ホーム ブログ ページ 2

世界大戦はすでに始まっているのか

【ウクライナ・キーウIPS=ニコライ・カピトネンコ】

近年、世界で深まる緊張と暴力、不確実性を直視せずにいることは、ますます難しくなっている。戦争の数は増え、軍事支出も拡大し、大国の発言は一段と強硬さを増している。中東における最近の緊張激化は、第3次世界大戦の始まりをめぐる議論を再び呼び起こした。イスラエルと米国によるイラン攻撃の影響は、少なくとも原油価格を注視する人々にとって、この地域をはるかに超えて波及している。

多くの大国の利害が交錯するなか、第三国も次の一手を見極めようとしながら、相次いで立場を表明している。核兵器がある以上、第3次世界大戦は起こり得ないという見方から、すでに始まっているという認識まで、意見は大きく割れている。では、実際に何が起きているのか。

ジャーナリズムと学術のあいだにある概念

歴史家が「世界大戦」と語るとき、それは過去の二つの特異な戦争を指す。規模の大きさ、多数の国家を巻き込んだ点、戦闘の激烈さ、そしてその後に及ぼした影響の性質が、これらを他のあらゆる戦争とは一線を画すものにしている。

こうした戦争が他とどう異なるのかを理解するには、20世紀の各武力紛争における人的被害、防衛支出、あるいは破壊の規模を示す図表に目を通せば十分である。

By Yousuf Karsh – Flickr: Sir Winston Churchill, Public Domain

もっとも、歴史家の見方は一様ではない。政治家としての方が知られるウィンストン・チャーチルはかつて、七年戦争を世界大戦と表現した。この18世紀の長期戦は、当時の主要列強の大半を直接戦闘に巻き込み、戦場はヨーロッパ、北米、大西洋、インド洋にまたがり、深刻な地政学的帰結をもたらした。これを世界大戦と呼んでも不思議ではない、という発想である。

これに対し、より保守的な歴史家であれば、こう反論するかもしれない。それは工業化国家同士による総力戦ではなく、戦闘の規模も、動員された軍隊の数も比較的限られていた。結果は重大だったとしても、体制そのものを組み替えるような性質のものではなかった、と。

過去数年、世界の武力紛争の数は増加を続けており、2024年は第2次世界大戦後で最も多い年となった。

「世界大戦」という言葉は、ジャーナリズム上の概念であると同時に、学術的概念でもある。効果を高め、注目を集め、あるいは比喩的な類推を行うために、第1次・第2次世界大戦以外の出来事にも用いられることがある。たとえば17世紀の三十年戦争、19世紀のナポレオン戦争、さらには冷戦さえも、世界大戦と呼ばれる場合がある。

その論理に従えば、今日ですら世界大戦の一部の要素を見ることはできる。ここ数年、武力紛争の件数は増え続けており、2024年は第2次世界大戦後で最悪の年となった。ある推計によれば、この年には36カ国で61件の武力紛争が記録され、過去30年の平均を大きく上回った。

An RQ-4 Global Hawk unmanned aircraft like the one shown is currently flying non-military mapping missions over South, Central America and the Caribbean at the request of partner nations in the region./ By U.S. Air Force photo by Bobbi Zapka, Public Domain
An RQ-4 Global Hawk unmanned aircraft like the one shown is currently flying non-military mapping missions over South, Central America and the Caribbean at the request of partner nations in the region./ By U.S. Air Force photo by Bobbi Zapka, Public Domain

世界の軍事支出も増加している。現在、その規模は世界経済の2.5%に達し、2011年以降で最高水準となり、2021年以降は上昇傾向が続いている。もっとも、これは依然として冷戦期の水準、すなわち通常3~6%だった時代に比べればかなり低い。こうした数字を見れば、近年、世界の安全保障環境が悪化していることは明らかである。だが、それはどれほど深刻なのか。

より学術的な立場からいえば、世界大戦とは、主要大国の大半が関与し、地球規模の広がりと総力戦としての性格を持ち、莫大な損失と破壊を生み、その終結によって世界そのものを大きく変えてしまう戦争である。そこでは、大国同士の直接的かつ大規模な武力衝突が不可欠の条件となる。

そして、これこそが「第3次世界大戦はすでに始まっている」という見方に対する最大の反論である。現代世界の不安定化がどれほど進もうと、大規模な地域紛争がどれほど激化しようと、国家がどれほど軍備に資金を投じようと、それだけでは世界大戦とはならない。必要なのは、大国が関与する大規模な軍事作戦である。

それは杞憂にすぎないのか
London Post.
London Post.

そうした事態は、長く起きていない。第2次世界大戦後から今日までの期間は、第1次世界大戦と第2次世界大戦の間隔をはるかに上回っている。その背景で中心的な役割を果たしてきたのが核兵器である。核兵器は戦争の代償をあまりにも高く引き上げたため、大国はあらゆる手段でそれを回避するようになった。この抑止の仕組みは80年以上にわたり機能しており、今後もしばらく続くとみられる。

平和、より正確に言えば、大国間戦争の不在は、現在の国際秩序を支える中心的要素の一つであり続けている。国際機関や制度が崩壊したり弱体化したり、地域戦争が勃発したりすることはあっても、大国間戦争の可能性は依然としてきわめて低い。

第3次世界大戦説の支持者たちはしばしば、大国間の全面戦争がなくとも、別の形の対立はすでに進行していると指摘する。たとえばハイブリッド戦争、サイバー攻撃、代理戦争などである。たしかにそれは事実である。だが、こうした衝突はいずれも、破壊力という点では世界大戦より何段階も下にあり、総力戦としての性格も持たない。

歴史を通じて国家は、代理勢力を使って戦ったり、情報戦や通商戦、宗教戦争を繰り広げたりしてきた。だが、そうした戦争を、象徴的な意味を別にすれば、私たちは世界大戦とは呼ばない。

体制転換をもたらす戦争は、必ずしも世界大戦ではない

2003年のイラク戦争と異なり、今回のイラン攻撃が行われているのは、米国の覇権の下ではなく、少なくとも二つの力の中心が複雑に競い合う世界である。このことが新たな含意を生み、他国にも直接・間接に対応を迫っている。たとえば武器や情報の提供、どちらか一方への支持表明などである。

しかし、それによってこの戦争が世界規模のものになるわけではない。武器供与は地域紛争の大半で見られる常態的な慣行であり、同盟国やパートナーによる外交的・財政的支援も珍しくない。たとえ米軍が、ウクライナ製ドローンに見られるように、パートナーの技術や専門知識を利用したとしても、それはウクライナがこの戦争に引き込まれていることを意味しない。ロシア・ウクライナ戦争における米国の対ウクライナ武器供与が、米国自身の参戦を意味しなかったのと同じである。

世界大戦と呼ぶには、なお一つ決定的な要素が欠けている。すなわち、大国間の直接対決である。だが、世界大戦以外にも「システム戦争」と呼びうるものがある。そこでは重要なのは規模そのものよりも、その戦争がもたらす国際秩序の変容である。

先に挙げた三十年戦争、ナポレオン戦争、第1次・第2次世界大戦はいずれもシステム戦争だった。これらの戦争の後には、国際政治のルールが書き換えられ、講和会議や国際会議を通じて新たな秩序が打ち立てられた。システム戦争は、必ずしも世界大戦である必要はない。

覇権の危機、そして覇権をめぐる争いの始まりは、常に新たな戦争、軍拡競争、緊張激化の危険を伴う。

現在の不安定化と多様なリスクの増大は、主として将来の国際秩序をめぐる争いと結びついている。米国と中国は、ほとんど「トゥキュディデスの罠」に近づいている。これは、紀元前5世紀のペロポネソス戦争を引き起こしたのと似た戦略的論理である。当時、覇権国と挑戦国との力の差が縮まったことが、スパルタを予防戦争へと踏み切らせた。

London Post
London Post

今日では、米国覇権の衰退、中国の台頭、そして二極世界への接近が、超大国間の直接的な武力衝突の可能性を大きく高めるのではないかという、十分に根拠のある懸念が存在する。

控えめに言っても断固たる米政権の行動は、ワシントンがなお優位を保っているうちに、中国の地位を戦略的に弱めようとする予防的措置とみることもできる。こうした覇権危機の時期と覇権争いの始まりは、常に新たな戦争、軍拡競争、緊張激化の危険をはらんでいる。

私たちは、まさにそのような危機のただ中にいる。それは、世界各地の地域紛争が単に増えているというだけではなく、地球規模で影響力と権力が再配分されていることの表れであるという意味で、システム的危機である。この再配分は国際秩序の変化を伴わざるを得ない。なぜなら、ゲームのルールは力の均衡と結びついているからである。

もしある時点で、主要国の指導者たちが、戦争のリスクを取り、その代償を払うに値すると判断すれば、このシステム的危機は世界大戦へと転じるだろう。だが、スパルタ人自身の言葉を借りれば、それはあくまで「もし。」の話である。

ニコライ・カピトネンコ氏は、キーウ国立タラス・シェフチェンコ大学国際関係研究所の准教授であり、国際関係研究センター所長。

INPS Japan / IPS UN Bureau Report

関連記事:

ロシアによるベラルーシ核配備が第三次世界大戦の警告を引き起こす

|ウクライナ|ロシアの攻撃と致命的な寒波で「生き延びるだけの生活」 家族を追い詰める

|視点|「平和の回復へ歴史創造力の結集を」―ウクライナ危機と核問題に関する緊急提言(池田大作創価学会インタナショナル会長)

共生社会を育てる「Hand in Hand」―イスラエルで広がるユダヤ系・アラブ系統合教育

【エルサレムINPS Japan=ロマン・ヤヌシェフスキー】

ユダヤ系市民とアラブ系市民の分断が深まるイスラエルで、教育を通じて共生社会の土台を築こうとする試みが続いている。ヘブライ語で「Yad be-Yad」、アラビア語で「Yadn be-Yadn」と呼ばれる教育ネットワーク「Hand in Hand」は、ユダヤ系とアラブ系の子どもたちが対等な立場で共に学ぶ、バイリンガルかつ統合型の教育を実践している。|英語版ロシア語

Roman Yanushevsky
Roman Yanushevsky

Hand in Hand(イスラエル・ユダヤ・アラブ教育センター)は、ユダヤ系市民とアラブ系市民が共に生きる社会の実現を目指して設立された、イスラエルでも特異な教育ネットワークである。

同組織は1997年から1998年にかけて、イスラエル系アラブ人教師アミン・ハラフ氏と、イスラエル系米国人教師リー・ゴードン氏の2人の教育者によって創設された。当初はエルサレムとガリラヤの2校で、約50人の子どもたちが学ぶ小規模な出発だった。

現在では、同ネットワークはイスラエル国内6地域―エルサレム、ガリラヤ、ワディ・アラ、テルアビブ・ヤッファ、ハイファ、クファル・サバ―で教育活動を展開している。6つの小学校、5つの就学前施設、2つの中学校、1つの高校を擁し、3歳から18歳までの2000人超の子どもたちが学んでいる。

各校は単なる教育機関にとどまらない。対話を促し、共に生きる市民社会の基盤を育む地域の拠点としても機能している。

創設者たちは、「Hand in Hand は、ユダヤ系市民とアラブ系市民のあいだで拡大する社会的疎遠と信頼の欠如という、イスラエルが抱える最も深刻な存立上の脅威の一つに立ち向かうために設立された。状況を変える鍵は教育にあると私たちは信じている。」と述べている。

HiH Elementary School in Tel Aviv-Jaffa.The Hand in Hand education system is unique: Jewish and Arabic children study together in one class. Photo credit: Roman Yanushevsky.

両氏は、ユダヤ系とアラブ系の子どもたちが対等な条件のもとで共に学ぶ学校をつくることで、分断が固定化されたイスラエルの教育制度に一石を投じようとした。深い社会的亀裂と紛争の継続という現実のなかで、相互理解、平等、共生を育む場を教育の中に築こうとしたのである。

Hand in Hand は、創設以来、教育こそが社会変革の最も有力な手段の一つであるとの信念を掲げてきた。最初の学校はエルサレムに設けられ、両共同体の生徒、教師、家族が集う場となった。2023年には、英国の慈善家マックス・レインの名を冠する同校が、逆境を乗り越えた教育機関として表彰され、英国拠点の教育団体 T4 Education から「世界で最も優れた学校の一つ」と評価された。

バイリンガル教育と複眼的な学び

SDGs Goal No. 4
SDGs Goal No. 4

Hand in Hand の最大の特徴は、バイリンガルかつバイカルチュラルな教育方針にある。授業はヘブライ語とアラビア語の両方で行われ、両言語は等しく重視される。教室では、ユダヤ系とアラブ系の2人の教師が共同で指導にあたり、協働と平等の実践を子どもたちに示している。

こうした教育環境のもとで、生徒たちは日常的に両方の言語を聞き、話し、それぞれの文化に触れながら成長する。

カリキュラムもまた、ユダヤ系とアラブ系双方の歴史認識、物語、アイデンティティーを反映するよう設計されている。学校は難しい問題を避けるのではなく、歴史、帰属意識、紛争について率直に語り合うことを重視している。生徒たちは複数の視点に触れ、複雑な現実に敬意を持って向き合うための批判的思考力を養っていく。

平等もまた、この教育ネットワークの中核原則である。Hand in Hand は、ユダヤ系とアラブ系の双方が、学校環境のなかで代表性、発言権、影響力のすべてにおいて対等でなければならないと強調する。この考え方は教室にとどまらず、学校運営、保護者参加、地域活動にも及んでいる。どちらか一方が他方を従属させることのないよう、真のパートナーシップを制度として支えようとしている。

家庭と地域にも広がる共生の試み

HiH Middle School “Koolnah Yachad” (which means “all together” in Arabic) in Tel Aviv-Jaffa. Hand in Hand’s philosophy is the concept of shared society. Photo credit: Roman Yanushevsky.

同組織の理念を支えるもう一つの柱が、「共有社会」の構想である。学校は子どもたちを教育するだけでなく、家庭や地域社会のあいだに関係を築くことで、より広い社会に変化を促すことを目指している。

保護者たちは、共同活動や対話の場、地域づくりの取り組みに参加するよう促されており、その結果、生徒同士にとどまらない協力の輪が形成されている。

テルアビブ・ヤッファ校は、その象徴的な事例である。多様性を抱える一方で分断も根深い都市部に位置するこの学校は、社会経済的背景も文化的背景も異なるユダヤ系とアラブ系の家庭を結びつけている。学校は教育機関であると同時に地域センターでもあり、行事やワークショップ、対話プログラムを通じて社会的結束の強化を図っている。

Hand in Hand はまた、民主主義の価値と市民参加の重要性も重視している。生徒たちは、社会正義、人権、平等といったテーマについて議論するよう促される。さまざまな活動を通じて、主体的な市民として社会に関わる意義と、より包摂的な社会づくりに自らが果たしうる役割を学んでいく。

成果の一方で続く困難

Map of Israel and Palestine
Map of Israel and Palestine

もっとも、この取り組みは順風満帆ではない。政治的緊張、社会的反発、ときには学校や共同体に向けられた敵意ある行為にも直面してきた。それでも Hand in Hand は、理念を共有する教育者、保護者、支援者たちに支えられながら、着実に歩みを進めてきた。

同組織は長年にわたり、統合教育の先駆的モデルとして、イスラエル国内外で評価を高めている。卒業生たちは、分離された学校制度のなかで育った同世代と比べ、より高い寛容性、共感力、異文化理解を示す傾向があるとされる。多くの卒業生が、その後も共生を促進する取り組みに関わり続けている。

さらに Hand in Hand は、学校教育に加えて、ユダヤ系とアラブ系の成人同士の対話を促進する地域向けプログラムも展開している。そこには、リーダーシップ育成、文化行事、共同の市民プロジェクトなどが含まれる。学校の取り組みを社会全体へと広げ、長期的な変化につなげようという試みである。

イスラエル社会に横たわる深い分断を前に、教育だけで現実を変えることは容易ではない。それでも Hand in Hand の実践は、言語や歴史、記憶の違いを抱える人びとが、幼い時期から同じ空間で学び、対話し、共に生きる可能性を模索している点で、重要な意味を持っている。

ロマン・ヤヌシェフスキーは、イスラエルを拠点に活動するジャーナリスト、編集者である。中東情勢を専門とし、イスラエルの政治・安全保障、核政策、地域外交、共生社会の課題などについて取材・執筆を続けている。INPS Japan でも継続的に寄稿し、国際的な視点から地域の複雑な現実を伝えている。

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

SDG

INPS Japan

関連記事:

イスラエルはいかに世界市民に貢献しているか

│イスラエル│学校の壁のあたらしい標語

架け橋を築く:アブラハム合意が形づくる中東外交

「雨が降ると、心臓の鼓動が速くなる」

最近の報告書によれば、アジアでは毎年およそ100件の自然災害が発生し、8000万人が影響を受けている。統計の背後には、暮らしの寸断、損壊した家屋、そして地域社会の力を奪う復旧の繰り返しがある。

【スリナガル/ニューデリー発 IPS=ウマル・マンゾール・シャー】

カシミールの州都スリナガルで雨が降り始めるとき、グラーム・ナビ・バットは、もはや雲を安堵の気持ちで見上げない。代わりに、見積もるように空を見つめる。側溝はどこまで耐えられるのか。川の水位はどれほどの速さで上がるのか。家のどの隅から雨漏りが始まるのか。床が湿ってきたら、子どもたちはどこで寝かせればいいのか。

「以前は雨が降ると、ほっとした。」と、バットは語る。水路沿いの低地に暮らす住民だ。「いまは、警告のように感じる。」

多くの日に、雨は洪水にならなくても生活を変える。数時間で道路は冠水し、店は早じまいし、スクールバスは引き返す。やがて親族同士で電話をかけ合い、同じ問いが繰り返される。「そっちは大丈夫か?」

インド、そして「新興アジア」(中国、インド、インドネシア、マレーシア、フィリピン、タイ、ベトナムなど、急速に発展する国々)に暮らす何百万人もの人々にとって、これが「新しい日常」になった。災害はもはや、世代に一度の稀な破局として訪れるのではない。繰り返し襲い、そのたびに修繕費や失われた賃金を生み、「回復が恒常的な営みになった」という感覚を残していく。

Map of India
Map of India

OECD開発センターの最近の分析によれば、新興アジアはこの10年間、年平均で約100件の災害に直面し、毎年およそ8000万人が影響を受けてきた。増加の主因は洪水、暴風雨、干ばつだ。同報告は、自然災害が1990年から2024年にかけて、インドに毎年平均でGDPの0・4%に相当する損失をもたらしたと推計している。

しかし、国の数字の背後には、より静かで切実な現実がある。繰り返される気候や天候の衝撃が、統計ではなく家計に吸収されていく過程だ。娘の教育のために積み立てた貯蓄。掛けで仕入れた商品の在庫。前の収穫から残しておいた農家の種銭。そうしたものが少しずつ削られていく。

洪水常襲地帯として知られる北インド・ビハール州で、3人の子どもを育てるスニタ・デヴィは、床に大切なものを置くのをやめたという。衣類は高い棚へ。穀物の入れ物は安全な隅へ。家族の書類はビニールに包んで保管する。

「水が来たら、子どもを連れて走るだけ」と彼女は言う。「あとは運に任せるしかない。壁は建て直せても、失った日々は戻らない」

Local residents in Kashmir’s capital, Srinagar, stack sandbags to safeguard their homes from floods in 2025. Credit: Umar Manzoor Shah/IPS

彼女の村は何十年も洪水と共に生きてきた。だが変わったのは、発生頻度と不確実性、そして負担の大きさだという。見出しになる大河川の洪水だけではない。突然の冠水、損傷した道路、決壊した堤防、水が引いた後に広がる感染症―そうした小さな衝撃の積み重ねが、暮らしを揺さぶる。

「以前は予測できた。いまはできない。水が急に来るときもあれば、長引くときもある。一度引いたと思ったら、また来ることもある」とデヴィはIPSに語った。

国連大学の「水・環境・保健研究所(UNU-INWEH)」所長、カヴェ・マダニ教授はIPSに対し、アジアの「水の破綻(water bankruptcy)」は部門別の課題ではなく、国家安全保障の問題として扱うべきだと述べた。

「優先順位は、危機対応から“破綻管理”へ移りつつある。実態に即した把握、実効性のある上限設定、自然資本の保護、そして農家や脆弱なコミュニティを守る公正な移行が必要だ。」とマダニは言う。

OECD開発センターの報告は、新興アジアで2000年代初頭以降、洪水が最も顕著な増加傾向の一つになっていると指摘する。要因は地域によって異なるが、結果はどこも似通う。暮らしの混乱、損壊した家屋、そして地域社会を疲弊させる復旧の繰り返しである。

スリナガルで小さな店を営むバシール・アフマドは、入口近くに古い木製の棚を置いている。陳列用ではない。緊急時のためだ。雨脚が強まると、箱詰めの商品を床から素早く移す。

「店は小さい。利幅はもっと小さい。たった1日水が入るだけで、多くが台無しになる。客は来ない。配送も止まる。成り行きを見るしかない。」とアフマドは言う。

彼にとって最大の損失は、傷んだ商品だけではない。働けない日々そのものだ。日々や週ごとに家計をやりくりする家庭では、短い休業が長い危機に変わる。家賃は止まらない。学費も止まらない。ローンも止まらない。

OECDの分析は、コミュニティがすでに知っている厳しい現実を裏づける。災害の経済的な余波は、テレビカメラが去った後も続く。毎年のように損失が繰り返されれば、成長は削られ、家計の選択も変わる。家族はより頑丈な家づくりを先延ばしにし、小商いへの投資を避け、前に進むより立て直しに時間を奪われる。

「災害は、例外的な出来事ではなくなった。繰り返し襲う経済ショックになっている。問題は目先の被害だけではない。“反復”だ。反復は家計の回復力を削っていく」と、デリーを拠点とする気候リスク研究者リトゥ・シャルマ博士は言う。

シャルマは、インドの災害損失を見出しに出る割合だけで捉えるべきではないと強調する。日常生活に蓄積する圧力として見るべきだという。

「洪水は橋を壊すだけではない。受診を遅らせ、予防接種を中断させ、食料や医薬品の供給網を断ち、脆弱な家庭を債務の罠に追い込みかねない。気候の出来事が、社会の出来事になり、健康の出来事になり、教育の出来事になる。」

報告の地域比較では、負担は一様ではない。サイクロンや洪水にさらされる国ほど、GDPに対する平均年間損失が大きい傾向がある。インドは国の規模が大きいため、統計上は衝撃を吸収できるように見える。だがその規模は同時に、より多くの人々がリスクにさらされ続けることも意味する。地すべりの危険があるヒマラヤの斜面、サイクロンに備える沿岸部、洪水と熱波に悩む平野部―リスクは地理にも生業にも広く分散している。

気候影響を研究する経済学者ナサル・アリ教授は、実際の被害は非公式(インフォーマル)経済の領域に埋もれがちだと指摘する。

「フォーマル部門の企業は保険請求ができ、有利な条件で借り入れ、早く立ち直れる。だが野菜の露天商にはそれができない。小さな食料品店にもできない。日雇いの稼ぎ手が1人しかいない家庭にはなおさらだ。損失は即座に個々の家庭にのしかかり、回復にも最も時間がかかる。」とアリは語った。

彼は、災害の影響は不平等も深めると考える。貧しい世帯ほど、取り戻せないものを失うからである。

「裕福な家庭にとって屋根の損傷は改修の問題だ。だが貧しい家庭にとっては、湿った部屋で何週間も眠ることになり、感染症や欠勤、子どもの一時的な中退につながりかねない。」

報告は、アジア各地で切迫している政策課題にも目を向ける。災害に備える財源をどう確保し、開発資金を毎回、災害対応に振り向けざるを得ない状況をどう避けるのか、である。

分析が強調するのは「災害リスク・ファイナンス」だ。事後の救援に頼るのではなく、政府が事前に資金を準備しておく仕組みである。専用の災害基金や保険メカニズム、災害後に迅速に発動できる緊急融資などが含まれる。

コミュニティにとって、この議論は遠い話に聞こえるかもしれない。だが、その結果は回復の速さや支援のあり方に表れる。

「災害が起きたら、支援は早く届くべきだ。」と語るのは、ジャンムーのRSプラ地区で小さな食料品店を営み、豪雨時の冠水を繰り返し経験してきたミーナ・デヴィである。「店を閉めれば牛乳は傷む。客も買い物ができない。それから再開のために借金をする。支援が遅ければ、私たちはさらに苦しくなる。」

彼女の最大の恐怖は、単発の災害ではない。「次がいつも近い」と感じ続けることだという。「一度なら耐えられる。でも何度も何度も起きると、心の奥から疲れていく。」

シャルマにとって、備えは防災訓練以上のものだ。そもそもリスクへのさらされやすさを減らす計画が必要だという。

「避けられないリスクもあるが、多くは“どこに、どう建てるか”で増幅される。排水能力のないまま都市が拡大し、建設が氾濫原に広がれば、災害は予測可能になる。それは自然だけの問題ではない。政策の問題だ。」

スリナガルのバットは、住民が毎年同じ闘いを繰り返していると感じると言う。排水溝を掃除し、土のうを積み、家財を高い場所へ移し、親族に電話し、川の水位更新を見守る。一つ一つは小さな作業でも、終わりがないため消耗していく。

彼は壁に残る水位の跡を指さした。「いつも思うんだ。今年こそは少しは良くなるかもしれないって。でも雨が降ってくると、心臓の鼓動が速くなる。」

何があれば安全だと感じるか、と尋ねると、彼は大きな約束を語らなかった。語ったのは、ごく基本的なことだった。機能する排水路。崩れない道路。早い警報。間に合う支援。

ビハールのスニタ・デヴィにとって、望みはさらに単純だ。恐れずに計画できる季節である。「普通の人みたいに暮らしたい。水が壊したものを直すためにお金を使うんじゃなく、貯めたい。」(原文へ

INPS Japan/IPS UN Bureau Report

関連記事:

ここに太陽が:洪水で水力発電所が破壊され、太陽光発電に注目が集まる

宗教が防災と出会うとき

雨漏りする屋根: 「アジアの世紀」脅かすヒマラヤ融解

ホルムズ海峡―世界経済のボトルネック

【メルボルンLondon Post=マジット・カーン】

最も狭い地点でも、ホルムズ海峡の幅は英仏海峡をわずかに上回るにすぎない。北にはイランの岩がちな海岸線、南にはオマーンの乾いた海岸が延びる。有史以来の大半の時代、この海峡は単なる通過点にすぎなかった。船舶が別の目的地へ向かう途中で通り過ぎる場所だったのである。だが今日、ここは地球上で最も重要な水路となり、その封鎖は、アナリストらがすでに「1970年代の石油危機以来最大の世界的エネルギー供給混乱」と呼ぶ事態を引き起こしている。

ホルムズ海峡の封鎖は、1970年代以来で最大の原油供給ショックを招き、WTI原油価格は1バレル=100ドルを突破、ブレント原油も112ドルに達した。2026年2月下旬に米国がイランに対する軍事作戦を開始して以降、その影響は驚くべき速さで広がり、湾岸からマニラのガソリンスタンドへ、カタールのLNGターミナルからブリュッセルの企業経営陣にまで及んでいる。

海峡には一方通行の2つの航路が設けられており、1日あたり約2000万バレルの石油が通過する。これは、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、イラク、カタールなどから輸送される、世界の海上石油取引量のおよそ20%に当たる。世界の1日の石油供給の5分の1が、超大型タンカー2列がようやく通れるほどの狭い水路を流れている。この事実は、長年にわたり戦略家たちを不安にさせてきた。かつては理論上の脆弱性にとどまっていたものが、いまや現実の危機となっている。

今回の危機は、何の前触れもなく訪れたわけではない。ワシントン、テルアビブ、テヘランの緊張は長年にわたって高まり続け、2025年6月には12日間に及ぶ空爆の応酬も起きた。ジュネーブでの新たな核交渉が決裂すると、全面戦争への流れを食い止めることは難しくなった。

2026年2月28日、米国はイランを攻撃した。テヘランの対応は即座に示された。3月2日、イスラム革命防衛隊(IRGC)の司令官は国営メディアを通じてホルムズ海峡の封鎖を表明し、通航を試みるあらゆる船舶を攻撃すると警告した。

この宣言は、海運各社の一斉撤退を招いた。マースク、CMA CGM、ハパックロイドなどの大手コンテナ海運会社は、ホルムズ海峡および関連航路の通航停止を決めた。同時に、フーシ派が支配するイエメンは、イスラエルおよび紅海を航行する商船への攻撃再開を表明し、スエズ運河を通る船舶はアフリカ南端の喜望峰経由への迂回を余儀なくされた。その結果、輸送日数は数週間延び、海運コストも上昇している。

3月中旬以降、イランは商船に対して少なくとも21件の攻撃を行ったことが確認されており、タンカーの通航量は当初約70%減少し、最終的にはほぼゼロに近づいた。150隻を超える船舶が湾内の沖合で停泊したまま、乗組員は待機を続け、積み荷は行き場を失っている。3月27日には、IRGCがさらに事態をエスカレートさせ、米国、イスラエル、およびその同盟国の港に「向かう、またはそこから出る」すべての船舶に対し、海峡を閉鎖すると発表した。

その後の価格上昇の速さは驚異的だった。ブレント原油価格は2026年3月8日、4年ぶりに1バレル=100ドルを突破し、ピーク時には126ドルまで上昇した。その上昇ペースは、近年のどの紛争時をも上回った。米政府当局者やウォール街のアナリストたちは、原油価格が前例のない1バレル=200ドルに達する可能性まで検討し始めている。ゴールドマン・サックスは4月のWTI価格を105ドルと予測しており、オプション市場でも、数カ月前なら現実味がないと見られていたシナリオが織り込まれつつある。

しかし、この危機は単なる石油危機ではない。現代世界がこれまで経験したことのない規模の、より広範な商品市場の混乱である。ホルムズ海峡は事実上閉鎖されたままであり、石油やガスだけでなく、アルミニウム、肥料、硫黄、ナフサなどの世界供給にも影響を及ぼしている。

湾岸地域は世界の尿素のほぼ半分、アンモニアの30%を生産しており、世界の肥料輸送の約3分の1がホルムズ海峡を通過している。尿素価格は戦争開始以降50%上昇した。LNG供給の混乱は肥料生産にも打撃を与え、北半球の春の作付け期を脅かすとともに、2026年後半にかけて世界の食料価格を押し上げる可能性がある。

経済モデルが示す影響も深刻だ。2026年第2四半期にホルムズ海峡の閉鎖によって世界の石油供給の約20%が市場から失われた場合、WTI原油の平均価格は1バレル=98ドルまで上昇し、世界の実質GDP成長率は、その四半期だけで年率換算2.9ポイント押し下げられると見込まれている。封鎖が第3四半期まで続けば、影響はさらに深刻化する。

この危機の影響が最も深刻に表れているのはアジアである。2024年には、ホルムズ海峡を通過した原油・コンデンセート輸送量の推計84%がアジア市場向けだった。中国も、自国の石油の3分の1をこの海峡経由で受け取っていた。その依存の代償が、いまアジア全域で現実のものとなっている。

影響は世界中に及んでいるが、とりわけ中東産石油への依存度が極めて高いアジアでは、この戦争が深刻なエネルギー不安を招いている。各国政府は対応に追われているものの、短期的な打開策をほとんど持ち合わせていない。バングラデシュでは、新たに発足した政権が大学を閉鎖し、石油備蓄施設の管理を軍に委ねた。インドでは、燃料価格をめぐる全国的な抗議行動が再燃し始めている。

フィリピンでは、ディーゼル価格がほぼ倍増した。紛争前は1リットルあたり52~53フィリピン・ペソ程度だったが、一部地域ではほぼ100ペソにまで跳ね上がり、物流網と公共交通部門に深刻な打撃を与えている。

台湾は、とりわけ深刻な脆弱性に直面している。世界的な半導体生産拠点である台湾は、ガス供給があと11日分しかないと報告した。世界のテクノロジー供給網を支える半導体工場を抱えるこの島にとって、これは単なるエネルギー危機ではない。現代世界のデジタル基盤そのものを揺るがす脅威である。

LNGへの影響はとりわけ深刻だ。石油には限られてはいるがパイプラインによる代替ルートがある一方、カタールのLNG輸出の約93%、UAEのLNG輸出の96%はホルムズ海峡を通過しており、これは世界のLNG取引量の19%を占める。世界のLNG供給は1日あたり3億立方メートル以上減少する見通しで、これは2021年にノルド・ストリームを通じて輸送された平均ガス量の2倍に相当する。

サウジアラビアとUAEはいずれもホルムズ海峡を迂回するパイプライン網を保有しているが、両国を合わせた迂回能力は日量350万~550万バレルにとどまる。一定の代替にはなるものの、ホルムズ海峡全体の輸送量を埋め合わせるには到底足りない。サウジ当局は原油輸出の一部を紅海沿岸のヤンブー港経由に切り替え、OPECプラスも追加増産を約束したが、規模からみて十分な解決策とは言えない。

イランは独自の代替航路も設けた。ララク島南側の主航路ではなく、同島北側に新たな輸送ルートを設定したのである。ある船舶はこのイラン航路の通航に200万ドルを支払ったと報じられ、その料金は中国元で革命防衛隊に支払われたという。これは異例の展開である。かつて世界が国際公共財の一部とみなしていた水路に、事実上、通行料を強制徴収する新ルートが出現したことになる。

各国は戦略石油備蓄の放出に踏み切り、サウジアラビアとUAEは海峡を迂回するパイプライン経由での原油輸送拡大を急いでいる。米国を含む各国政府も、価格抑制のため、過去最大規模の備蓄原油放出を打ち出した。だが、備蓄は本質的に有限である。石油業界幹部やアナリストたちは、4月中旬までにホルムズ海峡が再開されなければ、供給混乱はさらに深刻化すると警告している。

London Post.

湾内に足止めされている一隻一隻のタンカーの背後には、極めて複雑な地政学的計算がある。イランは衝動的にホルムズ海峡を封鎖したのではない。イラン指導部が長年、自らの「切り札」と位置づけてきた手段――すなわち、ワシントンやテルアビブに1発のミサイルも撃ち込むことなく、世界のエネルギー市場を麻痺させる能力――を行使しているのである。

ホルムズ海峡の封鎖が過去の石油供給混乱と異なるのは、その影響範囲の広さにある。湾岸地域からの石油輸出が完全に止まれば、世界の石油供給のおよそ20%が市場から消えることになり、その約80%はアジア向けである。

一方、ロシアは思いがけず有利な立場に立っている。この紛争は、原油市場におけるロシアの競争力を実質的に高めている。中東産原油が物流面で混乱に直面するなか、インドと中国はいずれも、ロシア産原油への依存を深める強い誘因を持つことになった。

3月29日には、パキスタンがエジプト、サウジアラビア、トルコとの外交会合を開き、海峡の再開について協議した。これは、この戦争を始めた当事国ではない国々までもが、その経済的打撃の拡大を抑えようと動いていることを示すものだ。米軍は3月19日に海峡再開に向けた作戦を開始したが、3月30日時点でも通航の混乱はなお深刻なままである。

30人を超える石油・ガストレーダー、企業幹部、ブローカー、海運関係者、顧問らとの対話で、繰り返し聞かれたのは、ひとつの認識だった。すなわち、世界はいまだこの事態の深刻さを十分に理解していない、ということである。多くが1970年代の石油危機との類似を指摘し、ホルムズ海峡の封鎖が長引けば、さらに大きな危機を招くと警告した。

ホルムズ海峡は、単なる航路以上の意味を持つ存在であり続けてきた。それは、集中と依存、そして途切れることのない輸送を前提に築かれてきた世界のエネルギー体制を象徴する場所である。その体制はいま、自然災害ではなく、人間の意図的な選択によって壊れつつある。いま世界に問われているのは、単にこの水路をどう再開するかではない。わずか21マイルの係争水域に世界経済の命運を委ねるような仕組みから、何かを学んできたのかどうかである。

イランが海峡で海運を脅かす意思と能力を保ち続ける日々は、世界をより深刻な経済的損害へと近づけていく。時間は刻々と過ぎている。マニラのガソリンスタンドの行列、カシミールの空になったガスボンベ、シカゴの商品先物市場の画面――世界はいま、依存の代償が現実のものとなっていく光景を見つめている。(原文へ

INPS Japan

関連記事:

ホルムズ海峡危機で進む静かな同盟シフト―トランプ政権の論理に近づく日本と欧州

勝利ではなく持久―イランの消耗戦略が鮮明に

米国/イスラエルによる対イラン爆撃―国際法軽視のケーススタディ

日本とカザフスタンが接近―イラン危機がエネルギーと安全保障の優先課題を再編

イラン情勢の不安定化によって、日本の中東産原油への依存が改めて浮き彫りになるなか、日本はより強靱な供給網、代替的なエネルギールート、そして核軍縮をめぐる協力の強化を求めて、カザフスタンとの関係を深めている。

【東京INPS Japan=浅霧勝浩

イランを巡る緊張が深まり、世界のエネルギー市場に不透明感が広がるなか、日本は改めて、自国が抱える構造的な弱点に直面している。中東産原油への高い依存である。|英語版

日本は長年にわたり、戦争や対立、混乱に繰り返し揺さぶられてきた地域から原油を輸入してきた。ホルムズ海峡とその周辺海域の安定が再び脅かされるなか、東京は供給源と輸送ルートの双方を多角化する動きを加速させている。そのなかで、カザフスタンはますます重要な協力相手として浮上している。

もっとも、日本とカザフスタンの関係強化は、石油、ウラン、物流だけにとどまらない。そこには、より深い歴史的・倫理的な次元がある。両国はいずれも核による被害の記憶を抱え、その記憶を対話、協力、そして平和を訴える基盤へと転化しようとしてきた。

Central Asia plus Japan Dialogue” (CA+JAD)
Central Asia plus Japan Dialogue” (CA+JAD)

日本が中央アジアへの関心を強めたのは、今回のイラン危機が直接のきっかけではない。2025年12月、日本は東京で「中央アジア+日本」首脳会合を開催し、「東京宣言」を採択した。そこでは、重要鉱物の供給網強化と輸送ルートの多角化が戦略的優先課題として打ち出された。

その枠組みは、その後さらに切迫した意味を帯びるようになった。

その重要な要素の一つが、トランス・カスピ海国際輸送回廊、いわゆるミドル・コリドーである。ロシアを経由せずに中央アジアと欧州を結ぶこのルートは、エネルギーや戦略物資の新たな輸送路として注目を集めている。戦争、制裁、海上輸送の混乱、大国間競争の激化といった時代にあって、日本にとってこのような回廊の重要性は一段と高まっている。

その中核に位置するのがカザフスタンである。

Middle Corridor. Photo credit: TITR
Middle Corridor. Photo credit: TITR

日本のエネルギー権益はすでにカスピ海地域に及んでいる。日本企業INPEXは、カザフスタンのカシャガン油田やアゼルバイジャンのACG油田など、主要な地域油田に権益を保有している。これらの油田から産出される原油は、日本にとって中東産原油の代替供給源となり得る。また、カスピ海や地中海を経由するルートを利用すれば、ホルムズ海峡を回避することも可能だが、その分、輸送日数は延び、輸送コストも上昇する。

これは、日本の発想が変わりつつあることを示している。多角化とは、もはや単に新たな供給国を探すことではない。貿易の地理的構造そのものに潜む脆弱性を減らすことでもある。

Karipbek Kuyukov(2nd from left) and Dmitriy Vesselov(2nd from right)/ Photo by Katsuhiro Asagiri
Karipbek Kuyukov(2nd from left) and Dmitriy Vesselov(2nd from right)/ Photo by Katsuhiro Asagiri

それでもなお、エネルギーだけでは日本とカザフスタンの関係の特質は説明しきれない。

この関係に独特の深みを与えているのは、核被害という共通の歴史的経験である。カザフスタンは旧ソ連時代、セミパラチンスク核実験場で行われた456回の核実験による深刻な影響を受けた。日本は、戦時下で原子爆弾投下を受けた唯一の国であり、広島と長崎は、核兵器がもたらす壊滅的な人的被害の象徴であり続けている。

両者の歴史は異なる。だが、そこから生まれた倫理的な語彙には通じ合うものがある。

The remains of the Prefectural Industry Promotion Building, after the dropping of the atomic bomb, in Hiroshima, Japan. This site was later preserved as a monument. Credit: UN Photo/DB
The remains of the Prefectural Industry Promotion Building, after the dropping of the atomic bomb, in Hiroshima, Japan. This site was later preserved as a monument. Credit: UN Photo/DB

核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)創価学会インタナショナル(SGI)、広島・長崎の被爆者であるヒバクシャを含む市民社会の担い手たちと協力し、核兵器と核実験がもたらす人道的帰結への関心を喚起してきた。会議、展示会、証言活動を通じて、こうした経験は国際的な議論のなかで可視化され続けている。とりわけ、核をめぐる議論が抑止理論や地政学的対立へと矮小化されがちな時代にあって、その意義は大きい。

A Group photo of participants of the regional conference on the humanitarian consequences of nuclear weapons and nuclear-free-zone in Central Asia held on August 29, 2023. Photo Credit: Jibek Joly TV Channel.
A Group photo of participants of the regional conference on the humanitarian consequences of nuclear weapons and nuclear-free-zone in Central Asia held on August 29, 2023. Photo Credit: Jibek Joly TV Channel.

ここで重要になるのが、カザフスタン外交における「対話」の側面である。

カザフスタンは、2003年からアスタナで開催してきた世界伝統宗教リーダー会議を通じて、単なる資源供給国や通過国ではなく、政治、宗教、文明の分断を越える対話の結節点として自らを位置づけてきた。この取り組みは、非核化、仲介、共生を柱とする同国の外交的アイデンティティの一部となっている。

Photo: The 7th Congress of Leaders of World and Traditional Religions was held in Astana on 14–15 September 2022 Credit: Katsuhiro Asagiri, President of INPS Japan
Photo: The 7th Congress of Leaders of World and Traditional Religions was held in Astana on 14–15 September 2022 Credit: Katsuhiro Asagiri, President of INPS Japan

日本にとって、これはカザフスタンの重要性にもう一つの層を加えるものである。カザフスタンは石油、ウラン、輸送ルートを持つ国であるだけでなく、自らの苦難の歴史を、平和、信頼、人間の安全保障をめぐる外交へと転化してきた国家でもある。

こうしたアプローチは、複数の危機が重なり合う現代世界の現実と響き合っている。

PRESIDENT KASSYM-JOMART TOKAYEV: ‘In this atmosphere of tension and increasing geopolitical turbulences, it is vitally important to develop new approaches to strengthening inter-civilizational dialogue and trust.’ (photo credit: OFFICE OF THE PRESIDENT)
PRESIDENT KASSYM-JOMART TOKAYEV: ‘In this atmosphere of tension and increasing geopolitical turbulences, it is vitally important to develop new approaches to strengthening inter-civilizational dialogue and trust.’
(photo credit: OFFICE OF THE PRESIDENT)

カザフスタンのカシムジョマルト・トカエフ大統領が警告しているように、核リスクは再び高まっている。同時に、エネルギー不安、供給網の脆弱性、地政学的分断も深刻化している。これらはもはや別個の政策課題ではない。相互に絡み合う問題となっている。

この文脈のなかで、日本とカザフスタンの関係は、より広い示唆を持つ。

国家間の協力は、経済的・戦略的利益だけによって形づくられる必要はない。そこには、共有された記憶、道義的目的、そして対話への意志も織り込まれ得る。実務面では、それはエネルギーと輸送をめぐる協力である。政治面では、より安定し、多角的な地域秩序への貢献である。人道面では、安全保障を人間的帰結から切り離してはならないという主張をつなぎとめる営みである。

もちろん、この関係が限界や矛盾を免れているわけではない。代替ルートはコストが高い。国家行動はいまなお戦略計算に大きく左右される。対話だけで戦争の圧力を打ち消すこともできない。

それでも、分断、威圧、核不安が広がる国際環境のなかで、日本とカザフスタンの接近は、単なる戦術的な調整以上の意味を持っている。それは、現実主義と責任を結びつけようとする試みでもある。

だからこそ、この関係は注目に値する。

多くの国が、より狭く、より内向きな国益の定義へと後退しつつある時代にあって、日本とカザフスタンは、資源安全保障と外交、記憶と戦略、国家の強靱性と平和への模索を結びつけるパートナーシップを築こうとしている。

UN Photo
UN Photo

INPS Japan

Inter Press Service (IPS), American Television Network(ATN),

関連記事:

中央アジア・日本首脳会合、トランス・カスピ回廊を後押し トカエフ大統領は核リスク再上昇に警鐘

カザフスタンの核実験に関するドキュメンタリーが核廃絶の必要性を訴える

「人類の友愛」は平和を動かせるか

国連報告書、詐欺拠点に人身取引された人々への重大虐待を詳述

【ジュネーブIPS=国連人権高等弁務官事務所】

国連人権高等弁務官事務所が2月23日に公表した報告書は、世界各地の数十カ国から、主に東南アジアに定着した詐欺拠点へ人身取引された数十万人の被害実態を、生存者の証言とともに詳細に記録した。詐欺拠点は東南アジアにとどまらず、さらに広い地域へ拡散しているとしている。

報告書は、拷問やその他の虐待、性的虐待・搾取、強制中絶、食料の剥奪、独房拘禁など、重大な人権侵害を列挙した。生存者はまた、国境当局が勧誘に加担した事例や、警察による脅迫・恐喝についても証言している。

Image credit: Ben Buckland | Association for the Prevention of Torture
Image credit: Ben Buckland | Association for the Prevention of Torture

衛星画像と現地報告によれば、詐欺拠点のほぼ4分の3はメコン地域に集中している。活動は太平洋島嶼国の一部や南アジア、湾岸諸国、西アフリカ、米州にも広がっているという。

「詐欺拠点に置かれた人々が受ける扱いは憂慮すべきものだ」と報告書は結論づけた。報告書は、バングラデシュ、中国、インド、ミャンマー、スリランカ、南アフリカ、タイ、ベトナム、ジンバブエ出身の生存者への聞き取りに基づく。生存者は2021年から2025年にかけて、カンボジア、ラオス、ミャンマー、フィリピン、アラブ首長国連邦(UAE)の詐欺拠点へ人身取引された。さらに、警察・国境当局者や市民社会関係者など、実態を把握する立場の関係者にも聞き取りを行った。

被害者は、虚偽の条件で「詐欺の仕事」に誘い込まれた後、なりすまし詐欺、オンライン恐喝、金融詐欺、ロマンス詐欺などのオンライン詐欺を実行するよう強要されたと証言した。

A UN human rights report has found that people trafficked and forced to work at scam centres are subjected to torture, sexual abuse and prison-like conditions. (representational photo). Credit: UNICEF/Ron Haviv
A UN human rights report has found that people trafficked and forced to work at scam centres are subjected to torture, sexual abuse and prison-like conditions. (representational photo). Credit: UNICEF/Ron Haviv

報告書によれば、こうした運営は移転や形態の変更を繰り返すなど拠点は移転し、運営は姿を変えるという。生存者の一部は、500エーカーを超える敷地に要塞化された多層建築が立ち並び、有刺鉄線を張り巡らせた高い塀で囲まれ、武装した制服警備員が巡回する―「自己完結した町」のような巨大複合施設に拘束されていたと語った。

Jail Source:HRW
Jail Source:HRW

報告書は、スリランカ出身の被害者が「月間ノルマを達成できない者は、水を張った容器に何時間も沈められる『水の牢獄(water prisons)』と呼ばれる罰を受けた」と証言したと紹介している。今回の報告書は、国連人権高等弁務官事務所が2023年に公表した報告書の更新版である。

報告書はさらに、服従を確保するため、他者への重大な虐待を目撃させたり、場合によっては虐待を加えるよう命じたりしたとする証言を紹介した。バングラデシュ出身の被害者は、他の労働者を殴るよう命令されたと証言し、ガーナ出身の被害者は、友人が目の前で殴打されるのを強いられたと語った。

脱出を試みて命を落とした例もある。報告書は、複合施設からの逃走中にバルコニーや屋根から転落した事例を挙げている。

救出の試みが失敗した場合の懲罰も苛烈だったという。ベトナム出身の被害者は、姉の逃走を手助けしようとした妹が殴打され、スタンガンで感電させられ、食料のない部屋に7日間閉じ込められたと証言した。

報告書はまた、加害者が家族にビデオ通話をかけ、虐待の様子を見せつけることで、法外な身代金の支払いを迫った事例も確認したとしている。

被害者の多くは「賃金は支払われた」と述べたが、聞き取り対象者全員が、さまざまな名目で控除が段階的に増やされたと証言し、約束された給与を全額受け取った者はいなかった。タイ出身の被害者は、罰金や暴行、さらにはより過酷な環境の別拠点へ「売られる」ことを避けるため、1日あたり約9,500米ドルという高額な詐欺ノルマを課されたと証言した。

Volker Türk, United Nations High Commissioner for Human Rights, in Helsinki © Lauri Heikkinen, valtioneuvoston kanslia - FinnishGovernment, CC BY 2.0
Volker Türk, United Nations High Commissioner for Human Rights, in Helsinki © Lauri Heikkinen, valtioneuvoston kanslia – FinnishGovernment, CC BY 2.0

国連人権高等弁務官のフォルカー・テュルク氏は、「虐待の実態は衝撃的で、胸が痛む」と述べた。そのうえで、「本来保障されるべき保護、ケア、リハビリテーション、そして正義と救済への道筋が与えられるどころか、被害者はしばしば疑われ、烙印を押され、さらなる処罰に直面している。」と強調した。

テュルク氏は、対策は人権法と国際基準に基づくべきだとしたうえで、「とりわけ、人身取引対策法制の中で『強制された犯罪行為(forced criminality)』を明確に認識し、人身取引被害者に対する『不処罰原則(non-punishment principle)』を保障することが決定的に重要だ」と述べた。

またテュルク氏は、被害者には「連携の取れた、迅速で、安全かつ効果的な救出作戦」が必要だとし、送還禁止原則(ノン・ルフールマン)の尊重に加え、拷問やトラウマのリハビリテーション、報復や再被害(再度の人身取引)のリスクに対処する支援体制の整備も求めた。

報告書は、行動科学とシステム分析を独自に適用し、なぜ人々が詐欺拠点への詐欺的な勧誘に繰り返し巻き込まれるのかを検討するとともに、人権に根ざした実効的な予防策を提案している。

テュルク氏は、安全な労働移住のルートをより利用しやすくする必要があると述べ、オンライン求人情報の検証や、疑わしい勧誘パターンの把握など、募集過程に対する実効的な監督を求めた。

さらに同氏は、各国政府や関係主体は、被害リスクが高いとみられる人々への働きかけにあたり、生存者主導のグループなど、信頼される地域に根差した主体と連携すべきだとした。啓発活動は、具体的で分かりやすく、信頼できるメディアを通じて提供される必要があるという。

テュルク氏はまた、巨額の利益を生む詐欺産業に深く根付いた腐敗に対し、各国と地域機関が実効的に取り組み、背後で動く犯罪シンジケートを訴追するよう促した。併せて、独立メディア、人権擁護者、市民社会組織が妨害を受けることなく人身取引対策に取り組める環境の重要性も改めて強調した。(原文へ

INPS Japan/IPS UN Bureau Report

関連記事:

欧州の公務員が児童人身売買に関与した疑い

|ネパール・インド|「性産業」犠牲者の声なき声:売春宿から1人でも多くの犠牲者を救いたい

|カンボジア|宗教の違いを超えた「人間の尊厳」重視のHIV陽性者支援とHIV/AIDS防止の試み

待つだけではなく、希望を行動へ―緊張に揺れる世界における宗教の役割

宗教はこれまで、暴力や分断を正当化するために利用されてきた側面がある。一方で、対話を促し、紛争解決に向けて社会がより主体的な役割を果たすよう後押しする「平和の力」にもなりうる。

メキシコシティーINPS Japan=ギレルモ・アラヤ・アラニス

Guillermo Ayala Alanis
Guillermo Ayala Alanis

ロシアとウクライナの紛争に加え、米国、イスラエル、イランを巻き込む戦争が続くなか、世界は核紛争の危険が一段と高まる新たな地球規模対立の時代に入りつつあるように見える。こうした状況を形づくるのは、政治、戦略、経済だけではない。目立ちにくいながらも、なお重要な要素として、宗教とその平和構築における役割がある。|英語版スペイン語

かつて、とりわけ中世には、戦争が神の名のもとに正当化されることがあった。しかし今日、宗教は、いっそう世俗化した世界の中で、以前ほど前面に出ることはなくとも、より融和的な役割を果たしている。政治的意思決定が思いやりや他者への敬意から切り離されているかのように映る時代だからこそ、その意味は小さくない。

宗教は時に、攻撃や自衛を正当化する口実として利用されてきた。だが同時に、対話を促し、再軍備が進むなかで、指導者に紛争解決を迫るよう社会を後押しする平和の力にもなりうる。

写真:イベロアメリカーナ大学のホセ・ソルス氏
クレジット:LinkedIn José Sols

こうした文脈の中で、政治神学の専門家であり、メキシコ市のイベロアメリカーナ大学教授を務めるホセ・ソルス氏は、世界が冷戦を思わせる緊張状態へと戻りつつあると警鐘を鳴らした。INPS Japanの取材に応じた同氏は、宗教が国際政治に及ぼす影響は弱まっているものの、社会の中での存在感はなお大きく、平和のメッセージはいまも多くの信者に届きうると語った。

「私たちは受け身で待つのではなく、希望を行動へと移さなければなりません。平和を築くことは、私たち自身の務めです。私たちは、ともすれば政治家や外交官のような誰かがそれを担ってくれると考えがちですが、それは誤りです。平和は共生から、人と人との関係から始まります。だからこそ、それは教会の責任でもあるのです。」

平和のための対話を促す重要性

国連によれば、世界人口はすでに80億人を超えている。そのうち、約20億人がイスラム教徒であり、キリスト教徒は約24億人、そのうち14億人がカトリック信徒である。さらに、仏教徒は5億人、ユダヤ教徒は1500万人を超える。こうした数字は、宗教が国際社会においてなお大きな影響力を持っていることを示している。

その影響力は各国の政治や社会のあり方にも表れている。イランは自らをイスラム共和国と位置づけ、イスラエルでは一部の政治運動が宗教シオニズムの影響を受けている。米国でも、大統領就任宣誓の際に聖書の上に手を置く慣行が、いまなお強い象徴性を帯びている。

19世紀後半以降、1893年のシカゴ世界宗教会議に代表される宗教間対話の試みは、主要な宗教伝統の指導者たちを集め、諸民族と諸文化のあいだの相互理解を促しながら、平和的共存の基盤を築いてきた。

カトリック世界でも近年、教皇庁生命アカデミーが「平和のための科学者たち(Scientists for Peace)」という国際的アピールを打ち出し、ドローンや高度化する兵器が戦場に投入される時代にあって、科学技術は戦争ではなく平和と人間の尊厳のために用いられるべきだと訴えている。昨年10月にはローマで、聖エジディオ共同体主催の「平和のための対話と祈りの国際会議」が開かれ、司祭、ラビ、イマーム、僧侶に加え、創価学会インタナショナル(SGI)代表を含む多様な宗教リーダーと市民社会の代表が参加した。恐怖やナショナリズム、戦争が色濃く影を落とす時代にあって、信仰を分断ではなく共生と平和への責任へどう結びつけるかが、あらためて問われた。

The closing ceremony held against the backdrop of the ancient Roman ruins, the Colosseum. Credit: Community of Sant’Egidio
The closing ceremony held against the backdrop of the ancient Roman ruins, the Colosseum. Credit: Community of Sant’Egidio

核再軍備と新たな課題―人工知能

Image source: Contemporary Security Policy .
Image source: Contemporary Security Policy .

高まりつつある核の脅威について、ソルス氏は、大量破壊兵器をめぐる再軍備の進行が新たな危険を招いていると警告する。その一つが人工知能(AI)の利用である。AIシステムは自律的に作動するため、事前に組み込まれた条件の枠を超える状況に適切に対応できない恐れがあるという。

「私たちはAIに多くのアルゴリズムを組み込みました。しかし、『注意せよ。この場合には実行してはならない。』という一文を入れ忘れてしまった。そうなれば、人間の関与なしに核戦争が始まる可能性もあるのです。」

ソルス氏はさらに、国際政治の中で帝国主義的な言説が再び力を持ちつつあり、包摂的な視点を押しのけ、武力紛争がもたらす人間の犠牲に目を向けることなく、「強者の論理」を正当化しようとしていると警告した。

「一人の人間の人生を築くには何年もかかります。しかし、それを壊すのは一瞬です。」

通常兵器の軍縮で教会が果たす役割

写真:グアダルーペ大聖堂で「武装解除に賛成、平和に賛成」プログラムを視察するクラウディア・シェインバウム氏
クレジット:mgmnoticias.mx

軍縮を求める宗教的な取り組みは、より身近な地域社会の課題にも向き合っている。そこでは、宗教機関に寄せられる市民の信頼が重要な基盤となっている。

市民社会組織「武力紛争位置・事象データ計画(ACLED)」がメキシコを世界で4番目に危険な国に位置づけるなか、同国のカトリック教会はクラウディア・シェインバウム政権と連携し、「武装解除に賛成、平和に賛成(Sí al desarme, sí a la paz)」プログラムを進めている。この取り組みでは、教会の中庭を活用し、市民が銃器を自発的かつ匿名で持ち寄り、軍関係者に引き渡して破壊してもらう代わりに、金銭的補償を受けられる仕組みが設けられている。

写真:グアダルーペ大聖堂で「武装解除に賛成、平和に賛成」プログラムを視察するクラウディア・シェインバウム氏
クレジット:mgmnoticias.mx

このプログラムは、メキシコ市とその大都市圏をはじめ、暴力水準の高いバハ・カリフォルニア州、コリマ州、グアナフアト州、ゲレロ州、オアハカ州、プエブラ州、タバスコ州などでも実施されている。

世界的に再軍備が進み、核の脅威もなお消えていないなかで、宗教共同体は対話と和解を促す声を社会に届け続けようとしている。平和は政府だけに委ねられるものではなく、市民社会の日々の営みによっても支えられる。その現実を、あらためて示しているのである。

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

SDG

INPS Japan

関連記事:

|第8回世界伝統宗教リーダー会議|危機を超えて対話を(長岡良幸創価学会国際渉外局長インタビュー)

核兵器廃絶を訴える活動家たち、世界に「平和を想像すること」を呼びかける

核時代80年:ラテンアメリカの軍縮路線が示す「対抗モデル」

トランプ氏の中国訪問―成果を持ち帰れるか

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。

【Global Outlook=ズー・ジーチュン】

米国がイランに対する「オペレーション・エピック・フューリー(壮絶な怒り)」を継続し、さらにそれ以前にはベネズエラの指導者ニコラス・マドゥロ氏を拉致するなど、国際秩序を深く傷つけてきた一方で、トランプ大統領による2026年3月31日から4月2日にかけての中国訪問に向けた準備が進められている。

トランプ氏が前回中国を訪れたのは、第1次政権下の2017年11月であった。この訪問は成功と評価され、ホワイトハウスによれば、中国との「生産的な関与」の土台を築いたとされる。トランプ氏は、これまでどの米大統領も受けたことのない特別な厚遇を受けた。中国の習近平国家主席が、紫禁城内で自ら茶会を催したのである。これに先立ち、トランプ氏は2017年4月、フロリダ州のマール・ア・ラーゴ私邸に習主席を迎えていた。だが、この蜜月は長くは続かなかった。トランプ政権は2018年7月6日、中国からの輸入品に25%の関税を課し、貿易戦争を開始した。その後、関係悪化はトランプ第1次政権の残りの期間、そしてバイデン政権を通じて、米中関係の支配的特徴となった。

もっとも、2024年11月の大統領選でトランプ氏が勝利した直後、米中関係は順調な滑り出しを見せた。トランプ氏はたびたび習主席との良好な関係を誇示し、就任式にも招待した。これに対し、習主席は韓正国家副主席をワシントンに派遣した。これはその種の機会としては、中国側の出席者として最高位に当たる。

第2次トランプ政権では、トランプ氏自身が事実上の「対中交渉責任者」であるかのように振る舞い、中国に対しても前政権期より柔軟な姿勢を見せている。最新の国家安全保障戦略と国家防衛戦略はいずれも、中国への言及は比較的抑制されており、中国を米国の「ペーシング・スレット(最重要の戦略的脅威)」とは位置づけていない。現政権の閣僚もまた、対中強硬一辺倒ではない。とりわけマルコ・ルビオ国務長官は、上院議員時代の強硬姿勢とは対照的に、中国との関与と対話の必要性を唱えるなど、現実的な対応を際立たせている。

第2次トランプ政権では、トランプ氏自身が事実上の対中政策の司令塔となり、中国に対してもより柔軟な姿勢を見せている。最新の国家安全保障戦略と国家防衛戦略はいずれも中国への言及を抑え、中国を米国の「ペーシング・スレット」とは位置づけていない。閣僚も対中強硬一色ではなく、とりわけマルコ・ルビオ国務長官は、上院議員時代とは異なり、中国との関与と対話の必要性を唱えるなど、現実路線を鮮明にしている。

しかし、2025年4月2日、トランプ氏は「解放の日(Liberation Day)」関税として、事実上すべての貿易相手国を対象に大規模な関税措置を発動し、中国は累積関税率が最大145%に達する最大の標的となった。これに対し中国も、米国製品に最大125%の関税を課して強硬に応じた。さらに中国は、レアアース(希土類)の輸出規制を迅速に導入し、米国産大豆の輸入停止にも踏み切った。これは、トランプ氏の支持基盤である農家を含め、米国経済に打撃を与えた。

数度にわたる交渉を経て、両国は、いわゆる関税の「休戦」に達した。2025年10月30日、韓国・釜山で習主席と会談した際、トランプ氏は中国を「米国最大のパートナー」と呼び、両国は常に「素晴らしい関係」にあったと主張した。その場でトランプ氏は、2026年春に中国を訪問する方針を改めて確認した。

多くの人々は、トランプ氏が中国との間でどのような取引を目指しているのか疑問を抱いている。中国による米国製品の購入拡大と引き換えに、台湾を犠牲にするのではないかとの憶測もある。トランプ政権は最近、総額130億ドル規模の対台湾武器売却を見送ったが、これはトランプ氏の訪中を頓挫させないための戦術的調整にすぎない。この売却は、トランプ氏の帰国後には間違いなく進められるだろう。台湾は戦略的にも経済的にも重要であるため、米国が台北を切り捨てて北京を喜ばせる可能性は低い。

台湾問題や国際秩序、さらには世界的なパワー移行に伴う構造的対立など、難題が山積するなか、米中両国はトランプ氏の訪中に過度な期待を抱くべきではない。むしろ現実的な姿勢を取り、いくつかの具体的な成果を目標とすべきである。

第一に、現在の関税休戦を延長することである。今回の訪問は貿易が主題となる見通しであり、両首脳は、より良い解決策が見つかるまで、新たな関税を課さないことで一致すべきだ。中国が引き続き米国からの輸入を拡大するのであれば、ワシントンは対中関税を引き下げ、輸出規制を緩和すべきであり、中国もそれに応じて相応の措置を取るべきである。ワシントンにとって明るい材料は、2025年の対中モノの貿易赤字が2020億ドルまで縮小し、20年以上ぶりの低水準となったことである。中国は、政治的雰囲気さえ整えば、石油やボーイング機を含め、米国からの輸入をさらに増やす意思も能力もあるようだ。

第二に、ヒューストンと成都の総領事館を同時に再開すべきである。米国が2020年7月、中国の在ヒューストン総領事館に対し、わずか72時間での退去を命じて閉鎖した判断は拙速であった。中国は報復として米国の在成都総領事館を閉鎖し、両国関係はさらに悪化した。ヒューストンと成都は、それぞれの国の内陸・中核地域を象徴する都市である。この2つの外交拠点を再開することは、両国の中核地域間における貿易その他の交流を大きく拡大させるだけでなく、相違を抱えつつも両国が理性的かつ平和的に関与する意思を有していることを、世界に示すシグナルにもなる。

第三に、観光と教育交流を促進することである。観光や人的往来は、政治・外交上の緊張を和らげる緩衝材となり得る。中国はすでに、カナダや英国を含む数十カ国の国民に対し、30日間の査証免除措置を認めているのだから、米国人にも同様の措置を検討できるはずである。より多くの米国人を中国に呼び込み、訪中を容易にするうえでも、北京がトランプ氏の訪中中に、米国人向けの30日間のビザ免除措置を打ち出すのは理にかなっている。他方、米国も、より多くの米国人が中国を訪れ、学ぶことを後押しすべきである。こうした措置は、米中両国民の間に好意的な空気を育む一助となるだろう。

米中関係は、きわめて厳しい課題に直面している。それでもトランプ氏も習主席も、首脳会談が二国間関係の悪化に歯止めをかけるうえで極めて重要だとみており、ともに今回の訪中を成功させたい考えである。

双方は、台湾や国際秩序のような極めて対立の大きい問題については、「意見の相違を残したまま折り合えないことを認める」ほかないだろう。その代わり、強固な通商関係の維持や人的交流の促進といった、利害が一致する分野に焦点を当てるべきである。緊密な貿易関係と幅広い社会的交流に支えられた関係は、戦争に至りにくい。一度の訪問で、競い合う二つの大国の間に横たわるすべての問題が解決するわけではない。だが、関係の安定化に資する現実的なアプローチは、両国の利益にかなう。

ズー・ジーチュン氏は、米バックネル大学の政治学・国際関係学教授で、中国研究所所長。全米米中関係委員会のメンバーでもある。中国外交と米中関係を中心に幅広く執筆しており、2005年の著書『US–China Relations in the 21st Century: Power Transition and Peace』(Routledge)では、パワー・トランジション理論を米中対立の分析に適用した先駆的研究者の一人として知られる。シンガポールのThinkChinaでコラムを執筆するほか、学術誌『China and the World』の編集長も務めている。

Original URL: https://toda.org/global-outlook/2026/trumps-china-trip-aiming-for-deliverables.html

INPS Japan

関連記事:

いま、中国に目を向けよ

関税と混乱―トランプ貿易戦争がもたらした持続的な世界的影響

トランプの圧力が裏目に出始め、欧州は「声」を取り戻した

沈黙か抵抗か―タリバン下で闘う若きアフガン女性テコンドー指導者

筆者はアフガニスタン在住の女性ジャーナリスト。タリバン復権前、フィンランドの支援を受けて研修を受けた。安全上の理由から身元は明らかにされていない。

アフガニスタン・ヘラートIPS=匿名ジャーナリスト】

アアフガニスタン西部ヘラート州で今年1月、ハディジャ・アフマドザダ氏が拘束されたことを受け、国内外で抗議の声が広がった。女性の権利活動家やSNS上の利用者らは、「スポーツは犯罪ではない」「教育は女性の権利だ」「女性を消し去るな」などのスローガンを掲げ、#BeHerVoice のハッシュタグとともに連帯を表明した。

拘束当時、国連人権特別報告者のリチャード・ベネット氏は、タリバンによる彼女の拘束に深い懸念を表明し、テコンドー指導者ハディジャ・アフマドザダ氏の即時釈放を求めていた。彼女はその後釈放されたが、この一件は、アフガニスタンの女性アスリートに対する支援の必要性を改めて示した。世界各地の活動家たちは、そうした支援は国際社会全体の責務であり、抑圧の前で沈黙することは危険な結果を招くと訴えた。

Map of Afghanistan
Map of Afghanistan

22歳のアフマドザダ氏は、共和国時代に数々の賞を受けたテコンドー選手であり、アフガニスタンのナショナル・ユースチームの指導者でもあった。タリバンが実権を握った後も、彼女は女性や少女たちのために競技の場を守ろうと努めた。練習し、学び、前へ進む機会が急速に失われていくなかで、そうした場を何とかつなぎ留めようとしていた。

かつてヘラートは、女性向けスポーツクラブが活況を呈した都市だった。女性たちは高い意欲を持ち、多くの成果を上げていた。これらの施設は単なる運動の場ではなく、教育、交流、そして女性や少女たちのエンパワーメントの拠点でもあった。

しかし、タリバン復権後、女性向けスポーツ施設はすべて閉鎖され、女性アスリートは活動継続を一律に禁じられた。女性がスポーツクラブを利用できなくなったのは、タリバンが2021年に政権へ復帰して間もない時期で、これは彼らがイスラム法を厳格に解釈して導入した一連の措置の一部である。当時は「安全な環境」が整えば再開されると説明されていたが、2026年1月時点でも再開されたクラブはなく、女性はいまなお競技参加を禁じられている。

優れた選手であると同時に、強い意志と献身を備えた指導者としても知られていたアフマドザダ氏は、タリバンの厳しい統制下でも密かに活動を続け、練習を望む女性たちにトレーニングの機会をつなぎとめていた。だが、その努力はやがて発覚した。2026年1月、彼女は拘束された。

この拘束は、アフガニスタンで社会の中で活動し続けようとする女性たちが、いかに強い圧力にさらされているかを示している。同時に、基本的な権利を守り、社会とのつながりを保つために、禁じられた道を選ばざるを得ない現実も浮き彫りにした。

アフマドザダ氏は、ヘラートのジュモン・テコンドー・アカデミーで韓国人専門家の指導を受け、本格的にテコンドーを学んだ。短期間のうちにアフガニスタンのナショナル・ユースチーム入りを果たし、国内外の大会でメダルを獲得した。現役引退後は、少女たちへの指導に当たっていた。

安全上の理由から匿名を希望した教え子の一人は、「彼女は卓越した、献身的な指導者です。その勇気と無私の姿勢を誇りに思います。」と語った。

タリバンの風紀警察が彼女を拘束しに来た際、アフマドザダ氏は生徒たちを静かにクラブの外へ逃がしたうえで、自らはその場にとどまり、タリバンの規則に抗して拘束された。

2021年8月にヘラートがタリバンの支配下に入った直後から、彼らは女性や少女のスポーツ施設を段階的に閉鎖していった。最初は風紀警察が施設運営者に口頭で命令を出したが、その後は器具の没収、クラブの封鎖、所有者や指導者の拘束へと締め付けを強めていった。

Working in NGOs was once a lifeline for Afghan women and girls. Now, it has been completely taken away, leaving them without hope or opportunity. Credit: Learning Together.
Working in NGOs was once a lifeline for Afghan women and girls. Now, it has been completely taken away, leaving them without hope or opportunity. Credit: Learning Together.

彼女が13日間拘束されたことは、家族にも大きな重圧となった。家族は彼女の釈放を求め、地元代表や地域の長老、当局者に繰り返し働きかけた。アフマドザダ氏は最終的に、同じ行為を繰り返さないとする誓約書を書かされたうえで釈放された。だがその自由は、苦しみの終わりというより、タリバン支配下のアフガニスタンで生きる現実を改めて突きつけるものだった。

彼女はその後、ヘラートのジェブライル地区で秘密裏にテコンドー訓練プログラムを立ち上げた。それは、タリバンの厳しい統制に抗する女性たちの静かな抵抗の象徴となっている。

彼女によれば、タリバンが復権する前、この分野では多くの女性が活動し、それによって生計を立てていた。だがタリバンが政権を握ると、スポーツ施設は閉鎖され、女子チームは解散させられ、女性選手や指導者たちは自宅にとどまるか、国外へ去るかを余儀なくされた。

それでも国内に残った女性たちは、完全な沈黙か、静かな抵抗かの選択を迫られた。ハディジャ・アフマドザダ氏は、後者を選んだ。(原文へ

INPS Japan

https://sdgs-for-all.net/
https://sdgs-for-all.net/

関連記事:

|国際女性デー 2025|「ルール・ブレイカーズ」— 学ぶために全てを懸けたアフガニスタンの少女たちの衝撃の実話

タリバンの悲惨なアフガニスタン統治が1年を迎える

アフガンメディアフォーラムを取材

メキシコの土地紛争のさなか、姪が殺された。世界は企業に責任を問わねばならない

【メキシコ・ミチョアカン州IPS=クラウディア・イグナシオ・アルバレス】

私の姪、ロクサナ・バレンティン・カルデナスは、殺されたとき21歳だった。彼女は、メキシコ西部ミチョアカン州のパツクアロ湖畔にあるサン・アンドレス・ツィロンダロ出身のプルペチャ(Purépecha)先住民女性である。

ロクサナは、別の先住民共同体が、土地を取り戻した出来事を記念して企画した平和的な行進の最中に命を奪われた。その土地闘争では46年前にも3人が殺されている。今回も、追悼と記念の場は再び銃撃にさらされた。

Location of Mexico
Location of Mexico

ロクサナは武器を持っておらず、行進にも参加していなかった。彼女はたまたまデモ行進に遭遇し、銃弾を受けたのだ。彼女の死は私にとって深く個人的な出来事だが、それは土地と領域をめぐる長年の暴力という、より大きな文脈の中で起きた。

その暴力は近年ミチョアカン州で激化している。今年11月に市長が暗殺されたことは、不安が公的生活の深部にまで浸透し、民間人、地域リーダー、地方当局者のいずれに対しても十分な保護が存在しない現実を浮き彫りにした。

メキシコ全土で、先住民は土地、水、森林を守ろうとして殺されている。政府や企業が「開発」と呼ぶものは、私たちの共同体にとって、暴力によって強いられる収奪である。土地の奪取、水の盗奪、抵抗する者を黙らせること——それらを通じて進められる。

脅かされる暮らし

私はサン・アンドレス・ツィロンダロの出身だ。そこは農業、漁業、音楽の共同体であり、私たちは世代を超えて、湖と周囲の森林を、生命に不可欠な共同の責任として守ってきた。その暮らし方が、いま脅かされている。

ミチョアカン州では、収奪の圧力は地域により姿を変える。先住民領域の一部では鉱山開発であり、私たちの地域では、農産物の輸出を目的とするアグロインダストリー——とりわけアボカドやベリー類の生産である。自給のための共同土地が商業農業のために貸し出され、パツクアロ湖の水は、無許可で設置された配管によって引き抜かれ、農地の灌漑に回される。その結果、地元の農民は水へのアクセスを奪われる。

農薬や化学肥料が土壌と水を汚染し、土地利用転換を可能にするために森林が意図的に焼かれ、生態系は大量の水を消費する単一栽培へと変えられていく。これは開発ではない。収奪である。

強制の手段としての暴力

先住民共同体がこうした過程に抵抗すれば、暴力が続く。

現実を示す2つの事例がある。いずれも未解決のままだ。

私たちの組織の一員で人権擁護者であるホセ・ガブリエル・ペラヨは、1年以上にわたり強制失踪させられている。国連の強制失踪委員会が緊急措置を出したにもかかわらず、進展は阻まれてきた。当局は捜査資料へのアクセスを引き延ばし、本格的な捜索はなお始まっていない。家族はいまも答えを待ち続けている。

ナワ(Nahua)共同体サン・フアン・ウイツォントラの擁護者エウスタシオ・アルカラ・ディアスは、事前の説明と同意のないまま領域に押しつけられた鉱山事業に反対した後、殺害された。彼の死後、共同体は恐怖で動けなくなり、安全に人権活動を続けることが不可能になった。

この2つの事件は、暴力と不処罰が、共同体の抵抗を抑え込むために用いられていることを示している。

軍事化は保護ではない

暴力と不処罰が拡大するなかで、メキシコ政府は再び軍事化に頼っている。数千人規模の兵士がミチョアカン州に投入され、当局は逮捕や治安作戦を「安定の根拠」として掲げる。

しかし実際には、軍事化はしばしば収奪的な開発利害が集中する地域と重なる。鉱山開発、アグロインダストリーの拡大、大規模インフラ計画の対象地域に治安部隊が配置され、共同体の抵抗が封じ込められる一方で、そうした事業が推進されやすい条件が整えられる。

先住民がそれを「保護」と感じることは少ない。むしろ監視、威嚇、犯罪化として経験される。企業は中立を装うかもしれないが、こうした治安体制から利益を得ており、暴力や立ち退きに異議を唱えることも稀である。そこには、企業の共謀という深刻な問題が浮かび上がる。

破綻するグローバル・ガバナンス

先住民の領域は、国境を越えて展開する収奪産業にさらされている一方で、説明責任を問う枠組みは断片化したままである。企業は事業を複数の法域にまたがらせ、環境破壊や人権侵害の責任が特定されにくい構造をつくり出している。

企業の自主的な誓約では、暴力も環境悪化も止められなかった。国内規制は国によってばらつきが大きく、腐敗や組織犯罪の影響を受ける地域では執行も脆弱である。これは国内だけの失敗ではない。グローバル・ガバナンスの失敗である。

いま求められる国際的責任

私は最近、ピース・ブリゲーズ・インターナショナル(Peace Brigades International=PBI)の支援を得て、英国を10日間訪問し、議員や外務・英連邦・開発省(FCDO)の当局者、市民社会組織と面会した。

こうした対話は、企業活動、金融システム、外交関係を通じて収奪的な事業と結びつく国の政府に対し、被害の防止と危険にさらされる人々の保護に責任を果たすよう求める、より広範な国際的努力の一環である。

英国は一つのアクターにすぎない。だが、企業責任や人権擁護者支援をめぐる英国の政策は、国境を越えて大きな影響を及ぼす。

なぜ拘束力ある国際規則が必要なのか

先住民と市民社会は長年にわたり、ビジネスと人権に関する拘束力ある国連条約を求めてきた。その切迫性は、土地と水を守ろうとして失われた命、そしていまも行方不明のままの人権擁護者の存在によって、痛切に示されている。

拘束力ある条約は、グローバル・サプライチェーン全体にわたる人権・環境デューデリジェンス(相当の注意義務)の義務化、国境を越えた司法救済へのアクセスの保障、人権擁護者の保護を法的義務として位置づけることを可能にする。さらに、自由意思による事前の十分な情報に基づく同意(Free, Prior and Informed Consent=FPIC)を、「任意」ではなく、法的に実効性のあるものにできる。

そうした条約は開発を妨げない。開発が暴力、収奪、不処罰に依存しないようにするための土台となる。

すべての人のために生命を守る

先住民は進歩の障害ではない。私たちは、自らの領域を超えて生命を支える生態系を守っている。先住民の女性はしばしばその最前線に立つ一方、同時に並外れた危険にもさらされている。

人権擁護者が失踪させられ、他の人々が殺され、私の姪のような若い女性が命を落とすとき、苦しむのは私たちの共同体だけではない。生態系が深刻な危機にあるいま、土地と水、そして生物多様性を守る人々を、世界は失うことになる。

生命と土地を守ることが、人命の犠牲を代償としてはならない。(原文へ

クラウディア・イグナシオ・アルバレスは、ミチョアカン州サン・アンドレス・ツィロンダロ出身のプルペチャ先住民フェミニストで、レズビアンの環境人権擁護者。人権連帯ネットワーク「レッド・ソリダリア・デ・デレチョス・ウマノス(Red Solidaria de Derechos Humanos)」を通じ、収奪産業と組織犯罪から領域を守ろうとする先住民・農村共同体を支援している。彼女の活動は、2023年以降、ピース・ブリゲーズ・インターナショナル(PBI)の支援を受けている。

INPS Japan/IPS UN Bureau Report

関連記事:

|タンザニア|土地収奪を狙う投資家と闘う先住民族社会

巨大ハイテク企業がコンゴの炭鉱で横行している児童労働に加担しているとして訴えられる。

先住民の知識は解決策をもたらすが、その利用は先住民コミュニティーとの有意義な協働に基づかなければならない