ホーム ブログ ページ 4

AIが脅かす報道機関の役割―核兵器やAIなど、人類存亡のリスクを伝える力が失われる危機

【Bulletin of the Atomic Scientists=ピーター・リックウッド】

何とも皮肉な話だ。ロシアと米国の間に残されていた最後の核軍備管理条約が失効してから数カ月。今度はテクノロジー業界の幹部たちが、人工知能(AI)の安全性を確保するための規制モデルとして、冷戦時代の核兵器検証制度を引き合いに出している。

AI開発企業アンソロピック(Anthropic)の研究組織「アンソロピック研究所」を率いるマリーナ・ファバロ氏と、同社の共同創業者ジャック・クラーク氏は、AIが自らを改良するようになり、人間が制御を失いかねない段階に近づいているとして、業界に「ブレーキペダル」を設けるよう呼びかけた。

両氏はブログへの寄稿で、「世界はこれまでも、複雑な技術を対象とする検証制度を構築してきた」と述べ、その例として中距離核戦力(INF)全廃条約を挙げた。米国は2019年に同条約から離脱し、その後、2026年には新戦略兵器削減条約(新START)も失効している。

クラーク氏はCNNの取材に対し、次のように語った。

「私たちは以前にも、こうした課題に対処した経験があります。冷戦の最盛期、敵対する国家同士が極度に緊張していた状況でも、核軍拡競争の一部を安定させる方法を見いだしたのです」

しかし、AIが貪欲なデータ需要を満たすために、人類が共有してきた知的資産を大量に取り込んでいる一方で、業界の代弁者たちは核軍備管理の歴史における重要な要素を見落としているように思える。

核軍備管理は、粘り強い交渉だけによって実現したのではない。信頼できるジャーナリズムによって情報を得た市民の行動も、その実現を支えてきたのである。

核兵器のように複雑で不透明性が高く、一般市民との間に大きな情報の隔たりがある問題を報じるには、専門的な知識と多大な時間を要する、継続的な取材が欠かせない。

ところがAIは、報道機関がそうした取材活動を支える能力そのものを脅かしている。

影響を受けるのは核兵器の報道だけではない。AI自身を含む、人類の存亡に関わるさまざまなリスクについても同じことがいえる。

「巨大テクノロジー企業は、許可も得ず、対価も支払わずに、ニュースサイトからコンテンツを根こそぎ採掘しています。そして、盗み取ったものを自社のものとして再包装し、本来なら記事を制作した報道機関に向かうはずの読者と収益を奪っているのです。」

米紙『ニューヨーク・タイムズ』の発行人、A・G・サルツバーガー氏は6月、フランスのマルセイユで開催された世界新聞・ニュース発行者協会の会合で、こう批判した。

『ニューヨーク・タイムズ』は、AI製品の学習や同紙の記事の継続的な利用が、米国著作権法に基づく知的財産権を侵害しているとして、複数のAI企業を相手取って訴訟を起こしている。

サルツバーガー氏がこの発言を行ったのは、グーグルが検索サービスについて、「25年以上の歴史の中で最大の刷新であり、AIによって全面的に再構想した」と発表してから間もない時期だった。

新たな検索サービスでは、ニュース記事やその他の情報源へのリンクを示すよりも、AIが質問への回答を直接提供することに重点が置かれている。

初期の利用者からは、グーグルのAIがニュースサイトの記事や学術研究を十分に取り上げていないとの声が上がっている。

サルツバーガー氏は、マルセイユの会合で聴衆に問いかけた。

「AIはニュースをどのように変えるのでしょうか。その変化は、世界中の市民が公共的な議論に参加するための場として機能する情報環境に、どのような影響を及ぼすのでしょうか。」

「そして、民主主義の健全性に不可欠な、現場取材と事実に基づく報道の未来を守るために、ここに集まった私たちには何ができるのでしょうか。」同氏はさらに、強い危機感を表明した。

「私が恐れているのは、独自取材という、費用も労力もかかる困難な仕事を担う記者が、ますます少なくなる未来へと、私たちが猛スピードで突き進んでいることです。」

「現場に足を運び、人々に話を聞き、情報を掘り起こし、重要な問題や出来事を報じ、その背景を説明・分析し、権力者を調査する。そうした仕事を担う記者が減っていくのです。」

「そして、健全な社会と安定した民主主義を支える重要な源泉、すなわち独自取材に基づくジャーナリズムがもたらす真実、理解、説明責任が、枯渇し続ける未来を危惧しています。」

核兵器をめぐる主張を押し通そうとする際、政府が真実を都合の悪いものとして扱ってきたことは珍しくない。

核兵器は一般市民にとってなじみの薄い、しかも極めて大きな破壊力を持つ存在である。そのため、政府は市民を欺きやすいという状況を利用してきた。

1945年、日本に原子爆弾が投下された後、少数の勇敢なジャーナリストたちは、米国政府による否定的な説明に異を唱え、広島と長崎における放射線の致命的な影響を報じた。それは、いわゆる「足で稼ぐ取材」によって現場から得られた、一次情報に基づく報道だった。

一方、2003年のイラク戦争に至る過程では、ジャーナリストたちは政府当局などの公式情報源に依存した。イラクが核兵器やその他の大量破壊兵器を保有しているという虚偽の主張に疑問を投げかけるだけの知識や理解が不足していたため、読者や視聴者に対する責任を十分に果たすことができなかったのである。

それ以降、意図的に流される偽情報と、誤った情報の拡散は、社会全体に蔓延する問題となった。

報道機関は、広告収入をソーシャルメディアや検索エンジンに奪われ、ニュースの消費習慣も変化したことで、経営基盤を弱めてきた。その結果、記者の数も減少している。同時に、世界各地で報道の自由に対する攻撃が強まっている。

サルツバーガー氏によれば、AIを開発する巨大テクノロジー企業は、独自取材に基づく報道の衰退をさらに加速させている。AI業界の主要6社の企業価値は、合計11兆ドルに達するとされる。

同氏は、その結果として「偽情報、プロパガンダ、陰謀論、ディープフェイク、コンピューターが大量生成する粗悪なコンテンツが、さらに急増している」と警告した。

さらに、「恐怖、怒り、分断を増幅するアルゴリズムによって、市民の過激化が進み続けている」と指摘した。

ニュースの情報源としてAIを利用する人は増えている。しかし、英国放送協会(BBC)と欧州放送連合(EBU)の共同研究によると、AIが提供するニュース情報の信頼性には深刻な問題がある。

研究では、AIの回答は「正確性や十分な文脈の提示といった、質の高いジャーナリズムやニュースに不可欠な基本的な編集基準を満たしていない」と結論づけられた。

調査対象となったAIの回答のうち、45%には少なくとも一つの「重大な問題」が見つかった。「何らかの問題」がある回答まで含めると、その割合は81%に達した。

EBUは、報道機関が制作したコンテンツをAIに利用させるかどうか、また、どのような形で利用を認めるかについて、発行者側により大きな管理権限を与えるべきだと主張している。

さらに、利用が認められた場合でも、「合意された形式による、より明確な出典表示と引用、そして原資料への目立つリンク」が必要だとしている。

あるいは、サルツバーガー氏が指摘するように、「質の高い報道を支える最も確かな道は、読者との直接的な関係を築くこと」にあるのかもしれない。

AIをめぐる激しい変化のなかでも、ロイター・ジャーナリズム研究所の調査結果には、いくらか希望を見いだせる。

「話題がジャーナリズムに絞られると、AIに対する人々の評価はかなり慎重になります。」調査報告書の著者3人の一人であるフェリックス・サイモン氏は、こう記している。

「私たちの調査では、人間が主体となって制作するニュースと、AIが主体となって制作するニュースの間に、明確で持続的な『安心感の格差』が存在することが分かりました。」

調査対象国全体で、AIだけが制作したニュースに抵抗を感じないと答えた人は、わずか12%だった。人間が制作過程に関与する場合でも、その割合は21%にとどまった。

一方、人間が主体となり、AIを補助的に利用して制作するニュースでは43%に上昇した。人間のジャーナリストが全面的に制作したニュースでは、62%に達した。

報告書はさらに、次のように指摘している。

「米国人も例外ではありません。米国の回答者が示した安心感の水準は、世界全体の平均とほぼ一致しており、人間による監督と執筆を強く望む傾向が根深く存在することを示しています。」しかし、こうした人々の選好だけでは、AI時代における質の高いジャーナリズムを守ることはできない。

世界各国で、AIモデルの開発企業を規制し、報道機関が制作したコンテンツの利用に対して適切な対価が支払われるようにするための法整備が必要なのである。

Original URL: https://thebulletin.org/2026/07/how-artificial-intelligence-threatens-the-news-industrys-ability-to-report-on-existential-risks-including-those-posed-by-nuclear-weapons-and-ai/

INPS Japan

関連記事:

|視点|ローマ宣言の先へ―AIと核兵器の時代に築く「ローマ・プロセス」(浅霧勝浩INPS Japan理事長)

混迷を越え、行動を促す―リカルド・グラッシが描くジャーナリズム

|報道の自由|奪われた命、削られる予算、失われる地位

|アスタナ|カザフスタンの未来都市が2026年11月に日本からの直行便就航で観光客を歓迎

【アスタナ/ 東京INPS Japan=浅霧勝浩】

カザフスタンの首都アスタナは、前衛的な建築群、文化の多様性、豊かな歴史を体感できる観光地として急速に注目を集めている。2026年春には日本とカザフスタン間の直行便が開設される予定で、アスタナの魅力はさらに高まるだろう。アスタナは「中央アジアのドバイ」としても知られ、現代的な都市計画と伝統が融合した独自の魅力を持っている。10月、私は国際ジャーナリストたち(フランス、キルギス、トルコ、アゼルバイジャン、インド、パキスタン、べラルース、中国、韓国、ベルギー、セルビア、アルメニア)とともにプレスツアーに参加し、アスタナの最も象徴的な観光スポットをいくつか訪れる機会があった。|英語版|

International journalists visit Alem.AI, a hub for artificial intelligence education, research and entrepreneurship in Astana, Kazakhstan, on October 3, 2026. Photo: MFA, Kazakhstan

日本人建築家が描いた未来のビジョン

Kisho Kurokawa

アスタナが急速に近代的な首都へと変貌を遂げたのは、1990年代後半に都市のマスタープランを作成した日本人建築家、故黒川紀章氏の先見性のある設計によるところが大きい。黒川氏の未来的なビジョンは、洗練された現代的な建造物とカザフスタンの遊牧民の過去を反映する要素を組み合わせたもので、都市のスカイラインと都市全体のレイアウトを形成している。彼の作品は伝統と現代性の相互作用を際立たせ、アスタナを世界の首都の中でも際立った存在としている。

日本の旅行者にとって、アスタナとこの偉大な日本人建築家とのつながりは、さらに魅力的なポイントとなるだろう。アスタナの街を歩くと、黒川氏のモダニスト的なアプローチが、カザフスタンの未来を象徴する都市にどのように実現されているかを直接目にすることができる。

文化のモザイク

Kazakhstan celebrates peoples unity day. Cedit Silkway TV
Kazakhstan celebrates peoples unity day. Cedit Silkway TV

この多様性は、地元の料理シーンにも反映されている。プレスツアー中、私たちは市内のレストランで様々な料理を楽しんだが、カザフ、ロシア、カフカス、韓国、そして、ウズベキスタンなど中央アジアの文化の影響が感じられた。

伝統的なカザフ料理であるベシュバルマック(茹でた肉と麺で作られる料理)や、ユーラシアの多彩な味を楽しむことで、アスタナでの料理体験はその人々の多様性を豊かに映し出している。特に日本からの観光客にとって、アスタナの料理はその多文化的なアイデンティティを体感できる貴重な機会となるだろう。

未来的なスカイライン

アスタナのスカイラインは、大胆で未来的な建築によって形作られ、「中央アジアのドバイ」としての評価を得ている。その中でも最も象徴的な建物の一つが、カザフスタンの独立と未来への希望を象徴するバイテレクタワーである。ツアー中、私は他のジャーナリストと共にバイテレクを訪れ、地上97メートルの展望台からの眺めは息を呑むほどの美しさだった。アスタナのスカイラインのパノラマビューは、ガラスの高層ビルと広々としたオープンスペースが融合した都市の姿を映し出している。

Golden man Credit: Astana City Pass
Golden man Credit: Astana City Pass

もう一つのハイライトは、2017年の万博の遺産である世界最大の球形建築物、ヌル・アレム(現:アレムAI)だ。この未来的な建造物は現在、再生可能エネルギーや持続可能な技術に関する展示を行っており、エネルギー生産の未来についてインタラクティブに学ぶことができる。他のジャーナリストと共にアレムAIを探索し、カザフスタンが持続可能性に対してコミットしているだけでなく、世界的なIT及びAI革新における役割も強調されていることを感じた。

歴史を巡る旅

カザフスタンの歴史に興味のある方には、カザフ国立博物館で同国の豊かな文化と歴史の変遷を詳しく知ることができる。 プレスツアー中、私たちは古代遊牧民の遺物から現代アートまで、同博物館の膨大なコレクションを探索する機会があった。 この訪問は、カザフスタンの歴史が、同国が現代の独立国家としてどのようなアイデンティティを持つに至ったかを理解する上で、貴重な洞察を提供してくれた。

National Museum of Kazakhstan
National Museum of Kazakhstan

直行便就航で観光促進

2026年11月30日に予定されている日本とカザフスタン間の直行便就航は、両国の関係において重要な進展となるだろう。この新しい路線により、日本の観光客がカザフスタンの活気あふれる首都を訪れることがこれまで以上に容易になり、文化交流や観光の機会が拡大するだろう。

International Journalists with Zhaslan Madiyev, deputy prime minister and minister of artificial intelligence and digital development. Photo: Katsuhiro Asagiri/INPS Japan.
International Journalists with Zhaslan Madiyev, deputy prime minister and minister of artificial intelligence and digital development. Photo: Katsuhiro Asagiri/INPS Japan.

アスタナは最先端の建築物と文化の多様性、そして歴史の深みが融合した都市であり、海外からの観光客にとって魅力的な目的地だ。日本人観光客にとっては、日本の最も象徴的な建築家の一人である黒川氏によって設計された都市であることも魅力の一つだろう。プレスツアーの一環として他の国際ジャーナリストと共にこの街を探検した経験を通じて、アスタナが伝統と革新のユニークな融合によって際立っていることを強く感じた。

直行便就航の期待が高まる中、アスタナはダイナミックに発展するその風景を体験したいと願う新たな観光客の波を迎える準備ができている。 ようこそカザフスタンへ(Казакстанға қош келдіңіз!)。

INPS Japan

関連記事:

カザフ外務省、年次コンテストで国際ジャーナリストを表彰

ステップの精神を甦らせる:カザフスタンで第5回ワールド・ノマド・ゲームズ(世界遊牧民競技大会)が開催される

核兵器廃絶展を通じて絆を深める日本とカザフスタン

まだ存在しない経済に備える―カザフスタンの挑戦に注目すべき理由

【INPS Japan/The Astana Times=アイダ・ハイダル】

この1年、未来学者たちと対話を重ねるなかで、とりわけ驚かされたことがある。人工知能(AI)をめぐって始まった話が、最後までAIそのものを中心に進むことは、ほとんどないのだ。(英語版)

たいてい、話の出発点はAIである。生成モデル、自律型エージェント、ChatGPTの次期バージョン、そして、こうしたシステムが進化する速さについて語り合う。ところが、20分、30分とたつうちに、AIそのものは会話の中心からほぼ姿を消す。気づけば私たちは、労働市場や教育、政治制度、ガバナンスについて話している。そして最後には、技術という枠をはるかに超えた問いに行き着く。何世代にもわたって近代社会を形づくってきた経済モデルが、終わりに近づいているのではないか、という問いだ。

本題は、AIそのものではない

Brett King during an interview with The Astana Times correspondent Aida Haidar. Photo credit: The Astana Time

https://astanatimes.com/2026/08/preparing-for-economy-that-doesnt-yet-exist-why-kazakhstans-experiment-is-worth-watching/
The Astana Timesのアイダ・ハイダル記者のインタビューに応じる未来学者ブレット・キング氏。写真提供:The Astana Times

こうした視点の変化を、私は次第に見過ごせなくなった。

私たちはAIがもたらす変化を理解しやすくするために、しばしばインターネットやスマートフォンになぞらえる。確かに、これらの技術は私たちの暮らしを変えた。しかし、近代経済を支える中心的な前提の一つを揺るがすことはなかった。それは、人間の労働こそが、価値を生み出し、富を分配する主要な原動力だという前提である。

AIは、その前提さえ揺るがすかもしれない。

未来学者のブレット・キング氏が、あるインタビューで語った言葉が、今も心に残っている。経済の自動化が進めば進むほど、資本主義の従来の仕組みは、想定されてきたとおりには機能しなくなるというのだ。彼の言葉を借りれば、それは「私たちが知る資本主義の終わり」を意味する。

その結論に賛同するかどうかは、むしろ二次的な問題だ。より重要なのは、彼の見立てが部分的にでも正しいとすれば、政府は何をすべきなのか、という問いである。

歴史を振り返れば、制度を担う側には、構造的な変化が完了するまで待ってから対応を決める余裕など、ほとんどないことが分かる。その段階では、移行に伴う痛みは、すでに必要以上に大きくなっていることが多い。

おそらく、それが、私の関心がAIそのものからリーダーシップへと徐々に移ってきた理由なのだろう。ここでいうリーダーシップとは、通常の意味での政治的指導力ではない。目先の政治日程を超えて考え、まだ十分に姿を現していない経済に向けて、社会の準備を進める政府の能力のことである。

キング氏は、過去40年にわたって多くの人が当然視してきた、もう一つの前提にも疑問を投げかけた。市場におおむね任せておけば、いずれ大半の問題は解決するという考え方だ。

「自由市場は気候変動を解決していません。貧困も解決していない。住まいを失う人々の問題も解決していません。これは自由市場が解決してくれる問題ではないのです。足並みをそろえた統治の取り組みが担うべき役割です」と、彼は私に語った。

世界各国の政府が、AIをどこまで規制すべきか、どこまで技術革新の展開に委ねるべきかを模索している今、この主張は強く議論を促すものだ。

それでも、彼が示す区別には説得力がある。AIが変えようとしているのは、単一の産業ではない。医療、交通、物流、金融、製造業、教育、行政に、同時に影響を及ぼし始めている。

これまでの技術革命とは異なり、AIは一つの省庁や規制当局の所管にきれいに収まるものではない。近代国家が数十年をかけて築いてきた、ほぼあらゆる制度に関わっている。

そうであるなら、リーダーシップの意味も変わってくる。問われるのは、今日の経済を効率よく運営すること以上に、明日の経済が本格的に到来する前に、国民がそれに備えられるようにすることだ。

カザフスタンが、思いがけず興味深い事例となっている理由も、おそらくここにある。

未来が訪れる前に備える

長年、カザフスタンの将来をめぐる議論は、主にエネルギー、重要鉱物、交通・物流の連結性、そして大国の間に位置する地政学的な立場を中心に展開されてきた。

しかし近年、別の見方が浮かび上がっている。AIをデジタル政策の一施策として扱うのではなく、国の長期的な発展戦略の中心に据える見方である。

この2年間、政府は国際AIセンター「Alem.ai」を開設し、AI教育プログラム「AI-Sana」を拡充するとともに、計算基盤に投資し、行政へのAI導入を加速させてきた。

この変化は、政府の公式発言にも表れている。

カシムジョマルト・トカエフ大統領は、AI開発評議会の第2回会合で、「資源と労働に基づく従来の成長モデルは、有効性を失いつつある」と述べた。そして、AIを原動力とし、データに基づいて機能する、全面的に統合された経済へと速やかに移行しなければ、カザフスタンは世界の技術競争に後れを取るおそれがあると警告した。

すべての取り組みが成功するかどうかは、ある意味では本質的な問題ではない。技術革命を完璧に乗り切った政府の例など、歴史上ほとんどないからだ。

しかし、備えるのが早すぎることと、遅すぎることの間には、大きな違いがある。

前者には、今後必ず変化していく構想に投資するリスクがある。後者には、気づいたときには世界経済のルールがすでに変わっているというリスクがある。

キング氏が、技術ではなく時間について語ったときに指摘していたのは、まさにこのことだった。

彼によれば、現代社会は四半期ごとの決算、単年度予算、選挙の周期に縛られている。しかし、社会を大きく変える事業は、そうした時間軸で成し遂げられてきたわけではない。大聖堂の建設は世代をまたぎ、パナマ運河の建設には数十年が費やされた。アポロ計画には、一つの政権の任期を大きく超える、持続的な政治の関与が必要だった。彼は、AIもまた、こうした文明のあり方を変える変革に属すると考えている。

話を聞きながら、私は考え始めた。私たちが直面する最大の課題は、AIそのものではないのかもしれない。むしろ、政治が未来を思い描く力を失いつつあることではないだろうか。

民主主義国の政府は、今なお30年先を見据えて考えることができるのか。現在の指導者たちが退任してから、はるか後になって初めて成果が明らかになるかもしれない投資について、その意義を説明し、支持を得ることができるのか。

カザフスタンを見ていると、こうした問いがますます重要に思えてくる。

トカエフ大統領は、急速に変化する世界で競争力を維持するうえで、デジタル変革はもはや選択肢ではなく、不可欠なものだと繰り返し述べている。

今年7月、上海で開かれたAI会議で、大統領は、どの国もAI技術の単なる利用者にとどまるべきではないと強調した。そして、技術の進歩が不平等を深めるのではなく、社会に役立つものとなるよう、すべての国が自国の人材を育てなければならないと訴えた。「どの国も、人工知能の単なる利用者にとどまるべきではありません。すべての国に、人材、デジタル基盤、そして制度を整え運営する能力を育む機会が保障されなければなりません。その根底にあるのは、公正と公平の問題です」と、大統領は述べた。

AI経済を、人間の側から考える

私が興味を引かれるのは、その構想の壮大さそのものではない。今や多くの政府が、AIについて熱心に語っている。注目すべきなのは、AIを単なる一つの技術分野として捉えるのではなく、教育や国家の政策遂行能力、長期的な経済計画と結び付けようとしている点だ。こうしたつながりは、未来学者のブレット・キング氏、ロン・イミンク氏との対話でも、繰り返し浮かび上がった。

イミンク氏は、まったく異なる角度からこの問題に向き合っていた。彼の関心は、アルゴリズムよりも文化にあった。主要なAIシステムの大半は、今なお主として英語を基盤に「思考」している、と彼は指摘する。しかし、言語にはそれぞれ異なる世界の捉え方、歴史的経験、文化的背景が織り込まれている。AIが真に知的なものになるには、単に言語を翻訳するだけでは足りない。それぞれの言語を理解することを学ばなければならないのだ。

Ron Immink. Photo credit: The Astana Times

https://astanatimes.com/2026/08/preparing-for-economy-that-doesnt-yet-exist-why-kazakhstans-experiment-is-worth-watching/
ロン・イミンク氏。写真提供:The Astana Times

この指摘によって、私は一見ささやかなニュースを、別の角度から捉えるようになった。カザフ語が、ChatGPTで利用の伸びが最も速い言語の一つになったというニュースである。これを、ちょっと興味深い統計として受け流すことは簡単だ。しかし、そこにはもっと大きな意味があるのかもしれない。AIの時代において、言語はもはやアイデンティティーだけの問題ではない。社会への参加を左右する問題にもなりつつある。

AIシステムのなかに取り込まれた文化は、そのシステムが人類そのものをどのように理解するかを形づくるうえで、必然的により強い影響力を持つことになる。教育も、同様の課題を突き付けている。

イミンク氏は、学校教育の大部分が、今なお工業社会の経済的な要請に沿って組み立てられていると考えている。学校は、1世代後には今の形では存在していないかもしれない仕組みのなかで、安定した職業人生を送るための準備を、生徒たちにさせているというのだ。

キング氏は、さらに踏み込む。哲学、心理学、倫理、生涯学習は、工学と同じくらい重要になるかもしれないという。AI時代に決定的な意味を持つ能力は、単にコードを書くことではない。変化に適応することだからだ。

未来学者たちへの取材を数カ月続けてきた私は、AIが政府に突き付けているのは、意外にも古くからある問いだと考えるようになった。それは、他国より速く技術革新を進められるかどうか、という問いではない。まだ存在しない未来を思い描き、不確実さを抱えながらも、その未来に備えられるかどうか、という問いである。

AI経済が最終的にどのような姿になるのか、誰にも分からない。予測は分かれ、技術は政策よりも速く進化する。そして歴史は、どれほど自信に満ちた予測であっても、その限界を思い知らせるものだ。今日始められたすべての取り組みが、意図した成果を生む保証はない。しかし、おそらく大切なのはそこではない。確実になるまで待つという選択肢は、もはや残されていないのかもしれない、ということだ。

今日のカザフスタンを見ていて、私が注目するのは、技術そのものよりも、その背後にある発想の転換である。AIは、もはや一つのデジタル産業や、技術革新のための政策としてのみ論じられているわけではない。教育、制度、行政、そして国の長期的な経済の方向性をめぐる、より広い議論の一部になりつつある。AI-Sanaであれ、計算基盤への投資であれ、Alem.aiの整備であれ、あるいは最近の政府全体へのAI導入の取り組みであれ、そこに共通するのは、変革への対応が避けられなくなる前に、準備を進めようとする姿勢である。

AI時代のリーダーシップとは、これからますます、そうしたものになっていくのかもしれない。あらゆる技術的な飛躍を予測する能力ではなく、大きな不確実性に国が適応できる条件を、進んで整えていく姿勢である。カザフスタンは今、その選択に賭けているように見える。AI経済が最終的にどのような姿になるのかを、誰も確信を持って語れない段階から、制度、教育、そしてデジタル分野の能力に投資しているのだ。

INPS Japan

関連記事:

国連が直面するAIをめぐる新たな試練

なぜ今、「世界市民」がこれまで以上に重要なのか

都市・気候テック・メディアが交わる未来―持続可能な社会の新たな設計図

「ゴキブリ」発言が引き起こした、モディ強権政治への過去最大級の挑戦

【ロンドンIPS=アンドリュー・ファーミン】

インドの強権的指導者ナレンドラ・モディ首相は、ついに自らが最も嫌うことを強いられた。抗議運動を受けて譲歩することである。

すべては5月15日に始まった。インド最高裁長官のスーリヤ・カント氏が法廷で、失業して抗議活動を行ったり、ソーシャルメディアで声を上げたりする若者たちは「ゴキブリのようなものだ」と発言したのである。

この発言は、支配層が若者たちをどれほど軽視しているかを如実に示すものだったが、結果は完全に裏目に出た。数日のうちに全国的な運動へと発展し、「コックローチ・ジャンタ党(Cockroach Janta Party=ゴキブリ人民党)」が誕生した。

運動の中心的な要求は、ダルメンドラ・プラダン教育相の辞任だった。プラダン氏は7月25日に辞任した。しかし、それだけでは、この運動が解き放った変革への要求を収めるには不十分かもしれない。

運動の誕生

インドには、世界のどの国よりも多くのZ世代が暮らしている。14歳から29歳までのインド人は約4億700万人に上り、人口のおよそ30%を占める。

彼らは、教育を受けるために激しい競争を強いられ、卒業後も仕事を見つけるのに苦労している。

カント氏の発言は、若者たちの怒りに火をつけた。

コミュニケーション戦略家のアビジート・ディプケ氏は、ソーシャルメディア上でこう問いかけた。

「もし、すべてのゴキブリが団結したらどうなるだろうか?」

この問いかけをきっかけに、「コックローチ・ジャンタ党」という名称の運動が瞬く間に広がった。この名前は、与党のヒンドゥー民族主義政党「インド人民党(Bharatiya Janata Party=BJP)」をもじった風刺的なものだった。

当初は風刺的なウェブサイトにすぎなかったが、たちまち社会運動へと成長し、わずか2週間でインスタグラムのフォロワーは2200万人に達した。

この「ゴキブリ運動」は、世界的に広がるより大きな潮流の一部でもある。

近年、多くの国でZ世代が大規模な抗議行動に立ち上がっている。共通するのは、政府が若者の現実からかけ離れ、経済や政治制度が若者たちの期待に応えられていないことである。

こうした運動は、特定の指導者に依存しない集団的リーダーシップ、大規模な抗議行動、そしてソーシャルメディアの戦略的活用を特徴としている。

インドにも、その波が押し寄せる時が来たのである。

やがて、この運動には人々を結集させる明確な争点が生まれた。

インドの教育制度では、人生を左右する入学試験への依存度が極めて高く、その結果が数百万人の将来の進路を決定する。

医学部入学試験では、約220万人の受験生が13万の定員を争う。家族は大きな犠牲を払い、学生たちは何年もかけて試験勉強を続ける。

ところが、汚職によって試験問題が賄賂と引き換えに漏洩することが珍しくない。

カント氏の「ゴキブリ」発言のわずか2週間前にも、全国医学部入学試験の問題が漏洩し、試験そのものが中止された。

学生たちは絶望した。

そして、怒りに変わった。

抗議が政府を動かす

抗議者たちは数週間にわたりニューデリー中心部に野営し、プラダン教育相の辞任を要求した。

ボランティアたちは食料、水、医薬品、キャンプ用品などを提供した。

運動はやがてZ世代の枠を超え、あらゆる年代の人々が参加するようになった。

環境活動家であり教育改革運動にも取り組み、過去に抗議活動を理由に投獄されたこともあるソナム・ワンチュク氏が、数週間にわたるハンガーストライキを行ったことで、運動への注目はさらに高まった。

政府は7週間にわたり抗議者を無視し続けた。

しかし、それが通用しないと分かると、今度は暴力に訴えた。

当局がワンチュク氏を強制的に病院へ搬送すると、数千人の抗議者が抗議拠点から国会へ向けて行進した。

治安部隊はペレット銃や催涙ガスを使用し、抗議者や通行人を警棒や木の棒で殴打し、多数を拘束した。

その暴力はソーシャルメディア上で広く記録され、「世界最大の民主主義国」を自任するインドにとって衝撃的な光景となった。

政府はもはや無視できなくなった。

抗議は他の都市にも広がり、政府はついに協議に応じざるを得なくなった。

今後の展望

政府は、試験問題漏洩事件を迅速に裁く特別法廷の設置と、試験制度および教育制度全体の見直しを約束した。

これを受けて運動側は抗議活動を終了した。また、抗議参加者に対して一切の報復措置を取らないとの約束も取り付けた。

しかし、これは長年にわたり異論を抑圧してきた政府の体質とは相いれない。

モディ政権には、活動家の拘束、抗議活動への実力行使、批判的な言論の検閲、そして市民の権利を制限する法律の制定といった前歴がある。

市民社会の活動空間が悪化しているとして、インドは最近、国際的な市民社会ネットワーク「CIVICUS」の監視対象リストにも加えられた。

「ゴキブリ」抗議が終結した後も、警察は数百人の学生を拘束・嫌がらせの対象とし、その家族まで標的にしていると報じられている。

プラダン教育相の辞任は、極めて異例の出来事だった。

これまで政府が世論の圧力を受けて、不人気な閣僚を退任させたことはなかったからである。

しかし、BJPがそこから多くを学んだ形跡はない。

最近の補欠選挙の選挙運動中、BJP全国総裁のニティン・ナビン氏は、抗議者たちを「国を壊すことに取りつかれたウイルスであり、ゴキブリ集団だ」と呼んだ。

モディ首相は一時的に時間を稼いだかもしれない。

しかし、根本的な問題は何も解決していない。

一つは経済問題である。若年層の高い失業率と明白な格差がある。

もう一つは政治問題である。若者の声に耳を傾けず、異議を唱える権利も尊重しない高圧的な政府の存在だ。

さらなる抗議が起きる可能性は高い。

すでにジャールカンド州では、公務員採用試験をめぐる同様の汚職疑惑をきっかけに、新たな抗議運動が広がっている。

モディ政権が圧力に屈したのは、今回が初めてではない。

2021年には、長期にわたる農民の抗議運動により、政府は農業関連法の改正を撤回せざるを得なかった。

2024年総選挙ではモディ氏への支持が低下し、政権維持のため連立政党に依存することになった。

その後、BJPは勢いを取り戻したようにも見えた。4月には、選挙人名簿の変更を経て、西ベンガル州で初めて政権を獲得したからである。

しかし、その選挙人名簿変更では900万人以上の名前が削除され、その影響はイスラム教徒やBJPを支持しない可能性が高い有権者に偏っていたとして物議を醸した。

そして今、ニティン・ナビン氏が再び「ゴキブリ」発言を繰り返した補欠選挙で、BJPは敗北した。

「ゴキブリ運動」は、モディ政権にとってこれまでで最大の挑戦となる可能性がある。

なぜなら、この運動は階級、政党、宗教の違いを越えて広がっており、政府にとって単純に切り捨てることが難しいからだ。

BJPは長年、イスラム教徒を敵視することでヒンドゥー教徒の支持基盤を固めてきた。

しかし、デリーの抗議現場では、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が並んで祈りを捧げた。

また、この運動がソーシャルメディアを通じて広がったことも重要である。

それによって、BJPの影響下に置かれ、政府の主張をそのまま繰り返し、異なる意見を軽視しがちな既存メディアを迂回することができたからである。

政府は、社会の空気を読み取るべきだ。

しかし実際には、誤った教訓を引き出し、抗議運動の指導者たちへの弾圧に乗り出す可能性も十分にある。

そうなれば、さらなる抗議と、国家による暴力、そして抗議活動の犯罪視が繰り返される悪循環を招くだろう。

インドが「世界最大の民主主義国」としての可能性を真に実現するためには、民主的自由をさらに深め、異議申し立ての価値を認めなければならない。

そして何より、政府が「ゴキブリ」と呼んだ若者たちこそが、インドの未来に大きく貢献し得る存在であることを認める必要がある。

アンドリュー・ファーミン(Andrew Firmin):CIVICUS編集長。CIVICUS Lens の共同ディレクター兼執筆者であり、State of Civil Society Report の共著者でもある。

INPS Japan/ IPS UN Bureau Report

関連記事:

世界の「市民空間」が縮小―民主主義の危機とZ世代の抵抗

デジタル時代に抗議を再定義するZ世代(アハメド・ファティATN国連特派員・編集長)

南アジアにおける若者主導の革命は懸念すべきか?

報告書「ネパールの大災害、地球温暖化が引き金に」

科学者ら、地球温暖化が壊滅的な山体崩壊に影響したと結論

【カトマンズNepali Times=編集部】

ネパールのランタン・リルン(Langtang Lirung)で壊滅的な山体崩壊が発生してから3週間。科学者らは衛星画像と気象データを詳細に分析し、気候変動がこの災害を引き起こした要因の一つだったとの結論に達した。

この速報的な分析報告書を発表したのは、異常気象に対する気候変動の影響を分析する国際的な科学者ネットワーク、World Weather Attribution(WWA)である。同グループは主に熱波、集中豪雨、干ばつなどを分析しているが、2024年9月にネパールのレレ川とロシ・コラ川で発生した鉄砲水についても分析を行っている。|英語版|

氷河学者や気候科学者からなる研究チームは報告書で、次のように指摘している。

「この壊滅的な岩石と氷の崩落には、さまざまな気候的・地質学的要因が影響しており、その大半は、高地の山岳環境に対する気候変動の影響によって悪化している」

木曜日午後の時点で、中国とネパールでは1400人の遺体が発見され、なお5000人以上が行方不明となっている。ランタン・リルンの山体の一部が国境地帯のレンデ・コラ(Lhende Khola)へ崩落し、氷、岩石、土砂が一体となった壊滅的な流れが発生したためだ。

A drone image of the north face of Langtang taken a week after the collapse. Photo: NDRRMA

https://nepalitimes.com/climate-warming-set-off-nepal-disaster-report
【写真】 崩壊から1週間後にドローンで撮影されたランタン北壁。|写真:NDRRMA

報告書によると、今回の災害は複数の要因が連鎖して発生した**複合的な災害(compound hazard chain)**だった。

その発端となったのは、地殻変動と気温上昇の双方の影響を受けた岩壁の崩壊だった。化石燃料の燃焼に伴う数十年にわたる大気の温暖化によって、気温が0度となる高度、いわゆる0℃等温線が上昇し、この山では標高5000メートルを超える高さにまで達していた。

ヒマラヤの他の地域と同様、その影響で氷河は10年間に約100メートルの割合で斜面上方へ後退し、岩盤の亀裂を凍結によってつなぎ止めていた永久凍土も融解した。

こうした融解に加え、2015年の地震以降続いていた山体斜面の長期的な不安定化が重なり、斜面の安定性が損なわれ、最終的な崩壊につながったと報告書は結論づけている。

研究チームはランタン山塊周辺の気温データも分析した。その結果、7月と8月の気温は観測史上最も高かったことが分かった。また、前年10月と11月には異例の大雪があり、融解が進む氷の上に積もる雪の荷重を増大させていた。

気候変動によって、世界の平均気温は産業革命前と比べて約1.5℃上昇している。2015年のパリ気候会議で各国政府は、世界平均気温の上昇を1.5℃に抑えることに合意したが、その水準にはすでに達している。

さらにヒマラヤでは、標高が高いほど温暖化が増幅される**「標高依存型温暖化(elevation-dependent warming)」**の影響もあり、この地域の気温上昇は世界平均を0.7℃上回っている。

報告書は、ネパールではこうした気候変動の影響に対する適応能力の限界を超える事態が生じていると指摘する。

「今回の惨事の規模は物理的な適応の限界を超えており、悪化する災害への適応がいかに困難であるか、そして今後さらに大きな『損失と損害(Loss and Damage)』が生じる危険性を浮き彫りにしている」

科学者らはさらに、氷河や高地の永久凍土は気温上昇に対して数十年という時間をかけて反応するため、過去の温暖化によって将来の不安定化がすでに避けられないものとなっていると指摘する。

このため、将来の壊滅的な山体崩壊を防ぐには、化石燃料からの脱却を急ぐ必要性が一層高まっているという。

インペリアル・カレッジ・ロンドンの異常気象・気候変動研究者、ベン・クラーク氏はこう語った。

「今回の災害は異常気象そのものではありません。しかし、長期的な環境変化を見れば、気候変動の痕跡は明白です」

山岳水文学者のワルター・イマージール氏はランタン地域で研究を続けてきた研究者で、今回のWWA報告書にも参加した。

「私たちは今、ヒマラヤの山岳環境で根本的かつ不可逆的な変化が起きているのを目の当たりにしています。高地の永久凍土の劣化、氷河の後退、そして記録的な夏の高温が重なることで、山の岩壁そのものの構造的な安定性が損なわれています」

Colourbar showing a 15-day moving average height of the 0°C isotherm at the approximate location of slope failure for each decade since 1980 over the glaciological year (October-September). Dotted and dashed lines show the height of the rockwall base and failure elevation, respectively. The black line shows the data for the 2025/26 year, and the colour of the other lines indicates the mean isotherm elevation.

https://nepalitimes.com/climate-warming-set-off-nepal-disaster-report
【図】 1980年以降、各年代の氷河年(10月~翌9月)について、斜面崩壊地点付近における0℃等温線の高度を15日間移動平均で示したもの。点線と破線はそれぞれ岩壁基部と崩壊地点の標高を示す。黒線は2025/26年のデータで、その他の線の色は各年代の平均的な0℃等温線高度を示している。

ネパールの気候活動家マンジート・ダカル氏は、今回のような洪水が下流域にもたらすリスクが高まっていると、10年にわたって警告を発してきた。

ダカル氏は、気温上昇によって山岳環境が変貌し、より複雑で連鎖的な災害が発生する危険性が高まっていると確信している。

「今回の災害の規模は、ネパールの災害対応能力、そして気候変動への適応そのものの限界を試しています」

WWAによれば、今回のボテ・コシ=トリスリ洪水に関する報告書は、単一の異常気象を分析したものではないという点で、従来の分析とは異なっている。対象となっているのは、複数の段階を経て発生した山岳災害だからだ。

この報告書は、ネパールが訴える**「気候正義(climate justice)」**の根拠を強め、復旧・復興費用を賄うため「損失と損害基金(Loss and Damage Fund)」からの支援を求める際にも重要な材料になるとみられている。

赤十字・赤新月気候センター(Red Cross Red Crescent Climate Centre)のマダブ・ウプレティ氏はこう語る。

「想像を絶する規模の人的被害に加え、今回の災害からの復旧には莫大な費用がかかります。この問題を引き起こすことにほとんど何の責任も負っていない国がこれほどの被害を受けているという事実は、自らが引き起こしたわけではない問題に直面する気候脆弱国を支援するため、公平な仕組みを構築する必要性を改めて浮き彫りにしています」

ネパールのバレンドラ・シャハ首相は9月23日に国連総会で演説する予定で、脱炭素化に取り組んできたにもかかわらず、ネパールが気候災害の最前線に立たされている現状を訴えるとみられている。

科学者らは、これはネパールだけの災害ではなく、世界全体に対する警告だと指摘する。

また、ハイ・マウンテン・アジア(High Mountain Asia)は、北極圏と南極圏に次いで、氷の形で水を蓄えている世界第3の巨大な貯水域でもある。この地域の氷が融解すれば、アジアの主要河川すべてに影響が及び、最終的にはその下流域で暮らす約20億人に影響を与えることになる。

インペリアル・カレッジ・ロンドンの気候科学教授、フリーデリケ・オットー氏は警告する。

「化石燃料からの排出をゼロにするための移行をはるかに速いペースで進めなければ、今後数年間に、今回と同規模の災害がさらに発生することは避けられないでしょう。」

INPS Japan

関連記事:

悲嘆と希望が交錯するネパール

東京で味わう「古きネパール」

小さな団子「モモ」の冒険:ネパールの神話やキャラクターが、国際的な児童書の題材となる

マリで女性性器切除(FGM)の廃絶に取り組む一人の男性

【国連IPS=UNFPA】

マリでは、女性・少女の推定10人中9人が女性性器切除(FGM)を受けている。父親であり、コミュニティの指導者として知られるシディ・ハイダラ氏は、長年この慣習を単なる生活の一部だと信じてきた。

Map of Mali
Map of Mali

マリ中部の彼の地域社会の多くの人々と同様、彼もそれを何世代にもわたって受け継がれてきた、守るべき伝統だと考えていた。しかし今、彼は村から村へと歩きながら、全く異なるメッセージを伝えている。「いかなる伝統も、少女の健康・権利・未来を犠牲にしてはならない。」|英語版|

彼の物語は、一人の男性の個人的な変化にとどまらない。西アフリカ・中央アフリカの一部地域では、FGMは今なお根強く残っており、マリはこの地域で最も実施率が高い国の一つでありながら、この慣習を明確に禁じる法律は存在しない。最近でも、伝統の保護を名目に、マリの男性たちによるFGM擁護キャンペーンが行われている。

社会規範が深く根付いた場所では、変化はしばしば、コミュニティ内部の信頼された声から始まる──ハイダラ氏のような声である。「私はかつて、この慣習は我々の伝統の一部であり、守るべきものだと信じていました。」とハイダラ氏は語る。

彼がいつかFGM廃絶を訴える側になるとは、誰も予想していなかった。

彼の考え方が変わり始めたのは、ドイツ政府の資金支援を受けてUN Women(国連女性機関)が実施する「変化の担い手となる男性と少年たち(Men and Boys as Agents of Change)」プロジェクトを通じて行われた研修やワークショップ、コミュニティ対話に参加してからである。

UNWOMEN
UNWOMEN

さまざまな人々の経験に耳を傾け、FGMがもたらす影響について学ぶうちに、彼はそれまで一度も問い直したことのなかった自らの信念を見直し始めた。そして、持続的な変化は一方的に押し付けるだけでは生まれず、対話と信頼、地域社会が主体となって取り組むことを通じて育まれるのだと理解するに至った。

「ドイツ政府の支援を受けたUN Womenの研修は、FGMに対する私の理解を大きく変えました。この慣習が少女たちに及ぼす身体的、心理的、社会的な影響について学んだのです。」「今では、家族や宗教指導者、若者、女性たちを対象に、定期的に啓発セッションを開いています」と彼は説明する。

彼は人々に何を考えるべきかを説くのではなく、少女を守るとはどういうことかについての対話を促し、対話を通じて長年の思い込みに挑んでいる。

こうした対話は、少しずつ変化を生み出している。「変化を実感しています。より多くの親が疑問を持つようになり、複数の家族が女性性器切除をやめる決断をし、少女を守ることについての議論もより開かれたものになっています。」

After spending years defending female genital mutilation, Sidi Haidara now leads community dialogues in Mopti, Mali, encouraging families to protect girls’ rights and abandon the practice. Credit: UN Women/Dieneba Deme

「少女たちを守ることは、コミュニティ全体の未来への投資だと確信しています。」

ハイダラ氏の歩みは、マリのモプティ州とガオ州全域で進む、より大きな運動の一部である。

ドイツ政府の支援を受け、UN Womenは宗教・伝統指導者、女性、若者、そしてハイダラ氏のような男性たちと協力し、女性・少女に対する暴力を防ぎ、有害な社会規範に挑む、コミュニティ主導の取り組みを進めている。

これまでに、両州で50件のコミュニティ主導の取り組みが実施され、8か所の対話プラットフォームが、少女の権利や保護、ジェンダーに基づく暴力の防止について話し合う場を提供している。

ハイダラ氏にとって、有害な慣習を捨て去ることは、単に一つの伝統を手放す以上の意味を持つ。それは、少女たちが安全に成長し、学校に通い続け、自らの未来を切り拓く機会を得られるようにすることである。

彼の歩みは、かつて有害な社会規範を支持していた人々こそが、それを変える担い手になりうることを示している。

伝統は一夜にして変わるものではない、とハイダラ氏は理解している。しかし、一つ一つの対話が、立ち止まって考える機会を生む。娘を守ることを選んだ一つ一つの家族が、これまでの世代から受け継いできたのとは異なる未来を、少しずつ書き換えていく。

モプティとガオでは、こうした対話が示している──永続的な変化は、必ずしも新たな法律や政策から始まるとは限らない。むしろそれは、コミュニティ自身が、少女たちのために異なる未来を思い描こうと決意するところから始まることが多いのだ。

INPS Japan/IPS UN Bureau Report

関連記事:

アジアにおける女性器切除は、依然として無視されている問題である

|視点|全ての少女に学籍を認めることが児童婚に歯止めをかける一つの方法(アグネス・オジャンボ『人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチ』研究員)

ガンビア最高裁、女性器切除禁止法の合憲性を判断へ

ヨーロッパを徘徊する妖怪 ― 超国家主義という妖怪

ある AfD の選挙ポスターには「若者よ、我々のもとへ」というメッセージが掲げられている。ナチスと共産主義双方のプロパガンダを彷彿とさせる文言だ。

【スウェーデン、ストックホルムIPS=ヤン・ルンディウス】

夏場はニュースの少ない時期とされる。それでも今年は、中東やウクライナでの戦争に関する報道でソーシャルメディアが溢れ、おなじみの陰惨な殺人事件の話題も後を絶たなかった。スウェーデンでは選挙の年にあたり、夏の報道には「民族集団に対するヘイトスピーチ」をめぐる議論が加わった。個々の殺人事件が人々を憤らせる一方で、特定の人口集団全体が政治家によって標的にされている事実には、無関心な人が多いように見える。スウェーデンのソーシャルメディアには「イスラム系」移民への抗議や、スウェーデンが「イスラム化」し、新たなアフガニスタンと化す危険性を懸念する声があふれている。|英語版|

こうした煽情的な言説の中心にいるのが、スウェーデン民主党だ。ネオナチにルーツを持つ、民族主義的・社会保守的・ポピュリスト政党である。2010年の選挙で同党は全国得票率5.7パーセントで議会入りを果たし、現在は他の右派政党と連立を組んで政権を担っている。国の統計機関である中央統計局によれば、現在の支持率でスウェーデン民主党は18パーセントを獲得し、34パーセントの社会民主党に次ぐスウェーデン第2の政党となっている。

Map of Sweden
Map of Sweden

スウェーデン民主党の思想的指導者は、元高校教師のリチャード・ヨムショフである。彼は今世紀初頭、3人の同志とともに、同党を白人至上主義運動やネオナチから遠ざける一方で、民族主義・反移民の党是は維持するという舵取りを行った人物だ。2022年の議会選挙後、スウェーデン民主党は政権入りを果たした。ヨムショフは党書記長の職を退き、議会司法委員会の委員長に就任した。同委員会は、裁判所、検察、警察、矯正機関に関わる案件や、刑法に関連する法案・事件を扱う。

ヨムショフはこの立場を利用し、「非スウェーデン系」の犯罪者への厳格な対応や、移民制限の推進を訴えた。彼の目標の一つは、「祖国のイスラム化」についてスウェーデン国民に警鐘を鳴らすことだった。X(旧ツイッター)に反イスラム的な風刺画を投稿した後、ヨムショフは司法委員会委員長の職を追われかけた。しかし委員会メンバーは彼を支持し、「特定の人口集団全体の信用を貶めている」との非難を、単なる「政治的な戯言(たわごと)」に過ぎないと評する者もいた。それでも1年前、政府が一部の半自動小銃を禁止したことへの抗議として、ヨムショフは委員長職を辞任した。

その後、ヨムショフはイスラムに関する「分析」の執筆に多くの時間を費やし、最近、アラビア語で「不信心者」を意味する『カーフィル』という書籍を出版、これがベストセラーとなった。ヨムショフの政治姿勢と、イスラムの「専門家」としての経歴は、現在のヨーロッパ政治を特徴づける分極化の一例である。すなわち、あらゆる個人を一つの民族・宗教集団全体の代表として扱い、十把一絡げにして、その人物を単一の問題―移民問題―の一部にしてしまう傾向だ。

ヨムショフは反移民政党を代表する過激な国家主義者だが、だからといってスウェーデン民主党の支持者全員が、改心したナチスやヨムショフの一般化を頑なに信じる者というわけではない。同様に、すべてのムスリムがヨムショフの描くような過激なイスラムの支持者であるわけでもない。個人をひとまとめにして過激派とレッテルを貼ることは危険である。最近、剣とヘルメットを身につけた若い男がスウェーデンのある学校に押し入り、生徒1人を殺害し2人に重傷を負わせ、3人目は軽傷で逃げるという事件が起きた。犯人は、2011年に「多文化主義とムスリム移民に対抗する」との名目で77人を虐殺したノルウェーのブレイビクに触発されたとみられる。2015年にも、スウェーデン人のアントン・ルンディン・ペッタソンが同じ理由で3人を殺害している。

排外主義を通じた政治的利益の獲得は、より大きなヨーロッパの政治情勢を構成する一要素に過ぎない。ネオナチにルーツを持つ小さな辺境政党が、15年足らずでスウェーデン政権入りを果たしたという事実は、ヨーロッパ全体に見られる現象を改めて裏づけている。9月15日にはスウェーデンで総選挙が行われ、来年にはフランス、スペイン、ギリシャ、ポーランド、イタリアでも選挙が予定されている。これらの国々にはいずれも、国家主義的・排外主義的な綱領を掲げる有力政党が存在する。フランスでは、国民連合の前身が1972年にジャン=マリー・ルペンによって設立され、当初は旧ナチス親衛隊(武装SS)の元メンバーも参加していた。スペインのボックスは2013年に設立され、ハステオイールやシチズンゴーといった超保守派ロビー団体からの寄付を得て成長した。ギリシャの黄金の夜明けは、幹部が重大犯罪で有罪判決を受けた後、2020年に解散した。2023年にはギリシャ最高裁が後継政党「ヘレネス」の選挙参加を阻止し、この判断は2027年の選挙にも適用される見通しだ。しかし、その綱領を引き継ぐ小規模政党は数多く存在する。ポーランドの法と正義党は、労働運動「連帯」から分派した保守政党で、政治的カトリシズム、強固な保守主義、反自由主義、国家主義、欧州懐疑主義を掲げ、広範な支持を集めている。イタリアの兄弟党は、ムッソリーニの死後に結成されたファシスト政党「イタリア社会運動(MSI)」にルーツを持つ。2013年の総選挙で得票率2パーセントを獲得し議会で9議席を得た。イタリアの世論調査・調査会社オンリー・ナンバーズによれば、兄弟党は現在イタリア最大の政党であり、2022年の選挙後、党首のジョルジャ・メローニがイタリア首相の座に就いている。当初は小規模で、中には出自のいかがわしい党もあったこれらの政党が、なぜこれほど短期間で強大な勢力へと成長できたのだろうか。

一因として考えられるのは、既存の政治勢力なら口にするのも恥じるような過激な主張を掲げることで、辺境政党がおおむねリベラルな報道機関の注目を集めやすくなるという点だ。「狂信者」について一般大衆に警鐘を鳴らそうとするあまり、リベラル系メディアがその主張を拡散し、関心をかえって高めてしまう。スウェーデンの選挙を前に、綿密に計算されたタイミングで、ヨムショフは信頼性に乏しく一般化に満ちたイスラム論の書籍を出版した。小さな無名の出版社から刊行されたにもかかわらず、テレビ、新聞、ウェブといったスウェーデンのメディアから異例の注目を浴び、たちまちベストセラーとなった。オスカー・ワイルドがかつて述べたように、「話題にされることより悪いことは、話題にされないことだけだ」。

Europe’s shifting political landscape. Once-marginal nationalist and anti-immigration parties have gained significant political influence across several European countries, reflecting broader debates over migration, national identity, sovereignty and the future of European integration. | Image: AI Generated/INPS Japan
変容するヨーロッパの政治情勢。 かつては周縁的な存在だった国家主義・反移民を掲げる政党が、欧州各国で政治的影響力を強めている。その台頭は、移民、国家アイデンティティ、主権、そして欧州統合の将来をめぐる、より大きな政治的論争を映し出している。AI生成画像/INPS Japan

同様の現象は現在イタリアでも進行中である。2023年、ロベルト・ヴァンナッチ将軍はアマゾンで著書『逆さまの世界(Il mondo al contrario)』を自費出版し、その内容をめぐり激しい反発と批判を招いた。イタリア軍は即座にヴァンナッチ将軍の主張と距離を置いた。国防相は、彼が「軍と国防、そして憲法の信用を貶めた」と述べた。あらゆる注目を歓迎するヴァンナッチは、その後も同性愛嫌悪と女性蔑視を広め、移民政策と環境保護主義を攻撃しつつ、ロシアによるウクライナ侵攻を擁護し続けている。今では彼はテレビの常連ゲストとなり、著名な政治家や学者との討論にも参加し、最近は自ら政党を立ち上げた。

ドイツの州、ザクセン=アンハルト州で、「ドイツのための選択肢(AfD)」が地滑り的な選挙勝利を収めたことは、リベラルなヨーロッパに衝撃を与えている。ザクセン=アンハルト州は、より大きな連邦共和国ドイツの中では人口のわずか3パーセントを占めるに過ぎず、一人当たりGDPは全州で下から2番目である。それでも、その州支部の勝利は、ドイツ連邦全体の主導権を握りたいというAfDの野心をかき立てている。AfDの超国家主義的な綱領は、ドイツはナチス政権による弾圧と大量殺戮に対する罪悪感をもう十分に抱いてきた、と主張する。同党は、過去は再解釈されるべきであり、ドイツに必要なのは「ヒトラーよりビスマルク」だ、すなわち19世紀に「鉄と血」のスローガンの下でドイツを統一した宰相の精神だと今や訴えている。

INPS Japan/IPS UN Bureau Report

関連記事:

移民の国が多数の難民と庇護申請者を強制送還

移民に関する神話に覆い隠される現実(ロベルト・サビオIPS創立者)(前編)

|視点|植民地主義が世界に及ぼした影響を遅々として認めようとしない欧州諸国(マイケル・マクイクラン ルンド大学客員研究員)

WHO、コンゴ民主共和国のエボラワクチン使用に関する新指針を発表

ウガンダは流行終息も、DRCでは感染者6,000人・死者3,000人超 地域社会内の感染連鎖が焦点に

コンゴ民主共和国(DRC)で続くエボラ出血熱の流行は、9月1日時点で感染者6,000人、死者3,000人を超え、同国史上最悪の規模となっている。隣国ウガンダが先週流行終息を宣言した一方、DRCでは死者の大半が治療センター外、しかも感染経路が特定されていない人々の間で発生しており、把握されていない感染連鎖の存在が懸念されている。こうした中、WHOは唯一承認されているエボラワクチン「エルベボ®」の使用をめぐり、新たな緊急指針を発表。現時点の証拠では通常のワクチン接種プログラムとしての使用を裏付けるには不十分だとして、研究プロトコルの枠内での使用に限定すべきだとの見解を示した。

【国連 IPS=シュレヤ・コマール】

ウガンダが先週、エボラ流行の終息を宣言した一方、コンゴ民主共和国(DRC)は、同国史上最悪のエボラ流行との闘いを続けている。9月1日時点で感染者は6000人を超え、死者は3000人以上に達した。イトゥリ州が最も深刻な被害を受けている。(英語版)

Tedros Adhanom Ghebreyesus/ WHO
Tedros Adhanom Ghebreyesus/ WHO

世界保健機関(WHO)のテドロス・アダノム・ゲブレイェソス事務局長は9月2日、Xへの投稿で、死者の多くが依然として治療センターではなく地域社会の中で発生し、既知の接触者ではない人々にも及んでいることへの懸念を表明した。これは、把握されていない感染経路や未報告の感染例が存在する可能性を示唆している。

「すべての感染連鎖を断ち切らない限り、この流行はDRC、その近隣諸国、そして地域全体にとって脅威であり続ける。」とテドロス氏は述べた。

流行が拡大し、感染が続くなかで死亡率も高いことから、防ぐことのできる死を減らすため、現在唯一認可されているエボラワクチン「エルベボ®」を、今回のウイルスによる感染の予防に活用する可能性が検討されている。

同ワクチンは、1歳以上を対象に、ザイール型エボラウイルス(EBOV)によるエボラウイルス病の予防を目的として認可され、2019年にWHOの事前認証を受けた。しかし、今回の流行の原因であるブンディブギョウイルス(BDBV)に対する使用は認められていない。このため、BDBVを対象にエルベボ®を使用する場合は、適応外使用に当たる。

今回の流行を引き起こしているBDBVは、前回の流行の原因となったEBOVとは異なる。両者は臨床的には類似したエボラウイルス病を引き起こすが、遺伝的には異なるウイルスである。エルベボ®はEBOVに対して高い有効性を示している一方、同ワクチンによって得られる免疫が、BDBVに対してどの程度の防御効果を発揮するかは依然として不明だとWHOは指摘している。

Image: INPS Japan
Image: INPS Japan

WHOが発表したエルベボ®の使用に関する最新の緊急指針では、現時点の証拠は、BDBVによるエボラウイルス病の予防を目的とした同ワクチンの公衆衛生プログラムとしての使用を支持するには不十分であり、研究プロトコルの枠内でのみ用いるべきだと結論づけている。

WHOは、エルベボ®がBDBVに対して防御効果を持つかどうかを見極めるため、厳格に管理された臨床試験を実施するよう勧告している。深刻な流行下では、より広範な使用を検討する余地があるものの、明確な安全計画を備えた研究の一環に限られる。WHOは、ワクチン接種が、すでに有効性が確立している感染対策に取って代わるものではないことを地域社会に明確に伝えるべきだと強調している。

さらに、BDBVに対応するワクチンなどの開発でも進展が見られる。「ブンディブギョウイルスに対する2種類の新たなワクチンが現在、英国とカナダで安全性試験に入っている。」と、テドロス氏はジュネーブで記者団に語った。

同氏によれば、米国のモデルナ社がmRNA技術を用いて進める第1相臨床試験と、英オックスフォード大学によるもう1件の第1相臨床試験が実施されている。(英語版)

INPS Japan/ IPS UN Bureau Report

関連記事:

紛争と住民避難が続くコンゴ民主共和国でエボラ流行、国際的懸念高まる

WHO:移民・難民の健康リスク深刻化 世界の保健体制はなお不十分

|視点|エボラ出血熱、人権、貧困―そのつながりを見い出す(アリシア・エリー・ヤミン米ハーバード大学公衆衛生大学院グローバル・ヘルス専任講師)

重要鉱物をめぐる契約交渉は何が特別なのか

【ニューヨークIPS=カール・P・ソーヴァント、ルイス・T・ウェルズ】

「重要鉱物(critical minerals)」が先進国の企業や政府にとって文字通り「重要」なのは、現代の自動車、人工知能(AI)、コンピューター、ドローンをはじめ、数多くの民生品や防衛関連製品に欠かせないからである。|英語版|

現在、多くの重要鉱物は採掘、とりわけ精製・加工が中国に集中している。そのため、欧米諸国との緊張が高まった際、中国にとってこれらの鉱物へのアクセスを制限することは、強力な交渉手段となり得る。このため先進国の政府や企業は、供給を確保しようと、中国国外で新たな鉱山や加工施設の開発を急いでいる。

重要鉱物の鉱床の多くは開発途上国に存在する。しかし、その多くは、レアアースをはじめとする重要鉱物の採掘に必要な資本やノウハウを外国企業に頼らざるを得ない。探鉱・開発契約は、投資家と受入国政府双方の権利と責任を、多くの場合、数十年にわたって規定する。しかも、多くの投資家は投資協定によって保護されているため、資源保有国にとっては、契約締結の段階から適切な条件を確保することが極めて重要となる。

資源保有国に広がる交渉の余地

重要鉱物をめぐっては、開発途上国の交渉力が他の鉱物資源の場合より強くなることが多い。先進国の民間企業だけでなく、その本国政府も重要鉱物へのアクセス確保に強い関心を持ち、同時に競争相手にその資源を押さえられることを避けようとしているからだ。

投資家側の開発意欲が強ければ、資源保有国は税やロイヤルティーなど、より有利な財政条件を求めることができる。また、政府の政策変更などに対して投資家を広範に保護する「安定化条項」を過度に認めないことや、現地サプライヤーを育成するプログラム、適切な鉱山閉鎖措置などを契約に盛り込むことも可能になる。場合によっては、採掘した鉱石を国内で加工するよう投資家に求めることもできる。

もう一つの機会は、重要鉱物を自国企業に確保させたい投資家本国の政府の強い関心を活用することである。資源保有国は、鉱山そのものに必要なインフラにとどまらず、プロジェクトへの資金提供やインフラ整備への援助拡大などの便益を、投資家の本国政府に求めることができる。

本国政府から実質的な利益を引き出せる可能性を高めるには、受入国政府が投資家やその本国の政策について深い知識を持つとともに、他国で締結された鉱業契約についても十分な情報を得ておく必要がある。

重要鉱物に特有の動きとして、その供給網を構築・安定化させるための多国間・二国間の枠組みが形成されつつある。これにはFORGEや、Project Vaultのような備蓄構想も含まれる。

こうした新たな機会を活用し、投資家の本国政府から利益を得るためには、通常の鉱業担当省庁だけでなく、外務省も交渉に関与する必要があるかもしれない。その結果、政府内の省庁間調整という、以前からある課題がさらに重要になる。

「契約したのに開発しない」リスク

一方、資源保有国には一定のリスクもある。

とりわけ重要なのは、投資家が契約を締結したにもかかわらず、実際には投資を行わないリスクである。あるいは、期待された水準まで生産を拡大しない可能性もある。企業が他社による鉱床の取得を阻止するためだけに契約を結んだり、「万一に備えた」予備資産として権益を確保したりする場合もあり得る。

さらに、技術は急速に変化している。例えば、現在バッテリーに必要とされている鉱物が、数年後にも同じように必要とされているとは限らない。

だからこそ、契約には「use-it-or-lose-it(利用しなければ権利を失う)」条項を盛り込むことが不可欠である。投資家が合意した期限までに鉱山を開発しなかったり、定められた生産要件を満たさなかったりした場合、その権利を失うことを契約で明記し、政府が別の投資家を探せるようにしておく必要がある。

情報と専門知識の格差

受入国政府が投資家と交渉する際、一般に大きな不利となるのは、鉱物資源の価値について投資家側の方が政府より多くの情報を持っていることである。

また政府側には、十分な資金と人材を擁する国際的な投資家と交渉するために必要な法律、財務、技術面の専門知識が不足していることも少なくない。

過去に鉱業契約の交渉経験があったとしても、その際に蓄積された専門知識が、すでに別の政府機関や民間部門へ異動した担当者個人の経験にとどまっている場合もある。

重要鉱物をめぐる契約交渉には特有の複雑さと新たな可能性があるだけに、こうした知識や能力の格差はさらに大きくなり得る。したがって、開発途上国が自らの立場を生かし、こうした機会を十分に活用することは容易ではない。

外部の専門家を活用すれば、政府がより有利で適切な鉱業契約をまとめる助けとなる。しかし、最貧国の多くには、弁護士、地質学者、技術者、金融アナリスト、市場専門家、環境専門家といった国際的な専門人材を雇うための資金が不足している。

世界銀行や国際金融公社(IFC)などの国際機関は、外国投資や鉱業に関する政策・法制度の整備を支援できる。しかし、個々の企業との具体的な契約交渉になると、そうした機関の支援は及ばなくなる。

無償の専門家支援を活用する

AI画像 by INPS Japan

一方、交渉段階で無償(プロボノ)の助言を提供する機関も存在する。

International Senior Lawyers ProjectとAfrican Legal Support Facilityは法的支援を提供している。また、CONNEX Support Unitは法的支援だけでなく、個々のプロジェクトに必要となるその他の専門知識も提供している。

重要鉱物の契約を交渉する際、各国政府はこうした外部支援の活用を検討すべきである。ただし、自国の具体的なニーズに合致し、信頼して協力できる専門家を選ぶため、支援機関と緊密に連携する必要がある。

選ばれる専門家には、必要な技術的知識だけでなく、鉱山開発計画に関係する複数の省庁や政府機関をまとめるためのコンサルティング能力も求められる。これはしばしば難しい仕事である。

最終的に、個々の専門家であれ、異なる専門能力を持つ専門家チームであれ、できるのはあくまで助言である。決定を下すのは、鉱物資源を保有する国の政府である。

長期的に持続する契約を

ただし、一つ注意すべき点がある。資源保有国政府は、自らの交渉力を過信し、要求を過度に押し通さないよう慎重でなければならない。

目指すべきなのは、関係するすべての当事者の長期的な利益を、バランスよく反映した契約である。そうして初めて、その契約は長期にわたって持続するものとなる。

カール・P・ソーヴァント(Karl P. Sauvant)は、コロンビア大学持続可能な投資センター(CCSI)シニアフェローで、国連貿易開発会議(UNCTAD)投資部の元部長。ルイス・T・ウェルズ(Louis T. Wells)は、ハーバード・ビジネス・スクールのハーバート・F・ジョンソン国際経営学名誉教授。両氏はCONNEX Advisory Committee(CONNEX諮問委員会)のメンバーである。

INPS Japan/ IPS UN Bureau Repor

関連記事:

鉱物から製造業へ―カザフスタンのレアアース推進策

グリーン・マイニングの危険性

トランプ・習首脳会談、台湾、イラン、そして世界の権力政治を議題に

開発ブーム―国民の名で築かれ、国民の懐で賄われる

【米ニューヨークINPS Japan/ATN=アハメド・ファティ】

エジプトでは、至るところで「開発」を目にすることができる。その上を車で走ることもできれば、橋を渡ることも、空から写真に収めることもできる。開発は、橋となり、高速道路となり、新都市となる。大統領が出席する華々しい開通式となり、砂漠から姿を現しつつある新行政首都となって目の前に現れる。

しかし、写真にはなかなか写らないものもある。

スーパーで何を棚に戻そうかと悩む家族。薬代を数える年金生活者。貯蓄が目減りしていくのを見つめる中間層の家庭。そして、将来の生活費があまりにも高くなったため結婚を先延ばしにする若いカップル。

これもまた、「開発」の姿なのである。

あるいは、より正確に言えば、上から設計された開発の代償を、下にいる人々が支払うときに生まれる現実なのだ。

9月23日、世界の指導者たちはニューヨークの国連本部に集まり、「発展の権利に関する宣言」の採択40周年を記念する。そこでは、人間の尊厳、平等、参加、そして「誰一人取り残さない」という理念について、さまざまな発言が交わされるだろう。その議論の中で、エジプトについても語られなければならない。それは、エジプトが何も建設してこなかったからではない。むしろ、数多くのものを建設してきた。より難しい問いは、そもそもエジプト国民自身に、「進歩とは何を意味するべきなのか」を決める機会が与えられてきたのかということである。

40年前、国連は人間を開発の中心に据えた。人々は開発に参加し、それに貢献し、そしてその恩恵を受ける存在であるべきだとされた。

この点から見ると、エジプトの歩みには居心地の悪い現実が浮かび上がってくる。

エジプトでは、開発政策が国民と協議して決められるというより、決定された後に国民へ告げられることが多かった。国家が選び、借金をし、建設し、その後で説明する。そして国民が優先順位に疑問を投げかけても、率直な国民的議論を歓迎する場が待っているわけではない。

長年にわたる逮捕、活動への制約、政治的圧力によって、エジプトの野党勢力は弱体化してきた。独立した市民社会も、活動の余地を確保するために長年苦闘している。NGOは厳しい法律、捜査、資金調達上の制約に直面してきた。ジャーナリストは、政府への批判が重大な結果を招きかねない環境で仕事をしている。政党もまた、明文化されていなくとも誰もが理解している一定の限界の中で活動している。

それでも私たちは、「参加型開発」について語る。

では、誰が参加しているのだろうか。

国民に尋ねることなく国をつくる

エジプトには、より良いインフラが必要だったという主張には十分な根拠がある。人口1億人を超える国には、道路、交通網、電力、住宅、そして都市の拡大が必要だった。

本当の問題は、何を優先するかということだ。

どのプロジェクトを最優先するのか、誰が決めたのか。どれほどの速度で進めるのか、誰が決めたのか。どこまでの債務なら受け入れられるのか、誰が決めたのか。何を後回しにすることができたのか。そして、ごく普通のエジプト国民が、そうした選択に実質的に異議を唱えることのできる場は、どこにあったのだろうか。

開発とは、単なる技術的な作業ではない。政治そのものでもある。

大型支出に関する一つひとつの決定には、誰が権力を握っているのかが映し出される。予算を見れば、誰の必要が「緊急」とされ、誰の必要は「後回し」にできると判断されているのかが分かる。そして経済調整のたびに、最終的に誰が痛みを背負わされるのかが明らかになる。

エジプトでは、その痛みの多くが家庭に押し寄せている。

エジプト・ポンドは大幅に価値を失った。物価は急上昇し、購買力は低下した。かつて中間層が当たり前のように考えていたこと――外食、私立学校、医療、家電製品の買い替え、子どもの結婚支援、そしてわずかでも貯蓄すること――が、いまでは一つひとつ慎重な計算を必要とするものになっている。これらは単なるぜいたくではない。

人々が、自分たちの生活が前に進んでいるのか、それとも後退しているのかを判断する、小さくとも重要な物差しなのである。

「経済は改善している」と国民に説明することはできる。「外貨準備が増えている」「国際金融機関が新たな審査を承認した」と説明することもできる。

しかし、人々は結局、自宅に帰って冷蔵庫を開けなければならない。

経済理論が政治的現実と出会うのは、まさにそこである。

終わることのない「忍耐」の要求

エジプト国民は長年、同じような説明を繰り返し聞かされてきた。忍耐してほしい。改革は必要だ。痛みは一時的なものだ。犠牲はいずれ報われる。成長がやってくる。投資がやってくる。繁栄が後に続く。

そうした説明の中には、正当なものもある。

エジプトがウクライナ戦争を始めたわけではない。ガザでの戦争を始めたわけでもない。そしてもちろん、湾岸地域を揺るがし、エネルギー市場を混乱させ、世界で最も重要な海上輸送ルートの一部を再び緊張にさらしたイランをめぐる戦争を始めたわけでもない。

エジプトにとって、この最新の戦争は、地図上の遠く離れた安全な場所で起きている出来事ではない。その影響は、石油・ガス価格、投資判断、保険料、紅海、ホルムズ海峡、そしてエジプト経済が依存している海上輸送路を通じて直接伝わってくる。エジプトは、自ら始めたわけではない戦争の代償を支払っている。

その事実は認めなければならない。

しかし、それを国内のあらゆる困窮を説明する万能の理由にしてはならない。

国外の危機が、エジプトの経済モデルを設計したわけではない。国家予算の優先順位を決めたわけでもない。どれだけ債務を増やしてよいのかを決めたわけでも、どの巨大プロジェクトが「待てない」のかを決めたわけでもない。政治的競争を抑え、市民社会の活動空間を狭め、独立した監視機能を弱体化させ、市民社会が政府の決定に異議を唱えにくくしたのも、外部の危機ではない。

それらは国内で下された選択だった。

この区別は重要である。

強靱な経済とは、次の戦争や原油価格ショック、あるいはスエズ運河の混乱を単に生き延びる経済ではない。一般市民が、あらゆる危機の恒常的な衝撃吸収装置にされることを防ぐ経済でもなければならない。

なぜなら、あらゆる危機の代償が最終的に同じ食卓にたどり着き、食料、エネルギー、交通費の上昇や購買力の低下という形で家計を直撃するなら、「強靱性」という言葉の意味も、食卓のどちら側に座っているかによってまったく違って聞こえてくるからだ。

そして、まさにそこで、経済的困難と政治的説明責任は切り離すことができなくなる。

健全な公共空間が存在する社会では、野党が支出の優先順位に異議を唱える。ジャーナリストが調査する。市民社会が政府の決定に異議を申し立てる。議会が説明を要求する。専門家が公の場で論争する。人々が組織化する。そして政府が、時には方針を変える。

こうした回路が弱体化しても、誤った政策そのものが消えるわけではない。

ただ、異議を唱えることが難しくなるだけだ。

これは、権威主義的統治がもたらす影響の中でも、最も語られることの少ない代償の一つなのかもしれない。それは人権問題であるだけではない。経済問題にもなり得るのである。

写真の中のエジプトと、食卓を囲むエジプト

ある意味で、エジプトには2つの姿がある。一つは、極めて目につきやすいエジプトだ。新しい高速道路。新都市。目を引く建設事業。大規模な国家プロジェクト。政府の公式映像に登場するエジプトである。そこには近代性があり、野心があるように見える。

もう一つのエジプトは、家庭の食卓を囲んでいる。そこで語られるのは、物価、学費、薬代、家賃、肉の値段、そして給与の価値だ。息子は国外へ出るべきだろうか。娘は結婚費用を賄えるのだろうか。5年後、退職後のために蓄えてきた資金には、まだ意味があるのだろうか。

そうしたエジプトが、開発に関するプレゼンテーションに登場することはほとんどない。

しかし、本当に重要なのは、こちらのエジプトなのである。

一般市民の安心と尊厳を向上させることのできない「発展の権利」は、やがて単なるスローガンになってしまう。

参加を伴わない開発は、さらに深刻なものへと変わる危険がある。すなわち、人々の名の下に進められながら、その選択にも、その結果にも、人々が実質的な当事者として関与できない事業である。

誰が「成功」と呼ぶのか

国際金融機関にも責任がある。彼らは債務、財政赤字、為替相場の柔軟性、外貨準備、改革目標を監視する。これらはもちろん重要だ。しかし、一般家庭がなお痛みを背負い続けている中で、経済調整プログラムを「成功」と呼ぶことには、どこか倫理的に欠けた部分がある。

誰にとっての成功なのか。

政府は省庁の中から経済を測る。金融機関は表計算ソフトの数字から経済を測る。人々はスーパーで経済を測る。時として、その3つの現実は、まったく重ならない。

国連の「発展の権利に関する宣言」が目指したのは、まさにこの隔たりを埋めることだった。そこでは、人間こそが開発の中心的主体であるとされた。

国家ではない。

金融機関でもない。

巨大プロジェクトでもない。

一人ひとりの人間である。

発展は「権利」であって、政府からの恩恵ではない

9月に世界の指導者がニューヨークに集うとき、エジプト政府は実際に成し遂げてきた成果を示すことができる。そして、それは示してよい。

しかし同時に、より厳しい問いも投げかけなければならない。

実質的な政治参加が制限されている状況で、開発を「参加型」と呼ぶことができるのか。市民社会が脅威として扱われる状況で、「人間中心の開発」と呼ぶことができるのか。野党政治が弱体化し、独立した声が圧力の下で活動している状況で、市民は本当に開発の方向性を決めることができるのか。

そして、経済的負担の多くを背負っている国民が、その負担を生み出した政策決定にほとんど影響を与えることができないのなら、政府は本当に「開発は成功した」と主張できるのだろうか。

これらは、開発そのものに反対する問いではない。まさに「発展の権利」が問いかけるために生まれた問題なのである。

エジプトは大きく変わった。道路が変わった。街の景観が変わった。通貨が変わった。経済が変わった。政治の風景も変わった。

そして何百万人ものエジプト国民にとって、日々の暮らしは以前より厳しくなった。

40年を経たいま、本当に問うべきなのは、「エジプトは発展したのか」ではないのかもしれない。

発展したこと自体は明らかだ。

問うべきなのは――

その発展は、誰のためのものだったのか。そして、一般のエジプト国民がその費用を負担し、そのために犠牲を払い、その結果とともに生きていくことを求められたのであれば、彼らにはいつ、その「発展」が何を目指すべきなのかを決める権利が与えられたのだろうか。

Original URL: https://www.amerinews.tv/posts/egypt-s-development-boom-built-in-their-name-paid-from-their-pockets

INPS Japan

関連記事:

国連アジェンダ2030:政府に責任を迫る市民社会

世界の「市民空間」が縮小―民主主義の危機とZ世代の抵抗