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気候変動時代に「時代遅れ」となる印パ水利協定

【ニューデリーランジットSciDev.Net=ランジット・デブラジ】

印パ間の水利を定める協定が、気候変動など新たな課題を考慮して強化されるべきか、あるいは完全に破棄されるべきか――両国の緊張が高まるなかで、水資源専門家の間で議論が起きている。

インダス川水利協定(Indus Water Treaty)は、65年間にわたりインダス川の水をインドとパキスタンで分配してきたが、両国の北部地域はいずれもその水に大きく依存している。しかし今年4月、パキスタンから越境したとされる武装勢力によるインド支配地域カシミールでの観光客26人殺害事件を受け、インドはこの二国間協定を停止した。

スブラマニヤム・ジャイシャンカル外相は、「パキスタンが越境テロ支援を信頼できるかたちで、かつ不可逆的に停止するまで、協定は凍結される」と述べ、今後のインダス川水の行方をめぐって専門家たちの間で憶測を呼んでいる。

長期的にはパキスタン下流域に影響も

スリナガルのイスラーム科学技術大学学長で、水文学・氷河学の専門家であるシャキール・アフマド・ロムシュー氏は、協定停止が短期的にインダス川の流量に大きな影響を与える可能性は低いとする一方で、「しかし10年を超える長期的な視野で見れば、上流国であるインドが流量をより強力に調整する能力を持つようになり、現在の行き詰まりが続けば下流のパキスタンの水利用に影響が及ぶ可能性がある」と指摘する。

ロムシュー氏によれば、中国やアフガニスタンを含めた流域全体の新たな多国間条約の構築は「政治的緊張を考えると非現実的」であり、「むしろ、現行の枠組みの中で、気候変動、地下水、汚染、水資源の変動性など共通の課題を盛り込み、協定を強化するのが現実的な道筋だ。」と述べた。

再交渉か、条件付き再開か、破棄か

ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ(UCL)のリスク・災害削減学部のダン・ヘインズ准教授は、「最も現実的な解決策は協定の再交渉である」と述べたうえで、「他の選択肢としては、条件付きの協定再開、または完全な破棄が考えられる。」としている。

パキスタン国民の10人中9人がインダス川流域に居住しており、カラチやラホールなどの大都市は飲料水をインダス川とその5つの支流に依存している。国の灌漑農業の約80%も同流域の水に頼っている。

インド側の改定要求とデータ交換の断絶

インドはここ10年以上、気候変動、ヒマラヤ氷河の融解、最新の工学技術などを協定に反映させるよう求めてきたが、パキスタンはこれを拒否し、結果として協定で義務付けられたデータ交換や意思疎通が途絶えている。

ロンドン大学キングス・カレッジのクリティカル地理学教授ダーニッシュ・ムスタファ氏は、「これはひどい協定だ。もはや時代遅れであり、カシミール人を含むすべての利害関係者の意見を取り入れた新たな協定が必要だ。」と語る。

Map showing Indus River Basin without boundaries of disputed region. (By Kmhkmh and boundaries of disputed regions removed by Fowler&fowler).
Map showing Indus River Basin without boundaries of disputed region. (By Kmhkmh and boundaries of disputed regions removed by Fowler&fowler).

「この協定はすでにインダス川の脆弱な生態系を破壊し、何百万人もの漁民から生計を奪っている。」

協定の構造的欠陥と国際法の視点

インダス川水利協定は、主にカシミールを流れる水をめぐる両国の領有権争いに常に影を落とされてきた。1960年、世界銀行の仲介で長年の交渉を経て締結された同協定は、5つの支流を分割し、東部のスートレジ川、ベアス川、ラヴィ川をインドに、西部のインダス川、ジェルム川、チェナブ川をパキスタンに割り当てた。インドには航行、水力発電、農業など非消費的利用の限定的権利のみが認められたため、両国間の争いが長く続いている。

ムスタファ氏は「敵対と分離がこの協定のDNAに刻まれている」と述べ、「土地の分割(1947年のインド・パキスタン分離独立)とは異なり、水は分割できない」と指摘する。結果として「壊滅的な洪水、デルタ地帯の環境悪化、パキスタン灌漑地帯での栄養失調の蔓延」という現実が生まれたと語った。

国際法に基づく再設計の可能性

もし再交渉が行われれば、国際法上の国際水資源に関するルールを明文化した2014年の国連水系条約(UN Watercourses Convention)が参考になる可能性があるとヘインズ氏は述べる。

「インドとパキスタンが協力し、インダス川流域全体の水資源の共有のあり方を根本から再考することに合意すれば、国連水系条約を出発点にできるだろう。しかし、両国とも現行の水利用モデルに強く固執しているため、実現の可能性は低い。」と付け加えた。

ムスタファ氏はまた、インドに東部3河川の独占利用権を与えたことは、下流国としてのパキスタンに一定の権利を認める国際法の原則と矛盾していると指摘する。「インドがこれらの河川の水を容易に転用することはできない。モンスーン期には国内で洪水を引き起こすおそれがあるからだ」と述べた。

軍事的緊張の激化と停戦

パキスタンは4月22日の殺害事件への関与を否定し、協定の停止を「宣戦行為」と非難した。これに対しインドは、パキスタン国内の武装勢力訓練キャンプを標的とした空爆で報復し、戦闘機、ミサイル、無人機が応酬する4日間の激しい衝突が発生した。5月10日に停戦が成立するまで戦闘は続いた。(原文へ

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太平洋の気候共同戦線に深海鉱物資源めぐる分断の兆し

【Global Outlook=コライア・ライセレ、エイダン・クレイニー 】

この記事は、2025年9月1日に「The Conversation」に初出掲載され、クリエイティブ・コモンズ・ライセンスの下で再掲載されたものです。

太平洋島嶼国は近年、気候行動の旗手として世界的な信頼を得てきた。太平洋のリーダーたちは、海面上昇を存亡の脅威と見なしている。

しかし、この共同戦線が今、緊張下にある。一部の太平洋諸国が、物議をかもす新産業、深海鉱業に乗り出しているからだ。ナウル、クック諸島、キリバス、トンガは、新たな収入源に惹かれ、深海採掘の実現化に向けて最も先を進んでいる。しかし、フィジー、パラオ、バヌアツなどの国々は、公海における深海採掘の一時停止を求めている。(日本語)(英語)

環境への影響不明確であるものの重要になり得る産業について、経済的利益の可能性とリスクを天秤にかけて太平洋地域の世論が割れることはしばしばある。緊張が高まれば、太平洋地域の分断を招き、気候問題に関するこの地域の道徳的権威を損なう恐れがある。

深海採掘に対する懸念は何か?

深海採掘がターゲットとする鉱物資源には三つのタイプがある。深海底平原に散らばる多金属団塊(マンガン団塊)、海山のコバルトリッチクラスト、熱水噴出孔周辺の鉱床である。

これらを採掘するため、採掘企業は無人採掘機を使って鉱石を海面まで汲み上げ、排水を海に戻す。このため海底の堆積物による海の濁りが生じ、海洋生物を窒息させる恐れがある。陸上採掘による種への悪影響を最小限に抑える方法は、深海ではほぼ実行不可能である。

深海生態系はほとんど解明されていないが、その回復に時間がかかることは分かっている。40年以上前に試験掘削を行ったエリアには今なお物理的損傷が残り、固着性のサンゴや海綿は依然としてまばらであることを、研究者らは明らかにしている深海採掘への関心はなぜそれほど高いのか?

深海採掘は、国際海底機構が採掘に関する規則をまだ最終決定していないことから、まだどこでも本格的には開始されていない。同機構は、領海を除いて、世界の海域の54%を管轄している

しかし、それでもなお、そのような規則がなくとも、海底採掘事業の計画を提出し、検討することはできる。

海底鉱物資源は30兆豪ドルという巨額の価値を有する可能性があると、アナリストらは推定している。最も豊かな鉱床の一部は、太平洋諸国から数千キロメートル離れたハワイとメキシコの間にある公海のクラリオン・クリッパートン海域に存在する。国際法に基づき、企業は公海で独自に採掘を行うことができない。国家政府が企業を公的に後援することが必要であり、国家はその操業に対して実効的な管理を維持しなければならない。

深海採掘企業が太平洋諸国をこれほど有用なパートナーと見なす理由の一つは、これらの国々が開発途上国のために確保された国際海底の保留区域を利用でき、また、多くの島嶼国周囲の非常に広大な領海に眠る潜在的資源を利用できるからである。

ナウルトンガクック諸島キリバスの支援者らは、マンガン、コバルト、銅、ニッケルの需要が拡大することで、大きな経済的利益がもたらされ、経済の多様化が実現する可能性があると主張する。

ナウル

ナウルには海鳥の排泄物の化石グアノが大量に堆積し、長い間肥料として需要があったため、かつては国が豊かであった。しかし、グアノはほとんど枯渇し、それ以外の資源はこの小国では限られている。

ナウルは、海底採掘企業The Metals Companyの完全子会社であるNauru Ocean Resourcesのスポンサーとなっている。2011年、同社はナウルから8,000 km以上離れたクラリオン・クリッパートン海域における多金属団塊の探鉱を許可する契約を国際海底機構と結んだ。

それ以降ナウルは、国際海底の団塊採掘に関する国際的な法的枠組みを策定するうえで「主導的な役割を誇らしく果たして」きた。 2025年6月、ナウル政府は、Nauru Ocean Resourcesが開発ライセンスを申請する見込みであることを示唆した

トンガ

トンガ政府も同様に、クラリオン・クリッパートン海域における採掘探査のためにザ・メタルズ・カンパニーと提携して海底採掘を行うことを支持している。

2025年8月、トンガは、ザ・メタルズ・カンパニーの子会社であるトンガ・オフショア・マイニング社との契約更新に署名した。この契約が最初に締結されたのは2021年、国民との協議がないことに対する大規模な批判のさなかであった。

採掘企業は、経済的利益から、奨学金、コミュニティープログラムまで多岐にわたる新たな便益を約束している。それでもなお、改定された契約に対して、市民社会、若者、法律専門家から反対の声が上がっている。トンガの有力者らは納得しておらず、環境リスク、法的リスク、透明性のリスクを挙げている。

このような状況の背後には経済的圧力がある。トンガは、中国輸出入銀行に推定1億8,000万豪ドルの負債がある。これは、トンガの年間GDPのおよそ4分の1に当たる。

クック諸島

クック諸島を構成する15の島は広く散らばっており、そのため政府はほぼ200万平方キロメートルの海域に対する排他的権利を有している。政府は、排他的経済水域内の探査ライセンスを、Cook Islands ConsortiumCIIC Seabed Resources LimitedMoana Mineralsの3社に付与した。クック諸島政府は 国内の規制枠組みを確立しており、現在は研究能力の構築を行っている。

キリバス

キリバスの環礁や島は、それ以上に広く散らばっている。同国の排他的経済水域は約340万平方キロメートルに及ぶ。国有のMarawa Research and Exploration社は、海底機構と15年間の探査契約を結んでいる。キリバスは、協力の可能性を検討する目的で中国との協議を開始した

太平洋地域の分断
Pacific Islands Map/ Pacific Islands Forum Secretariat
Pacific Islands Map/ Pacific Islands Forum Secretariat

収益は太平洋地域にとって大きなものになる可能性がある一方で、コスト、技術、環境に対する責任は極めて不確かである。

パプアニューギニア(PNG)の経験は教訓となる。2019年、PNGの深海採掘ベンチャーSolwara-1が地域社会を受けて倒産した。その結果、政府は推定1億8,400万ドルの損害を被った。PNG政府は、領海内の深海採掘に対して現在は反対している

深海採掘を今や明確に支持する人々がいる一方で、はるかに慎重な国々もある。

2022年、パラオは公海での採掘の一時停止を求める同盟を発足させた。早期の署名国は、フィジーアメリカ領サモアミクロネシア連邦である。それ以降、ツバル、バヌアツ、マーシャル諸島のほか、数十カ国が加盟している。PNGはまだ加盟していない。

これら太平洋諸国の反対は、知識が限られ悪影響が起こり得る状況では警戒を優先するべきであるという予防原則に基づいている。

深海採掘に対する最も顕著な反対者の中に、太平洋の若者たちがいる。市民社会、信仰集団、女性組織、若者のネットワークをまとめる地域連合Pacific Blue Lineは、同地域における全面禁止を一貫して求めている。若者たちは公然と声を挙げており、例えばトンガでは若い活動家が協議不足を批判し、計画反対の声を結集しており、また、クック諸島では若者たちが透明性を要求している。

評判に暗雲?

太平洋のリーダーたちは、首尾一貫した気候外交で世界的な評判を築いてきた。彼らは1.5°C目標を擁護し、南太平洋大学の学生たちが提起した要請には、国際司法裁判所が気候変動に関する重要な勧告的意見を新たに発出した。

太平洋のリーダーの一部が深海採掘に門戸を完全に開いた場合、それは環境問題に対する地域の共同戦線を弱体化させる危険を冒し、その信頼性を脅かすものだ。

この状況がどのように展開するかは、今後世界が気候と海洋の問題に関する太平洋の声にどこまで耳を傾けるかを方向付けるだろう。

コライア・ライセレは、ラトローブ大学の人類学博士候補生である。
エイダン・クレイニーは、ラトローブ大学の人類学および開発学の研究員である。

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人権抑圧国家が国連人権理事会の議席を獲得へ

【ニューヨークIPS=ヒューマン・ライツ・ウォッチ】

エジプトとベトナムが、国連人権理事会の議席を確保しようとしている。だが両国は、その資格を著しく欠いている。国連総会は10月14日、2026年1月から始まる3年任期の理事会メンバーを選出する予定であり、今回の選挙は競争のない形で行われる。

「国連の非競争的な投票は、エジプトやベトナムのような抑圧的な政府を人権理事会に送り込み、理事会を形骸化させかねない。加盟国は、人権侵害を繰り返す政府に、議席を“銀の皿に載せて差し出す”ようなことをやめるべきだ。」と、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)のルイ・シャルボノー国連ディレクターは警鐘を鳴らした。

今回の選挙では14か国が立候補している。エジプト、アンゴラ、モーリシャス、南アフリカがアフリカ4議席を争い、インド、イラク、パキスタン、ベトナムがアジア4議席に立候補している。ベトナムは現在も理事会メンバーで再選を目指す。ラテンアメリカ・カリブ諸国からはチリとエクアドル、西欧グループからはイタリアと英国が、それぞれ2議席を無競争で狙う。中・東欧グループではエストニアとスロベニアが2議席を競う。

2006年に人権理事会を設立した国連総会決議60/251は、投票国に対し、候補国の「人権促進および保護への貢献を考慮するよう」求めている。理事会加盟国には、国内外で「人権の促進と保護において最高水準を維持し、理事会に全面的に協力する」義務がある。しかし、加盟に必要なのは193か国中の単純過半数による秘密投票のみであり、実際には全候補がほぼ確実に当選する見通しだ。

それでもHRWは、明らかに不適格な国に投票すべきではないと訴える。

エジプトとベトナム:抑圧の実態

アブデルファッターフ・アル=シーシ大統領率いるエジプト政府は、平和的な批評家や活動家を体系的に拘束・処罰し、言論の自由を事実上犯罪化している。治安部隊はほぼ完全な不処罰のもとで深刻な人権侵害を行っており、主に平和的な抗議者数百人を殺害し、被拘禁者に対して組織的かつ広範な拷問を加えている。これらの行為は、人道に対する罪に該当する可能性が高い。さらに政府は、自国民がジュネーブの人権理事会と関わることを妨害し、関与した者を報復的に処罰している。国連専門家の訪問要請も無視している。

ベトナムでは共産党が政治権力を独占し、指導部へのいかなる挑戦も認めていない。表現、集会、結社、信教の自由は厳しく制限され、活動家やブロガーは警察による威嚇、嫌がらせ、移動制限、恣意的拘束などに直面している。

他の候補国の問題点

モーリシャスと英国は、チャゴス諸島の主権をモーリシャスに認める条約に署名したが、1965年から1973年にかけてチャゴス人を強制移住させた人道に対する罪や帰還権を未解決のまま放置している。両国は国際人権義務を遵守し、チャゴス人に効果的な救済と補償を提供すべきだ。

アンゴラのジョアン・ロレンソ大統領は人権保護を誓っているが、治安部隊による政治活動家や平和的抗議者への過剰な暴力行使が続いている。南アフリカはパレスチナ問題などで責任追及の姿勢を示しているが、ロシアや中国による人権侵害にも同様に毅然と対応すべきである。

インドのナレンドラ・モディ首相率いる人民党(BJP)政権は、国連専門家の入国を拒否している。モディ氏の政党幹部や支持者は、ムスリムやキリスト教徒を繰り返し中傷・攻撃しているが、当局はしばしばそれを放置し、抗議した側を処罰している。

パキスタンは、反テロ法や扇動罪を用いて平和的批評家を威嚇するのをやめ、冒涜罪を撤廃すべきだ。少数派や社会的弱者への暴力を扇動・実行した者を訴追する必要がある。

UN Secretariate Building. Photo: Katsuhiro Asagiri
UN Secretariate Building. Photo: Katsuhiro Asagiri

イラクでは2024年に同性愛関係やトランスジェンダー表現を犯罪化する法律が制定され、LGBTの人々への暴力と差別が横行している。活動家やジャーナリストへの弾圧も強まっている。

エクアドルでは、ダニエル・ノボア大統領が2024年1月に「国内武装紛争」を宣言して以降、司法の独立が脅かされ、治安部隊による深刻な人権侵害が発生している。

チリではガブリエル・ボリッチ大統領が世界の人権侵害に対し積極的に発言しているが、国内では人種差別や移民への虐待が依然として課題だ。

英国では、パレスチナ支持や気候変動対策を訴える平和的デモ参加者が多数逮捕・投獄され、集会の自由が抑圧されている。

イタリアは、海上救助活動の刑事化や阻止をやめ、リビア当局による難民送還を容認すべきではない。リビアでは送還者が恣意的拘禁や深刻な虐待にさらされている。また、2025年の国際刑事裁判所(ICC)の逮捕状に違反し、容疑者をハーグではなくリビアへ送還したことも問題視されている。

理事会の役割と資金危機

人権理事会は、シリア、ミャンマー、北朝鮮、ロシア、ウクライナ、イスラエル/パレスチナなどの人権侵害を調査してきた。最近では、アフガニスタンのすべての当事者による重大犯罪を調査する任務を設置し、スーダンの実態調査団の任期も延長した。

しかし、まだ多くの国と事案が精査を要する。理事会は、中国による新疆ウイグル自治区での人道に対する罪、米国による麻薬密輸容疑者への超法規的殺害など、大国の責任追及にも踏み込むべきだ。

こうした調査を信頼性のあるものにするためには、資金が不可欠である。各国は国連分担金を速やかに納付し、任意拠出金を増やす必要がある。これは、トランプ前政権による国連への拠出停止や、中国などによる遅延支払いで深刻化した財政危機の中で、独立した人権調査を守るために重要である。

「人権理事会は、数々の調査活動を通じて多くの命を救ってきた。これらの調査は、政府や武装勢力による新たな虐待を抑止している」とシャルボノー氏は述べた。「すべての政府は、理事会が職務を果たせるよう、国連分担金を速やかに支払うべきだ。」(原文へ

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なぜ「集合的癒やし」が平和構築の中核なのか

【バンガロール(インド)IPS=サニア・ファルーキ】

戦争と抑圧が残すものは、瓦礫と墓標だけではない。目に見えない傷――生存者が抱える深い心のトラウマ――が残る。そして多くの場合、その最も重い負担を背負うのは女性たちである。女性は単に性別ゆえに狙われるだけではない。生き延び、リーダーとなることが、家父長制と支配構造にとって脅威となるからだ。

エジプトのフェミニストであり、平和構築者、そして「ナズラ女性学研究所」創設者のモズン・ハッサン氏は、IPSのインタビューに対して、長年問い続けてきた疑問――「なぜ紛争時にいつも女性が攻撃されるのか」――について語った。その答えは静かだが重い。「女性は生命を再建する力を持っているからです」と彼女は言う。

「女性に対する暴力は決して偶然ではありません。それは体系的なものです。支配し、沈黙させ、女性が立ち上がり、抵抗し、別の未来を創る力を奪うためのものなのです。」

Soundus, a young girl being treated in hospital for injuries from Israeli shelling of Gaza (August 2014). Credit: Khaled Alashqar/IPS
Soundus, a young girl being treated in hospital for injuries from Israeli shelling of Gaza (August 2014). Credit: Khaled Alashqar/IPS

国連経済社会局(UNDESA)の報告書によると、2024年には武力紛争で殺害された女性の割合が倍増し、民間人犠牲者全体の40%を占めた。また、「6億人以上の女性と少女が紛争影響地域に暮らしており、これは2017年比で50%の増加である」と報告している。人道危機にさらされた人々のほぼ全員が心理的苦痛を経験し、5人に1人がうつ病、不安障害、PTSD(心的外傷後ストレス障害)、双極性障害、統合失調症などの長期的な精神疾患を発症している。「必要な支援を受けられるのはわずか2%にすぎません」と報告は指摘する。

国際平和研究所(IPI)の報告書でも、2020年と2024年の国連平和構築アーキテクチャ再検討において「悲嘆、うつ、ストレス、トラウマといった戦争の心理的影響が、個人・家族・地域社会の中で放置されたままでは、平和な社会は成り立たない」と強調されている。

集合的癒やしの力

ハッサン氏は、難民キャンプや戦争地域における女性たちの間で「ナラティブ・エクスポージャー・セラピー(NET/語りによる暴露療法)」を導入した先駆者である。個人カウンセリングを中心とする従来型の心理療法と異なり、NETは「集合的癒やし」と「連帯」に焦点を置く。

「ナラティブ・エクスポージャー・セラピーは、地域コミュニティ心理学の手法の一つです。個人中心ではなく、集団的なトラウマに基づくアプローチを重視します」と彼女は説明する。「集団の場に身を置くことで、経験の共有と連帯が生まれ、地域社会自体が回復力を持てるようになるのです。そうなれば、彼女たちは専門家など“上からの存在”に頼らず、自分たちの力で前に進めます。」

ハッサン氏によれば、この手法はレバノンやトルコの難民キャンプにいるシリア、パレスチナ、レバノンの女性たちにおいて効果を上げてきた。5〜6日間のワークショップで、参加者たちは自身の物語を語り直しながら、互いの経験に力を見出し、戦争の現実を記録する知識とデータを共に築いていく。

彼女はこう回想する。「キャンプの女性たちは、多くが異なる民族や宗教の少数派でしたが、自分の体験を語るだけでなく、他者の物語を聞くことで力を得ました。そうして、本来なら失われていたはずの回復力が育まれたのです。集団での癒やしでは、人々は痛みに独りで向き合うことがありません。連帯と、回復するための手段を得るのです。」

UN Photo
UN Photo

トラウマと癒やしの現実

ハッサン氏は「トラウマは単一の経験ではない」と指摘する。
「研究によると、トラウマに直面した人のうちPTSDを発症するのは20〜25%にすぎません。『トラウマを経験した人は全員PTSDになる』という誤解が広まっていますが、それは事実ではありません。集合的アプローチはより現実的で、資源が限られる女性支援の現場でも有効です。」

何よりもNETは、女性たちが前に進むための力と方法を与えてきた。
「トラウマは一夜にして起きるものではなく、積み重ねです。癒やしも同じです。『病んでいたけど、もう治った』という話ではありません。癒やしとは過程です。再び心が揺さぶられても、最初の地点には戻らない。自分で『あのときの自分には戻りたくない』と言えるようになる――それが本当の癒やしです。」

「平和」とは何かを問う

ハッサン氏にとって、フェミニストによる平和構築の核心的な問いの一つは、「なぜ女性が戦争や革命、そして『平時』でさえ攻撃されるのか」ということだ。

「平和構築を『戦争が終わった後の話』としてだけ考えるのをやめなければなりません」と彼女は主張する。「家父長制、軍事化、安全保障化、社会的暴力――これらすべてが日常的に暴力を正当化しています。安定と平和は同義ではありません。」

Egyptians gather in Tahrir Square on Jun. 2. Credit: Gigi Ibrahim/CC BY 2.0
Egyptians gather in Tahrir Square on Jun. 2. Credit: Gigi Ibrahim/CC BY 2.0

彼女はエジプトをその一例として挙げる。「エジプトはシリアやスーダンのような内戦こそありませんが、構造的なジェンダー暴力が存在します。人口は1億人を超え、その半分が女性です。公式統計では、家庭内暴力は60%超、性的嫌がらせは98%超。女性殺害も増加しています。これは『集団的トラウマの生産』であり、暴力の受容を生み出しています。」

彼女は2011年の革命を思い起こす。「タハリール広場で目にした集団レイプや暴行は、社会的暴力の産物でした。長年の嫌がらせと暴力の容認が、ジェンダーに基づく暴力の爆発を招いたのです。」

「戦争がない=平和」ではない

ハッサン氏の警鐘は鋭い。「爆弾が落ちてこないからといって、それが平和だとは限りません。他国から攻撃されていないというだけで『平和に暮らしている』と考えるのは誤りです。戦争の不在は平和ではありません。」

癒やしは政治や責任追及と切り離せないと彼女は強調する。「癒やし=忘れること」ではない。

「許す、手放すには時間がかかります。自分を傷つけた相手と同じテーブルにつけない人も多いでしょう。でも、それは私たちの世代ではないかもしれません。少なくとも次の世代に、私たちよりも少し良い日常を残せればいい。」

責任追及は安定の前提条件でもある。「復讐の思いに囚われたままでは安定は得られません。エジプトにおける集合的癒やしには、責任追及、受容、そして構造的変革が必要です。」

「政治」を取り戻すフェミニズム

また彼女は、フェミニスト運動を「非政治化」しようとする傾向を批判する。
「政治とは議会にいることだけを意味しません。どこであっても、変革のためのフェミニスト的実践が政治なのです。『私たちは政治的ではない』と言わされてきた結果、多くの女性が政治的関与の場から排除されてきました。」

希望と現実

抑圧とトラウマの中でも、女性たちは驚くほどの回復力を示していると彼女は言う。
「女性たちの持つ回復力の道具――それこそが私に希望を与えてくれます。すべてを失いながらも社会を再建し、どこへ行っても変革を生み出すシリアの女性たちに、その力をはっきりと見ました。彼女たちの“回復力の蓄積”こそ、私の希望なのです。」

しかし同時に、ハッサン氏は「女性の強さ」を美化する物語には慎重だ。
「私たちは常に強くある必要なんてないのです。本来、自由で、幸せで、強さを発揮しなくても生きられる社会であるべきです。けれど残念ながら、今の時代は“強さ”を要求する時代です。」

モズン・ハッサン氏の言葉は、私たちに「平和とは何か」を改めて問いかける。平和とは停戦や合意のことではなく、家父長制・暴力・トラウマの根本に向き合う挑戦である。癒やしは政治であり、責任追及は不可欠であり、女性と共に再建することが未来への鍵だ。

彼女の言葉を借りれば――
「許しを得るのは私たちの世代ではないかもしれない。でも、私たちより少しでも良い日常を次の世代に残すことはできる。」

そのビジョンは厳しくも希望に満ちている。平和は明日すぐに訪れないかもしれない。だが、女性たちが回復力を築き、自尊心を貫き続ける限り、その道は閉ざされていない。(原文へ

サニア・ファルーキは独立ジャーナリスト、『The Peace Brief』の司会者。女性の声を平和構築と人権の領域で伝える活動を行っている。これまでCNN、Al Jazeera、TIMEなどで勤務。

IPS UN Bureau Report.

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デジタル時代に抗議を再定義するZ世代(アハメド・ファティATN国連特派員・編集長)

【ニューヨークATN=アハメド・ファティ】

私は長年、抗議行動を間近で見てきた。タハリール広場からタイムズスクエアまで。そして、時間が経つにつれ「定型」が見えてくる。労働者がストを起こし、学生が集会を開き、政党が動き出す。指導者が現れ、逮捕されるか、妥協する。やがて疲労と沈黙が訪れ、しばらくしてまた新たな抗議が始まる。

Ahmed Fathi.
Ahmed Fathi.

しかし、何かが変わった。リズムが違う。新世代―Z世代―は抗議の作法そのものを書き換えたのだ。彼らの運動は、かつてない速さで発火し、広がり、国家が息をつく暇もなく消える。

彼らが築いているのは革命ではない。デバッグ(不具合修正)だ。

無視できないパターン

かつては孤立していた動きが、いまや世界的な反響となっている。ネパールでは、若者たちが政府によるSNS禁止令に逆らい、首相を退陣に追い込んだ。モロッコでは「GenZ212」が不平等と崩壊した医療制度に対してオンラインで抗議を組織。マダガスカルの若者は、停電への怒りをアニメのイメージに託して表現した。ケニアでは、TikTok発の「税反乱」が政府に撤回を迫った。

国は違えど、怒りもテンポも同じ。
私はこうした蜂起を研究してきたが、そこに見える繰り返しの精度はあまりに高い。どの国も同じプロセスをたどる——デジタルの火花、ウイルスのような拡散、分散型の動員、世論の圧力、そして政府の狼狽。

自然発生的に見える。だが同時に、どこか設計されているようにも感じる。

シグナルの中の疑念

記者として、研究者として、私は「きれいすぎる拡散」には疑いを持つようになった。そして気づいたのは、純粋な声とともに、同調するように動く無数のオンラインページ、インフルエンサー、「活動家」系サイトが存在することだ。

確かに一部は草の根だ。しかし他は? もっと曖昧だ。匿名アカウントや連動するハッシュタグ、数時間で仕上げられたプロ品質の動画がそれを増幅している。
政府はこれを「操作」と呼び、活動家は「デジタル戦略」と呼ぶ。真実は、その中間の緊張関係にある。

このことは、街頭の怒りを否定するものではない。むしろ、情報戦と市民運動が融合している証拠だ。Z世代の抗議は政治的であると同時にアルゴリズム的でもある。
本物の怒りと仕組まれたノイズの境界はますます曖昧になり、権力者たちはその不確実性に不安を感じている。

「異議申し立て」というOS

この世代の運動を定義づけるのは、次の三つの特徴である。

  1. 分散化 —— 指導者も階層もない。逮捕の的がない。ピラミッドではなくネットワークとして設計されている。
  2. ミーム化 —— 従来の活動家がマニフェストを掲げたのに対し、Z世代はユーモアと皮肉を武器にする。政治演説よりもTikTokのリミックス動画の方が人を動かす。
  3. 速度 —— 深夜のDiscordチャットが翌朝には全国規模の抗議になる。官僚的な政府は、このスピードに対処できない。

しかし、ミームやハッシュタグの背後には現実の絶望がある。経済の停滞、腐敗したエリート、そして「自分と同じ年齢でも、生まれた国が違うだけで人生がまるで違う」という苦い自覚だ。

強みと脆さ

Z世代の強みは機動力だが、弱点は持続力である。構造を持たない運動は、一瞬の光で世界を照らすことはできても、すぐに消えてしまう。組織がなければ、勝利もまた霧散し、混乱の中に消える。

そしてAIによる監視やデジタル潜入が進む中、国家も進化している。
それでも彼らはやめない。何度でも、どの大陸でも、同じパターンが繰り返される。にもかかわらず、政府は毎回驚いたように振る舞う——まるでこの「タイムライン」がすでに書かれていることを知らないかのように。

広い視野で見れば

Z世代を「未熟な理想主義者」と見くびるのは誤りだ。彼らはスローガンを叫ぶ夢想家ではない。「なぜ何も機能しないのか」と問う現実主義者だ。彼らは壊れた制度を受け継ぐつもりはない。その場で修正(デバッグ)しようとしている。

ただし、私たちも注意を怠ってはならない。すべてのトレンド化した抗議が本物とは限らない。あるものは真の怒りから生まれ、あるものは誰かが「燃やしたかった」から燃え上がる。

活動家サイトや匿名の「主催者」、インフルエンサー型アクティビストが乱立し、何が本物で何が仕組まれたものかを見分けるのは難しくなっている。インターネットは誰にでも拡声器を与えるが、その音は歪むのだ。

だが、もし一部の火種が仕組まれたものであっても、炎そのものは本物であり、そして広がり続けている。

権力への警告

政府はアプリを禁止し、プラットフォームを検閲し、ユーザーを投獄することはできる。だが、つながることを前提に育った世代の「接続」を止めることはできない。

Z世代は、許可を待ってはいない。すでに動いている。安定という幻想を揺さぶりながら。

彼らは「未来の指導者」ではない。今日の危機の株主であり、すでに「非常取締役会」を街頭で開いている。

これは混乱ではない。リアルタイムで自己検証を行う未来のベータ版だ。

もしあなたが今の抗議を「ただのノイズ」と思うなら——次のアップデートを待つといい。(原文へ

Original URL: https://www.amerinews.tv/posts/gen-z-and-the-new-operating-system-of-protest

INPS Japan/ATN

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貧困撲滅のための国際デー

【INPS Japan/IPS】

貧困とは、単なる欠乏ではない。
それは排除であり、スティグマ(烙印)であり、不可視化である。
貧困は個人の失敗ではない。

それは制度の失敗であり、尊厳と人権の否定である。

貧困の中で暮らす家族は、侵入的な監視や煩雑な適格性チェック、支援ではなく「審査する」制度にさらされている。

シングルマザー、先住民の家庭、周縁化された人々は、より厳しい監視と疑念、そして分断に直面している。

現在、6億9000万人以上が極度の貧困の中で暮らしており、世界人口のほぼ半数が1日あたり6.85ドル未満で生活している。

約11億人が多次元的貧困に苦しみ、極度の貧困層の3分の2はサハラ以南アフリカに集中している。
進展は鈍化しており、2030年までの道のりは脆弱である。

社会的・制度的な虐待は構造的なものであり、ルール、日常的慣行、制度の仕組みに根を下ろしている。
人々が恐れから支援を避けるようになったとき、その制度はすでに失敗している。

本年の「貧困撲滅のための国際デー」(10月17日)は、次の3つの根本的転換を呼びかけている。

管理からケアへ:
– 疑念ではなく信頼に基づく制度設計を行うこと。
– 懲罰的な条件を減らし、書類手続きを簡素化すること。

監視から支援へ:
– 所得支援、保育、住宅、メンタルヘルス、司法を含む家族支援を優先すること。

トップダウンから共創型の解決へ:
– 家族を制度設計、予算、実施、評価のすべての段階に参加させること。

Photo: MANUEL ELÍAS / UNITED NATIONS
Photo: MANUEL ELÍAS / UNITED NATIONS

家族を支援することは、多くの目標を同時に強化する:
– 貧困削減
– 健康と福祉
– 質の高い教育
– ジェンダー平等
– 働きがいと社会的保護
– 不平等の是正
– 平和・公正・強固な制度

「貧困の中で生きる人々は、しばしば非難され、烙印を押され、社会の影に追いやられている。」
― アントニオ・グテーレス国連事務総長

2030年は刻一刻と近づいている。
今こそ行動しなければならない。(原文へ

INPS Japan

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世界の先住民の国際デー2025

女神のように舞う

―宗教舞踊における女性の参加が、男性中心の伝統を少しずつ変えている―

【カトマンズINPS Japan/Nepali Times=プラティバ・トゥラダー】

2025年8月10日の夜――正確には日付が変わって11日――私はカトマンズ空港に降り立つと、急いでティミへ向かった。そこでは、プラジタ・シュレスタが「ナガチャ・ピャッカン(Nagacha Pyakhaan)」を演じていた。ヒンドゥー神話に登場するバスマスルとモヒニの物語を題材にしたこの舞踊は、バクタプル県ティミのみに伝わる特有の宗教舞である。

The Nepali Times
The Nepali Times

プラジタは、モヒニ役を務めたわずか4人目の女性である。これまでこの役は、地域の男性が女性に扮して演じてきた。だが今、宗教舞踊の一部では女性が出演する新たな時代を迎えている。

彼女が最初にグティ(地域共同体)からモヒニ役を打診されたとき、両親に許可を得る前に即答したという。
「お願いされた瞬間、心が高鳴りました。これをやる運命だと感じたんです」とプラジタは語る。

初舞台は2022年8月。そして2025年8月、再び選ばれた。ソーシャルメディアで拡散された彼女の舞は大きな注目を集め、観客の“人気投票”のように支持を得た。実際には急な欠員を埋めるための登板だったが、その存在感は群を抜いていた。

ティミに到着したとき、プラジタはすでに長時間踊り続けていた。悪戯っぽい笑みを浮かべながら、通りから通りへと移動し、物語の悪役バスマスルに向かって挑発的に身振りを見せる。

この舞踊の筋書きはこうだ。ヒンドゥー教の神ヴィシュヌが女神モヒニに姿を変え、魅惑の力で悪魔バスマスルを自滅に導く――。この古い舞踊は2019年に復活し、以後、女性舞踊家が少しずつ参加するようになった。最近では、バクタプルやキルティプルといった他の町でも、宗教舞踊や音楽に女性が登場するようになっている。

プラジタは、自分の前にモヒニを演じたナビナ・プラジャーパティの姿に触発されたという。両親も反対はしなかった。兄のキランがすでに「バイラ舞(Bhaila)」に参加していたからである。このバイラはヒンドゥー教の神バイラヴに捧げる舞踊で、約10年前に復興され、ティミの少年たちによって踊られている。

カトマンズ盆地の宗教舞踊は、長らく男性だけが演じるものであった。プラジタは、まだ少数ながらその「未踏の領域」に足を踏み入れた女性の一人である。24歳の彼女は学生であり、通信関連の仕事にも携わっている。自ら道を切り開き、次世代の少女たちが続くための道標を築いた。

「ネワールの女性には自由がないと言われますが、女性が踊りに参加できなかったのは、ある意味で“守るため”でもあったと思います」と彼女は言う。

その夜、プラジタと一座がティミの広場に設けられた石の舞台“ダブー”に上がると、男性たちの歓声が響いた。
「ワラ、ワラ!」――来たぞ!
しかしプラジタは動じず、微笑みを絶やさずに舞い続けた。腕を夜風に広げ、足を軽やかに踏み鳴らす。
「モヒニを演じると、観客はからかったり茶化したりします。昔は男性が女装して踊っていたので、その名残かもしれません。だから祖母たちが“やめなさい”と言っていたのは、危険から守ろうとしていたのだと思います」と語る。

ネワールの伝統舞踊が男性専属とされてきた理由はいくつかある。頭飾りや仮面の重量、長時間の稽古、夜間の上演、断食、さらには酒や動物の血を用いるタントラ儀礼などが伴うこと。そして月経期の禁忌や、魅力と優雅さの神ナーサー・デャー(Nasaa Dyaa)から女性が距離を置かれてきたことも要因とされる。

その夜、私が彼女に同行しているうちに夜の重さを感じ始めていたが、プラジタは疲れも見せず、地区から地区へ駆け抜けた。足首には鈴が鳴り、裸足を包む飾りがきらめく。緑のスカートが旋回するたびに広がり、赤いビロードのブラウスが頬を紅潮させる。頭の孔雀の羽根飾りが揺れ、視線を上げると、バスマスルの顔に挑むような眼差しを向けた。

モヒニを演じることは、プラジタの人生に多くの変化をもたらした。彼女は「ラジオ・カトマンズ(92.1)」の記者でもある。
「踊りに参加してから、仕事にも新しい自信がつきました。文化活動もしているので、踊りを通じて新しい視点を得て、多くの人とつながることができました」と語る。

踊る喜びは自分のためでもあるが、彼女は観客からの称賛にも支えられている。観客の多くは親戚や近隣の人々だ。
「この役を引き受けたとき、父はあまり関心を示していませんでした。でも公演の夜、観客席に父の姿を見た瞬間、胸がいっぱいになりました」と彼女は振り返る。家族からの承認を求める小さな少女のように、プラジタはその瞬間、自らに課された新しい社会的責任を果たそうと心に誓った。

存在し、参加することで円の中に引き込まれる――その体験は重要である。家父長的社会では、男性はすでにその「円」の中にいるが、女性は外側に置かれてきた。だからこそ、女性がその円に入るためには、まず男性側がその円を開かなければならない。

プラジタが感謝の言葉とともに名を挙げるのは、アルジュン・シュレスタ、ニラジャン・シュレスタ、ビレンドラ・シュレスタ、ラビ・シュレスタといった舞踊師たちである。彼らはかつてナガチャ・ピャッカンを演じ、今はその技と精神を次代へと受け継いでいる。

「以前の私は、ティミで行われる宗教舞踊をただの観客として見ているだけでした。でも踊りに参加してからは、宗教舞踊の仲間として知られるようになり、他の踊りの稽古にも参加できるようになりました。夜遅くまで練習を見たり、踊り手たちと交流したりもできる。――“受け入れられた”と感じます」とプラジタは語る。(原文へ

Suburban Tales は、プラティバ・トゥラダーが身近な人々を題材に綴る、ネパーリ・タイムズの月刊コラムである。

INPS Japan

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サウジ防衛協定は米国の安全保障への信頼低下を映す

【メルボルンINPS Japan/London Post=マジド・カーン】

画期的な動きとして、サウジアラビアとパキスタンが「戦略的相互防衛協定」を締結した。これは、米国およびイスラエルに対し、サウジ王国が地域の抑止力を強化するために安全保障同盟を多角化する姿勢を明確に示すものである。

地政学的な力学が急速に変化する中で結ばれたこの協定は、サウジアラビアが長年依存してきた米国の安全保障への依存からの明確な脱却を意味する。

この協定は、リヤドでムハンマド・ビン・サルマン皇太子とパキスタンのシャハバズ・シャリーフ首相の間で署名された。わずか1週間前、イスラエルがカタールに滞在するハマスの政治指導者を標的にミサイル攻撃を行い、米国の防衛支援に依存してきた湾岸諸国に深い不安をもたらした直後である。

湾岸諸国は長らく、ワシントンの予測不能な姿勢と、自国の安全を確実に保証する意思に疑念を抱いてきた。イスラエルの軍事行動が地域の緊張を高める中、その不信はさらに深まっている。サウジ高官の一人は、「一方への攻撃は、他方への攻撃と見なす」と述べ、この相互防衛協定が抑止力の中核となると説明した。協定には、脅威の性質に応じて必要な防衛・軍事手段を講じることが明記されている。

この協定はまた、中東における地政学的構図の変化を象徴している。ドーハ攻撃後、米国が「地域の安全保障の保証人」としての役割を果たしていないとの見方が広がる中で、サウジは同盟関係の再調整を進めている。イスラエルによるドーハ空爆に対する米国の反応が抑制的であったことは、湾岸諸国の脆弱性を露呈させた。ムハンマド皇太子はこの攻撃を「残虐な侵略」と非難し、アラブ・イスラム諸国、そして国際社会が一体となって対応すべきだと強調した。

ワシントンDC拠点のシンクタンク「スティムソン・センター」の上級研究員アスファンディヤール・ミールは、この協定を「両国にとっての画期的な出来事」と評した。彼は、パキスタンが冷戦期に米国と相互防衛条約を結んでいたが、1970年代までに形骸化したことを指摘した。中国とも正式な防衛協定は存在しないため、今回のサウジとの合意は地域の安全保障構造における大きな転換点であると述べた。

ミールはまた、この協定が印パ関係に新たな緊張をもたらす可能性にも触れた。特にインドによる軍事的圧力が懸念される中での締結は象徴的であるという。

シドニー工科大学の南アジア安全保障研究者ムハンマド・ファイサルは、この協定がパキスタンにとって、UAEやカタールなど他の湾岸諸国との防衛協力を広げるモデルになる可能性を指摘した。これにより、パキスタンの地域的地位が一層強化されると見ている。

この合意は、政治的にも重要な意味を持つ。サウジがパキスタンとの関係を正式に再確認したことは、インドが各国に対してパキスタンから距離を置くよう働きかけている中でも、リヤドが依然としてイスラマバードとの長年の絆を重視していることを示す。ミールは「パキスタンは外交的孤立に直面しているが、この協定は同国が完全に周縁化されていないことを示す」と指摘した。

この合意の最も注目すべき点の一つは、サウジの莫大な財政力とパキスタンの核武装軍の能力が連携する構図を生み出すことである。ただし、協定の詳細は依然として曖昧であり、両国とも「核技術や核能力の移転は含まれない」と明言している。

パキスタンのカワジャ・ムハンマド・アスィフ国防相は、「核兵器は協定の射程外にある」と述べ、この協定が将来的に他の湾岸諸国にも拡大される可能性に言及した。

戦略的観点から見れば、この合意は地域の勢力均衡を変える可能性を持つ。長年米国に安全保障を依存してきたサウジが、中国およびロシアと関係の深いパキスタンを防衛の新たな柱として位置づけようとしているためである。この提携は米国の軍事的存在を代替するものではないが、サウジが西側への依存を減らし、他の戦略的パートナーシップを模索していることを明確に示している。

中東の安全保障環境が急速に再編される中で、この動きは生まれた。イスラエルの攻撃的な軍事行動と、地域における米国の影響力低下が、湾岸諸国に安全保障政策の見直しを迫っている。サウジ・パキスタン防衛協定は、サウジが米国の予測不能な外交方針に不安を抱き、地域の不確実性に備えるための戦略的転換を示している。

サウジ王室に近い政治評論家アリ・シハビは、今回の協定は「米国の軍事的役割に取って代わるものではない」が、サウジが従来の同盟関係を超えて新たな方向性を模索している象徴的な転機だと述べた。また、パキスタンとの軍事的連携を再確認することは、地域の安定維持において重要な意味を持つとも指摘した。

パキスタンにとって、この協定は好機であると同時にリスクでもある。湾岸地域での地位を高め抑止力を強化する一方で、米国との関係を複雑化させる可能性があるからだ。特にトランプ政権期以降、ワシントンとの関係が改善していたことを考えると、この新たな防衛協力は再び緊張を招く恐れがある。米国がイラン封じ込めのためイスラエルを中東安全保障の枠組みに組み込もうとする中で、サウジとパキスタンの関係強化は、ワシントンにとって厄介な要素となるだろう。

ラホール大学安全保障戦略政策研究センターのラビア・アフタル所長は、「この協定はサウジにとって通常戦力の保証を固め、パキスタンの防衛ノウハウを取り込むものであり、イスラム教徒多数派で核抑止力を有する国との連携を象徴している」と分析した。その一方で、インドとの対立を最優先するパキスタンにとっては、中東安全保障への関与が新たなリスクを伴う可能性があると警鐘を鳴らしている。

インド政府もこの協定の影響を注視している。特に湾岸地域での影響力維持を図る中で、インドは今後、外交方針を慎重に再調整する必要に迫られるだろう。サウジとインドの関係は引き続き良好であると見られるが、パキスタンとの防衛協力強化はインドの地域戦略に新たな変化をもたらす可能性がある。

この協定はただちに中東の安全保障構造を変えるものではないが、地域の同盟関係が多様化しつつあることを示している。そしてそれは、中東全体で進行する地政学的変化の一端でもある。

サウジアラビアとパキスタンの両国は、より複雑で予測不能な地域秩序に備えており、この協定は、各国が世界的・地域的変化に対応して同盟関係を再構築していることの象徴である。(原文へ

INPS Japan

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モルドバの民主的抵抗

【ロンドンIPS=アンドリュー・ファーミン】

9月28日に行われたモルドバの選挙で、民主主義が勝利し、ロシアが敗北した。親欧派の与党「行動と連帯党(PAS)」が得票率の半分強を獲得して議会過半数を確保する一方、親ロシア連合の支持は過去最低に落ち込んだ。これは、ロシアによる前例のない選挙介入の試みにもかかわらず得られた結果であった。その背後には、大規模な詐欺事件で服役を逃れてロシアに亡命した汚職富豪イラン・ショルが関与していたとされる。

モルドバは人口240万人に満たない内陸国で、ニュースの見出しを飾ることは少ない。しかし、EU加盟国ルーマニアと戦争中のウクライナの間に位置するこの国は、旧共産圏諸国の未来をめぐる綱引きの最前線にある。
2009年以降、モルドバのすべての首相は欧州統合を掲げてきた。ロシアがウクライナに対して全面侵攻を開始した2022年、モルドバは正式にEU加盟を申請した。選挙で親ロシア勢力の支持が低下するにつれ、ロシアは露骨な政治工作へと手法を変え、ショルがその要となったと見られている。

ショルはモルドバ史上最大の金融スキャンダルに関与したとされている。2014年11月、3つの銀行から偽装融資によって約10億米ドルが不正に流出。銀行は破綻し、政府は国内総生産(GDP)の8分の1に相当する額を救済に投じざるを得なかった。

Map of Moldova. credit: Wikimedia Commons.

当時銀行の会長だったショルは、首謀者の一人として起訴され、2017年にマネーロンダリングや詐欺、背任の罪で懲役7年半を言い渡された。しかし2019年、控訴審中の自宅軟禁状態からイスラエル、さらにロシアへと逃亡し、現在はロシア国籍を持つ。彼が投獄されずに帰国できる唯一の道は、親ロシア政権の樹立であり、そのために巨額の資金を使って影響力を行使している。

ショルは、ロシアがエネルギー供給を武器化しガス供給を削減した2022~2023年の冬に高騰したエネルギー価格への抗議デモを資金援助したとされる。2024年の大統領選とEU加盟是非を問う国民投票を前に、彼は反EUキャンペーンに登録した人々や反EU投稿をした人々に報酬を支払うと約束。政府によると、彼は約1600万米ドルを13万人に支払い、テレグラム上で偽情報拡散の手順を共有していた。2024年の選挙運動は、ディープフェイク映像やサンドゥ大統領に関する虚偽情報などの偽情報で溢れた。EUやサンドゥを攻撃し、親ロシア的な主張を広める偽アカウントが多数出現した。

2025年の選挙では、こうした影響工作がさらに激化した。テレグラムで組織された秘密ネットワークが、フェイスブックやティックトックで親ロシア宣伝や反PAS偽情報を投稿する者に報酬を支払うほか、世論調査を操作して親ロシア支持が高いように見せかけ、結果が接戦になった場合に不正選挙を主張する計画もあったとされる。BBCの調査によると、このネットワークはショルおよび彼の組織「エヴラジア」と関係しており、資金はロシア国防省が利用する国営銀行を経由して送金されていた。

ネットワークは、生成AI「ChatGPT」を使って偽情報投稿を作成するオンライン講座まで開催していた。サンドゥが児童売買に関与している、EUが性的指向の変更を強制するなど、荒唐無稽な主張が含まれていた。2025年初頭から90以上のティックトックアカウントがこのネットワークに関与し、再生回数は2300万回を超えた。なお、PASを支持する側による同規模の偽情報キャンペーンは確認されなかった。

ロシアはまた、国外に住む約100万人のモルドバ人ディアスポラを標的にした。彼らは一般的に親EU派だが、ロシア資金とみられる金で買収され、選挙監視員として雇われるよう誘われた。さらに、選挙の不正を「発見」した場合には高額のボーナスが支払われる仕組みだった。これは国外投票の正当性に疑念を抱かせる狙いがあったとみられる。

影響工作は正教会にも及んだ。昨年、モルドバの聖職者たちはロシアの聖地巡礼旅行に無料で招待され、その後、EU統合の危険性を信徒に説くよう指示と資金提供を受けた。彼らは90以上のテレグラム・チャンネルを開設し、「EUは伝統的家族の価値を脅かす存在だ」といった内容を一斉に発信した。

投票の数日前、モルドバ当局は選挙後の暴動を計画していた疑いで74人を拘束した。彼らは「正教の巡礼」を名目にセルビアを訪れ、治安部隊への抵抗方法、障壁突破、武器使用などの訓練を受けていたという。当日には、国内外の投票所でサイバー攻撃や爆破予告が報告された。

今後の課題

モルドバの民主的制度は、ロシアの干渉に対する重要な試練を乗り越えた。2024年以降に進められた防衛強化の成果が実を結んだ形だ。しかし、この国の未来をめぐる闘いは終わっていない。モルドバがEUに近づけば近づくほど、ロシアは手を緩めないだろう。より卑劣な手段に出る可能性すらある。

一方で、政府には多くの課題が残る。欧州でも最貧国の一つであるモルドバでは、生活費の高騰が市民を苦しめている。ウクライナ難民を人口比で欧州最多規模に受け入れた結果、公的サービスにも負担がかかっている。汚職問題も未解決で、多くの若者が国外に活路を求めている。

今後、ロシアの影響工作に対抗するためには、ソーシャルメディアと政治資金の規制、情報機関の強化、偽情報へのリテラシー向上のバランスをとることが求められる。エネルギー分野でも、再生可能エネルギーへの投資拡大など、ロシアの「エネルギー兵器化」を無力化するためにEU諸国の支援が不可欠だ。

モルドバのEU加盟の行方は、これらの課題への取り組み次第で決まるだろう。もっとも、ハンガリーの例が示すように、EU加盟が即ち民主主義の保証とは限らない。しかし、ロシアの支配下に陥れば、民主主義も人権も希望を失う。(原文へ

アンドリュー・ファーミンは、国際市民社会連合(CIVICUS)の編集長であり、「CIVICUS Lens」共同ディレクター、『State of Civil Society Report』共同著者。問い合わせ:research@civicus.org

INPS Japan/IPS UN Bureau Report.

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北京+30―世代と国境を越える対話の集大成

【国連IPS=ナウリーン・ホセイン】

第4回世界女性会議(1995年・北京)から30年。世界が「ジェンダー平等」という共通の課題に向けて一致したあの決意は、2025年のいまもなお力強い意味を持ち続けている。この北京会議は、世界的なジェンダー平等運動の転換点であり、包括的な行動計画を提示した画期的文書―「北京宣言および行動綱領(Beijing Declaration and Platform for Action)」―の採択によって知られる。

ケニアの女性の権利擁護者で30年以上の活動歴をもつシア・ナウロジー氏はこう語る。

Sia Nowrojee, UN Foundation’s Associate Vice President of Girls and Women Strategy. Credit: UN Foundation
Sia Nowrojee, UN Foundation’s Associate Vice President of Girls and Women Strategy. Credit: UN Foundation

「北京会議は、フェミニスト運動の長く続く旅路の一つの節目にすぎません。30年経った今でも、その意義はまったく色あせていません。あれは20年にわたる草の根のジェンダー平等運動の集大成でした。」

ナウロジー氏は現在、国連財団の「少女と女性戦略部門」のアソシエイト副代表を務めている。

グローバルな開発議題に初めて統合された「ジェンダー平等」

北京会議は、国際社会が初めてジェンダー平等をグローバルな開発と人権の議題に正式に組み込んだ場でもあった。すべての女性と少女の権利と尊厳を確立することが、持続的な発展の鍵であるという認識が共有されたのだ。これは、植民地支配から独立した新興国にとって特に重要な意味をもっていた。

この行動綱領の形成において、グローバル・サウス(途上国側)の女性リーダーたちの貢献は決定的だった。アフリカ、アジア、ラテンアメリカの代表たちは、枠組みをより包括的なものにするために尽力した。ナウロジー氏は、アフリカのフェミニストたちの努力によって「少女の権利」が明確に盛り込まれた例を挙げる。

Hibaaq Osman, a Somali human rights activist and founder of El-Karama. Credit: UN Foundation
Hibaaq Osman, a Somali human rights activist and founder of El-Karama. Credit: UN Foundation

ソマリアの人権活動家で「エル・カラマ(El-Karama)」創設者のヒバーク・オスマン氏もその一人である。彼女は、植民地主義や人種差別との闘争を経験したグローバル・サウスの活動家たちが、北京会議に臨むうえで独自の準備を積んでいたと指摘する。オスマン氏は1995年、女性市民社会ネットワーク「戦略的女性イニシアティブセンター」の一員として会議に参加した。

「女性が自ら語る」ことの衝撃

「若い頃の私は、あの場で耳にした話に衝撃を受けました。すべては“個人の問題”だと教えられて育った私にとって、女性が自分の声で語り、暴力の体験まで共有する―それは想像を超える出来事でした。『女性同士で分かち合っていいのだ』と気づかされた瞬間でした。」

オスマン氏にとって北京会議は、「共通の目標と希望を共有することで、何が達成できるのか」を示す象徴だった。その場の独特のエネルギーが、後のアフリカの女性団体SIHA(アフリカの角における女性の戦略的イニシアティブ)やエル・カラマなどでの彼女の活動を推進する原動力となった。

General view of the opening session of the Fourth World Conference on Women in Beijing. Credit: UN Photo/Milton Grant
General view of the opening session of the Fourth World Conference on Women in Beijing. Credit: UN Photo/Milton Grant

また、北京会議は政府や政策決定者に対し、「行動綱領を実施しなければ問われる」という責任意識を世界的に植えつけた点でも画期的だった。

「それまでそんな仕組みは存在しませんでした。政府や政策担当者に説明責任を求められるようになったのです。そして、草の根とのつながりも重視されました。個々の女性が“リーダー”として主張する時代から、地域社会に責任を持つリーダー像へと変わったのです。これは本当に素晴らしいことでした。」

Delegates working late into the night to draft the Beijing Declaration and Platform for Action. Credit: UNDP/Milton Grant

オスマン氏は続ける。「北京会議の遺産とは、私たちが殻を破り、世界中の女性たちと手を取り合うようになったことです。このビジョンと枠組みは、いまもなお生き続けています。」

国連という「運動のプラットフォーム」

ナウロジー氏は、女性会議の成功が「国連という場がいかにジェンダー平等運動の成長を支えてきたか」を示していると語る。国連はまた、新興国が自らの課題を国際社会に訴え、グローバル・アジェンダを自国の視点で形づくるための重要な舞台でもあった。

北京以前にも女性会議は開催されている。メキシコシティ(1975年)、コペンハーゲン(1980年)、ナイロビ(1985年)で開かれたこれらの会議は、世界各地の活動家たちが出会い、アイデアと経験を交流させる場となり、北京へとつながる基盤を築いた。

ナウロジー氏は18歳のとき、学校代表としてナイロビ会議に参加した経験を振り返る。
「世界中の女性たちが私の故郷に集まり、『私たちは価値ある存在なのだ』と語り合う――それは私の人生を変える体験でした。あの時出会った仲間とは今でも交流が続いています。個人的にも支えになり、フェミニズム運動の重要な土台となっています。」

前進と後退のはざまで

ナウロジー氏とオスマン氏は、これらの会議が生み出した勢いが、地域・国家・国際レベルでの前進を後押ししたと強調する。活動家たちは地元の文脈に合わせてメッセージを洗練させ、運動を広げていった。

その結果、女性の権利は多くの国で法的に明文化され、政治や平和交渉への参加も拡大した。教育・保健・雇用などで女性への投資が社会全体の経済成長と安定をもたらすことも実証されている。女性の労働参加が増えれば経済は強化され、社会保障が拡充すれば地域コミュニティはより安定する。

Delegates at the Fourth UN World Conference on Women in Beijing 1995. Credit: UNDPI /UN Women

しかし、その進展に対する「反動」も顕著になっている。近年、女性の権利を否定・制限しようとする「反権利」「反ジェンダー」運動が勢いを増しており、UN Women は「4か国に1か国が女性の権利へのバックラッシュを報告している」と警告する。

ナウロジー氏はこう指摘する。
「独裁的指導者たちが女性の権利を標的にするのは、それが彼らの支配構造を脅かすからです。女性の声や意思決定を封じることは、民主主義や開発、平和、そして私たちの大切にしてきた価値のすべてを弱体化させる最も効果的な手段なのです。」
オスマン氏も「女性を抑え込めば社会全体が崩壊します。女性は社会の核だからです」と付け加える。

SDGs Goal No. 5
SDGs Goal No. 5

反権利勢力は資金力も組織力も持ち、しかも皮肉なことに、フェミニスト運動が何十年もかけて築いた草の根から国レベルへと波及させる戦術をそのまま応用している。だが、活動家たちは絶望する必要はないと二人は語る。女性運動はすでに、勢いを取り戻すために何をすべきかを知っている。

「いま、私やシア、そして多くの仲間たちは、市民社会の活動空間が縮小している現実を痛感しています。民主主義、人権、正義、リプロダクティブ・ライツ―あらゆる分野で後退が見られます。それでも私たちは止まりません。もっと賢く、もっと多様な連携を築く方法を考えます。困難ではありますが、決して歩みを緩めることはありません。」(オスマン氏)

過去から学び、未来を築く

いまジェンダー平等の実現は、社会の分断と不信をあおる権威主義的潮流に脅かされ続けている。だが、北京行動綱領以前を知る世代の活動家たちは、何が危機にさらされているのかを誰よりも理解している。

現代の女性運動を担う若い世代に必要なのは、過去の闘いを振り返り、そこから教訓と勇気を得ることだ。(原文へ

INPS Japan/IPS UN BUREAU Report

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