【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ】
セルビア社会は、オスマン帝国の影響、宗教対立といった側面が取り上げられがちであるが、これらを乗り越えて良好に運営されているのがベオグラードのアラブ・セルビア友好協会である。
アラブ・セルビア友好協会は、ボスニアやコソボにおけるイスラム教徒迫害とは異なった様相を呈している。会員のセルビア人には、アラブ人、イスラム社会に友愛の感情を抱くだけの理由がある。
「友好国との友好関係は大切にしなければならない」と言うのは退役軍パイロットである創設者イワン・バラリッチ(Ivan Baralic)氏。友好協会は現地で「YU Marhaba」と呼ばれている。「これは象徴的な名前。旧ユーゴスラビアからとったYUを使っているが、これはアラブ語で「感謝」を意味する言葉。政治は変化しても、人々は変わらない。それがわかっているから、この協会を設立した」とIPSの取材に応えて語った。
ユーゴスラビアは1990年代に内戦で崩壊したが、非同盟運動の創始国の1つであった。1960年代初頭よりアラブ諸国の大多数は非同盟運動に参加した。「東側にも西側にもつかない」という政策の下、ユーゴスラビアはアラブ友好国に教育、建設、軍事面の援助を提供した。セルビアはシリア、ヨルダン、イラクから何千人もの工学、薬学、医学留学生を受け入れた。空軍学校で学んだ何百人もの留学生は、帰国してエリート・パイロットになった。
大学ではセルビア語の習得を必須とした。セルビア人と共に何年間も学習、生活を続けるうちにセルビア人女性と結婚し、職を得てセルビアにとどまった者も多い。そのほとんどは医者、薬剤師として成功。その子どもたちもアラブ系の名前でテレビのニュース司会者、ジャーナリストとして活躍している。
協会の正会員は500人だが、バラリッチ氏によれば催し物の参加者はこれを数百人上回る。アラブ文化と中東諸国情勢に関する講義が定期的に開催されている。アラブ各国はクラブハウスに旅行者情報、企業情報を掲示することができる。会員によるアラブ料理の夕食会、ベリーダンス、イード(ラマダン明けの祭り)などの催しもあり、アラブ諸国の大使、外交官も定期的に訪れている。
会員の多くは90年代初期までアラブ諸国で働いた経験のある建設関係の技術者、労働者、通訳、軍人などである。多くは中東諸国に何年も滞在した経験を持つ。
80年代にはイラクで建設業に従事するセルビア、ユーゴスラビア出身者の数が2万人に達した時期があり、大規模ダム、高速道路、空軍基地などを建設した。2003年までイラクを支配したバース党本部も建設したが、1991年湾岸戦争において米軍の空爆より破壊されてしまった。
ピーク時にはユーゴ企業に年間17億ドルの収入をもたらした。べオグラード大学の東洋アラブ研究学部は70年代後期から80年代にかけて非常に多くの学生を受け入れ、アラビア語通訳の需要に応えた。セルビア人卒業生の多くはアラブ諸国に渡り、帰国するものは少なかった。
「イラクの仕事は楽しかった」とエンジニアとして働いた経験のあるサヴァ・コバセビッチ(65歳)氏は協会でIPSに語った。「申し分ない給料がすぐ手に入り、1ヶ月2,000ドルほど稼いだ。1年か2年もすれば、アパートを買うだけの貯金ができた」
軍、医療関係者の多くはリビアに渡り、空軍、陸軍病院、民間病院で指導に当たった。指導期間は数年から数十年にも及んだ。
医者として働いたステファン・ミジャシク氏(68歳)は「当時はトリポリやベンガジにユーゴスラビア人街があって、故郷にいるような気がした。私たちは西洋人のように気取らず、現地の人によく溶け込んでいた」と言う。
全てが一変したのは、80年代後半から90年代初頭。リビアとイラクが国際社会の制裁を受けた。92年からはボスニア問題でセルビアにも制裁が加えられた。両サイドの大企業の協力関係は途切れ、新しい環境が生まれても旧交が再開される気運はない。
「私たちはよい時代の思い出を大切にしている。イラク人は親切な友人だった。今のイラクは何だ。何年もイラクで生活した者として、とうてい受け入れることはできない」と元エンジニアのペリサ・ゼゼリ氏(65歳)は言う。
ゼゼリ氏、コバセビッチ氏とも、協会は現在イラクで働くセルビア人との交流はないと言う。
「怪しげな経歴の者たちが、傭兵やボディガードなどの怪しげな職業についている。私たちに共通点はない」とコバセビッチ氏は言う。
イラクにとどまるセルビア人は現在およそ1,000人。イラクのビジネスを受け継いだ多国籍企業の石油関連施設や米国企業と契約を結んでいる。(原文へ)
翻訳= IPS Japan
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