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キリスト教会がイスラムとの対話を求める

【ポルト・アレグレ、ブラジルIPS=シルビオ・フェレイラ】

ブラジル南部のポルト・アレグレ市で開催された第9回世界教会協議会(WCC)でもっとも口にされた言葉は「対話」だった。協議会では欧州の新聞に掲載されたムハンマドの風刺画をめぐる論争が取り上げられた。 

南アフリカ共和国のノーベル平和賞受賞者、デズモンド・ツツ大司教は「声を荒げることなく対話を通じて解決を図るべき」とし、会議の3,300人の出席者全員が寛容と「宗教の民主主義」の必要性を表明した。 

デンマークに端を発し、欧州から世界へと広がった風刺画問題は、中東の人々の怒りを招いて激しい抗議活動を引き起こした。暴力的な抗議活動では死者も出ている。 

暴力的な活動を宗教的狭量だと非難する声も多いが、ツツ大司教は「今回の騒動は政治的な意味合いがある」と語った。宗教は宗教と無関係の問題の隠れ蓑にされることもある。欧州教会会議のコリン・ウィリアムズ総幹事(英国国教会)は、「欧州と米国のキリスト教会は協力してブッシュ政権が干渉政策を控えるよう働きかけるべき」とした。

 「騒動の根源には侵略問題とキリスト教とイスラム教の世界の相違がある」とコンスタンチノープル正教会のE.C.アブラミデス総大主教は指摘し、「敬意と対話が平和への鍵である」とIPSの取材に応じて語った。 

一方で、会議に集まった宗教指導者たちは風刺画には批判的である。サンパウロのユダヤ教のH.ソウブル主席ラビは「表現の自由は民主主義の基本だが、他者への敬意を忘れてはならない」とする声明を発表した。 

ジュネーブに本部を置くWCCは世界の340を超える教会、宗派、教会団体からなり、5億5000万人のキリスト教信者を代表するが、世界最大のキリスト教宗派であるローマカトリック教会は含まれない。キリスト教自体の分裂も深刻な問題であり、キリストは統一の象徴でありながら教義や規則の違いで区別されることを嘆く声もある。ブラジルで開催されたWCCでの風刺画問題に対する議論について報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

メッセージの意味をひっくり返す活動芸術家

【ブエノスアイレスIPS=マルセラ・バレンテ】

遠めに見るとそれは普通の道路標識のようでもある。アルゼンチンの首都で見られるあまたの黄色い菱形の標識と同じように。しかし近づいてみると、そこには一風変わった警告メッセージが書かれていた-「元拷問人、ここから100メートル先に居住」。 

公共の場所にひっそりと設置されているこの標識がその場に長く据え置かれることはないだろう。しかし、ストリート・アート・グループ(GAC)は気にしない。GACのメンバー、キャロライナ・ゴールダーは、IPSに対して、「それは1日しか持たないかもしれないし、1週間かもしれないし、それよりももうちょっと長いかもしれない」と語った。

 GACは、1997年、賃上げと教育予算の拡大を要求する教師たちによって展開された抗議活動を支援する中から生まれた。教師たちは国会議事堂の前に巨大なテントを張り、2年以上も交代でそこに泊り込んだ。GACの芸術家たちは、皆が「白テント」と呼んでいたテントを、白いコートを羽織ったアルゼンチンの教師をかたどった白黒のシルエットで飾り立てた。 

しかし、GACが有名になったのは、「記念公園」が落成したときである。この公園は、1976年から83年までの軍事独裁期に拘束され「失踪した」人々を記念する、ラプラタ川岸沿いの緑地帯である。GACは、アルゼンチン史上のこの数年間を物語るメッセージを「道路標識」に記し掲げたのである。 

ゴールダーはいう。「はじめは、通常の展覧会ではなく、路上で何かやろうと考えていた。のちに、人々との対話を進める中で、私たちのメッセージがもっと政治的なものになっていたのです」。現在GACは、人権と失業者を守る組織とともに活動している。抗議活動にも参加する。 

GACのスポークス・パーソンでもあるゴールダーは、「私たちは、自分たちのことを芸術家というよりも活動家だと思っています」と語る。通行人は驚きと好奇心を持って反応してくれる。多くのドライバーたちは、よく見る交通安全のためのサインが、ほんの一瞬だけ、新しくて思っても見なかったメッセージに変身するのをみて、何か夢想したのに違いないと感じるであろう。 

GACは、独裁政権によって強制的に「失踪」させられた人々の子供から成る人権グループ「HIJOS」と協同して、元拷問人や独裁政権の元関係者が住んでいる場所を近隣住民に知らせる活動を行なっている。この活動を通じて、元拷問人がいるかもしれないという情報を人々に知らせるひし形の標識のアイディアが生まれた。ブエノスアイレスの地下鉄の地図に似せた地図も作成された。独裁期に設置された秘密強制収容所の場所が赤く塗られている。 

その後、GACの活動範囲は広がり、有名になってきた。 

2001年末の経済・政治危機の前夜には、GACのメンバーが、危険を知らせる際に道路に張ってあるのと同じような赤白のテープを国会議事堂周辺に張り巡らせた。また、まもなく閉店する店に掲げてあるのと同じような「閉店セール」の看板も設置した。ただし彼らは、これを、政府の建物であるカーサ・ロサダ(Casa Rosada)や国会議事堂、市中心部のオベリスコ記念碑のところに据え付けたのである。 

「私たちがやっているのは芸術ではなくて、人々との対話を開くことを目的とした集団的な介入行為なのです」とゴールダーはいう。彼女はまた、彼女たちの作品には署名を付けないようにしていると言う。なぜなら、彼女らの目指すところは、情報システムそのものの中にあるねじれのごとく見えるあいまいなメッセージを発するところにあるからだ。 

それらのメッセージは長く留め置かれるわけではないが、一般の人々からは歓迎されている。たとえ、時には微妙な問題に触れているとしても。「メッセージを持って行ってしまうのはたいてい警察ですね」とゴールダーはいう。しかし、GACのメンバーはあきらめることを知らず、標識や地図、ポスターを元々あった場所かそれに近いところにもう一度置くこともしばしばだという。 

GACはまた、アルゼンチン独立の英雄たちを記念するのと同じような記念銘板や祭壇を設置することもある。これは、2001年12月に起こった民衆蜂起を警察が強引に取り締まろうとする中で殺害された29名のデモ参加者を記念するものである。この事件により、当時のフェルナンド・デラルア大統領は任期半ばにして辞職を余儀なくされた。 

GACの芸術家たちは被害者が亡くなった場所に印をつけ、はがれないように樹脂で覆った紙の上に、彼らの名前・年齢・殺された日付を印刷したものを置いている。これらの印はたいてい2、3週間後にはなくなってしまうが、GACのメンバーや被害者の遺族が単にそれをもう一度設置するだけの話である。 

もうひとつの物議を醸した活動は、地下鉄会社の売っている切符と同じような書体と色を使った切符を印刷することである。ただしこれには、その地下鉄会社メトロビアスの警備統括責任者である元拷問人の名前と写真が印刷されている。 

芸術家たちは、ときには、より手軽だが同時に効果的でもある創作方法にも頼る。すなわち、屋外広告板や宣伝ポスターに単に彼らのメッセージを書き加えるのだ。たとえば、プエルトリコの人気歌手Chayanneのリサイタル告知のポスターには、街頭デモで逮捕された人々の解放を求める吹き出しを歌手のところに付け加える、といった具合だ。 

GACは、失業者の組織とともに、労働の守り本尊である聖カエタノ教会への伝統的な巡礼に参加し、聖人を描いた小さな絵を巡礼者に配ったりする。しかし、その絵の裏側には、祈りの言葉ではなく、労働時間を8時間から6時間にする提案の要旨が書かれている。 

街頭芸術に対するGACの最近の貢献は、国境を越え、ドイツやブラジルでも真似されている。彼らは、何かの標的を撃っているシルエットを作り、そこに、「私たちはいまだに……のターゲットになっています」とのメッセージを印刷する。そして、そのカードを使う者が、それぞれ特定の内容を書き入れてメッセージを完成させる。たとえば、「消費文明」「不安定雇用」「抑圧」などのように。(原文へ) 

翻訳=山口響/IPS Japan浅霧勝浩 

怖れか法令か 報道の自由の規制

【ローマIPS=ミレン・グティエレス】

預言者ムハンマドの風刺画問題は、「表現の自由」と「宗教的感情を保護する責任」の間の論争という構図で議論されている。しかしこうした主張のそれぞれをもう少し厳密に検討する必要がある。それは両者の主張間だけでなく、それぞれの主張の中で疑問が生じているからである。 

そもそも、報道の自由あるいは編集者の自制の問題だったのか。編集者による風刺画の出版反対あるいは謝罪の選択は、必ずしもイスラム教徒の宗教的感情への配慮からなされたのではない。多くの場合、怖れが編集上の判断を下す要因となった。風刺画出版後の暴力は、風刺画掲載を避けた編集者の怖れを実証したようである。 

風刺画の転載で、編集者の解雇や逮捕、あるいは出版物の発行停止に追い込まれた事例も世界各地で見られた。将来、編集上の判断にこの暴力が影響を及ぼすことは疑いない。

 さらには、暴力と暴力への怖れは、直ちに、「自由」対「責任」の論争を混乱させた。この恐怖は、行動や反対に行動の抑制を要求する議論や、沈黙の責任を言及する議論を超えたものといえる。 

しかし、議論を混乱させるのは法律違反だけでなく、法律自体かもしれない。欧州の法律で言えば、たとえばホロコーストはなかったと主張する者が刑務所に送られる国も多い。絶対的な表現の自由を許している国はない。名誉毀損やわいせつの禁止あるいは司法上や議会の特権により必ず制限されている。 

2月13日、イランのHarmshahri Dailyが、欧州人の言論の自由の限界を試そうと、ホロコーストに関する風刺画を読者に募集した。預言者ムハンマドをからかうのとホロコーストをからかうのとは異なるのか。ホロコーストの否定が法的に禁じられているとすれば、ムハンマドの風刺画もそうであるべきか。「権利」と「責任」の論争は、さらに複雑となる。 

しかし、イスラム教、あるいはローマ法王、仏陀、キリスト教の司祭を批判するのと、大虐殺を否定するのとは違うだろう。事実は否定しようがない。 

しかし作家ギュンター・グラスは、風刺画がナチス時代に有名紙に掲載されたユダヤ人差別の風刺画との類似を指摘し、イスラム教のタブーを尊重すべきと主張する。「表現の自由の権利の下で、私たちは保護を求める権利を失った」と述べている。 

まさにこの議論こそ、世界中のすべてのジャーナリストが関心を持つところではないだろうか。米国に本拠を置くCommittee of Concerned Journalists (CCJ)のビル・コバック会長は「冷静で理性的な議論、すべての人の感情、考え、必要、価値観に耳を傾け、配慮した議論の結果である規制以外、言論の自由の規制に線引きはしたくない。怖れや法令による規制は望まない」と述べている。 

風刺画がムスリム世界に怒りを引き起こし、暴力行為を招いたことは否定できない。風刺画を出版した編集者は、思考を呼び起こしたのか、あるいは怒りを引き起こしたのか。コバック会長は「ジャーナリストの重要な役割は、人々の思考を促すこと。怒りが生じた時点で思考は停止する」と述べている。 

さらに議論を進めれば、公正な編集者であれば、怖れや法令によって口を閉ざすことはない。編集者の立場から風刺画問題を分析する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

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国王のクーデターから1年、いまだ膠着状態続くネパール

【カトマンズIPS=マーティ・ローガン】


ネパールのギャネンドラ国王が2005年2月1日にクーデターで政権を掌握してから約1年がたつ。その後、昨年9月からの約3ヶ月間の停戦期間を除き、国王派と反政府勢力の毛沢東派共産ゲリラ(マオイスト)との戦いはやむことなく続いている。にもかかわらず、国王は自らの設定したロードマップにこだわっている。

2月8日には58の町での地方選、2007年には国会選挙、そして3年以内に多党制民主主義へと復帰するとされている。しかし、マオイストをはじめとする反政府勢力は、地方選をボイコットし妨害する意図を明確にしている。マオイストはすでに、1人の立候補者を1月24日に殺害し、別の1人を1月30日に銃撃している。翌31日には、マオイストと国軍・警察の間で大規模な戦闘になり、20人の警官と50名の反乱軍側兵士が死亡した。

 すでに、600名以上の立候補者が、マオイストからの報復を恐れて立候補取り消しを申し出ている。元カトマンズ市長ケシャブ・スタピット氏は、王党派打倒のために自らの率いる小政党から立候補しようとした。しかし、政府側が彼を国王寄りの候補者と宣言する動きがあったため、立候補をあきらめざるを得なかった。彼の元には、立候補をやめるようマオイストから毎日電話があったという。
 
 こうしたネパール情勢に対して外国はどう関わっているのだろうか。中国は当初、ネパールの危機を「内政問題」と評していた。しかし、1月になってから態度を変え、関係各党派に歩み寄りを求める姿勢を打ち出した。インド・イギリス・米国は国王への軍事支援を停止しているが、国王側はこれを意に介さず、中国やパキスタンとの関係を構築しようとしている。また、米国政府は、太平洋軍司令官のウィリアム・ファロン大将をネパールへ送り、米政府の深刻な懸念を伝えさせている。

混乱の収まらないネパール情勢について伝える。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan

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世界経済フォーラム‐WEFが熱い視線を注ぐ中国とインド

【ジュネーブIPS=ガスタボ・カプデヴィラ】

世界経済フォーラム(The World Economic Forum: WEF)は、毎年スイスのリゾート地ダボスで開催される年次総会を主催する世界の巨大企業の代表や政治家らによる私的な組織であり、今年は世界の経済大国として中国やインドの経済成長に重点を置くとしている。 

水曜日、ジュネーブで1月25日~29日の集会の計画を公表するために開催された記者会見で、WEF創始者で最高責任者であるクラウス・シュワブ(Klaus Schwab)氏は、今後の重要課題は『西洋から東洋への経済力のシフト』であると述べた。

 シュワブ氏によれば、この流れは経済・政治の両分野へと影響を与えることになるだろうと予測し、「結果としてまず、天然資源を巡る激しい競争が生じるだろう」と述べた。 

中国とインドの経済発展(特に中国の目覚ましい発展)はここ数十年にわたり経済指標や専門家の分析に影響を与えてきたが、WEFがこれらの地域を注目したことで、多国籍企業は中国とインドを新たな市場開拓のターゲットとして捉えるようになった。 

以前とは著しく異なり、今年のWEFの活動はアフリカへの注目度は低かったが、一方でラテンアメリカやカリブ海沿岸地域を中心とした出来事も少なかった。従って、ダボス会議での出席を表明した735名の企業代表のうち、南アフリカは4名、ブラジル2名、メキシコ1名であった。 

1971年に創設されて以来、過去数10年間にわたりWEFは、主に各国政府と政治家をネオリベラル(新自由主義)経済を模範として支持する企業家や経済専門家との『橋渡し』をしてきた。 

スクワブ氏は「各国政府、企業、市民団体が協調し世界的議題に取り組むことで、WEFは世界で特別な役割を果たすことができる」と主張した。 

しかし、スイスのNGO団体(The Berne Declaration: ベルン宣言)のアンドレア・ミスバッハ(Andreas Missbach)氏は、ダボスでの会議を『不当』であると批判。 

ミスバッハ氏は「WEFが大企業のトップの集まりであり、限られた人脈との集会であるため『不当な会議』であるとは言えない。問題は、熱心に交渉にあたる大企業のトップだけでなく、政治家や国際的な団体組織の代表者も関与する排他的な集会であるということである」とIPSの取材に応じて語った。 

この集まりで議題を決定するのは大企業であるのに対して、政治家は少数民族の仲間の役割を果たしているだけであり、これがダボス会議の問題点であると同氏は指摘した。 

今年の集会では記録的な数の企業代表者が参加する予定。シュワブ氏は「参加希望者が多いため、我々は参加の記載を終了させなければならないほどであった」と打ち明けた。 

中国とインドの台頭に加えて、WEFは新たな技術革新に重点を置く予定である。これに関して、シュワブ氏は『知識が商品に変わる』ということを強調した。 

従来どおり、ダボス会議では大手企業(特に銀行や他の金融機関)の経済アナリストが集まり、国際的な経済発展と今後の危険予知の事前予測を行う。 

経済発展に関して、シュワブ氏は「ここ2年の経済は良好であるが、多くの脆弱性も認められる」と述べた。 

同氏は最近の日本の株式市場における株価の変動に触れ、「現在一部の株式取引で起こっている事態を見ると、世界中の今後の経済発展に関してある種の緊張感が感じられる」とした。 

さらに、彼はこれらの不均衡が我々のシステムの中でどのような形で緩和することができるかは明らかでないと付け加えた。 

一方、ミスバッハ氏はこれは大企業の管理下で民営化すべきでなく、国連をはじめとする他の国際機関を巻き込んだ『合法的会議』の場で議論されるべき重要課題であることを強調した。 

NGO団体(The Berne Declaration: ベルン宣言)の活動家によれば、WEFの集まりはダボスの高級ホテルの贅沢な部屋で行われる、あくまでも『交渉』の場であり、そこでは企業間や企業と政治家の間で私的なミーティングが開催される。これに関して、彼らは「これこそがダボス会議の実態であり、不当なものと言える」とした。 

スイスのNGO団体は、ダボス会議で著名な顔ぶれが集まることに際し、莫大な費用を投じて大規模な警備体制を敷く同政府の行動を厳しく非難した。 

WEFの業務担当責任者アンドレ・シュナイダー(Andre Schneider)氏は、スイス当局が今回の警備に約615万ドルを投じることを認めた。 

スイス軍は5,500名の兵士のうち、3,300を陸上軍に、2,200を空軍に充てるとされている。しかし、当局は会議反対のデモを阻止する役目は警察が担うことを強調した。 

スイスのNGO団体は、今年のダボス会議に対して直接の抗議活動はしないが、代わりに別の場所でデモを実施するとしている。(原文へ) 

翻訳= IPS Japan 浅霧勝浩 


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国連は米国の資金援助をものともせず

【国連IPS=タリフ・ディーン】

(国連をはじめ多くの国際機関への最大の資金拠出国である)米国は長年、財政面において(同国との協調を拒絶している)国連機関を脅かす政治的影響力を行使してきたことで悪評を受けてきた。

1984年、米国は組織の運営方針や『新情報秩序』(new international information order)の計画策定への反対を理由にUNESCO)(国際連合教育科学文化機関:U.N. Educational, Scientific and Cultural Organization)から脱退した。

 その結果、UNESCOの年間予算1億8000万ドルのうち25%が削減された。この大幅な削減にも関わらず、UNESCOは米国抜きでも存続を続けてきたが、2003年、米国は運営の見直しがあれば協調できるとしてUNESCOに復帰した(UNESCO現事務局長は昨年再任された松浦晃一郎氏)。
 
 先月、ブッシュ政権は、各加盟国が(米国企業に沿った経営を行う最高執行責任者(COO)の指名を含む)米国主導の改革に同意しないならば2006‐2007年度の国連予算案成立を阻止すると迫った。

圧倒的過半数の国が提案された改革案に反対であったため、国連の予算管理委員会は最終的に米国が提案した妥協案に合意した。コフィ・アナン国連事務総長は、改革に関する措置の実施まで6ヶ月にわたり9億5000万ドルを使用する許可を得ていた。しかし、その結果、従来の国連の2年分の予算を骨抜きにした。

アレハンドロ・ウォルフ米国大使は「明らかに、6ヶ月経てば我々は運営改革問題に関する進展を評価し、2006年の資金をめぐる問題の取り組み方を決定することができる」と述べた。

一方、ブッシュ政権はこれまでUNFPA(国連人口基金:U.N. Population Fund)から合計約1億2700万ドルの拠出を差し控えてきた。(2002年は3400万ドル、2003年は2500万ドル、2004年、2005年にはそれぞれ3400万ドルのUNFPAへの拠出金を保留)

この資金援助の凍結は、UNFPAが中国における妊娠中絶を支持しているという誤解の下に行われた。(この考えはブッシュを強く支持するネオコンやキリスト教原理主義者たちによるものである)

UNFPAのスポークスマンは「実際、UNFPAは中国や他のいかなる地域においても妊娠中絶を支持していない」とIPSの取材に応じて語った。

彼は「中国におけるUNFPAの活動は、家族計画、安全な分娩、出産時の緊急医療やHIV/AIDSなど性感染病の予防・治療といった包括的なリプロダクティブ・ヘルスケアの強化を目指すものである」と付け加えた。(リプロダクティブ・ヘルス:性と生殖に関する健康:IPSJ)

「さらに、米政府の代表団を含む多くの独立調査団は、UNFPAが中国の強制堕胎施策を支援していることを示すいかなる証拠も見つからなかった」
 
 アジアの外交官は「米国は、資金提供を中止したにも関わらず、2つの国連機関の働きを狂わせることができなかった。UNESCOとUNFPAは米国の『襲撃』をなんとかかわしたのだ」とIPSの取材に応じて語った。

UNFPAのソラヤ・アフメド・オベイド事務局長は先週、「2005年は1969年の創設以来これまでよりも多くの国々がUNFPAに資金提供を行った(2005年:171カ国、2004年:166カ国)」と記者に述べた。

また、昨年のUNFPAの通常の資金拠出額はこれまでで最大であった(3億5000万ドル:前年度3億2200万ドル)。

2005年度の主な資金拠出国は、オランダ、日本、スウェーデン、ノルウェー、英国〈国連人口基金〉およびデンマークである。(日本のUNFPAへの拠出額は1986年~99年までは世界1位、2000年以降はオランダが拠出額1位となっている。2003年の日本の拠出金は、3951.7万ドルで第2位であった:IPSJ)オベイド事務局長は「アフリカの全ての国がUNFPAに資金提供することを約束した」と述べた。

「我々は国連加盟国からの支援に対して大いに感謝している。UNFPAが性と生殖の健康の増進とHIV感染防止の強化に向けて、より多くの国が活動資金の拠出国として参加してくれること、我々の収入が伸び続けることを願う」と述べた。

UNFPAニューヨーク本部のアニカ・ラーマン(Anika Rahman)氏は、2005年度のUNFPAの記録的な拠出金額は、UNFPAの活動が世界の女性の権利や健康を促進させていることを世界中に広めている現われであると語った。

また「アメリカ人は、自国こそがこのような課題を解決してくれるリーダーであると考えているが、現実は米国による1億2500万ドルを超える拠出金の保留は世界中の女性を軽視した行為である」とIPSの取材に応じて語った。

人口研究所(Population Institute)のローレンス・スミスJr. (Laurence Smith Jr.)氏は、「国際社会のUNFPAのこのような絶大な支持は、世界中の最貧国におけるリプロダクティブ・ヘルスや家族計画の必要性に対してUNFPAが従来とってきた行動に対する賛辞である。またこのことは、1960年代、米国のみが、世界人口の安定の実現に向けて必要な組織としてUNFPAの設立を強く国際社会に訴えていた事実を考えると、全く皮肉な現状である。」とIPSの取材に応じて語った。

現在、国際社会は(3億5000万人もの貧困に喘ぐ女性たちが家族計画やリプロダクティブ・ヘルスを実現できない状況の下)人口増加の抑制が今後も世界的な重要課題になることをブッシュ政権に確信させようと躍起になっている。

2003年度国連人口賞受賞者のワーナー・フォノス(Werner Fornos)氏は「UNFPAへの資金調達の増加は、世界中が憂慮すべき人口問題の重要性を十分理解していることの表れである」とIPSの取材に応じて語った。

また同氏は「世界で最も裕福な国がUNFPAに貢献していないにも関わらず、資金調達の増加は、国際社会の『UNFPAの活動に対する信頼』を証明している」と述べた。

さらに彼は「結果的に、UNFPAに批判的な立場を取っているブッシュ大統領は、現実問題から顔を背けることで多くの非難の的となってしまった」と述べた。(原文へ

翻訳=IPS Japan

治安部隊による有権者への投票妨害、報道抑圧に混乱した人民議会選挙

【カイロIPS=アダム・モロウ】

木曜日(12月8日)のエジプト人民議会選挙の決選投票は、有権者と治安部隊との衝突と抑圧報道により混乱した。

独立系の新聞、アルマスリ・アルヨム紙の見出しには「停戦」の文字が躍り、「選挙の最終日に都市部で「市街戦」が発生し、9人が死亡し数十人が負傷した」と報じられた。

多数の報道が、治安部隊と私服警官とで有権者が投票所に出入りすることを執拗に阻止し、野党候補者が当選しそうな選挙区では、投票所周辺が封鎖されたとしている。

第1回と第2回の人民議会選挙で野党勢力が躍進したことがこの騒乱を招いた。最終日の投票結果を勘案すると、野党候補は前回のわずか40議席から、人民議会444議席の中のほぼ100議席を確保する見込みである。

 決選投票当日、投票を妨げられた有権者は強硬な抗議活動を行い、警察は群集に向かって催涙弾とゴム弾を使用した。

ナイルデルタのダカハリーヤ県の衝突では2人が死亡し、同じくナイルデルタのシャルキーヤ県では3人が死亡した。北部の地中海沿岸都市ダミエッタでも同様の衝突でさらに3人死亡した。

アルマスリ・アルヨム紙の報道によると、ムスリム同胞団が優勢なダカハリーヤ県のBedway村には3000人以上の兵が配備された。結局11月9日から始まった3回の人民議会選挙では12人もの犠牲者が出た。

第1回と第2回の人民議会選挙では多くの不正が報道されたが、選挙監視団は最後の投票日には国の治安部隊が極めて乱暴なやり方で投票に来た有権者を追い払った事実があったという。

ムスリム同胞団の有力者であるAbdel Moneim Abul Futouh氏は、「抑圧は昨日の決選投票で最高潮となり、治安部隊は投票に訪れた人に実弾を放ち、催涙弾を使い、有権者が投票所に入ることを妨げた」と述べた。

カイロの人権機関Cairo Institute for Human Rights Studiesは、「市民社会組織によって現場での深刻な現象が目撃されて報告されており、今回の選挙とその結果には公正と自由とが欠けていることが確信される」という声明を発表した。

政府はムスリム同胞団の支持者が暴力を扇動しているとして非難してきたが、多くの人はこの非難に疑問を抱いている。野党、特にムスリム同胞団の候補者が優勢な地域では、国の治安部隊が騒乱を引き起こすのを見たと証言する人もいる。

「この騒乱はムスリム同胞団に責任があるとは思えない」と、2人のムスリム同胞団の候補者がすでに対立候補に圧勝している首都カイロの低所得者層選挙区に住むタメル・サイード氏は述べ、「悪いのは、有権者に投票をさせない人たちだ」とした。

選挙監視団の多くは、第1回と第2回の人民議会選挙で、非合法だが容認されているムスリム同胞団が予想以上に躍進して76議席も勝ち取ってから、政府が強硬手段をとるようになったという。

Abul Futouh氏は「第1回の人民議会選挙からムスリム同胞団の候補者が落選するよう政府は圧力を強め始めた。昨日の決選投票でムスリム同胞団の候補者が何人か落選したのはこの政府の圧力のせいだ」と述べた。
 
 この圧力疑惑にも関わらず第1報によると、ムスリム同胞団は第3回目の人民議会選挙でさらに12議席を獲得し、合計すると人民議会で全議席の1/5ほどの88議席を占めることになったとされている。

国営の報道機関によると、長期政権を維持しているホスニ・ムバラク現大統領が率いる与党国民民主党(NDP)は300から330議席を確保する見込みである。選挙前の388議席からするとかなりの減少だが、引き続き国民民主党(NDP)は立法支配に必要な2/3以上の議席を占める。

従来エジプトの最大野党といわれ新自由主義を掲げてきたワフド党を含めて、他の非宗教政党は合計で14議席しか確保できず、その弱さを露呈した。

最終結果はまもなく公表される予定である。しかし、政府主導の行政裁判所によって「法的問題」が指摘された選挙区での19議席をめぐる追加選挙はこれから行われると予想される。さらに10議席が憲法での規定に従って大統領により任命される。

投票率はエジプトのほぼ3200万人の有権者の平均で34%であるとの公式発表があったが、もっとも公正な選挙監視団によると投票率は25%よりも低いとされている。(原文へ

 翻訳=IPS Japan

米国、来年も移民抑制政策か

【メキシコシティIPS=ディエゴ・セバージョス】

米国が移民政策を年々厳格化しており、内外からの批判が高まっている。

現在米国には4000万人のラテン系人口がいるが、そのうち800万人が不法滞在だと見られている。また、2005年には、40万人以上の移民がビザを持たずに米国に入国し、約100万人が入国を試みて失敗し強制送還されたと推測されている。

特に入国が多いのは、メキシコ-米国国境間であるが、12月15日現在、国境越えを試みたメキシコ人のうち324名が亡くなっている。1993年からの累計は約3800名にもなる。彼らの多くは、川を泳いで渡ろうとしたり、猛暑の中砂漠を渡ろうとしたり、密閉されたトラックや電車の荷台の中に入って国境を越えようとしたりして死に到るのである。

米国は、これら移民の入国を厳しく取り締まろうとしている。2005年5月には、「本人身元確認法(the Real ID Act)」が制定され、ビザなし移民に運転免許証を発行することを禁止し、メキシコ国境沿いに112キロにわたる金属・コンクリート壁を建設する予算を認めた。

2004年12月には、アリゾナ州議会で「提案200」が可決され、ビザなし移民に対する保健・教育サービスの利用制限を取り決めた。

また、2006年の前半には、3200キロのメキシコ国境沿いのうち1100キロに移民取締のためのハイテク壁を建設し、ビザなし入国を連邦犯罪とする法律を制定することが目指されている。連邦下院はすでにこの法案を承認し、あとは上院の可決を待つばかりである。

こうした米国の動きに対して、メキシコグアテマラベネズエラ等が反発し、これをアムネスティ・インターナショナル(AI)ヒューマン・ライツ・ウォッチ(HRW)などの人権NGOが支援するという構図になっている。

2006年の米国の移民政策の見通しについて報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=IPS Japan

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ケニア国民、憲法改正を拒否

【ナイロビIPS=ジョイス・ムラマ】

ケニア国民は、11月21日、国民投票に掛けられた憲法草案をきっぱりと拒絶した。

ケニア選挙委員会(ECK)の発表によると、反対354万8,477票(投票者の57%に相当)、賛成253万2,916票という。

意気消沈したムワイ・キバキ大統領は、22日のテレビ演説で、「今回の投票で、ケニア国民が提案憲法を拒否したことが明らかとなった。これは、民主主義拡大へ向けての大きな一歩である。政府は、国民の判定を尊重する」と語った。

 キバキ大統領と同氏のケニア国民連合(National Alliance Party of Kenya:NAK)は、与党連合National Rainbow Coalitionの亀裂にも拘らず、提案憲法の承認を訴えた。一方、自由民主党党首であるライラ・オディンガ道路・公共事業大臣は、野党のケニア・アフリカ民族同盟(Kenya African National Union:KANU)と組み、市民に反対票を投じるよう呼びかける運動を展開した。

提出憲法支持派はバナナを、反対派はオレンジをシンボルとし、読み書きのできないケニア市民は、投票の際にこれらシンボルを使用した。

反対派は、「提案された憲法は、大統領に対し強大な権限を与え過ぎる」と主張し、大統領と新たに設立される首相職とで執行権を分割するよう定めた前草案を採用するよう要求した。

この前草案は、首都ナイロビ郊外の民族文化劇場「ボーマス・ケニア」に因み「ボーマス草案」と呼ばれる。2003~2004年、同施設を会場として、政府、市民団体代表で構成される国民憲法会合が、ケニア新憲法はどうあるべきかについて協議を行ったのである。

同会議に先立ち、2000年には、憲法に盛り込むべき条項に関する国民の意見を聴取するため、ケニア憲法見直し委員会(Constitution of Kenya Review Commission)が設立され、全国規模の審議が行われた。同委員会は、「国民は、ダニエル・アラプ・モイ、ジョモ・ケニアッタによる権力乱用への反感から、大統領権力の制限を望んでいる」との報告を提出した。

21日の国民投票に掛けられた憲法草案は、今年7月にNAK議員が、大統領の強大な権力維持のためボーマス草案を修正して、大統領により任命される首相には執行権を認めないとしたものである。

21日の投票は、8人の死亡者を出した国民投票運動の時と異なり、穏やかに進められた。唯一の例外は、アフリカ最大のスラムといわれるキベラ(ナイロビ市内)地区で起こった暴力事件であった。キベラのランガタ選挙区は、八百長選挙を仕組んでいるのではないかと疑った若者達が、トラックの運転手に石を投げつけたことから一時騒然となったが、これは、運転手が、警察署に入る際にトラックの中身を見せるようにとの命令に従わなかったことが原因であった。

国内2万人、外国150人のオブサーバーと約6万人のセキュリティー担当者が、この歴史的な選挙を見守った。有権者は、朝の寒さをものともせず午前7時の投票開始前から長蛇の列をなした。

ナイロビのエンバカシ選挙区に住むFlorenceMakokhaはIPSの取材に応じ、「投票のためにやって来た。私の票は、選挙に影響を与えると思う。2人の息子と5時前にここに来た」と語った。

投票名簿に記載されていない者が投票に来たり、同一人物が2度も投票に現れるなど、不正行為も報告されている。多くの人が投票の際に提示するよう定められた国民身分証明書の代わりにパスポートを持って投票所に押しかけ、結局投票を許されたという事もあった。

ケニア市民の憲法草案拒否で、新たな憲法見直しに着手するかどうかの決定が下されるまで、植民地時代の憲法施行が続くこととなった。

ケニアッタ国際会議場における投票結果発表の際に、ECKのSamuel Kivuitu委員長は、市民に対し、憲法見直しを棚上げにしてはならぬと警告した。

同氏は、公式結果の発表を聞こうと会議場に詰め掛けた数百人の反対派の歓呼の中で、「国民の連帯と、統治権限は国民にあるのだということを保証するより良い憲法の制定に努力することは我々の義務である」と語った。

キバキ大統領は、2002年末の大統領就任時に、100日以内に新憲法を制定すると約束していたが、3年後の今も、ケニア国民は憲法制定を待っているのである。

憲法問題は別として、既に、国民投票の結果、政府に変化が起こるのではないかとの見方が広がっている。特に、2007年の選挙を見越して。(原文へ
 
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|バルカン半島|ベオグラードのアラブ・セルビア友好協会

【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

セルビア社会は、オスマン帝国の影響、宗教対立といった側面が取り上げられがちであるが、これらを乗り越えて良好に運営されているのがベオグラードのアラブ・セルビア友好協会である。 

アラブ・セルビア友好協会は、ボスニアやコソボにおけるイスラム教徒迫害とは異なった様相を呈している。会員のセルビア人には、アラブ人、イスラム社会に友愛の感情を抱くだけの理由がある。

 「友好国との友好関係は大切にしなければならない」と言うのは退役軍パイロットである創設者イワン・バラリッチ(Ivan Baralic)氏。友好協会は現地で「YU Marhaba」と呼ばれている。「これは象徴的な名前。旧ユーゴスラビアからとったYUを使っているが、これはアラブ語で「感謝」を意味する言葉。政治は変化しても、人々は変わらない。それがわかっているから、この協会を設立した」とIPSの取材に応えて語った。 

ユーゴスラビアは1990年代に内戦で崩壊したが、非同盟運動の創始国の1つであった。1960年代初頭よりアラブ諸国の大多数は非同盟運動に参加した。「東側にも西側にもつかない」という政策の下、ユーゴスラビアはアラブ友好国に教育、建設、軍事面の援助を提供した。セルビアはシリア、ヨルダン、イラクから何千人もの工学、薬学、医学留学生を受け入れた。空軍学校で学んだ何百人もの留学生は、帰国してエリート・パイロットになった。 

大学ではセルビア語の習得を必須とした。セルビア人と共に何年間も学習、生活を続けるうちにセルビア人女性と結婚し、職を得てセルビアにとどまった者も多い。そのほとんどは医者、薬剤師として成功。その子どもたちもアラブ系の名前でテレビのニュース司会者、ジャーナリストとして活躍している。 

協会の正会員は500人だが、バラリッチ氏によれば催し物の参加者はこれを数百人上回る。アラブ文化と中東諸国情勢に関する講義が定期的に開催されている。アラブ各国はクラブハウスに旅行者情報、企業情報を掲示することができる。会員によるアラブ料理の夕食会、ベリーダンス、イード(ラマダン明けの祭り)などの催しもあり、アラブ諸国の大使、外交官も定期的に訪れている。 

会員の多くは90年代初期までアラブ諸国で働いた経験のある建設関係の技術者、労働者、通訳、軍人などである。多くは中東諸国に何年も滞在した経験を持つ。 

80年代にはイラクで建設業に従事するセルビア、ユーゴスラビア出身者の数が2万人に達した時期があり、大規模ダム、高速道路、空軍基地などを建設した。2003年までイラクを支配したバース党本部も建設したが、1991年湾岸戦争において米軍の空爆より破壊されてしまった。 

ピーク時にはユーゴ企業に年間17億ドルの収入をもたらした。べオグラード大学の東洋アラブ研究学部は70年代後期から80年代にかけて非常に多くの学生を受け入れ、アラビア語通訳の需要に応えた。セルビア人卒業生の多くはアラブ諸国に渡り、帰国するものは少なかった。 

「イラクの仕事は楽しかった」とエンジニアとして働いた経験のあるサヴァ・コバセビッチ(65歳)氏は協会でIPSに語った。「申し分ない給料がすぐ手に入り、1ヶ月2,000ドルほど稼いだ。1年か2年もすれば、アパートを買うだけの貯金ができた」 

軍、医療関係者の多くはリビアに渡り、空軍、陸軍病院、民間病院で指導に当たった。指導期間は数年から数十年にも及んだ。 

医者として働いたステファン・ミジャシク氏(68歳)は「当時はトリポリやベンガジにユーゴスラビア人街があって、故郷にいるような気がした。私たちは西洋人のように気取らず、現地の人によく溶け込んでいた」と言う。 

全てが一変したのは、80年代後半から90年代初頭。リビアとイラクが国際社会の制裁を受けた。92年からはボスニア問題でセルビアにも制裁が加えられた。両サイドの大企業の協力関係は途切れ、新しい環境が生まれても旧交が再開される気運はない。 

「私たちはよい時代の思い出を大切にしている。イラク人は親切な友人だった。今のイラクは何だ。何年もイラクで生活した者として、とうてい受け入れることはできない」と元エンジニアのペリサ・ゼゼリ氏(65歳)は言う。 

ゼゼリ氏、コバセビッチ氏とも、協会は現在イラクで働くセルビア人との交流はないと言う。 

「怪しげな経歴の者たちが、傭兵やボディガードなどの怪しげな職業についている。私たちに共通点はない」とコバセビッチ氏は言う。 

イラクにとどまるセルビア人は現在およそ1,000人。イラクのビジネスを受け継いだ多国籍企業の石油関連施設や米国企業と契約を結んでいる。(原文へ) 

翻訳= IPS Japan 

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