する中で、彼らは自分たちの悪化する状況に対して地元の解決策を模索してきたが、成功には至っていない。

「洪水を止めるために地元でバリアを作ろうとしました。」と、7人の子どもの父親で、海の侵食で2軒の家を失ったオジャジュニ・オルワレさんは語った。「砂を袋詰めして海岸線に置くことを試みましたが、海が荒れるとすべてが崩れてしまいます。」

「この問題を解決するには莫大な財政投資が必要です。」とオルワレさんは続けました。

COP29 IPS Page
COP29 IPS Page

2024年にアゼルバイジャンのバクーで開催された国連気候変動枠組条約第29回締約国会議(COP29)では、先進国が発展途上国の気候影響に対応するため、年間3000億ドルを割り当てることに合意しました。しかし、発展途上国はこの金額を不十分だと批判し、ナイジェリアはこれを「冗談だ」と形容しました。

温室効果ガス排出の歴史的責任の約80%を占める先進国が約束を守るかどうかについては広く懐疑的な見方がされている。2009年には、気候災害に苦しむ脆弱な国々を支援するため、年間1000億ドルを提供することを約束したが、その実現は遅れた。

経済協力開発機構(OECD)によれば、最終的に先進国はこの金額を超える額を提供したが、約束が果たされるまでには時間がかかった。

2022年、長年の圧力の末、先進国は気候変動の影響で最も脆弱で深刻な被害を受けている国々を支援する「損失と被害基金」の設立に合意した。この基金には7000万ドル以上が拠出され、2025年から資金の配分が開始される予定だ。

ナイジェリアの気候専門家であるトルロペ・テレサ・グベンロ氏は、特にアフリカ諸国を含む発展途上国の気候資金の必要性と、先進国の約束との間にある大きな隔たりを懸念している。彼女は現在、気候資金と責任のあり方がやや不整備で、さまざまな資金源に統一されたアプローチが欠けていると指摘している。

「必要な資金を確保することと、資金が適切に分配され、最も脆弱なグループに届くような責任監視と監査の枠組みを整備することは別の問題です。現段階では、まだ進行中の課題であり、この分野の交渉は今後も続くでしょう。」とグベンロ氏は語った。

エイトロが完全な破壊を防ぐための支援を待つ間、住民たちはその苦しみが心に与える影響が耐え難いものだと訴えている。「この精神的な苦痛は耐えられません」と、海の侵食で床屋を失ったエマニュエル・アラルさんは語った。「店が一晩で完全に消えました。何一つ持ち出すことはできませんでした。今では生計を立て、妻と子どもたちを養い、学費を払い、生活費の高騰に対処するのに苦労しています。」

さらに彼はこう続けました。「自分が引き起こしたわけではないことで苦しんでいます。石油採掘は私たちの沖合資源を吸い上げていますが、その利益はアブジャラゴスのような都市に行き、私たちには破壊の責任が押し付けられるのです。心身ともに疲れ果てています。」(原文へ

INPS Japan/IPS UN Bureau Report

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ルーマニアでの「盗みを止めろ」:不穏な事例

バイデン政権の国務長官アントニー・ブリンケン氏のキャリアにおけるもう一つの暗い瞬間。

【The American Spectator/INPS JapanワシントンDC=ヴィクトル・ガエタン】

Romanian presidential candidate Călin Georgescu on Sky News discussing the Constitutional Court’s coup that led to the cancellation of the election. (Sky News/Youtube)
Romanian presidential candidate Călin Georgescu on Sky News discussing the Constitutional Court’s coup that led to the cancellation of the election. (Sky News/Youtube)

12月初め、バイデン政権がルーマニアで政治的危機を引き起こした。アントニー・ブリンケン国務長官が、ルーマニアの大統領選挙第1回投票で、トランプ的な候補として知られるカリン・ジョルジェスク氏が予想外の勝利を収めた理由を、「大規模かつ資金豊富なロシアの干渉」によるものだと主張したのだ。(関連記事:「ルーマニア版の「トランプ」?:絶え間ない戦争とウォーク政治に対する拒絶」

驚くべきことに、ルーマニア政府はこの主張に従い、12月8日に予定されていた決選投票を即座に中止した。これは、選挙の第1回投票が問題なく行われたとするサイバーセキュリティ監督当局の保証にもかかわらず、世界中の投票所で進行中の投票を停止するという措置だった。

この前例のない明らかに非民主的な行動は、不人気な現職大統領クラウス・ヨハニス氏によって支持された。ヨハニス氏は、「国家的な勢力」によるTikTokを通じた操作があったとする「機密解除された」文書を根拠にこの決定を支持した。(ヨハニス氏は2014年から大統領を務めており、ルーマニア憲法によれば、2期の任期を超えて続投するには、戦争または災害の場合に限り法律による延長が認められている。)

ロシアの干渉の証拠が何も示されない中、ヨハニス大統領はブリュッセルで記者たちにこう警告した。「これらの攻撃に『東から愛を込めて』なんて署名があると思わないでほしい。いや、これらは非常に証明するのが難しい。」

ロシア、ロシア!

12月20日までに、ロシアの干渉の証拠が全く示されない中、選挙不正の可能性を調査する責任を負う財政管理庁の職員たちが、見つけた証拠をリークし始めました。それによれば、ジョルジェスク氏の選挙キャンペーンを宣伝するために約100人のTikTokインフルエンサーに数十万ユーロを支払っていた主要な資金提供者は、なんと現職大統領の政党である国民自由党(PNL)だった。ルーマニア版の「スヌープ」がインフルエンサーのスクリプトを作成したソーシャルマーケティング会社も明らかにしたが、これ自体は選挙活動やチャンネル運営において特に珍しいことではない。

この計画は、ジョルジェスク氏の保守的な支持層を引き寄せ、より資金力のある保守候補ジョージ・シミオン氏(主権主義者)から票を奪うことで、PNL候補が第2回投票に進む道を開くことを目的としていたとされている。シミオン氏は、ルーマニア統一同盟(AUR)の代表で、自らが「クーデター」と呼ぶものに反対しており、この戦術について英語で説明している。

実際、11月の時点で、通常はメイクアップや自動車を宣伝するインフルエンサーたちが、より多くの政治的メッセージを発信していることが注目されていた。ジョルジェスク氏を支持するために使われたとされるハッシュタグは、#echilibrusiverticalitate(「均衡と直立」を意味する)で、決して扇動的なフレーズではなかった。

それでも、米国のキャスリーン・カヴァレック駐ルーマニア大使は、PNLによるTikTok戦術のニュースが広まった後も、ロシアによる干渉説を主張し続けた。

テレビ記者に「このルーマニアの複雑な状況についてどう思いますか?」と尋ねられたカヴァレック大使は、不明瞭な回答をした(以下は逐語的な記録に基づく。)
「ええと、まあ、私たちは、ええ、もちろん、ええ、他のみんなと同じように、ええ、ロシアが選挙に悪影響を及ぼし、結果に影響を与える努力に関する情報を懸念しています。そしてもちろん、ええ、誰もルーマニアの選挙に干渉すべきではありません。ルーマニアの民主主義は守られるべきです。私たちは、何が起きたのかを究明するためのすべての努力を支持してきました。」

翌日、ブカレストのテレビスタジオで、北大西洋条約機構(NATO)軍事委員会の退任議長であるオランダのロブ・バウアー提督は、視聴者に向けて次のように語った。「同盟全体で見られるのは、ますます増加するロシアの行動です。空域侵犯、偽情報、サイバー攻撃といったものです…。私たちは協力して非常に警戒を強めなければなりません。」

さらにバウアー提督は、NATOが「社会全体のアプローチ」を防衛に利用すべきだというオーウェル的な理論を展開しました。つまり、家族や一般市民を動員して敵に立ち向かい、「安全保障が軍や警察だけのものだという考え方を改め、社会全体がより強靭になるべきだ。」というのだ。提督は、元NATO事務次長で大統領候補だったミルチャ・ジョアナ氏からアスペン・インスティテュート・ルーマニア賞を受け取るためにブカレストを訪れていた。ジョアナ氏は選挙でわずか6%の票しか獲得していなかったが、ルーマニアの政治エリートとNATOの公式機関は非常に親密な関係にある。

新政府と新たな選挙?

正当性が疑問視されているヨハニス大統領は、12月23日に新政府を発足させた。しかし、その内訳は、これまで政権を握っていた同じ政党で構成され、大臣も2名を除いてほぼ同じメンバーであり、2023年以来の首相であるマルセル・チョラク氏が引き続き務めている。なお、大統領選挙ではチョラク氏は3位に終わっている。

Location of Romania

再編された旧体制は全速力で動き出している。ルーマニアのメディアによれば、政府は新たな選挙を2025年3月23日(第1回投票)、4月6日(決選投票)に設定する予定だ。しかし、その理由は何だろうか?ブカレスト市長で独立系の政治家であるニクショル・ダン氏は公然と疑問を呈した。「なぜ11月24日の選挙を中止したのかを明らかにする必要があります。その説明は非常に不十分です。」

大統領選挙の中止は国民に不人気だ。最近の全国調査では、67%がこの不可解な決定に反対していると回答した。また、同じ調査では、もし決選投票が行われていたら63%がジョルジェスク氏に投票しただろうと答えている。

ジョルジェスク氏とその弁護士団は、12月30日に控訴裁判所に法的異議申し立てを行った。その日の寒さの中、数千人の支持者が集まり、政治エリートに対する国民の怒りの高まりを示した。ジョルジェスク氏は、群衆に向かってこう述べた。「私たちが政治的ではなく専門的な裁判所の決定を得られることを願っています。裁判所が政治の圧力に屈することなく、ルーマニアの民主主義と自由を守ると信じています。」

しかし、翌日に出された判決では、中止の決定が維持された。判決は候補者の訴えの内容そのものには触れておらず、5日以内のさらなる上訴を許可した。この判決を受け、さらに多くの群衆が集まった。

NATOの目標

多くの人々が注目しているのは、ウクライナと接する北部および黒海沿岸というルーマニアの地理的な位置と、NATOが同国を最大限に利用するためにルーマニアの政治をコントロールしようとしている可能性だ。

2023年12月22日に投稿されたYouTube動画「ルーマニアがロシアとの全面戦争に向けてどのように準備しているか」というタイトルが不穏な印象を与えている。この動画では、「ルーマニアはウクライナのためのNATOの秘密兵器になるかもしれない」と説明されている。この動画は、登録者数129万人を誇る「The Military Show」が制作したもので、信頼できる情報源とされ、ルーマニア国内で広く視聴されている。

動画では、ルーマニアが主要な武器購入を進め、同国を航空兵力の大国へと変える計画の一環として紹介されています。新しいミサイルバッテリーや移動式司令センターの導入により、一度に16発のミサイルを発射できるようになる。また、欧州最大規模となる新たな空軍基地の建設も進行中で、この基地ではウクライナ国境近くに1万人以上のNATO兵士とその家族を収容する予定だ。

これらの推測を裏付ける具体的な証拠もある。ルーマニア国防省は、2025年に行われる軍事演習「ダチアの春(Dacian Spring 2025)」で、初めてフランスの旅団規模の部隊を受け入れることを確認した。また、昨年10月には、ベルギー、フランス、ルクセンブルク、北マケドニア、ポーランド、ポルトガル、ルーマニア、米国から約1,500人の兵士が参加する「ダチアの秋(Dacian Fall2024)」が2週間にわたり実施された。

ジョルジェスク氏の選挙キャンペーンの中心的な主張は、「平和構築の緊急性」である。

彼の予想外の人気は、ルーマニア国民が地域紛争を支持していないことを示している。

億万長者でテニス界の伝説的存在であるイオン・ツィリャック氏は次のように述べています。「私は戦争を望まない。NATOも必要ない。軍事基地もいらない。海外からの何も必要ない。ただ、健康な国民が必要だ。」ツィリャック氏は、同国で最も影響力のある実業家の一人であり、ジョルジェスク氏を支持している。

選挙に戻ると、ルーマニア国民は35年前、共産主義からの自由を勝ち取るためにストリートレベルの暴力に直面し、1,000人以上の命を失った。その記憶は今でも生々しく残っている。そのため、民主的権利を覆すような偽旗作戦を軽く受け入れることはない。

12月6日に選挙を無効とした憲法裁判所の元裁判長であるオーガスティン・ゼグレアン氏は、この件について興味深い見解を述べています。「裁判官たちは恐れていました。国が危機に直面しているという噂があり、その決定を下したのです。それ以来、彼らは証拠を探し続けていますが、何も見つかりません。私たちの制度では、物事はあるべき方法で行われません。まず決定を下し、それから証拠を探すのです。しかし、証拠は見つかりませんでした。証拠は存在しません。」

証拠がない? 勇敢な一般市民は、バイデン陣営によって仕組まれたクーデターを受け入れることはないだろう。(原文へ

Victor Gaetan
Victor Gaetan

ヴィクトル・ガエタン氏は、「ナショナル・カトリック・レジスター」のシニア国際特派員であり、「フォーリン・アフェアーズ」誌の寄稿者でもあります。また、著書に『神の外交官たち:フランシスコ教皇、バチカン外交、そしてアメリカのアルマゲドン』(ロウアン&リトルフィールド、2021年)があります。本記事はガエタン氏の許可を得て日本語翻訳版を配信した。

この記事のタイトルにある「Steal」は、米国の政治的なスローガン「Stop the Steal(盗みを止めろ)」から取られており、特定の選挙結果が不正操作や干渉によって「盗まれた」という主張を表している。この表現は、特に2020年の米国大統領選挙後に、ドナルド・トランプ元大統領やその支持者たちが選挙不正を主張した際に広く使われたフレーズだ。この記事の文脈では、ルーマニアの大統領選挙が「干渉」や「操作」によって正当性を損なわれた、もしくは候補者カリン・ジョルジェスク氏が民主的なプロセスを通じて得るはずだった勝利が不当に「奪われた(stolen)」と主張している。

INPS Japan

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誕生から成人までの時を超えたカザフの伝統

The Astana Times=アイマン・ナキスペコバ】

カザフ人は、家族や親族の絆を重んじる豊かで多様な文化遺産を持っている。この遺産の中心には、子供の幸福を守り、幸運を引き寄せるための伝統が存在する。これらの伝統は、子供の誕生から幼少期にかけて行われる儀式に反映されている。

子供の誕生を祝う

シルデハナ(Shildehana)は、子供の誕生を祝う喜びに満ちた行事で、生後最初の週に行われる。この祝いは通常、3日目、5日目、または7日目といった奇数の日に開催される。「シルデハナ」という言葉は、誕生から始まる特別な40日間を意味し、この期間は新生児が特に繊細であると考えられている。

Photo: Celebrations on the Day of the Capital City of the Republic of Kazakhstan. Credit: expo2017astana.com
Photo: Celebrations on the Day of the Capital City of the Republic of Kazakhstan. Credit: expo2017astana.com

赤ちゃんが誕生すると、親戚や友人が急いで「スユンシ」(suyunshi)と叫びながらその知らせを伝える。この言葉は「嬉しい知らせを持ってきた」という意味で、知らせを持ってきた人には贈り物が渡される。その後、家族は親しい人々を集めて祝宴を開き、来客は子供の健康と長寿を祈る祝福を送る。

現代では、シルデハナは母子が病院を退院するタイミングに合わせて行われることが多くなっている。この祝いはより控えめなものになりつつあるが、それでも重要な文化的節目として大切にされている。

神聖な最初の40日間

子供の生後最初の40日間は神聖なものとされ、この期間には揺りかごの近くで常に灯火を焚いて悪い力を遠ざける風習があった。この儀式で重要な役割を果たすのがキンディク・シェシェ(kyndyk sheshe)と呼ばれる赤ちゃんの名付け親である。彼女は自身の美徳や強さを子供に伝えると信じられ、重要な儀式を行った。

ベシク・サルー:揺りかごの儀式

カザフ文化では、ベシク・サルー(Besik salu)と呼ばれる赤ちゃんを揺りかごに入れる儀式が重要な伝統とされている。新生児が家族の最初の子供でない場合、揺りかごは長子から引き継がれることが一般的である。このベシク(揺りかご)はカザフ人にとって神聖な品物であり、木材で作られ装飾が施されている。揺りかごには小さな穴が開いており、そこにポットとつながる管が取り付けられているため、赤ちゃんが快適で清潔に過ごせる工夫がなされている。また、赤ちゃんが転落しないよう柔らかいベルトで固定されている。

Besik salu ritual. Photo credit: YouTube channel Kausar Meirambai
Besik salu ritual. Photo credit: YouTube channel Kausar Meirambai

揺りかごには赤ちゃんの将来の願いを象徴する品々が置かれる。男の子の場合はシャパン(伝統的なコート)と鞭が力と繁栄を表し、女の子の場合は櫛と鏡が美しさと優雅さを意味する。

シルデハナや揺りかごの祝いの際に、赤ちゃんの名前が「アト・コユ」または「アザン・シャキル」儀式で正式に命名される。家族や地域の長老たちが集まり、最も高齢の親族が選ばれた名前を宣言する。その後、ムッラー(宗教指導者)が祈りを唱え、名前を3回赤ちゃんの耳元でささやき、正式に名前を授ける。

生後40日を祝う儀式:キルクナン・シガルー

赤ちゃんが生後40日を迎えると、カザフ文化の大切な伝統であるキルクナン・シガルー(Kyrkynan shygaru)が行われる。この節目は赤ちゃんをより広い社会に紹介するもので、伝統的には女性の親族や尊敬される親しい友人のみが参加する。

儀式は、赤ちゃんの豊かで幸せな人生を象徴する40枚の銀貨または銀製品を大きな器に入れることから始まります。参加者はそれぞれ、温かく煮沸したお湯をスプーン1杯ずつ器に注ぎながら、赤ちゃんの将来を祝福する言葉をかけます。

During Kyrkynan shygaru ceremony, the baby is bathed using the water from the bowl with silver items, ensuring that every part of the child’s body is rinsed. Photo credit: pandaland.kz
During Kyrkynan shygaru ceremony, the baby is bathed using the water from the bowl with silver items, ensuring that every part of the child’s body is rinsed. Photo credit: pandaland.kz

その後、器のお湯を使って赤ちゃんを入浴させ、体のすべての部分が清められる。この際に初めて爪や髪が切られるのも儀式の一環である。儀式の後、銀貨や器、スプーンは記念品として参加者に配られ、この祝いの喜びが各家庭にもたらされるよう願う。

トゥサウケセル:初めての一歩を祝うカザフのもう一つの重要な伝統であるトゥサウケセル(Tusaukeser)は、赤ちゃんが自分の足で歩き始める瞬間を祝う儀式である。この象徴的な儀式は、これを行わないと人生で障害に直面する可能性があるという信念に基づいている。

この儀式は、子供が生後12か月頃で独り歩きを始める時期に行われる。この節目を祝うため、家族は親族や友人を招いて宴を開く。儀式自体は食事の後に行われる。

The child’s feet are gently tied with a black-and-white string, representing the ability to discern between good and evil. Photo credit: abai.kz
The child’s feet are gently tied with a black-and-white string, representing the ability to discern between good and evil. Photo credit: abai.kz

赤ちゃんの足は通常、黒と白の糸で優しく縛られる。この糸は善悪を見分ける力を象徴している。赤ちゃんは特別なマットの上に置かれ、その後活気に満ち、大家族のある尊敬される人物が糸を切ることで、自身の優れた特性を赤ちゃんに伝えるとされている。続いて、大人2人が赤ちゃんの手を取り、マットの上を歩かせ、人生が順調で成功に満ちたものになるよう象徴している。

儀式の締めくくりとして、シャシュ(Shashu)と呼ばれるお菓子やコインを撒く風習が行われる。これは豊かさと幸運を意味しており、子供たちは撒かれたお菓子を拾い集め、自分たちの家庭にも幸せと繁栄をもたらすと信じられている。現代でも、シャシュはカザフの家族の祝い事に欠かせない要素であり、参加者全員が喜びを分かち合う伝統である。

Shashu ritual involves showering the guests with sweets and coins, signifying abundance and good fortune. Photo credit: radiomarsho.com

ティラシャル:子供の言葉を解き放つ儀式

ティラシャル(Tilashar)は、無口な子供が話し始めるよう促すための、活気に満ちた古代のカザフの伝統である。この儀式は、言葉を発しない子供の「舌を解放する」と信じられており、子供が最初の言葉を発するのに苦労している場合に行われる。この風習の起源は不明だが、実施方法や解釈は家族ごとに異なる。

一つの形式では、親は生後6か月頃から子供に歌を優しく歌いかけたり、詩を耳元で読み聞かせたりして言葉を学ばせた。それでも子供が期待される年齢を過ぎても話さない場合、ティラシャルの儀式が行われた。

家族はティラシャル・トイ(Tilashar toi)と呼ばれる祝いを開催し、長老たちを招いて祝福を受ける。宴が用意され、伝統的には羊が屠殺されてこの行事を記念した。儀式には象徴的なジェスチャーが含まれ、例えば羊の腸を子供の首に巻きつけるなどの行為が行われました。その後、長老が知恵の言葉と良い願いを述べ、祝福(バタ)を捧げた。これにより、子供が母国語を習得し、祖先のように賢く正しい人間に成長することが願われた。

この伝統は、言葉を話すことを促すだけでなく、吃音の治療法とも考えられていた。

時を経て、ティラシャルは進化し、子供が小学校に入学する際に行われる重要な儀式、アリッペ・トイ(Alippe toi)の前触れと見なされている。

現代では、これらの祝いはカフェやレストランで開催されることが多く、家族や友人が集まる。主役の子供は装飾された玉座に座らされ、人生の新しい段階への移行を象徴する。高齢の出席者が祝福を述べ、祝典は現代的で活気に満ちたスタイルで展開される。

人生の知恵の周期

カザフ人は伝統的にムシェル・ジャス(mushel zhas)と呼ばれる人生の周期で年齢を測った。各周期は12年間で構成され、新しい周期の始まりは人生の重要な節目と見なされた。この節目の年には、13歳、25歳、37歳、49歳、61歳などが含まれます。

最初のムシェルである13歳は、子供時代を象徴した。この年齢までにカザフの若者は、武器の扱い方やバイゲ(baige、競馬)への参加、家畜の管理などの実践的なスキルを習得し、最終的には牧畜を担うことが期待されていた。

遊牧民の信仰によれば、これらの移行年は病気や命に関わる困難に直面する可能性がある脆弱な時期と考えられていた。このため、新しいムシェル・ジャスに入る人々は象徴的な寛大さの儀式を行った。彼らは大切にしていた所有物、たとえば衣類や感情的に意味のある品を選び、家族や友人、または困っている人々に分け与えた。この品々の価値は金銭的なものではなく、贈り主との絆を反映した感情的なものであった。

ムシェル・ジャスに関連するもう一つの伝統は、周期の終わりに行われる祝宴だった。家族は盛大な食事を用意し、通常、羊を屠殺して祝いを記念した。この肉は全てゲストに分けられ、主催者側には残されなかった。この行為は、新しい人生の段階に入る人の新たなスタートを象徴していた。(原文へ

INPS Japan/The Astana Times

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タリバンの布告がアフガン女性の危機を深刻化、NGO活動を全面禁止へ

【カブールIPS=匿名女性記者】

著者はタリバン支配以前にフィンランドの支援を受けて訓練を受けたアフガニスタン在住の女性ジャーナリスト。身元は安全上の理由で公開されていない。

アフガン女性は現在、かつてないほど厳しい状況に直面している。タリバンが4年前に再び権力を掌握して以来、女性や少女に対する制限が強化され、教育や有給の雇用が禁止されることから始まった。

Map of Afghanistan
Map of Afghanistan

最近、タリバンは国内および国外のNGOでの女性の雇用機会を閉ざし、残されていた数少ない職業機会もなくしてしまった。現在、女性は国内外のNGOで働くことが完全に禁止されている。女性の失業率は、新たな布告が発令されるたびに増加している。

タリバンの経済相ディン・モハマド・ハニフは、NGOに対し、この禁止令に違反しないよう警告した。違反が発覚した場合は、活動停止やライセンス剥奪の処分を受けると述べている。2024年12月28日、同省は再び通知を発表し、そのコピーがメディアに公開された。「すべての非政府組織は、女性のNGOでの労働を禁止する布告を厳守し、必要な対応を取るよう指示されている。」と記されている。

元女性NGO職員たちは、タリバンの措置を「差別的で、残酷で、非人道的」と表現している。また、国連人権高等弁務官ヴォルター・テュルク氏も、タリバンの布告を「深刻な懸念を伴う、極めて差別的なもの」と指摘している。

喪失と絶望の物語

この措置が女性たちに与える影響は深刻だ。32歳のラズマー・セカンダリさんも、その一人で、タリバンによってNGOの職を追われ、自宅待機を余儀なくされた。「私たちのオフィスの責任者は、全女性職員に即時辞職するよう強制しました。辞職しない場合、オフィス全体が無期限に閉鎖されると言われたのです。」とラズマーさんは語った。彼女たちに選択肢はなく、命令に従うしかなかった。

「希望を失いました」とラズマーさんは言う。「立ち直る力も残っていませんでした。」
「女性たちと同僚が泣きながらお互いに抱き合っているとき、責任者の厳しい声が響き渡った。『早く荷物をまとめて出て行け』と。」

ラズマーさんはさらに語った。「私が働いていた外国のNGOの一つでは、パルワン州の女性たちに少額投資ローンを提供していました。それで一部の女性は鶏を育て、他の女性は牛を飼育しました。卵や牛乳から収入を得たり、自分たちや家族のためにヨーグルトを作ることもできました。」しかし、雇用が終了してしまったことで、彼女はこれから何をすべきか思い悩んでいる。

彼女は、公共情報へのアクセスさえないため、タリバンの新たな布告を知ることすらできない多くの女性たちと同じ運命を共有している。同僚たちと同様、ラズマーさんも希望を完全に失い、家から出ることさえ困難な状況にある。「私は女性たちのために雇用を創出できると思っていました。」と語るラズマーさん。彼女はパルワン大学で経済学を学び卒業したが、その夢は叶わなかった。

タリバンの布告によって仕事を禁じられ、彼女は専業主婦にならざるを得なくなった。

「家族は5人います」とラズマーさんは言う。「母は病気で、父は高齢で、どちらも収入のない状態で家にいます。」家族の他のメンバーについて、彼女はこう語った。「弟は法学部の1年生です。弟の妻は11年生まで学校に通っていましたが、タリバンが女性の教育を禁止してからは学業を続けられなくなりました。」つまり、家族全員が失業状態です。私だけが収入を得ていましたが、タリバンは私たちが何も悪いことをしていないにもかかわらず、その仕事を奪ってしまいました。どうすればいいのかわからず、途方に暮れています」と、彼女は深いため息をついた。

NGOと女性たちの暗い未来

Working in NGOs was once a lifeline for Afghan women and girls. Now, it has been completely taken away, leaving them without hope or opportunity. Credit: Learning Together.
Working in NGOs was once a lifeline for Afghan women and girls. Now, it has been completely taken away, leaving them without hope or opportunity. Credit: Learning Together.

パルワン州で外国のNGOを率いるアサド・ワリさん(仮名)にとって、タリバンの布告は驚きだった。「過去2年間、私たちは秘密裏に活動していました。」「女性職員が現地視察に行くたびに、タリバンにマハラム(男性の保護者)なしで移動していることを理由に厳しく尋問されるなど、深刻な問題に直面しました。それでも、女性たちは様々な口実を使ってタリバンの検問所を通過し、少なくとも仕事を続けられることに喜びを感じていました。」とワリさんは語った。

ワリさんは次のような悲しい出来事を語った。2024年末、女性が関わるプロジェクトが終了しました。新しいドナーが見つかり、提案書や関連書類はすべて準備が整っていました。翌日、私たちはパルワン州の経済省の部局に行きましたが、新しいタリバンの布告により、女性の活動が完全に禁止されたと直接告げられました。」

外国および国内のNGO活動がアフガニスタンで停止されることは、すでに厳しい状況にある女性たちにさらに深刻な影響を与えるだろう。これらの組織は、人々の基本的なニーズを満たし、国のインフラを支える上で重要な役割を果たしている。

これらの組織がなくなれば、女性たちは甚大な被害を受けることになる。なぜなら、NGOは女性たちにとって、社会的、経済的、健康面での重要なサービスを提供する主要な存在だったからだ。NGOが提供していたスキル訓練や職業訓練、小規模農業など、女性の生活を改善していた活動がすべて奪われてしまった。失業と貧困が増加する中、アフガニスタンの多くの家族は厳しい冬に備えざるを得ない状況に追い込まれている。(原文へ

INPS Japan/IPS UN Bureau

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東京で味わう「古きネパール」

日本の首都で楽しむ本格的で革新的なネパール料理

【カトマンズ Nepali Times=ソニア・アワレ】

अलि अलि अमिलो अलि अलि पिरो अलि अलि गुलियो अलि अलि टर्रो अलि अलि तितो तेसैले त दालभात यति मिठो।

(「少し酸っぱく、少し辛く、少し甘く、少し渋く、少し苦い。それがダルバートの美味しさ。」—東京のレストラン「Old Nepal」の入り口に刻まれた言葉)

東京の買い物街・豪徳寺の中心部に位置する「Old Nepal」は、カトマンズから遠く離れた別世界のようだ。

控えめな入口には薄暗いランプが灯され、店名が読めるだけ。中へ入ると、まるでパタンやバクタプルの暗い石畳の路地裏に迷い込んだかのような感覚に陥る。

店内は窓のない真っ暗な空間で、ネパールの停電時の伝統的な食堂を彷彿とさせる。狭い廊下は、カトマンズの裏路地を思わせる作りで、そこを抜けると、こぢんまりとしながらも広々とした食事スペースへと案内される。

Photo:Old Nepal Tokyo

内装は素朴で、土色のトーンにまとめられ、धुप(お香)の香りに包まれている。壁際にはघ्याम्पो(粘土製の器)や、ネパールの古いレンガと泥の家に見られるखोपा(小さな壁のくぼみ)が並んでいる。

このレストランは、シェフの本田亮(リョウ・ホンダ)さんのライフワークともいえる場所だ。ホンダさんはネパールで探求した食材を使い、本格的かつ革新的なネパール料理を得意としている。

「すべての料理はネパールの多様な文化や風景、そしてその色彩にインスパイアされています。」と、神戸出身のホンダさんはネパール語のアクセントを交えて語った。ホンダさんのムスタンをテーマにしたメニューは、ヒマラヤ山脈越えの地域の荒涼とした景色を彷彿とさせる色彩をもとに作られている。

Ryo Honda. Photo: SUMAN NEPALI

色で区別された料理には、「シャウ」(赤—ムスタンのリンゴのような色)、「アロコアチャール」(灰色—カリガンダキ川の川原の石のような色)、グリーンスープの「ガンダウ・マチャ」(緑)、竹炭を練り込んだ黒い蕎麦ヌードルの「トゥクパ」、茶色の「バングル・コ・セクワ」(ご飯の色)や「ダルバート」と「チャマルコ・クルフィ」(黄色のデザート)がある。

「ネパールが好きなのは、そこには一種類の人や食文化だけではないからです」と、毎年ネパールを訪れる41歳のホンダさんは語った。今回の訪問では、カンチャンプールでタルー族の料理を調査していた。

ホンダさんと妻の真理さんは、ダンクタも訪れ、地元のキノコや他の食材を試した。「Old Nepal」では、特にクミンやターメリック、コリアンダー、ジンブ、ティムル、ピンクチベットソルトなどのスパイスをネパールから直接取り寄せている。これらのアイテムの一部は、レストランの一階上にあるスパイスショップ「Sunya」で販売されている。

Dal Bhat
Alooko Achar
Nepali spices in Old Nepal Tokyo.

「ネパール料理が特別なのは、その独特な香りのおかげです」とホンダさんは語り、「特にジンブやティムルのようなネパール特有のスパイスが大きな役割を果たしている。」

ホンダさんがネパールに魅了されたのは、2007年に神戸でネパール料理店で働き始めたときだった。それからネパール料理に情熱を注ぎ込み、実際に訪問するまでになった。

「ネパール料理をもっと上手に作るには、現地に行くしかないと決めました。」とホンダさんは振り返る。「そして、神戸に戻ったときには新たなインスピレーションを得ていました。」

Thukpa
Chamalko Kulfi
Ghandhau Macha

その後、大阪で友人が営む「ダルバート食堂」で働き始めた。そこでは多くのネパール人留学生が客として訪れていた。ホンダ夫妻はその後もネパールを頻繁に訪れ、ドルポからバルディアまで山岳地帯や平野を巡り、特別な地元の食材や料理法を探し続けた。

これらの旅は、ネパール社会や、料理人(その多くが女性や子供)の扱われ方についても重要な洞察を与えた。

そして、「Old Nepal Tokyo」というアイデアが生まれた。ネパール料理を尊厳と敬意をもって扱い、それを基盤にした高級ダイニング体験を創造することだった。

Dhok Dhok, Tsampa
Shyau
Bangur Ko Sekuwa

「多くの面で、ネパールは私のビジネスの中心であり、この国に何を還元できるかを考えています。」とホンダさんは、パタンの「ジュネリ・チヤバリ」ティールームで語った。「ネパールの料理人は一般的に熟練と見なされず、十分な収入を得られません。高級ダイニングの発展がそれを変えるはずです。」

「Old Nepal Tokyo」は予約制のセットメニューのレストランで、1コースは13,000円(約90ドル)以上となり、ミシュランガイドにも掲載されている。

Menu
Mr. and Mrs. Honda Photo: SUMAN NEPALI

「ここのお客さんのほとんどはネパールについて何も知らず、行ったこともない人ばかりです。」「でも、ここで食事をした後は、ネパールに行きたくてたまらなくなるのです。」とホンダさんは語った。

ホンダ夫妻は最終的にネパールで高級ネパール料理店を開きたいと考えている。また、ネパール料理のレシピ本も日本語で出版しており、その中には、マリーゴールドやジュジュダウ、フェヌグリークのシロップを使用した「ティハール」というフェスティバルデザートも含まれている。

さらにホンダさんはティムルビールの製作にも挑戦し、現在レストランで缶で販売している。その評判も上々だ。

ネワール料理は、ホンダさんが最も好きなネパール料理の一つである。「神戸の料理にも似ている部分があります。我々も多くの内臓を使うんです」と彼は笑いながら語った。(原文へ

INPS Japan

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反社会的なソーシャルメディアから子どもたちを守る

21世紀における子ども保護への重要な一歩として、オーストラリアの新たな禁止措置

【カトマンズNepali Times=ピーター・G・キルヒシュレーガー】

オーストラリアは、16歳未満の子どもたちがソーシャルメディアを利用することを禁止した。この措置は一部の批判に直面しており、特にFacebookやInstagramを所有するMetaやTikTokといった企業からの反発が強い。これらの企業は、若者をプラットフォームから遠ざけることができない場合、最大3,200万ドルの罰金を科される可能性がある。しかし、この新しい政策は、21世紀における子ども保護のための重要な一歩を示している。

Location of Australia. Credit: Wikimedia Commons.

すべての社会、そしてそれに奉仕する国家は、子どもたちを有害な依存症から守る責任を負っている。そして、ソーシャルメディア企業がまさに目指しているのは、この「依存症」の醸成である。Facebookの創設者であり初代社長でもあるショーン・パーカーが2017年に明かしたように、プラットフォーム構築のプロセスは「いかにしてユーザーの時間と意識を最大限に消費するか」という単純な問いに基づいて進められた。彼らが見出した答えは、「人間の心理の脆弱性」、すなわち社会的承認を求める欲求を「利用すること」だった。

パーカーによれば、ソーシャルメディアのプラットフォームは、社会的承認を得る「いいね」やコメント、閲覧数、シェアを通じて、依存症に関与する神経伝達物質であるドーパミンを放出するよう設計されている。人々がプラットフォームを使えば使うほど、ドーパミンが多く分泌される。その結果、「社会的承認のフィードバックループ」が形成され、ユーザーはその中毒性に囚われていく。「それが子どもたちの脳にどんな影響を与えているのか、神のみぞ知る」と、後悔の念を抱くパーカーは嘆いた。

また、Facebookの元幹部で、「深い罪悪感」からソーシャルメディアに反対する発言を行ったチャマス・パリハピティヤは、この現象についてこう語っている。「あなたは気づいていないかもしれないが、プログラムされているのです。」と、彼は2017年にスタンフォード大学での講演で述べた。ソーシャルメディアをどのように、どれだけ使うかを決めることは、どれだけ「知的独立性」を「手放すつもりがあるか」を決めることに等しい、と。

しかし、多くのユーザー、特に子どもたちは、ソーシャルメディアに関して情報に基づいた健全な選択をする能力を持ち合わせていない。これは特に、中毒的なフィードバックループによるものである。世界保健機関(WHO)の欧州地域事務所によれば、ソーシャルメディアの使用に問題があるとされるケース(使用のコントロールができない、使用しないと禁断症状を感じるといった依存症のような症状で特徴づけられる)は、青少年の間で急増しており、2018年の7%から22年には11%に上昇した。米国では、平均的なティーンエイジャーが1日あたり4.8時間をソーシャルメディアに費やしている。

Photo credit: UNESCO
Photo credit: UNESCO

これらのデータは深刻なリスクを示唆している。1日に3時間以上ソーシャルメディアを利用する青少年は、利用時間が少ない同年代の若者と比べて、不安や抑うつを経験する可能性が2倍高い。また、ソーシャルメディアの使用は、低い自尊心やいじめ、学業成績の低下とも関連している。証拠によれば、過去10年間における米国のティーンエイジャーの自殺率の増加において、ソーシャルメディアが主要な要因となっていると考えられている。

WHO
WHO

WHOは「青少年が有害なソーシャルメディア使用を食い止めるために、即時かつ持続的な行動を取る」ことを求めている。さらに若者たち自身も警鐘を鳴らしている。今年11月初め、スイスのルツェルン州の若者議会は、ルツェルン州議会に対し、ソーシャルメディア利用者の保護を強化するよう請願書を提出した。その中で、「依存症予防」を含む保護策のために、保護者や社会に向けた「ターゲットを絞った啓発活動」の必要性を訴えている。

これまでに、子どもたちが依存性のある習慣から自分たちを守るよう大人たちに請願したことがあっただろうか?タバコのアクセスに関する規制が議論された際、子どもたちが親に対し、自分たちに喫煙させるリスクを知らせるよう求めたことはあっただろうか?ソーシャルメディアがそのような要求を引き起こしているという事実は、その害がいかに深刻であるかを物語っている。

ソーシャルメディアの影響は、子どもたちだけに留らない。パリハピティヤによれば、これらの企業が作り出した「短期的なドーパミン駆動のフィードバックループ」は、誤情報や「虚偽」の拡散を通じて「社会の機能を破壊している」とのだ。パーカーの言葉を借りれば、ソーシャルメディアは「文字通り、社会や他者との関係を変えてしまう」のである。これは単なる憶測ではない。ソーシャルメディアは「分断のエンジン」であり、暴力を扇動する強力なツールであることが証明されている。

facebook logo
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パーカーは、自分が依存症を醸成するために働いていたことを知っており、Facebookの創設者マーク・ザッカーバーグやInstagramの共同創設者ケビン・シストロムなども同様にそれを理解していた。パリハピティヤによれば、彼や同僚たちは「悪いことは起こらない」と自分たちに言い聞かせていたが、心の片隅では「そうではない」と分かっていた。それでも報酬はあまりにも大きく、手放すことはできなかったようだ。人々がプラットフォームに依存すればするほど、企業はより多くのユーザーデータを収集でき、それを使って高度にターゲットを絞った個人広告を販売することで、より多くの利益を得ることができた。

ソーシャルメディア企業が自らを規制するという発想は、当初から現実的ではなかった。これらの企業のビジネスモデルは、基本的な権利を侵害することに基づいているからだ。そのため、自国民、さらには国際社会全体を保護する責任を真剣に果たそうとするすべての国が協力し、これらのプラットフォームのための新たな規制枠組みを構築・施行する必要がある。その第一歩として、オーストラリアの例に倣い、使用年齢の引き上げを行うべきだ。(原文へ

ピーター・G・キルヒシュレーガーは、ルツェルン大学倫理学教授で社会倫理研究所所長。チューリッヒ工科大学(ETHチューリッヒ)の客員教授も務める。

INPS Japan/ Nepali Times

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