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気候リスクが多国間主義を進化させている

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています

【Global Outlook=ジャナニ・ヴィヴェカナンダ

気候外交では、いま新たな潮流が生まれている。大きな影響を及ぼす議論の一部は、もはや正式な国際会議だけで交わされているのではない。公式日程と並行して設けられる、多様な主体による新たな対話の場が、正式な制度がどのような成果を上げられるかを、ますます左右するようになっている。

6月に開催されたロンドン気候行動週間(London Climate Action Week)は、こうした変化を鮮明に示した。それから1か月を経た現在、今後の会議日程を見ても、この流れは一層明らかである。

8月初旬には、関係機関がスリランカのコロンボに集まり、「ベンガル湾・気候・平和・安全保障対話(Bay of Bengal Climate, Peace and Security Dialogue)」を開催する。ベンガル湾という共有海域における気候リスクを、平和と安全保障をめぐる地域協力へとつなげることが目的である。

9月下旬には、Climate Week NYCが再び開催され、政界、金融界、企業の主要関係者が一堂に会する。

さらに10月には、ベルリン気候・安全保障会議(Berlin Climate and Security Conference)が開催され、気候安全保障をめぐる議論を、問題の診断から具体的な実行へどこまで前進させられるかが、引き続き問われることになる。

こうした対話の場は、いずれも多国間主義に取って代わるものではない。むしろ、多国間主義そのものが新たな形へと変化していることを示している。

政府も引き続きその場に参加している。しかし、そこには都市や地方自治体、司法機関や規制当局、投資家や保険会社、企業、市民社会組織、研究者、そして気候危機への対応が一刻を争う課題であることを私たちに訴え続ける若い世代も加わっている。

これは多国間主義の終焉ではない。

その再創造なのである。

これを「プルリラテラリズム(有志国・主体による協力)」と呼んでも、「連合形成」と呼んでも、「圧力の下での適応」と呼んでもよい。呼び方そのものは、それほど重要ではない。

重要なのは、気候ガバナンスが、多様な主体から成る一つのエコシステムによって、ますます担われるようになっているという現実である。このエコシステムは、既存の制度よりも迅速に関係者を結集し、最も効果的に機能する場合には、制度の縦割りによって分断されてきた各分野の専門知を結び付けることができる。

ベンガル湾対話は、その好例である。

この対話は複数の組織による共同の取り組みであり、ベンガル湾多分野技術経済協力イニシアティブ(BIMSTEC)をはじめ、通常の気候問題をめぐる議論ではほとんど注目されない地域機構を通じて、地域的な気候協力の可能性を探っている。

これは重要である。なぜなら、地政学がいま、強烈な形で気候問題に回帰しているからだ。

今日、気候リスクは遠い未来の環境問題としてではなく、安全保障、貿易、経済の安定、公衆衛生、社会的結束へ連鎖的な影響を及ぼす「システム全体のリスク」として認識され始めている。

ロンドンでの議論でも、この認識が一貫して共有されていた。

言い換えれば、気候変動は、私たちの日常生活を支えるあらゆる制度や社会システムの脆弱性を試す**「ストレステスト」**となりつつあるのである。

新たな可能性

こうした認識の転換は、大きな可能性をもたらしている。

気候問題が「レジリエンス(回復力)」や「社会の安定性」の問題として理解されるようになることで、これまで気候問題に深く関与してこなかった人々が、それぞれの専門性や権限、資金を持ち寄るようになっているからだ。

ロンドンでは、水資源と自然環境が繰り返し重要な論点となった。

それは、水や自然が気候問題に代わるテーマだからではない。

温室効果ガス削減をめぐる政治的対立を超えて、多くの関係者が共通して取り組める入口となるからである。

水不足は誰の目にも明らかな危機であり、生態系の崩壊も現実の問題である。

サプライチェーンの混乱、食料価格の高騰、人々の移住といった問題は、専門知識がなくても理解できる。

つまり、水と自然は、気候危機を財務省、防衛当局、保険業界、規制当局、外交担当者など、多様な主体が行動に移せる「共通言語」へと翻訳する役割を果たしているのである。

このため、生物多様性の損失や生態系の劣化を、単なる環境問題ではなく、安全保障と経済的繁栄に関わるリスクとして位置付け始める政府が現れていることは重要である。

英国政府が最近、気候安全保障タスクフォースを設置したことは、その象徴的な例である。

気候や自然に関するリスクへの備えは、もはや一部の専門家だけの課題ではなく、国家運営そのものの中核的課題になりつつある。

落とし穴

しかし、この新しい多主体型の国際協力には危険もある。

それは、「自由参加型の多国間主義」が、「自由放任の断片化」へと陥る可能性である。

気候安全保障の分野ですら、私たちは依然として異なる専門分野や部門、データを十分につなげられていない。

議論は同じような参加者同士の閉じた場で行われがちであり、リスクが複雑化する一方で、従来と同じ説明を繰り返している。

その結果、連鎖的リスクについて語りながら、それを予測する仕組みは構築できていない。

「統合」の必要性を訴えながら、意思決定の仕組み自体は変わっていないのである。

このギャップは重大である。

自然環境の劣化は、ある日突然危機として表面化するまで静かに進行する。

インフラも、一見堅牢に見えていても、一度破綻すれば連鎖的な障害を引き起こす。

市場も、リスクを過小評価し続けた末に、一気に厳しく評価し直すことがある。

だからこそ、本格的な気候安全保障政策には、「危機認識」から「危機への備え」への転換が必要である。

そのためには、三つの変革が求められる。

第一に、水資源や自然環境に関するリスクを、他の地政学的リスクと同等に国家・地域のリスク評価へ組み込むことである。

第二に、気候安全保障を狭い政策分野に閉じ込めてはならない。

議論は、貿易、金融、産業政策、重要鉱物、食料システム、防災といった、実際に政策インセンティブが存在する分野で行われなければならない。

第三に、人々の知見と制度上の意思決定を結び付ける仕組みを整備する必要がある。

地域社会の経験を科学的分析や安全保障評価と結び付け、研究成果を実際の政策や外交上の選択肢へと変換していかなければならない。

今後の課題

こうした制度に縛られない柔軟な多国間協力は、正式な協力枠組みに取って代わるものではない。むしろ、制度の対応が遅れる中でも、世界は動き続けていることを示すものである。

その可能性は明らかだ。この広範なエコシステムは、金融や貿易からインフラ、保健、安全保障に至るまで、リスクを左右する手段を握る人々を結び付けることができる。

一方、落とし穴も同様に明らかである。共通の優先課題と説明責任がなければ、互いに結び付かない取り組みが乱立するだけで、全体として危機への備えにはつながらない。

ロンドン気候行動週間で私が目にした最も有意義な変化は、実務上のものではなく、実は問題の語り方にあった。

気候変動と自然の喪失がシステミック・リスクとして捉えられるようになれば、それらはもはや「誰かほかの人の問題」ではなくなる。自国の繁栄、貿易、健康、社会的結束を脅かすリスクとなるのである。

先進国の多くで有権者が内向き志向を強めている現在の政治状況にあって、こうした捉え方は重要である。

それは、脆弱な状況に置かれた国や地域への連帯を弱めるものではない。むしろ、危機を未然に防ぐことの必要性を、あらゆる国で政治的に理解され得る課題にする。

今後取り組むべき課題はそこにある。すなわち、衝撃が危機へと発展する前に、この新たな捉え方を生かし、問題への認識を具体的な備えへと転換することである。

Original URL: https://toda.org/global-outlooks/climate-risk-is-forcing-multilateralism-to-evolve/

INPS Japan

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AIはすでに数十億人の現実を書き換え始めている―しかし、その「現実」は女性を正しく映していない

【UNWOMEN/INPS Japan

133の人工知能(AI)システムを対象とした調査では、44%でジェンダーバイアスが確認され、26%ではジェンダーと人種の双方に関する偏見が認められた。一方、AIが生成した広告やコンテンツを公開前に人間が確認しているマーケティング担当者は、わずか51%にとどまっている。|英語版

7月6~7日にスイス・ジュネーブで開催される「国連AIガバナンス・グローバル対話(United Nations Global Dialogue on Artificial Intelligence Governance)」、続く7~10日の「AI for Good グローバル・サミット」を前に、UN Womenは、何が危機にさらされているのか、そしてジェンダー平等なデジタル社会を築くために何を変えなければならないのかを提起した。

1.AIがコンテンツを生み出す時代はすでに始まっている――その方向性を決める時間は残り少ない

生成AIは、マーケティングや広報業務において、日常的に最も広く利用される技術の一つとなっている。

英国だけを見ても、広告会社やメディア企業の88%が、すでに何らかの形で生成AIを活用している。しかし、差別的なアルゴリズムは、ジェンダー不平等や差別をさらに固定化する危険がある。

AIツールがコンテンツ制作や広告配信に大規模に組み込まれるにつれ、誰が社会に「見える存在」となるのか、どのように描かれるのか、そして誰の物語が語られるのかといった重要な判断が、人間による十分な検証やジェンダーの視点を欠いたまま、急速に下されつつある。

2.AIの偏見は「不具合」ではない――システム全体に共通する構造的問題である

大規模言語モデル(LLM)では、女性が「家庭」「家族」「子ども」と結び付けられる一方、男性は「ビジネス」「経営幹部」「給与」「キャリア」と関連付けられる傾向が一貫して確認されている。

また、性別を示す語句から文章を完成させる課題では、LLMの回答の約20%に、女性蔑視や性差別的な内容が含まれていた。女性を性的対象や夫の所有物として描写する例も見られた。

こうした偏見は、偶然に生じたものではない。女性と男性が長年にわたり不平等に表象されてきた情報を学習したAIシステムが生み出す、予測可能な結果である。

AIの偏見は、単なる技術設計上の不具合ではない。政策上の問題でもある。

138か国を対象にした調査では、国家AI戦略でジェンダーに言及している国は24か国にとどまり、具体的なジェンダー対応策を盛り込んでいる国はわずか18か国だった。

このままでは、将来のAIシステムそのものに不平等が組み込まれてしまう危険がある。

3.AIは女性と少女に対するオンライン暴力をさらに深刻化させている

UN Womenによれば、女性と少女はもともと男性に比べてデジタル空間へのアクセスが限られている。さらに、デジタル空間を利用する場合にも、オンライン暴力の被害を受ける可能性がはるかに高い。

女性の人権擁護者、活動家、ジャーナリストを対象とした調査では、約4人に1人がAIを利用したオンライン暴力を経験したと回答した。また、12%が本人の同意なく個人的な画像を共有された経験があり、その中には親密または性的な内容を含む画像もあった。さらに、6%がディープフェイクや改ざんされた画像・動画の被害を受け、4人に1人以上がデジタルメッセージを通じて望まない性的な働きかけを受けたと答えている。

AIは、こうした暴力をさらに悪化させている。ディープフェイクは、女性や少女を不均衡に標的とするAI悪用の最も目に見える例の一つである。

AI生成コンテンツが一般化するにつれ、嫌がらせ、情報操作、画像を利用した虐待の手段も、それに伴って拡大している。

4.AIを設計する場から女性が排除されている

生成AIは今後、技術集約型分野を中心に新たな雇用を生み出すと期待されている。

しかし、科学・技術・工学・数学(STEM)分野やAI業界において、女性は依然として少数派にとどまっている。

世界全体でAI関連人材に占める女性の割合は、わずか30%である。つまり、何十億人もの人々が利用することを前提にしたAIシステムを設計している人々は、その利用者を十分に代表しているとは言えない。この明らかな偏りが、問題をさらに深刻化させている。

5.AIによる雇用の変化は女性により大きな影響を及ぼす

AI産業以外で働く女性は、男性のほぼ2倍の割合で、自動化の影響を受けるリスクの高い職種に就いている。

さらに、AIをめぐる格差は、ジェンダー不平等だけにとどまらない。人種、障害、社会経済的地位、地域など、さまざまな要因が重なり合うことで、不利益はさらに増幅される。

もともとメディアや労働市場で十分に代表されていない人々ほど、AI時代にさらに取り残される危険が高い。

6.包摂的なAIは企業にも利益をもたらす

UN Womenが主導するアンステレオタイプ・アライアンス(Unstereotype Alliance)は、世界初のグローバル調査で、包摂的な広告が企業の利益、売上、ブランド価値にも好影響を与えることを明らかにした。

ジェンダー固定観念にとらわれない包摂的な広告を制作するブランドでは、短期売上が3.46%、長期売上が16.26%増加することが確認された。

さらに、そうしたブランドは消費者の第一選択となる可能性が62%高く、価格決定力は54%高まり、顧客ロイヤルティも15%向上するという結果が示されている。

AIが広告キャンペーンの企画・制作の中心となる中、包摂性をそのプロセスに組み込むブランドは利益を得る可能性が高い。一方で、それを怠るブランドは、評判面でも事業面でも大きなリスクに直面することになる。

2026年6月に公表されたアンステレオタイプ・アライアンスの実践ガイドは、マーケターが生成AIを利用するたびに、公開前に偏見を発見し、是正するための手法を示している。

AIのすべての段階にジェンダー平等を

UN Womenは、AIの開発、導入、運用、ガバナンスに至るライフサイクル全体に、ジェンダー平等、そして女性と少女の権利や経験を組み込むことを求めている。

AIは、安全性を確保したうえで意図的に活用されれば、ジェンダーステレオタイプを検出し、多様な人々の表象を広げ、アクセシビリティを大規模に向上させる可能性を秘めている。

しかし、その可能性が現実のものとなるかどうかは、政府、企業、AIの研究・開発に携わる専門家など、意思決定を担う人々の選択にかかっている。

そのためには、多様な背景を持つ女性や少女の声、専門知識、生活経験に加え、彼女たちとともに活動し、その課題を深く理解している市民社会組織の知見を取り入れることが不可欠である。

それこそが、ジェンダー平等なデジタル社会を築くための第一歩となる。

INPS Japan/UN WOMEN

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広島からの問い―核の影の下で生き続けるのか

【広島INPS Japan=浅霧勝浩】

被爆81年の平和宣言と国連事務総長メッセージは、崩れつつある核秩序の先に二つの未来を描いた 広島市長による今年の平和宣言は、追悼の言葉だけでは始まらなかった。最初に置かれたのは、核兵器を威嚇の道具に使う軍事侵攻、国際法を軽んじる大国の振る舞い、そして3回続けて成果文書を採択できなかった核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議であった。|英語版|

その順序には意味がある。81年前の惨禍は、過去に閉じ込められた記憶ではない。核兵器が再び国家の力を誇示し、相手を屈服させる手段として語られる現在と、直接つながっているからである。

松井一實市長は、不信が報復を生み、報復がさらなる暴力を正当化する世界を描いた。その先にあるのは「第三のヒロシマ・ナガサキ」かもしれない、と警告した。

同じ式典で、中満泉・国連事務次長(軍縮担当上級代表)が代読したアントニオ・グテーレス国連事務総長のメッセージは、その警告を一つの問いに凝縮した。人類は広島から何を学んだのか。平和な未来を選ぶのか。それとも、核による破滅の影の下で生き続けるのか。

これは、式典のための修辞的な問いではなかった。直後に示されたのは、核兵器削減の流れの逆転、核実験禁止規範の動揺、急増する軍事費、そして核による威嚇が横行する世界の姿であった。

一つは被爆者の記憶から語り、一つは国際制度の危機から語った。だが二つのメッセージがたどり着いた場所は同じだった。恐怖によって維持される秩序を安全と呼び続けるのか。それとも、対話、外交、国際法、信頼という、時間のかかる手段を再び安全保障の中心に戻すのか、という選択である。

個人の記憶を、世界の現在へ

Photo: The remains of the Prefectural Industry Promotion Building, after the dropping of the atomic bomb, in Hiroshima, Japan. This site was later preserved as a monument. UN Photo/DB
Photo: The remains of the Prefectural Industry Promotion Building, after the dropping of the atomic bomb, in Hiroshima, Japan. This site was later preserved as a monument. UN Photo/DB

平和宣言の中心に置かれたのは、核戦略ではなく人間だった。

そこには、原爆で皮膚が崩れ、顔が変わり果てた姉を記憶する女性がいる。3歳で被爆し、その後も病に襲われ、次はどのような病気になるのかという恐怖を抱えて生きた女性がいる。

そして、9歳で被爆した男性は、ロシアによるウクライナ侵攻で一般市民が犠牲になる光景を見ながら、争いのない世界をつくるには、まず自分の中の争う心を乗り越え、相手の考えを受け入れる努力が必要だと若者に訴えた。

この証言は、核兵器の被害が爆発の瞬間に終わらないことを思い起こさせる。放射線による病、家族の喪失、差別、将来への不安は、数十年にわたって人の生活を規定する。核兵器を保有することの戦略的な価値を論じるとき、その計算から消えやすいのが、こうした時間の長さである。

UN Photo
UN Photo

グテーレス氏のメッセージは、被爆者の数が減るほど、その言葉の重要性は増すと指摘した。被爆証言は、悲劇を記録するだけのものではない。それは、核抑止という抽象的な概念を、人間の身体と生活の現実に引き戻す証拠でもある。

松井市長は市民と若者に、異なる価値観を持つ人々との国境を越えた交流を求めた。グテーレス氏は各国に、分断より対話、対立より協力を選ぶよう促した。一見すると規模の異なる二つの提案だが、根には共通の認識がある。国家間の不信も、社会の中で他者を理解しようとする力が失われたところから深まっていく、という認識である。

合意できなくなった核の「取引」

現在の危機を理解するには、NPTがどのような約束の上に成り立っているかを見る必要がある。

非核兵器国は核兵器を取得しない。核兵器国は核軍縮を誠実に進める。そして、原子力の平和利用は国際的な保障措置の下ですべての締約国に認められる。条約は、この三つを一つの取引として束ねてきた。

ただし、その枠組みは初めから完全ではなかった。インド、パキスタン、イスラエルは条約の外にあり、北朝鮮は脱退を表明した。条約上、核兵器国として特別な地位を認められた国々が軍縮を進めるという約束も、長年にわたって十分に実行されてきたとは言い難い。

NPT under pressure. Credit: INPS Japan
NPT under pressure. Credit: INPS Japan

2026年の再検討会議は、その不均衡に地政学的な対立が重なった。

最終文書では、イランが核兵器を求めてはならないとする文言が争点の一つとなった。米国などは、イランのウラン濃縮や国際原子力機関(IAEA)との協力をめぐり、より強い表現を求めた。イランは、自国だけが名指しされることに反発し、米国とイスラエルによる核施設への攻撃こそ国際法と不拡散体制を損なったと主張した。

だが、イラン問題は決裂の唯一の原因ではなく、より深い亀裂が表面化した場所であった。

ウクライナ戦争では、ザポリージャ原子力発電所など核関連施設の安全が脅かされてきた。中東では、1995年に約束された核兵器・大量破壊兵器のない地帯が今も実現していない。米英豪の安全保障枠組みAUKUSをめぐっては、非核兵器国への原子力潜水艦技術の移転が、保障措置にどのような前例をつくるのかという懸念が残る。

その一方で、中国は核戦力を拡大し、米国とロシアの軍備管理は後退し、核武装する九つの国はすべて戦力の近代化を進めている。核保有国とその同盟国が核抑止の重要性を高めながら、非核兵器国にだけ自制を求めれば、条約は核拡散を防ぐ制度ではなく、核を持つ国の特権を固定する制度ではないかという疑念が強まる。

NPT再検討会議が成果文書に合意できなかったのは、2015年、2022年、2026年と3回連続である。最後に合意できたのは2010年だった。

条約が明日なくなるわけではない。ほぼすべての国が参加するNPTに代わる枠組みもない。しかし、制度は一夜にして崩れるとは限らない。約束が繰り返し先送りされ、違反への批判が選択的に適用され、会議が合意なしに終わるたび、その制度に従う方が安全だという信頼が少しずつ失われていく。

中満氏が再検討会議後に述べたように、不拡散と軍縮は表裏一体である。核兵器国がNPT第6条の軍縮義務を実行しないまま、非核兵器国に核を持たないよう求め続けることはできない。問題は条約の文言ではなく、各国がその取引を今も信じているかどうかである。

軍縮が逆向きに進むとき

An AI-generated conceptual illustration shows opposing rows of strategic missile launchers beyond a broken restraint, symbolizing the collapse of binding arms-control limits and a renewed nuclear arms race in which each side’s pursuit of security increases the danger for all. Image: Katsuhiro Asagiri

その信頼を損なう兆候は、会議室の外にもある。

米国とロシアの戦略核戦力に検証可能な上限を設けてきた新戦略兵器削減条約(新START)は、2026年2月5日に失効した。世界の核兵器の大半を保有する両国の戦略核戦力に、法的拘束力のある上限がなくなるのは半世紀余りで初めてである。

核実験を禁じる規範も揺れている。2025年、米大統領が「実験」の再開に言及し、それが核爆発実験を意味するのかミサイル試験を指すのか明らかでない中、米国は包括的核実験禁止条約(CTBT)の発効を求める国連総会第1委員会の決議案に唯一反対した。爆発実験が実際に行われなくても、大国が長年の規範への支持を曖昧にすれば、他国に同じ行動を取る口実を与える。

軍事費も増えている。ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)によると、2025年の世界の軍事費は過去最高の2兆8870億ドルに達し、実質ベースで11年連続の増加となった。欧州では14%、アジア・オセアニアでは8.1%増えた。

各国には、それぞれの説明がある。ロシアの侵攻、中国の台頭、同盟国への不安、地域紛争への備え。どれも個別に見れば安全保障上の理由として理解できる。しかし、一国の備えは別の国には脅威に映る。相手の増強に備えて自国も増強し、その動きが再び相手の軍拡を促す。安全を求める行動が、全体として不安定を増すのが安全保障のジレンマである。

核抑止の支持者は、広島と長崎以来、戦争で核兵器が使われなかった事実を、その有効性の証しとして挙げる。だが、誤警報、機器の故障、情報の誤読、指導者の誤算によって、世界が核戦争に近づいた事例も複数ある。

2026年のNPT再検討会議に合わせて開かれた討論会では、その教訓が「幸運は安全保障戦略ではない」という言葉で表現された。核抑止は、将来のすべての指導者、情報、通信システムが、危機のたびに正しく機能することを必要とする。人工知能(AI)が警戒や指揮統制に組み込まれ、判断の速度が上がれば、誤りに気づいて修正する時間は短くなる可能性がある。

核抑止が過去に一定の役割を果たしたかという議論と、それが永続的に安全な制度かという問いは、同じではない。

禁止条約が担うもの―そして担えないもの

United Nations Headquarters Photo:Katsuhiro Asagiri
United Nations Headquarters Photo:Katsuhiro Asagiri

こうした状況で、核兵器禁止条約(TPNW)の第1回再検討会議が11月30日から12月4日まで、ニューヨークの国連本部で開かれる。議長国は、かつて自国の核兵器を廃棄した南アフリカである。

2026年7月にトンガが加入し、TPNWへの署名、批准または加入という正式な行動を取った国は100カ国となった。うち締約国は75カ国である。

TPNWは、核兵器の開発、実験、生産、保有、使用、使用の威嚇を包括的に禁じる。さらに、核兵器の使用や実験で被害を受けた人々への支援と、汚染された地域の環境修復を締約国の義務とした。

ここにNPTとの違いがある。NPTが主として核保有国と非保有国の関係を管理するのに対し、TPNWは核兵器そのものを人道と国際法の問題として扱う。核兵器を誰が持つべきかではなく、そもそも持つことを許容できるのかと問うのである。

再検討会議では、核使用と核威嚇を例外なく拒む政治宣言、2022年のウィーン行動計画の履行状況、科学諮問グループの成果、被害者支援と環境修復の仕組み、核兵器廃棄を検証する国際的な機関、条約のさらなる普遍化が主要な課題となる見通しだ。

中でも注目されるのが、被害者支援と環境修復のための国際信託基金である。広島と長崎だけでなく、カザフスタンのセミパラチンスク、マーシャル諸島、太平洋の島々など、核実験の影響は今も続く。基金が具体化すれば、軍縮は将来の核弾頭数をめぐる交渉だけでなく、すでに生じた被害に誰が責任を持つのかという「核の正義」の問題にもなる。

TPNWには明らかな限界もある。核武装国は一国も参加しておらず、条約だけで核弾頭を廃棄させることはできない。その限界を無視すれば、禁止という規範と実際の軍縮との距離を見誤る。

しかし、核武装国の合意を待つだけでは進展しないことも、3回続けて合意できなかったNPT再検討会議が示している。NPTが核軍縮の法的義務を維持し、TPNWが禁止規範、被害者支援、環境修復、検証の方法を発展させる。二つの条約は、競争相手ではなく、それぞれの欠落を補う枠組みとして扱うことができる。

日本はどこに立つのか

The Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, signed 20 September 2017 by 50 United Nations member states. Credit: UN Photo / Paulo Filgueiras
The Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, signed 20 September 2017 by 50 United Nations member states. Credit: UN Photo / Paulo Filgueiras

広島平和宣言は、日本政府にTPNW再検討会議へのオブザーバー参加を求め、その先に早期の締約国入りを促した。

オブザーバーとして会議に出ることは、直ちに条約へ加入することを意味しない。米国の核抑止に依存するNATO諸国も、立場の違いを明確にした上で過去の締約国会議に参加している。

日本が参加すれば、核抑止に依存する安全保障政策との矛盾を問われることになるだろう。しかし同時に、被爆医療、放射線影響研究、証言の保存、被害者支援、環境修復、軍縮教育など、日本に蓄積された知識を具体的な制度づくりに生かすこともできる。

日本政府は長年、核保有国と非保有国の「橋渡し」を自らの役割としてきた。だが橋渡しには、双方が何を恐れ、何を不公正と感じているかを同じ場で聞くことが必要になる。一方の岸から離れたままでは、その役割の説得力は弱まる。

「現実」と呼ぶものを選び直す

二つのメッセージが市民にも行動を求めたのは、核政策が政府と専門家だけで決まるものではないからである。

核兵器を安全の保証とみなす考え方も、それを人道上許容できない兵器とみなす考え方も、教育、報道、選挙、文化、投資、日常の言葉を通じて社会の「常識」になる。その常識が、政府に許される政策の範囲を形づくる。

核兵器の影に怯える未来は、ある日突然、一人の指導者が選ぶとは限らない。核による威嚇を自国側のものなら容認し、軍拡を安全と同じ意味で語り、被爆者と核実験被害者の証言を記念日の中に閉じ込める。そうした小さな容認の積み重ねによっても選ばれていく。

核なき世界も、一度の会議で実現するものではない。被爆と核実験の実相を学ぶこと。異なる立場の人と話すこと。核威嚇を行う国が敵か味方かにかかわらず拒むこと。政府に軍縮義務の履行とTPNW会議への参加を求めること。被害者支援や軍縮教育を支えること。いずれも小さな行動だが、核兵器をめぐる社会の基準を変える行動でもある。

広島が今年世界に示したのは、楽観的な予言ではない。選択肢である。

核の恐怖を均衡させ続ける未来か。核兵器を必要としない共通の安全保障を築く未来か。

その問いに答えるために、専門家になる必要も、政府の許可を待つ必要もない。都市を焼き尽くすという威嚇に依存する安全を、自分は本当に安全と呼べるのか。まずそう問い直すことが、最初の政治的な行動となる。

Toward a Nuclear Free World
Toward a Nuclear Free World

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

INPS Japan

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核の「危機一髪」が示す、核抑止は平和の保証ではない

続発する世界の紛争が浮き彫りにする核保有国と非核保有国の対立構図

グローバル・サウスの指導者たちが国際協力の新たな設計図を描く

【タイ・バンコクIPS=ベン・フィリップス

国際協力を支えてきた従来の資金供給システムが突然崩壊した影響は甚大であり、世界各地に被害の連鎖をもたらした。その結果、世界はさまざまな危機に対してこれまで以上に脆弱になり、それに対応する力も低下している。その破綻の爪痕は誰の目にも明らかだ。問題は、次に何をすべきかである。|ENGLISH

こうした損害に警鐘を鳴らすグローバル・ノースの一部の論者は、壊された国際協力の仕組みを元に戻すべきだと主張している。

しかし、それは実現しないだろう。

国際協力の資金危機は、単なる財源不足ではなく、そのモデルへの支持が揺らぎ、さらにそのモデルが体現していた父権主義的な援助観への支持も失われていたことの表れだったからである。

旧来の仕組みがこれほど急速に崩壊したのは、その構造自体がもともと不安定だったからにほかならない。

一方、グローバル・ノースでは、「現実主義者」を自称する別の論者たちが、今後の国際協力について、展望に乏しい二つの案を提示している。

しかし、そのどちらも明るい未来を描くものとは言い難い。

一つ目は、共有すべき世界的課題に投入できる資金が今後も減少し続けることを前提に、「より少ない資源でより多くを実現する(Do more with less)」という発想である。

だが、この考え方は失敗するだろう。

実際には、パンデミック、エネルギー不安、自然災害など、地球規模の脅威に対する共同対応に十分な資源を投入できなくなるからである。

その結果は、人類の存続そのものを脅かしかねないほど危険であり、共有された脅威に早い段階で対処する場合に比べ、すべての国に桁違いのコストを強いることになる。

もう一つの考え方は、これまで政府間で担ってきた責任を民間部門に委ねるというものである。

しかし、このアプローチも失敗するだろう。

世界共通の脅威に対応するための資金が決定的に不足するだけでなく、極端な格差をさらに加速させ、説明責任と権力を寡頭支配に明け渡す結果になりかねない。

As the old system for financing international cooperation collapses, global crises—from pandemics and disasters to energy insecurity—are leaving vulnerable communities exposed, while shrinking public resources and the transfer of responsibility to private power threaten to deepen inequality and weaken collective action. Image: INPS Japan
国際協力のための旧来の資金供給システムが崩壊する中、パンデミック、災害、エネルギー不安などの世界的危機が脆弱な地域社会をさらなる危険にさらしている。一方で、公共資金の縮小と民間権力への責任移譲は、格差を深め、集団的対応力を弱める恐れがある。画像:INPS Japan

こうした三つの実行不可能な発想―

旧来の秩序を復活させようとし続けること。

衰退を管理しながら受け入れること。

民間部門に責任を委ねること。

―が、現在のグローバル・ノースにおける国際協力論の大半を占めている。

しかし幸いなことに、グローバル・サウスの多くの政府は、共有された地球規模課題のための新たな資金調達の仕組みづくりに着実に取り組んでいる。

「世界公共投資」連合の誕生

セネガルとコロンビアの外相が共同議長を務める「世界公共投資(Global Public Investment)政府連合」には、すでに30か国以上が参加している。

その目的は、現在の世界的な転換期を、新たな国際協力体制を築く契機へと変えることである。

ウルグアイ国際協力庁のマルティン・クラビホ長官は、こう語る。

「私たちの課題は共通であり、リスクも共通です。そして、それに対する解決策も、ますます共有されるべきものになっています。」

「今必要なのは、協力の考え方そのものを進化させることです。各国が能力に応じて貢献し、必要に応じて恩恵を受け、資源の使い道について対等な立場で意思決定に参加する枠組みへ移行しなければなりません。」

コロンビア外相であり、同連合の共同議長を務めるロサ・ヨランダ・ビジャビセンシオ・マピ氏は、次のように述べる。

「世界公共投資は、各国政府が協力して地球規模の課題や危機を乗り越えるための、21世紀型の最も理にかなった答えです。」

「公共資金を大幅に拡充することが不可欠です。そして、その資金は、より代表性が高く、より効果的な仕組みの下で運営されなければなりません。」

また、セネガル外相で共同議長のシェイク・ニアン氏は、こう強調する。

「私たちは、従来の『援助する国』『援助される国』という発想を超え、対等で包摂的なパートナーシップへ移行しようとしています。」

「開発段階に関係なく、すべての国には貢献できることがあり、同時に正当な要求もあります。」

「国家、地域、世界が抱える課題を解決するために、慈善だけに頼ることはできません。また、民間企業だけが私たちを救ってくれると期待することもできません。必要なのは、より多く、そしてより質の高い公共資金です。」

2030年へ向けたロードマップ

この連合は、2025年7月、第4回開発資金国際会議で発足した。

同年9月には、国連総会の機会に第1回会合を開催した。

2026年には、3月にボゴタ、5月にナイロビで会合を開き、9月にはニューヨークで再び会合を開く予定である。

グローバル・サウスを基盤としながらも、グローバル・ノース諸国にも参加を呼びかけている。

ガーナの外相サミュエル・オクゼト・アブラクワ氏は、次のように語る。

「私たちが求めているのは慈善ではありません。求めているのは対等なパートナーシップです。」

レソト外相リンフォ・タウ氏も、こう述べる。

「これからの国際協力は、責任の共有と共通の利益をよりよく反映した仕組みへと進化しなければなりません。」

市民社会とも連携

各国政府は、市民社会とも密接に連携している。

クラブ・デ・マドリード(Club de Madrid)の事務局長、マリア・エレナ・アグエロ氏は次のように評価する。

「ここに結集している指導者たちは、多国間主義を再生し、つくり直そうとする先駆者です。」

「彼らがともに築こうとしている仕組みは、前世紀から引き継がれてきた手法よりもはるかに公平なものになるでしょう。すべての国が発言権を持ち、当事者として関与できるからです。」

「それはまた、世界中の人々の暮らしを改善するうえで、はるかに効果的な国際協力にもつながるでしょう。」

「危機の管理」ではなく「転換」を

参加国の指導者たちは、現在の混乱を単に和らげるだけでは不十分だと強調している。

彼らは、従来の手法はもはや戻ることはなく、戻るべきでもないと明確に認識している。

その代わりに目指しているのは、危機を突破口へと変え、相互依存が深まる世界にふさわしい国際金融の仕組みを、各国が対等な立場で再設計することである。

ケニア外務省のコリル・シンゴエイ筆頭次官は、次のように述べる。

「今日の世界の現実により即した、より包摂的で、より代表性が高く、より適切に機能する新たな国際金融アーキテクチャーが、緊急に必要とされています。」

また、パナマ外相のハビエル・エドゥアルド・マルティネス=アチャ・バスケス氏は、こう問いかける。

「私たちは、危機を管理した世代として記憶されたいのでしょうか。それとも、国際協力の流れを変えた世代として記憶されたいのでしょうか。」

「世界公共投資は、国際協力を変革するだけでなく、人類の未来そのものを変える力を持っています。」

各国の指導者たちは、2030年までに国際協力を変革するためのロードマップも策定している。

セントルシア外相のアルバ・バプティスト氏は、次のように述べた。

「適切なモデルを提示するために、長年にわたり多大な知的努力が積み重ねられてきました。」

そして最後に、こう締めくくった。

「今、私たちはそれを実行に移す責務を負っています。」

Credit: Coalition of Governments on Global Public Investment
写真:世界公共投資に関する政府連合
ベン・フィリップス氏は、『How to Fight Inequality(いかに不平等と闘うか)』および『Public Good: Building a Winning Narrative to Bring the World Together(公共善――世界を結びつける物語を築く)』の著者。

INPS Japan/ IPS UN Bureau Report

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忘れられた牛疫根絶の偉業―その教訓を生かさない代償


【ブリュッセル(ベルギー)IPS=アルミン・ヴィースラー

家畜の感染症は、もはや農家や獣医師だけの問題ではない。その影響は、私たちの日々の家計にも及んでいる。近年の鳥インフルエンザの流行では、世界の卵価格が60%以上も高騰した。南アフリカでは、口蹄疫の発生によって牛肉価格が34%上昇した。これらは単なる価格変動ではない。予防が十分に機能しなかったとき、その代償を支払うのは、消費者である家族、農家、そして食料システム全体であることを示している。|英語版

ちょうど15年前の今日、世界は別の道があることを証明した。2011年6月28日、国連(UN)は「牛疫(リンダーペスト)」の根絶を正式に宣言した。牛疫は、人類史上、地球上から完全に根絶された唯一の家畜感染症である。

何世紀にもわたり、このウイルスは数百万頭もの家畜を死に至らしめ、牧畜を壊滅させ、世界各地で飢饉を引き起こしてきた。

南アフリカで起きた牛疫の被害(1896年)。1887年イタリア軍エチオピアに持ち込んだ家畜から広がった牛疫はサハラ以南のアフリカ全域に広がった。アフリカの家畜をほぼ全滅させ、飢饉をもたらして多数の死者を出したのみならず、野生動物にも被害を与えた。資料:Public Domain

この根絶事業が成功したのは、科学、物流、そして政治的な意思が一体となったからである。世界規模の予防戦略は、継続的な監視体制、国際的な連携、そして冷蔵設備がなくても熱帯の遠隔地まで届けられる耐熱性ワクチンによって支えられた。その結果、人類を長年苦しめてきた脅威は、まず予防可能な病気となり、最終的には歴史上の病気となった。

この成功から得られる教訓は、科学的なものだけではない。経済的な教訓でもある。

国連食糧農業機関(FAO)の推計によれば、牛疫対策に要した費用は約6億1千万ドルだった一方、アフリカだけでも年間約10億ドルの経済効果をもたらした。つまり、予防は家畜を守っただけでなく、人々の生計を支え、食料安全保障を強化し、その投資額をはるかに上回る利益を生み出したのである。

SDGs Goal No. 3
SDGs Goal No. 3

しかし、この15年間、世界はその教訓を十分に、あるいは一貫して生かしてきたとは言い難い。

感染症が発生すると、依然として殺処分、家畜の移動制限、貿易停止といった緊急対応に頼るケースが多い。一方で、監視体制の強化、バイオセキュリティ対策、ワクチン接種、国際協力といった予防的な手段は、迅速に活用されているとは言えない。

現在問題となっているランピースキン病(牛伝染性皮膚病)は、その典型例である。診断技術やバイオセキュリティ対策、そして有効なワクチンは既に存在しているにもかかわらず、多くの国では、それらを十分な速度で活用できず、感染拡大や被害の抑制に苦慮している。

その背景には構造的な問題がある。国際貿易ルールがもたらす経済的リスクへの懸念が、必要な対策であっても各国の意思決定を難しくしているのだ。

各国は、「家畜と農家を守るか、それとも輸出市場へのアクセスを守るか」という、ほとんど不可能な選択を迫られる。その結果、世界の家畜衛生体制は、常に後手に回る「事後対応型」のままとなっている。

その間にも感染症は拡大を続けている。

昨年には、ランピースキン病や小反芻獣疫(PPR)が初めて新たな地域へ広がり、貿易に混乱をもたらし、農村社会に打撃を与え、食料安全保障を脅かした。

家畜を食料や収入、生計の糧としている世界10億人以上の人々にとって、これらは決して遠い国の出来事ではない。生活や地域経済に直接影響を及ぼす深刻な問題なのである。

だからこそ、牛疫根絶15周年は単なる回顧の日であってはならない。

予防は、次の危機が起きてから即興的に行うものではなく、危機が起きる前から計画されて初めて機能する―そのことを改めて思い起こす機会であるべきだ。

各国の備えはもちろん重要だが、感染症は国境を越えて広がる。どの国も単独で家畜衛生上の脅威を完全に制御することはできない。

そのためには、監視体制を強化し、ワクチン接種を後押しする制度を整え、予防を妨げている貿易や政策上の障壁を取り除くための国際協力が不可欠である。

WOAH

こうした課題に取り組む上で、世界動物保健機関(WOAH)の「PREVENTフォーラム」のような取り組みは重要な役割を果たし得る。各国政府、国際機関、民間企業が協力し、個々の国だけでは解決できない障壁を取り除くための場となるからである。

しかし、協力は議論だけで終わってはならない。

監視体制や診断能力への投資拡大、ワクチン接種の活用や国際的な承認制度の明確化、感染症発生時にこれらの手段へ迅速にアクセスできる体制づくりなど、具体的な制度改革につながる必要がある。

目指すべきなのは、危機への対応能力を高めることだけではない。危機そのものを未然に防ぐことである。

この3年間だけを見ても、鳥インフルエンザ、ブルータングウイルス感染症、口蹄疫、ニューカッスル病などが世界各地で相次いで発生している。

次に世界へ大きな衝撃を与える家畜感染症が何になるのか、そしてどこで発生するのか、私たちにはまだ分からない。

しかし、牛疫の根絶は、科学、政治的意思、そして国際協調が結集すれば、世界は行動できることを証明した。

問われているのは、予防が可能かどうかではない。

次の危機が訪れる前に、それを最優先課題として取り組む意思が、私たちにあるのかどうかなのである。

アルミン・ヴィースラー博士は、HealthforAnimals(ヘルス・フォー・アニマルズ)会長。

INPS Japan

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人類共通のグローバル・フィールド―持続可能な開発目標(SDGs)を達成するためのゲーム

日々、もう一つのゲームが繰り広げられている。その勝利は一国だけのものではなく、人類全体のものだ。このゲームの目標は、より公正で、健やかで、公平かつ持続可能な社会を築くことである。

メキシコシティーIPS=ギレルモ・アヤラ・アラニス

サッカーは、世界で最も多くの人々に観戦されているスポーツである。35億人を超える人々を魅了する世界最大のスポーツであり、国境や文化、言語の壁を越えて人々を結ぶ共通言語でもある。2026年には、カナダ、メキシコ、米国の北米3カ国でFIFAワールドカップが共同開催され、スタジアムの内外で数百万人の人々を魅了した。|スペイン語版英語版|

サッカーのピッチでは、対戦する二つのチームが、戦略、規律、チームワークを駆使して勝利を目指す。最終的に勝敗を決めるのはスコアである。

しかし、日々繰り広げられているもう一つのゲームがある。そのフィールドは私たちの地球であり、勝利を手にするのは一国ではなく、人類全体だ。このゲームが目指すゴールは、より公正で公平な、人々が健やかに暮らせる持続可能な社会を築くことである。

こうした発想を出発点として、国連メキシコ事務所はメキシコ市政府と協力し、ワールドカップの熱気と持続可能な開発目標(SDGs)を結び付けるイベント「アルデア・グローバル2026」を開催した。

写真:アルデア・グローバル2026 撮影:ギレルモ・アヤラ

会場では、30カ国以上が料理や民族衣装、観光資源、伝統、香りなどを通じて、それぞれの文化を紹介した。さらに、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連食糧農業機関(FAO)、国連女性機関(UN Women)、国連教育科学文化機関(UNESCO)、国連児童基金(UNICEF)をはじめとする15の国連機関・基金・計画が、会期中に訪れた300万人近い来場者に向けて、さまざまな催しを行った。

これらの催しの中には、SDGsに着想を得たものもあった。その一つが、参加型壁画「未来へのゴール」である。ここでは数千人の来場者が、SDGsへの支持を表すメッセージを書き込んだほか、国連の「フットボール・フォー・ザ・ゴールズ」プログラムの一環として、平和と平等への願いを込めた象徴的なペナルティーキックに挑戦した。

「フットボール・フォー・ザ・ゴールズ」は、サッカーが持つ世界的な影響力を活用し、サッカーに関わる幅広い人々の参加を促すとともに、SDGs達成に向けた協働を広げる取り組みである。

写真:参加型壁画「未来のためのゴール」 撮影:ギレルモ・アヤラ
写真:「未来のためにゴールを決めよう」 撮影:ギレルモ・アヤラ

子どもの人身取引と搾取にレッドカード――SDGs 8・5・16

人身取引の被害者である可能性のある人に気づき、疑わしい状況を通報することは、その人が搾取され続けるのを防ぐことにつながる。

国連薬物犯罪事務所(UNODC)メキシコ事務所のフェルナンダ・ルイス氏は、人身取引は通報されないケースが多く、その被害は特に子どもや青少年に及んでいると指摘した。

ルイス氏はまた、人身取引との闘いにおいて、市民は誰でも、その防止に向けて声を上げ、行動する担い手になれると強調した。そうした市民一人ひとりの行動は、ジェンダー平等(SDG 5)を促進するとともに、平和と公正が行き渡り、強固な制度が機能する社会(SDG 16)を築くことにもつながる。

写真:UNODCメキシコ事務所のフェルナンダ・ルイス氏 撮影:ギジェルモ・アヤラ

ルイス氏は、メキシコはその地理的条件から、人身取引の送出国であると同時に、通過国、目的国にもなっていると説明した。主な搾取の形態は、性的搾取と強制労働である。

このため、人身取引が疑われる兆候を市民に周知することが、対策の一つとなっている。例えば、本人が自分の身分証明書を管理できない、おびえた様子を見せている、別の人物が本人に代わって意思決定している、あるいは旅行中に通常とは異なる不自然な状況が見られる、といった場合である。

「伝えたいのは、私たちも『ボールを次につなぐ』ことができるということです。市民である私たちには、何が犯罪に当たるのか正確には分からないかもしれません。それでも、不審な状況に気づき、その情報を専門機関につなぐことはできます」とルイス氏は語った。

UNODCの『人身取引に関する世界報告書2024』によれば、確認された被害者の大半を女性と少女が占めている。

沈黙の敵、高血圧――SDG 3

SDGs Goal No. 3
SDGs Goal No. 3

自分の血圧を把握することは、いわば試合開始のホイッスルが鳴る前に勝利を手にするようなものだ。

汎米保健機構(PAHO)は「アルデア・グローバル2026」に参加し、慢性疾患の予防に焦点を当てた取り組みを展開した。

PAHOのコンサルタント、アリエド・ベンコモ氏は、高血圧が心血管疾患や脳血管疾患の主要な危険因子の一つであると説明した。また、「すべての人に健康と福祉を」を掲げるSDG 3は、疾病の早期発症を防ぐことも目指していると指摘した。

来場者の血圧を測りながら、ベンコモ氏は次のように語った。

「高血圧は、自覚症状がほとんどない『沈黙の病気』です。早期に発見できれば、その診断は一つの贈り物といえます。それによって、質の高い生活を送れる年月を自分自身に贈ることができるからです」

リカルド・ペレス・オソリオ氏は、「アルデア・グローバル2026」で行われた血圧測定などの活動は、健康管理と予防に対する意識を高めるうえで重要だと語った。

「私は高血圧なので、自分の状態を確かめたくて測ってもらいました。でも、きちんと管理できていますし、毎日自分で血圧を測っています」

公式データによると、メキシコでは人口の70%が過体重で、国民の3人に1人近くが肥満に該当する。肥満は主に、糖尿病や高血圧を含む心血管疾患、骨や筋肉の障害、特定の種類のがんなどと関連している。

また、大勢の人々が集まる会場とメキシコ市の夏特有の暑さを踏まえ、SDG 3を推進する取り組みでは、水分補給の重要性も繰り返し強調された。

ベンコモ氏は次のように注意を促した。

「熱中症や脱水症状には十分に警戒することが重要です。特に高齢者と5歳未満の子どもには注意が必要です。成人であっても危険があることを、私たちは過小評価しがちです。また、子どもが脱水状態に陥りつつあることに気づかず、見過ごしてしまう場合もあります。子どもの脱水症状は命に関わるおそれがあり、熱中症は死に至ることもあります」

サッカーは多様性への理解も育む

文化交流は、世界を見る視野を広げる機会となった。

メキシコで暮らし始めて3年になるブラジル出身のファビオ・ガルシア氏は、異なる文化に触れることは、特に若い世代にとって有益だと強調した。

「私たちは非常に多様な世界に生きています。他の文化について少しでも多く知ることで、物事をより広い視野から捉えられるようになり、偏見にとらわれにくくなります」

一方、コロンビアのカリから8人の家族とともにメキシコ市を訪れ、スタジアムで母国代表の試合を観戦したラウル・ガジェゴ氏は、イベントに集まったさまざまな国の人々との間に生まれた親しみや一体感を楽しんだ。中でも最も心に残ったのは、人々の温かいもてなしだったという。

写真:ラウル・ガジェゴ氏と息子 撮影:ギジェルモ・アヤラ
写真:ファビオ・ガルシア氏と家族 撮影:ギレルモ・アヤラ

このゲームは、90分を迎えて試合終了のホイッスルが鳴っても終わらない。平等、健康、平和、そして持続可能な開発の実現に向けた一つひとつの行動が、人類全体のスコアを着実に押し上げていく。

「アルデア・グローバル2026」は、サッカーが人権を守り、国際協力を促す架け橋にもなり得ることを示した。

持続可能な開発目標というフィールドに、対戦相手はいない。私たちは皆、同じチームの一員だからだ。そして、私たちが勝ち取るべき唯一の栄冠は、より良い世界の実現なのである。

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

INPS Japan

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SGIが声明を発表 「戦闘を自動化する兵器の早期規制を」

【東京INPS Japan=SGI】 

近年、各地で起きている紛争を契機として新興技術を利用した兵器の開発や導入が進んでいる。このうち、今後の紛争を根源から変質させかねない恐れがある兵器として国際社会で懸念が高まっているのが、AI(人工知能)などを用いた自律型兵器システム(AWS)である。|英語版

この“人間の介在なしに標的を特定し武力を行使する兵器”の問題を巡り、SGI(創価学会インタナショナル)が「戦闘を自動化する兵器の早期規制を」と題する声明を発表した。
 
この声明は、世界の各地域(アジア太平洋、ヨーロッパ、アフリカ、北米、中南米)で平和運動を進める国々のリーダーなどで構成される「SGI声明委員会」が中心となってまとめたもの。地球的な課題をテーマにしたSGIの声明として、昨年1月(核兵器)、昨年11月(気候危機)に続くものである。
 
声明ではまず、自律型兵器システムに対し、国際的な規制と禁止を求める国が着実に広がってきたことに言及。
 
本年11月の特定通常兵器使用禁止制限条約の運用検討会議に向けて、さらに建設的な議論を進め、自律型兵器システムの国際的な規制の早期確立――特に人間を標的にした自律型兵器システムを禁止することを呼びかけている。
 
その上で、これまで池田大作先生がSGI会長として発表してきた平和提言における洞察を通しながら、こうした兵器にひそむ重大な非人道性の問題について指摘。自律型兵器システムの規制と禁止を求める「ストップ・キラーロボット」の連合体に加わる市民社会の団体や宗教者などと力を合わせて、条約の締結に向けたうねりを高めていくことを表明している。
 
「生命の尊厳」を根源から突き崩す
非人道的な対人兵器の禁止が急務

Image credit: United Nations
Image credit: United Nations

「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う。」
 
多くの国の民衆の尊い生命を奪った第2次世界大戦の痛切な反省に立って、国連憲章の前文に、この“人類共通の誓い”が刻まれてから、先月で81周年を迎えた。
 
国連の創設以来、東西冷戦という長らく続いた世界の分断をはじめ、度重なる危機に直面する中でも、国際社会では紛争解決や平和構築への努力が重ねられ、さまざまな軍縮条約の締結も、市民社会の力強い後押しを得ながら、一歩一歩、前進をみてきた。
 
しかし今、その長年にわたる国際社会の努力の積み重ねを、根底から突き崩しかねない状況が生じている。
 
ここ数年、ウクライナをはじめ、中東やアフリカなど各地で紛争や軍事力の行使が次々と広がる中、赤十字国際委員会などが警鐘を鳴らすように、「国際人道法の基本原則が、常態的に、そして意図的に侵害されている現状」が続いているからだ。
 
その結果、子どもや女性、高齢者や病気を患っている人々を含む、大勢の一般市民が犠牲となる被害が繰り返されている。
 
加えて憂慮されるのは、こうした現在の紛争を契機として、AI(人工知能)をはじめとする新興技術を用いた兵器の開発や導入が急速に進んでいることである。
 
“ドローンや高度な兵器の使用によって悪化した残虐な戦争のパターン”と赤十字国際委員会が警告するこの状況は、紛争が長期化するスーダンでもみられ、一般市民が容赦ない攻撃にさらされてきた。こうした危険で非人道的な傾向が今後も続くことになれば、武力行使の敷居が著しく低くなり、多くの人々の生命と尊厳を脅かす悲劇がさらに世界で広がりかねない。
 
そこで私たちSGIが今回の声明で呼びかけたいのは、AIなどを用いた自律型兵器システム(AWS)の国際的な規制の早期確立――とりわけ、人間を標的にした“対人兵器”としての自律型兵器システムの全面禁止である。

国連憲章採択の舞台となった米・サンフランシスコ市内の建物を1993年3月に訪れ、「国連貢献・国際文化交流推進賞」の授賞式で謝辞を述べる池田先生。日本の軍国主義と戦い抜き、国連憲章採択の1週間後(1945年7月3日)に出獄した創価学会第2代会長の戸田先生の信念は、国連憲章と同じく「戦争の流転の歴史を、根源的に転換せんとする熱願」に基づくものだったと強調した

条約の交渉開始を求める国々が拡大

自律型兵器システムとは、一般に“人間の介在なしに標的を特定し、武力を行使する兵器システム”と定義されるものである。
 
今、その開発が各国で歯止めのないまま進んでいるだけでなく、試験的な配備や使用が一部で現実化しつつあることに、国際社会で懸念が高まっているのだ。
 
このうち、極めて殺傷能力が高いものは「自律型致死兵器システム(LAWS)」と呼ばれる。このLAWSの問題や自律型兵器システムの規制に関する国際的な議論が、本年11月の特定通常兵器使用禁止制限条約の運用検討会議に向けて、大詰めを迎えようとしている。
 
昨年9月の政府専門家会合で、LAWSを規制する条約などの法的文書の交渉を進める用意があることを表明した共同声明を42カ国が支持したのに続き、本年3月の政府専門家会合ではその支持が70カ国に広がった。
 
これまでも、国連のグテーレス事務総長と赤十字国際委員会のスポリアリッチ総裁が共同で、自律型兵器システムに対する明確な禁止と制限を定めた新たな法的拘束力のある文書の交渉開始を呼びかけてきた。
 
また本年5月には、ローマ・カトリック教会の教皇であるレオ14世が、“AIの時代における人間の人格の保護”をテーマにした回勅を発表する中で、AIと連携した兵器の使用に対し強い警告を発し、次のように訴えた。
 
――AIは、紛争に内在する非人間性を取り除くものではない。むしろ、紛争をより迅速に引き起こし、より非人間的なものにし、暴力に訴えるハードルを下げ、防衛を脅威の予測へと変容させ、その結果、犠牲者を単なるデータへと還元してしまう。このようにしてAIは、私たちに“暴力は避けられないものであり、あとはそれをいかに最適化するかだけが問題だ”という考えを刷り込んでいくことになる――と。

SGIが他の団体と共催した、自律型兵器システムの問題への理解を深める展示。顔認証技術に関する問題を巡るコーナーも(2023年10月、ニューヨークで)©Alexander Bitar

私たちSGIは、これらの呼びかけや問題提起に深く賛同する。なぜなら、私たちが信奉する仏法の中核をなす「生命の尊厳」の思想と深く響き合うものだからであり、人間の生命や尊厳に深刻な影響を及ぼす問題を巡る重大な決定や判断を、AIに委ねることはあってはならないと考えるからである。
 
これまでSGIは、自律型兵器システムの規制と禁止を求める市民社会の連合体「ストップ・キラーロボット」のキャンペーンに2018年から参画し、国際人道法上の問題点を浮き彫りにした映画「インモラル・コード」の上映を行うなど、草の根レベルでの意識啓発を進めてきた。
 
また、世界教会協議会などと「宗教間共同声明」を2021年に発表し、“人類共通の価値を守るためには、LAWSの運用を断固拒否しなければならない”と主張してきたほか、さまざまな国際会議でSGIとして声明を発表する中で、人間をデータとして扱い、非人間化する自律型兵器システムの危険性を訴え続けてきた。

自律型兵器システムが及ぼす影響とその規制と禁止を訴える映画「インモラル・コード」の発表会(2022年5月、イギリスのロンドン市内で)

良心の呵責や逡巡の余地もない攻撃

振り返れば、特定通常兵器使用禁止制限条約の枠組みにおいてLAWSの規制を巡る初めての非公式会合が行われた2014年に、SGI会長の池田大作先生が、平和学者のケビン・クレメンツ博士との対談(『平和の世紀へ 民衆の挑戦』潮出版社)で、次のような警鐘を鳴らしていたことが思い起こされる。

「ひとたび戦闘開始の命令を下せば、人間の意思が介在する余地もなく――したがって良心の呵責も逡巡さえも一切生じることなく――自動的に攻撃を続ける殺人ロボット兵器は、人道的観点からもきわめて重大な問題をはらんでいます。
 
これらの兵器や核兵器の保有を正当化してしまう論理の奥底にあるのは、いったん相手を敵とみなせば、戦闘員・非戦闘員の区別なく徹底的に殲滅するという『究極の排除』の思想ではないでしょうか」と。

この危機意識に基づいて池田先生は、そのような兵器の開発と配備を禁止する枠組みづくりを早急に進めることを提唱したのである。
 
当時はまだ、AIなどを用いた自律型兵器システムは“未来の兵器”として捉えられ、規制の緊急性に対する国際的な認識はなかなか広がらなかったが、現在においては“今そこにある危機”となっている。
 
これまでのLAWSの規制を巡る政府専門家会合でも、兵器の運用に対して「人間による有意の制御」を求める声が高まっており、本年3月の会合では、それをさらに厳格化するものとして、兵器を配備する際の状況や環境に加えて国際人道法の条項の文脈を踏まえた「コンテクストに応じた適切な人間の判断と制御」を基本原則にする必要があるとの認識も広がってきた。
 
つまり、攻撃に関する決定を機械だけに委ねてはならず、法的な責任を負うことを含めて、人間が兵器の開発や運用のプロセスに関与することが欠かせないとの認識である。
 
こうした中、3月の会合で赤十字国際委員会が、国際人道法の遵守を確実にするため、「人間を標的にした自律型兵器システムの禁止」を定めた条項を合意に盛り込むことを提案した。
 
市民社会の連合体である「ストップ・キラーロボット」も、この提案を支持しており、人類が“自動化された殺戮”へと危険な形で進み続けることを防ぐために、各国政府に対し、法的および倫理的なルールを整備するよう呼びかけている。
 
私たちSGIも、その主張に深く同意する。国際的な規制の中核をなすものとして、「人間を標的にした自律型兵器システムの禁止」を実現することを、強く求めるものである。
 
次回の政府専門家会合は、8月31日から9月4日に開催される予定となっている。70カ国が支持する共同声明を土台としながら、この最終会合で建設的な議論を重ね、11月の運用検討会議に提出する報告書で、「人間を標的にした自律型兵器システムの禁止」を盛り込んだ条約の交渉開始の方針を明確に打ち出すことを呼びかけたい。

“他者を害しない”との誓いが
悲劇の拡大を止める原動力に

LAWSに対する池田先生の洞察

かつて池田先生は2019年の平和提言で、自律型致死兵器システム(LAWS)にひそむ問題の本質を浮き彫りにするような洞察を次のように示していた。

「もし、LAWSが規制されないまま、実際に使用される事態が起きた時、紛争の性格は根源から変わってしまうに違いありません。
 
そこでは、すでにドローン兵器の場合にみられるような、攻撃をする側と攻撃される側の人間が同じ空間にいないという“物理的な断絶性”に加えて、実際の戦闘行為が攻撃を意図した人間と完全に切り離されるという“倫理的な断絶性”が生じるからです」

その上で池田先生は、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領が第2次世界大戦中に敵部隊と遭遇した時の出来事を回想しながら述べていた、「戦線の両側では、自分の命を気遣い、したがって互いにとてもよく似た心配をしている人間同士が対峙していた」との言葉と対比させつつ、LAWSのような兵器が紛争を根源的に変質させる恐れについて二つの面から問題提起を行っていた。

このような兵器が用いられた場合、敵味方に分かれた相手に対する複雑な思いや、人間性の重みを感じて、一時的であれ、戦闘行為を踏みとどまることはあり得るのか――と。
 
また、LAWSによる戦闘が行われた後に、従来の紛争でみられたような、自身が関わった行為に対する“深い悔恨”や、戦争に対する“やりきれない思い”、そして、次の世代のために平和な関係を築き直したいと切実に願う“一人の人間としての決意”が入る余地は、そこにあるのだろうか――と。

私たちSGIはこうした池田先生の洞察を基盤にして、「人間による有意の制御」を欠いた自律型兵器システムにひそむ重大な非人道性の問題を踏まえながら、自律型兵器システムに対する規制と禁止を訴え続けてきた。

1991年6月、統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領と会談する池田先生。同年1月から2月にかけて起きた湾岸戦争を踏まえて、大統領は「将来に向かって我々が真剣に考えるべき問題は“(国連に)どのような機構があるか”よりもむしろ“何が安全を脅かすか”です」と指摘。“武力による平和”からの脱却を一貫して訴えてきた池田先生は、大統領の問題提起に賛意を示した(ボン市内の大統領官邸で)

人命の軽視や多大な犠牲を招く危険

この非人道性の問題に関して、これまでの国際会議の議論では、こうした兵器が“民間人に対する攻撃と無差別的な効果をもたらす兵器を禁じる国際人道法を脅かすこと”や、“攻撃をする側の犠牲を抑える自律型兵器システムの導入が、軍事力の行使に対する敷居を著しく下げることにつながること”への懸念が、繰り返し指摘されてきた。
 
私たちSGIは、この国際人道法上の懸念に加えて、仏法者としての立場から「生命の尊厳」の思想に基づき、“自律型兵器システムによって、攻撃される側の人間は単なるデータとして扱われ、その「デジタル技術による人間性の抹殺」が、人命を奪うことや多大な犠牲が生じることへの軽視につながり、「生命の尊厳」を根源から突き崩していく”という事態に対する警鐘を鳴らしてきた。
 
それ以外にも、自律型兵器システムにひそむ危険性として、不正確な情報や解釈などをもとに「ハルシネーション(幻覚)」と呼ばれる現象をしばしば起こすという問題や、何をどのように学習して判断を導き出したのかという過程が不明瞭である「ブラックボックス」といった問題があることが指摘されてきた。
 
そうした誤認識や予期しない誤作動が引き起こす被害や、説明責任を背負うことができない自律型兵器システムによる攻撃で、一人一人の人間にとって“かけがえのない存在”である家族や友人の命が奪われる悲劇が広がりかねないのである。
 
このような点に加えて、SGIがこれまでの会議で人権の視点に照らして特に注意を喚起してきたのが、AIのアルゴリズムは、民族や人種などに対する社会の偏見を反映するだけでなく、増幅させる危険性があるという点だ。
 
特に、人間を特定のカテゴリーに分けて特徴や傾向などの人物像を推論し、“その集団に属する人々が、将来、どのような行動をとるか”を一方的に決めつけてしまう「固有の犯罪性」という予見に基づいて、自律型兵器システムによる攻撃の標的にされる恐れがあるのだ。

オーストリア政府の主催で2024年4月にウィーンで行われた国際会議「岐路に立つ人類――自律型兵器システムと規制の課題」。市民社会による意見表明の場も設けられ、SGIの代表が“人間の生命に関わる意思決定を、AIなどに委ねることは看過できない”と主張した

人類の精神遺産が国際人道法の礎

こうした非人道性の観点とともに、私たちSGIが今回の声明を通じて、強く警鐘を鳴らしたいのが、国際的な規制が設けられないまま、自律型兵器システムの使用が紛争において主流となった場合、“紛争を止める力が一人一人の人間から根源的に奪われてしまう危険性”についてである。
 
各地の紛争で一般市民への被害が拡大し、非人道的な攻撃が多発する中、国際人道法をはじめ国際法を取り巻く状況への憂慮が、かつてないほど高まっている。
 
今後、一般市民を巻き込むような攻撃が、自律型兵器システムの野放図な使用によって紛争で半ば自動化されるようになった場合、紛争の性格は根源的に変質することになり、国際法を支える基盤となってきた“人間の良心”が歯止めとなる余地は完全に失われてしまう。
 
2年前(2024年5月)、スイスにある赤十字国際委員会の本部で、国際人道法の中核をなすジュネーブ諸条約の75周年を記念し、“人類共通の遺産”としての国際人道法の意義を巡るシンポジウムが行われた。
 
この“人類共通の遺産”という表現が象徴するように、歴史を通じてさまざまな宗教、伝統、文化が、戦時中に人道を維持するための規範を形づくる礎となってきた側面がある。
 
「戦争における人間性の保護」という理念は、国際法の普遍的な規範となる以前から育まれてきたものにほかならず、この規範を揺るがないものにするために、私たちは人類の精神的遺産として受け継がれてきた思想や精神に改めて目を向けることが重要となろう。

昨年10月、イタリアのローマで行われた宗教間の国際会議。世界50カ国から集ったキリスト教、イスラム、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教などの関係者と共に、創価学会の代表も参加。分科会では、核兵器や難民問題のほか、AIに関する問題も討議された

仏教の説話が示す平和回復への教訓

仏教においても、戦争と平和に関する教訓が、さまざまな形で説かれている。
 
例えば、「刀兵劫」と呼ばれる“武器の時代”を巡る次のような説話がある。
 
――ある国の王が、人々の幸福を大切にする旧来の法を踏襲しなくなったことをきっかけに社会で人心が乱れた。その中で「猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したい」と思うような状態に陥り、“武器の時代”に突入した結果、人間の寿命が著しく短くなった。
 
しかし、人々が次々と傷つけ合う極限の状況下にあっても、「おまえが私を傷つけないなら、私もおまえを傷つけない」と声を発して、暴力の連鎖に自らの身を投じることから踏みとどまろうとする人々もいた。
 
そして、生き残った者同士が出会った時には、「おまえは生きていたのか。おまえは生きていたのか」と、他人であってもまるで家族であるかのように喜び合った。そうした行いが模範となって、次第に慈しみの心が社会に取り戻され、国は平和を取り戻し、人間の寿命も再び延びるようになった――との教えが説かれている(長阿含経)。
 
翻って現代、自律型兵器システムの使用が紛争で主流化し、人々の命を奪う殺戮行為が自動化するようになってしまえば、他者を害しないという“人間の切なる思いから発する誓い”の重みも、根底から意味を失いかねないのではないだろうか。
 
安全保障はどの国にとっても重要だとしても、“世界の民衆の生存の権利”を根源的に脅かす新たな兵器に対しては明確な一線を引く必要があると、私たちは強く訴えたいのである。 

市民社会の連帯で条約締結のうねりを!

“眼差しの転換”で破壊と分断を防止

自律型兵器システムの規制に消極的な国の間では、“攻撃の精度を上げることで市民の犠牲を抑えることができる”との主張がある。しかし、他の国々が兵器の開発や導入を進めるようになり、紛争の勃発を機にそれが自国の人々に向けられた場合にも、使用を容認できる兵器と言い切れるのだろうか。
 
軍縮の問題とは分野は異なるが、池田先生が2015年の平和提言で人権問題を巡って次の洞察を通し、“眼差しの転換”を呼びかけたことがあった。

「そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
 
しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、“彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない」
 
「だからこそ、相手の立場を互いに理解する努力が、ますます重要になってきています。
 
その努力を欠いてしまえば、緊張が高まった場合などに、自分たちにとっての『平和』や『正義』が、他の人々の生命と尊厳を脅かす“刃”となる事態が生じかねません」と。

思うに、自律型兵器システムの規制と禁止を巡る各国の討議を建設的なものにするためには、こうした“眼差しの転換”による問題の問い直しの作業が大切になるのではないだろうか。
 
私たちSGIは、軍縮や人権をはじめとする地球的な課題を巡って、「宗教間対話」や「文明間対話」に積極的に取り組むとともに、民衆レベルでの文化交流や教育交流に一貫して力を入れてきた。世界平和への道を開き、地球的な問題の解決に取り組む連帯の裾野を広げるためには、国家の枠組みを超えた対話や交流を通じた“眼差しの転換”が欠かせないと考えてきたからにほかならない。
 
本来、平和に関わる問題も、人権の問題と同様に、誰もが等しく守られることを眼目として取り組まねばならない。人類の行く末を「破壊」や「分断」に向かわせないために強く求められるものも、その一点にあろう。
 
私たちSGIは、自律型兵器システムの規制と禁止を求める国々や赤十字国際委員会をはじめ、「ストップ・キラーロボット」の連合体に加わる多くの市民社会の団体や宗教者などと力を合わせるとともに、次代を担う青年世代を中心にグローバルな民衆の連帯を広げながら、条約の締結に向けたうねりを力強く高めていく決意である。
 
*** *** ***

<語句解説>
特定通常兵器使用禁止制限条約 非人道的な効果を有する特定の通常兵器の使用禁止や制限に関する条約で、1980年に採択され、83年に発効。基本的な事項を定めた条約と、焼夷兵器や失明をもたらすレーザー兵器など個別の通常兵器について規制する五つの付属議定書から成る。
 
ストップ・キラーロボット 2012年の設立以来、自律型兵器システムの規制と禁止を求める運動を推進。その取り組みには、75カ国以上で活動する300を超える団体が参画している。
 
ジュネーブ諸条約 1949年にジュネーブで採択された、戦時における文民の保護などを定めた四つの条約の総称。77年に採択された同条約に関する二つの追加議定書によって補完されている。
 
アルゴリズム 一定のルールに基づいて判断や結論を導く計算や処理の手順。

<引用文献>

ヴァイツゼッカー元大統領の言葉は、『ヴァイツゼッカー回想録』(永井清彦訳、岩波書店)。
 
仏教の説話は、『現代語訳「阿含経典」――長阿含経』第2巻(平河出版社)収録の「転輪聖王修行経」(辛嶋静志訳)を引用・参照。

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2030年以降に向けた人権を中心に据えた変革的アジェンダを目指して

【ミュンヘン/ブリュッセルIPS=ガブリエーレ・ケーラー、キャサリン・ムベングエ

持続可能な開発目標(SDGs)を柱とする「2030アジェンダ」は2030年に期限を迎える。それに続く新たな国際開発アジェンダの正式な政府間交渉は、2027年秋の国連総会で開始される予定である。英語版
Beyond GDP Report Credit: United Nations

しかし、それに先立ち、新たな開発枠組みに関する議論はすでに各地で始まっている。BRICSやG20、欧州連合(EU)などの多国間協議をはじめ、国連では「未来サミット(Summit of the Future)」、「ドーハ世界社会開発サミット」、『Beyond GDP(GDPを超えて)』報告書などに関連する議論が進められている。また、「ハンブルク・サステナビリティ会議」をはじめとする国際フォーラムでも活発な意見交換が行われている。

さらに、シンクタンクや学術界でも、SDGsへの真のコミットメントをいかに再び呼び起こし、その先の世界をどのように構想すべきかについて、さまざまな提案や議論が進められている。

こうした状況を踏まえれば、「2030年以降」の開発アジェンダが進むべき新たな方向性について、今こそ議論を深める絶好の機会と言えるだろう。

開発アジェンダの発想を転換する必要性

国際社会が「開発アジェンダ」という考え方を初めて打ち出したのは1960年の「国連開発の10年(Development Decade)」であった。それ以来、貧困撲滅のための各種国際目標、ミレニアム開発目標(MDGs)、そして現在の持続可能な開発目標(SDGs)へと、その取り組みは形を変えながら受け継がれてきた。

しかし、そのたびに明らかになる現実は厳しい。掲げられた理想は、せいぜい部分的にしか実現されていないのである。

現在、多くの専門家がSDGsの進捗状況に深い失望を抱いている。多くの目標は達成が大きく遅れ、一部ではむしろ後退さえ見られる。

だからこそ、2030年アジェンダがなぜ期待された成果を上げられなかったのか、その原因を改めて検証する必要がある。

その理由の一つとして挙げられるのは、SDGsが貧困や格差を生み出す構造的な要因について十分な分析を行わず、その問題を避けてきたことである。政治的・経済的な権力構造や不平等な支配関係には、ほとんど踏み込んでいない。

さらに、これまでの開発アジェンダと同様に、SDGsも各国の政治的な「約束」にとどまり、法的拘束力を持たないという問題がある。

Gabriele Koehler
Gabriele Koehler

SDGsの進捗報告は各国の自主的な取り組みに委ねられており、その内容も個別事例の紹介に終始することが少なくない。そのため、各国政府は表面的にはSDGsに積極的に取り組んでいるように装いながら、実際には必要な改革を回避することも可能となっている。

また国際社会全体としても、低所得国や社会的に排除された人々に不利益をもたらしている世界経済の構造そのものを改革する責任から逃れることができてしまっている。

さらに、これまで繰り返されてきた開発アジェンダから得られるもう一つの重要な教訓は、将来世代の権利や利益が、明確な責任原則として位置づけられてこなかったことである。

子どもや若者は、貧困、不平等、紛争、環境破壊の影響を最も深刻に受ける存在であるにもかかわらず、自らの未来を左右する政策決定に参加する機会は極めて限られている。

したがって、2030年以降の開発アジェンダは、国際的に認められた人権条約上の義務を基盤とするべきである。

そうすることで、現在世代だけでなく将来世代に対する責任についても、定期的な検証と説明責任を制度的に確保できるようになる。

とりわけ、世界のほぼすべての国が批准している「子どもの権利条約(CRC)」は、そのような人権に基づく新しい開発アジェンダを構築するための極めて強固な基盤となり得る。

新たな提案

私たちはここで、2030年以降の開発アジェンダについて、新たなアプローチを提案したい。

それは、次期開発アジェンダを国連人権理事会(Human Rights Council:HRC)の枠組みに位置付けるという考え方である。

新たな開発目標の策定、その政府間交渉、さらには実施後の報告・監視までを、人権理事会が長年にわたり蓄積してきた普遍的・定期的審査(Universal Periodic Review:UPR)や国際人権条約の監視制度を活用して進めることを提案する。

人権条約の監視制度を活用する

Photo: UN Human Rights Committee session. Credit: Jaurocks カナダ・フランスの核兵器政策、「生
Secretary-General António Guterres addresses during the Opening of the 40th session of the Human Rights Council, Palais des Nations. 25 February 2019. UN Photo by Violaine Martin

人権理事会の制度では、各国政府は、自国が批准した9つの主要国際人権条約について定期的に履行状況を報告する義務を負っている。

審査では、①各国政府自身による報告書、②国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の独立した調査・分析、③市民社会組織(NGO)による報告書(提出がある場合)、などが総合的に検討される。

各国は批准した条約について、一定期間ごとに報告書を提出し、その履行状況について説明責任を果たさなければならない。

なかでも、子どもの権利条約(CRC)女性差別撤廃条約(CEDAW)は世界のほぼすべての国が批准しており、2030年以降の開発アジェンダを人権に基づく枠組みとして構築するうえで、世界的に最も強固な共通基盤となっている。

普遍的・定期的審査(UPR)の強み

さらに、人権理事会は2008年以降、加盟国の人権状況を包括的に審査する普遍的・定期的審査(UPR)を実施している。

UPRでは、各国が次のような国際的義務をどの程度履行しているかが審査される。

  • 国連憲章
  • 世界人権宣言
  • 批准済みの人権条約
  • 国内の人権政策・制度
  • 適用される国際人道法

審査では、対象国の報告に加え、3か国の政府が査読(ピアレビュー)を行う。また、独立した人権専門家や市民社会も独自の評価を提出する。

これまで実施された最初の3サイクルのUPRには、国連加盟193か国すべてが参加しており、この制度が国際的に広く受け入れられていることを示している。

また、子どもの権利条約(CRC)の報告制度も、定期的な審査、独立した専門家による評価、市民社会の参加が、各国の政策改善と説明責任の強化に大きく貢献してきたことを示している。

労働の権利も組み込む

私たちが提案する2030年以降の新しい開発アジェンダでは、人権条約に加えて、国際労働機関(ILO)の11の基本的労働基準も組み込むべきである。

SDGs Goal No. 8
SDGs Goal No. 8

これにより、

  • ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)
  • 生活賃金
  • 社会保障を受ける権利
  • 労働組合の結成と団体交渉権

などを開発アジェンダの中核に据えることができる。

これもまた、各国政府がすでに国際的に負っている法的義務を活用するという考え方に沿うものである。

環境・気候変動も不可欠

さらに、人類が直面する「三重の地球規模危機(気候変動、生物多様性の喪失、環境汚染)」に対応するためには、

  • 清潔で健康的かつ持続可能な環境への権利を認めた国連総会決議
  • 気候変動枠組条約(UNFCCC)の下で各国が提出する国が決定する貢献(NDC)
  • その他、気候変動や生態系保全に関する国際的義務

も新たな開発アジェンダの構成要素として組み込む必要がある。

これらは人権条約ほど制度化されてはいないものの、加盟国が国際的に履行を求められる重要な約束である。

人権を基盤とする開発アジェンダの可能性

開発アジェンダを人権に基づく枠組みへと転換するという考え方自体は、新しいものではない。

しかし、2015年にSDGsが策定される際には、一部の国々から反対があり、この発想は十分には採用されなかった。

とはいえ、実務レベルではすでに一定の成果が蓄積されている。例えば、デンマーク人権研究所(Danish Institute for Human Rights)は2015年以来、多くのSDGsのターゲットを国際人権条約と対応付ける「人権モニタリング・ツール」を開発・運用してきた。

つまり、人権を基盤とした開発目標を運用するための知見や経験は、すでに十分に蓄積されているのである。

新たな制度がもたらす効果

Catherine Mbengue

私たちは、「2030年以降」の開発アジェンダに関する議論と交渉の舞台を、現在の経済社会理事会(ECOSOC)の下に置かれる持続可能な開発に関するハイレベル政治フォーラム(HLPF)から、国連人権理事会(HRC)へ、さらにILOなどの機関とも連携する形へと移行することで、新たなダイナミズムが生まれると考えている。

第一に、効率性が向上する。

各国政府は、現在別々に実施しているSDGsの自主的な進捗報告(VNR)と、人権条約に基づく義務的な報告を一体的に進めることが可能となる。

第二に、実効性が高まる。

人権理事会やILOの審査制度では、各国政府は審査で示された勧告に対して対応し、その後の進捗を報告することが求められる。このため、単なる自主的な報告に比べ、政策改善につながる可能性が高い。

第三に、より誠実で透明性の高い制度となる。

政府だけではなく、学術界、市民社会、国連機関など、多様な主体による評価が組み込まれるため、多角的で客観性の高い検証が可能になる。

第四に、より科学的な評価が可能となる。

国際人権条約の審査には、厳格な学術的手法に基づいて活動する独立した専門家が参加しており、エビデンスに基づく評価が期待できる。

UN Photo
UN Photo

実現への課題

Photo: WIKIMEDIA COMMONS
Photo: WIKIMEDIA COMMONS

もちろん、このような仕組みは、人権上の義務を果たしていない国々にとっては、より厳しい監視を受けることを意味する。

そのため、この提案そのものを議論の俎上に載せることさえ容易ではないだろう。

また、「SDGs」を現在のニューヨーク中心の体制からジュネーブへ、さらに気候変動分野まで含めればナイロビとの連携も視野に入れるという発想には、既存の制度や既得権益を持つ関係者から抵抗が生じる可能性もある。

さらに、この仕組みが十分に機能するためには、人権理事会そのものに加え、各国における人権条約機関や労働基準の監視体制が、安定的かつ十分な財政基盤を持つことが不可欠である。

「今こそ変革の好機」

それでも私たちは、いま世界は「変革の好機(a magic moment)」を迎えていると考えている。

社会的・経済的正義を求める多くの潮流が、いままさに一つに収束し始めているからである。

知的な潮流としては、

  • 『Eradicating Poverty Beyond Growth: A Global Roadmap for a New Economy(成長至上主義を超えて貧困を根絶する―新しい経済への世界的ロードマップ)』
  • 『Global Justice Report(グローバル・ジャスティス報告書)』
  • 『Eco-Social Contract for Sustainable and Just Futures(持続可能で公正な未来のためのエコ・ソーシャル契約)』

といった重要な研究成果が相次いで発表されている。

また政治的にも、

  • 国際不平等パネル(International Panel on Inequality)
  • 社会正義のためのグローバル連合(Global Coalition for Social Justice)
  • ブラジルと南アフリカが主導する国際課税の公正化(Tax Justice)の取り組み

などは、現在の国際経済秩序を根本から見直すことを求める世界的な機運の高まりを示している。

さらに国連では、世界社会開発サミットで採択されたドーハ宣言が、「より公正で、包摂的で、衡平かつ持続可能な世界」の実現を各国に求めている。

こうした流れを踏まえれば、「2030年以降」の開発アジェンダを人権を基盤とする制度へと転換することは、地球環境の限界を踏まえながらグローバルな社会正義を実現するための、長年待ち望まれてきた大きな転換点となり得るだろう。

SDGs for All
ガブリエーレ・ケーラー(Gabriele Koehler)氏は、ESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)、UNCTAD(国連貿易開発会議)、UNDP(国連開発計画)、UNICEF(国連児童基金)などで勤務した元国連職員。現在は国連社会開発研究所(UNRISD)の上級研究員を務めるとともに、「Women Engage for a Common Future」や「Global Social Justice」、「ビジネスと人権条約を求める同盟」など複数のNGO・市民社会ネットワークに参加している。UN80プロセスをはじめとする国連改革を継続的にフォローし、SDGsについては策定以前から研究・執筆・政策提言・講演活動を続けている。
キャサリン・ムベングエ(Catherine Mbengue)氏は、開発協力、人道支援、人権分野で40年以上の経験を有する国際コンサルタント。元UNICEF上級幹部(UNICEF代表・上級顧問)として各国で勤務した後、現在は各国政府、国際機関、市民社会組織への助言を行うとともに、子どもの権利、社会正義、国際機関改革に取り組む複数の国際組織の理事を務めている。

INPS Japan/ IPS UN Bureau Report

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相乗効果を力に、2030年までSDGsへの歩みを止めない(浅井伸行 SGI平和センター環境・人道部長)

【東京INPS Japan=浅井伸之】

SDGsの目標年である2030年まで、残すところあと4年となりました。残念ながら、169のターゲットの多くは、期限までの達成が困難とみられています。さらに憂慮すべきことに、一部の政治指導者はSDGsに否定的な姿勢を示し、これまでの前進に逆行する政策さえ進めています。|英語版

その一方で、私は2026年2月、バンコクの国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)で開催された「アジア太平洋持続可能な開発フォーラム」に参加し、SDGsが今なお多くの政府にとって重要な指針であり続けていることを目の当たりにしました。

SDGs Goal No. 11
SDGs Goal No. 11

このフォーラムは毎年、選定されたSDGsについて各国の進捗を検証し、優れた解決策を共有するとともに、残された課題を明らかにするために開催されています。今年、重点的に取り上げられた目標の一つが、創価学会とSGIが長年にわたり取り組んできた目標11でした。私は、SGIがこの10年にわたり加盟しているSDGs市民社会ネットワークの支援を得て、同フォーラムに参加しました。

フォーラムでは、多くの政府関係者が、それぞれの目標に照らした進捗評価や具体的な取り組みを紹介しました。興味深かったのは、その発言の中で、関連する他の目標にもたびたび言及していたことです。

例えば、ある政府関係者は、目標11に掲げられた公共交通の改善について説明し、それが自動車から排出される温室効果ガスの削減につながり、目標13の達成にも貢献すると強調しました。また、目標5以外の目標を推進する際にも、ジェンダー平等の視点を取り入れていると述べた参加者もいました。

このように、複数の目標を常に念頭に置き、その相互のつながりを意識する姿勢は、SDGsが採択された当初には、それほど一般的ではありませんでした。しかし現在では、他の目標を犠牲にして一つの目標だけを達成することは許されない、という認識が共通理解となっています。これは非常に意義のある前進です。

ちなみに日本政府はこの点を重視し、国際社会において「シナジー・アプローチ」、すなわち相乗効果を重視する手法を推進しています。これと歩調を合わせ、環境省の関連機関である地球環境戦略研究機関(IGES)は、複数のターゲットの達成に同時に寄与する政策と、ターゲット間に対立やトレードオフを生じさせかねない政策の双方を示しています。

ここ数年、開発資金は減少し、複数の国連機関が財政危機に直面しています。この傾向は今後も続くとみられ、資金や援助をいかに効果的かつ効率的に活用するかが、ますます重要になっています。 こうした状況において、メディアプロジェクト「SDGs for All」は、SDGsをより幅広い視点から捉える機会を提供し、読者が世界の状況をより深く理解する一助となるものです。

このプロジェクトを通じて得た学びを胸に、私たちも2030年まで、最大限の努力を続けてまいります。

AI、核戦争、気候危機、飢餓など、相互に関連しながら人類の未来を脅かす地球規模の課題を報じ、人々の地球市民としての意識を具体的な行動へと結びつける「知のインフラ」としてのジャーナリズムを表現したイメージ。INPS Japanと創価学会インタナショナル(SGI)が推進する共同メディアプロジェクトは、ローマ宣言を継続的な国際協力と市民の行動へと発展させる「ローマ・プロセス」に貢献し得る情報基盤の一例である。イラスト:INPS Japan
AI、核戦争、気候危機、飢餓など、相互に関連しながら人類の未来を脅かす地球規模の課題を報じ、人々の地球市民としての意識を具体的な行動へと結びつける「知のインフラ」としてのジャーナリズムを表現したイメージ。INPS Japanと創価学会インタナショナル(SGI)が推進する共同メディアプロジェクトは、ローマ宣言を継続的な国際協力と市民の行動へと発展させる「ローマ・プロセス」に貢献し得る情報基盤の一例である。イラスト:INPS Japan
本稿は、INPS Japan創価学会インタナショナルと推進しているSDGs for Allメディアプロジェクトの報告書(2025年4月~26年3月までに配信されたプロジェクト記事をまとめたもの)に寄稿されたものである。

INPS Japan

SDGs for All 2026 Report
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【ブラチスラバIPS=エド・ホルト

Neda Korunovska, Vice President for Analytics and Results at the Roma Foundation for Europe
Neda Korunovska, Vice President for Analytics and Results at the Roma Foundation for Europe

ロシアによる全面侵攻が続く中、各国政府、援助機関、NGO、開発銀行、企業の代表らがポーランド・グダニスクに集まり、ウクライナ復興について議論した。すでに数十億ユーロ規模の復興支援が約束されている一方で、その復興をいかに効果的かつ透明性をもって、公平に進めるかという課題は依然として残されている。|英語版

戦争は、とりわけ社会的に脆弱な立場に置かれてきた人々に深刻な影響を及ぼしている。なかでもロマ(Roma)の人々は、住宅、医療、教育、雇用へのアクセスに以前から多くの障壁を抱えており、復興政策に特別な配慮がなければ、既存の格差がさらに固定化される恐れがあると、ロマ人権団体は警鐘を鳴らしている。

IPSは、ロマ・ヨーロッパ財団(Roma Foundation for Europe)で分析・成果担当副代表を務めるネダ・コルノフスカ(Neda Korunovska)氏に、なぜロマの声を復興計画に反映させることが不可欠なのか話を聞いた。

IPS:戦後のウクライナでは、どの程度の復興が必要になるのでしょうか。どのような復興が求められると考えますか。

コルノフスカ氏(以下NK):考えなければならないのは二つの側面です。

一つは、道路や住宅、インフラなど物理的な復興。もう一つは、社会そのものの再建です。

世界銀行や国連機関、EU、ウクライナ政府は毎年、今後約10年間を見据えた復興ニーズ評価を公表しています。キーウ経済研究所も復興費用を試算していますが、これらはいずれも経済モデルに基づくものです。

しかし、包摂的(インクルーシブ)な社会を築くために何が必要かを数値化することは、はるかに難しい課題です。現在の試算では、そのために必要な資金や政治的意思が十分に考慮されているとは言えません。

私たちの活動を通じて分かっているのは、復興を真に包摂的なものにすることは非常に難しいということです。

ウクライナ社会はもともと様々な分断を抱えていました。そして戦争によって、その分断はさらに深まりました。軍に従軍している人としていない人、国内避難民、国外避難民など、多様な立場の人々が存在しています。社会的結束を再構築する議論では、こうした違いを十分考慮しなければなりません。

さらに、戦争が長期化し続けていることも大きな障害です。新たな被害は今も毎年発生しており、政府の最優先事項は安全保障と防衛です。緊急対応に必要な資金すら毎年不足している状況であり、本格的な復興は極めて複雑なものになっています。

IPS:社会の分断について触れられましたが、戦後復興では「ある集団を他より優先すべきだ」という考え方がすでに存在しているのでしょうか。

NK:公式にはありません。しかし、実際には非公式な形で起きています。

私たちの最近の調査では、住宅被害に対する補償制度などで、その実態を確認しました。

例えば国内避難民(IDP)として登録するには、占領地域や戦闘地域に居住していたことを示す有効な身分証明書が必要です。身分証を持っていなかったり、登録住所が一致しなかったりすると、実際にそこに住んでいても支援を受けられません。行政機関も人手不足のため、結局は「誰を知っているか」という人間関係が大きく影響します。

これはウクライナだけでなく旧ソ連諸国では珍しくありません。病院の予約一つ取るにも、知人のつながりが役立つことがあります。現在のウクライナでも同じです。限られた資源しかないため、誰を優先するかは形式上ではなく、非公式なネットワークによって左右される場合があります。

その結果、社会的なつながり(ソーシャル・キャピタル)が乏しい人々ほど後回しにされてしまうのです。

IPS:ロマの場合、身分証明書を持たない人や土地・住宅の所有を証明できない人も少なくありません。戦後復興から取り残されることを特に懸念していますか。

NK:はい。非常に懸念しています。

戦争中に実施された社会的結束に関する調査でも、ロマとその他の住民との間には依然として大きな格差があることが示されています。唯一改善が見られたのは、ロマと非ロマが共に戦火を経験し、困難を共有した地域だけです。

しかし、それはウクライナ全土には広がっていません。これが私たちにとって大きな懸念です。

IPS:ロマだけでなく、他の少数民族も取り残される可能性がありますか。

NK:あります。ただし、その危険性が最も高いのはロマです。

ウクライナ社会には「ロマはこの国に属していない」「国外へ出ていくべきだ」と考える人が少なくありません。もちろん、ロシア系住民を含め、他の少数民族も戦後には様々な困難に直面するでしょう。

IPS:しかし、その中でもロマが最も深刻な課題を抱えているということですね。

The scene of a destruction caused by the war in Ukraine. Credit: UNOCHA/Dmytro Filipskyy
The scene of a destruction caused by the war in Ukraine. Credit: UNOCHA/Dmytro Filipskyy

NK:その通りです。教育、就労機会、言語、識字能力、居住地域など、あらゆる面で複合的な不利を抱えています。

農村部や孤立した地域、非公式居住地に暮らす人も多くいます。もちろん地域差はありますが、戦争によってこうした問題はさらに悪化しました。

しかも現在、それらに本格的に取り組もうという能力も政治的意思も十分ではありません。復興ではエネルギー、地雷除去、交通、住宅が優先されます。当然、多数派に関わる課題が優先されるでしょう。だからこそ、少数派であるロマは後回しになってしまうのです。

何世紀にもわたり、多くの人々はロマに対して否定的なイメージを抱いてきました。教師や技術者、電気技師として社会に貢献する存在ではなく、周縁化された集団として見られてきたのです。この固定観念こそが、今日の差別の根底にあります。

IPS:ロマの居住地も戦争で被害を受けています。戦後、補償も受けられず、そのまま放置される危険性がありますか。

NK:残念ながら、その危険性は十分あります。現在の補償制度では、多くのロマが正式な住宅所有者として認められていません。相続手続きが複雑だったり、不動産登記がされていなかったり、税金や行政手数料を支払えなかったりするからです。

彼らは怠けていたわけではありません。限られた収入の中で、書類手続きよりも食料や暖房を優先せざるを得なかったのです。

さらに住宅自体も簡易な材料で建てられている場合が多く、損壊しやすいという問題があります。しかし、こうした脆弱性は現在の補償制度では十分認識されていません。

IPS:では、ロマが復興から取り残されないためには何が必要でしょうか。

NK:私たちはロマの政治参加の拡大を求めています。しかし、それ以上に重要なのは、ロマ自身から直接話を聞き、彼らが直面している障壁を理解し、その知見を復興制度の設計に反映することです。

新しいウクライナは包摂的な国家でなければなりません。その理念を政治指導者自身が明確に示し、優先課題として位置付ける必要があります。

他国の戦後復興では、社会的結束を軽視した結果、さまざまな問題が起きました。戦時には愛国心やナショナリズムが強まります。戦前にロマを襲撃していた一部の準軍事組織のメンバーが、戦争では英雄視されるようになった例もあります。

Roma soldier in Uzhhorod, Ukraine. (c) Dmytro Myntyan

彼らの価値観は本当に変わったのでしょうか。私は戦後にロマへの大量虐殺が起こると言っているわけではありません。しかし、他国の経験では、戦後には家庭内暴力、女性殺害(フェミサイド)、民族・人種を理由とする暴力が増える傾向があることが分かっています。

一方で、多くのロマも祖国を守るために戦っています。小さな子どもがいる、あるいは識字能力の問題から兵役免除の対象となる人もいますが、それでも多くが志願して祖国防衛に参加しています。

彼らの貢献が、戦後に忘れ去られてはなりません。

コソボでも、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、同じことが起きました。

IPS:政府関係者はこうした危険性を理解しているのでしょうか。

NK:率直に言えば、理解しています。ただ、今は戦争を戦いながら国家を維持しなければならないため、優先順位が極めて限られているのです。

IPS:戦後復興については、すでに議論が始まっていますか。

NK:議論そのものは適切な方向に進んでいます。問題は、それを実際の社会政策へどう落とし込むかです。ウクライナは地方分権が進んでいるため、地方自治体ごとの行政能力には大きな差があります。

ロマへの対応も地域によって大きく異なります。政策だけでなく、地方行政がそれを実行できるかどうかが重要です。現状では、例えば非公式住宅について代替的な所有証明を認める制度は整備されていません。

しかも被害があまりにも大きく、予算が不足しているため、行政はまず「手続きが簡単な案件」を優先せざるを得ない状況です。

IPS:最後に、なぜロマを戦後復興に包摂することが、ウクライナ全体にとって重要なのでしょうか。

SDGs Goal NO.10
SDGs Goal NO.10

NK:「国民全体が甚大な被害を受けたのだから、なぜロマだけ特別扱いする必要があるのか」と考える人もいるでしょう。しかし、本当に問うべきなのは、新しいウクライナをどのような国として築くのかということです。

ロマを非公式経済へ追いやり、学校教育から排除してきた構造的な問題を放置することは、ウクライナ自身の利益にもなりません。この戦争で、ウクライナは多くのものを失いました。

だからこそ、これからは国民一人ひとりの力を最大限に生かすことが必要です。

誰もが自分らしく生き、それぞれの能力を経済、政治、文化の発展に生かせる社会を実現すること。それこそが、真の復興なのです。

INPS Japan/IPS UN BUREAU Report

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