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ニュージーランドが強固に核兵器禁止を擁護

【ワシントンIDN=ニーナ・バンダリ】

太平洋の小さな島国であるニュージーランドが、国際的な軍縮論議において、大国を相手に独自の主張を貫いている。同国は約30年にわたって非核政策を積極的に推進し、「オーストラリア・NZ・アメリカ相互安全保障条約(通商アンザス条約)」の当事国でありながら、核兵器を搭載したり原子力を動力源とする米国艦船の入港を禁止してきた。

ニュージーランドは、米国、オーストラリアと並んで、3国間の安全保障取り決めと協力の枠組みとして1951年に調印されたアンザス条約の当初からの締約国の一つである。

Anti-nuclear demo in New zealand/ CND

しかしニュージーランドは、フランスが1960年代半ばから南太平洋(フランス領ポリネシア)で核実験を実施するようになると反発を強めていった。さらに1983年、米国の原子力フリゲート艦「テキサス」が入港すると、激しい抗議運動が起こり、それは一般市民を広く巻き込んだ反核運動へと発展していった。こうして80年代半ばにピークを迎えた反核世論は、その後のニュージーランドにおける外交政策と、アイデンティティを形成することとなった。

「当時の反核運動は、専門家、地域集団、学生、宗教者、非宗教者、若者・老人が参加した極めて広範にわたった運動でした。多くの意味において、この運動の多様で非階層的な性格が、その訴える力と強さの源泉でした。ひところ、ニュージーランドには300以上の地域活動家のグループが存在していました。」と『平和、権力、政治:ニュージーランドはいかにして非核化したか』の著者マリー・リードビーター氏は語った。

Sinking of the Rainbow Warrior/ News Zealand Herald
Sinking of the Rainbow Warrior/ News Zealand Herald

なかでもニュージーランド国民の世論を決定的なものにしたのは、1985年7月に起きた核実験抗議船「虹の戦士(レインボウ・ウォーリア―)号」爆破事件だった。これは、環境保護団体「グリーンピース」の旗艦船で、フランスによる核実験への抗議活動に参加していた「虹の戦士号」がフランス諜報機関による爆破工作で沈められた事件である。

当時のデビッド・ロンギ首相は、「核兵器によって攻撃されるよりも危険なことが一つだけあります。それは核兵器によって守られていることです。」と語った。1987年、ロンギ首相の労働党政権は「ニュージーランド非核地域、軍縮、軍備管理法」(これによりニュージーランドの国土と領海は、非核兵器および非原子力推進艦艇地帯となった:IPSJ)を制定した。

「この法律は現在、ニュージーランド国民の心理に深く浸透しており、将来的にこれを廃止しようという政党はありません。現在与党の国民党も、この法律を廃止することはないと明言しています。」と、労働党のメリヤン・ストリート元広報(軍縮・軍備管理)委員長はIDNの取材に対して語った。

David Lange/ The Right Livelihood Award

緑の党(世界問題担当)のケネディ・グラハム議員も同じ意見だ。「ニュージーランドの非核立法に関しては、超党派的な合意があります。」とグラハム議員は語った。

米国はニュージーランドによる核兵器禁止を覆そうとはしていないが、過去5年間、同国との防衛・戦略的関係の再構築を目指す動きを始めている。2010年11月、米国のヒラリー・クリントン国務長官(当時)と、ニュージーランドのマレー・マカリー外相(当時)が、両国間の新たな戦略的関係についての枠組みを提示したウェリントン宣言に署名した。

さらに両国は、2012年6月、海洋警備や大量破壊兵器の拡散阻止、テロ対策、海賊対策等の防衛協力取決めをさらに強化したワシントン宣言に署名した。この取決めの下で、ニュージーランドは、世界最大の海軍演習であるリムパック(環太平洋合同演習)と、米豪との合同軍事演習への参加を決めた。

作家で研究者のニック・マクレラン氏は、こうした動きについて、「ニュージーランドの立場については、あまり美化しないよう慎重であるべきです。なぜならその立場は少しずつ変化しているからです。ウィキリークスエドワード・スノーデン氏が最近暴露した、アンザス同盟と、『5つの目条約』としても知られる5か国から成るUKUSA協定に関する情報は、英国、カナダ、そして(ニュージーランドを含む)アンザス同盟国が信号の諜報を共有していることなど、ニュージーランドの関与を浮き彫りにしているのです。」と語った。

ニュージーランドには、タンギモアナとワイホパイの2か所に信号傍受基地がある。リードビーター氏は、「UKUSA協定については、透明性が欠けていることや、他国へのスパイ行為、更には戦争への貢献の片棒を担ぐことになりかねないことから、私はニュージーランドが参加することに反対です。」と語った。

アンザス同盟国は、フランスをオブザーバーとする「4か国防衛調整グループ」の一部でもある。それでは、核の傘に加われとの米国からニュージーランドへの圧力は改めて強まっているのだろうか?

「米国は、ニュージーランドの非核法制は立ち入れない領域であることを理解しており、その問題を回避しながら関与しています。また米国は、ニュージーランドをこの地域の核不拡散・軍縮領域におけるリーダーだとみなしており、バラク・オバマ大統領は、核兵器がテロリストの手に落ちる脅威に関する保安会議にニュージーランドを招待しています。」と、ニュージーランドの核不拡散・軍縮議員連盟の元議長でもあるストリート氏はIDNの取材に対して語った。

潜在的な危機

ニュージーランドで100%ピュア」観光キャンペーンは、ニュージーランドが非核地位を貫いていることと部分的には関係しており、これによって同国のクリーンでグリーン(=無公害な)イメージはさらに高められている。原子力発電は利用しておらず、現地で事故が起きる可能性はきわめて低い。

しかし、ストリート氏はこう警告する。「現実における最大の危険は、ニュージーランドの領海を通って核物質(オーストラリアからの劣化ウランイエローケーキなど)が輸送される時でしょう。これまで予防策はなく、そうした船舶に事故が発生した場合、我が国は危険な状況に晒されることになります。これに対する予防策を講じるには、危険物品・物質に対する新たな立法が必要となります。」

ニュージーランド政府は、オーストラリア政府とは対照的に、核兵器の人道的影響に焦点を当てる取り組みを熱心に進めてきた。2014年10月までに、ニュージーランドが主導して作成した核兵器の人道的影響に関する国連声明に155か国が署名している。

ジェフリー・パルマー元首相は2014年11月、「核の悪夢」という寄稿文の中で、「国連加盟国の間でニュージーランドの取組みへの支持が広がっていることを考えると、国際協定を通じて核兵器の違法性を確認する時機が来ていると思います。現在、ニュージーランドは国連安全保障理事会の非常任理事国のメンバーであり、ペダルに足をかけて核軍縮の大義を強力に推進できればいい。」と述べている。

国際司法裁判所は1996年の勧告的意見の中で、「核兵器の破壊力は、空間にも時間にも閉じこめておくことができない。核兵器は、あらゆる文明と地球上の生態系の全体を破壊する潜在力をもっている。」と述べている。

今日、ニュージーランドでは反核運動がそれほど盛んではない。しかし、世界の反核活動で活動する一部の中核となるような人々がいる。

Kate Dews/ ODT

30年にわたって核廃絶を訴えてきたケイト・デュース氏は、IDNの取材に対して、「1987年のニュージーランド非核地域、軍縮、軍備管理法を実行するために何をすればよいか政府に勧告することを目的とした『軍縮・軍備管理諮問委員会』に委員を送り込んでいるいくつかのグループが、全国規模でも地域でも存在します。一部のグループは軍縮大使や政府高官と定期的に面会し、核廃絶や、地雷・クラスター弾・劣化ウラン兵器の禁止、武器貿易条約等の今日的な軍縮問題に関してリーダーシップを取るよう訴えています。」と語った。

さらにデュース氏は、「ニュージーランド国民は、『核の傘』の下で核抑止を支える役割を受け入れることはないだろう。その論争はすでに決着がついており、ニュージーランドの若者たちは自国の非核政策を誇りに思っています。」と付け加えた。そしてその根拠として1986年の世論調査結果を挙げた。同世論調査によると、ニュージーランド国民の92%が核兵器に反対し、69%が核艦船の寄港に反対し、国連を通じた核軍縮の推進にニュージーランドが努力することに92%が賛成し、一方で88%が非核兵器地帯の推進を支持していた。

Tim Wright/ ICAN
Tim Wright/ ICAN

オーストラリアでも、その後の世論調査を見ると、圧倒的に核兵器を拒否していることがわかる。「しかし、我が国の政府は米国に配慮してこれらの究極の大量破壊兵器を禁止する条約という考え方に依然として反対しています。私たちは、ニュージーランドが80年代にやったように、軍事ドクトリンにおいて核兵器にいかなる役割も与えることがないように、そして、核兵器禁止を目指す世界的な取り組みに加わるように政府に求めています。」と、「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)豪州支部長のティム・ライト氏はIDNの取材に対して語った。

オーストラリアは南太平洋非核地帯条約の加盟国であり、ニュージーランドと同じように、1986年南太平洋非核兵器地帯法という非核法制を有している。「しかし、豪州法(そして条約そのもの)では米国の核艦船が豪州の港に入るのを阻止することができず、豪州が拡大核抑止(=米国の核の傘に依存する)の政策を維持するのを止めさせることもできません。」とライト氏は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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|イラン核協議|オバマ政権と・米議会の対立が、国際的に波及

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【ワシントンIPS=ジャスミン・ラムジー】

イラン核問題に関する協議が今年中に最終合意に達するかどうかは予測困難なことだが、主要な国際主体の多くが、イランに対する制裁を強化すべきとの米国議会内からの議論に巻き込まれている。

バラク・オバマ大統領は、一般教書演説において、交渉が進行している間は、新たなイラン制裁法案には拒否権を発動すると繰り返し述べた。

オバマ大統領は1月20日に下院議会で行った一般教書演説の中で、「今この時期に我が国の議会が新たに制裁法案を通せば、これまでの外交努力の失敗を保証するのも同然です。つまり、米国は同盟国から孤立し、これまでのイラン制裁体制の維持が困難となり、イランは再び核計画を始動させることになるでしょう。それでは道理にかないません。」と語った。

「イランとの外交交渉にチャンスを与えよ」とのオバマ政権の主張は、(今年3月末までの枠組み合意、6月末の最終合意を目指して)イランと核協議にあたっている「P5+1」(米国、英国、フランス、中国、ロシア+ドイツ)の主要メンバーが連名で寄稿した翌日の『ワシントン・ポスト』に掲載されたオプエドでも繰り返された。

フランスのローラン・ファビウス外相、英国のフィリップ・ハモンド外相、ドイツのフランクヴァルター・シュタインマイアー外相、欧州連合のフェデリカ・モゲリーニ外務・安全保障政策上級代表は、「イランに対する核関連の追加制裁など、交渉のこの重要段階で新たな障壁を設けることは、この重大な時期における私たちの努力を危機にさらすことになる。」と1月21日の紙面で述べている。

David Cameron/ Wikimedia Commons

また同オプエドには、「現段階で新たな制裁を課せば、これまで制裁を効果的に行ってきた国際的連携にひびを入れることになるかもしれない。」「新たな制裁は、我々の交渉上の立場を強めるよりも、むしろ現時点では後退させることになってしまうだろう。」と述べられている。

英国のデイビッド・キャメロン首相は1月16日、ホワイトハウスでオバマ大統領と行った共同記者会見で、「確かに、今朝数人の上院議員と接触しました。午後にもあと1、2人と話をするかもしれません」と述べ、米上院の議員らと接触し、現段階でイランに対する追加制裁を慎むよう求めたことを認めた。

またキャメロン首相は、「現時点でのさらなる制裁、あるいはそれを示唆することは、交渉を成功に導くうえでマイナスだというのが英国政府の判断です。また、イランと対峙していくうえで非常に意味のある国際的な結束も崩しかねません。」と語った。

オバマ大統領の一般教書演説の翌日、下院のジョン・A・ベイナー議長がイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相に対して2月11日の米上下両院協議会で(イラン核問題について)演説するよう要請したと報じられている。ネタニヤフ首相は以前からオバマ政権の対イラン政策に反対する立場を明らかにしていることから、ベイナ―下院議長のこの動きはオバマ大統領の政策に対する反撃だと、専門家筋はみている。

ネタニヤフ首相は要請を受け入れたが、日程を3月3日に変更した。著名なイスラエル・ロビーである「アメリカ・イスラエル公共問題委員会」(AIPAC)がワシントンで行う会議にも参加する予定だ。

ホワイトハウスを頭越しに行われた今回の招聘はオバマ政権にとっては驚きであった。ホワイトハウス報道官は、(大統領は)選挙運動中の外国の指導者とは会談しない長年の慣行と原則を引き合いに出して(イスラエルの選挙は3月に行われる)、ネタニヤフ首相が米国滞在中、オバマ大統領は面談しない意向であることを明らかにした。

ネタニヤフ首相はイラン核問題に関する最終解決の内容について強硬な立場をとるよう一貫して米政府に進言してきた。例えば、イラン国内においてウラン濃縮を一切認めないなど、イラン側に受け入れられる見込みのない提案がそれだ。このネタニヤフ首相招聘問題について、クリントン政権で北大西洋条約機構(NATO大使をつとめたロバート・E・ハンター氏は、「招聘を受け入れたことに関してネタニヤフ氏が非難されるいわれはありません。もし誤りがあるとすれば、それは下院議長の側です。」と指摘したうえで、「もし、ネタニヤフ首相の訪米によって、米議会に対するイスラエル・ロビーの政治力に支えられ、制裁法案に対するオバマ大統領の拒否権発動を乗り越えるだけの支持(3分の2)を上院で得ることに成功したならば、その後の核協議崩壊という可能性のみならず、イランとの戦争の可能性が増すという事態に対する責任は、ベイナー下院議長と仲間の肩に重くのしかかることになるだろう。」と語った。

しかし、対立の中心となっている、マーク・カーク上院議員(共和党)とボブ・メネンデス上院議員(民主党)、さらには、ボブ・コーカー上院外交委員会委員長(共和党)が提案した法案が大統領の拒否権発動を阻止しうる多数の賛成を得て立法化されるかどうか、現時点でははっきりしない。

カーク=メネンデス法案は2013年に提案されたが、オバマ政権は、議会で民主党が多数を占めていたため、立法化阻止に成功してきた。しかし、11月4日に実施された中間選挙では共和党が勝利したため、今年1月から共和党が米議会両院で多数を占めている。

政府の現職および元高官らも、現時点における追加制裁については反対の声を上げるようになってきている。

ジョン・ケリー国務長官は1月21日のCBSニュースで、「イスラエルの諜報が米国に伝えたところによれば、イランに対して新規の制裁を展開することは、交渉プロセスに対して『手榴弾を投げ込む』に等しい、とのことだ。」と語った。

John Kerry/ Wikimedia Commons
John Kerry/ Wikimedia Commons

ヒラリー・クリントン前国務長官は、ウィニペグ(カナダ)で開催されたフォーラムで行った新規の制裁に反対する演説のなかで、「成果が上がるかどうか見きわめる前に、何を好んで自ら率先して交渉を頓挫させるようなことを望むだろうか?」と問いかけた。

デイビッド・コーエン米財務次官(テロリズム・金融諜報担当)は『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に「新たな制裁は現時点では必要ないと考えている。(米議会が)現時点で新たな制裁を科してしまえば、たとえそれが発動時機を先送りしたものだとしても、(イランとの)包括協定を成功させる可能性を高めるのではなく、むしろ壊してしまうことになるだろう。」と語った。

オバマ大統領の拒否権発動予告とベイナー下院議長のネタニヤフ首相招聘を受けて、闘いはまだ終わっていないが、元々はカーク=メネンデス法案を支持していた民主党の一部共同提案者ですら、オバマ大統領に同調する姿勢を見せ始めている。

リチャード・ブルメンソール議員は、「ポリティコ」紙の取材に対して、「いかなる議会による行動も今は控えるべきだとの(オバマ大統領の)強力な主張について、真剣に考えているところだ。」「両党の議員らと協議している。オバマ大統領と政権のメンバーらが訴えている点に関して、現在彼らは自らの立場を検討し、再考しているところだと思う。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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開発・平和のカギを握る世界市民教育

【パリIDN=A・D・マッケンジー

不平等とともに過激主義が世界中の関心事となる中、平和と持続可能な開発をもたらすうえで教育の果たす役割は大きい、と識者らは指摘している。

「教育は公共財であり、政府にはそれを提供する道義的責任があります。しかし、私たちが直面している問題は、教育を駆使していかに平和で持続可能な社会をもたらすのかということです。」とインドに本拠を置く「途上国研究センター」のピーター・デソウザ教授は語った。

UNESCO
UNESCO

1月28日から30日にかけてフランスのパリで開催された第2回国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)世界市民教育フォーラムで基調報告を行ったデソウザ氏は、IDNの取材に対して、「より良い市民を作り出すという教育の真の目的に関して言えば、世界は『戦いに敗れる』危険をはらんでいます。」と指摘したうえで、「私たちは、かつて女性運動や環境運動によって人間の考え方や価値観がいかに変わりうるかを目の当たりにしてきました。今こそ、活動モードに入り、勢いのある教育運動を起こす必要があります。」と語った。

またデソウザ氏は、現在の教育をめぐる国際的な言説は、残念ながら「企業の望む方向」、或いは(デソウザ流に言うところの)「ダボス的なやり方」に流されてしまっているという。「ダボス」というのは、スイスで毎年開かれている世界経済フォーラムのことで、ここには経済・政治・芸能の世界から「グローバル・エリート」たちが集結する。デソウザ氏は「このことが、(教育を巡る言説にも)覇権的な要素を蔓延らせ悪影響を及ぼしているのです。」と語った。

さらにデソウザ氏は、「教育は、ビジネス・チャンスが目的となって、ますます企業の都合で振り回されるようになっています。その一方で、公立学校は人々の関心から外れ、不平等が拡大しているのです。」と語った。

フォーラムにおける2つの主要テーマは、2015年以降の開発アジェンダにおける世界市民教育と、それが「平和で持続可能な社会」を構築していくうえで果たす役割であった。

またユネスコ関係者によると、今回のフォーラムにおける討論は、現在策定中で5月に韓国で開催される「世界教育フォーラム」で採択予定の「ポスト2015教育行動枠組み」につながる「具体的なインプット」を打ち出すことが期待されているとのことだった。

新時代の新たなスキル

Irina Bokova/ UNESCO/Michel Ravassard - UNESCO - with a permission for CC-BY-SA 3.0
Irina Bokova/ UNESCO/Michel Ravassard – UNESCO – with a permission for CC-BY-SA 3.0

ユネスコのイリナ・ボコヴァ事務局長は、フォーラムの開会挨拶の中で、「世界は『新時代の新しいスキル』を求めています。」と、世界から集まった250名の参加者に語りかけた。

ボコヴァ事務局長は、「教育とは単に情報や知識を伝達するためのものではなく、より『平和で、公正で、包摂的で、持続的な』世界に貢献できるような価値観や能力、態度を与えるものです。」と指摘した上で、「私たちのビジョンを研ぎ澄まし、世界市民教育を私たちの活動、つまり、貧困を削減し、社会的包摂を進め、全ての社会のニーズに持続可能な方策で応え、平和の文化を創り出すという活動全体の文脈の中に位置づけねばなりません。」と語った。

またボコヴァ事務局長は「教育は、文化間の尊重と理解を育成し、『多様性を最大限尊重する』ことを学習者に教え、若い人々のエネルギーを全ての人々の利益になるように仕向けることができるものです。」と、強調した。

今回のフォーラムは、3人の若い過激派が17人をパリで殺害した1月7日のテロ事件からちょうど3週間後に始まった。犠牲者には、預言者ムハンマドに関する論争の的になっている漫画を掲載した風刺週刊誌『シャルリ・エブド』で働く9人のジャーナリストが含まれている。

そうした暴力の陰で、過激主義と闘い、文化間・宗教間対話を促進するうえで教育が果たす役割に関する議論はとりわけ重要性を持っている。フォーラム参加者らは、世界市民教育に向けた長期的な政策を策定するなかで、教育者に加えて若者の全面的な参加を呼び掛けた。

世俗的な価値観

チュニジアのNGO「アル・バウサラ」の代表で創設者のアミラ・ヤヒャウイ氏は、いかにして多様な価値観が混在する世界で共存していくか、とりわけ、宗教的信条と関連付けながら「laicite」(世俗的価値)について若い人々を教育する必要がある、と強調した。

Amira Yahyaoui/ UNESCO
Amira Yahyaoui/ UNESCO

またヤヒャウィ氏は、「子ども時代を過ごす権利を奪われた」紛争地帯の子どもたちの窮状にもっと注目し、生存権についての教育がなされるべきだと訴えた。また、教育対象はそうした子どもたちに限らず、親や祖父母に対する教育も同様に重要だと指摘した。

「もし、ある女の子に兄弟とは平等でないと教えるのがその母親だとしたら、どうやって、この不平等に対抗する教育ができるでしょう。」とヤヒャウィ氏は問いかけた。

ユネスコによれば、世界市民教育(GCED)の目的は、「人権や社会正義、多様性、ジェンダー平等、環境の持続性への尊重を基盤とし、それを涵養(かんよう)するとともに、さらに責任ある世界市民になるべく学習者を力づけるような価値観や知識、スキルをあらゆる年代層の学習者に授けること。」である。

また世界市民教育は、「全ての人々にとってより良い世界と将来を推進する権利と義務を実現する能力と機会」を学習者に授けるものでもある。またそれは、子ども、若者、大人と、すべての年齢層を対象としたものでもある。

「世界市民教育は多様な方法で提供されうるものですが、ほとんどの国における主要な方法は、公的な教育制度を通じたものでしょう。」と政府関係者らは語った。そうして諸政府は、世界市民教育という概念を既存のプログラムの一部として統合することもできるし、或いは、別個の課題とすることも出来る。

「世界市民」という価値は長年にわたって考えられてきたものだが、ユネスコは、「国連事務総長が「グローバル・エデュケーション・ファースト・イニシアチブ(GEFI)」を2012年に開始して以来、勢いが増してきた」としている。GEFIは、「世界市民の育成」を、「全ての子どもに学校教育を」と「学習の質の向上」に並ぶ3つの主要な任務の一つととらえている。

Global Education First Initiative
Global Education First Initiative

この分野におけるユネスコの取り組みの一つに、「全ての人への尊重を教える」というプロジェクトである。これは、「教育における、或いは教育を通じた差別に対抗する」ために、ブラジルと米国が2012年に共同で開始したものだ。これに関する取り組みが、現在、ブラジルやケニア、コートジボワールなどの国々で行われている。

ユネスコは、韓国に拠点を置く「ユネスコ・アジア太平洋国際理解教育センター」との協力で、世界市民教育に関する情報センターを新たに設置した。

Chernor Bah/ GEFI
Chernor Bah/ GEFI

フォーラムでは、(セクシュアリティや保健教育を含めた)多領域に亘る議論が時として圧倒的で反復的だったが、問題の重要性は、必然的に本質的なものであった。このことは、学者や政策立案者、NGO、国連諸機関に交じって多くの若者がフォーラムに参加していた事実にはっきり見て取ることができる。

西アフリカのシエラレオネ生まれで、GEFI青年グループの議長であるチェノール・バー氏は、「いかにして世界市民教育の成果を測定し国際的パートナーシップを形成するか等、2015年以降の教育をめぐる課題に関する具体的な提案が出された今回のフォーラムは、有益なイベントでした。」と語った。

「私たちにはお互いに対する責任があり、人間性は、国籍や民族、宗教的信条よりも重要なものです。」とバー氏はIDNの取材に対して語った。「アフリカの諺にあるように、あなたがいるから、あなたのお陰で私があるのです。(=ウブントゥ)それこそが、世界市民であるということの本当の意味なのだと思います。」(原文へ

翻訳=IPS Japan

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Global Citizenship Education Seen as Key to Development and Peace

By A. D. McKenzie | IDN-InDepth NewsAnalysis

PARIS (IDN) – With inequality as well as extremism a growing concern around the world, education has a crucial role to play in contributing to peace and sustainable development, experts say.

“Education is a common good, and it’s the moral responsibility of governments to provide it. But the challenge we now face is how to use education to have peaceful and sustainable societies,” said Peter deSouza, professor at the India-based Centre for the Study of Developing Societies A keynote speaker at the Second UNESCO Forum on Global Citizenship Education that took place January 28 to 30 in Paris, deSouza told IDN that the world ran the risk of “losing the battle” regarding the true aims of education to produce better citizens.

“We need to move into campaign mode and have a powerful movement for education now because we’ve seen with the women’s movement and with the environmental movement how minds and values can change,” he said in an interview on the sidelines of the conference.

He argued that the international education discourse was unfortunately being driven by corporate sway, or what he called the “Davos way”, referring to the annual World Economic Forum in Switzerland that brings together “global elites” from the business, political and entertainment sectors. This produces a “hegemonic and detrimental discourse”, deSouza said.

“Education is becoming more and more corporate driven, with business opportunity being the aim, but in the meantime public schools are falling off the radar and inequality is increasing,” he added.

At the conference, the two main themes were global citizenship education in the post-2015 development agenda and its role for building “peaceful and sustainable societies”.

The discussions were expected to result in “concrete inputs” to the emerging Framework for Action on Education post-2015 that will be adopted at the World Education Forum in May, being held in the Republic of Korea, officials said.

“New skills for new times”

Opening the discussions, UNESCO Director-General Irina Bokova told the 250 participants from around the globe that the world needed “new skills for new times”.

She said that education was not just about transmitting information and knowledge, but also about providing the values, capabilities and attitudes that can contribute to a more “peaceful, just, inclusive and sustainable” world.

“We must sharpen our vision and place global citizenship education in the context of all our work – to eradicate poverty, to enhance social inclusion, to respond sustainably to the needs of all societies, to build a culture of peace,” Bokova said.

She emphasized that education could help foster greater respect and understanding between cultures, give learners “tools to make the most of diversity” and also “harness the energy of young women and men for the benefit of all”.

The conference began exactly three weeks after the January 7 attacks in Paris in which 17 people were killed by three young militants. The victims included nine journalists who worked for Charlie Hebdo, a satirical weekly newspaper that had published controversial cartoons of the Prophet Muhammad.

In the shadow of such violence, discussions on the role of education in the fight against extremism, and in promoting intercultural and interfaith dialogue were of particular significance. Participants called for the full engagement of youth, alongside educators, in developing long-term policies for global citizenship education.

Secular values

Amira Yahyaoui, president and founder of the Tunisian NGO Al Bawsala, stressed that young people needed to be educated about how to live together in a diverse world, and especially about “laicité” (or secular values) in relationship to religious beliefs.

She also called for more attention to the plight of children in conflict-torn regions who “no longer have the right to childhood”, saying that these youngsters must be taught the “right to survive”. She said that educating parents and grandparents was fundamental as well.

“When it’s a mother who explains to a girl that she is not equal to her brother, how can you educate against this inequality?” she asked.

According to UNESCO, the aim of global citizen education (GCED) is to “equip learners of all ages with those values, knowledge and skills that are based on and instill respect for human rights, social justice, diversity, gender equality and environmental sustainability and that empower learners to be responsible global citizens.”

GCED also gives learners “the competencies and opportunity to realise their rights and obligations to promote a better world and future for all”, and it is aimed at all ages: children, youth and adults.

Although global citizenship education can be delivered in a variety of ways, the main method in most states will be through the formal education system, officials said. As such, governments can integrate the concept either as part of existing programmes or as a separate subject.

The values of “global citizenship” have been in consideration for some time, but UNESCO explained that it has “gained momentum since the launch of the UN Secretary General’s Global Education First Initiative (GEFI) in 2012, which has identified ‘fostering global citizenship’ as one of its three priority areas of work, along with access to and quality of education”.

Among the UNESCO measures in this area is the “Teaching Respect for All” project, launched jointly with Brazil and the United States in 2012 to “counteract discrimination both in and through education”. Work on this is being carried out in Brazil, Kenya, Ivory Coast and other countries.

The organization has also created a clearinghouse on GCED, in cooperation with the Asia-Pacific Centre of Education for International Understanding.

While the numerous areas of discussion (which included sexuality and health education) were at times overwhelming and repetitive during the conference, the significance of the issues seemed inescapably real. This was underscored by the presence of many young people among the academics, policy makers, NGOs and UN agencies participating.

Chernor Bah, the Sierra Leone-born chairperson of the Youth Advocacy Group of GEFI, said the meeting was important because it raised concrete proposals for the post-2015 education agenda, such as how to measure the outcomes of GCED and build international partnerships.

“We have a responsibility to one another, and our humanity is more important than our nationality, ethnicity or religious beliefs,” Bah told IDN. “As the African saying goes – I am because you are. And that’s what being a global citizen is really about.” [IDN-InDepthNews – January 30, 2015]

Peter deSouza | Photo Credit: UNESCO K. Holt

2015 IDN-InDepthNews | Analysis That Matters

|視点|パリの大量殺傷事件―欧州にとって致命的な落とし穴(ロベルト・サビオIPS創立者)

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【Othernews=ロベルト・サビオ】

かつて文明の揺籃の地であった欧州大陸が、イスラム教に対する聖戦という落とし穴へと、やみくもに突き進んでいる様を見るのは辛い。しかも僅か6人のイスラム過激派テロリストがその引き金になるのに十分だったという現実に、思わず暗澹たる気持ちになる。

Je suis Charlie/ Wikimedia Commons

しかしそろそろ、世界を席巻した「私たちはシャルリー・エブド」という熱狂から目を覚まし、事実を検証するとともに、私たちが実は少数の過激派の術中にはまり、彼らと同じような思考に染まろうとしている現実を理解すべき頃合いだろう。なぜなら、「西側欧米諸国とイスラム教の間の対立が今後さらに先鋭化すれば、その先には世界を巻き込むより悲惨な結末が待っているからだ。

まず一つ目の事実は、イスラム教が全人類の23%にあたる16億人の信徒を擁する、世界で2番目に大きな宗教という点だ。その内、アラブ人の信徒数は僅か3億1700万人に過ぎない。世界でイスラム教徒が人口の大半を占める国は49カ国にのぼるが、その3分の2近く(62%)がアジア・太平洋地域に位置している。事実、中東・アラブ地域のイスラム教徒よりもインドとパキスタンのイスラム教徒(3億4400万人)の方が多いのだ。また、インドネシア一国だけでも、2億900万人のイスラム教徒がいる。

ピュー・リサーチ・センターは、イスラム世界に関する調査報告書の中で、イスラム教の戒律の順守や見解については、中東よりもむしろ南アジア地域の方が、より過激な傾向にあると指摘している。例えば、「犯罪者に対して厳しい刑罰で臨むべき」と回答した者は、中東・北アフリカで57%だったのに対して南アジアでは81%であった。また、「イスラム教を棄教したものを死刑にすべき」と回答した者は、中東では56%だったのに対して、南アジアでは76%にのぼっている。

従って、今日欧米諸国との紛争にとりわけアラブ人が関与している特異性の背景には、明らかに(イスラム教そのものというよりも)中東の歴史が関っている。以下にその4つの理由を解説しよう。

一つ目の理由は、全てのアラブ諸国が(かつての欧州植民地帝国或いは列強諸国による)人工的な創造の産物であるという点だ。第一次世界大戦中の1916年5月、フランスの外交官フランソワ・マリ・ドニ・ジョルジュ=ピコ氏と英国の中東専門家マーク・サイクス卿が、ロシア帝国とイタリア王国の支持のもとに会談を重ね、大戦終結後のオスマン帝国領(現在の中東地域を含む)の分割に関する秘密協定をとりまとめた(サイクス=ピコ協定)。

French diplomat Francois Georges-Picot and Mark Sykes/ Wikimedia Commons
French diplomat Francois Georges-Picot and Mark Sykes/ Wikimedia Commons

従って今日のアラブ諸国は、フランスと英国が中東地域の民族、宗教、或いは歴史的背景を一顧だにすることなく地図上に国境線を引き、互いの勢力圏を分断定義した結果誕生した国々なのだ。中にはエジプトのように歴史的なアイデンティティを保持できた国もあったが、イラク、サウジアラビア、ヨルダンアラブ首長国連邦といった国々ではそれさえ叶わなかった。今日、人口3000万人におよぶクルド人が未だに自らの国を持てず中東の4カ国(トルコ、シリア、イラク、イラン)に分断された状態に置かれている問題のルーツは、まさに、この欧州列強による中東分割にあることを、想起しておく価値はあるだろう。

2つ目の理由は、欧州列強が、そうして打ち立てた新国家に、息のかかった人物を王や首長に据えた点だ。当時、こうした人工国家を経営していくには、強権による支配を必要とした。そこで、これらの国々では、当時欧州で進行していた民主主義のプロセスとは全く合わない政治体制が敷かれ、民衆の政治参加は建国当初から完全に欠如することとなった。つまり中東諸国では、欧州列強の承認のもと、「時」が事実上「封建時代」で凍結されたのである。

さらに3つ目の理由として、欧州列強がこれらの国々に対して、産業開発や地元民衆の真の発展に資するような事業に一切投資を行なわなかった点が挙げられる。一方、欧州列強は石油採掘権については、外国企業に独占させた。その結果、石油輸出の恩恵がアラブ人に享受されるようになったのは、第二次世界大戦後の、非植民地化プロセスが進展してからのことだった。

こうして第二次大戦後に欧州列強が去った時、アラブ諸国には、いかなる近代的な政治体制もインフラ設備も、地元の管理体制も皆無な状態だった。

最後に、より現在の問題に関る点だが、4つ目の理由として、欧州列強が残していった中東の支配者らが一般民衆に対する教育や医療を顧みなかった中で、代わりに敬虔なイスラム教徒らが、政府が提供しないサービスを提供する役割を担ってきた点が挙げられる。そうしたイスラム系慈善組織が設立した神学校や病院のネットワークは、その後中東各国で大きく発展したことから、複数政党制が導入されると、こうした草の根の実績がイスラム系政治団体の正当性と民衆支持の基盤となっていったのだった。

それだけに、中東の2カ国を例に挙げると、エジプトやアルジェリアでは、イスラム系政党が選挙で勝利し、その勢いを止めるには、欧米諸国の黙認のもとで軍事クーデターを引き起こすしか手段がなかったのである。

もちろん長年に亘る歴史をこの限られた紙面に凝縮して説明しようとすれば、当然ながら内容は表面的なものとなり、欠落している点も多々出てくることは避けられないだろう。しかし、今日の中東地域全体を覆っている民衆の怒りと不満がどのようなものか、そして、それらがいかにして貧困層の人々の「イスラム国」への関心を惹きつける結果となっているかを理解するには、この容赦なく要約した中東の歴史プロセスが役に立つだろう。

私たちはこうした歴史的な背景を忘れてはならない。なぜなら中東では、たとえ歴史に疎い若者でも、イスラエルによるパレスチナ占領という現実から、欧米によるアラブ支配の歴史を常に思い知らされる構図があるからだ。とりわけ米国のイスラエルに対する無条件の支援は、アラブ人の間では屈辱の歴史を永続化する行為と受け止められている。また、歯止めがかからないイスラエルによるユダヤ人入植地の拡大は、パレスチナ国家樹立の可能性を事実上不可能にしている。

Map of Israel
Map of Israel

昨年7月から8月に勃発したイスラエル軍によるガザ空爆に際して、欧米諸国の反応は形式的な抗議に終始するものだった。このことはアラブ世界では、「欧米の意図は結局のところ、アラブ民衆を抑えつけ、本来排除されるべき腐敗して正当性が疑われている中東の支配者らとの同盟関係のみに関心がある」という明らかな証左だと受け取られた。また、ピュー・リサーチ・センターも指摘しているとおり、欧米諸国のレバノン、シリア、イラクへの絶え間ない干渉や、各地で展開している無人攻撃機による爆撃作戦は、イスラム教徒の間では、イスラム教を抑え込もうとする欧米諸国の歴史的な政策の一環だと広く受け取られている。

また私たちは、イスラム世界にはいくつかの内部対立があること記憶にとどめておくべきだ。なかでも最大のものが、スンニ派シーア派の対立である。しかし中東アラブ地域ではスンニ派イスラム教徒の少なくとも40%がシーア派を同じイスラム教徒とはみなしていないのに対して、アラブ地域以外ではこの傾向が希薄になる。インドネシアでは、自身をスンニ派と自認した人々は僅か26%にとどまり、実に56%の人々が自身を「ただのイスラム教徒」と回答していた。

アラブ世界で、人口の大半を占めるスンニ派住民がシーア派住民を同じイスラム教徒として認め、両者のコミュニティーが共存してきた国は、イラクレバノンのみである。中東地域における両派対立の構図は、全イスラム教徒の僅か13%にあたるシーア派が多数を占めるイランと、スンニ派が多数を占めるサウジアラビアを軸に展開しており、両国の指導者が対立を掻き立てている。

「イスラム国」の前身組織でイラクを活動拠点とした「メソポタミアの聖戦アルカイダ機構」は、当時の指導者アブムサブ・ザルカウィ(1966~2006)の指揮の下に、シーア派住民への攻撃を執拗に繰り返すことで、イラク社会の二極化(それまで共存してきたスンニ派住民とシーア派住民間の対立と暴力の連鎖)と、首都バグダッドのスンニ派住民(約100万人)に対する民族浄化の悲劇を引き起こした。その際、シーア派の住民や武装組織による報復の対象となり、家族や財産を奪われたスンニ派住民の多くは、同じスンニ派の「イスラム国」(そもそもシーア派住民を攻撃してこの悲劇を引き起こした張本人)に保護と求めた。過激なカリフ制の復活を謳い欧米のみならずアラブ世界全体と対立している「イスラム国」がイラクで多くのスンニ派住民を引き付けている背景にはこのような皮肉な事情がある。

さて、オタワロンドン、そして今回のパリと、欧米で発生した全てのテロ事件には、奇妙な共通点がある。つまり、実行犯はいずれもアラブ地域出身者ではなく犯行が行われた国出身の若者で、居場所を転々とし、職につかず社会から孤立していた人物であった。また、いずれも10代を通じで全くと言っていいほど信仰心に篤い人物ではなかった。さらに、犯人のほぼ全員が、過去に司法当局の世話になっていた。

犯人がイスラム教に改宗し不信心者を殺せという「イスラム国」の要求を受け入れたのは犯行の僅か数年前のことだった。現世の将来に絶望していた若者は、これにより自分の人生に意義を見出し、殉教者として天国で重要な位置を得られると考えたのだ。

こうしたテロ事件をうけて、近年欧米諸国では、イスラム教そのものを敵視する動きが高まってきている。1月7日版の「ニューヨーカー」誌は、「イスラムは宗教ではなくイデオロギーだ」とする感情的な記事を掲載した。イタリアでは、右派で移民排斥を訴えている政党「北部同盟」のリーダーであるマッテオ・サルビーニが、イスラム世界との対話を進めているとしてローマ法王を公然と批判したほか、政治評論家のジュリアーノ・フェッラーラがテレビ番組の中で「我々は聖戦を戦っている」と宣言した。

パリの大量殺傷事件に対する欧州(と米国)の全般的な反応は、フランソワ・オランド大統領が言う、「極端なイデオロギー」が引き起こした結果として非難するものだ。

しかし一方で、アンゲラ・メルケル首相が先般反対の立場を表明した、右派ポピュリスト団体「PEGIDA(西洋のイスラム化に反対する愛国的欧州人)」がドレスデン(イスラム教徒の人口は2%)で行った反移民デモ行進も、高まる反イスラムの潮流という「極端なイデオロギー」を示すものだ。Pegidaの標的はドイツへの亡命を希望している200万人の難民(大半がイラク人とシリア人)で、「彼らの真の意図は戦争からの逃避ではない」等と主張して、昨年10月から毎週ドイツ各地で反移民集会を開いている。

一方で欧州各国を網羅した調査報告書によると、移住者の圧倒的多数が、移住先の経済にうまく溶け込んでいる。国連の報告書も、欧州における人口減少問題との関連から、今後欧州諸国が今日の社会福祉体制を維持し、国際社会において競争力を維持していくためには、2050年までに少なくとも2000万人の移民を受け入れる必要があると結論付けている。しかし、今日欧州各地で発生している現実は、それに逆行するものである。

また今日欧州では、政府を解散に追い込んだスウェーデン民主党や前回の地方選で25%の得票率を獲得し、更なる躍進を狙うフランス国民戦線の例にみられるように、排外主義的なナショナリズムを掲げる右派諸政党が、英国、デンマーク、オランダ等、各地で勢力を伸ばしている。

Marine Le Pen/ Wikimedia Commons
Marine Le Pen/ Wikimedia Commons

今回パリで発生したテロ事件は、言うまでもなく極悪非道の犯罪であり、如何なる意見の表明も、民主主義に欠かせないものだが、一方で、今回の事件以前にシャルリー・エブド紙を実際に読んでその挑発の程度を確認したことがある者は極めて少なかったという事実も、踏まえておくべきだろう。ガーディアン紙のタリーク・ラマダン氏が1月10日付の論説の中で指摘しているように、シャルリー・エブド紙は、「表現の自由」を主張する一方で、2008年に社員の漫画家がニコラ・サルコジ大統領(当時)の子息とユダヤ人女性の結婚を風刺した作品を反ユダヤ的だと非難された際には、その社員を解雇している。

シャルリー・エブド紙は、世界におけるフランスの優越性とフランス文化の優位性を擁護する声であり、読者数はごく限られたものだった。そしてそうした読者も(異なる文化や宗教間の尊重と協力を基礎とした世界観とは真逆の)挑発的な内容を売りにして獲得したものだった。

そして今、「私たちはシャルリー・エブド」の大合唱が起こっている。しかし、世界の二大宗教間の衝突を先鋭化させれば、決して些細な出来事では終わらないだろう。私たちは、犯人がイスラム教徒であろうがなかろうが、テロと戦わなければならない(私たちは、ノルウェー人でキリスト教原理主義者のアンネシュ・ベーリン・ブレイビクが、イスラム教徒がいない祖国を訴えて同胞のノルウェー市民91人を殺害した事件のことを忘れてはならない。)

しかし私たちは今や致命的な落し穴にはまり込み、イスラム教への聖戦を押し進め、結局は圧倒的な大多数を占める穏健なイスラム教徒までが追いつめられ、やむなく武器をとって戦う…という、まさにイスラム過激派が望むシナリオへと突き進んでいるのだ。

欧州諸国の右派諸政党が、こうした社会の急進化から恩恵を被る状況は、実は、イスラム過激派らにとっては歓迎する事態なのだ。イスラム過激派は、世界を戦いに巻き込み、その中で独自のイスラム教(つまりイスラム教であれば何でも良いわけではなく、スンニ派の教義を彼らが独自に解釈したもの)を唯一の宗教として打ち立てることを夢見ているのだ。これに対して、私たちは、本来ならこうした過激派を孤立させる戦略を採用すべきなのに、(彼らが望む)対決策に手を染めているのだ。

さらに言えば、アラブ世界で現在起こっていることと比べれば(例えば、シリア一国だけでも昨年だけで50,000人が命を失った)、これまで欧米諸国で命を失ったテロの犠牲者の数は、ニューヨークの9・11同時多発テロ事件のケースを除いて、ごく小さい規模でとどまっている。

私たちは、実は「世界規模の悲惨な衝突を創り出そうとしている」ということに気づくことなく、なぜこうもやみくもに落し穴に向かって突き進んでいこうとするのだろうか?

翻訳=INPS Japan

translated by Katsuhiro Asagiri

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【シドニーIDN=ニーナ・バンダリ

先住民族コカタ・ムラ(Kokatha-Mula)の女性スー・コールマン=ヘーゼルタイン氏は、オーストラリア西岸沖のモンテベロ島や南オーストラリアのエミュフィールドマラリンガで英国が大気圏内核実験を始めたころ、まだ3才だった。

1952年から63年にかけて行われた12回の核実験は、スーの家族や近所の人々が住んでいたクーニッバを含む広範な地帯を汚染した。

Wikimedia Commons
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「核実験が始まった時、地域にはアボリジニの人々が住んでいました。実験場近くでは多くの人々が死に、様々な重病に侵されました。『トーテム1』と呼ばれた最初の原爆被害は広範囲にわたり、『黒い霧』についての証言が数多くあります。このせいで多くの人が死に、視力を失い、重い病気に罹ったのです」とスーは語った。核実験が始まる以前は、獲物を獲り自然の果物を採集する健康的な生活を送っていたと、お年寄りたちが語っていたことをスーは覚えている。

オーストラリア非核連合(ANFA)の会合に出席した際に放射性降下物について知ったスーは、「地域のお年寄りたちは、『ヌラーボー(Nullarbor)』という雲のことについて話してくれましたが、それはマラリンガでの核実験による放射性降下物だったのです。私たちは爆心地にいたわけではないのですが、雲はひとところにとどまっていませんでした。風に乗ってどこへでも運ばれていたのです。癌になって亡くなった人たちもいましたが、それ以前私たちは癌などというものは知りませんでした。」と、当時を思い出して語った。

アボリジニの人々はANFAの前身にあたる「反ウラン連合」を1997年に立ち上げた。オーストラリア、とくに先住民族の居住地域において進行中あるいは予定されている核開発に懸念を持つNGOがこれに加わった。

Sue Coleman-Haseldine/ MFA

アボリジニにとって土地は彼らの文化の基盤である。低木の食物がおそらくは汚染されていると聞いてスーはショックを受けた。スーはIDNの取材に対して、「自然は食べ物を得るスーパーマーケットであり、薬を手に入れる薬屋であり、それを維持することは私たちの信条なのです。アボリジニであるかどうかは関係ありません。この国のこの地域に住んでいる全員が、家族の中での早すぎる病気や死についての悲しい経験を抱えているのです。癌はその最たるものですが、甲状腺疾患を患っている人々も少なくありません。」と語った。

不妊、死産、先天性異常等の問題は核実験時の方がよく起こっていたが、今日でも、スーのような人々は、その地域で現在もある放射能汚染や世代間で引き継がれる遺伝子の変化と、自分たちの健康状態の間には何かの因果関係があるのではないかと疑っている。スーは、核兵器が永遠に禁止され、核兵器を製造できるウランを地下に埋めたままにしてほしいと考えている。

Uran/ Wikimedia Commons
Uran/ Wikimedia Commons

昨年、諸政府や国連機関、市民社会からの参加者がオスロ(ノルウェー)に集い、「核兵器の人道的影響に関する国際会議」(非人道性会議)を初めて開催した。その成果を受けて、2月にはメキシコ政府が主催し、ナヤリットで146か国が参加した第2回会議が開かれた。10月には、国連加盟193か国のうち155か国が国連総会に提出された「核兵器の人道的帰結に関する共同声明」を支持した。そして、第3回「核兵器の人道的影響に関する国際会議」は12月8日・9日にウィーン(オーストリア)で開かれ、158ヵ国の政府と市民社会の代表が、スーの心を打ち砕くような証言に耳を傾けた。

識者によれば、核兵器を違法化し廃絶する法的拘束力のある国際条約の交渉を始めるべきだとの機運が高まっている。核兵器が人間に及ぼす影響に関する意識を高め、核兵器が二度と使われないようにするための世界的な取組みが近年再び広がりをみせている。

冷戦の終結以来、米国とロシアは核弾頭の数をかなり削減してはいるが、現在でも推定1万7000発の核兵器が存在している。

「核兵器廃絶国際キャンペーン」(ICAN)豪州支部のティム・ライト支部長は「核兵器禁止条約を支持すると誓約した圧倒的多数の国々に、今こそオーストラリアも加わる時だ」と語った。

ICAN豪州支部は「核の傘はいらない」というユーチューブのビデオを制作して、核兵器の容認を止め防衛政策における核兵器を拒絶するよう全ての「核の傘国家」に求めるメッセージの発信を始めている。ビデオは1万6000回再生された。「とりわけ、冷戦を知らない若い世代の人々のために、面白く、分かりやすい形で拡大核抑止について議論を始めたかったのです。」と、ICAN豪州支部キャンペーン拡大担当のゲム・ロムルド氏は語った。

オーストラリア国民の8割が核兵器禁止条約を支持

赤十字が最近行った調査によると、8割のオーストラリア国民が核兵器の使用を禁止する法的拘束力のある条約を支持しているという。実に88%が、核兵器が人間に及ぼす壊滅的な被害を考慮に入れれば、核戦争における勝者はいないと回答している。

ICRC
ICRC

国際赤十字・赤新月運動は、1945年8月に核兵器が広島・長崎で初めて使用されて以来、核兵器に対する深い憂慮を表明してきている。

核兵器が人間に及ぼす影響は、ある空間や時間に限られるものではない。放射線被ばくは、広い範囲にわたる健康や農業、天然資源に対して、数世代に及ぶ影響を及ぼす。

アデレード(オーストラリア南部)で1970年に生まれたローズマリー・レスター氏は、寝たきりになっていた自分の父親が、オーストラリア放送協会(ABC)のラジオで核物理学者のアーネスト・ティタートン卿がマラリンガについて語ったインタビューを聞く姿を覚えている。

アリニジャラ・ウィルララ(北西)天然資源管理委員会の理事であるローズマリーはIDNの取材に対して、「声を荒げる父の声が聞こえてきました。部屋に入っていって、どうしたのと聞くと、私が生まれるよりもずっと前、父がまだ少年だった頃に起こったことについて話してくれました。マラリンガの核実験について聞いたのは、その時が初めてでした。」と語った。

彼女は、核実験の結果として自分の父親や祖父母、親族が病気になったことを、自分の経験として知っている。彼女自身も2005年、強皮症と呼ばれるごく稀にしか発生しない全身性自己免疫疾患だと診断されている。

「その頃、ウラン採鉱やそれが環境に及ぼす被害、そしてそれが何に使われるのかということについては、認識がありませんでした。父と祖父母が活動家になり、核産業に対して積極的に抗議・発言・教育して活動を進め、『ヌガナンパ・ヌグル』(私たちの国)を守る必要性を感じていたことが今ではよく理解できるのです。」とローズマリーは語った。彼女は今、将来の世代のために、英語とピジャンジャジャラヤンクニジャジャラ語の両方で記録・提供できるオーラル・ヒストリーが必要だと考えている。

1984年、オーストラリア政府は、放射線被ばくと放射性物質・毒物の処理から人々を守るために取られた措置について地域で懸念が高まっていることを受けて、マラリンガ王立委員会を設置し核実験について調査することにした。

「秘密のファイルは、核実験から50年後の2003年まで開示されませんでした。プルトニウム239をはじめウラン、ベリリウムといった有毒物質が核実験場周辺一帯に散らばっていることがよく知られています。毒物は土壌に含まれており、その塵はあらゆる方向に舞い散り、周辺住民は呼吸を通じて体内に取り込んでしまっているのです。また、人々が摂取するこの地域の低木の食物すら汚染されているのです。」とローズマリーは語った。彼女は、これだけ汚染されているにもかかわらず、この地域は安全であり、観光を促進すべきだと言う人たちがいることに、愕然としている。

元核実験場を浄化する責任はオーストラリア連邦政府にある。原子力エンジニアで、政府によるマラリンガ浄化事業の元顧問であるアラン・パーキンソン氏はABCテレビの取材に対して、「浄化基準以上の汚染が未だに見られる地帯は100平方キロを超えます。プルトニウム239がそれで、2万4000年経過してもその内の半分は依然として存在しているでしょう。」と語っている。

責任を取る

ローズマリーは、核実験の遺産である深刻な影響に関してオーストラリア連邦政府に責任を取ってもらいたいと考えている。「多くの人々が(核実験の)直後に亡くなりましたが、慢性的な健康問題や癌、障害を抱えたまま生きている人々もいます。鬱は言うまでもなく、精神的な喪失感とトラウマがあり、心理的・社会的障害を患い、愛する人たちの命が失われていくのを目の当りにしてきているのです。核実験は、私たち(アボリジニ)の文化を破壊し、民衆をさらに社会の端に追いやってきたのです。」とローズマリーは語った。

核廃絶を主張する人々は、諸政府に対して、こうした被害状況における政府の役割を認識し、ウラン採鉱を止めるよう求めている。ANFAの最近の会合では、約4万発の劣化ウラン弾がオーストラリア軍の訓練で使われたと報告された。核実験による世代を超えた健康被害だけではなく、劣化ウラン兵器の使用記録やその影響についても、ANFAは認識している。

「オーストラリア政府は、核実験・放射性物質降下地帯における環境被害に関する調査に資金を供出すべきです。そして、ファースト・ネイションズの人々(アボリジニ)に謝罪し、被害を受けた個人に賠償し、健康に問題のある人々を支援するためにパイリング・トラストのあり方を再検討すべきです。」とローズマリーはIDNの取材に対して語った。

マラリンガ・パイリング・トラストは、核実験によって土地への立ち入りができなくなったマラリンガおよびスピニフェックスの旧来からの地主に対して、オーストラリア政府が準備した補償金を管理するために設置された機関である。

識者らは、将来の「核兵器なき世界」の実現を目指す(核実験の被害を受けた)生存者らの正義を求める闘いに、ウィーン会議が新たな弾みを与えたと考えている。(原文へ

※ニーナ・バンダリは、シドニーを活動拠点にする特派員。国際通信社IPS及びIDNをはじめ、オーストラリア内外の様々な出版物に寄稿している。

IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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|コラム|ケネディ大統領とカストロ首相の秘密交渉を振返る(ロバート・F・ケネディ・ジュニア)

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【ニューヨークIPS=ロバート・F・ケネディ・ジュニア】

1963年11月のジョン・F・ケネディ大統領(当時)がダラスで暗殺された日、大統領特使の一人が、キューバのバラデロ・ビーチでフィデル・カストロ首相(当時)と秘密裏に会談を行っていた。米国による対キューバ禁輸中止の条件と両国間の関係修復について話し合うのが目的だった。

これは50年以上前のことだが、最近になってついに、バラク・オバマ大統領が、キューバとの国交回復という故ケネディ大統領の夢の実現に向けたプロセスを再開した。

米大統領特使とカストロ首相の秘密交渉は、バラデロ・ビーチにある首相の夏の公邸を舞台に、(ケネディが暗殺された時点で)既に数か月にわたって行われていた。この交渉は、1962年のキューバ危機後、米ソ間の関係改善と並行して進められていたものである。

PX 96-33:12 03 June 1961 President Kennedy meets with Chairman Khrushchev at the U. S. Embassy residence, Vienna. U. S. Dept. of State photograph in the John Fitzgerald Kennedy Library, Boston.

キューバ危機を通じて、各々の国内の軍部強硬派と相容れなかったケネディ大統領とソ連のニキータ・フルシチョフ首相(当時)は、互いに相手に対するある種の尊敬と好感を抱くようになった。それが、互いの体面を保つ落としどころとして、ソ連によるキューバからの中距離弾道ミサイル撤去と、米国によるトルコからのジュピター中距離弾道ミサイルの撤去という秘密合意につながった。

一方、カストロ首相は、ソ連がキューバを頭越しに何の相談もなく核ミサイルの撤去を決めたことに激怒した。これに対してフルシチョフは、危機後にカストロをソ連に招いて6週間を共に過ごし、ケネディ大統領との対話を通じて米国との関係改善を図るよう粘り強く説得を試みている。のちにフルシチョフの子息であるセルゲイが、当時の様子について「父とカストロは、師弟のような関係にありました。」と述べているが、フルシチョフは、ケネディは信頼に足る人物だと、カストロを説得したかったようだ。

この点についてカストロ自身は、「(フルシチョフは)何時間にも亘ってケネディ大統領からの多くの書簡を(中には弟のロバート・ケネディ司法長官経由のものもあったが)私に読んで聞かせた。…」とのちに振り返っている。カストロ首相は、米国との関係改善の道を探る決意をしてキューバへの帰途に就いた。

米中央情報局(CIA)は、両首脳をはじめ全ての当事者の動きを監視していた。(のちの1966年にCIA長官になる)リチャード・ヘルムズは、同僚に宛てた1963年1月5日付極秘メモに、「カストロは、フルシチョフの要請により、当面の間はケネディ政権に対して和解に向けた融和政策を進める方針を固めたうえで、キューバへの帰国の途に就こうとしている。」と記している。

ケネディ大統領も、そうした動きには乗り気だった。1962年秋、大統領とその弟で私の父にあたるロバート・ケネディ司法長官(当時)は、ニューヨークの弁護士ジェイムズ・ドノバンと父の友人で顧問であったジョン・ドランをキューバに派遣し、ピッグス湾侵攻作戦でキューバ側の捕虜になった1500人の解放について交渉にあたらせた。

Map of Cuba/ Wikimedia Commons
Map of Cuba/ Wikimedia Commons

ドノバンとドランは、カストロ首相と良好な関係を築くことに成功し、カストロは自ら2人をキューバ各地に案内している。カストロは彼らをピッグス湾の戦場跡に案内したあと、自らのゲストとして多くの野球試合に連れて行ったため、のちにドランは私に、「将来スポーツは二度と観戦しないと誓ったよ。」とこぼしていた。

カストロ首相は1962年のクリスマスに最後の1200人を釈放したうえで、ドノバンに対して、米国との国交正常化についてどうするのかを尋ねた。するとドノバンは、「山嵐のジレンマと同じで、慎重に進めることが肝要です。」と応えたという。

カストロという人物に深い関心を抱いていた父と大統領は、ドノバンとドランにカストロ個人に関する詳細な報告をするよう指示を出した。

それまで米国のメディアは、カストロ首相のことを、飲んだくれで、不潔で気まぐれ、さらに行儀が悪い人物などと書きたてていた。しかしドランは、「私たちが受けたカストロの印象は、米国で一般的に受入れられているイメージには当てはまりません。彼は私たちの前で苛立つことも、酒を飲むことも、また下品なそぶりも一度として見せたことはありません。」と報告している。ドランとドノバンのカストロ評は、「世知に長け、機知に富み、好奇心旺盛で、博識の、非の打ちどころのない身なりをした人物であり、人を惹きつける魅力を備えた会話の達人。」というものだった。

ドランとドノバンは、カストロ首相とともにキューバ各地を旅行した際、首相が少数ながらよく訓練された警護を伴って野球場に入場すると、群衆から自発的に喝采が広がったのを目の当たりにした経験から、「キューバ国民の圧倒的な支持を得ている」としたCIAの内部レポートの正しさを確認した。

ケネディ大統領は直感的にキューバ革命に対する同情の念を抱いていた。大統領の特別補佐官で伝記作家のアーサー・シュレンジンガーは、「ケネディ大統領は、ラテンアメリカ諸国が置かれてきた実情に同情的で、米国に向けられてきたラテンアメリカ地域の広範囲にわたる民衆の怒りを理解していた。」と記している。

シュレジンガーは、「カストロは、当初は西側を支持する可能性もあったが、米国の長年に亘る介入と搾取の歴史から、米国に背を向けソ連に支援を求めた。一方、ケネディ大統領がキューバに対して抱いていた異議は、ソ連に利用されてラテンアメリカ各地にソ連の影響力を広げ革命を扇動するためのプラットフォームとしての役割を担わされている点にあった。」と述べている。

Lisa Howard/ Wikimedia Commons
Lisa Howard/ Wikimedia Commons

カストロ首相も、とりわけキューバ危機の後になると、民族主義的な諸理由から、こうしたソ連への過度の依存は好ましくないと思うようになっていた。カストロは、ケネディ大統領の非公式な特使をつとめたABC放送のリサ・ハワード記者との非公式な面談の中で、米国との関係改善を望んでいることを明言している。

ハワード記者は帰国後、ホワイトハウスに対して「非公式面談のなかで、(カストロ首相は)キューバ領に駐在しているソ連政府関係者や軍用装備、キューバ政府が接収したアメリカ人所有者の土地や投資資産に対する補償、そしてキューバが西半球における共産勢力による破壊工作の拠点と見られてきた問題について協議する用意があると明確に述べていた。」と報告している。

キューバ人捕虜が解放されると、ケネディ大統領は、カストロ首相との関係改善の可能性を真剣に模索するようになった。しかし、これは危険水域へと漕ぎ出す行為にほかならなかった。当時は、1964年の大統領選を控え、カストロとの緊張緩和を口にすること自体が、政治的爆弾とみなされていた時期だった。

バリー・ゴールドウォーター(1964年大統領選の共和党候補者)やリチャード・ニクソン(アイゼンハワー政権の副大統領で1960年大統領選時のケネディの対立候補)、ネルソン・ロックフェラー(ゴールドウォーターと共和党候補の座を争った)にとって、キューバ問題は共和党にとって最も利用しがいがある話題だった。また、一部の殺気立ったキューバ亡命者や彼らを支援していたCIA関係者は、キューバとの共存を模索することなど全く許容できない裏切り行為とみなしていた。

1963年9月、ケネディ大統領は元記者で外交官のウィリアム・アトウッドに、キューバとの国交回復交渉を進めるよう秘密裏に指示した。アトウッドは「ルック・マガジン」記者当時にキューバ革命を取材し、米国に敵対するようになる以前のカストロをインタビューして以来既知の間柄だった。

同月下旬、父はアトウッドにカストロとの秘密会談が可能な安全な場所を確保するよう指示している。

10月、カストロはアトウッドがキューバに密かに入国して関係改善交渉ができるよう段取りをつけて、これに応えた。1963年11月18日(ケネディ大統領が暗殺される4日前)、カストロは側近のレネ・バジェホを通じてアトウッドと電話で協議し、秘密会談の議題に同意した。

同じく11月18日、ケネディ大統領はキューバとの関係改善への道筋を開くメッセージを用意していた。キューバからの移民が最も多いフロリダ州マイアミにある「インターアメリカン報道協会」において、米国の政策は、「如何なる国に対しても自国の経済活動をどのように構築するかについて指図するものではありません。あらゆる国家は、その国家のニーズと意思に従って、自らの経済的仕組みを作る自由があります。」と発言した。

またケネディ大統領は、その一か月前にも、フランス人ジャーナリストでル・ヌーヴェル・オプセルヴァトゥールの編集長であるジャン・ダニエルをキューバに派遣し、カストロ首相との間に、もう一つの秘密交渉チャンネルを開いていた。ダニエルは1963年10月24日のカストロとの面談に赴く途上、ホワイトハウスを訪ね、ケネディ大統領から米国とキューバの二国間関係に関するブリーフィングを受けている。

その際ケネディ大統領は、カストロ首相に伝えるメッセージの中で、カストロがキューバ危機を引き起こした責任を激しく非難している。しかしそのあとトーンを一転し、(ソ連との核実験停止条約の早期締結に向けた交渉に入ると発表した)アメリカン大学での演説でソ連国民に示した共感と同じ心情を、キューバ国民に対しても示した。

Fulgencio Batista y Zaldivar

またケネディ大統領は、(カストロが打倒した)腐敗し専制的なフルヘンシオ・バチスタ政権との米国の長年に亘る関係に言及した。ケネディはそのうえで、ダニエルに対し、カストロがキューバ革命の開始に当たり発表した臨時革命政府綱領(シェラマエストラ宣言)を支持していたと語った。

1963年の11月19日から22日にかけて、カストロ首相は、ケネディの秘密特使ダニエルと会談した。カストロは慎重に、予定されるケネディ大統領との会談の詳細、とりわけ、キューバ革命に対する大統領の考え方について、ダニエルに質問した。

カストロ首相はダニエルの回答を一通り聞くと、暫くじっと物思いにふけった。そしてついに、慎重に言葉を選びながら、「私はケネディが誠実な人物だと思う。そして今日の、この誠実さの表明は、政治的意味合いも持つことになるだろう。」と語った。

そしてカストロ首相は、アイゼンハワー政権及びケネディ政権が「共産主義の名目やアリバイが見出されるずっと以前から」キューバ革命を攻撃したことについて詳細な批評を展開した。

Fidel Castro/ Wikimedia Commons

しかし、「(ケネディは)困難な状況を引き継いだのだと思う。米国の大統領はあまり自由ではなく、ケネディも現在、この自由の欠如を実感しているのだと思う。彼はまた、とりわけピッグス湾襲撃の際のキューバ側からの想定される反応について、これまで自分がどれほど欺かれてきたのか今では理解しているだろう。」と付け加えた。

カストロ首相はダニエル特使に対して、「私は、不人気をものともせず、組織と戦い、真実を語り、そしてここが最も重要な点だが、様々な国々が、自らが定めた体制を構築していく自由を認める指導者が北米大陸に現れるのを待ち望んでいる(その点でケネディ大統領はそうした人物に当てはまるのではないか!)」と語った。

さらにカストロ首相は、「歴史的観点からすると、ケネディは、アメリカ大陸においても資本主義と社会主義の共存があり得ることをついに理解した指導者として、米国史上で最も偉大な大統領になる可能性がある。そうなれば、エイブラハム・リンカーンよりも偉大な大統領にかもしれない。」と語った。(原文へ

本記事の中で紹介されている見解は著者個人のものであり、インター・プレス・サービスの編集方針を反映したものではない。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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インド洋大津波から10年、今も貧困と恐怖に苦しむ人々

【コロンボIPS=アマンサ・ペレラ

2004年のスマトラ沖地震により発生した大津波が押し寄せてから僅か30分で35万人の命が奪われ、50万人が住居を失った。そして、1時間もしないうちに10万戸の家屋が破壊され、20万人が暮しを奪われた。

南アジアの多くの人々にとって、クリスマス休暇は、今後も同時に2004年12月26日に襲来した大津波の犠牲となった人々を追悼する記念日として記憶に刻まれていくだろう。

インド洋に位置する島嶼国であるスリランカは、被災者が人口の3%にのぼり国内総生産の5%が影響を受けるなど、この大津波で最悪の被害を被った国の一つである。

大津波がスリランカ南西海岸を襲った際に被害を受け、コロンボ湾入り口で座礁し傾いたままの船舶。(2004年12月26日。IPSアマンサ・ペレラ撮影)

IPSアマンサ・ペレラ撮影
By Amantha Perera

12月26日早朝、同国最大の都市コロンボの南に位置するハミルトン運河に沿ってスリランカの内陸部に侵入してくる津波の第一波。(2004年12月26日。IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

南部ペラリア村で大津波に押し流された鉄道車両の前に軍人とともに立つ僧侶。同地では1000人以上が犠牲となった。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

南部ペラリア村に設けられた集団墓地の近くで悲嘆にくれる女性。被災から10年が経過したが、数千人の遺族が引き続きトラウマと鬱病に苦しんでいる。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

東部バッティカロア県パニチチャンケルニ村の臨時収容所に避難している人々は、スリランカ内戦(1983年~2009年)の矢面に立たされてきた人々でもある。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

スリランカ国家災害管理局(DMC)によると、100万人を超える人々(その大半が貧しい家庭)が沿岸地域から避難しなければならなかった。

北東部は収まる気配のない長引く内戦に巻き込まれて疲弊していたが、大津波被害の大半がこの地域に集中した。

長びく内戦で、住民は、政府軍と反政府勢力「タミル・イーラム解放のトラ」間の戦闘の板挟みとなって苦しんできたところに、さらに大津波に被災した。政府統計によると、大津波被害の実に6割がスリランカの北部と東部の沿岸地帯に集中している。

By Amantha Perera

炎天下のなか、被災した鉄道車両に取り残された遺体から発する臭気から身を守るためにハンカチで鼻と口を覆う男性。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

被災した東部アンパラ県カルムナイ市に拾ったトタン板を運ぶ女性。東部海岸沿いのこの付近の3つの村における大津波による死者は3500人で、スリランカにおける全死者数の実に10分の1を占める。犠牲者の大半は海岸沿いの慎ましい家に居住していた貧しい漁師達だった。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

東部サイナティマルス村は大津波により完全に破壊された。さらに沿岸の漁師らは、スリランカ政府が実施した海岸から100m以内(北・東部では200m以内)をバッファーゾーンとして居住を禁止するという浅はかな政策により、もう一つの障害に直面した。この政策は後に撤回されている。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

東部バッティカロア県パニチチャンケルニ村の浜辺で、大津波で命を失った人々の焼け焦げた遺体を撮影するカメラマン。当時、この地は「タミル・イーラム解放のトラ」の支配地であったため、被災者への支援物資は遅配が続いた。政府軍と「タミル・イーラム解放のトラ」間の配給食糧を巡る諍いの犠牲になったのである。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

大津波で破壊された南部ハンバントタの街を歩く男たち。この街の復興作業はこの後、急ピッチで進められた。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

大津波から10年が経過したが、この大災害の犠牲者を追悼した大きな記念碑は建てられていない。犠牲となった人々を記録した国の公式文書すら作成されていない。一方、沿岸部に沿って所々に小さな記念碑が建立されているが、そのほとんどは風化しており、ペンキの塗り直しが必要だ。

スリランカはこの10年で大きな変貌を遂げた。30年近くに及んだ内戦が終結し、国内避難民は新築や修理した家に帰還した。そして国民の大半にとって、大津波の記憶は過去の悪夢として記憶の彼方に埋没しつつある。

しかし、2004年の大惨事を実体験した数万人におよぶ被災者にとって、あの日の記憶は一生忘れられないものになるだろう。島には復興の槌音が鳴り、高級観光リゾート地へと続く真新しい道路があちこちに敷かれる一方で、多くの被災者は、近親や友人を失った悲しみやトラウマ、そして大津波がもたらした貧困生活から未だに脱することができないでいる。

By Amantha Perera

大津波で破壊された南部ハンバントタの街の瓦礫に立つ幼児。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

大津波から5年後、東部カルムナイ市では当初一年間を想定して建設された一時収容施設に、依然として数百人の避難民が生活していた。この施設から避難民の土地へのアクセスが困難だったことが、被災者の自立支援を進めるうえで、大きな障害となった。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

大津波で破壊された東部カルムナイ市のカラシユ地区をバイクで通過する男性。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

民間資金で復興村に建設中の3軒の家(IPSアマンサ・ペレラ撮影)

By Amantha Perera

2012年4月11日に発令された津波警報を受けて自宅を後にし、道路際で待機している、コロンボ郊外ラトマラナ沿岸地区の住人。自然災害には沿岸に住む貧困層が最も被害を受けやすい。(IPSアマンサ・ペレラ撮影)(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|視点|「核兵器に保有されている」(ザンテ・ホール核戦争防止国際医師会議ドイツ支部軍縮キャンペーン担当)

「核兵器の保有は、国際紛争の発生を防ぐどころか、紛争の危険度を高めます。核戦力を警戒態勢に置いても安全は得られず、逆に事故の可能性が高まります。核抑止の原則を標榜しても、核の拡散に対応することはできず、兵器を保持したいという欲求が高まるだけです。」―潘基文国連事務総長

【ベルリン/ウィーンIDN=ザンテ・ホール】

約1000人の人々がウィーンの荘厳なホーフブルク宮殿の会議室に集って、「核兵器の人道的影響」という、筆舌に尽くし難く想像を絶するテーマについて丸2日間に及ぶ議論を行った。国際連合の枠外で国が主催して行われた一連の国際会議の3回目であり、最初の2回はノルウェーとメキシコで開催された。

会議への参加国数は回を追うごとに増えてきており(127ヵ国→146ヵ国→158ヵ国)、このことは、核兵器がいかに容認しがたいものであるかについて意識を高め、核軍縮に向けた圧力を強める意味において会議参加が効果的であることの証拠だと考えられている。

Austrian Chancellor Sebastian Kurz/ Készítette: Kremlin.ru, CC BY 4.0
Austrian Chancellor Sebastian Kurz/ Készítette: Kremlin.ru, CC BY 4.0

一貫して参加を拒否しているロシアとフランスにとっては困ったことに、今回の会議には158か国が代表を送り、米国と英国が今回初めて参加した。会議の最後にオーストリアが、核兵器の禁止と廃絶につながるような「法的ギャップ」を埋める努力をすると誓約し、他国にもそれに参加するよう促した。

オーストリア外務省はこの会議のために最大限の努力を払った。開会セッションにおいて若きセバスチャン・クルツ外相(28歳)は、グローバルな核軍縮を具体的に進展させる新たな推進力を生み出すよう呼びかけた。

国連事務総長やローマ教皇ら影響力のある人びとからのメッセージが、会議の雰囲気を決定付けた。フランシスコ法王は核兵器の被害者らに対して、「彼らが私たちと文明を滅ぼす核兵器の危険性を世界に自覚させ、人類をより深い愛と協力、友愛に導く声となるように。」と励ました。

数多くの著名人がオーストリア外相に書簡を送り、核兵器によるリスクは過小評価されており削減されねばならないとの考えを明らかにした。赤十字国際委員会の会長は、最新の研究によって、「核爆発が起きれば適切な支援や救援は不可能」との既に出されている結論が改めて確認された、と述べた。

サーロー節子氏は、被爆者としての喪失と苦難の体験を語り、会場全体が彼女と悲しみを共にした。

Aは原子(atom)、Bは爆弾(bomb)、Cはガン(cancer)、Dは死(death)

開会セッションでは会議の主要なテーマが紹介され、その後のセッションで、核爆発の影響や核実験、核爆発のリスク、そのシナリオについて詳しく議論された。

Nevada Nuclear Test site/ Wikimedia Commons

科学的なプレゼンテーションの合間には、「風下の人々」(核実験の被害者)による証言があった。米国ユタ州セントジョージの団体「ヒール」(HEAL)から参加した車椅子のミシェル・トーマス氏は、(ネバダ核実験場で50年代から60年代にかけて実施された)100回以上の地上核実験による放射性物質の中でいかに生き、自分たちのコミュニティーが癌、甲状腺障害、白血病等の疾病にいかに侵されてきたかについて熱く語った。生まれた年の核実験で母親の胎内で被爆し現在は4種類の癌を患っているトーマス氏だが、幼少期は「自分たちに原爆被害と死をもたらしているのが冷戦時の敵ではなく、自国の政府であることが理解できず」、核実験に抗議していた母親の行動を恥ずかしく思っていたことを打ち明けた。今では母親の遺志を継いで核実験の被害と政府の責任を追及しているトーマス氏だが、人々から「政府をそれほど厳しく批判して怖くはないのか?」と尋ねられるという。そんな時彼女は、「すでに私は殺されていますから」と答えることにしているという。

女性ら3人による土地や生活、健康の破壊に関する被爆証言に続いて行われた質疑応答の時間で、米国のアダム・シャインマン大統領特別代表(核不拡散問題担当)は重大な判断ミスを犯した。議長が各国の代表に対して、翌日までは発言しないようにと明確に念を押していたにもかかわらず、米国代表は、あえて発言に踏み切ったのだ。その際米国代表は、核実験の被害者に謝罪しなかったばかりか、核軍縮への推進力を生み出すために米国が独自に設定している「やるべき仕事(to do list)」を今後変更するつもりはないと会場の全参加者に対してあえて明言したのである。

Michelle Thomas/ IPPNW
Michelle Thomas/ IPPNW

あまりに残酷で容認できない核兵器

会議の2日目に行われた国際人道法に関するパネルでは、核兵器の使用に関して明確に禁止する条約はないものの、既存の国際人道法や環境法には違反するとの結論が出された。オスロ大学の林伸生氏による発表は、倫理的・道徳的次元まで議論を掘り下げ、拷問と同じく(12月9日に米国上院報告書が発表された際に誰もが思ったように)、核兵器は「あまりに残酷で容認できない」ものであると主張するものだった。「自らの生存のために自身を人質に差し出さなくてはならないと人類が考えていたような時代を私たちはもはや生きているわけではないのだから、今こそこの不必要な苦難から自らを解き放つ好機です。」と林氏は語った。

政治的な意見表明の時間は、100か国の代表が、各々の主張や結論を発表したため、休憩なし、時には通訳なしでも実に5時間を要した。この退屈に時間が経過しがちな雰囲気は、時折市民社会の発表によって破られた。なかでもジュネーブを拠点にした核軍縮イニシアチブ(通称「野火」)の「主席煽動官」を自称しているリチャード・レナン氏の発表が最たるもので、非核兵器国に対して、「いつまでも泣き言をいうのは止めて、自ら核兵器禁止に踏み出すべきです。」と訴えかけた。

いわゆる「イタチ国家」(米国の核の「傘」の下にある国々:原文「weasel states」のweaselには「ずるい人」という意味もある:IPSJ)の代表らは、休憩のためにロビーに出てくると、巨大なイタチ(=米国代表)に迎えられた。レナン氏は、核兵器に「保有されている(憑りつかれている)」核兵器保有国をアルコール依存症の患者に例え、非核保有国に対してそうした習慣を支持しないよう訴えた。また、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)オーストリア支部のナジャ・シュミット代表は、ICANの声明を発表し、その中で核兵器禁止につながるような、「誰に対しても開かれ、誰によっても妨害されない」プロセスの開始を呼びかけた。

Vienna conference main hall/ Xanthe Hall

人道的なアプローチは、核兵器使用がもたらす影響を国家安全保障上の利益よりも議論の中心に置くものであり、一連の「核兵器の人道的影響に関する国際会議」は、この目的を達成するうえで概して効果的であった。

Nadja Schumidt/ ICAN Austria
Nadja Schumidt/ ICAN Austria

しかし、ウクライナは現在の(ロシアとの)紛争に囚われており、箱の中から飛び出すことができなかった。その代りにやったことは、ロシアに対する口を極めた言葉の攻撃であった。

英国は、核兵器が人間に及ぼす影響は1968年には既に明らかになっていることであり、核兵器の禁止や廃絶のスケジュールを設定することは戦略的な安定性を損ねるとさえ語り、「必要な限り」核ミサイルを維持し続ける意向を明らかにした。

オーストリアの誓約」が、この会議の主要な成果文書である。これが、核兵器の禁止と廃絶につながるようなプロセスを開始する用意を各国が示すためのツールになる。

これ以上のことが2015年春の核不拡散条約(NPT)運用検討会議の前に達成できたとは思えない。しかし、今回のNPT運用検討会議で何の成果もなければ(成果があることを予想している人は少ないが)、オーストリアは、核兵器保有国の参加があろうとなかろうと、「オーストリアの誓約」を通じて固められた支持を利用する形で、[核兵器を禁止する]条約の交渉を開始することになるかもしれない。広島・長崎への原爆投下から70年を迎える2015年は、核兵器禁止の交渉を開始するのに適当な年と言えるかもしれない。(原文へ

※ザンテ・ホールは、核戦争防止国際医師会議(IPPNW)ドイツ支部の軍縮キャンペーン担当。

翻訳=IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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核保有国、ウィーンで批判の嵐にさらされる

2015年―核軍縮の成否を決める年

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核保有国、ウィーンで批判の嵐にさらされる

【ウィーンIPS=ジャムシェッド・バルーア】

「無神経でタイミングが悪く、不適切で外交的技量に欠ける発言」で、核兵器の人道的影響に関する国際会議への「参加決定によって米国がせっかく得ていた参加者からの善意の大部分を思わず台無した米国代表」に向かって、ある市民社会組織の代表が「賛辞」を述べると、会場に失笑がこだました。

Richard Lennane

発言したのはリチャード・レナン氏。ジュネーブを拠点にした核軍縮イニシアチブ(通称「野火」)の「主席煽動官」を自称している人物だ。2013年のオスロ会議(ノルウェー)、今年初めのナヤリット会議(メキシコ)に続いて12月8日と9日にウィーン(オーストリア)で開催された通算3回目となる「核兵器の人道的影響に関する国際会議」(非人道性会議)の最終セッションでの席上でのことである。

以前の2回の会議とは異なり、フランス、ロシア、中国と並んで「核クラブ」の一員である米国と英国が、今回の会議に初めて公式参加した。

しかし、米国代表による外交的修辞は、広島・長崎の被爆者や、オーストラリアカザフスタン(旧ソ連時代のセミパラチンスク)、マーシャル諸島での核実験の被害者の証言が会場の参加者の心を大きく揺さぶったのとは対照的に、まったく的外れのものだった。被爆者らは、核兵器の悲惨な影響について力強い証言をし、その内容は他のデータや研究結果を発表するプレゼンテーションを補完する形となった。

米国のアダム・シャインマン大統領特別代表(核不拡散問題担当)は、「数十年に及ぶ我が国の取り組みの基礎にあるのは、核兵器の使用が人間に及ぼす影響に関する明確な理解です。」と断言した。

Ambassador Adam Scheinman/ US State Department
Ambassador Adam Scheinman/ US State Department

しかしこうした主張は、大多数の会議参加者に何ら好印象を与えず、来年開催予定の核不拡散条約(NPT)運用検討会議で何らかの成果がありうるとの希望ももたらさなかった。

会場の落胆は、米国の軍備管理協会エネルギー環境研究所米国科学者連盟核情報プロジェクト社会的責任を求める医師の会憂慮する科学者同盟共同声明で、「2010年NPT運用検討会議の成功から5年近くが経過しているにも関わらず、全会一致の行動計画、とりわけ相互に関連を持った22項目の軍縮措置の実施状況はきわめて残念なものだ」と指摘していることから、なおさらのことであった。

さらに共同声明は、「新戦略兵器削減条約(新START)が2011年に発効して以来、ロシアと米国は、合理的な抑止に必要なレベルを遥かに上回る膨大な核備蓄の削減交渉を開始できていない。」と指摘している。

また2015年は広島・長崎への原爆投下から70年にあたる。広島平和大使であり1945年8月6日の核爆発を生き延びたサーロー節子氏の熱のこもった語りからも明らかなように、被爆者やその家族は依然として原爆投下の帰結を肌で感じている。

「いかなる核兵器の使用も、破滅的で長期に亘る、そして許容できない結果をもたらします。各国の政府がこうした証拠と被害者の証言を聞いたら、行動をしないではいられないはずです。」「唯一の解決策は、核兵器の禁止と廃絶。そして、それを今すぐ始めなければなりません。」と日本のNGO「ピースボート」の川崎哲共同代表は語った。

米国のシャインマン特別代表は一般討論で発表した声明の中で、こうした不安を打ち消そうとして、「米国は核兵器使用の重大な帰結を十分に理解しており、核使用を避けることに最大の優先順位を置いています。米国は、核兵器なき世界の平和と安全保障を追求するここにおられる全ての人々と、共にあります。」と指摘したうえで、「米国は、核不拡散条約体制も含め、さまざまな道具立てや条約、協定の助けを受けながら、そうした世界の条件を創りだすために努力してきたし、これからもそうするつもりである。」と語った。

米国政府の主張の信憑性にかかわらず、シャインマン特別代表のドライでむしろ紋切り型の発言は、158の参加国中44か国の代表が「核兵器が存在し続けるかぎり、意図的、計算違い或いは狂気、技術的・人的ミスによる核使用のリスクが現実にありうる」と情熱的に訴えかけた姿とは対照的なものであった。

ICAN
ICAN

ウィーン会議の場で核兵器禁止条約への賛同を示した国は次の通り。オーストリア、バングラデシュ、ブラジル、ブルンジ、チャド、コロンビア、コンゴ、コスタリカ、キューバ、エクアドル、エジプト、エルサルバドル、ガーナ、グアテマラ、ギニアビサウ、ローマ教皇庁、インドネシア、ジャマイカ、ヨルダン、ケニア、リビア、マラウィ、マレーシア、マリ、メキシコ、モンゴル、ニカラグア、フィリピン、カタール、セントビンセントおよびグレナディーン諸島、サモア、セネガル、南アフリカ、スイス、タイ、東ティモール、トーゴ、トリニダード・トバゴ、ウガンダ、ウルグアイ、ベネズエラ、イエメン、ザンビア、ジンバブエ。

フランシスコ法王は、世界的な世論を反映して、会議に寄せたメッセージの中で、「核兵器は完全に禁止されるべき」と訴えた。

Pope Francisco/ Wikimedia Commons
Pope Francisco/ Wikimedia Commons

国連の潘基文事務総長は、アンゲラ・ケイン国連軍縮担当上級代表が代読したメッセージのなかで、オスロ、ナヤリット、ウィーンでの取り組みは「人道的な配慮を核軍縮問題の全面に押し出し、市民社会と各国政府の双方に活性を与えるとともに、私たちに対し、核兵器が使用されれば恐ろしい結果が待っていることを否応なしに認識させました。」と語った。

また核軍縮に熱心に取り組んでいる人物として知られている潘事務総長は、核兵器を正当化する理由に疑問を呈し、「核兵器を世界的な緊張の高まりへの合理的な対応と考えたり、国家威信の象徴とみなしたりする人々に対峙するうえで、核兵器の恐るべき帰結を考慮に入れることが不可欠です。」と語った。

さらに潘事務総長は、「貧困や気候変動、過激主義、情勢を不安定化させる通常兵器の蓄積が、提起する課題に対応できないでいるなかで、私たちを相互に破壊する手段の近代化に資金を費やすことの愚かさ」を批判した。

潘事務総長は、「私たちが核の時代に突入してから70年目を迎えようとしています。」と指摘したうえで、「核兵器の保有は国際紛争の発生を防ぐどころか、紛争の危険度を高めます。」と語った。

潘事務総長はさらに、『軍を警戒態勢に置いても安全は得られず、逆に事故の可能性が高まり核抑止の原則を標榜しても、核の拡散に対応することは出来ず、兵器を保有したいという欲求が高まるだけです。』と語った。

「核兵器保有国が増えれば、世界の安定は確保されるどころか、根底から損なわれてしまいます。」と潘事務総長は語ったが、この見解は、ウィーン会議に参加していた信仰に基づく諸団体の間でも広く共有されていた。(原文へ

翻訳=IPS Japan

*議長総括はこちらへ(英語版日本語暫定訳

*会議報告書はこちらへ(by Reaching Critical Will)

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