仏陀の教えを求めた河口慧海から半世紀―その足跡をたどった日本人類学者が見た民主化後のネパール
【カトマンズINPS Japan/Nepali Times=サリル・スベディ】
約100年前、日本の禅僧・河口慧海(1866~1945)が、ネパール、チベット、インドへの壮大な旅を終えて帰国したとき、その冒険譚は日本中で大きな話題となった。一方で、そのあまりにも数奇な体験談を信じようとしない人々も少なくなかった。とりわけ「仏陀の国」とされるネパールや、鎖国状態にあったチベットについて語られた内容は、多くの人にとって現実離れした物語のように映ったのである。|英文版|

河口慧海が亡くなってから8年後の1953年、日本の人類学者・地理学者である川喜田二郎は、ネパール政府の招きにより、11人から成る日本調査団の一員として初めてネパールの土を踏んだ。
当時を振り返り、川喜田教授はこう語る。「1950年代半ばのカトマンズは、ゆったりとした時間が流れる街でした。私は深い安らぎを感じると同時に、この未知の国には、まだ誰も知らない世界が数多く残されているという期待に胸を躍らせました。」
しかし、川喜田氏の人生を大きく変える出来事は、カトマンズではなくポカラで待っていた。フェワ湖畔で日なたぼっこをしていた彼は、かつて河口慧海をトゥクチェ村で迎え入れた人物の息子たち、アナン・マン・シェルチャンとクリシュナ・マン・シェルチャンに偶然出会う。
二人は、半世紀前に村を訪れた「不思議な日本人僧侶」の数々の逸話を語って聞かせた。実は、それまで川喜田氏は河口慧海という人物をまったく知らなかった。しかし、その話を聞いた瞬間から、彼は強く魅了される。「この人物についてもっと知りたい。」その思いが、後に彼のライフワークとなる「河口慧海の足跡を追う旅」の出発点となった。
ポカラでは、もう二人の重要人物とも出会っている。一人は、後にネパール研究の第一人者として知られるスイス人地質学者トニ・ハーゲンである。当時、ハーゲンはポカラのスイス・ミッション病院を拠点にネパール全土の地質調査を進めており、二人は互いの調査成果について意見を交わした。

川喜田氏は当時を懐かしみながら語る。「トニは実に精力的で、ユーモアにあふれた人物でした。」もう一人は、当時ポカラ地方の行政長官(バダ・ハキム)を務めていたプラン・シンである。彼は第二次世界大戦中、イギリス領インド軍の兵士としてマレーシアやビルマ戦線に従軍し、日本軍と戦った経歴を持っていた。
やがて川喜田氏は、自らがポカラまで歩いてきた登山道が、50年以上前に河口慧海が通った道とほぼ同じであることに気付く。その偶然は、彼の探究心をさらにかき立てた。「驚きと同時に、強い好奇心が湧き上がりました。河口慧海について、できる限り多くのことを調べようと決心したのです。そして、ネパールの友人たちの助けがあったからこそ、それが可能になりました。」
川喜田氏は調査のため、河口慧海が滞在したトゥクチェにも足を運んだ。そこで彼は、慧海がタク・コーラからムスタン地方を経てチベットへ入ったことを確認する。慧海は、その道中で地図を作成し、村々の人口や生活、社会の仕組みなどを克明に記録していた。さらにトゥクチェの後は、ツァランやマルファに滞在し、仏教経典の研究に没頭した。
しかし、外国人がほとんど訪れることのなかった当時のヒマラヤでは、その熱心な調査活動は地元住民の警戒を招いた。中には、慧海を英国のスパイではないかと疑う者もいたという。
疑惑を避けるため、慧海はダウラギリ山麓の険しい道を北上し、ドルポ地方トルポへ向かった。そこでは、チベット仏教以前から伝わる古代宗教ボン教(Bon)についても貴重な調査を行っている。川喜田氏は、その足跡をまるで探偵のように一つひとつたどっていった。
「探検家」ではなく、真理を求めた巡礼者―河口慧海の足跡を追って
トルポへ向かう険しい山道をたどりながら、川喜田二郎氏は、河口慧海が残した日記や地図を一つひとつ現地の証言と照らし合わせていった。その結果、驚くべき事実が明らかになる。慧海の記録は、驚くほど正確だったのである。
村人たちの証言と日記の記述は見事に一致し、人口や集落の配置、地図、スケッチ、さらには山々の位置や形状に至るまで、ほとんど誤りが見当たらなかった。川喜田氏は語る。「村の人口も、地図も、スケッチも、山々の描写も、実に正確でした。」
そして、こう付け加える。「残念なのは、河口慧海自身が、自らの生涯をかけた仕事が正当に評価される日を見ることなく亡くなったことです。」
トルポで案内人と別れた慧海は、その後は荷物を自ら背負い、外国人であることを隠すためチベット僧に変装して、閉ざされたチベットへと足を踏み入れた。当時のチベットは外国人の立ち入りを厳しく禁じており、正体が知られれば命さえ危うい状況だった。
それでも慧海は、およそ2年間にわたりチベット各地で仏典の研究を続けた。しかし、やがて当局に日本人であることが発覚し、追われる身となる。彼は命からがらダージリンへ逃れ、その後、ネパール東部を経由して再びカトマンズへ戻った。
そこで慧海は、当時ネパールを統治していたラナ政権の実力者、チャンドラ・シャムシェル首相との謁見を果たす。この訪問の際、慧海は後に広く知られることになる一通の書簡を首相へ送っている。その内容は、一介の旅僧の手紙とは思えないほど大胆なものだった。

慧海は、国家統治のあり方について率直な助言を述べ、イギリス領インドとの外交では冷静さを失わないこと、政治戦略を慎重に進めること、そして権力者の周囲に集まる追従者に惑わされないことなどを説いたのである。
川喜田氏は、慧海の旅の本当の目的について次のように説明する。「河口慧海がチベットを目指したのは、仏陀の教えをできるだけ原典に近い形で伝える経典を探し求めるためでした。彼は、それらの経典がチベットで大切に守られていると信じていたのです。」
慧海はしばしば、英国のためのスパイ、あるいは明治日本政府の密偵ではないかと疑われた。しかし川喜田氏は、そのような見方をきっぱりと否定する。「河口慧海は、英国のスパイだとか、日本政府の密偵だとか言われることもありました。しかし、彼の本当の姿は、ただ一人で真理を求めて歩き続けた旅人であり、歴史家であり、そして巡礼者だったのです。」
その言葉には、長年にわたり慧海の足跡を追い続けてきた研究者としての深い敬意がにじんでいる。実際、川喜田氏自身も1950年代にネパール各地を精力的に踏査した最初期の外国人文化人類学者の一人であり、その後のネパール研究に大きな足跡を残した。
しかし彼は、単なる研究者では終わらなかった。1970年代初頭には、ネパール中西部ミャグディ郡でロープウェー(索道)や上水道整備などの地域開発事業にも深く関わることになる。その経験は、彼の「開発とは何か」という考え方を大きく形づくっていくことになる。
「開発は人が育てるもの」―川喜田二郎がネパールに託した未来
1950年代にネパール各地を踏査した川喜田二郎氏は、研究者としてだけでなく、地域開発にも深く関わった。1970年代初頭には、ネパール中西部ミャグディ郡でロープウェー(索道)や上水道整備事業の実現に尽力した。
その経験を通して、川喜田氏が最も強く印象づけられたのは、地域住民が自ら進んで事業に参加する姿だった。住民たちが自発的に協力し合うことで、プロジェクトは着実に発展していったのである。
こうした経験から、川喜田氏は、人々が自ら管理・運営できる「小さな開発(Small is Beautiful)」こそが持続可能な発展につながるという信念を抱くようになった。彼は次のように語る。「ネパールに必要なのは、その土地の社会や暮らしに柔軟に溶け込む、小規模なプロジェクトです。」
さらに、住民参加型の地域づくりこそが民主社会の基盤になると強調する。「ネパールの村々は、それぞれが自立した共同体であるべきです。地域の人々が共通の目標に向かって自発的に力を合わせることで、地域社会は自ら成長していくことができます。」
この考え方は、後に世界的に広く知られることになる川喜田氏独自の発想法―「KJ法(Kawakita Jiro Method)」にも通じている。川喜田氏は、スイスの地質学者トニ・ハーゲン、イタリアの東洋学者ジュゼッペ・トゥッチと並び、外国人による本格的なネパール人類学研究の草分け的存在となった。日本語・英語による数多くの論文に加え、『Hill Magars and Their Neighbours』『Nurturing Creativity in the Himalaya』『People of Nepal Himalaya』(H.木原編)などの主要著作を発表し、ネパール研究の発展に大きく貢献している。
取材当時、川喜田氏は「これまでとはまったく異なる内容になる」という新著を執筆中だった。教え子たちは、その本には川喜田氏が長年考え続けてきた開発、近代化、そして伝統に対する思想が集大成されるだろうと期待を寄せていた。

日本では、川喜田氏は「KJ法」の創始者として熱狂的な支持を集めている。ネパール研究者の高山龍三教授や、若き日にネパールを共に歩いた仲間たち、さらには東京外国語大学のネパール研究者・石井溥教授らも、その思想に大きな影響を受けた一人である。
KJ法は、先入観を持たずに現実を観察し、収集した情報を創造的に整理・統合して、新たな発想を導き出す問題解決法である。単に数値データを集めるだけではなく、現場で得られる質的な情報や、人々の暮らしの実感を丁寧に拾い上げることを重視する。
川喜田氏は、この方法について次のように説明する。「論理的な枠組みを理解すれば、決して難しいものではありません。この方法は、ごく普通の人々が生きている現実を描き出そうとするものです。だからこそ、社会のエリートたちには好まれないのかもしれません。」そして、その本質を一言で表現する。「答えは上から与えられるものではありません。現場から生まれるものなのです。」民主化を歩み始めたネパールについて、川喜田氏は希望と課題の双方を見据えていた。「今のネパールは、20世紀初頭の日本によく似ています。社会全体が大きな転換期を迎えているのです。」
もちろん、急激な変化はネパールだけの現象ではない。
「こうした変化は世界中で起きています。しかし、民主主義を十分に機能させるためには、現在の官僚制度に大きな改革が必要です。残念ながら、いまのエリート層は自らの利益を追うことに忙しすぎます。」その言葉には、長年ネパール社会を見つめ続けてきた一人の研究者としての率直な思いが込められていた。
一方で、川喜田氏は自国・日本の将来にも強い危機感を抱いていた。質素な生活を好み、少食で、よく笑う。日本の学術界で高い評価を受けながらも、少しも驕ることのない人物だった。

しかし、その穏やかな表情の奥には、日本社会への深い憂慮があった。「日本社会は、先の見えない暗闇へ向かって進んでいるように感じます。若い世代は心の拠り所を見失い、小さなことにも苛立つようになっています。」そして、人生の残された時間をどのように生きるかについて、静かにこう語った。
「私に残された時間は多くありません。その時間を、私が心から愛する国、ネパールのために使いたいのです。」その思いを形にするため、川喜田氏はポカラに学校を設立する計画を進め、資金集めにも奔走していた。
河口慧海は、仏陀の教えの源流を求めてヒマラヤを越えた。半世紀後、川喜田二郎は、その足跡をたどりながら、ネパールという国そのものから多くを学んだ。一人は真理を求める巡礼者として、もう一人は人々の暮らしに寄り添う研究者として―。
二人の日本人がネパールに残した足跡は、それぞれ異なる時代を生きながらも、人と文化への深い敬意という一点で静かにつながっている。
INPS Japan
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