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|UAE|貧困に喘ぐ子供たちへの慈善活動「ドバイケア」5周年を迎える

【ドバイWAM】

「『ドバイケア』は、全ての人々に、持てる者たちが持たざる者たちを支援するという慈善活動を鼓舞するよき前例となるべきものである。」とアラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙が報じた。

ガルフ・ニュース紙は、「ドバイケア」設立5周年を記念して、「5年前にドバイ政府によって設立されたこの慈善組織は、28カ国において各種初等教育プログラムを展開し、700万人の子供たちに支援の手を差し伸べてきた。」と報じた。

 「『ドバイケア』は、これまでに1500以上の学校、教室の建設、修繕を行い、1000以上の井戸を掘り、3000の衛生施設を建設した。また、49万人を超える生徒たちに栄養価のある食料を支給し、23,000人の教師に訓練プログラムを提供した。さらに200万冊にのぼる本を配布した。」と同紙は付け加えた。

「この慈善イニシアチブが5年前のラマダン月に発表された際、ドバイの各方面の機関やビジネスコミュニティーが積極的に協力を申し出た。その後、市民からの寄付は、副大統領でドバイ首長のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下からの個人的な寄付17億ディルハム(370億円)を含む総額34億ディルハム(741億円)にのぼった。」と同紙は当時を振り返った。

「『ドバイケア』は、良きアイデアが如何にして世界的な運動へと成長し、恵まれない数百万もの人々の人生を変え、将来への希望を持たせる一助と成りえるかを示した素晴らしい事例である。」とガルフ・ニュース紙は強調した。(原文へ

翻訳=IPS Japan

兵器を鋤に、危機を機会に(セルジオ・ドゥアルテ元国連軍縮担当上級代表)

【ニューヨークIPS=セルジオ・ドゥアルテ

米国における主要金融機関の倒産とともに数年前に始まった危機は、いまや欧州に飛び火し、世界のその他の地域を脅かすようになった。健全な経済・財政政策や時宜を得た内需拡大策によってこれまでのところは被害を免れてきたアジアやラテンアメリカの新興国も、いまや、二次被害を受けつつある。

国際社会が金融不安と先行き不透明な状況に直面しているにも関わらず、引き続き数億ドルもの巨費が、さして成果を挙げていない軍事作戦に毎日消費され続けている。そうした中、その他にも様々な不穏な兆候が顕在化してきている。紛争地域の中には、戦闘作戦行動が終結しつつあるところもあるが、緊張の根本原因は取り除かれておらず、予測不能の帰結をもたらしている。

かつて強大な力を背景に各地の戦争に関与してきた国々では、本国へと撤退する圧力を感じている一方で、国家の安全保障体制を維持するためとして、次世代の殺戮兵器を設計・実験し、最終的には開発・配備するための新たな財源が割り当てられている。同様に一部の国々は、外国からの現実或いは想像上の脅威に対抗する破壊手段を得るために、乏しい国家財源のかなりの割合を防衛費に傾ける意志を固めているように見受けられる。

 国連の潘基文事務総長がかつて表現した「抑止という感染的なドクトリン」は、冷戦期の2つの敵対国家(=米国とソ連)だけのもつ特徴ではもはやなくなっている。もしある国が、自国には核の「保険」―自国の核戦力を指してある元首相がこう言ったことがある―を保持する権利があると考えるならば、他国にのみ同様の必要性を感じても追随しないよう期待するというのは無理があるだろう。

国際会議において二国間あるいは多国間の軍備管理協定を締結しうる日々が過ぎ去ってしまったかのように見えるのは残念なことである。過去の協定は、効果的な軍縮をもたらしてはいないとしても、少なくとも、軍拡競争の最も危険な側面を抑え込み、軍縮に向かったさらなる進展の可能性を示すことによって、ある程度の正気を保ってきた。国連が何十年も前に設置したこの多国間協議機関(=ジュネーブ軍縮会議)は、もうかれこれ15年にわたって、核軍縮と不拡散の両面において、何らかの重要合意に向けたほんの僅かの前進すらもたらすことができなかった。人類は、他の種類の大量破壊兵器、すなわち、化学兵器生物兵器の全面禁止という、これまでの成果をさらに追求するという能力も意思も失ってしまったかのようだ。

冷戦のピーク時に比べて核兵器の数はかなり減っているものの、実際の廃絶、あるいは、核を保有する国の軍事ドクトリンにおける核の重要性が低減されたかといえば、あるとしてもほんの僅かの進歩しか達成されていない。世界はますます財源を通常兵器の生産に振り向けている。そのうちのかなりの部分が違法なブローカーの手を通じて最貧国での紛争で使用され、民衆の生活を改善する機会を脅かしている。

世界が兵器に費やしている費用は合計で、約1.7兆ドルに達しているが、これはおそらく、先進諸国が金融状況を改善するために投下してきた費用とほぼ同じである。

しかし、今のところ少なくとも、すべてが失われたというわけではない。識者らは、本当の意味で時代を一歩先へと前進させた仕組みはすべて、国際関係における深刻な危機の中から生まれたものであると指摘している。最近の歴史では、重要な国際合意が、大きな紛争や大規模な破壊、深刻な対立のあとに実現している。具体的な事例としては、(最初の戦時国際法のひとつである)ハーグ陸戦条約、後に不運な結果となった(第一次世界大戦後の)国際連盟の創設、そして(第二次世界大戦後の)国連連合の創設がそれにあたるといえよう。

しかし、人類は、大きな戦争や同じような大惨事が起こるのを手をこまねいて待つ必要はない。この数十年の中で成し遂げた進歩はいずれも、惨事が現実に起こる前に何か手を打たなければならないという、時宜を得た認識の結果として実現したものである。具体的な例を挙げれば、米ソ超大国による、際限のない軍拡競争の狂気には終止符が打たれなければならないという認識であり、拡散は抑えられなければならないという認識であり、少なくとも、もっとも有害で無差別的な通常兵器は禁止されねばならないという認識であり、原子の力を平和利用にのみとどめる方法が模索されねばならないという認識であった。

現在の金融危機と、安全保障・軍縮・開発・環境の問題に対処する国際構造の行き詰まりとが合わさった効果によって、新しい認識が生まれてくる可能性もある。たとえば、富裕国は、自らの資産と福利が、天然資源と同じく、永久に続くものではないことにすでに十分に気付いている。従って、先進諸国は、全ての人々の利益になるように、賢明な解決策を目指して貧困国とともに力を生み出していくべきなのである。もっとも多くの武器で武装した国家は、自らの領土を要塞に変え、さらに高度な破壊方法を生み出したところで、自らの安全を高めるどころか、むしろ危険に晒すことになると気づくべきである。

より厳格な財政政策によって、世界中の軍事予算をかなり削減することができるはずである。おそらく、もっとも重要なことは、第二次世界大戦や冷戦は完全に終焉したのだと認識する国際システムにおいて協力することができれば、いかなる危機も解消することができるということを、富の多寡や政治力・軍事力の多寡に関係なく、すべての国家が最終的に理解すべきだということである。それは今からでも決して遅すぎるということはないのだ。

セルジオ・ドゥアルテ氏はブラジル大使で、元国連軍縮問題上級代表。

翻訳=IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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広島・長崎への原爆投下は避けられた(デイビッド・クリーガー核時代平和財団所長)

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これまで唯一戦時に核兵器が使用された悲劇的な記念日が近づいているが、1945年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾を落とす必要がそもそもあったのかどうかという問いを考えてみる必要がある。実際、米国が「リトルボーイ」と「ファットマン」を投下したのは、敗北がほぼ見えており降伏しかかっていた国であったとみなしうる証拠は多い、と語るのは、「核時代平和財団」のデイビッド・クリーガー所長である。

【サンタバーバラIDN/NAPF=デイビッド・クリーガー】

1945年8月14日(日本時間8月15日正午)、日本は降伏し、第二次世界大戦が終わった。米国の政策決定者らは、原爆投下が降伏を早めたと論じてきた。しかし、日本の決定に関する歴史研究が教えるものは、日本が最大の関心を寄せていたのはソ連の参戦であったということだ。

 日本は、天皇制が保持される(国体護持)という前提のもとで降伏した。米国は、原爆投下前に、ハリー・トルーマン大統領に対してなされたアドバイス通りのことを行った。すなわち、天皇制を保持することを認めると日本に対して示唆したのである。こうしたことから、歴史家は、日本の都市に二発の原爆を落とさなくても、あるいは連合国軍が本土上陸攻撃を行わなくても、戦争を終わらせることができたのではないかと考えている。

米戦略爆撃調査団は、原爆が使用されなくても、ソ連が参戦(8月9日に日ソ中立条約を破棄して参戦した:IPSJ)しなくても、連合国軍が本土上陸を行わなくても、戦争は1945年12月31日以前に、おそらくは同年11月1日以前には終結した可能性が高いと結論している。

広島・長崎への原爆投下以前、米国は、通常兵器によって思うがままに日本の諸都市を破壊して回った。その当時、日本にはもはや抵抗のすべがなかった。米国は、原爆投下時点で敗北がほぼ見えており降伏しかかっていた国に対して原爆を投下したのである。

原爆投下が対日戦争終結の原因ではないとの有力な証拠があるにもかかわらず、多くの米国人、とりわけ第二次世界大戦を経験した人々は、それこそが終戦を導いたものだと考えてきた。太平洋戦線に送られていたか、これから送られる予定になっていた米軍人の多くは、原爆のおかげで、硫黄島沖縄で戦われたような熾烈な戦闘を日本の海岸で行うことなく命拾いしたと信じている。彼らが考慮に入れていないのは、日本は降伏しかかっていたということであり、米国は日本の暗号を解読して日本の降伏が近いと知っていたことであり、米国が日本からの申し出を受け入れていたならば、原爆を使わずとも戦争を終わらせることが可能だったということである。

連合国軍の将官のほとんどが、原爆投下の報に接して驚愕の反応を示している。欧州連合国軍総司令官のドワイト・アイゼンハワー将軍は、日本がまもなく降伏すると理解しており、「あんな恐ろしいもので爆撃する必要などなかったはずだ。」と語っている。米陸軍航空隊司令官のヘンリー・アーノルド将軍も、「原爆があろうがなかろうが、日本はすでに崩壊寸前だった。」と指摘している。

野蛮な兵器

トルーマン大統領の下で陸海軍総司令官(大統領)付参謀長をつとめたウィリアム・リーヒ提督は、この点について、「広島、長崎へのこの野蛮な兵器の使用は、対日戦を進めていくうえで実質的に何の助けになるものでもなかった。日本はすでに敗北しており、降伏寸前であった。我々は、原爆を最初に使用することで、暗黒時代の野蛮人と共通の倫理基準を採用することになってしまった。戦争は、女性や子どもを破壊することによって勝利できるものではないのだ。」と述懐している。

トルーマン大統領が「歴史上もっとも素晴らしいもの」と表現したものは、実際のところ、配下の軍事指導者らによれば、比肩するもののない臆病な行為であり、老若男女の大量殺戮にほかならなかったのである。原爆の使用は、ドイツと日本の民間人に対してなされた空爆、民間人の生命と戦争法をますます無視した空爆の極致であった。

長年戦ってきた人々にとって、戦争の終結で大きな安心がもたらされた。しかし、他方には、自分たちの作り出してしまったもの、その創造物がいかにして使われたかについて悔悟している核科学者らがいた。ハンガリーから米国に移住した物理学者で、ドイツが原爆を開発している可能性と、米国も開発に着手する必要性についてアルベルト・アインシュタイン博士に警告したレオ・シラード博士もそうした一人であった。アインシュタイン博士は、シラード博士の説得に応じて、ルーズベルト大統領へ警告書を提出し、それが契機となって、まずは、核連鎖反応を維持するウラン使用の可能性を探る小さなプロジェクト、続いて、最初の原爆を製作することになるマンハッタン・プロジェクトが現実のものとなったのである。

民間人の命を救う試み

シラード博士は、原爆が日本の民間人に対して使われないよう最大限の努力をした。彼はフランクリン・ルーズベルト大統領との面会を希望したが、大統領は1945年4月12日に死去した。次にハリー・トルーマン新大統領と面会しようとしたが、トルーマン大統領はシラード博士をサウスカロライナ州スパータンバーグに呼び、上院議員時代の自身の教育役であったジミー・バーンズ氏と会わせた。しかし、バーンズ氏はシラード博士に否定的であった。そこでシラード博士は、日本の都市にすぐに原爆を投下してしまうのではなく、デモ使用することを求めて、マンハッタン・プロジェクトの科学者らを組織しようとした。しかし、同プロジェクトを率いていたレスリー・グローブス将軍はこの具申を自らの所で留め置き、トルーマン大統領がこのことを知ったのは、原爆がすでに使用された後のことであった。

原爆の使用は、その他多くの科学者を悲嘆させた。アインシュタイン博士は、ルーズベルト大統領に書簡を寄せたことを深く後悔した。彼はマンハッタン・プロジェクトに参加しなかったが、このプロジェクト開始を促進するために自らの影響力を行使したからである。

アインシュタイン博士は、シラード博士と同じく、米国の原爆プロジェクトの目的はドイツの原爆使用を抑止することにあると考えていた。しかし、ひとたび原爆が開発されるとそれが日本に対して攻撃的に使用されたことに深い衝撃を受けた。アインシュタイン博士は、残りの人生の10年間を原爆の廃絶のために捧げた。彼は次の有名な言葉を残している。「原子から解き放たれた力は、我々の考え方を除けば、すべてを変えてしまった。そして我々は、空前絶後の破滅に向けて突き進んでいる。」(原文へ

※デイビッド・クリーガー氏は、核時代平和財団所長。核兵器廃絶運動の世界的リーダーのひとり。 

翻訳=INPS Japan

シリア・クルド勢力の北部地域奪取に、ジレンマに直面するトルコ

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【イスタンブールEurasiaNet=ドリアン・ジョーンズ】

トルコは今週、シリア・クルド人勢力が、政府軍から奪取したシリア北部の街からほんの数キロしか離れていないシリア‐トルコ国境において、戦車部隊による軍事訓練を敢行し、軍事力を誇示した。

シリア・クルド人勢力による北部諸都市(クルド人住民が多いハサカ県)の支配権奪取は、トルコ政府に警鐘を鳴らすこととなった。「ここアンカラでは多くの人々がこのニュースに驚いています。これは近年におけるトルコの歴史の中でも、最も厳しく深刻な事態の一つです。」と、軍事専門家でトルコ日刊紙「Hürriyet」のコラムニストでもあるメテハン・デミール氏は語った。

「トルコ国内のクルド人は、シリア・クルド人勢力による北部諸都市制圧を、トルコ国境地帯に将来クルド人自治州が設立される兆候であり、さらにはイラン、イラク、トルコに跨るより広範囲な地域を包含したクルド人国家建設への第一歩と受け止めるだろう。」とデミール氏は付加えた。

 トルコも国内に少数民族クルド人(総人口7360万人の2割)による分離・独立闘争の火種を抱えている。トルコ政府は、1984年以来、クルド人の権利拡大のために闘っているとされるクルディスタン労働者党(PKK:トルコ政府と米政府はテロ組織に指定している)と戦争状態にある。また、PKK兵士の多くがシリア・クルド出身である。また、制圧されたシリア北部のある街では、PKKの旗が掲げられていたとの報道があり、トルコ政府は懸念を深めている。

「我々は、トルコ国境付近に如何なるテロ組織の構築も許さない。相手がアルカイダであろうとPKKであろうと、国家の安全保障に関わる問題であると認識しており、事態に対処するための全ての選択肢を有している。」と、アフメット・ダーヴトオール外相は、7月29日に出演したあるトルコのテレビ番組の中で語った。 

こうした強硬な発言は、しばしば国家主義的な国内メディアの一部を通じて広がったパニック一歩手前の怒りに満ちた国民感情を、なんとか緩和させようとする政府の試みとみられた。

「今日の混乱の原因は、トルコ政府が、国民がこうした事態に直面する準備を怠ってきたからなのです。しかし国民ならまだしも、トルコ政府までもが、シリア北部の出来事に驚いたというのは信じられません。」「シリア・クルド人は、自らの民族自決権を追求し、少なくとも自治権の獲得を目指すでしょう。トルコ政府は、いつかこうした事態が起こりうるということを、何年も前から理解していたはずです。」と、イスタンブールのカディール・ハス大学のソリ・オゼル教授(国際関係論)は語った。

シリア北部諸都市がシリア・クルド人勢力の手に陥落して以来、完全武装のトルコ軍が、このシリアのクルド人地域と国境を接するトルコ国境地帯に派遣されている。

「トルコ政府は、シリア・クルド人支配地域が、果たしてシリア・クルド人の権利の問題なのか、それとも(国境を越えた)PKKネットワークの拠点なのか、しっかり見極めるでしょう。」「そして状況次第では、トルコは実際に軍事作戦を実行する可能性もあります。」と「Hürriyet」紙のデミール氏は語った。

しかし、オゼル教授は、トルコによるいかなる軍事行動も逆効果になるだろうと考えている。この点について同教授は、「軍事介入は、私が見る限り、トルコにとって自殺行為に等しいと思います。なぜなら、トルコ軍がはたして、新たな敵と戦う準備ができているとは思えないからです。…(既に国内のPKKと戦っている)トルコ軍は、シリアに侵攻すれば2つの戦線、或いはイラクのクルド勢力が関わってくれば3つの戦線を戦うことになるのです。」と語った。
 
差し当たり、トルコ政府は軍事介入よりも外交交渉に期待を寄せているようだ。イラク北部のクルド半自治地域政府は、トルコ及びシリア北部のクルド人が多数を占める地域と国境を接している。この数年間、トルコの与党「公正発展党」は、同クルド地域政府並びにマスード・バルザニ議長との緊密な関係を築いてきた(バルザニ議長は、イランに接近しアサド政権を擁護しているシーア派主導のマリキ政権とは、クルド地域から産出されるエネルギー収益の配分や自治権を巡って対立を深めている:IPSJ)。

「トルコ政府とバルザニ議長の間には緊密な対話のチャンネルが構築されています。しかし、シリアにはクルド国民評議会が多数派を占めるグループと(トルコと戦争状態にある)PKKの分派という2つの対立する派閥が確認されています。そして、バルザニ議長は、後者に対して影響力を持ち合わせていないのです。」と、イスタンブールに本拠を置くマリキ政権のシナン・ウルゲン議長は語った。

シリア情勢に対するバルザニ議長の影響力に関する信憑性について、最近ますますトルコ政府の間で疑問視する声が高まっている。シリア・クルド人が北部を掌握する前、トルコメディアは、数百人のシリア・クルド人兵士がバルザニ議長の兵士に付き添われて、シリアに帰還している様子を撮影した写真を放送した。

さらにトルコ政府の懸念を大きくしているのが、バルザニ議長が、PKKとの繋がりがある国民民主党を含むシリア・クルド人諸勢力間の協定をとりまとめたことである。ある地域の外交筋は、トルコ当局はこの協定について知っていたと指摘しているが、実際にトルコ政府がこの協定について知っていたかどうかは、未だに議論が分かれるところである。

7月26日、トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン首相は、バルザニ議長に対して、「トルコは、これから起こりうることについて、もはや責任をとれない。」と警告した。

しかしこうした緊張関係も、トルコのダーヴトオール外相が8月1日にクルド半自治地域政府が置かれているイラクのアルビルにバルザニ議長を訪問して以降、沈静化してきている。会談後両者は、シリア問題について協力し合っていくことを約した共同声明を発表した。また、トルコ政府の怒りは、イラクのクルド人との通商関係が今後拡大していく中で、緩和されていくかもしれない。今や、イラクはトルコにとって2番目の貿易相手国であり、その大半をイラクのクルド人が占めているのである。

アナリストのウルゲン氏は、もしトルコ政府が国内のクルド紛争問題を解決するための手立てをとるならば、クルド人がトルコ国境に跨った国家を設立するのではないかという心配をする必要がなくなるだろう、と語った。またウルゲン氏は、「今後のシリア情勢の展開によっては、国内クルド人との協定内容が、トルコ政府にとってより厳しいものとなりかねない。」と警告した。

ウルゲン氏は、「トルコのクルド人は、国境の向こうで起きている出来事に刺激されて、自分たちにもできることがあるのではないかと、期待を膨らませる傾向があります。」と指摘し、シリア情勢が、トルコ政府による国内クルド人との交渉の行方に影をさしている。」と語った。(原文へ

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

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ごみ収集人がジンバブエの気候変動大使に

【ハラレIPS=スタンレー・クエアンダ】

ジンバブエの首都ハラレ郊外の住宅街ハットフィールドに住むトムソン・チコウェロさんは自分の職業を恥ずかしいと思っていた。彼は自分が何をして生計を立てているか誰にも知られたくなかったので、毎日まだ日が昇らないうちに起きて、家をこっそり脱け出したものだった。

そして帰宅するのは、その日多くの家のごみ箱から集めたペットボトルいっぱいのビニール袋を運んでいる自分の姿が見られないよう、いつも日没が過ぎてからだった。

2010年に失業するまで建設作業員として勤務していた中産階級のチコウェロさんにとって、家々を回ってごみ箱からプラスチックと段ボール箱を集めて売るという仕事は、当初苦痛に思えた。しかしそんなチコウェロさんも、ひょんなことから、今ではほんの一握りの数ながら、ジンバブエの気候変動大使の一人となっている。

 気候変動の影響はジンバブエにおいても既に顕在化してきている。気象庁は、ここ数年、降雨量の減少と気温の上昇を確認しており、3月21日に発表された「気候変動対策プログラム実施に向けた国の能力を強化する」と題した政府と国連委託の研究報告書には、「この傾向が続けば、ジンバブエにおける食糧の安全と経済成長が危機に晒されるだろう。」と警告している。

 しかしジンバブエの場合、現在の廃棄物管理のあり方を工夫することによって、気候変動による影響を緩和できる可能性が十分に考えられる。国連環境計画が2010年に発表した報告書「廃棄物と気候変動」には、「他の廃棄物管理の方策と比べて、リサイクルは、廃棄物抑制策に続いて最も気候変動対策に効果がある方法であることが分ってきている。この結果は(先進国のみならず)途上国においても同様と思われる。」と記されている。

環境NGO「Environment Africa」のマルナバス・マウィレ地域部長も、「リサイクルはジンバブエにとって重要」として、UNEP報告書の内容を支持した。

マウィレ氏は、「リサイクルによって気候変動による影響をかなり緩和できると思います…もし産業界がプラスチックボトルと廃品材料をリサイクルしたとしたら、原材料からプラスチックや金属を生成するために必要なほどのエネルギーを消費する必要がなくなります。つまりリサイクルをすれば、原材料とエネルギーの消費を抑えられるため、二酸化炭素の排出量(カーボンフットプリント)を削減できることが証明されているのです。」とIPSの取材に対して語った。

米国環境保護庁(EPA)のリサイクルに関するデータ表によると、「リサイクルプラスチックを1ポンド(153.592グラム)生成するのに必要なエネルギーは、原材料からプラスチックを生成する場合の約10パーセント。」と記されている。

ジンバブエによる温室効果ガス削減量を見積もった数値はないが、英国の場合、リサイクリル活動により、年間1800万トン以上の二酸化炭素排出量が削減されている。これは乗用車177,879台分の排ガス量に相当する。

しかし多くのジンバブエ人は、気候変動の問題やその緩和努力について知らない。ジンバブエ政府も現在のところ気候変動に対処する方策を持っておらず、気候と開発知識ネットワーク(CDKN)の協力を経て、初めてとなる対策案を策定している最中である。

従って、チコウェロさんがごみからプラスチックと段ボール箱を選別・回収して販売する仕事を始めたのは、他の同業の人々の場合と同じく、失業率70%というジンバブエにあって、ただ生計を繋いでいきたいという思いからだった。彼らに収集されたプラスチックごみは、1キロあたり7ドルから10ドルの相場で買い取られている。

チコウェロさんのようなごみ収集人の数については、公式な統計がないが、ハラレ郊外でこうしてごみ収集している人々の光景は一般的なものとなっている。ハラレのムバレムシカ市場でプラスチックごみを買い上げているバイヤーたちは、IPSの取材に対して、プラスチックごみを持ち込んでくる人々の数は、毎日200名を超えていると語った。

この市場はハラレ最大のもので、一角には、リサイクル素材の買い上げを専門に行っているバイヤーの店が軒を連ねている。さらに、ハラレの工業地域で包装・リサイクルを扱っているムクンディ・プラスティクス社は、1日あたり100人以上の人々がプラスチックごみを持ち込んでいる、と語った。

リサイクルはジンバブエにとって重要な課題となっている。ジンバブエ環境管理局によると、ジンバブエは既にごみ埋め立て場の不足に直面している。

さらに2011年版「Journal of Sustainable Development in Africa」によると、ジンバブエの家庭が一日に出す固定廃棄物の量は平均2.7キロだが、そのうち生物分解性のごみは47%にとどまっている。そこで当局はごみ処理対策としてしばしば焼却処分に訴えているが、こうした措置は、環境に悪影響を及ぼすものである。こうしたジンバブエの現状を考えると、リサイクルは大変有効な対処法である。

チコウェロさんは、気候変動の問題についてや、リサイクル活動がいかにして二酸化炭素排出削減に貢献し得るかについて、プラスチックごみを買取るあるバイヤーから初めて学んだ。そのバイヤーは、チコウェロさんをはじめ多くのごみ収集人にリサイクルの利点を話しかけることで、彼らを励まし、ごみ収集の仕事を続けていってもらいたいと考えている。

「私たちは、この仕事を始めたとき、単にお金のために働いていると思っていました。また、プラスチックごみが私たちから購入されてからどうなるのかを教えてもらうまで、どうして、プラスチックボトルや段ボール箱を購入したいという人々がいるのかしら、と不思議に思っていたものでした。」とチコウェロさんは語った。バイヤーに買い取られたプラスチックボトルや段ボール箱は、地元や多国籍企業によってリサイクルされ、ソフトドリンク用プラスチックボトルやシリアルの箱が新たに製造されている。またチコウェロさんは、ごみの収集をする際にお世話になる家庭内労働者に対して、紙とプラスチックを分別するよう促すことで、ジンバブエの気候変動対策の一助になっているということに気付いていなかった。

政府と国連諸機関による委託で作成された先述の報告書によると、ジンバブエに対する評価は、気候変動による影響を緩和し適応する能力に欠けている、というものであった。

「私は(家庭内労働者に)ごみを出す際にプラスチックボトルを一般ごみから分けるようお願いしています。当初は、なかなか理解を得られず大変でしたが、時が経つとともに、顔を覚えてもらい、私がなぜごみの分別をお願いしているのかが理解いただけるようなるにつれて、仕事も少しずつやりやすくなりました。」とチコウェロさんは語った。

こうしてごみ分別という考えを受入れる家庭が増えるにつれて、チコウェロさんの仕事効率もよくなっていった。今ではごみ収集の仕事を始めた頃に比べて、より少ない時間でより多くのプラスチックごみを収集し、売上額も多くなった。

チコウェロさんは現在、ハラレ中心部のアパート50ブロックとイーストリー郊外で、プラスチックごみを回収している。

ごみ分別のメリットを訴えるチコウェロさんの訴えは、こうしたアパートの管理人の間でも急速に受入れられていった。「管理人さんたちは大変協力的で、お蔭で仕事がスムースに進みます。」と、イーストリーにあるセント・トロぺツ・アパートの壁に管理人が掲示した(紙とプラスチックを一般ごみから分別するよう住人に求めた)張り紙を指さして語った。

このアパートで家政婦として働いているイダー・ンダジラさんとタテンダ・ムンジョマさんは、IPSの取材に対して、他にも3人のごみ収集人が定期的にこの建物を回っており、彼らもチコウェラさんのように、気候変動の問題についてとリサイクルの重要性について説いていった、と述べている。

「私は当初何のことか分かりませんでした。実は、プラスチックごみの収集人が教えてくれるまで、気候変動の問題は、ここジンバブエではなく、外国で起こる問題だと思っていたのです。…今では私もこの情報を他の人々と共有するようにしています。」と、ンダジラさんは語った。

今日では、イーストリー郊外の3世帯に1軒がチコウェロさんが説く、プラスチックのリサイクル分別に協力するようになっている。そしてこのリサイクルの輪は他の世帯にも急速に広がっている。

「(ごみの分別は)今や生活様式の一部となりつつあります。だから、この運動は広がりを見せているのです。」とチコウェロさんは語った。
 
気候変動に関する国家運営委員会(National Steering Committee on Climate Change: NSCCC)のコーディネーターを務めているトディ・ンガラ博士のような立場の人でさ、チコウェロさんのようなごみ収集人の人々による努力を認めている。

「彼らの働きはまさに称賛に値するものです。彼らはこれまで街の浄化に多大な貢献をしてきました。そして今また、リサイクル産業への貢献を通じて環境の浄化を補佐しようとしているのです。」とンガラ博士はIPSの取材に対して語った。

政府の気候変動適応委員会は、ごみ収集人らに対して、助言を求めるとともに、気候変動対策の戦略を策定していくうえで、彼らを大使として活用すると約束した。

ジンバブエ環境省のイルヴィン・クネネ環境課長は、5月上旬にハラレで出席した気候変動政策会議において、「ごみ収集人を含む全ての利害関係者に対して、国家気候変動政策の策定に関して助言を求めるだろう。」と語った。

このような動きから、チコウェロさんは自分の仕事に誇りを持つようになった。

「私は自分の仕事をもはや恥ずかしいとは思っていません。」とチコウェロさんは語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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援助と社会保障を削り、核兵器予算を増やす各国政府

【国連IPS=ハイダー・リツヴィ】

国連の主導する軍縮問題に関する協議が7月23日にジュネーブで再開されるなか、核備蓄維持の予算を減らし、その分を開発予算に回すよう核兵器国に求める声が大きくなっている。

米国に拠点を置く「核時代平和財団」のデイビッド・クリーガー代表は、「核兵器に依存し続けること自体が意味を成さないように、核兵器に費やされている資金にも意味がない」とIPSの取材に対して語った。

このコメントは、国連加盟国193ヶ国中9ヶ国だけが、核兵器を削減するとの公約にも関わらず、核兵器の維持と近代化にあてる予算を増やし続けている事実を示唆している。


独立系機関の推計によると、昨年、核兵器国は1050億ドルを関連の予算に当てた。米国だけでも610億ドルを費やしている。

米国を拠点とした軍縮を訴えるグループ「グローバル・ゼロ」によれば、2011年、ロシアは149億ドル、中国は76億ドル、フランスは60億ドル、英国は55億ドルをそれぞれ核兵器に費やした。

 
4つの事実上の核兵器国もまた同じような行動パターンを示し、核兵器への予算を増やした。すなわち、インドは49億ドル、パキスタンが22億ドル、イスラエルが19億ドル、北朝鮮が7億ドルである。

「グローバル・ゼロ」によるこのコスト計算は、核兵器の研究・開発・調達・実験・運用・維持・更新にかかる予算のみであり、多くの関連活動を含まれていない。今年の支出額も同じぐらいになるだろうという。

このことは、多くの政府が、長きにわたる経済不況による財政上の制約に直面し、社会保障予算をさらに削減しようとする中で起こっている。

クリーガー氏は、世界の数多くの人びとが飢えや病気、住居なき生活などで苦しんでいるときに、核兵器の予算を増やそうとするのは「けしからんこと」だと語った。

「核兵器は、ミレニアム開発目標(MDGs)達成のために用いることができるはずの資源を吸収してしまっている。」とクリーガー氏は語った。

国連の専門家らは、開発のために年間4000億ドルが必要だとしている。しかし、ほとんどのドナー国が公約を果たさないため、この目標を達成することはますます難しくなっている。

国連によると、政府開発援助(ODA)には1670億ドルの不足があり、そのために2015年を目標としたMDGsのすべてを達成することが難しくなっている。平和活動家によれば、この不足は、核兵器の維持と近代化にかかるコストを大幅に削減することで容易に乗り越えることができるものだという。
 
核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のティム・ライト氏は、声明の中で、「核兵器国は、彼らの核戦力のために1日あたり3億ドルを費やしています。」「明らかに、われわれすべての脅威となるこの兵器にこうした資金を使うよりも、まともな道があるのです。」と述べている。

核不拡散・軍縮に関連した問題で国連と緊密な協力をとって活動する非政府組織である「リーチング・クリティカル・ウィル」(Reaching Critical Will)によると、現在、世界には推定で1万9500発の核弾頭があるという。

新START(戦略兵器削減条約)が2010年に署名されたが、米ロ両国とも、既存の核戦力を強化しつづけている。英国、フランス、中国、それに他の4つの事実上の核兵器国についても状況は同じである。

5つの公式の核兵器国の関連支出の実態は、透明性が欠如しているために詳細まではわからないが、研究者らによると、事実上の核兵器国に関しては、核兵器支出の正確なデータを得ることはより困難であるという。

たとえば、核不拡散条約に加盟していないパキスタンの場合、核兵器のコストに関するアカウンタビリティはまったく存在しない。それは国家機密事項なのだ。

パキスタンの核関連コストに関する質問に答えたあるパキスタンの外交官は、最近こう話した。「わかりません。米国の外交官などに聞いてみたらどうでしょうか。彼らだって、どれだけのお金を使っているか国民に知らせているでしょうか。」と語った。

この答えは、公式の核兵器国が公にした数字もまた正確なものではないことを示唆している。しかし、この地域の平和活動家は、この議論に反論する。

プリンストン大学で平和と安全保障に関するプロジェクトを率いるジア・ミアン氏は、「すべての核兵器国は、核計画を国民に知らせないままスタートしています。核政策の内部で何が起こっているのか、そして公金がどれだけ使われているかを秘密にすることで、社会の目から逃れようとしているのです。」と語った。

「核政策の最初の犠牲者は、それが保護しようとしている当の国民自身です。」と彼は述べ、パキスタン国民の約半数は、読み書きができないのにも関わらず、GNPの1%しか保健・教育に費やしていないという最近のデータを示した。

クリーガー氏は、核兵器国の指導者らが「世界からこれらの兵器をなくそうとしないことは、苦しむ人々に対する冷酷な無関心を示していると同時に、(核兵器国の)国民自身が核兵器の標的にされているということを意味するのです。」と語った。

国連の軍縮会議[IPSJ注:ジュネーブ軍縮会議(CD)のこと]は、9月14日に会期末を迎える。国連総会に毎年の報告義務があり、65ヶ国で構成される同会議は、自ら議題を定めることができ、全会一致方式で運営されている。

過去には、核不拡散条約包括的核実験禁止条約など、主要な国際取り決めの交渉の場になったこともあった。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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南シナ海と中国の海軍戦略(ロジャー・ベイカー米民間情報機関ストラトフォー東アジア専門家)

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【トロントIDN=ロジャー・ベイカー、チャン・ジヒン】

この10年間で、南シナ海は、東アジアでもっとも多くの紛争の火種を抱えた場所になってしまった。中国、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイ、台湾がそれぞれに南シナ海の一部あるいは全体への領有権を主張し、近年では軍事的な対立にまで発展してきた。

南シナ海には多くの島があり、天然・エネルギー資源も豊富で、世界の海運の3分の1が関わっている海域であることから戦略的価値はいずれの国にとっても明らかである。しかし、中国にとっては、南シナ海への権利を主張することは、たんなる実利の問題を超えて、海洋への歴史的な主張を行いながら、いかにして非対立的な外交政策を維持していくかという1980年に鄧小平最高指導者(当時)が打ち立てた従来の外交政策のジレンマの根幹に関わる問題なのである。

 中国政府(当時は国民党政府)は国共内戦末期の1947年、南シナ海の諸島とその周辺海域に対する領有権を主張した。しかしその後数十年間は、近隣諸国が各々の独立運動に専念せざるを得なかった状況にあったことから、中国は自らの主張を擁護する努力をほとんどする必要がなかった。ところが、こうした国々も、今日では海軍を増強し、(南シナ海への領有権主張を含む)新たな外交関係の模索や、領海内資源の開発と哨戒警備に積極的に取り組む動きを見せている。一方、中国国内では、領土問題について如何なる譲歩も許さないとする国民感情が渦巻いていることから、鄧小平以来の静かな外交政策は現実的なオプションではなくなってきている。

 中国の海洋理論の進化

中国は広大な大陸勢力であるが、一時期は日本海からトンキン湾に至る沿岸を支配するなど(18世紀の清)、長大な海岸線を領有している。にもかかわらず中国の関心は、伝統的に大陸内部に向けられたものであった。一方、中国が海洋に目を向けたのは極めて限られた時期(例:元時代の時代の日本、インドネシア遠征、鄭和が活躍した明の永楽帝時代等)で、しかも内陸の国境が比較的安定していることが前提だった。

伝統的にみて、中国に対する脅威は、海からではなく内陸からのものが中心であった。つまり時々現れる海賊よりも、北方や西方から中国への侵入を繰り返す遊牧民族との戦いが主だった。

また外国との貿易は、大半が内陸を通じたものか、限られた港を拠点とするアラブ人や外国籍の商人の手によるものだった。したがって、中国の外交的関心事は、一般的に陸上部の国境を維持することにあったと言ってよい。

「9点破線」(中国語では「九段線」)を解釈する

今日における中国の領海に対する主張の論理と近隣諸国との領土紛争を理解するためには、まず最初に、いわゆる「9点破線」と言われる南シナ海に中国の管轄権が及ぶ領域としておおまかに引かれた境界線(形状から別名「牛の舌」ともいわれ、南沙・西沙両諸島がすっぽりその中に入る)について理解する必要がある。

中国は、国民党政権時代の1947年に、南シナ海の領域画定に関して「11点破線」(eleven-dash line)という考え方を打ち出した。しかし、当時の中国の関心事は共産党勢力との内戦にあり、これはあまりよく練られた戦略ではなかった。

敗戦で日本が中国大陸から撤退した後、国民党政府は、海軍士官と測量チームを南シナ海の島々に派遣し、翌年内務省から南シナ海全域を囲う点線(=「11点破線」)の内側は中国の管轄海域であると主張した地図(「中華民国行政区域図」)を発行した。

「中華民国行政区域図」は、詳細な座標を欠いた代物だったにも関わらず、中国が領有権を主張する際の根拠とされた。そして1949年に(国民党政府を台湾に追いやって中国本土を統一した)中華人民共和国が誕生すると、共産党新政権は正式にこの図を採択した。1953年には、おそらくベトナムとの紛争を緩和するために、破線を2つ減らして今日に続く「9点破線」が提唱されるようになった。

中国のこの主張に対して、当時、近隣諸国からほとんど異が唱えられなかった。当時東南アジア各国にとって自国の国家独立を達成することが最優先課題だったからである。中国政府は、これを近隣諸国及び国際社会による黙認と解釈する一方で、あえて問題視されることを避けるため、この問題を自ら積極的に取りあげることをしなかった。中国政府は、「9点破線」そのものを中国の不可侵の領土として正式に宣言することを避けてきたが、「9点破線」を自国の領海を示す歴史的基礎に置いている。一方、国際社会はこの中国の主張を認めていない。
 
南シナ海への領有権を主張しているベトナム、フィリピンといった近隣諸国と同様に、中国の長期的な目標は、拡大・近代化が進む海軍力を駆使して、南シナ海の諸島や小島を実質的に支配下に置き、戦略拠点の確保と天然資源開発を行うことである。中国の軍事力が依然として脆弱だったころは、中国政府は主権問題を一旦棚上げし、紛争当事国に対して共同開発を提案することで、領海を巡る紛争を回避しつつ、中国海軍の準備が整うまでの時間稼ぎをするという戦略を支持していた。

また中国政府は、南シナ海の領有権を主張する東南アジアの国々が連携して対峙してくる事態、つまり多国間協議の枠組みでは、「9点破線」の主張が敗れるのではないかとの恐れを抱いていることから、領土交渉の主導権を握り続けられる二国間交渉にこだわってきた。

「9点破線」は法的根拠が乏しく、常に近隣諸国との紛争の火種となってしまったにもかかわらず、中国政府は今さらこの主張を取り下げられなくなってしまっている。それは、南シナ海の領有問題に対する国際社会の注目が集まり、近隣諸国との競争が激しくなっているなか、「9点破線」内を自国の領海と考えている中国の一般国民も、政府に対してより積極的な対応をとるよう圧力をかけるようになってしまったからである。

その結果、中国政府は、領海に対する主張を受入れさせようと共同開発を持ちかければ相手国の反発を買い、かといって、相手国との関係に配慮して領海に対する主張を控えれば国内世論の反発を買う(とりわけ中国の漁民は、しばしば独自の判断で係争中の領海に侵入し、政府は止む無くそうした行動を支持せざるを得ない状況が作り出されている)という極めて困難な立場に置かれている。すなわち、国内政治を優先すれば、近隣諸国との外交関係が悪化し、外交関係を優先すれば、国内からの激しい反発を予想しなければならないというジレンマに陥っているのである。

開発途上にある中国の海洋戦略

「9点破線」に伴う複雑な諸問題、中国の国内政治状況、変動する国際システムの全てが発展途上にある中国の海洋戦略の形成に影響を及ぼしている。

毛沢東国家主席の時代、中国の関心は国内に向けられており、海軍はまだ弱く、いずれにしても海洋進出の足枷となっていた。この時期、自国の領海に対する中国の主張は曖昧なもので、積極的に権利を主張する行動をとらなかった。またこの時期は近隣諸国が独立闘争に気を取られていたことから、中国はあえて自国の権益を強く主張する必要に迫られることはなかった。従って、この時期の海軍戦略は沿岸部を外国の侵略から保護するという防衛的なものであった。一方、1970年代末から80年代初頭にかけての鄧小平が最高指導者をつとめた時代には、国内経済改革の動きに合わせて海洋戦略もより現実的なものへと変化した。この時期、中国政府は領土問題をあえて棚上げにしつつ、東シナ海・南シナ海の共同経済開発を模索した。そのため、この時期の軍事支出は、引き続き陸軍とミサイル部隊の拡充に重点がおかれ、海軍の役割はおおむね中国の沿岸海域の防衛に限定されていた。

この鄧小平による戦略は、その後20年に亘って中国の海洋戦略の基調を形成することとなった。この間、南シナ海では、近隣諸国との紛争が散発的に起きたが、一般的にこの時期の中国政府の方針は、あからさまな衝突は回避するというものだった。またこの時期、中国海軍は、南シナ海で支配的な役割を果たしている米海軍に対抗できる立場にはなく、また、近隣諸国に対抗して領海権を強く主張できる状況にもなかった。この時期、中国政府は軍事力よりはむしろ政治・経済的な手段を講じて、地域における影響力の拡大を目指していた。

しかし、南シナ海の海底資源を係争国と共同で開発するとした試みは、概ね失敗に終わった。この時期、中国は高い経済成長を背景に、軍事費、とりわけ海軍力の強化に力が入れられるようになったため、以前のような沈黙の政策を続けることが難しくなってきた。また近隣諸国も、こうした中国の方針転換に危機感を募らせ、その多くが、米国に対して、中国の台頭に対抗する形で南シナ海における役割を一層活発化するよう求めるようになった。

中国による「9点破線」と領海に関する主張を巡る問題は、各国が国連海洋法条約の規定に従って領海に関する主張を報告する必要に迫られたことから、国際社会の注目を集めることとなり、領海を巡る中国と近隣諸国の論争に国際社会の調停が入る可能性が高まった。中国は、南シナ海から見込まれる権益を期待して同条約の締結国となっていたが、条約の発効にともない、東シナ海の領有権を主張する近隣各国の相次ぐ訴えに対抗して、多数の反論と余儀なくされることとなった。こうした中国の反応は、近隣諸国に中国がアジアにおけるヘゲモニーを露骨に志向していると映り、警戒感を強めさせる結果となった。

こうした中国の動きを問題視しているのは南シナ海の領有権を主張している東南アジア諸国だけではない。日本と韓国はエネルギーの補給経路として南シナ海に大きく依存している。また米国、オーストラリア、インドといった国々も、貿易及び軍の通過海域として、南シナ海の戦略的な重要性を認識している。これらの国々は、中国の動きを、南シナ海への自由なアクセスを覆そうとする潜在的な前触れではないかと懸念を深めた。これに対して中国は、外交上の問題解決における軍の役割を高めるとともに、次第に強硬な発言で反応するようになった。

外交政策を巡る議論

鄧小平は1980年、中国の外交政策の輪郭について、「まず世界情勢を観察し、中国の位置づけを確保、外交問題には静かに対処し、決して自らの能力を見せず、チャンスの到来を待つ、そして腰を低くして、決して地域のリーダーの地位を狙ってはならない」と語った。こうした基本理念は、中国政府が行動を起こす際のガイドライン或いは行動を起こさない場合の言い訳として、中国外交政策の根幹を占めてきた。しかし、中国を取り巻くアジア情勢及び国内状況は、鄧小平が改革に着手した頃とは大きく変貌を遂げており、大幅な伸びを見せている中国経済及び軍事力の現状は、もはら彼が「能力を隠し、チャンスの到来を待つべき」とした発展段階を既に超えていることを物語っている。

中国政府は、より積極的な政策を通じてのみ、従来の大陸勢力から海洋国家へと変貌を遂げることが可能であり、そうして初めて、南シナ海全域を自国の安全保障に有利な形で再編成できると理解している。もしそれができなければ、域内の他の国々やその同盟国、とりわけ米国が中国の野望を封じ込めるか、或いは脅かすことになるだろう。

鄧小平の政策のうち、少なくとも4つの点が現在再検討中、或いは変更を加えられている。すなわち、①不干渉政策から創造的関与への変容、②二国間外交から多国間外交への変容、③対応型外交から予防型外交への変容、④厳格な非同盟政策から準同盟政策への変容、である。

創造的関与とは、他国の内政に積極的に関与することで海外における中国の権益保全に取り組む方法の一つとされており、従来の不干渉政策からより柔軟な外交への転換を意味するものである。中国は過去においても、資金その他の手段を活用して他国の内政に干渉したことはあるが、政府の正式な方針転換を受けて、今後海外の現地状況に一層関与を深めていくことになるだろう。

しかしそうすれば、「中国は、欧米帝国主義の覇権を目の当たりにして、同じ途上国として助けの手を差し伸べているにすぎない」と従来から主張してきた自らのイメージを台無しにすることになりかねない。中国は、政治変革を開発・技術援助の条件にする欧米諸国とは対照的に「援助はするが内政に干渉しない」と約束して、途上国との友好関係を拡大してきた。ところが中国の方針転換が知られるようになれば、欧米に対して有利に進めてきたとされる途上国との関係にも陰りがでてくることになるだろう。

中国は、長年に亘って、自国の権益が関わる国際上の問題を解決する手段として、関係当事国との二国間協議を優先してきた。また、多国間協議の枠組みに参加した場合でも、国連安保理における行動実績が示しているように(拒否権を行使して制裁決議を頓挫させても、積極的に代替案を示すことはほとんどなかった)、議論をリードするというよりは、足を引っ張る存在であった。とりわけ1990年代を通じて、中国は、自国の比較的弱い立場を考えれば、多国間協議からほとんど得られるものはなく、むしろ他の強豪国の影響下に組み込まれるのではないかと恐れていた。しかし中国経済がその後目覚ましい躍進を遂げたことにより、こうした状況は一変することとなった。

中国は、今日では自国の権益確保の手段として、二国間外交よりもむしろ多国間外交を推進するようになっている。東南アジア諸国連合(ASEAN)上海協力機構、日中韓サミットへの参加は、いずれも積極的に多国間協議の枠組みを活用することで当該ブロックの政策の方向性に影響を行使していこうとする中国の意志の表れである。また中国には、多国間協調路線にシフトすることで、小国に対する安心感を与え、他国が米国との同盟に走ることを防ぐ狙いがある。

中国は、どちらかと言えば対応型の外交方針を伝統的に採用してきたため、問題が表面化する前に危機を察知したり、予防策を講じる機会を逸することが少なくなかった。天然資源へのアクセス確保に努力してきた地域でも、現地の情勢変化に不意を突かれ、応答戦略も準備できていなかったというケースもあった(スーダンと南スーダンの分裂はそうした最近事例の一つである)。中国は現在、従来の対応型外交から、紛争に発展する可能性がある潜在勢力や争点をより良く理解し、単独或いは国際社会と協力して一触即発の状況を緩和するような、予防型外交へとシフトする可能性について議論している。そのような外交方針の変化が南シナ海に及ぼす影響について言えば、中国は、従来の曖昧な「9点破線」理論よりもむしろ南シナ海における領海に対する主張を明確にしてくるだろう。また、中国が積極的にリーダーシップを発揮できるようなアジア安全保障メカニズムを構築するという構想を、これまで以上に積極的に推し進めるだろう。

中国の同盟政策に関する立場は、特定の国を標的にした同盟に参画しないとした1980年代に鄧小平が提案した政策を踏襲したものである。この非同盟政策は、中国に独立した外交政策姿勢を保持させるとともに、同盟関係に引きずられて国際紛争に巻き込まれるリスクを回避するためのものであった。中国には朝鮮戦争に参戦したことで台湾奪回計画が頓挫し、米国との関係も数十年に亘って後退した苦い経験がある。しかし、冷戦構造が崩壊し、中国の経済・軍事的な影響力が拡大を続ける中、従来の厳格な非同盟政策に対しても、改めて見直しが議論されている。中国政府は、北大西洋条約機構(NATO)が東へ拡大する様子や、米国がアジア・太平洋地域において軍事同盟を強化する動きを、慎重に観察してきた。

このまま非同盟政策を堅持していたのでは、中国はこうした軍事同盟グループと、一国で対峙する事態になりかねず、そうなった場合、中国には現在の軍事・経済力で有効に対処する術がない。そこで中国政府は、この弱点を補いながらも、他国への依存を回避する方策として、準同盟政策への変容を模索している。具体的には、中国が(明らかなライバル関係にある国々とも)戦略的パートナーシップの構築を積極的に進めたり、中国軍が他国との軍事交流を積極的に進めつつあるのは、この新戦略に沿ったものである。この新方針は、米国に対抗する同盟を作り上げるというよりも、米国の同盟諸国への接近を図ることで、対中同盟を米国に作らせないことが主眼である。中国政府は、この海洋戦略に基づいて、インド、日本、韓国の海軍とともに海賊対策作戦に従事しているほか、海軍間の交流や共同演習の実施も提案している。

将来を展望して

中国は大きな変革期を迎えている。経済大国となった今、中国は伝統的な外交政策の見直しを余儀なくされている。南シナ海の問題は、中国本土に最も近い位置にあるために、中国の幅広い外交政策を巡る諸議論の縮図ともなっている。中国の領有権に関する主張が曖昧だった点は、南シナ海が静かだった頃には有効に作用した。しかし、この点は今となっては中国のニーズに応えていない。むしろ中国が海洋権益と海軍の活動を拡大させる中、地域の緊張関係は悪化している。全ての交渉を中国との2国間交渉に限定しようと試みたり、傍観主義的なアプローチをとるといった古い政策ツールは、もはや中国のニーズに応えていない。鄧小平から受け継いだ、南シナ海の係争国に共同開発を呼びかける政策は、殆ど成果を挙げることができなかった。また、国連海洋法条約に関連して各国が領海に対する主張を報告する中で、中国が「9点破線」内の領海への権利を改めて表明したことは、国内の愛国主義に火をつけると同時に、近隣諸国による対抗手段を誘発することとなった。

海洋戦略に関して明確さに欠けているもかかわらず、中国は「9点破線」に基づいて従来の主張をさらに強化する意思を示した。中国は外交政策転換の必要性を認識しているが、こうした外交政策の変容は大きな矛盾もはらんでいる。領有権を強く主張しすぎれば他国を刺激することになり、逆に軟弱化すれば国内世論が黙っていない。しかし、いずれにせよ変化はすでに始まっており、そのことは、中国の海洋戦略や世界における地位に影響を与えずにはおれないだろう。(原文へ

翻訳=IPS Japan

マラリア対策で網を広げるパプアニューギニア

【ポートモレスビーIPS=キャサリーン・ウィルソン】

パプアニューギニアでは、人口の90%がマラリアに罹患する危険性があり、毎年190万件が報告されている。しかし、殺虫効果を施した蚊帳を吊ることで、マラリアを劇的に減らすことができる。

世界保健機構(WHO)によれば、世界の人口の半分が、蚊によって媒介されるマラリアに罹患する危険性がある。2010年には世界で2億1600万件のマラリアが報告され、うち65万5000人が死亡している。

パプアニューギニアでは、地球温暖化の影響によって蚊の活動が活発化し、マラリア患者数が20万人増えると政府は予想している。

殺虫蚊帳は1986年に世界で初めて導入され、パプアニューギニアでは1989年に全国的な配布が始められた。2004年には、「エイズ・結核・マラリアに対抗するグローバル基金」の資金を獲得することに成功した。それ以前から全国配布に尽力している「マラリアに対抗するロータリーの会」と政府の協力の下、全人口の80%への配布を終えている。

 その結果、マラリアの罹患率は、2009年の12%から2011年の8%へと、かなり低下している。

しかし、課題がないわけではない。蚊による耐性の獲得と資金の継続性という2つの問題だ。

パプアニューギニアでは、殺虫剤として現在使われているデルタメトリンという物質への耐性を蚊が得たという結果はまだ出ていないが、通常は夜に活動する蚊の活動時間が少し早まってきたという報告がなされている。

他方、資金面については、グローバル基金からの資金が2014年に切れるが、その後の資金をどう確保するかが大きな問題となっている。

パプアニューギニアにおけるマラリアとの闘いについて報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan

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「リビア政治は歴史的に重要な分岐点にある」とUAE紙

【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙は18日付の論説の中で、7日に実施されたリビア制憲(定数200)議会選挙結果について「リビアは歴史的に決定的な瞬間を迎えている。」と報じた。

「カダフィ前政権崩壊後にリビアが経験してきた紆余曲折を考えれば、今回の選挙を経てリビア議会が成立する見通しが立ったことは重要な一歩である。(新生議会は、議会発足と同時に解散する暫定統治機構「国民評議会」に代わって新首相を選任する予定:IPSJ).
政治プロセスが動き始めた今、焦点は国家再建と開発プロセスに向けられるべきである。」とガルフ・ニュース紙が報じた。

また同紙は、マフムード・ジブリール前暫定首相率いるリベラル派の「国民勢力連合(NFA)」が、政党に割り当てられた80議席中39議席を獲得し筆頭勢力になった点について、「NFAは、リビアが長年抱えてきた諸問題の解決を訴えてきた諸派の連合体である。今回の選挙結果を見る限り、『アラブの春』を経験した他の国々(エジプト、チュニジア)とは異なり、リビア国民は、イスラム原理主義勢力によるリーダーシップや同勢力が率いる連立政権を選択したのではないことは明らかだ。」と報じた。なお、イスラム原理主義組織ムスリム同胞団の「正義建設党」の獲得議席は17議席にとどまった。

 また同紙は、「新政権誕生までには、(議席数が全体の2割に留まっている)NFAをはじめとする様々な政党が、過半数勢力を目指して、定数の6割を占める無所属議員の囲い込みや連携を模索する動きが活発化するだろう」と指摘し、「リビアが、リベラル派勢力が優位を占める国になるかどうかは、議会内の勢力図の行方によって決まるだろう。」と報じた。

また同紙は、「女性候補は議会に30議席を獲得するなど健闘した。この結果、リビア議会200議席のうち16.5%を女性が占めることとなる。」と報じ、今回の選挙で女性候補が大きく躍進した点を伝えている。

「リビアの人々が成し遂げようとしていることにとって、次の一連の政治ステップが重要な役割を果たすことになるだろう。リビア国民は、これから国のインフラと未来を構築していく過程で、心を一つにして団結していく必要がある。」とガルフ・ニュースは結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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シリア政府、アレッポ争奪戦にさらに軍を投入

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【ドーハAJ=特派員】

活動家によると、シリア第2の都市アレッポ(首都ダマスカスから北に355キロ)で政府軍と反政府軍間の戦闘が報じられて6日目となる中、政府は新たに数千人規模の増強部隊をアレッポに派遣した。

25日には、政権党バアス党地方本部から近いアル=ジャマイヤ地区中心部で戦闘が報じられた。また、人権擁護団体「シリア人権監視団」は、アレッポ市南部のカラセー地区では、反乱軍が警察署に放火した、と報じた。

バシャール・アサド大統領打倒を目指す反政府蜂起は、既に16か月目に突入しているが、この数週間の間に、内戦の様相も、かつての首都から遠く離れた地方における蜂起から、アサド政権の主な支持基盤である2大主要都市アレッポと首都ダマスカスの支配を巡る戦いへと変貌してきている。

 シリア自由軍のアブデル・ジャバール・アル=オカイキ報道官は、AFPの取材に対して、「シリア北西部イドリブに配置されていた数千人規模の政府軍部隊が、政権にとって(イドリブよりも)より戦略的に重要なアレッポに再配置された。」と語った。

また活動家らによると、25日朝の段階で、アレッポ市南部のスカッリ地区から多くの民衆が逃れていた。

隣国レバノンのベイルートからシリア情勢を報じているアルジャジーラのルーラ・アミン記者は、アレッポを巡る戦いは、アサド政権及び反政府勢力双方にとって極めて重要なものとなっている、と語った。

「反政府勢力にとって、この革命を成就ためには、商業の中枢であるこの大都市を是が非でも手中に納めなければなりません。だからこそ、政府にとってもアレッポを巡る戦いは、今後の命運を分ける決定的なものとなるため、あらゆる武器を投入して全力で反乱軍の鎮圧にあたっているのです。」と、アミン記者は語った。

ダマスカスにおける政府軍の攻勢

シリア人権監視団
は、7月25日にはシリア全土で30人以上が暴力で落命し、またその前日には158人の殺害が報じられていた、と語った。

また英国に拠点を置く同監視団は、ダマスカスにおける反乱軍の最後の拠点の一つアル・ハジャルル・アスワド地区で、政府軍との衝突があったと報告した。同地区で蜂起が始まって10日目のことであった。

政府軍は追い詰められた同市南部地区の攻撃に、攻撃ヘリコプターと重機関銃を使用した、と同監視団は報告した。

また活動家や住民らは、政府軍はダマスカス北部郊外の反乱軍の支配地域アル=タル地区への制圧を試みた際に重砲やロケット砲で攻撃を加えたため、住民の間にパニックが起こり、数百の家族が街からの逃れた、と語った。

「今や軍用ヘリコプターが街の上空に飛来し、住民は爆発の音で目を醒まし、逃げ惑っています。」「既にこの地区の電気と電話は寸断されています。」と、活動家のラフェ・アラムさんはアル=タル地区を見下ろせる丘から、電話で語った。

シリア自由軍のアル=オクアイディ報道官は、政府が増援部隊をアレッポに投入している理由について、「市街戦が熾烈を極めており、23日にはいくつかの地区が反乱軍の手によって『解放された』ため。」と語った。

「アレッポでは激戦が続いていますが、多くの政府軍兵士は逃亡したり、その場で投降するものも少なくありません。政府軍の士気は極めて低いといえます。」とアル=オクアイディ報道官は語った。

アル=オクアイディ報道官は、先般、「(アサド大統領支持派に言及して)血まみれのアサド一味の手からのアレッポ解放を目指す作戦が始まった。」と発表していた。

商業の中枢で250万の人口を擁するアレッポは、1年以上に亘って暴力的な状況から免れてきていたが、最近になって反政府蜂起の新たな最前線と化した。

無差別砲撃

またアレッポ県各地の住民は、口々に政府軍がアル=ジンナーの街に対して無差別な攻撃をしかけていると非難した。

ロイター通信が入手したアマチュアビデオには、住民によると車が迫撃砲の攻撃を受け3名が死亡、1名が負傷したとされる戦闘直後と思われる映像が収録されていた。

反政府活動家らは、政府軍と反乱軍はこの地域で激戦を繰り広げた、と語った。

「このように砲弾が撃ち込まれるなんて、この村に何の落ち度があったというのでしょう。この村には武装グループの痕跡すらないのに、毎日10発もの砲弾を撃ち込まれています。」「村が標的にされた唯一の理由は、私たちが自由を要求したからとしか考えられません。」とある住民は語った。

また25日には、囚人が反乱を起こし建物の一部を占拠しているホムス中央刑務所において、治安部隊と囚人間の戦いが引き続き繰り広げられた。

シリア人権監視団は、刑務官に加えて正規軍が作戦に投入された結果、数名の「死傷者がでた」と報じた。

ホムスの中央刑務所における囚人の反乱は先週勃発し、その後アレッポの中央刑務所においても、類似の反乱が発生している。

シリア人権監視団は、「ホムスでは、反乱軍の兵士がアル=カラビ地区で政府軍の狙撃兵に射殺された。」と報じるとともに、当時政府軍は「15分毎に平均3発の砲弾」を打ち込んでいたことを明らかにした。

翻訳=IPS Japan

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