ホーム ブログ ページ 2

忘れられた牛疫根絶の偉業―その教訓を生かさない代償


【ブリュッセル(ベルギー)IPS=アルミン・ヴィースラー

家畜の感染症は、もはや農家や獣医師だけの問題ではない。その影響は、私たちの日々の家計にも及んでいる。近年の鳥インフルエンザの流行では、世界の卵価格が60%以上も高騰した。南アフリカでは、口蹄疫の発生によって牛肉価格が34%上昇した。これらは単なる価格変動ではない。予防が十分に機能しなかったとき、その代償を支払うのは、消費者である家族、農家、そして食料システム全体であることを示している。|英語版

ちょうど15年前の今日、世界は別の道があることを証明した。2011年6月28日、国連(UN)は「牛疫(リンダーペスト)」の根絶を正式に宣言した。牛疫は、人類史上、地球上から完全に根絶された唯一の家畜感染症である。

何世紀にもわたり、このウイルスは数百万頭もの家畜を死に至らしめ、牧畜を壊滅させ、世界各地で飢饉を引き起こしてきた。

南アフリカで起きた牛疫の被害(1896年)。1887年イタリア軍エチオピアに持ち込んだ家畜から広がった牛疫はサハラ以南のアフリカ全域に広がった。アフリカの家畜をほぼ全滅させ、飢饉をもたらして多数の死者を出したのみならず、野生動物にも被害を与えた。資料:Public Domain

この根絶事業が成功したのは、科学、物流、そして政治的な意思が一体となったからである。世界規模の予防戦略は、継続的な監視体制、国際的な連携、そして冷蔵設備がなくても熱帯の遠隔地まで届けられる耐熱性ワクチンによって支えられた。その結果、人類を長年苦しめてきた脅威は、まず予防可能な病気となり、最終的には歴史上の病気となった。

この成功から得られる教訓は、科学的なものだけではない。経済的な教訓でもある。

国連食糧農業機関(FAO)の推計によれば、牛疫対策に要した費用は約6億1千万ドルだった一方、アフリカだけでも年間約10億ドルの経済効果をもたらした。つまり、予防は家畜を守っただけでなく、人々の生計を支え、食料安全保障を強化し、その投資額をはるかに上回る利益を生み出したのである。

SDGs Goal No. 3
SDGs Goal No. 3

しかし、この15年間、世界はその教訓を十分に、あるいは一貫して生かしてきたとは言い難い。

感染症が発生すると、依然として殺処分、家畜の移動制限、貿易停止といった緊急対応に頼るケースが多い。一方で、監視体制の強化、バイオセキュリティ対策、ワクチン接種、国際協力といった予防的な手段は、迅速に活用されているとは言えない。

現在問題となっているランピースキン病(牛伝染性皮膚病)は、その典型例である。診断技術やバイオセキュリティ対策、そして有効なワクチンは既に存在しているにもかかわらず、多くの国では、それらを十分な速度で活用できず、感染拡大や被害の抑制に苦慮している。

その背景には構造的な問題がある。国際貿易ルールがもたらす経済的リスクへの懸念が、必要な対策であっても各国の意思決定を難しくしているのだ。

各国は、「家畜と農家を守るか、それとも輸出市場へのアクセスを守るか」という、ほとんど不可能な選択を迫られる。その結果、世界の家畜衛生体制は、常に後手に回る「事後対応型」のままとなっている。

その間にも感染症は拡大を続けている。

昨年には、ランピースキン病や小反芻獣疫(PPR)が初めて新たな地域へ広がり、貿易に混乱をもたらし、農村社会に打撃を与え、食料安全保障を脅かした。

家畜を食料や収入、生計の糧としている世界10億人以上の人々にとって、これらは決して遠い国の出来事ではない。生活や地域経済に直接影響を及ぼす深刻な問題なのである。

だからこそ、牛疫根絶15周年は単なる回顧の日であってはならない。

予防は、次の危機が起きてから即興的に行うものではなく、危機が起きる前から計画されて初めて機能する―そのことを改めて思い起こす機会であるべきだ。

各国の備えはもちろん重要だが、感染症は国境を越えて広がる。どの国も単独で家畜衛生上の脅威を完全に制御することはできない。

そのためには、監視体制を強化し、ワクチン接種を後押しする制度を整え、予防を妨げている貿易や政策上の障壁を取り除くための国際協力が不可欠である。

WOAH

こうした課題に取り組む上で、世界動物保健機関(WOAH)の「PREVENTフォーラム」のような取り組みは重要な役割を果たし得る。各国政府、国際機関、民間企業が協力し、個々の国だけでは解決できない障壁を取り除くための場となるからである。

しかし、協力は議論だけで終わってはならない。

監視体制や診断能力への投資拡大、ワクチン接種の活用や国際的な承認制度の明確化、感染症発生時にこれらの手段へ迅速にアクセスできる体制づくりなど、具体的な制度改革につながる必要がある。

目指すべきなのは、危機への対応能力を高めることだけではない。危機そのものを未然に防ぐことである。

この3年間だけを見ても、鳥インフルエンザ、ブルータングウイルス感染症、口蹄疫、ニューカッスル病などが世界各地で相次いで発生している。

次に世界へ大きな衝撃を与える家畜感染症が何になるのか、そしてどこで発生するのか、私たちにはまだ分からない。

しかし、牛疫の根絶は、科学、政治的意思、そして国際協調が結集すれば、世界は行動できることを証明した。

問われているのは、予防が可能かどうかではない。

次の危機が訪れる前に、それを最優先課題として取り組む意思が、私たちにあるのかどうかなのである。

アルミン・ヴィースラー博士は、HealthforAnimals(ヘルス・フォー・アニマルズ)会長。

INPS Japan

関連記事:

サバクトビバッタ大発生:「アフリカの角」地域への脅威続く

地球を救うために、私たちは牛と車とどちらを残すべきか

4年を経てもなお不明確 WHO報告が浮き彫りにした国際協力の欠如

人類共通のグローバル・フィールド―持続可能な開発目標(SDGs)を達成するためのゲーム

日々、もう一つのゲームが繰り広げられている。その勝利は一国だけのものではなく、人類全体のものだ。このゲームの目標は、より公正で、健やかで、公平かつ持続可能な社会を築くことである。

メキシコシティーIPS=ギレルモ・アヤラ・アラニス

サッカーは、世界で最も多くの人々に観戦されているスポーツである。35億人を超える人々を魅了する世界最大のスポーツであり、国境や文化、言語の壁を越えて人々を結ぶ共通言語でもある。2026年には、カナダ、メキシコ、米国の北米3カ国でFIFAワールドカップが共同開催され、スタジアムの内外で数百万人の人々を魅了した。|スペイン語版英語版|

サッカーのピッチでは、対戦する二つのチームが、戦略、規律、チームワークを駆使して勝利を目指す。最終的に勝敗を決めるのはスコアである。

しかし、日々繰り広げられているもう一つのゲームがある。そのフィールドは私たちの地球であり、勝利を手にするのは一国ではなく、人類全体だ。このゲームが目指すゴールは、より公正で公平な、人々が健やかに暮らせる持続可能な社会を築くことである。

こうした発想を出発点として、国連メキシコ事務所はメキシコ市政府と協力し、ワールドカップの熱気と持続可能な開発目標(SDGs)を結び付けるイベント「アルデア・グローバル2026」を開催した。

写真:アルデア・グローバル2026 撮影:ギレルモ・アヤラ

会場では、30カ国以上が料理や民族衣装、観光資源、伝統、香りなどを通じて、それぞれの文化を紹介した。さらに、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連食糧農業機関(FAO)、国連女性機関(UN Women)、国連教育科学文化機関(UNESCO)、国連児童基金(UNICEF)をはじめとする15の国連機関・基金・計画が、会期中に訪れた300万人近い来場者に向けて、さまざまな催しを行った。

これらの催しの中には、SDGsに着想を得たものもあった。その一つが、参加型壁画「未来へのゴール」である。ここでは数千人の来場者が、SDGsへの支持を表すメッセージを書き込んだほか、国連の「フットボール・フォー・ザ・ゴールズ」プログラムの一環として、平和と平等への願いを込めた象徴的なペナルティーキックに挑戦した。

「フットボール・フォー・ザ・ゴールズ」は、サッカーが持つ世界的な影響力を活用し、サッカーに関わる幅広い人々の参加を促すとともに、SDGs達成に向けた協働を広げる取り組みである。

写真:参加型壁画「未来のためのゴール」 撮影:ギレルモ・アヤラ
写真:「未来のためにゴールを決めよう」 撮影:ギレルモ・アヤラ

子どもの人身取引と搾取にレッドカード――SDGs 8・5・16

人身取引の被害者である可能性のある人に気づき、疑わしい状況を通報することは、その人が搾取され続けるのを防ぐことにつながる。

国連薬物犯罪事務所(UNODC)メキシコ事務所のフェルナンダ・ルイス氏は、人身取引は通報されないケースが多く、その被害は特に子どもや青少年に及んでいると指摘した。

ルイス氏はまた、人身取引との闘いにおいて、市民は誰でも、その防止に向けて声を上げ、行動する担い手になれると強調した。そうした市民一人ひとりの行動は、ジェンダー平等(SDG 5)を促進するとともに、平和と公正が行き渡り、強固な制度が機能する社会(SDG 16)を築くことにもつながる。

写真:UNODCメキシコ事務所のフェルナンダ・ルイス氏 撮影:ギジェルモ・アヤラ

ルイス氏は、メキシコはその地理的条件から、人身取引の送出国であると同時に、通過国、目的国にもなっていると説明した。主な搾取の形態は、性的搾取と強制労働である。

このため、人身取引が疑われる兆候を市民に周知することが、対策の一つとなっている。例えば、本人が自分の身分証明書を管理できない、おびえた様子を見せている、別の人物が本人に代わって意思決定している、あるいは旅行中に通常とは異なる不自然な状況が見られる、といった場合である。

「伝えたいのは、私たちも『ボールを次につなぐ』ことができるということです。市民である私たちには、何が犯罪に当たるのか正確には分からないかもしれません。それでも、不審な状況に気づき、その情報を専門機関につなぐことはできます」とルイス氏は語った。

UNODCの『人身取引に関する世界報告書2024』によれば、確認された被害者の大半を女性と少女が占めている。

沈黙の敵、高血圧――SDG 3

SDGs Goal No. 3
SDGs Goal No. 3

自分の血圧を把握することは、いわば試合開始のホイッスルが鳴る前に勝利を手にするようなものだ。

汎米保健機構(PAHO)は「アルデア・グローバル2026」に参加し、慢性疾患の予防に焦点を当てた取り組みを展開した。

PAHOのコンサルタント、アリエド・ベンコモ氏は、高血圧が心血管疾患や脳血管疾患の主要な危険因子の一つであると説明した。また、「すべての人に健康と福祉を」を掲げるSDG 3は、疾病の早期発症を防ぐことも目指していると指摘した。

来場者の血圧を測りながら、ベンコモ氏は次のように語った。

「高血圧は、自覚症状がほとんどない『沈黙の病気』です。早期に発見できれば、その診断は一つの贈り物といえます。それによって、質の高い生活を送れる年月を自分自身に贈ることができるからです」

リカルド・ペレス・オソリオ氏は、「アルデア・グローバル2026」で行われた血圧測定などの活動は、健康管理と予防に対する意識を高めるうえで重要だと語った。

「私は高血圧なので、自分の状態を確かめたくて測ってもらいました。でも、きちんと管理できていますし、毎日自分で血圧を測っています」

公式データによると、メキシコでは人口の70%が過体重で、国民の3人に1人近くが肥満に該当する。肥満は主に、糖尿病や高血圧を含む心血管疾患、骨や筋肉の障害、特定の種類のがんなどと関連している。

また、大勢の人々が集まる会場とメキシコ市の夏特有の暑さを踏まえ、SDG 3を推進する取り組みでは、水分補給の重要性も繰り返し強調された。

ベンコモ氏は次のように注意を促した。

「熱中症や脱水症状には十分に警戒することが重要です。特に高齢者と5歳未満の子どもには注意が必要です。成人であっても危険があることを、私たちは過小評価しがちです。また、子どもが脱水状態に陥りつつあることに気づかず、見過ごしてしまう場合もあります。子どもの脱水症状は命に関わるおそれがあり、熱中症は死に至ることもあります」

サッカーは多様性への理解も育む

文化交流は、世界を見る視野を広げる機会となった。

メキシコで暮らし始めて3年になるブラジル出身のファビオ・ガルシア氏は、異なる文化に触れることは、特に若い世代にとって有益だと強調した。

「私たちは非常に多様な世界に生きています。他の文化について少しでも多く知ることで、物事をより広い視野から捉えられるようになり、偏見にとらわれにくくなります」

一方、コロンビアのカリから8人の家族とともにメキシコ市を訪れ、スタジアムで母国代表の試合を観戦したラウル・ガジェゴ氏は、イベントに集まったさまざまな国の人々との間に生まれた親しみや一体感を楽しんだ。中でも最も心に残ったのは、人々の温かいもてなしだったという。

写真:ラウル・ガジェゴ氏と息子 撮影:ギジェルモ・アヤラ
写真:ファビオ・ガルシア氏と家族 撮影:ギレルモ・アヤラ

このゲームは、90分を迎えて試合終了のホイッスルが鳴っても終わらない。平等、健康、平和、そして持続可能な開発の実現に向けた一つひとつの行動が、人類全体のスコアを着実に押し上げていく。

「アルデア・グローバル2026」は、サッカーが人権を守り、国際協力を促す架け橋にもなり得ることを示した。

持続可能な開発目標というフィールドに、対戦相手はいない。私たちは皆、同じチームの一員だからだ。そして、私たちが勝ち取るべき唯一の栄冠は、より良い世界の実現なのである。

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

INPS Japan

関連記事:

持続可能な開発促進の鍵を握る教育

ウイルスは爆撃できない! 共通利益のための新たな安全保障への期待

日本で関心呼んでいるカードゲーム「2030SDGs」

SGIが声明を発表 「戦闘を自動化する兵器の早期規制を」

【東京INPS Japan=SGI】 

近年、各地で起きている紛争を契機として新興技術を利用した兵器の開発や導入が進んでいる。このうち、今後の紛争を根源から変質させかねない恐れがある兵器として国際社会で懸念が高まっているのが、AI(人工知能)などを用いた自律型兵器システム(AWS)である。|英語版

この“人間の介在なしに標的を特定し武力を行使する兵器”の問題を巡り、SGI(創価学会インタナショナル)が「戦闘を自動化する兵器の早期規制を」と題する声明を発表した。
 
この声明は、世界の各地域(アジア太平洋、ヨーロッパ、アフリカ、北米、中南米)で平和運動を進める国々のリーダーなどで構成される「SGI声明委員会」が中心となってまとめたもの。地球的な課題をテーマにしたSGIの声明として、昨年1月(核兵器)、昨年11月(気候危機)に続くものである。
 
声明ではまず、自律型兵器システムに対し、国際的な規制と禁止を求める国が着実に広がってきたことに言及。
 
本年11月の特定通常兵器使用禁止制限条約の運用検討会議に向けて、さらに建設的な議論を進め、自律型兵器システムの国際的な規制の早期確立――特に人間を標的にした自律型兵器システムを禁止することを呼びかけている。
 
その上で、これまで池田大作先生がSGI会長として発表してきた平和提言における洞察を通しながら、こうした兵器にひそむ重大な非人道性の問題について指摘。自律型兵器システムの規制と禁止を求める「ストップ・キラーロボット」の連合体に加わる市民社会の団体や宗教者などと力を合わせて、条約の締結に向けたうねりを高めていくことを表明している。
 
「生命の尊厳」を根源から突き崩す
非人道的な対人兵器の禁止が急務

Image credit: United Nations
Image credit: United Nations

「われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救う。」
 
多くの国の民衆の尊い生命を奪った第2次世界大戦の痛切な反省に立って、国連憲章の前文に、この“人類共通の誓い”が刻まれてから、先月で81周年を迎えた。
 
国連の創設以来、東西冷戦という長らく続いた世界の分断をはじめ、度重なる危機に直面する中でも、国際社会では紛争解決や平和構築への努力が重ねられ、さまざまな軍縮条約の締結も、市民社会の力強い後押しを得ながら、一歩一歩、前進をみてきた。
 
しかし今、その長年にわたる国際社会の努力の積み重ねを、根底から突き崩しかねない状況が生じている。
 
ここ数年、ウクライナをはじめ、中東やアフリカなど各地で紛争や軍事力の行使が次々と広がる中、赤十字国際委員会などが警鐘を鳴らすように、「国際人道法の基本原則が、常態的に、そして意図的に侵害されている現状」が続いているからだ。
 
その結果、子どもや女性、高齢者や病気を患っている人々を含む、大勢の一般市民が犠牲となる被害が繰り返されている。
 
加えて憂慮されるのは、こうした現在の紛争を契機として、AI(人工知能)をはじめとする新興技術を用いた兵器の開発や導入が急速に進んでいることである。
 
“ドローンや高度な兵器の使用によって悪化した残虐な戦争のパターン”と赤十字国際委員会が警告するこの状況は、紛争が長期化するスーダンでもみられ、一般市民が容赦ない攻撃にさらされてきた。こうした危険で非人道的な傾向が今後も続くことになれば、武力行使の敷居が著しく低くなり、多くの人々の生命と尊厳を脅かす悲劇がさらに世界で広がりかねない。
 
そこで私たちSGIが今回の声明で呼びかけたいのは、AIなどを用いた自律型兵器システム(AWS)の国際的な規制の早期確立――とりわけ、人間を標的にした“対人兵器”としての自律型兵器システムの全面禁止である。

国連憲章採択の舞台となった米・サンフランシスコ市内の建物を1993年3月に訪れ、「国連貢献・国際文化交流推進賞」の授賞式で謝辞を述べる池田先生。日本の軍国主義と戦い抜き、国連憲章採択の1週間後(1945年7月3日)に出獄した創価学会第2代会長の戸田先生の信念は、国連憲章と同じく「戦争の流転の歴史を、根源的に転換せんとする熱願」に基づくものだったと強調した

条約の交渉開始を求める国々が拡大

自律型兵器システムとは、一般に“人間の介在なしに標的を特定し、武力を行使する兵器システム”と定義されるものである。
 
今、その開発が各国で歯止めのないまま進んでいるだけでなく、試験的な配備や使用が一部で現実化しつつあることに、国際社会で懸念が高まっているのだ。
 
このうち、極めて殺傷能力が高いものは「自律型致死兵器システム(LAWS)」と呼ばれる。このLAWSの問題や自律型兵器システムの規制に関する国際的な議論が、本年11月の特定通常兵器使用禁止制限条約の運用検討会議に向けて、大詰めを迎えようとしている。
 
昨年9月の政府専門家会合で、LAWSを規制する条約などの法的文書の交渉を進める用意があることを表明した共同声明を42カ国が支持したのに続き、本年3月の政府専門家会合ではその支持が70カ国に広がった。
 
これまでも、国連のグテーレス事務総長と赤十字国際委員会のスポリアリッチ総裁が共同で、自律型兵器システムに対する明確な禁止と制限を定めた新たな法的拘束力のある文書の交渉開始を呼びかけてきた。
 
また本年5月には、ローマ・カトリック教会の教皇であるレオ14世が、“AIの時代における人間の人格の保護”をテーマにした回勅を発表する中で、AIと連携した兵器の使用に対し強い警告を発し、次のように訴えた。
 
――AIは、紛争に内在する非人間性を取り除くものではない。むしろ、紛争をより迅速に引き起こし、より非人間的なものにし、暴力に訴えるハードルを下げ、防衛を脅威の予測へと変容させ、その結果、犠牲者を単なるデータへと還元してしまう。このようにしてAIは、私たちに“暴力は避けられないものであり、あとはそれをいかに最適化するかだけが問題だ”という考えを刷り込んでいくことになる――と。

SGIが他の団体と共催した、自律型兵器システムの問題への理解を深める展示。顔認証技術に関する問題を巡るコーナーも(2023年10月、ニューヨークで)©Alexander Bitar

私たちSGIは、これらの呼びかけや問題提起に深く賛同する。なぜなら、私たちが信奉する仏法の中核をなす「生命の尊厳」の思想と深く響き合うものだからであり、人間の生命や尊厳に深刻な影響を及ぼす問題を巡る重大な決定や判断を、AIに委ねることはあってはならないと考えるからである。
 
これまでSGIは、自律型兵器システムの規制と禁止を求める市民社会の連合体「ストップ・キラーロボット」のキャンペーンに2018年から参画し、国際人道法上の問題点を浮き彫りにした映画「インモラル・コード」の上映を行うなど、草の根レベルでの意識啓発を進めてきた。
 
また、世界教会協議会などと「宗教間共同声明」を2021年に発表し、“人類共通の価値を守るためには、LAWSの運用を断固拒否しなければならない”と主張してきたほか、さまざまな国際会議でSGIとして声明を発表する中で、人間をデータとして扱い、非人間化する自律型兵器システムの危険性を訴え続けてきた。

自律型兵器システムが及ぼす影響とその規制と禁止を訴える映画「インモラル・コード」の発表会(2022年5月、イギリスのロンドン市内で)

良心の呵責や逡巡の余地もない攻撃

振り返れば、特定通常兵器使用禁止制限条約の枠組みにおいてLAWSの規制を巡る初めての非公式会合が行われた2014年に、SGI会長の池田大作先生が、平和学者のケビン・クレメンツ博士との対談(『平和の世紀へ 民衆の挑戦』潮出版社)で、次のような警鐘を鳴らしていたことが思い起こされる。

「ひとたび戦闘開始の命令を下せば、人間の意思が介在する余地もなく――したがって良心の呵責も逡巡さえも一切生じることなく――自動的に攻撃を続ける殺人ロボット兵器は、人道的観点からもきわめて重大な問題をはらんでいます。
 
これらの兵器や核兵器の保有を正当化してしまう論理の奥底にあるのは、いったん相手を敵とみなせば、戦闘員・非戦闘員の区別なく徹底的に殲滅するという『究極の排除』の思想ではないでしょうか」と。

この危機意識に基づいて池田先生は、そのような兵器の開発と配備を禁止する枠組みづくりを早急に進めることを提唱したのである。
 
当時はまだ、AIなどを用いた自律型兵器システムは“未来の兵器”として捉えられ、規制の緊急性に対する国際的な認識はなかなか広がらなかったが、現在においては“今そこにある危機”となっている。
 
これまでのLAWSの規制を巡る政府専門家会合でも、兵器の運用に対して「人間による有意の制御」を求める声が高まっており、本年3月の会合では、それをさらに厳格化するものとして、兵器を配備する際の状況や環境に加えて国際人道法の条項の文脈を踏まえた「コンテクストに応じた適切な人間の判断と制御」を基本原則にする必要があるとの認識も広がってきた。
 
つまり、攻撃に関する決定を機械だけに委ねてはならず、法的な責任を負うことを含めて、人間が兵器の開発や運用のプロセスに関与することが欠かせないとの認識である。
 
こうした中、3月の会合で赤十字国際委員会が、国際人道法の遵守を確実にするため、「人間を標的にした自律型兵器システムの禁止」を定めた条項を合意に盛り込むことを提案した。
 
市民社会の連合体である「ストップ・キラーロボット」も、この提案を支持しており、人類が“自動化された殺戮”へと危険な形で進み続けることを防ぐために、各国政府に対し、法的および倫理的なルールを整備するよう呼びかけている。
 
私たちSGIも、その主張に深く同意する。国際的な規制の中核をなすものとして、「人間を標的にした自律型兵器システムの禁止」を実現することを、強く求めるものである。
 
次回の政府専門家会合は、8月31日から9月4日に開催される予定となっている。70カ国が支持する共同声明を土台としながら、この最終会合で建設的な議論を重ね、11月の運用検討会議に提出する報告書で、「人間を標的にした自律型兵器システムの禁止」を盛り込んだ条約の交渉開始の方針を明確に打ち出すことを呼びかけたい。

“他者を害しない”との誓いが
悲劇の拡大を止める原動力に

LAWSに対する池田先生の洞察

かつて池田先生は2019年の平和提言で、自律型致死兵器システム(LAWS)にひそむ問題の本質を浮き彫りにするような洞察を次のように示していた。

「もし、LAWSが規制されないまま、実際に使用される事態が起きた時、紛争の性格は根源から変わってしまうに違いありません。
 
そこでは、すでにドローン兵器の場合にみられるような、攻撃をする側と攻撃される側の人間が同じ空間にいないという“物理的な断絶性”に加えて、実際の戦闘行為が攻撃を意図した人間と完全に切り離されるという“倫理的な断絶性”が生じるからです」

その上で池田先生は、ドイツのヴァイツゼッカー元大統領が第2次世界大戦中に敵部隊と遭遇した時の出来事を回想しながら述べていた、「戦線の両側では、自分の命を気遣い、したがって互いにとてもよく似た心配をしている人間同士が対峙していた」との言葉と対比させつつ、LAWSのような兵器が紛争を根源的に変質させる恐れについて二つの面から問題提起を行っていた。

このような兵器が用いられた場合、敵味方に分かれた相手に対する複雑な思いや、人間性の重みを感じて、一時的であれ、戦闘行為を踏みとどまることはあり得るのか――と。
 
また、LAWSによる戦闘が行われた後に、従来の紛争でみられたような、自身が関わった行為に対する“深い悔恨”や、戦争に対する“やりきれない思い”、そして、次の世代のために平和な関係を築き直したいと切実に願う“一人の人間としての決意”が入る余地は、そこにあるのだろうか――と。

私たちSGIはこうした池田先生の洞察を基盤にして、「人間による有意の制御」を欠いた自律型兵器システムにひそむ重大な非人道性の問題を踏まえながら、自律型兵器システムに対する規制と禁止を訴え続けてきた。

1991年6月、統一ドイツのヴァイツゼッカー初代大統領と会談する池田先生。同年1月から2月にかけて起きた湾岸戦争を踏まえて、大統領は「将来に向かって我々が真剣に考えるべき問題は“(国連に)どのような機構があるか”よりもむしろ“何が安全を脅かすか”です」と指摘。“武力による平和”からの脱却を一貫して訴えてきた池田先生は、大統領の問題提起に賛意を示した(ボン市内の大統領官邸で)

人命の軽視や多大な犠牲を招く危険

この非人道性の問題に関して、これまでの国際会議の議論では、こうした兵器が“民間人に対する攻撃と無差別的な効果をもたらす兵器を禁じる国際人道法を脅かすこと”や、“攻撃をする側の犠牲を抑える自律型兵器システムの導入が、軍事力の行使に対する敷居を著しく下げることにつながること”への懸念が、繰り返し指摘されてきた。
 
私たちSGIは、この国際人道法上の懸念に加えて、仏法者としての立場から「生命の尊厳」の思想に基づき、“自律型兵器システムによって、攻撃される側の人間は単なるデータとして扱われ、その「デジタル技術による人間性の抹殺」が、人命を奪うことや多大な犠牲が生じることへの軽視につながり、「生命の尊厳」を根源から突き崩していく”という事態に対する警鐘を鳴らしてきた。
 
それ以外にも、自律型兵器システムにひそむ危険性として、不正確な情報や解釈などをもとに「ハルシネーション(幻覚)」と呼ばれる現象をしばしば起こすという問題や、何をどのように学習して判断を導き出したのかという過程が不明瞭である「ブラックボックス」といった問題があることが指摘されてきた。
 
そうした誤認識や予期しない誤作動が引き起こす被害や、説明責任を背負うことができない自律型兵器システムによる攻撃で、一人一人の人間にとって“かけがえのない存在”である家族や友人の命が奪われる悲劇が広がりかねないのである。
 
このような点に加えて、SGIがこれまでの会議で人権の視点に照らして特に注意を喚起してきたのが、AIのアルゴリズムは、民族や人種などに対する社会の偏見を反映するだけでなく、増幅させる危険性があるという点だ。
 
特に、人間を特定のカテゴリーに分けて特徴や傾向などの人物像を推論し、“その集団に属する人々が、将来、どのような行動をとるか”を一方的に決めつけてしまう「固有の犯罪性」という予見に基づいて、自律型兵器システムによる攻撃の標的にされる恐れがあるのだ。

オーストリア政府の主催で2024年4月にウィーンで行われた国際会議「岐路に立つ人類――自律型兵器システムと規制の課題」。市民社会による意見表明の場も設けられ、SGIの代表が“人間の生命に関わる意思決定を、AIなどに委ねることは看過できない”と主張した

人類の精神遺産が国際人道法の礎

こうした非人道性の観点とともに、私たちSGIが今回の声明を通じて、強く警鐘を鳴らしたいのが、国際的な規制が設けられないまま、自律型兵器システムの使用が紛争において主流となった場合、“紛争を止める力が一人一人の人間から根源的に奪われてしまう危険性”についてである。
 
各地の紛争で一般市民への被害が拡大し、非人道的な攻撃が多発する中、国際人道法をはじめ国際法を取り巻く状況への憂慮が、かつてないほど高まっている。
 
今後、一般市民を巻き込むような攻撃が、自律型兵器システムの野放図な使用によって紛争で半ば自動化されるようになった場合、紛争の性格は根源的に変質することになり、国際法を支える基盤となってきた“人間の良心”が歯止めとなる余地は完全に失われてしまう。
 
2年前(2024年5月)、スイスにある赤十字国際委員会の本部で、国際人道法の中核をなすジュネーブ諸条約の75周年を記念し、“人類共通の遺産”としての国際人道法の意義を巡るシンポジウムが行われた。
 
この“人類共通の遺産”という表現が象徴するように、歴史を通じてさまざまな宗教、伝統、文化が、戦時中に人道を維持するための規範を形づくる礎となってきた側面がある。
 
「戦争における人間性の保護」という理念は、国際法の普遍的な規範となる以前から育まれてきたものにほかならず、この規範を揺るがないものにするために、私たちは人類の精神的遺産として受け継がれてきた思想や精神に改めて目を向けることが重要となろう。

昨年10月、イタリアのローマで行われた宗教間の国際会議。世界50カ国から集ったキリスト教、イスラム、仏教、ユダヤ教、ヒンズー教などの関係者と共に、創価学会の代表も参加。分科会では、核兵器や難民問題のほか、AIに関する問題も討議された

仏教の説話が示す平和回復への教訓

仏教においても、戦争と平和に関する教訓が、さまざまな形で説かれている。
 
例えば、「刀兵劫」と呼ばれる“武器の時代”を巡る次のような説話がある。
 
――ある国の王が、人々の幸福を大切にする旧来の法を踏襲しなくなったことをきっかけに社会で人心が乱れた。その中で「猟師が鹿の群れを見たときのように、人々は出会えばいつも殺したい」と思うような状態に陥り、“武器の時代”に突入した結果、人間の寿命が著しく短くなった。
 
しかし、人々が次々と傷つけ合う極限の状況下にあっても、「おまえが私を傷つけないなら、私もおまえを傷つけない」と声を発して、暴力の連鎖に自らの身を投じることから踏みとどまろうとする人々もいた。
 
そして、生き残った者同士が出会った時には、「おまえは生きていたのか。おまえは生きていたのか」と、他人であってもまるで家族であるかのように喜び合った。そうした行いが模範となって、次第に慈しみの心が社会に取り戻され、国は平和を取り戻し、人間の寿命も再び延びるようになった――との教えが説かれている(長阿含経)。
 
翻って現代、自律型兵器システムの使用が紛争で主流化し、人々の命を奪う殺戮行為が自動化するようになってしまえば、他者を害しないという“人間の切なる思いから発する誓い”の重みも、根底から意味を失いかねないのではないだろうか。
 
安全保障はどの国にとっても重要だとしても、“世界の民衆の生存の権利”を根源的に脅かす新たな兵器に対しては明確な一線を引く必要があると、私たちは強く訴えたいのである。 

市民社会の連帯で条約締結のうねりを!

“眼差しの転換”で破壊と分断を防止

自律型兵器システムの規制に消極的な国の間では、“攻撃の精度を上げることで市民の犠牲を抑えることができる”との主張がある。しかし、他の国々が兵器の開発や導入を進めるようになり、紛争の勃発を機にそれが自国の人々に向けられた場合にも、使用を容認できる兵器と言い切れるのだろうか。
 
軍縮の問題とは分野は異なるが、池田先生が2015年の平和提言で人権問題を巡って次の洞察を通し、“眼差しの転換”を呼びかけたことがあった。

「そもそも、差別に基づく暴力や人権抑圧が、自分や家族に向けられることは、誰もが到底受け入れられないもののはずです。
 
しかしそれが、異なる民族や集団に向けられた時、バイアス(偏向)がかかり、“彼らが悪いのだからやむを得ない”といった判断に傾く場合が少なくない」
 
「だからこそ、相手の立場を互いに理解する努力が、ますます重要になってきています。
 
その努力を欠いてしまえば、緊張が高まった場合などに、自分たちにとっての『平和』や『正義』が、他の人々の生命と尊厳を脅かす“刃”となる事態が生じかねません」と。

思うに、自律型兵器システムの規制と禁止を巡る各国の討議を建設的なものにするためには、こうした“眼差しの転換”による問題の問い直しの作業が大切になるのではないだろうか。
 
私たちSGIは、軍縮や人権をはじめとする地球的な課題を巡って、「宗教間対話」や「文明間対話」に積極的に取り組むとともに、民衆レベルでの文化交流や教育交流に一貫して力を入れてきた。世界平和への道を開き、地球的な問題の解決に取り組む連帯の裾野を広げるためには、国家の枠組みを超えた対話や交流を通じた“眼差しの転換”が欠かせないと考えてきたからにほかならない。
 
本来、平和に関わる問題も、人権の問題と同様に、誰もが等しく守られることを眼目として取り組まねばならない。人類の行く末を「破壊」や「分断」に向かわせないために強く求められるものも、その一点にあろう。
 
私たちSGIは、自律型兵器システムの規制と禁止を求める国々や赤十字国際委員会をはじめ、「ストップ・キラーロボット」の連合体に加わる多くの市民社会の団体や宗教者などと力を合わせるとともに、次代を担う青年世代を中心にグローバルな民衆の連帯を広げながら、条約の締結に向けたうねりを力強く高めていく決意である。
 
*** *** ***

<語句解説>
特定通常兵器使用禁止制限条約 非人道的な効果を有する特定の通常兵器の使用禁止や制限に関する条約で、1980年に採択され、83年に発効。基本的な事項を定めた条約と、焼夷兵器や失明をもたらすレーザー兵器など個別の通常兵器について規制する五つの付属議定書から成る。
 
ストップ・キラーロボット 2012年の設立以来、自律型兵器システムの規制と禁止を求める運動を推進。その取り組みには、75カ国以上で活動する300を超える団体が参画している。
 
ジュネーブ諸条約 1949年にジュネーブで採択された、戦時における文民の保護などを定めた四つの条約の総称。77年に採択された同条約に関する二つの追加議定書によって補完されている。
 
アルゴリズム 一定のルールに基づいて判断や結論を導く計算や処理の手順。

<引用文献>

ヴァイツゼッカー元大統領の言葉は、『ヴァイツゼッカー回想録』(永井清彦訳、岩波書店)。
 
仏教の説話は、『現代語訳「阿含経典」――長阿含経』第2巻(平河出版社)収録の「転輪聖王修行経」(辛嶋静志訳)を引用・参照。

INPS Japan

Toward a Nuclear Free World Banner 1
Toward a Nuclear Free World

関連記事:

|視点|ローマ宣言の先へ―AIと核兵器の時代に築く「ローマ・プロセス」(浅霧勝浩INPS Japan理事長)

ローマのコロッセオで宗教指導者が平和を訴える―戦争に引き裂かれた世界に向けた連帯の祈り

岐路に立つ 自律型兵器システム:国際的な規制へ緊急の呼びかけ

著名な仏教指導者が核兵器とキラーロボットの禁止を呼び掛ける(池田大作創価学会インタナショナル会長インタビュー)

2030年以降に向けた人権を中心に据えた変革的アジェンダを目指して

【ミュンヘン/ブリュッセルIPS=ガブリエーレ・ケーラー、キャサリン・ムベングエ

持続可能な開発目標(SDGs)を柱とする「2030アジェンダ」は2030年に期限を迎える。それに続く新たな国際開発アジェンダの正式な政府間交渉は、2027年秋の国連総会で開始される予定である。英語版
Beyond GDP Report Credit: United Nations

しかし、それに先立ち、新たな開発枠組みに関する議論はすでに各地で始まっている。BRICSやG20、欧州連合(EU)などの多国間協議をはじめ、国連では「未来サミット(Summit of the Future)」、「ドーハ世界社会開発サミット」、『Beyond GDP(GDPを超えて)』報告書などに関連する議論が進められている。また、「ハンブルク・サステナビリティ会議」をはじめとする国際フォーラムでも活発な意見交換が行われている。

さらに、シンクタンクや学術界でも、SDGsへの真のコミットメントをいかに再び呼び起こし、その先の世界をどのように構想すべきかについて、さまざまな提案や議論が進められている。

こうした状況を踏まえれば、「2030年以降」の開発アジェンダが進むべき新たな方向性について、今こそ議論を深める絶好の機会と言えるだろう。

開発アジェンダの発想を転換する必要性

国際社会が「開発アジェンダ」という考え方を初めて打ち出したのは1960年の「国連開発の10年(Development Decade)」であった。それ以来、貧困撲滅のための各種国際目標、ミレニアム開発目標(MDGs)、そして現在の持続可能な開発目標(SDGs)へと、その取り組みは形を変えながら受け継がれてきた。

しかし、そのたびに明らかになる現実は厳しい。掲げられた理想は、せいぜい部分的にしか実現されていないのである。

現在、多くの専門家がSDGsの進捗状況に深い失望を抱いている。多くの目標は達成が大きく遅れ、一部ではむしろ後退さえ見られる。

だからこそ、2030年アジェンダがなぜ期待された成果を上げられなかったのか、その原因を改めて検証する必要がある。

その理由の一つとして挙げられるのは、SDGsが貧困や格差を生み出す構造的な要因について十分な分析を行わず、その問題を避けてきたことである。政治的・経済的な権力構造や不平等な支配関係には、ほとんど踏み込んでいない。

さらに、これまでの開発アジェンダと同様に、SDGsも各国の政治的な「約束」にとどまり、法的拘束力を持たないという問題がある。

Gabriele Koehler
Gabriele Koehler

SDGsの進捗報告は各国の自主的な取り組みに委ねられており、その内容も個別事例の紹介に終始することが少なくない。そのため、各国政府は表面的にはSDGsに積極的に取り組んでいるように装いながら、実際には必要な改革を回避することも可能となっている。

また国際社会全体としても、低所得国や社会的に排除された人々に不利益をもたらしている世界経済の構造そのものを改革する責任から逃れることができてしまっている。

さらに、これまで繰り返されてきた開発アジェンダから得られるもう一つの重要な教訓は、将来世代の権利や利益が、明確な責任原則として位置づけられてこなかったことである。

子どもや若者は、貧困、不平等、紛争、環境破壊の影響を最も深刻に受ける存在であるにもかかわらず、自らの未来を左右する政策決定に参加する機会は極めて限られている。

したがって、2030年以降の開発アジェンダは、国際的に認められた人権条約上の義務を基盤とするべきである。

そうすることで、現在世代だけでなく将来世代に対する責任についても、定期的な検証と説明責任を制度的に確保できるようになる。

とりわけ、世界のほぼすべての国が批准している「子どもの権利条約(CRC)」は、そのような人権に基づく新しい開発アジェンダを構築するための極めて強固な基盤となり得る。

新たな提案

私たちはここで、2030年以降の開発アジェンダについて、新たなアプローチを提案したい。

それは、次期開発アジェンダを国連人権理事会(Human Rights Council:HRC)の枠組みに位置付けるという考え方である。

新たな開発目標の策定、その政府間交渉、さらには実施後の報告・監視までを、人権理事会が長年にわたり蓄積してきた普遍的・定期的審査(Universal Periodic Review:UPR)や国際人権条約の監視制度を活用して進めることを提案する。

人権条約の監視制度を活用する

Photo: UN Human Rights Committee session. Credit: Jaurocks カナダ・フランスの核兵器政策、「生
Secretary-General António Guterres addresses during the Opening of the 40th session of the Human Rights Council, Palais des Nations. 25 February 2019. UN Photo by Violaine Martin

人権理事会の制度では、各国政府は、自国が批准した9つの主要国際人権条約について定期的に履行状況を報告する義務を負っている。

審査では、①各国政府自身による報告書、②国連人権高等弁務官事務所(OHCHR)の独立した調査・分析、③市民社会組織(NGO)による報告書(提出がある場合)、などが総合的に検討される。

各国は批准した条約について、一定期間ごとに報告書を提出し、その履行状況について説明責任を果たさなければならない。

なかでも、子どもの権利条約(CRC)女性差別撤廃条約(CEDAW)は世界のほぼすべての国が批准しており、2030年以降の開発アジェンダを人権に基づく枠組みとして構築するうえで、世界的に最も強固な共通基盤となっている。

普遍的・定期的審査(UPR)の強み

さらに、人権理事会は2008年以降、加盟国の人権状況を包括的に審査する普遍的・定期的審査(UPR)を実施している。

UPRでは、各国が次のような国際的義務をどの程度履行しているかが審査される。

  • 国連憲章
  • 世界人権宣言
  • 批准済みの人権条約
  • 国内の人権政策・制度
  • 適用される国際人道法

審査では、対象国の報告に加え、3か国の政府が査読(ピアレビュー)を行う。また、独立した人権専門家や市民社会も独自の評価を提出する。

これまで実施された最初の3サイクルのUPRには、国連加盟193か国すべてが参加しており、この制度が国際的に広く受け入れられていることを示している。

また、子どもの権利条約(CRC)の報告制度も、定期的な審査、独立した専門家による評価、市民社会の参加が、各国の政策改善と説明責任の強化に大きく貢献してきたことを示している。

労働の権利も組み込む

私たちが提案する2030年以降の新しい開発アジェンダでは、人権条約に加えて、国際労働機関(ILO)の11の基本的労働基準も組み込むべきである。

SDGs Goal No. 8
SDGs Goal No. 8

これにより、

  • ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)
  • 生活賃金
  • 社会保障を受ける権利
  • 労働組合の結成と団体交渉権

などを開発アジェンダの中核に据えることができる。

これもまた、各国政府がすでに国際的に負っている法的義務を活用するという考え方に沿うものである。

環境・気候変動も不可欠

さらに、人類が直面する「三重の地球規模危機(気候変動、生物多様性の喪失、環境汚染)」に対応するためには、

  • 清潔で健康的かつ持続可能な環境への権利を認めた国連総会決議
  • 気候変動枠組条約(UNFCCC)の下で各国が提出する国が決定する貢献(NDC)
  • その他、気候変動や生態系保全に関する国際的義務

も新たな開発アジェンダの構成要素として組み込む必要がある。

これらは人権条約ほど制度化されてはいないものの、加盟国が国際的に履行を求められる重要な約束である。

人権を基盤とする開発アジェンダの可能性

開発アジェンダを人権に基づく枠組みへと転換するという考え方自体は、新しいものではない。

しかし、2015年にSDGsが策定される際には、一部の国々から反対があり、この発想は十分には採用されなかった。

とはいえ、実務レベルではすでに一定の成果が蓄積されている。例えば、デンマーク人権研究所(Danish Institute for Human Rights)は2015年以来、多くのSDGsのターゲットを国際人権条約と対応付ける「人権モニタリング・ツール」を開発・運用してきた。

つまり、人権を基盤とした開発目標を運用するための知見や経験は、すでに十分に蓄積されているのである。

新たな制度がもたらす効果

Catherine Mbengue

私たちは、「2030年以降」の開発アジェンダに関する議論と交渉の舞台を、現在の経済社会理事会(ECOSOC)の下に置かれる持続可能な開発に関するハイレベル政治フォーラム(HLPF)から、国連人権理事会(HRC)へ、さらにILOなどの機関とも連携する形へと移行することで、新たなダイナミズムが生まれると考えている。

第一に、効率性が向上する。

各国政府は、現在別々に実施しているSDGsの自主的な進捗報告(VNR)と、人権条約に基づく義務的な報告を一体的に進めることが可能となる。

第二に、実効性が高まる。

人権理事会やILOの審査制度では、各国政府は審査で示された勧告に対して対応し、その後の進捗を報告することが求められる。このため、単なる自主的な報告に比べ、政策改善につながる可能性が高い。

第三に、より誠実で透明性の高い制度となる。

政府だけではなく、学術界、市民社会、国連機関など、多様な主体による評価が組み込まれるため、多角的で客観性の高い検証が可能になる。

第四に、より科学的な評価が可能となる。

国際人権条約の審査には、厳格な学術的手法に基づいて活動する独立した専門家が参加しており、エビデンスに基づく評価が期待できる。

UN Photo
UN Photo

実現への課題

Photo: WIKIMEDIA COMMONS
Photo: WIKIMEDIA COMMONS

もちろん、このような仕組みは、人権上の義務を果たしていない国々にとっては、より厳しい監視を受けることを意味する。

そのため、この提案そのものを議論の俎上に載せることさえ容易ではないだろう。

また、「SDGs」を現在のニューヨーク中心の体制からジュネーブへ、さらに気候変動分野まで含めればナイロビとの連携も視野に入れるという発想には、既存の制度や既得権益を持つ関係者から抵抗が生じる可能性もある。

さらに、この仕組みが十分に機能するためには、人権理事会そのものに加え、各国における人権条約機関や労働基準の監視体制が、安定的かつ十分な財政基盤を持つことが不可欠である。

「今こそ変革の好機」

それでも私たちは、いま世界は「変革の好機(a magic moment)」を迎えていると考えている。

社会的・経済的正義を求める多くの潮流が、いままさに一つに収束し始めているからである。

知的な潮流としては、

  • 『Eradicating Poverty Beyond Growth: A Global Roadmap for a New Economy(成長至上主義を超えて貧困を根絶する―新しい経済への世界的ロードマップ)』
  • 『Global Justice Report(グローバル・ジャスティス報告書)』
  • 『Eco-Social Contract for Sustainable and Just Futures(持続可能で公正な未来のためのエコ・ソーシャル契約)』

といった重要な研究成果が相次いで発表されている。

また政治的にも、

  • 国際不平等パネル(International Panel on Inequality)
  • 社会正義のためのグローバル連合(Global Coalition for Social Justice)
  • ブラジルと南アフリカが主導する国際課税の公正化(Tax Justice)の取り組み

などは、現在の国際経済秩序を根本から見直すことを求める世界的な機運の高まりを示している。

さらに国連では、世界社会開発サミットで採択されたドーハ宣言が、「より公正で、包摂的で、衡平かつ持続可能な世界」の実現を各国に求めている。

こうした流れを踏まえれば、「2030年以降」の開発アジェンダを人権を基盤とする制度へと転換することは、地球環境の限界を踏まえながらグローバルな社会正義を実現するための、長年待ち望まれてきた大きな転換点となり得るだろう。

SDGs for All
ガブリエーレ・ケーラー(Gabriele Koehler)氏は、ESCAP(国連アジア太平洋経済社会委員会)、UNCTAD(国連貿易開発会議)、UNDP(国連開発計画)、UNICEF(国連児童基金)などで勤務した元国連職員。現在は国連社会開発研究所(UNRISD)の上級研究員を務めるとともに、「Women Engage for a Common Future」や「Global Social Justice」、「ビジネスと人権条約を求める同盟」など複数のNGO・市民社会ネットワークに参加している。UN80プロセスをはじめとする国連改革を継続的にフォローし、SDGsについては策定以前から研究・執筆・政策提言・講演活動を続けている。
キャサリン・ムベングエ(Catherine Mbengue)氏は、開発協力、人道支援、人権分野で40年以上の経験を有する国際コンサルタント。元UNICEF上級幹部(UNICEF代表・上級顧問)として各国で勤務した後、現在は各国政府、国際機関、市民社会組織への助言を行うとともに、子どもの権利、社会正義、国際機関改革に取り組む複数の国際組織の理事を務めている。

INPS Japan/ IPS UN Bureau Report

関連記事:

国連の未来サミット:核兵器廃絶と気候危機に取り組むために必要な若者主導の行動

世界人権デー 2025年

2030年への最後の追い込みを「自然保全への資金動員の転換点」に――第8回GEF総会

相乗効果を力に、2030年までSDGsへの歩みを止めない(浅井伸行 SGI平和センター環境・人道部長)

【東京INPS Japan=浅井伸之】

SDGsの目標年である2030年まで、残すところあと4年となりました。残念ながら、169のターゲットの多くは、期限までの達成が困難とみられています。さらに憂慮すべきことに、一部の政治指導者はSDGsに否定的な姿勢を示し、これまでの前進に逆行する政策さえ進めています。|英語版

その一方で、私は2026年2月、バンコクの国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)で開催された「アジア太平洋持続可能な開発フォーラム」に参加し、SDGsが今なお多くの政府にとって重要な指針であり続けていることを目の当たりにしました。

SDGs Goal No. 11
SDGs Goal No. 11

このフォーラムは毎年、選定されたSDGsについて各国の進捗を検証し、優れた解決策を共有するとともに、残された課題を明らかにするために開催されています。今年、重点的に取り上げられた目標の一つが、創価学会とSGIが長年にわたり取り組んできた目標11でした。私は、SGIがこの10年にわたり加盟しているSDGs市民社会ネットワークの支援を得て、同フォーラムに参加しました。

フォーラムでは、多くの政府関係者が、それぞれの目標に照らした進捗評価や具体的な取り組みを紹介しました。興味深かったのは、その発言の中で、関連する他の目標にもたびたび言及していたことです。

例えば、ある政府関係者は、目標11に掲げられた公共交通の改善について説明し、それが自動車から排出される温室効果ガスの削減につながり、目標13の達成にも貢献すると強調しました。また、目標5以外の目標を推進する際にも、ジェンダー平等の視点を取り入れていると述べた参加者もいました。

このように、複数の目標を常に念頭に置き、その相互のつながりを意識する姿勢は、SDGsが採択された当初には、それほど一般的ではありませんでした。しかし現在では、他の目標を犠牲にして一つの目標だけを達成することは許されない、という認識が共通理解となっています。これは非常に意義のある前進です。

ちなみに日本政府はこの点を重視し、国際社会において「シナジー・アプローチ」、すなわち相乗効果を重視する手法を推進しています。これと歩調を合わせ、環境省の関連機関である地球環境戦略研究機関(IGES)は、複数のターゲットの達成に同時に寄与する政策と、ターゲット間に対立やトレードオフを生じさせかねない政策の双方を示しています。

ここ数年、開発資金は減少し、複数の国連機関が財政危機に直面しています。この傾向は今後も続くとみられ、資金や援助をいかに効果的かつ効率的に活用するかが、ますます重要になっています。 こうした状況において、メディアプロジェクト「SDGs for All」は、SDGsをより幅広い視点から捉える機会を提供し、読者が世界の状況をより深く理解する一助となるものです。

このプロジェクトを通じて得た学びを胸に、私たちも2030年まで、最大限の努力を続けてまいります。

AI、核戦争、気候危機、飢餓など、相互に関連しながら人類の未来を脅かす地球規模の課題を報じ、人々の地球市民としての意識を具体的な行動へと結びつける「知のインフラ」としてのジャーナリズムを表現したイメージ。INPS Japanと創価学会インタナショナル(SGI)が推進する共同メディアプロジェクトは、ローマ宣言を継続的な国際協力と市民の行動へと発展させる「ローマ・プロセス」に貢献し得る情報基盤の一例である。イラスト:INPS Japan
AI、核戦争、気候危機、飢餓など、相互に関連しながら人類の未来を脅かす地球規模の課題を報じ、人々の地球市民としての意識を具体的な行動へと結びつける「知のインフラ」としてのジャーナリズムを表現したイメージ。INPS Japanと創価学会インタナショナル(SGI)が推進する共同メディアプロジェクトは、ローマ宣言を継続的な国際協力と市民の行動へと発展させる「ローマ・プロセス」に貢献し得る情報基盤の一例である。イラスト:INPS Japan
本稿は、INPS Japan創価学会インタナショナルと推進しているSDGs for Allメディアプロジェクトの報告書(2025年4月~26年3月までに配信されたプロジェクト記事をまとめたもの)に寄稿されたものである。

INPS Japan

SDGs for All 2026 Report
SDGs for All 2026 Report

関連記事:

混迷を越え、行動を促す―リカルド・グラッシが描くジャーナリズム

|バチカン会議|世界の諸宗教にSDGsへの協力求める

未曽有の危機に直面する世界に希望の光:仏教指導者からの提言

ロマの人々への特別な配慮なくして、ウクライナ復興の成功はない

【ブラチスラバIPS=エド・ホルト

Neda Korunovska, Vice President for Analytics and Results at the Roma Foundation for Europe
Neda Korunovska, Vice President for Analytics and Results at the Roma Foundation for Europe

ロシアによる全面侵攻が続く中、各国政府、援助機関、NGO、開発銀行、企業の代表らがポーランド・グダニスクに集まり、ウクライナ復興について議論した。すでに数十億ユーロ規模の復興支援が約束されている一方で、その復興をいかに効果的かつ透明性をもって、公平に進めるかという課題は依然として残されている。|英語版

戦争は、とりわけ社会的に脆弱な立場に置かれてきた人々に深刻な影響を及ぼしている。なかでもロマ(Roma)の人々は、住宅、医療、教育、雇用へのアクセスに以前から多くの障壁を抱えており、復興政策に特別な配慮がなければ、既存の格差がさらに固定化される恐れがあると、ロマ人権団体は警鐘を鳴らしている。

IPSは、ロマ・ヨーロッパ財団(Roma Foundation for Europe)で分析・成果担当副代表を務めるネダ・コルノフスカ(Neda Korunovska)氏に、なぜロマの声を復興計画に反映させることが不可欠なのか話を聞いた。

IPS:戦後のウクライナでは、どの程度の復興が必要になるのでしょうか。どのような復興が求められると考えますか。

コルノフスカ氏(以下NK):考えなければならないのは二つの側面です。

一つは、道路や住宅、インフラなど物理的な復興。もう一つは、社会そのものの再建です。

世界銀行や国連機関、EU、ウクライナ政府は毎年、今後約10年間を見据えた復興ニーズ評価を公表しています。キーウ経済研究所も復興費用を試算していますが、これらはいずれも経済モデルに基づくものです。

しかし、包摂的(インクルーシブ)な社会を築くために何が必要かを数値化することは、はるかに難しい課題です。現在の試算では、そのために必要な資金や政治的意思が十分に考慮されているとは言えません。

私たちの活動を通じて分かっているのは、復興を真に包摂的なものにすることは非常に難しいということです。

ウクライナ社会はもともと様々な分断を抱えていました。そして戦争によって、その分断はさらに深まりました。軍に従軍している人としていない人、国内避難民、国外避難民など、多様な立場の人々が存在しています。社会的結束を再構築する議論では、こうした違いを十分考慮しなければなりません。

さらに、戦争が長期化し続けていることも大きな障害です。新たな被害は今も毎年発生しており、政府の最優先事項は安全保障と防衛です。緊急対応に必要な資金すら毎年不足している状況であり、本格的な復興は極めて複雑なものになっています。

IPS:社会の分断について触れられましたが、戦後復興では「ある集団を他より優先すべきだ」という考え方がすでに存在しているのでしょうか。

NK:公式にはありません。しかし、実際には非公式な形で起きています。

私たちの最近の調査では、住宅被害に対する補償制度などで、その実態を確認しました。

例えば国内避難民(IDP)として登録するには、占領地域や戦闘地域に居住していたことを示す有効な身分証明書が必要です。身分証を持っていなかったり、登録住所が一致しなかったりすると、実際にそこに住んでいても支援を受けられません。行政機関も人手不足のため、結局は「誰を知っているか」という人間関係が大きく影響します。

これはウクライナだけでなく旧ソ連諸国では珍しくありません。病院の予約一つ取るにも、知人のつながりが役立つことがあります。現在のウクライナでも同じです。限られた資源しかないため、誰を優先するかは形式上ではなく、非公式なネットワークによって左右される場合があります。

その結果、社会的なつながり(ソーシャル・キャピタル)が乏しい人々ほど後回しにされてしまうのです。

IPS:ロマの場合、身分証明書を持たない人や土地・住宅の所有を証明できない人も少なくありません。戦後復興から取り残されることを特に懸念していますか。

NK:はい。非常に懸念しています。

戦争中に実施された社会的結束に関する調査でも、ロマとその他の住民との間には依然として大きな格差があることが示されています。唯一改善が見られたのは、ロマと非ロマが共に戦火を経験し、困難を共有した地域だけです。

しかし、それはウクライナ全土には広がっていません。これが私たちにとって大きな懸念です。

IPS:ロマだけでなく、他の少数民族も取り残される可能性がありますか。

NK:あります。ただし、その危険性が最も高いのはロマです。

ウクライナ社会には「ロマはこの国に属していない」「国外へ出ていくべきだ」と考える人が少なくありません。もちろん、ロシア系住民を含め、他の少数民族も戦後には様々な困難に直面するでしょう。

IPS:しかし、その中でもロマが最も深刻な課題を抱えているということですね。

The scene of a destruction caused by the war in Ukraine. Credit: UNOCHA/Dmytro Filipskyy
The scene of a destruction caused by the war in Ukraine. Credit: UNOCHA/Dmytro Filipskyy

NK:その通りです。教育、就労機会、言語、識字能力、居住地域など、あらゆる面で複合的な不利を抱えています。

農村部や孤立した地域、非公式居住地に暮らす人も多くいます。もちろん地域差はありますが、戦争によってこうした問題はさらに悪化しました。

しかも現在、それらに本格的に取り組もうという能力も政治的意思も十分ではありません。復興ではエネルギー、地雷除去、交通、住宅が優先されます。当然、多数派に関わる課題が優先されるでしょう。だからこそ、少数派であるロマは後回しになってしまうのです。

何世紀にもわたり、多くの人々はロマに対して否定的なイメージを抱いてきました。教師や技術者、電気技師として社会に貢献する存在ではなく、周縁化された集団として見られてきたのです。この固定観念こそが、今日の差別の根底にあります。

IPS:ロマの居住地も戦争で被害を受けています。戦後、補償も受けられず、そのまま放置される危険性がありますか。

NK:残念ながら、その危険性は十分あります。現在の補償制度では、多くのロマが正式な住宅所有者として認められていません。相続手続きが複雑だったり、不動産登記がされていなかったり、税金や行政手数料を支払えなかったりするからです。

彼らは怠けていたわけではありません。限られた収入の中で、書類手続きよりも食料や暖房を優先せざるを得なかったのです。

さらに住宅自体も簡易な材料で建てられている場合が多く、損壊しやすいという問題があります。しかし、こうした脆弱性は現在の補償制度では十分認識されていません。

IPS:では、ロマが復興から取り残されないためには何が必要でしょうか。

NK:私たちはロマの政治参加の拡大を求めています。しかし、それ以上に重要なのは、ロマ自身から直接話を聞き、彼らが直面している障壁を理解し、その知見を復興制度の設計に反映することです。

新しいウクライナは包摂的な国家でなければなりません。その理念を政治指導者自身が明確に示し、優先課題として位置付ける必要があります。

他国の戦後復興では、社会的結束を軽視した結果、さまざまな問題が起きました。戦時には愛国心やナショナリズムが強まります。戦前にロマを襲撃していた一部の準軍事組織のメンバーが、戦争では英雄視されるようになった例もあります。

Roma soldier in Uzhhorod, Ukraine. (c) Dmytro Myntyan

彼らの価値観は本当に変わったのでしょうか。私は戦後にロマへの大量虐殺が起こると言っているわけではありません。しかし、他国の経験では、戦後には家庭内暴力、女性殺害(フェミサイド)、民族・人種を理由とする暴力が増える傾向があることが分かっています。

一方で、多くのロマも祖国を守るために戦っています。小さな子どもがいる、あるいは識字能力の問題から兵役免除の対象となる人もいますが、それでも多くが志願して祖国防衛に参加しています。

彼らの貢献が、戦後に忘れ去られてはなりません。

コソボでも、ボスニア・ヘルツェゴビナでも、同じことが起きました。

IPS:政府関係者はこうした危険性を理解しているのでしょうか。

NK:率直に言えば、理解しています。ただ、今は戦争を戦いながら国家を維持しなければならないため、優先順位が極めて限られているのです。

IPS:戦後復興については、すでに議論が始まっていますか。

NK:議論そのものは適切な方向に進んでいます。問題は、それを実際の社会政策へどう落とし込むかです。ウクライナは地方分権が進んでいるため、地方自治体ごとの行政能力には大きな差があります。

ロマへの対応も地域によって大きく異なります。政策だけでなく、地方行政がそれを実行できるかどうかが重要です。現状では、例えば非公式住宅について代替的な所有証明を認める制度は整備されていません。

しかも被害があまりにも大きく、予算が不足しているため、行政はまず「手続きが簡単な案件」を優先せざるを得ない状況です。

IPS:最後に、なぜロマを戦後復興に包摂することが、ウクライナ全体にとって重要なのでしょうか。

SDGs Goal NO.10
SDGs Goal NO.10

NK:「国民全体が甚大な被害を受けたのだから、なぜロマだけ特別扱いする必要があるのか」と考える人もいるでしょう。しかし、本当に問うべきなのは、新しいウクライナをどのような国として築くのかということです。

ロマを非公式経済へ追いやり、学校教育から排除してきた構造的な問題を放置することは、ウクライナ自身の利益にもなりません。この戦争で、ウクライナは多くのものを失いました。

だからこそ、これからは国民一人ひとりの力を最大限に生かすことが必要です。

誰もが自分らしく生き、それぞれの能力を経済、政治、文化の発展に生かせる社会を実現すること。それこそが、真の復興なのです。

INPS Japan/IPS UN BUREAU Report

関連記事:

ブチャの住民の証言(1):「彼らはKAZAM(ロシア軍のトラック)で庭に乗り付け、持ち出せるものは何でも積み込んでいった。(ヴァディム・ヤロシェンコ)

過去の残虐行為の歴史を政治利用してはならない(トマス・ハマーベリ)

国連、「教育の力」で不寛容、人種差別との闘いへ

キューバ、最後の一手

この駆け引きの本質は、キューバの変革の条件を誰が決めるのかという一点にある。

メキシコシティーIPS=サンドラ・ヴァイス】

ベルリンの壁が崩壊し、東側共産圏が消滅してから37年。キューバでは社会主義体制の経済改革をめぐる議論が続いてきた。その論点は一貫している。国家による計画経済を縮小し、個人の裁量と責任を拡大すること―言い換えれば、非効率で腐敗した国家官僚機構を立て直すために、市場経済の要素をより積極的に取り入れるという発想である。|英語版

Map of Cuba. Credit: Wikimedia Commons

しかし、この間に大きな前進はほとんど見られなかった。自由化や市場開放の時期が訪れても、そのたびに統制強化へと揺り戻しが起きた。党や軍、官僚機構の保守派が何度も改革にブレーキをかけてきたのである。その背景には、改革が所得格差を拡大し、新たな富裕層への反発を生み出したことがある。そして何よりも、権力と統制を失うことへの恐れ、さらには「階級の敵」、すなわちキューバの文脈では米国帝国主義の浸透に対する警戒感があった。

底なしの穴への資金投入

ところが先週、事態は一気に動いた。

燃料不足のため多くの議員がハバナへ移動できず、定足数も十分ではないまま急遽招集された国会は、176項目に及ぶ包括的な改革プログラムを可決した。その内容は極めて広範囲に及び、多くの専門家が「歴史的改革」と評価している。

今回の改革では、社会主義経済の「聖域」とされてきた制度にもメスが入った。

まず、すべての国民を対象とした一律補助金制度は廃止され、今後は社会的弱者への重点的支援へと転換される。これは半世紀以上にわたり、国民がほぼ無料で食料や日用品を受け取ることを可能にしてきた配給制度「リブレタ(Libreta)」の終焉を意味する。近年、この制度は深刻な経済危機によって実質的に機能を失い、名目だけが残る状態となっていた。

もう一つの大きな転換点は地方分権である。

今後、国営企業や地方政府はハバナ中央政府への依存を減らし、人事や賃金を含む経営判断をより自主的に行えるようになる。

この極端な中央集権体制を痛烈に風刺した作品として知られるのが、フアン・カルロス・タビオ監督とトマス・グティエレス・アレア監督による1995年の名作映画『グアンタナメラ』である。同作品では、官僚主義のために遺体を埋葬するだけでも、島の東端サンティアゴ・デ・クーバから西端ハバナまで運ばなければならないという不条理が描かれている。

民間投資と市場開放へ

今回の改革では、国外へ移住したキューバ人(亡命者・移民)による国内への直接投資も認められる。

さらに、これまで協同組合に限られていた農業分野にも民間企業の参入が認められる。

かつて砂糖輸出大国として栄えたキューバ農業は現在、機械や肥料、技術、労働力の不足により壊滅的な状況にある。数百万ヘクタールもの農地が耕作されないまま放置され、食料の大半を輸入に頼っている。

輸入先には中国、トルコ、アラブ諸国が含まれるが、皮肉なことに、経済制裁下にある隣国アメリカからも食料を輸入している。

エネルギー分野でも民間投資が解禁される。また、個人が複数の民間企業を所有することも可能となる。

自由化はこれだけにとどまらない。

政府は貿易、外国投資、国際経済への統合を加速させる方針である。

具体的には、

  • 民間銀行やマイクロファイナンス機関の設立を認可
  • 外貨取引規制の大幅緩和
  • 個人・企業による外貨口座の自由な開設
  • 外国企業が国営人材派遣会社を介さず直接従業員を採用することを許可
  • 外国企業に対する国営企業との合弁義務の撤廃
  • 在外キューバ人による直接投資の解禁

などが盛り込まれた。

これらの措置によって、外国資本と新たな投資を呼び込むことが狙いである。

すでに遅すぎた改革か

実は、これらの改革の多くは何年も前から議論されてきたものだった。

中国やベトナムも長年にわたりキューバ指導部に市場改革を促してきた。歴史的な友好関係や地政学的・イデオロギー的な結び付きはあったものの、成果の見えないキューバ経済へ資金を注ぎ込み続けることに限界を感じていたからである。

15年前、ベネズエラから潤沢な石油供給を受け、米国ではバラク・オバマ政権が対キューバ関係改善を進めていた時期こそ、本来であれば改革を断行する絶好の機会だった。

しかし現在は状況がまったく異なる。

石油禁輸という「ダモクレスの剣」が頭上にぶら下がり、米国による介入の可能性も取り沙汰される中、国庫は空になり、国民からの政治的正統性も大きく失われている。

しかも、この改革が成果を上げるには、米国が制裁を解除し、キューバの世界経済への統合を後押しすることが不可欠である。

だが、現状ではそれは期待できない。

米国は地政学的優位を握っており、それ以上の政治改革を求めている。

マルコ・ルビオ米国務長官は数か月前、「政治改革と指導部交代が必要だ」と公言したが、ハバナ政府はこれを全面的に拒否している。

民主化の可能性

キューバ国会のホセ・ルイス・トレド議長は改革可決に際し、「改革は国家の社会的役割を放棄することを意味しない」と強調した。

Flag of USA
Flag of USA

一方、ワシントンの反応は冷ややかだった。

米国務省は今回の改革を「規模が小さく、遅すぎる上、表面的な煙幕に過ぎない」と一蹴した。

これは、体制への脅威が生じれば改革をすぐ撤回するという、キューバ政府の従来のやり方だという見方である。

双方の戦略は明確だ。

キューバは時間稼ぎを図り、秋の米中間選挙でトランプ大統領が勢いを失い、対キューバ強硬策への関心も薄れることを期待している。

一方、米国は当面ハバナを圧迫し続け、改革が本当に実行されるのかを見極める構えだ。

水面下での交渉では政治的圧力がさらに強まり、軍事介入という選択肢も完全には消えていない。

結局、このポーカーゲームの争点は一つである。

キューバの変革の条件を誰が決めるのか。

国民なき改革

しかし、この駆け引きの中で最も発言権が小さいのがキューバ国民である。

停電、水不足、食料不足に対する抗議デモは日常化しているが、そのたびに迅速かつ厳しく鎮圧されている。

ベネズエラとは異なり、キューバにはカリスマ的指導者や明確な政治綱領、幅広い支持基盤を持つ組織的野党は存在しない。

この状況は、当面は支配層に有利に働いている。

しかし、それが永続する保証はない。

改革が進み、国家への依存から自立する国民が増えれば、状況は変わる可能性がある。

東欧の民主化移行が示したように、市民社会はもちろん、残念ながら組織犯罪もまた、こうした変革期を巧みに利用する。

その結果として生まれる体制は、長期的混乱かもしれないし、マフィア型寡頭制かもしれない。あるいは民主主義へ向かう可能性もある。

民主化を実現するには、改革プロセスそのもの、とりわけハバナ政権に対し、慎重かつ国際的な支援が必要になる。

現時点でその役割を担いうるのは、メキシコやブラジル、そして国連やバチカンくらいしか考えられない。

European Union Flag
European Union Flag

欧州の存在感低下

現在のラテンアメリカにもEUにも、この問題を主導できる有効な超国家的枠組みや指導者は存在しない。

むしろEUは、キューバ問題において自ら影響力を失いつつある。

第一に、トランプ政権による制裁の結果、多くの欧州企業はキューバから撤退したが、ブリュッセルは有効な対抗措置を講じなかった。

さらに数日前、欧州議会では右派・保守派が多数を占める中、ミゲル・ディアス=カネル大統領への制裁と、キューバとの協力停止を求める決議が採択された。

これは、トランプ政権の対キューバ政策とほぼ軌を一にするものであり、欧州独自の戦略や利益を守ろうとする発想はほとんど見られなかった。

それは、EUが地政学・地経学の両面で存在感を失いつつあることを示す、また一つの象徴と言えるだろう。

サンドラ・ヴァイスは政治学者、元外交官。現在はフリーランス・ジャーナリストとして、『ディー・ツァイト』『ディー・ヴェルト』などドイツの主要紙に中南米情勢を寄稿している。出典: International Politics and Society(ドイツ・フリードリヒ・エーベルト財団〈Friedrich-Ebert-Stiftung〉Global and European Policy Unit発行)掲載記事。

INPS Japan

関連記事:

|コラム|ケネディ大統領とカストロ首相の秘密交渉を振返る(ロバート・F・ケネディ・ジュニア)

|キューバ|臨機応変に経済のワザを磨く若者たち

体制転換―うまくいくこともあるが、たいていは失敗する

2025年、武力紛争下の子どもへの暴力で政府軍が最大の加害者に

【国連IPS=ナウリーン・ホセイン

武力紛争下の子どもたちに対する重大な権利侵害が過去最多を記録した。これは、国連の「子どもと武力紛争(CAAC)」に関する監視制度が1996年に創設されて以来、最悪の水準である。アントニオ・グテーレス国連事務総長の年次報告書によると、2025年に武力紛争当事者によって子どもに対して行われた重大な権利侵害は、国連が確認しただけで3万5558件に上った。こうした事案の増加は4年連続となる。|英語版

報告書のデータは、2025年中に発生し、国連によって確認された事例に基づいている。少なくとも2万4174人の子どもが、殺害や負傷、強制徴集、誘拐、性的暴力、人道支援の拒否などによって直接被害を受け、権利を侵害された。

被害者の少なくとも3分の1は女児だった。

2025 Annual Report of the Secretary-General on Children and Armed Conflict

子どもの殺害・負傷件数は2024年と比べて34%増加し、計1万4224人に達した。誘拐された子どもは5129人、人道支援の拒否事例は少なくとも8322件確認された。また、6607人の子どもが武装集団に徴集または利用され、1667人が武装集団との実際または疑われる関係を理由に拘束された。

今回初めて、CAAC制度の創設以来、政府軍が子どもに対する重大な権利侵害の最大の加害者となった。

政府軍は子どもの殺害・負傷だけでなく、学校や病院の破壊や軍事利用、人道支援へのアクセス妨害にも大きく関与していた。このような不処罰の風潮は、敵対行為の激化によってさらに強まっている。また、広域に被害を及ぼす爆発性兵器が人口密集地で使用されるケースが増加し、民間人の犠牲者を増大させている。さらに、人工知能(AI)や自律型兵器システムの利用拡大も紛争の様相を変えつつある。

最も多くの侵害が記録されたのは、イスラエル、パレスチナ占領地、ミャンマー、ソマリア、ナイジェリア、コンゴ民主共和国(DRC)だった。

イスラエル軍は報告書全体の重大な権利侵害の約3分の1に当たる1万2455件に関与していた。DRCでは4114件の重大な権利侵害が確認され、その中には519人の子どもの死亡と1067件の誘拐が含まれていた。

国連事務総長特別代表(子どもと武力紛争担当)のヴァネッサ・フレイジャー国連事務次長補は、子どもに対する侵害の頻度と深刻さは、国際法と子どもの保護されるべき権利に対する軽視が拡大していることを示していると警告した。

「2025年は、監視活動が始まって以来、子どもの保護という観点から疑いなく最も暗い年の一つであった」とフレイジャー氏は述べた。

2025年の「子どもと武力紛争」に関する国連事務総長年次報告書の発表会見に臨む、ヴァネッサ・フレイジャー国連事務総長特別代表(子どもと武力紛争担当)。写真:IPS/Naureen Hossain

「本来、子どもを守るべき責任を負う国家が、その苦しみを助長しているという事実は、国際法への敬意が深刻に損なわれていることを物語っている。人道性、区別原則、比例原則、必要性原則という国際人道法の根幹を成す原則は、例外なく守られなければならない。」

フレイジャー氏は6月18日の記者会見で、この報告書とその調査結果は「説明責任を果たすための手段」であると語った。

加盟国はこれを活用し、武力紛争下の子どもを保護するために必要な措置を講じるべきだという。また、現在も紛争が続く報告対象国にとっては、翌年までの間に侵害の削減と再発防止を目的とした合意を国連と結ぶ機会でもあると述べた。

フレイジャー氏によると、報告書の草案は3月の時点で対象国に共有されており、各国には少なくとも1カ月間、自国の証拠を提出し、国連の確認済みデータと照合する機会が与えられていた。

また、同氏の事務所は各国との開かれた対話を歓迎しており、各国が対話に応じるかどうかは各国自身の判断に委ねられていると付け加えた。

報告書は加盟国に対し、既存の平和・安全保障に関する合意を履行し、紛争時における民間人、とりわけ子どもの保護のため国際法を遵守するよう求めている。

また、紛争当事者に対しては、国連と協力して行動計画を策定・実施し、子どもに対する重大な権利侵害について国連が十分な監視・報告活動を行えるようアクセスを認めることを要請している。

さらに報告書は、テクノロジー企業やソーシャルメディア企業に対し、自社プラットフォームが武装集団による子どもの徴集や搾取に利用されることを防ぐ具体的措置を講じるとともに、説明責任の追及や子どもの保護メカニズムに協力するよう求めている。

デジタル技術の悪用は、平時であっても子どもの健全な成長に悪影響を及ぼし得る。十分な法的規制や監視体制がなければ、子どもは偽情報や徴集目的のコンテンツにさらされる危険性が高まる。

国連高官の一人はIPSの取材に対し、オンラインでの徴集は複数の紛争地域で広がる深刻な問題であり、責任ある対応を実現するためにさらなる資源投入が必要だと語った。

また同高官は、フレイジャー氏とその事務所が欧州連合(EU)の立法担当者らと協議し、「デジタルサービス法(DSA)」など既存の法制度がどのように子どもを保護できるか検討していることを明らかにした。

さらに同事務所は、コロンビアでTikTokと協力し、紛争下での子どもの徴集や利用を防ぐ戦略の実施にも取り組んでいる。

フレイジャー氏は各国政府に対し、武装集団との関わりを持っていた子どもの保護と社会復帰を支援する行動計画の採択を呼びかけた。

2025年には、UNICEF(国連児童基金)などの国連機関やそのパートナーの支援により、1万3112人の子どもが保護や社会復帰支援を受けた。

こうした取り組みには政治的意思だけでなく、ドナー国や当事国からの資金支援も不可欠である。また、国連、各国政府、紛争当事者との連携を通じて、説明責任の強化と予防措置へのさらなる投資も求められている。

フレイジャー氏は国連事務総長特別代表に就任する以前、2023~2024年の安全保障理事会非常任理事国期間中、マルタの国連常駐代表を務めていた。

特別代表としても安保理メンバーとしても、同氏は紛争地域を訪問し、被害を受けた子どもたちと直接対話してきた。

その経験から、今回の加害者リストに国家主体が含まれていることは特に深刻だと指摘する。国家主体は国連加盟国でもあり、本来であれば法の支配を守り、子どもを保護する立場にあるからだ。

「どの国であれ、9つもの国家主体が加害者リストに載っていることは容認できない。」と同氏は述べた。

特に衝撃的だったのは、多くの子どもの犠牲を生んだ事案の多くが、本来なら回避可能だったという事実である。

国家主体は兵器工場や敵対勢力の拠点を攻撃対象として選定する際、その近くに学校などの民間施設が存在し、攻撃の影響を受ける可能性があっても作戦を実行するケースが少なくない。

たとえ学校などが攻撃の直接の標的でなくても、攻撃を強行する判断自体が国際人道法への軽視と民間人被害への無関心を示している。

その結果、最も深刻な代償を払わされているのは子どもたちだと、フレイジャー氏は指摘した。

「国家による違反は、非国家主体によるもの以上に深刻だと考えている。この枠組みはもともと、法の外で活動する武装集団や非国家主体への対応を目的として創設されたものだからだ。」

「本来、法を守るべき国家が、その法を踏みにじる側に回っている。」

INPS Japan/ IPS UN Bureau Report

関連記事:

シリアの移動文化バス―文化的公正を掲げ、戦禍の子どもたちに芸術と文学を届ける

すべての子ども、すべての権利のために-危機的な影響を受けた子どもたちに心理社会的支援を届ける

爆発性兵器、紛争下の子どもの犠牲の主因に — 世界の衝突地域で深刻化する被害

|視点|ローマ宣言の先へ―AIと核兵器の時代に築く「ローマ・プロセス」(浅霧勝浩INPS Japan理事長)

【ローマINPS Japan=浅霧勝浩】

人類は今、二つの巨大な力を同時に手にしている。

一つは、都市を瞬時に消滅させ、文明そのものを破壊しかねない核兵器である。もう一つは、社会、経済、戦争、教育、医療、情報空間、そして人間の意思決定そのものを急速に変えつつある人工知能(AI)である。|英語版

この二つは性質こそ異なるが、重大な共通点を持つ。いずれも科学技術の成果でありながら、その運用を誤れば、人間が制御できない規模の被害を引き起こす可能性があることだ。

核兵器の危険は、爆発、放射線、気候変動、長期的な環境破壊という形で目に見える。一方、AIの危険は、より静かに社会へ入り込む。偽情報、監視、差別的なアルゴリズム、雇用の喪失、自律型兵器、軍事的誤算、人間の判断力の空洞化。AIがもたらす危機は、一度の爆発ではなく、制度や価値観を内側から変質させる形で現れる。

Borgo Laudato Si. Photo: Katsuhiro Asagiri/INPS Japan
7月14日と15日の会場となったボルゴ・ラウダート・シ 
写真:浅霧勝浩/ INPS Japan

この二つの文明的リスクを同じ場で論じ、人類共通の倫理的課題として位置づけようとしたのが、7月14日から15日、16日にかけて開催された「人工知能と核戦争に関する世界ノーベル賞受賞者会議」であった。

会議には、ノーベル賞受賞者、元国家元首、科学者、AI研究者、核軍縮の専門家、宗教指導者、市民社会の代表、若者、ジャーナリストらが集った。会場となったのは、ローマ郊外カステル・ガンドルフォの教皇庁施設内にあるボルゴ・ラウダート・シと、ローマ市庁舎が置かれるカンピドーリオの丘である。

ボルゴ・ラウダート・シは、教皇フランシスコの環境回勅『ラウダート・シ』の精神を具体化する教育・対話の拠点として整備された場所である。自然、科学、宗教、社会正義を一つの枠組みで捉え、人間と地球の関係を問い直すことを目的としている。

そこで議論されたのは、単なるAI規制の技術論ではなかった。

問われたのは、人間の尊厳を守るために科学をどのように統御するのか、軍事的効率性の追求をどこで止めるのか、そして人類は自ら生み出した技術に対して道徳的責任を引き受けることができるのか、という根源的な問いであった。

会議最終日の7月16日、参加者はカンピドーリオの丘に集まり、「非武装かつ軍縮を進める平和のためのローマ宣言」を採択した。しかし、この宣言を単なる国際会議の成果文書として読むだけでは、その意味を十分に捉えることはできない。ローマ宣言の重要性は、AIと核兵器を別々の政策課題としてではなく、人間の判断を機械と軍事論理に明け渡してよいのかという共通の倫理問題として結びつけた点にある。

本稿では、この宣言の内容と会議全体の議論を検証するとともに、ローマで始まった対話を一過性の催しに終わらせず、国際的な制度、教育、市民社会、宗教、科学、メディアを結びつける長期的な取り組みへ発展させる必要性を論じたい。その継続的な実践を、本稿では「ローマ・プロセス」と呼ぶ。ローマ宣言を出発点として、AIの統治、核軍縮、科学者の責任、宗教的倫理、市民社会の行動、若者の参加、そして公共的ジャーナリズムを一つの流れへと結びつけていくための分析概念である。

AIと核兵器が交差する場所

Image: Nuclear warfare is a common theme of World War III scenarios. Such a conflict has been hypothesized to result in human extinction. Source: Wikimedia Commons.
Image: Nuclear warfare is a common theme of World War III scenarios. Such a conflict has been hypothesized to result in human extinction. Source: Wikimedia Commons.

人工知能と核兵器は、一見すると異なる問題に見える。

核兵器は20世紀の産物であり、AIは21世紀を象徴する技術である。核兵器は国家が保有する軍事力であるのに対し、AIの開発は民間企業、大学、研究所、軍、情報機関が複雑に関与する分散型の競争として進んでいる。

しかし、両者はすでに交差し始めている。

AIは、衛星画像の解析、ミサイル探知、標的選定、サイバー防衛、潜水艦の追跡、情報収集、戦場での意思決定支援などに導入されつつある。軍事機構において処理速度が重視されるほど、人間が考える時間は短くなる。

核危機において、その危険は極めて大きい。

過去の核兵器史では、誤警報、機器の故障、通信の混乱、訓練用データの誤認、政治的誤解によって、核戦争の瀬戸際にまで至った事例が繰り返されてきた。それでも最終的に破局を回避できたのは、現場の人間が警報を疑い、自動的な手続きを止め、判断を保留したからである。(例:ペトロフ事件

では、AIがその判断の一部を担うようになった場合、同じ抑制が働くだろうか。

Will AI kickstart a new age of nuclear power? Credit: Unsplash/Taylor Vick In a data centre (above), servers are high-performance computers that process and store data. Meanwhile, the United Nations has taken a firm stance that decisions regarding the use of nuclear weapons must rest with humans, not machines, warning that integrating Artificial Intelligence (AI) into nuclear command, control, and communications (NC3) presents an unacceptable risk to global security.
Will AI kickstart a new age of nuclear power? Credit: Unsplash/Taylor Vick

AIは高速である。しかし、速度は智慧ではない。AIは大量の情報を分析できる。しかし、分析は責任ではない。AIは確率を提示できる。しかし、核兵器を発射するか否かという決断の道徳的重みを理解することはできない。会議では、AIを核兵器の指揮・統制・通信システムに組み込むことの危険性が繰り返し指摘された。とりわけ懸念されたのは、AIへの過信によって人間の確認手続きが形骸化し、危機時の意思決定が加速されることである。

核抑止は、合理的な国家指導者が正確な情報に基づいて行動するという前提に立っている。しかし現実には、国家指導者も軍事組織も、恐怖、時間的圧力、誤情報、先入観、政治的計算の影響を受ける。

そこへ不透明なAIシステムが加われば、抑止の安定性が高まるとは限らない。むしろ、相手の意図を誤認し、先制攻撃への圧力を強め、偶発的なエスカレーションを引き起こす危険がある。

Prof. Karen Hallberg Secretary General, Pugwash Conferences on Science and World Affairs. Photo: Katsuhiro Asagiri/ INPS Japan
カレン・ホールバーグ教授パグウォッシュ会議事務総長 写真:浅霧勝浩/ INPS Japan

ノーベル物理学賞受賞者で、パグウォッシュ会議事務総長を務めるカレン・ホールバーグ博士は、科学と技術そのものを敵視するのではなく、その社会的帰結に対して科学者が責任を負う必要性を強調した。

科学の発見は人間の知識を広げる。しかし、その知識が兵器、監視、抑圧、差別に利用される可能性を科学者が無視することはできない。AI研究者もまた、同じ岐路に立たされている。核兵器の開発に関わった科学者たちの多くが、後に核軍縮運動へ身を投じた歴史は、その責任の重さを物語っている。

「技術的に可能である」ということと、「社会として許される」ということは同じではない。

ローマ会議が示した第一の教訓は、AIの問題を技術者だけに任せてはならないということである。同時に、政治家だけに任せてもならない。

科学、倫理、法、宗教、市民社会、教育、メディアを横断する統治が必要なのである。

ローマ宣言が提示した倫理的転換

ローマ宣言の基底にあるのは、技術中心の安全保障から、人間中心の安全保障への転換である。

従来の軍事政策では、国家の安全は兵器の性能、抑止力、情報優位、迅速な意思決定によって測られてきた。しかし、兵器が高度化し、AIが戦争を加速させる時代において、その発想自体が人類の安全を損ないかねない。

国家が安全になろうとして兵器を増強すれば、相手国も対抗する。一方がAIを軍事利用すれば、他方も追随する。その結果、すべての国が技術的には強くなりながら、世界全体はより不安定になる。

ローマ宣言は、この安全保障の逆説に対し、人間の尊厳、国際法、対話、軍縮、倫理的責任を中心に据えるよう求めている。

その核心は、単に「危険なAIを規制する」ということではない。人間の生死を決定する権限を機械に委ねてはならないこと、核兵器を含む大量破壊兵器の使用を正当化してはならないこと、科学技術は公共善に奉仕しなければならないこと、そして平和は軍事的均衡ではなく信頼と協力によって築かれなければならないことにある。

これは技術政策の宣言であると同時に、文明の進路に関する宣言である。

ローマ宣言は、人類にこう問いかけている。私たちは、より速く判断する機械を求めているのか。それとも、より賢明に判断できる人間社会を築こうとしているのか。

ユヌス博士が問いかけた「AIは誰のためのものか」

2006年ノーベル平和賞受賞者ムハマド・ユヌス博士
写真:浅霧勝浩/ INPS Japan

ローマ会議では、核軍縮やAIの軍事利用だけでなく、人工知能が社会や経済にもたらす影響についても活発な議論が交わされた。

その中心人物の一人が、2006年ノーベル平和賞受賞者であり、バングラデシュ暫定政府首席顧問を務めるムハマド・ユヌス博士である。

グラミン銀行の創設者として世界的に知られるユヌス博士は、長年にわたり「経済は人間のために存在する」という理念を訴えてきた。ローマでの発言でも、その視点は一貫していた。

AIそのものを否定するのではない。問題は、「AIが誰の利益のために設計され、誰がその恩恵を受けるのか」である。

現在のAI開発競争は、一部の巨大IT企業や国家による莫大な投資によって急速に進められている。その一方で、技術の恩恵は必ずしも社会全体へ公平に行き渡っているとは言えない。生産性が向上しても、その利益が少数の企業や投資家に集中すれば、格差はさらに拡大する。

AIによる自動化が進めば、多くの職種が代替される可能性もある。だからこそユヌス博士は、「AIは人間に奉仕するために存在しなければならない。」と繰り返し強調した。経済成長だけでは社会は豊かにならない。人間の尊厳を守る技術であるかどうかが問われているのである。

この視点は、今回のローマ宣言とも深く響き合っている。

AIガバナンスとは単なるリスク管理ではない。誰一人取り残さない社会を築くという、持続可能な開発目標(SDGs)の理念そのものでもある。

「AIは決断しない。決断するのは人間である」

ノーベル平和賞受賞者でフィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサ氏 写真:浅霧勝浩/ INPS Japan

今回の会議では、AIの急速な発展に対する警鐘も数多く鳴らされた。

ノーベル平和賞受賞者でフィリピンのジャーナリスト、マリア・レッサ氏は、AI時代に最も危険なのは、人間が自ら考える力を失うことだと語った。

AIは膨大な情報を瞬時に処理できる。しかし、その情報が真実かどうかを判断する能力は持たない。生成AIが生み出す文章や画像は極めて自然になり、一般市民が真偽を見分けることはますます難しくなっている。

レッサ氏は、「民主主義は事実を共有できる社会で初めて成立する」と指摘した。事実が崩れれば、対話も合意形成も成り立たない。その意味で、AI時代の最大の課題は情報技術ではなく、市民が主体的に考える力を維持できるかどうかにある。

AIは判断材料を提示することはできるが、善悪を決めることはできない。またAIは、選択肢を示すことはできるが、その結果に責任を負うことはできない。会議全体を通じて繰り返し共有された認識は、「AIは決断しない。決断するのは人間である」という極めてシンプルな原則だった。

記者会見で示されたローマ宣言の実像

最終日の記者会見では、登壇者たちはローマ宣言の意義について改めて説明した。印象的だったのは、誰一人として、この宣言だけで世界が変わるとは語らなかったことである。むしろ繰り返し強調されたのは、「ここから対話を続けること」の重要性だった。

ローマ宣言は法的拘束力を持たない。各国政府に義務を課すものでもない。AI企業を直接規制する権限もない。しかし、科学者、政策決定者、宗教者、市民社会、若者が共通の倫理的基盤を確認したこと自体に大きな意味があると、登壇者たちは口をそろえた。

その姿勢は、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言が、直ちに核軍縮を実現したわけではなく、その後のパグウォッシュ会議や国際的な対話の出発点となった歴史とも重なる。ローマ宣言もまた、一度限りの文書ではなく、継続的な国際協力へ発展させることが期待されているのである。

ローマ宣言採択後に開かれた記者会見の模様。 写真:浅霧勝浩/ INPS Japan
Senzatomica

ボルゴ・ラウダート・シの会場には、その理念を具体的な市民運動として実践してきたイタリアの核軍縮・平和教育プロジェクト「センザトミカ(Senzatomica)」の関係者も多数参加していた。

センザトミカは、「核兵器のない世界」を若い世代へ伝える展示会や対話プログラム、教育活動を長年展開してきた。今回の会議でも、専門家だけでなく市民や若者を議論へ結び付ける重要な役割を果たした。

ローマ宣言が社会に根付くかどうかは、政府間外交だけでは決まらない。こうした市民社会の継続的な実践こそが、その生命力を支えるのである。

撮影:浅霧勝浩/INPS Japan

「同苦」がAI時代にもつ意味

長岡良幸創価学会渉外局長 写真:INPS Japan
長岡良幸創価学会渉外局長 写真:INPS Japan

今回の会議で最も深い印象を残した発言の一つは、創価学会渉外局長の長岡良幸氏によるものであった。長岡氏は、AIを単なる技術や規制の問題としてではなく、「人間とは何か」を問い直す契機として捉えるべきだと語った。

AIは、人間を映し出す鏡である。その技術が人類に幸福をもたらすのか、それとも破壊をもたらすのかは、AI自身ではなく、それを設計し、運用し、利用する人間の価値観によって決まる。

「問題はAIではありません。最終的には、人間自身の問題なのです。」長岡氏はそう語り、人類には利己的になる自由もあれば、思いやりを選ぶ自由もあると指摘した。

その象徴的な例として紹介したのが、日本で報じられた一つの出来事だった。86歳の女性が、重病の夫の延命治療を続けるべきかどうかという人生最大ともいえる決断について、家族や医師だけではなく、ChatGPTにも相談したというニュースである。

長岡氏は、この女性を批判したわけではない。むしろ、この出来事は、人間が人生の最も重い倫理的判断においてまでAIへ助言を求める時代がすでに到来していることを示している、と受け止めた。

AIは医学論文を要約できるし、治療法を比較することもできる。さらに統計的に最も合理的な選択肢を提示することもできる。

しかし、家族を失う悲しみを共有することはできない。責任を引き受けることもできない。

だからこそ、人間に必要なのは、情報量ではなく、「人間性」なのである。長岡氏は、AI時代だからこそ教育が重要になると強調した。

知識を増やす教育ではなく、「人間の尊厳を理解し、他者への責任を育む教育」である。

この視点は、創価学会が長年掲げてきた人間教育の理念とも重なっている。

人工知能(AI)は、教育、医療、知識へのアクセスを前進させるかつてない可能性をもたらしている。しかし、その恩恵が真に生かされるかどうかは、民主的なガバナンス、倫理的な管理、そして十分な知識を備えた世界市民の存在にかかっている。画像:INPS Japan
地球市民教育のイメージ。 画像:浅霧勝浩・INPS Japan

「同苦」という人類共通の倫理

長岡氏の発言を聞きながら、筆者は会議に先立って行った、IPS(Inter Press Service)創設者であり国際ジャーナリズムの先駆者でもあるロベルト・サビオ博士へのインタビューを思い起こしていた。

Dr. Roberto Savio, founder of Inter Press Service. Credit: Katsuhiro Asagiri/INPS Japan
Dr. Roberto Savio, founder of Inter Press Service. Credit: Katsuhiro Asagiri/INPS Japan

サビオ博士は、人類が直面している危機はAIそのものではなく、人間が他者への感受性を失いつつあることだと語った。博士は、「シンパシー(sympathy)」と「エンパシー(empathy)」を区別する。

シンパシーは、相手を気の毒に思うことである。一方、エンパシーとは、自分自身を相手の立場に置き、その苦しみを自らのものとして感じようとする姿勢である。このエンパシーに最も近い概念として、仏教の「同苦」の精神がある。同苦とは、他者の苦しみを自らの苦しみとして受け止めることである。それは単なる感情的な共感ではない。

相手の置かれた状況を理解し、その苦しみを軽減するために自ら行動しようとする倫理的態度である。

今回のローマ会議を通じて筆者が感じたのは、この「同苦」の精神こそが、AI時代における最も重要な倫理的基盤ではないかということである。

AIは情報を処理できる。しかし、痛みを感じることはできない。核抑止は恐怖によって均衡を維持できる。しかし、信頼を生み出すことはできない。

結局のところ、人類を結びつけるのは、効率でも技術でもなく、「他者の苦しみを自らの課題として受け止める力」である。

ジャーナリズムという「知のインフラ」

画像:INPS Japan

この会議を取材して改めて感じたのは、AI時代におけるジャーナリズムの役割である。

AIはいわゆる記事を書くことができ、ある程度の翻訳も要約もできる。映像さえ生成できる。しかし、「何が社会にとって本当に重要なのか」を判断することはできない。

ローマ会議では、科学者、宗教者、政策担当者、市民社会が、それぞれ異なる立場から議論を重ねた。

それらを結び付け、市民が理解できる形で伝えることこそ、ジャーナリズムの本来の使命である。

INPS Japanは長年にわたり、創価学会インタナショナル(SGI)との共同メディアプロジェクトを通じて、核兵器廃絶人間の安全保障持続可能な開発目標(SDGs)、平和教育などを継続して発信してきた。

その目的は単にニュースを届けることだけではない。

読者が世界で起きている出来事を自分自身の課題として考え、行動へ結び付けるための「知のインフラ(Knowledge Infrastructure)」を築くことである。

AIが情報を大量に生成する時代だからこそ、人間には情報を意味へと変換する営みが求められる。その役割を担うのが、責任あるジャーナリズムなのである。

AI、核戦争、気候危機、飢餓など、相互に関連しながら人類の未来を脅かす地球規模の課題を報じ、人々の地球市民としての意識を具体的な行動へと結びつける「知のインフラ」としてのジャーナリズムを表現したイメージ。INPS Japanと創価学会インタナショナル(SGI)が推進する共同メディアプロジェクトは、ローマ宣言を継続的な国際協力と市民の行動へと発展させる「ローマ・プロセス」に貢献し得る情報基盤の一例である。イラスト:INPS Japan
AI、核戦争、気候危機、飢餓など、相互に関連しながら人類の未来を脅かす地球規模の課題を報じ、人々の地球市民としての意識を具体的な行動へと結びつける「知のインフラ」としてのジャーナリズムを表現したイメージ。INPS Japanと創価学会インタナショナル(SGI)が推進する共同メディアプロジェクトは、ローマ宣言を継続的な国際協力と市民の行動へと発展させる「ローマ・プロセス」に貢献し得る情報基盤の一例である。イラスト:INPS Japan

終わりではなく、人類の選択の始まり

ローマ宣言は、AIがもたらすすべての課題を解決したわけではない。人工知能は今後も進化を続けるだろう。世界にはなお約1万2,000発の核兵器が存在し、核抑止への依存も依然として続いている。

さらに、自律型兵器(LAWS)の開発競争、AIによるサイバー攻撃、偽情報の拡散、監視社会の拡大など、新たな課題は次々と姿を現している。だからこそ、今回ローマで始まった対話の本当の意味は、宣言文そのものにあるのではない。

人類が初めて、AIと核兵器という二つの文明的リスクを、一つの倫理的課題として同時に議論し始めたことにある。この点にこそ、ローマ会議の歴史的意義がある。

ローマ宣言の成果と限界

Signing cerenomy of the Rome Declaration was held at the Campidoglio in Rome on July 16, 2026. Photo: Katsuhiro Asagiri / INPS Japan
Signing cerenomy of the Rome Declaration was held at the Campidoglio in Rome on July 16, 2026. Photo: Katsuhiro Asagiri / INPS Japan

ローマ宣言には明確な成果があった。

  • 第一に、AIと核兵器を「人間の尊厳」という共通の価値の下で捉え直したことである。
  • 第二に、科学者、AI研究者、宗教指導者、外交官、軍縮専門家、市民社会、若者が、分野を超えて共通の危機認識を共有したことである。
  • 第三に、人類の未来を技術だけではなく倫理によって導かなければならないという方向性を国際社会へ示したことである。

一方で、その限界も明らかである。

ローマ宣言には法的拘束力はない。AI企業を規制する権限もない。核兵器保有国に軍縮義務を課すものでもない。宣言だけで世界が変わることはない。

しかし、歴史を振り返れば、大きな変化は必ず理念から始まってきた。

1948年の世界人権宣言も、直ちに人権侵害をなくしたわけではない。1955年のラッセル=アインシュタイン宣言も、その日に核軍縮を実現したわけではない。

それでも、それらは国際社会の価値観を変え、その後の制度や運動を生み出す原点となった。ローマ宣言もまた、そのような歴史の出発点として評価されるべきである。

「ローマ・プロセス」という新たな視座

ローマ宣言が採択されたカンピドーリオの丘にある市庁舎。写真:Wikimedia Commons.
ローマ宣言が採択されたカンピドーリオの丘にある市庁舎。写真:Wikimedia Commons.

私は、このローマ宣言を起点とした長期的な国際的取り組み(「ローマ・プロセス(Rome Process)」)は、今回の会議が示した方向性を表現する分析概念として、有効であると考える。

ローマ・プロセスとは、政府間交渉だけを意味しない。科学者が研究倫理を問い続けること。教育者が人間の尊厳を育むこと。宗教者が倫理的対話を広げ続けること。市民社会が平和への行動を積み重ねること。企業が社会的責任を果たし続けること。

そして責任あるジャーナリズムが事実を伝え、市民が熟慮できる公共空間を守りつづけること。それらすべてを含む継続的な国際的実践である。

AIガバナンスも核軍縮も、一つの会議や一つの条約だけで完成するものではない。社会全体が学び、対話し、修正し続ける不断の営みが必要なのである。

AI時代に人類が守るべきもの

今回の会議を取材して最も強く感じたことがある。AIの未来を決めるのは、AIではない。核兵器をなくすのも、AIを人類の幸福のために活用するのも、結局は人間自身である。

だからこそ、人類が最後まで失ってはならないものがある。

それは、仏教で「同苦」と呼んできた精神である。他者の苦しみを、自らの苦しみとして受け止めること。その共感力こそが、科学を人類の幸福へ導き、政治を平和へ向かわせ、AIを人間のための技術として位置づけることを可能にする。

サビオ博士によれば、「声なき人々に声を与える」という責任ある報道に不可欠な「共感」とは、単に相手を気の毒に思うことではない。相手の立場に身を置き、その苦しみを自らの課題として引き受けようとする姿勢である。

その「同苦」の精神は、核兵器にもAIにも置き換えることのできない、人間だけが持つ力である。ローマ会議は、そのことを世界へ静かに、しかし力強く問いかけた。AI時代に人類が守るべきものは、人工知能ではない。

人間そのものである。

Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director of INPS Japan
Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director of INPS Japan

そして、その未来は、一人ひとりが「同苦」の精神を選び取り、人間の尊厳をあらゆる技術や政策の中心に据えるところから始まる。

ローマで始まったこの対話が、一過性の国際会議に終わるのではなく、「ローマ・プロセス」として世界へ広がっていくならば、2026年のローマ宣言は、AI時代における新しい平和構築の原点として歴史に刻まれることになるだろう。

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

Toward a Nuclear Free World
Toward a Nuclear Free World

INPS Japan

関連記事:

核時代からAI時代へ―人類は新たな平和の枠組みを築けるか

カステル・ガンドルフォからカンピドーリオへ―AI革命の中心に人間の尊厳を

なぜ今、「世界市民」がこれまで以上に重要なのか

混迷を越え、行動を促す―リカルド・グラッシが描くジャーナリズム

軍事独裁政権による弾圧と亡命を経て、国際通信社インタープレス・サービス(IPS)の編集長、アフガニスタンにおけるコミュニティ・メディアの育成、さらには世界476大学を結ぶネットワークへ――。リカルド・グラッシ氏が歩んできた道と、その過程で築き上げたモデルは、「声なき人々に声を与え、情報を社会変革の力とする」というIPS創設者ロベルト・サビオ博士の理念、そして、世界市民を育むナレッジ・ネットワークの構築を通じて、読者が人類の直面する課題への問題意識を深め、それを具体的な行動へと結び付けられるようにするというINPS Japanの理念と、深く響き合っている。

【ローマINPS Japan=浅霧勝浩】

リカルド・グラッシ氏は、そのジャーナリスト人生の多くを、「文章の主語」を変えることに費やしてきた。|英語版スペイン語イタリア語|CITIPLAT|

カブールのバーブル庭園で、同僚らとともに写るリカルド・グラッシ氏(中央)。資料:ポーランド人芸術家ゴシュカ・マチュガ氏による作品の一部。

アフガニスタンの首都カブールで若い記者たちの育成に携わり始めたころ、彼らの多くは、外国政府や国際機関、援助団体の動きを中心にアフガニスタンを報道する訓練を受けていた。ある日の編集会議で、グラッシ氏は彼らに新たな原則を示した。

「今日から、主役はアフガニスタンとアフガニスタンの人々です。皆さんはいずれ、この意味を理解するでしょう。今はただ、心に留めておいてください。」

その理念は、グラッシ氏が新たに立ち上げた「環境ニュース・コミュニケーション国際大学通信社(AIUNCA)」の中核をなしている。AIUNCAは、国際連合教育科学文化機関 (ユネスコ)の支援を受け、アルゼンチンの国立アルトゥーロ・ハウレチェ大学と共同で設立された。

AIUNCAは、中南米、イタリア、スペイン、英国の476大学に属する500以上のメディアを結ぶ取り組みである。その目標は、国際的でありながら、紛れもなく地域に根差したネットワークを構築することだ。大学メディア、プロのジャーナリスト、学生、地域社会が、それぞれの言語、文化、優先課題に根差した信頼性の高い報道を生み出していく。

しかしAIUNCAは、単なる新しい通信社を目指しているのではない。グラッシ氏にとってそれは、伝統的なマスメディアが放棄してきた役割と、ソーシャルメディアを通じて拡散される破壊的な偽情報の双方に立ち向かう、新たな責任あるメディア・モデルである。

「混迷を越え、行動を促す(Beyond confusion, inspire action)」というモットーには、ジャーナリズムは、気候変動、戦争、格差、偽情報に翻弄される世界を描写するだけでは不十分だという同氏の信念が込められている。

Ricardo Grassi(Left) being interviewed by Katsuiro Asagiri (Right) who collaborated with him when Mr. Grassi organized the 1st Afghan Media Forum in 2007 in Kabul, Afghanistan.
Ricardo Grassi(Left) being interviewed by Katsuiro Asagiri (Right) who collaborated with him when Mr. Grassi organized the 1st Afghan Media Forum in 2007 in Kabul, Afghanistan.

何が起きているのかを人々が理解できるようにし、同じ問題に向き合う人々を結び、知識が対話と行動につながる条件をつくる。それこそがジャーナリズムの役割だというのである。

この信念は、インターネットが登場するはるか以前、言葉を発すること自体が命の危険を伴う時代に形づくられた。

「私の世代は皆、一連の独裁政権(オンガニア軍事政権を中心とする1966~73年の軍政)の下で育ちました。」と、グラッシ氏はアルゼンチンでの青年時代を振り返る。「欧州や米国にヒッピーがいたころ、私たちの国には軍事独裁政権がありました。」

1969年5月29日、アルゼンチンの軍事独裁政権に抗議して労働者と学生が蜂起した「コルドバソ」のさなか、コルドバ市のサン・フアン大通りに立ち上る煙。写真:『レビスタ・ヘンテ』/ウィキメディア・コモンズ(パブリックドメイン)

高校を卒業したグラッシ氏は、大学で学びながらジャーナリストとして働き始めた。言葉を操り文章を書くことに生来の才能があったが、ジャーナリズムは同時に、社会を揺るがしていた激動に関わるための手段でもあった。

政治弾圧、貧困、キューバ革命、そして解放の神学の台頭が中南米を大きく変えようとしていた。グラッシ氏は貧困地域に入り、住民の組織化を支援する一方、自らの政治活動はジャーナリスト組合での仕事とは切り離していた。

こうした経験を通して、ジャーナリズムは誰に奉仕すべきなのかという同氏の考えが形づくられていった。「恵まれた立場にある人間は、他者に奉仕しなければなりません。」ジャーナリズムは、すでに権力を持つ人々の動向を記録するだけでなく、困難な状況に置かれた人々と、人間的価値に一層深く関わるべきだと、グラッシ氏は考えた。

軍事政権下で働いた経験は、行間に意味を込めて書く技術も教えた。公然とは書けないことを暗示し、意図的に隠された事実を読み取る力である。

1973年のフアン・ドミンゴ・ペロン。同年、ジャーナリストのリカルド・グラッシ氏は、マドリードのプエルタ・デ・イエロにあったペロンの邸宅で、本人に2度インタビューした。写真:Museo Casa Rosada/Archivo General de la Nación(ウィキメディア・コモンズ経由、パブリックドメイン)

アルゼンチンが選挙とペロン派の政治復帰へ向かうなか、グラッシ氏はマドリードでフアン・ペロン元大統領に二度インタビューし、広く知られる存在となった。

民政復帰後、同氏は政治週刊誌の創刊と編集を任された。ただし、引き受けるにあたって一つの条件を提示した。それは、自らが「退屈な左翼新聞」と呼ぶような媒体にはしないことだった。

徹底してジャーナリスティックで、視覚的にも読者を引きつけ、宣伝員ではなくプロの記者が記事を書く媒体を目指した。

その週刊誌は、アルゼンチンで最も広く読まれる週刊誌の一つとなった。しかし、その成功によってグラッシ氏自身も一層目立つ存在となった。

1976年3月、軍部が政権を掌握すると、同氏は地下に潜った。公の場で働けなくなったため、木製玩具を作って生活した。しかし、知人たちは次々と拘束され、殺害され、あるいは「失踪」させられた。新聞には、見覚えのある名前が痛ましいほど日常的に掲載された。

1977年、ルハン大聖堂への巡礼に参加した「五月広場の母たち」。軍事独裁政権下で拘束され、「失踪」させられた子どもたちを捜す闘いの象徴として、この時初めて白いスカーフを身に着けた。写真:アデリナ・アライエ/Archivo Memoria Abierta(CC BY-SA 4.0)
1977年、ルハン大聖堂への巡礼に参加した「五月広場の母たち」。軍事独裁政権下で拘束され、「失踪」させられた子どもたちを捜す闘いの象徴として、この時初めて白いスカーフを身に着けた。写真:アデリナ・アライエ/Archivo Memoria Abierta(CC BY-SA 4.0)

1977年6月4日、グラッシ氏はアルゼンチンを脱出した。

Roberto Savio
Dr. Roberto Savio/ photo by Katsuhiro Asagiri

欧州への亡命の途上で、グラッシ氏はロベルト・サビオ氏とアルゼンチン人ジャーナリストのパブロ・ピアチェンティーニ氏が創設した国際通信社インタープレス・サービス(IPS)と出会った。

1978年初頭、IPS本部のあったローマに到着したグラッシ氏は、当初、スペイン語と英語の記事を編集する仕事に就いた。その後、編集長となり、世界各地を訪れながら、とりわけ中米で地域ニュースサービスの整備に携わった。

グラッシ氏にとってIPSは、単なる勤務先ではなかった。それは「一つの思想の学校」だった。アルゼンチンでの政治活動と報道経験を通して、すでに顧みられない人々の声を探す姿勢を身につけていたグラッシ氏に、IPSはその直感を体系的な国際的枠組みへと発展させる機会を与えた。

「途上国は、裕福な国々を主役とする物語の単なる舞台として描かれるべきではない。その人々、制度、紛争は、それぞれの社会が生きる現実の内側から報じられなければならない。」

IPSでグラッシ氏は、その後の活動の中核となるもう一つの視点を得た。「情報」と「コミュニケーション」の違いである。情報は、一方向に生産し伝達することができる。しかしコミュニケーションには、人々の間の交流、参加、関係性が不可欠である。

1980年代半ばにIPSを離れた後、グラッシ氏はアフリカと中南米で、地域のジャーナリスト、新聞社、研究機関、文化団体を結ぶコミュニケーション・ネットワークを組織した。当時はまだ、こうした交流を容易にするインターネットは存在していなかった。

この考え方は、後のアフガニスタンでの活動にも受け継がれた。

2007年、筆者はIPSインドの記者や日本のメディア関係者とともに、グラッシ氏がキリッド・グループおよびIPSと共同でカブールにて開催した「メディアは開発である―第1回アフガン・メディア・市民社会フォーラム」を取材した。撮影・編集:浅霧勝浩/INPS Japan。

グラッシ氏が初めてアフガニスタンを訪れたのは2003年だった。欧州委員会が支援するメディア事業を評価し、この分野の政策を提言することが目的だった。その後、パジュウォク・アフガン・ニュースの発展に関わり、キリッド・グループをはじめとするアフガニスタンのメディア、市民社会組織、ユネスコ・カブール事務所と協働した。

「問題の核心は、誰が主体となるかでした。」

グラッシ氏の目標は、外国人が恒久的に運営する組織を設立することではなかった。アフガニスタン人ジャーナリストを育成し、最終的には彼ら自身が全面的に運営できるようにすることだった。国際援助は、やがて援助そのものを不要にするものでなければならないという考えである。

アフガニスタンでの経験は、既製のモデルを携えてやって来る外国人専門家に対する同氏の懐疑も深めた。

ヘラート地震の被災地域で放送を行うキリッド・グループの移動ラジオ局。地域住民の声や支援情報を現地と全国に伝えた。写真:UNESCO

「ロンドンやワシントンでつくられたジャーナリズムの手法を、そのまま移植することはできない。報道は、その土地特有のコミュニケーション様式、社会的関係、世界の捉え方を反映しなければならない。」

その違いは、発音にさえ表れる。カンダハルで話されるパシュトー語はナンガルハルのものとは異なり、マザーリシャリーフのダリー語はカブールのダリー語とは異なる。

キリッドの各地域ラジオ局が信頼を得たのは、聴取者がそれを「自分たちのラジオ局」と感じたからだった。聞き慣れた声で語り、地域の現実を報じる一方、国内の他地域ともリスナーを結び付けた。

別の取り組みでは、パジュウォクの朗読グループが村々を訪れ、住民が集まる場でニュースや公共情報を読み聞かせた。識字能力が限られ、従来型メディアへのアクセスが乏しい地域では、重要な情報サービスとなった。

グラッシ氏はまた、ジャーナリストと市民社会組織を結び付けることにも取り組んだ。両者はしばしば互いを信用せず、本来あるべき形で関わり合っていないと考えたためだ。

アフガニスタン東部ジャジ地区で、ラジオによる識字番組を聞きながら教材を読む少年たち(2011年12月26日)。写真:U.S. Army/DVIDS(パブリックドメイン)

市民社会団体は抽象的なテーマや組織声明を通して発信する傾向がある一方、ジャーナリストは人間、出来事、物語を求める。しかし、信頼できる地域団体は、他の誰も持っていない情報を蓄積していることが少なくない。

グラッシ氏にとって両者を結ぶことは、ジャーナリズムの専門的独立性を守りながら、情報源を広げることを意味した。

「ジャーナリストは、ジャーナリストでなければなりません。」市民社会、大学、宗教団体との協力が、プロパガンダになってはならない。「プロパガンダを始めた瞬間、信頼と読者を裏切ることになります。読者はそれをすぐに見抜きます。」

2014年、グラッシ氏はロベルト・ラゼト氏とともに、研修とメディア開発を通じてIPSの伝統を継承する非営利団体「IPSアカデミー(IPSA)」を設立した。

IPSアカデミーから生まれたのが、「気候変動と持続可能な世界のための市民プラットフォーム」を意味する「CitiPlat」である。その構想の一端は、持続可能な開発における市民の役割をテーマに東京で開かれたシンポジウムのために、グラッシ氏が講演を準備したことに由来する。グラッシ氏がたどり着いた結論は、世界的な問題を理解しやすく地域に即した情報へと翻訳するメディアがなければ、市民は持続可能な開発に有意義な形で参加できないということだった。

支配的なメディアの議論は、依然として「いつもの顔ぶれ」の間に限られ、世界の大多数はそこから排除されているとグラッシ氏は指摘する。CitiPlatは、2019年、ユネスコのコミュニケーション、情報、科学部門の支援を得て、国際プログラムとして正式に発足した。気候変動をめぐる偽情報に対抗し、市民による解決策を可視化する国際的な情報ネットワークを構築してきた。UNESCOも、COP27で同氏が提唱した、悲観論ではなく科学的データと市民社会の連携を重視する取り組みを公式サイトで紹介している

そのモットーであり、現在はAIUNCAも掲げる「混迷を越え、行動を促す」は、互いに関連する二つの危機に応えるものだった。一つは、公共サービスとしてのジャーナリズムの衰退であり、もう一つは、誰を信頼すべきかを個人が判断する確かな手段を持てないまま、果てしないデジタル空間に偽情報が広がり続けていることである。

グラッシ氏のモットーであり、現在はAIUNCAも掲げる「混迷を越え、行動を促す」は、互いに関連する二つの危機に応えるものだった。一つは、公共サービスとしてのジャーナリズムの衰退であり、もう一つは、誰を信頼すべきかを個人が判断する確かな手段を持てないまま、果てしないデジタル空間に偽情報が広がり続けていることである。画像:INPS Japan

そのためCitiPlatは、大惨事だけに焦点を当てないことを選んだ。

UN Photo
UN Photo

世界各地では、個人や地域社会が生命を守り、問題を解決し、自らにできることとできないことを現実的に見極めながら行動している。CitiPlatは、そうした何千もの取り組みを報道し、他者の行動を促す教訓として共有することを目指している。SDGs for Allメディアプロジェクトは世界市民を涵養する観点から同様の取材アプローチを行っている:INPS Japan)

このモデルは当初から分権型だった。巨大な本部をつくり、そこから世界全体を管理するのではなく、地域に根差したプラットフォームを各地に構築しようとした。「情報の生産と発信を地域に根付かせなければ、それは決して人々には届きません。」言語、表現方法、地域の優先課題がそれぞれ異なるからだ。」と、グラッシ氏は説明する。

この原則を具体化した一例が、アフガニスタンにおける「コミュニティ・ストーリーテリング」である。最初に五つの地域が選ばれ、現地の市民社会パートナーであるインテグリティ・ウォッチ・アフガニスタンが、住民を選定して、自らの経験を報道するための研修を行った。グラッシ氏によると、同団体はタリバン当局と合意を交わし、女性もコミュニティ記者として参加することが認められた。

カブール郊外で、タリバン関係者と地域住民の会合を取材するアフガニスタン人女性記者ミーナ・ハビブ氏。タリバン復権後も、女性記者は厳しい制約の下で地域社会の声を伝え続けている。写真:Meena Habib/VOA

目標は、プロの記者が時折訪れて取材することではなかった。地域社会の人々自身が物語を伝える技術を身につけ、同じような課題に直面する他の地域と経験を交換できるようにすることだった。

AIUNCAは、この原則を大学を通してさらに拡大しようとしている。

Ricardo Grassi (Left) and Katsuhiro Asagiri (Right) Credit: INPS Japan

大学はすでに世界各地の都市や地域に存在する。比較的安定した組織であり、知識を蓄積し、新たな知識を生み出すとともに、将来の意思決定者となり得る若者を教育している。多くの大学はすでに、ラジオ局、テレビ局、ウェブサイト、ソーシャルメディアのプラットフォームを運営している。

したがって、基本的なインフラの多くはすでに整っている。必要なのは、調整、目的に応じた研修、共通の編集方針、そして大学メディアと地域社会を結ぶ仕組みだとグラッシ氏は主張する。

さらに、ほとんど活用されていない巨大な資源がある。一般市民には届かないまま蓄積されている、膨大な学術研究である。「研究と、その研究を伝えることの間には、大きな隔たりがあります。」AIUNCAは、プロのジャーナリストがこうした研究を「翻訳」することを提案している。それは単に一つの言語から別の言語へ訳すことではない。専門的な学術表現を、正確で理解しやすいジャーナリズムへと置き換えることである。

参加する各大学メディアは、それぞれの言語、表現方法、地域課題に対する編集上の重点を維持する。同時に、共通の編集計画に基づき、共同取材を実施し、記事を国際的に交換できるようにする。

このモデルは、アフガニスタンの地域ラジオ局でグラッシ氏が得た経験に基づいている。各ラジオ局は、より広域のネットワークに属しながら、地域固有のメディアであり続けた。それぞれの地域の言葉、発音、優先課題を反映していたからである。

AIUNCAは、同じ原則を国際的に応用する。地域のアイデンティティーを消し去ることのない、連携した世界的な運動である。

大学はまた、包摂的な公共対話の場にもなり得る。研究者、学生、ジャーナリスト、企業、政治家、市民社会団体、地域社会、先住民族を一堂に集めることができるからだ。こうした地域社会は、外部の記者が訪れ、自分たちの経験を解釈してくれるのを待つ必要はない。ジャーナリズムの基礎的な研修を受け、大学メディアのネットワークにアクセスすることで、自らの物語の発信者になれる。

AIUNCAの実現を可能にしたのは、IPSA/CitiPlatとアルゼンチンのアルトゥーロ・ハウレチェ国立大学との連携、同大学が持つイベロアメリカ諸大学ネットワークとのつながり、そしてユネスコの積極的な参加だった。

AIUNCA
Ricard2025年、ブラジルで開催されたCOP30で、同僚らとともに写るリカルド・グラッシ氏(左端)。写真提供:リカルド・グラッシ氏。

AIUNCAの構想は、発足からわずか5カ月後の2025年11月、ブラジルのベレンで開かれた国連気候変動枠組条約第30回締約国会議(COP30)において、新たなメディア・モデルとして発表された。

「2023年初頭からその発展を支えてきた、熱意ある学術研究者、専門ジャーナリスト、献身的なAIUNCAメンバー、そして優れた運営チームの尽力によって実現しました。」とグラッシ氏は語る。

AIUNCAはCOP30で、中南米における気候偽情報の起源に関する研究、偽情報をリアルタイムで検知する「Factora AI」と呼ばれる試作システム、さらにアルゴリズムと人工知能の倫理的利用を促進するコミュニケーション計画を提示した。

これらは、ブラジル政府、国連事務局、ユネスコが創設した「気候変動に関する情報の健全性のための世界基金」の支援によって可能となった。

AIUNCAが環境問題を重視しているからといって、気候変動を他の問題から切り離して扱うわけではない。「それは持続可能な開発の問題全体に関わります。しかし、平和と戦争にも関わるのです。」気候変動、貧困、保健、教育、雇用、紛争、強制移動は、人々の生活のなかで相互に重なり合っている。

食料や医療、仕事の確保に苦しむ地域にとって、気候変動は遠い将来の問題に見えることがある。ジャーナリズムには、それが現在の現実とどのようにつながっているかを明らかにする役割がある。

AIを情報の検索・比較を担う「優秀な助手」として活用しながら、検証、判断、最終的な表現の責任は人間が担うべきだと説くリカルド・グラッシ氏。AI生成画像/INPS Japan。
AIを情報の検索・比較を担う「優秀な助手」として活用しながら、検証、判断、最終的な表現の責任は人間が担うべきだと説くリカルド・グラッシ氏。画像/INPS Japan。

グラッシ氏は、ジャーナリズムを変えつつある技術についても現実的である。公共の利益に奉仕するメディアは、ソーシャルメディア、アルゴリズム、AIに背を向けるのではなく、それらを効果的に活用する方法を学ばなければならないと考えている。同氏はAIを「非常に優秀な助手」と捉えている。資料を検索し、情報を比較し、何時間もの作業を節約できるからだ。しかし、支援を受けることと、自らの判断を明け渡すことの間には明確な一線を引く。

「危険なのは、自分の魂を人工知能に明け渡してしまうことです。そうなれば、人は考えなくなり、学ばなくなります。」

問いを立て、証拠を検証し、判断し、最終的な表現を決定する責任は、あくまでジャーナリストが負わなければならない。AIが生成する文章は、個人の声を、滑らかではあっても生命力のない平板な文章へと変えてしまうことがあまりに多いと、グラッシ氏は警告する。

報道における客観性についても、グラッシ氏の考えは明快だ。「重要なのは客観性ではありません。客観性とは、人を操作するためにつくられた神話です。重要なのは誠実さです。

ジャーナリストは必然的に、ある立場から世界を見る。平和、人権、環境正義への関与も、それ自体が一つの選択である。求められるのは、自らの立場を明らかにしつつ、情報が検証され、正確で、公正に報じられていることを保証することだ。

この哲学は、INPS Japanの活動とも深く響き合う。

浅霧勝浩(左)とリカルド・グラッシ氏(右)。写真:INPS Japan。

INPS Japanは、創価学会インタナショナル(SGI)と長年にわたり推進してきた「SDGs for All」メディアプロジェクトを通し、何が起きているかだけでなく、その背景、人間への影響、持続可能な開発目標との関係を分析報道によって明らかにする「知識インフラ」の構築を目指してきた。

記事はSDGsごとに整理され、関連報道と結び付けられている。そして、抽象的で圧倒されるほど複雑に見える問題を理解するための、身近な入り口として提示される。

想定されている読者は、単なる情報の消費者ではない。「同苦の精神」を持ち、不正義を見抜き、認識を行動へと変えることのできる、未来の地球市民である。

AIUNCAは、地域で生産され、学術的知見に裏付けられた報道を、相互補完的に提供できる可能性を持つ。

INPS Japanは、それらの記事を国際的な読者に適した形に編集し、日本語をはじめとするアジア諸言語に翻訳するとともに、環境問題を平和、人権、持続可能な開発と結び付ける、より広範な知識データベースの中に位置付けることができる。

現段階で、正式な協力関係はまだ結ばれていない。しかし今回の対話から、自然な第一歩が見えてきた。グラッシ氏の歩みと、CitiPlatおよびAIUNCAの創設に至った思想をこうして紹介することである。

その先には、国境や言語の壁を越える機会がほとんどない世界各地の地域社会の物語を共同制作し、より広く発信する可能性がある。

国連持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)代表を務めるジェフリー・D・サックス教授。2023年、MCCブダペスト平和フォーラムにて。写真:Elekes Andor/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)。

グラッシ氏は、この考え方を「コンバージェンス(連携・協働)」と呼ぶ。注目度や援助資金をめぐって競争するのではなく、互いに協力することを意味する。同氏はアフガニスタンでも、現地のパートナーとともに「アフガン・メディア・コンソーシアム」を設立し、この考え方を実践した。「共同制作と共同配信によって、費用を最適化し、社会的な波及力を高め、加盟メディアの存在感も強めることができました。」とグラッシ氏は説明する。

こうした精神のもと、AIUNCAはネットワーク拡大に向けた取り組みを進めている。その対象には、世界約2,000の大学・研究機関を結ぶ国連持続可能な開発ソリューション・ネットワーク(SDSN)の代表を務めるジェフリー・サックス教授、中南米司教協議会のメディア・ネットワーク、各大陸のコミュニティ・メディア、そして世界自然保護基金などが含まれている。

グラッシ氏は、国連の「平和の文化」の取り組みに関わった米国の平和活動家、デービッド・アダムズ氏との会話を振り返った。

デービッド・アダムズ氏 写真:Adriana Parmegiani/Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)

アダムズ氏は、世界各地で平和のために活動する団体を、海に点在する船に例えた。

それらを結び付けることは、船に帆を与えることだという。

今はまだ風が吹いていないかもしれない。しかし、いつか必ず風が吹き始める。そのとき、船は平和の方向へ進む準備ができている。

AIUNCAとは、風が吹き始める前に、その船々を結び付けようとするグラッシ氏の試みなのである。

静かな海で結ばれた船々が、やがて吹く風に備えて帆を上げる―変革の時が訪れたとき、平和構築に取り組む団体が共に前進できるよう結び付けようとするAIUNCAの試みを象徴している。画像:INPS Japan。
静かな海で結ばれた船々が、やがて吹く風に備えて帆を上げる―変革の時が訪れたとき、平和構築に取り組む団体が共に前進できるよう結び付けようとするAIUNCAの試みを象徴している。画像:INPS Japan。

This article is brought to you by INPS Japan in collaboration with Soka Gakkai International in consultative status with UN ECOSOC.

SDG

INPS Japan

関連記事:

なぜ今、「世界市民」がこれまで以上に重要なのか

共感から始まる平和:SGIが目指す核軍縮と社会変革への道(寺崎広嗣創価学会インタナショナル平和運動総局長インタビュー)

アフガンメディアフォーラムを取材