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期限を切った核兵器禁止を求める活動家たち

【ヌエボバジャルタ(メキシコ)IPS=エミリオ・ゴドイ】

核軍縮を主張する国々は、核兵器を廃絶する公式協議の開始日設定の準備をする地点にまで到達している。今年末にオーストリアで、その設定がなされる可能性もある。

これは、メキシコ西部の観光地ヌエボバジャルタで2日間にわたって開かれた第2回「核兵器の非人道性に関する国際会議」について、14日に会議が閉幕する際の全般的な雰囲気であった。会議には146か国の代表と世界中の100以上の非政府組織から参加があった。

参加者は、核兵器の保有および使用が人間に与える影響に関して非難し、ロシア、米国、中国、英国、フランス、インド、イスラエル、パキスタンが依然として保有している1万9000発の核弾頭すべての廃棄を求める強力なメッセージを発した。

Second conference on the humanitarian impact of nuclear weapons
Second conference on the humanitarian impact of nuclear weapons

平和主義を掲げる在家仏教組織「創価学会」の副会長で、「創価学会インタナショナル」(SGI)平和運動局長の寺崎広嗣氏はIPSの取材に対して、「(今回の会議は)核兵器禁止という目標へのロードマップに向けた第一歩となりました。第3回会議でこの目的へのロードマップが提供されることになると考えています。核兵器をなくすべきだと認識する点において、我々は核保有国よりもずっと先を行っているのです。」と語った。

また寺崎氏は会議で、「核保有国は不拡散を主張する一方で、自国の核兵器は保持し続けています。従ってこの会議の目的は、核廃絶への動きを作り出すことにあるのです。」と語った。

オーストリア政府は13日、年末に第3回会議を主催すると発表した。2015年核不拡散条約(NPT)運用検討会議に先立つものだ。NPTは核兵器を制限する法的拘束力のあるもっとも重要な国際枠組みだが、この15年ほど進展がない。

81か国・350団体から成る「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」のラテンアメリカ・カリブ海地域コーディネーターであるエクトル・グエラ氏は、IPSの取材に対して、このプロセスは「法的拘束力のある(核兵器)廃絶のための枠組へと移行するため」「次のステップへ進む準備ができています。」と語った。

理想的には「国際社会全体」が参加することだが、もし核兵器国が棄権するようなことがあっても「問題はありません。」とグエラ氏はいう。彼の見方では、新条約は「国際交渉において核兵器の非正統化を推進する国際規制を確立するもの」だからだ。

ICAN
ICAN

2013年のオスロ会議と同じく、NPTの認めた5つの核兵器国(米国、中国、フランス、英国、ロシア)はヌエボバジャルタの会議に参加しなかった。

しかしパキスタンは、イスラエルやインドと同じく、現在190ヵ国が加盟しているNPTに署名していないが、ヌエボバジャルタの会議には参加した。

オスロ会議以来、核廃絶運動は核兵器の非人道的影響を批判する点で前進してきた。2013年5月、[2015年]NPT再検討会議[第2回]準備委員会はこの角度から焦点を当てた。またその数か月後にニューヨークで開かれた国連総会でも核兵器の非人道的影響に焦点が当てられた。

ヌエボバジャルタでは、核戦力の維持・管理における人為的ミスと技術的ミスという要素が検討に付された。この点は、ジャーナリストのエリック・シュロッサー氏の著書『指揮と統制:核兵器、ダマスカス・アクシデント、そして安全幻想』に詳細に描かれている。

ロンドンに本拠を置くNGO「英国王立国際問題研究所(チャタム・ハウス)」のパトリシア・ルイス安全保障研究部長は、IPSの取材に対して、「これまでに、計算違いやミスによって核兵器が使用されそうになったことが何度もあります。」と語った。

「(核兵器が使用される)確率は私たちが一般的に考えているよりもずっと高く、私たちは未知の事態を想定しなくてはなりません。今日の状況は以前よりもリスクが大きくなっているのです。」とルイス氏は語った。

ルイス氏のチームは、米国、旧ソ連、英国、フランス、イスラエル、インド、パキスタンが関与した1962年から2013年にかけての実験、軍事演習、危険警報における核事故を再調査し、その研究成果を発表した。

この調査報告には、米空軍のあらゆるレベルにおける物理的防護や作戦上の安全がおろそかになっているとの知見が導き出されている。

ルイス氏は、高度な政治的緊張状態にあるときにはすべての核弾頭が破棄されるまで大規模な軍事演習を行わないこと、さらには、攻撃の脅威が差し迫っているとの警報を遅らせることを推奨している。

寺崎氏は「核兵器は人類を人質に取っているのです。」と結論付けた。

グエラ氏の見方では、核兵器の禁止は2020年までになされなければならないという。国連の枠組みで実行されるべき「交渉の政治的条件は熟しつつあります。」とグエラ氏は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【ヌエボバジャルタ(メキシコ)IPS=エミリオ・ゴドイ】

山下泰昭さん(74歳)は、米国が1945年8月9日に長崎に投下した原子爆弾で被爆した自身の経験を、長らく人には語ってこなかった。

1968年にメキシコに移住した山下さんは1995年に友人の子どもから、原爆の講話を重ね重ね依頼されやむ無く引き受けたのを契機にそれまでの沈黙を破り、長崎と世界全体の運命を一変させたその朝の出来事を語り始めた。

「私は当時6歳で、爆心地から2.5キロのところに住んでいました。普段私は、友達と一緒に虫を捕まえに近くの山に行っていたのですが、その日は家の前に一人でいました。近くには母がいて、食事の支度をしていました。」と物腰が柔らかく、白髪で端正な顔立ちの山下さんはIPSの取材に対して語った。

1968年にオリンピックを取材するためメキシコにやってきた山下さんは、その後この国に留まった。今日山下さんは、被爆したあの日の遠い記憶を振り返り、家にあった防空壕に逃げ込むように母親が叫んだときのことを思い出していた。

「防空壕に駆け込んだとき、目が眩むような激しい閃光を浴びました。母は私を地面に引っ張りよせ、私の体の上に覆いかぶさりました。それからものすごい音がして、いろんなものが私たちの頭上を飛ぶ音が聞こえました。」

防空壕を出ると、あたり一面には何もなくなっていた。すべては焼け、医師や看護婦はおらず、食べ物もなかった。それは、今日に続く終わりなき悲劇の始まりに過ぎなかった。

20才の時、山下さんは被爆者を治療する日本赤十字社長崎原爆病院で働き始めた。しかし、原爆症患者が毎日のように死亡する現実に直面し、強い恐怖感を覚えて数年後にはやめてしまった。

Second conference on the humanitarian impact of nuclear weapons
Second conference on the humanitarian impact of nuclear weapons

山下さんの証言は、メキシコ北西部の州ナヤリットの観光地ヌエボバジャルタで2月13~14日に開かれた第2回「核兵器の非人道性に関する国際会議」(非人道性会議)の参加者たちの心を大きく揺り動かした。会議には140か国の代表が出席し、世界中から100以上の非政府組織(NGO)のメンバーが参加した。

2013年3月にオスロで開かれた前回会議に続くこの2日間の会議の目標は、人類および地球に経済、人道、健康、環境の面で脅威を及ぼしている核兵器の廃絶にむけて前進することにある。

現在、世界には少なくとも1万9000発の核弾頭があるが、そのほとんどが、核不拡散条約で核保有を認められている中国、フランス、ロシア、英国、米国に加え、インド、イスラエル、北朝鮮、パキスタンの手に握られている。

メキシコ外務省は、その内2000発以上の核兵器が数分以内に発射可能な状態を示す「高度な作戦警戒態勢」にあると推測している。

「これらの兵器は受け入れがたいものであり、生物兵器や化学兵器のように禁止されなければなりません。核兵器の爆発が直ちにもたらす緊急事態に十分対応し、被害者に対して十分な救援活動を行える対応能力は、いかなる国にも国際機関にもないのですから。」と語るのは、特定兵器によって引き起こされる不必要な被害を防止するために活動している英国の非営利組織「36条の会」のリチャード・モイエス氏である。

Richard Moyes
Richard Moyes

2013年2月、「36条の会」は英国マンチェスター市上空で100キロトン級の核兵器が爆発した場合に予想される被害に関する研究報告を発表した。現在グレーター・マンチェスターには270万人が居住している。

(核爆発による)爆風と熱線による直接的な影響で少なくとも8万1000人が死亡し、21万2000人が負傷する。橋や道路は破壊され、医療態勢は機能不全に陥り、被害者に対する救援活動が困難になる。この被害が英国社会に及ぼす長期的影響は「甚大なものになるだろう」、と「36条の会」は指摘している。

人口2000万人以上を抱えるメキシコシティ首都圏も、マンチェスター市と類似した被害想定を検討している。それによれば、50キロトン級の核兵器がメキシコシティ上空で爆発すれば、被害が首都圏を超えてメキシコ中心部の地域に拡大していくにつれ、爆心地から半径66キロ圏内、約2200万人が影響を受けるという。

「(核爆発がもたらす人道的)帰結は厳しいものです。つまり、緊急支援サービスの運用能力は失われ、病院・診療所は破壊されて使用できず、レスキュー隊や医療関係者も失われているのですから。」と内務省で民間防衛を担当するロゲリオ・コンデ氏はIPSの取材に対して語った。

「従って、被害者を救援するための機材や現場の職員、専門家などの面で、メキシコの他の州や諸外国からの支援を仰ぐことになるでしょう。」とコンデ氏は語った。

なお、環境破壊とインフラへの被害規模は、メキシコ経済の2割に相当すると想定されている。

一方、太平洋のマーシャル諸島のように核兵器の実験場となった場所では、地域住民がさまざまな損害を被ってきた。一連の島々と環礁からなるマーシャル諸島では、1946年から1958年にかけて67回の核実験が行われた。

マーシャル諸島議会のジェバン・リクロン議員は、「数値化されてはいませんが、環境や住民の健康面で、様々な問題が発生してきました。一連の核実験に晒された住民は、人体実験の対象にされたのであり、60年経過した今でもその後遺症に苦しんでいるのです。」と語った。リクロン氏は、米国が1954年3月1日にビキニ環礁で核爆弾「ブラボー」(1945年の広島型爆弾の1000倍の破壊力)の核実験を行った当時は2才で、ロンゲラップ環礁で祖母と暮らしていた。

米国は核実験の直後に、周辺住民を対象にした秘密裏の健康調査を行い、放射線が人体に与える影響を調べた。

Photo: A test of a U.S. thermonuclear weapon (hydrogen bomb) at Enewetak atoll in the Marshall Islands, November 1, 1952. U.S. Air Force
Photo: A test of a U.S. thermonuclear weapon (hydrogen bomb) at Enewetak atoll in the Marshall Islands, November 1, 1952. U.S. Air Force

国連人権理事会の特別報告官(カリン・ジョージュスク博士)は、マーシャル諸島での現地調査の後、住民の健康に対する権利や効果的な救済を受ける権利、環境回復の権利が侵されており、さらに、米国による強制移住やその他の重大な不作為による人権侵害が発生していた、と報告した。

第2回「核兵器の非人道性に関する国際会議」の推進者らは、1967年に署名されたラテンアメリカ・カリブ地域核兵器禁止条約(いわゆるトラテロルコ条約)が将来の地球的な核廃絶のモデルとなるべきだと考えている。しかしそのためには、数十年にわたる外交的行き詰まりを打破する必要がある。

トラテロルコ条約によって、中南米は世界初の非核兵器地帯(NWFZ)となった(現在NWFZには114か国が含まれる)。その他の非核兵器地帯は、南太平洋、アフリカ、東南アジア、中央アジアである。

包括的核実験禁止条約(CTBT)機構準備委員会は、2020年までに核兵器のない世界を実現する明確なロードマップを打ち立てることを求めている。

CTBTには既に161の国連加盟国が批准しているが、条約発効にはなお、中国、北朝鮮、エジプト、米国、インド、イラン、イスラエル、パキスタンの署名・批准が不可欠の要件となっている。

第2回「核兵器の非人道性に関する国際会議」には、米国、中国、フランス、英国、ロシアの核五大国は参加しなかった。

山下さんは、「核兵器がなくなるまでにいったい何世代かかるのか分かりません。どうしてこれほど多くの無辜の人びとが不必要に傷つけられなければならないのでしょうか? だからこそ、私たちは核兵器を廃絶するために最大の努力を払わなくてはならないのです。」と締めくくった。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【アブダビWAM】

「イラクでは、ほぼ連日のように襲撃事件、爆破テロ、発砲事件が多発しており、この1年で暴力事件が増加した。スンニ派、シーア派間の宗派抗争も激化しており、2月7日には、バグダッド西部のガザリャ地区で、4月に予定されている次期国民議会選挙のシーア派候補者(アルシャムマリ氏)が射殺された。この日だけでもイラク全土で7人が殺害されている。」とアラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙が報じた。

同日、トゥーズ・フールマート市北部の商業地区では、車載爆弾が爆発し4人が死亡、28人が重軽傷を負った。

6日には、首都バグダッドの商業地区で車載爆弾が相次いで爆発し少なくとも13人が死亡、5日には、首都中心部で爆弾攻撃が相次ぎ34人が死亡した。

国連が発表した統計によると、イラクにおける昨年の死者数は、宗派対立による犠牲者数が史上最悪の事態から改善を見せ始めた2007年以来、最も多い数(8868人、うち民間人が7818人)を記録した。なお、昨年の負傷者数は、1万7981人であった。

「しかし地域の緊張を高めているのはスンニ派-シーア派間の暴力だけではない。イラク治安当局により収監されている数千人に及ぶ女性に対する暴力と虐待の実態も、主要な不安定要素となっている。」と「ガルフ・トゥデイ」紙は2月8日付の論説の中で報じた。

国際人権擁護団体「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」が6日に発表したところによると、イラク当局は数千人の女性を不法に収監しており、その多くが拷問されたり、性的なものを含む様々な虐待の脅しを受けている、という。

シーア派主導のヌーリ・マリキ政権は、悪化し続ける暴力事件への対策として過激派を標的にした大規模な検挙を行った。しかし、「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」が発表した報告書は、収監された人々を公正に取り扱うイラク治安当局の能力について新たな懸念を生じさせている。また、腐敗が蔓延し国際基準に達していないと批判されてきたイラクの司法制度についても、その有効性が疑問視されている。

「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」によると、多くの女性が、親族の男性にかけられたテロ容疑の巻き添えとなる形で逮捕されており、罪状もないまま数か月から数年に亘って収監されているものもいるという。この調査団の面接を受けた収監中の女性たちは、治安当局により殴打、強姦、強姦の脅しを受けたと証言している。バグダッドのカズミヤ刑務所の死刑囚用管理棟で面接を受けた松葉杖をついたある女性囚人は、9日間に亘って殴打、電気ショック、逆さ吊り等の拷問に晒された結果、回復不能な障害を受けたと証言した。

この女性は、裁判所が拷問による自白強要があったとした医療報告書の内容を認めて容疑の一部を棄却したにもかかわらず、調査団と面談した7か月後の2013年9月に処刑された。

「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」のある職員は、「報告書が指摘している通り、女性囚人(=多くがスンニ派過激派の容疑をかけられた親族)に対するこのような虐待が続く限り、内戦状態が収束に向かうことはないでしょう。イラク治安当局や官憲の所業は、あたかも女性囚人を残虐に扱うことで国を安全にできると考えているかのようです。」と語った。

「イラクの関係当局は協力し合って収監中の女性容疑者の尊厳を守れる法律を強化し、数千人の死者を出してきた暴力の循環を止めるよう努力すべきだ。」と「ガルフ・トゥデイ」紙は結論付けた。

翻訳=IPS Japan

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【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

旧ユーゴスラヴィア連邦でもっとも人の目に触れることのなかった秘密が明らかになった。「裸の島」を意味する「ゴリ・オトク(Goli Otok)」島にかつて国内唯一あったグラーク(ソ連式強制労働収監所:65年前に設立)に収監されていた1万6101人の囚人名簿がインターネット上で公開されたのだ。

この名簿公開は、1991年の旧ユーゴスラヴィア解体後、相次いで独立した旧連邦構成諸国に現在生存している数少ない元囚人本人やその家族からの強い反応を引き起こした。

これは、当時ゴリ・オトクに収監された多くのボスニア人、クロアチア人、モンテネグロ人、マケドニア人、スロヴェニア人、セルビア人等にとって、当時の悲惨な体験がいかに今日に至るまで精神的な負担となりつづけ、家族にとっても世代を超えた身内の恥として認識されてきたかを示している。

「私は以前から母方の祖父の人生に何が起こったのかを知りたいと思っていました。」と語るのは、セルビア共和国の首都ベオグラードで教師をしているスミリャナ・ストイコビッチさん(45)である。

彼女は、2000年に亡くなった祖父のスタンコさんが、第二次世界大戦前に見習い靴職人をしていた時の話や戦争中にパルチザンとして、ナチス・ドイツ兵と戦った時の話をしてくれたのを覚えている。「しかし、話はいつもそこから急に飛び、孫たちが生まれた1960年代以降になったものです。戦後の空白の期間に何が起こったのかについては、祖父に質問しないよう言われてきました。」とストイコビッチさんは語った。

Tito and Stalin/Balkan Forum
Tito and Stalin/Balkan Forum

その後ストイコビッチさんは、祖父がゴリ・オトク強制労働収容所に7年間収監されていた事実を知った。「祖父は、当時ソ連の大義を確信していた共産主義者として、(ユーゴスラヴィアの指導者ヨシップ・ブロズ・)チトー元帥(1892~1980)よりもソ連のヨシフ・スターリン書記長を好ましく思っていると発言したに違いありません。…今は、祖父がなぜゴリ・オトクに収監されていたことを一切語らなかったのか、理解できます。」とストイコビッチさんは語った。

ゴリ・オトクは、クロアチア北部の海岸から沖に6キロ離れた小さな無人島で、1948年にソ連圏を離脱する決意をしたチトー首相率いるユーゴスラヴィア政府が翌年7月、島を国内反体制派を収監する巨大な監獄へと作り変えた。


このチトー首相による決断は、スターリン書記長に対する「歴史的なノー」として知られている。当時スターリン書記長は、「チトー首相は資本主義や西側資本主義国家の下僕に成り下がっている」と非難し、ソ連から刺客を放つ一方でユーゴスラヴィア共産党の同志に、チトー政権の転覆を盛んに働きかけていた。第二次世界大戦を通じて共にナチス・ドイツ軍と戦ったソ連とユーゴスラヴィアの共産主義者らはこの事件が起こるまで長らく同盟関係にあったのである。

「当時の多くの共産主義者にとって、スターリンが間違っているという発想は全く考えられないものでした。」とゴリ・オトク・ベオグラード協会のゾラン・アサニン会長は語った。

アサニン氏をはじめ当時の粛清を生き延びた人々の証言や回想によると、1948年のある日、共産党関係者は様々な党会合の場で、「チトー首相よりもスターリン書記長を好ましく思っているか?」という質問に答えるよう求められたという。これに「はい。」と答えたものは、裁判手続きも判決文もないまま、秘密裏にゴリ・オトク収容所に連行された。その際の粛清プロセスは徹底しており、最も近い親族でさえ、連れ去られた人々の消息を知る術が全くなかったのである。

こうして「祖国の裏切り者」とされた人々は、アドリア海に面する港町バカールに集められ、そこから船でゴリ・オトク島(4.7キロ平方キロ)に移送された。島内には4カ所に収監施設が設けられていたが、衛生状態は劣悪で施設と呼ぶには程遠い状態だった。

Goli Otok/Map
Goli Otok/Map

ゴリ・オトク島は、夏はうだるように暑く冬は凍てつく過酷な気候で知られている。収監者は、島内の採石場で、「裏切り者」という看守の罵声や暴力に晒されながら労働を強いられた。時には、看守の指示で、収監者同士殴り合うよう強制されることもあった。

またここでは、1日に割り当てられる食料がわずかな水と粗末なパンに限られていたため、収監者は常に飢えと渇きに苦しんだ。

最近公開された収監者名簿によると、この強制労働収容所が開設された1949年から最後の収監者がユーゴスラヴィア本土各地の一般刑務所に移送された1956年までの間に、腸チフスや心臓疾患の放置などの病気や自殺により413人が獄中で死亡している。

ゴリ・オトクに収監されたものは、生きて出所できても、その後長年に亘って政治的な権利をはく奪されたうえに、就労機会も奪われた。「裏切り者の家族」として秘密警察や近隣住民、友人からの差別に晒されてきた家族から、受け入れを拒絶されるものも少なくなかった。

収監者を肉親に持つ人々の証言によると、当時子どもたちは父親が長い「出張」に行っていると聞かされていた。また妻たちは収監されている夫たちから(本人の意思に関わらず)離婚を言い渡された。しかし中には、さらに過酷な要求を矯正されたケースもある。

「私は大学での職を保持するためには党会合で夫を公然と非難し、さらに、夫には今後一切娘を会わせないと公約しなければなりませんでした。当時私はこの政府の圧力に屈し、言われる通りのことをしました。娘は私のしたことを今でも許してくれません。」とラダ・B(88歳)は語った。

ゴリ・オトク強制労働収監所に関する事実が少しずつ明らかになってきたのは、チトー首相の死後にユーゴスラビア連邦が崩壊し、前共産党政権に関する秘密文書が出回るようになってからである。しかし、連邦の崩壊後まもなく血で血を洗うユーゴ内戦が相次いだために、その後の情報公開はしばらくの間、遅々として進まなかった。

クロアチア、セルビア、スロヴェニアがゴリ・オトクに収監された被害者に対する補償を進めるようになったのは、つい最近のことである。ゴリ・オトクに収監された人々の多くは無実の罪を着された人々で、共産主義者ですらないものも少なくなかった。

アサニン氏の調査によると、セルビアには現在、ゴリ・オトク強制労働収容所の生存者が約300人いる。彼らはセルビア政府法務省に対して、政治的復権と賠償請求を訴えている。

セルビア政府は、ゴリ・オトクでの収監1日あたり700ディナール(8.5ドル)を支払うことを元被収監者に約束し、これまでにゴリ・オトク収容所の生存者或いは直径相続人に5300万ディナール(640,000ドル)の賠償金を支払っている。

一方、ゴリ・オトクの囚人名簿が公開されて以来、元囚人の他にも犠牲となった人々に当時何が起こったのか真相を掘り起こす関係者からの匿名情報が俎上になるようになり、様々な反響を呼んでいる。

例えば、ベバと名乗る女性は「(公表された囚人名簿に)叔父の名前を見つけました。彼は政治について日頃からジョークを言っていたので、それが理由で収監されたのだと思います。」とコメントしている。またバネと名乗る男性は、「私の祖父は、特権的な共産党指導層向けの外交誌を、全ての人が読めるようにすべきだという考えを述べただけで収監所に送られたのです。」と記している。

旧ユーゴスラヴィア各地の人々が、ゴリ・オトク強制労働収監所で自分の親族の身に何が起こったのかについて情報を入手しようと、電子メールで盛んに情報交換を行っている。こうした犠牲者家族間の情報交換の中から、長年に亘る沈黙が破られ、いかにして無実の人々が一夜にして忽然と消え去り、ゴリ・オトク島に連行されたかについての当時の状況が明らかになってきている。

「当時ゴリ・オトクに連行されうる危険性は誰もが直面していました。理由は、他人より資産を持っている、噂の対象になった、誰かがある人の妻を我が物にしたいと企んだ等、あらゆるこじつけが罷り通ったのです。しかし当時はユーゴスラヴィアをソ連圏から離脱させ独自の路線を確立しようという、必要ならば非常手段をも必要とする非常事態下にあった時代なのです。当時、ユーゴスラヴィア国民は自国の指導者を信じるしかありませんでした。そうしなければ自分たちの将来がどうなるか、全く先行きが見えない時代だったのです。」とある元大学教授は当時を振り返った。

ゴリ・オトク島は、強制労働収監所が閉鎖された後は放置されたままとなっている。今日、この島を訪れるのは、時折、興味本位で収監所跡を見にくる観光客ぐらいである。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|UAE|ドバイ市、第5回「カーフリーデー」に向けて準備を整える

【ドバイWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)のドバイ市当局は61の政府・民間団体と協力して、2月19日の「第5回カーフリーデー」に向けた準備を整えている。

2月10日にデイラ地区の市庁舎で参画組織(エミレーツトランスポート、ドバイ赤新月社、ドバイ不動産グループ、アルセルカールグループ等)の代表列席のもとで記者会見を開いたフセイン・ナセル・ルータハ市長は、「当日、参加団体の職員は、メトロ(地下鉄)、バス、アブラ(水上タクシー)といった公共交通機関を利用して職場に通勤します。」と語った。

このイニシアチブは二酸化炭素排出の削減に貢献するとともに市民に対して地球温暖化問題とその対処策についての認識を広めることを目的としている。

ルータハ市長は、「このイニシアチブは、環境保全とドバイの渋滞緩和に資する公共輸送機関を積極的に活用する文化を育んでいくうえで、ドバイ市関連部署と民間参加団体の間の連携を強化していくことになるだろう。」と語った。

ルータハ市長はまた、交通渋滞の原因となっている増え続ける自動車台数を減らすために、一人あたりが所有できる車両台数の制限や車両所有資格の見直し、公共輸送機関の拡充、駐車料金や自動車保険料の値上げなど、必要な措置を講ずるよう関係当局に要請した。

ドバイ市のムハンマド・アル・ヌーリ企業マーケティング部長は、「『カーフリーデー』の試みは2010年に初めて実施し、その際には1000台の自動車が参加して3トンの二酸化排出量削減に貢献しました。2011年には国土庁、商工会議所、エティサラートが新たに参画し、参加台数が2400台、二酸化炭素排出削減量も4.2トンに増えました。」と語った。

「さらに2012年には官民の参加機関が18団体に増加、参加台数は3500台、二酸化炭素排出削減量は10.5トンに上りました。」

「2013年には、27団体の職員約5000人が車を自宅に置いて公共交通機関で通勤し、一日で14トンの二酸化炭素排出量の削減に貢献しました。」

「今年の『カーフリーデー』には、合計7000台が参加して、20トンの二酸化炭素排出削減を達成することを目指しています。そして将来的には、全ての政府機関並びに民間企業の参画を得て『カーフリーデー』を開催したいと考えています。」とヌーリ部長は語った。

「カーフリーデー」の当日はドバイ市当局及び参加企業の駐車場は終日閉鎖される予定。また、ドバイ市庁舎前の広大な駐車場では、様々な環境関連の展示会が開催される予定である。また会場では、参加団体の中から環境にやさしい優れた試みや、環境をテーマにしたコンクール優勝者に対する授賞式が実施される予定である。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【ドバイWAM】

ドバイイスラム問題・慈善活動庁(IACAD)は2月9日、ドバイ首長のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム副大統領兼首相が2013年5月に発表した「政府行政機能のスマート化計画」の一環として、「スマートモスク計画」の第一フェーズに着手した。

ジュメイラのシェイク・ムハンマド・ビン・ラシッドモスクのシステムを立ち上げたIACADのハマド・ビン・アルシャイバニ長官は、「礼拝者は、携帯スマートフォンやスマートタブレットのQRコードを利用して、モスクに関する情報サービスを年中無休24時間利用できるようになりました。」「第一フェーズでは、ここを含む9つのモスクをカバーする予定です。」と語った。

IACADのナセル・ムバラクIT部長は、このスマートサービスについて、「モスクへの礼拝者は、モスクの歴史と概要(建物の開館時間、見取り図、収容人数、モスクのカテゴリー等)についての情報を入手できます。またモスクへの寄付、提案・苦情等、モスクに対する働きかけもEサービスを通じて行うことができます。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【クファール・カラIPS=ピエール・クロシェンドラー】

ワディ(正式名:「ワディにかけられた橋」)小学校へようこそ。この学校はイスラエルにある「ユダヤ・アラブ教育センター」が始めた「手に手を取って」プロジェクトによって設立された5つの「2民族・2言語学校」のひとつである。

「ユダヤ・アラブ教育センター」では、生徒たちが将来、分断されているユダヤ系及びアラブ系コミュニティーの懸け橋となる人材へと成長することを願って、両コミュニティーから子供たちを受入れ、ヘブライ語とアラビア語によるバイリンガル教育を実施している。

イスラエルには約3000の小学校があるが、殆どがユダヤ系或いはアラブ系の子どものみを対象としたもので、両民族の子どもが共に学んでいるのはわずか7校しかない。

中でも、ワディ小学校はユニークな位置を占めている。というのも、この学校は唯一他の2民族学校と異なり、アラブ系住民が圧倒的多数を占める町(クファール・カラ:イスラエル北部ハイファ南東35キロに位置する人口15,300人の村)に設立されているからである。この学校ではむしろアラブ系の子どもたちがユダヤ系の子どもを迎える形になっている。

ハッサン・アグバリア校長は「ここは(アラブ系が多数を占めるコミュニティーですが)アラブ系の学校ではありません。地元では変わった存在です。」と指摘したうえで、「当校では、『他人を受け入れよう』、『他人に平等な権利を与えよう』、『他人と共に歩んでいこう』、『少なくとも学校においては、互いを知り、共同で生活することによって、平和は達成できる。』というスローガンを提唱しています。」と語った。

主流派のユダヤ人が少数派アラブ人に属するパレスチナ人と紛争関係にあるイスラエルにおいて、両者の子弟が共に学ぶ学校が、しかも、アラブコミュニティーの中に存在しているのは、極めて珍しい。今日、イスラエルの人口の5人に1人がアラブ系イスラエル人である。

イスラエル政府は独立宣言の中で、「民族、信条、性別に関わらず、全ての市民に対して、社会的・政治的平等を保障する。」としている。

しかし実際には長びく紛争の中で、アラブ系イスラエル人には、ユダヤ国家を自認する政府から、常に国家に対する忠誠心を疑われ、宗教や政治信条に基づく不当な扱いや差別に晒されてきたという複雑な感情がある。

「ここ(ワディ小学校)では、子どもたちの目に入るのはユダヤ人でもアラブ人でもなく、同じ人間なのです。」とユダヤ系コミュニティーであるカジール村出身のウリ・レフノール氏は語った。

学校の壁には、「(世界を変えるためには)まず自分たちに変化を起こさなければならない。」というマハトマ・ガンジーの言葉が、ヘブライ語とアラビア語両方で掲げられていた。民族対立が続く厳しい環境にもかかわらず、あえて自らの子どもをこの学校に送り出した親たちこそ、まさに既存の秩序からの変化を呼びかけたガンジーのこの言葉に応えた人達といえるだろう。

「私たちは誰かが変化を起こすのを待っていてはいけないのだと思います。」とカジール村出身のオフリ・サデー氏は語った。

(ワディ小学校がある)ガラリア地方では約20,000人のユダヤ系住民に対してアラブ系イスラエル市民が人口の大半(約150,000人)を占めている。

全校生徒238人の内、現在アラブ系の生徒は約60%を占めている。全ての教室でアラビア語とヘブライ語による2か国語教育が実施できるように、各教室にはアラブ系とユダヤ系の教師が一人ずつ配置されている。

しかし掲げられている崇高な理念はさておき、学校関係者はイスラエル社会が抱える複雑で厳しい現実に直面しながら、学校運営を切り盛りしている。また、この学校に子どもを送り出した両親の動機や期待も各々の民族が置かれている状況を反映して様々である。例えば、ユダヤ人の親たちは子どもたちを通じて、イスラエル社会に平和と調和がもたらされるという長年の夢が実現することを漠然と期待している。

「私たちの子どもにとって、この学校での経験は私自身や夫にとって重要な価値観を身に着ける機会なのです。子どもたちには私たちよりもより良い人間になってほしいのです。」と、カジール村出身の3人の子どもの母親でワディ小学校に隣接した幼稚園に勤務しているノガ・シトリット氏は語った。

一方、アラブ系の親たちも、子どもたちをここに通わせることで、アラブ系イスラエル人にもユダヤ人と同様にイスラエル社会で立身出世する機会が与えられるようになるのではないかという漠然とした期待を抱いている。「ここ(ワディ小学校)は最高の学校です!」と地元カフル・カラ在住のクファール・カラ氏は語った。

記者が取材に訪問した際、2年生の生徒たちは、故ネルソン・マンデラ元南アフリカ共和国大統領への敬意を込めて、同氏が残した「教育は、世界を変えるために私たちが使える最強の武器だ。」という言葉について学習していた。以下に授業でのやりとりを紹介する。

まず一人の教師が「人間は、肌の色、言葉、性別、ユダヤ人かアラブ人かというアイデンティティで人を差別します。」とヘブライ語で語りかけた。

すると「マンデラ氏はこの点について、『私たちは違っている。しかし平等だ。』と言っているのです。」と別の教師がアラビア語で割って入った。さらにこの教師はマンデラ氏と米公民権運動の指導者マーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を混同しつつ「彼には夢がありました。それはどんな夢でしょう?」と生徒に尋ねた。

するとある生徒が「平和な世の中になることです。」と答えた。またある生徒は、「戦争を止めることです。」と答えた。アラブ人とユダヤ人からなるクラスの生徒たちは、まさに親たちの抱いている夢と同じ夢を見ているのだ。

さらに教師が「ユダヤ人とアラブ人は……」と問いかけると、生徒たちが声をそろえて「違っている!」と答える。すると教師がすかさず「違っている。でも平等」と訂正していた。

「私たちは平和の糸が、子どもたちの人生という布地に紡がれていくように、学校の授業を通じて、子どもたちにこうした教育的価値観を教え込んでいます。今では、子どもたちは、(従来の固定観念に縛られない)新たな考え方を意識するようになっており、時にはこのことで困難な状況に巻き込まれることもありますが、勇気を振り絞って自らの主張を述べています。」と副校長のマーシャ・クラスニツキ―氏は語った。

ワディ小学校では、先生たちの指導の下、アラブ系及びユダヤ人の子ども達が、遊びを通じて、お互いの祝祭日について楽しく学んでいる。

しかし「ホロコースト記念日」や「戦没者記念日」といったユダヤ国家として全国的な追悼記念日になると、昔からの対立感情が頭をもたげてくるのが現実である。例えば1948年のイスラエル建国は、パレスチナ側から見ると、民族にとってのナクバ(大災厄)と呼ばれているものにほかならなかった。ワディ小学校では、先生らが生徒たちに、こうした歴史的出来事の記憶に煩わされない共通の経験を持たせようと努力している。

「ここは、イスラエル社会のための実験室に他なりません。私たちはイスラエルが60年以上に亘って取り組んできた諸問題への回答を提供しようとしているのです。少しずつですが、私たちは、ここイスラエルで、ユダヤ人とアラブ人が各々のアイデンティティを明らかにしても恐れることなく過ごしていけるビジョンに一歩ずつ近づきつつあります。」とアグバリア校長は語った。

ちなみに子どもたちの間で日常話されている言語は、圧倒的にヘブライ語である。アラビア語も建前上はヘブライ語と並んで第一公用語とされ、学校では教科書にも両言語が使用され学習の対象となっているが、実際には日常生活のあらゆる面において、ヘブライ語が圧倒的に優越し、アラビア語では生活できないようになっている。また一旦学校を離れれば、アラビア語は敵性言語として捉えられていることが少なくないのが今日のイスラエルの現状である。

暫くすると突然雨が降ってきたため、生徒たちは校庭の隅の小さな軒下に駆け寄り、互いに身を寄せ合った。こうして仲良く遊ぶ子ども達の姿は一様に同じで、そこにユダヤ人とアラブ人の違いを見出すことはできなかった。今年で、2民族・2言語学校「ワディ小学校」が設立されて10年が経過した。(学校をとりまく厳しい社会環境を考えれば)それだけでも祝福するに値するのではないだろうか。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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トウモロコシより麻薬を栽培するメキシコの小農

【メキシコシティIPS=エミリオ・ゴドイ】

北米自由貿易協定NAFTA)が20年の節目を迎える中、メキシコでは、最重要農産品であるトウモロコシの価格低下のために、マリファナやケシの実栽培に乗り換える農家が続々と出てきている。

1994年1月にカナダ、米国、メキシコの間でNAFTAが発効して以来、トウモロコシやその他の農産品の価格は下落して小農の収入に打撃を与えた。彼らは麻薬密輸マフィアの餌食となった。

「貧農がいて、価格が下がり、生産性が低いところでこうしたことが起こっています。彼らは、麻薬密輸グループに金融や借地を依存するしかないのです。」と語るのは、メキシコ北部チワワ州の「農民民主主義戦線」アドバイザーであるビクトル・キンタナ氏だ。

キンタナ氏はIPSの取材に対して、チワワ州と近接するソノラ州の先住民ピマ族の問題について語った。同氏によれば、彼らは、需要の高い米国市場への流通ルートをめぐって暴力沙汰を繰り返している麻薬密輸カルテルに対して、原料提供者になってしまったという。

「ピマ族の間に麻薬栽培は広がるプロセスは1980年代に始まりましたが、2006年以来、シナロアフアレスの両麻薬カルテルが浸透してきてからさらに広がりました。」と、国境地域をめぐる2つの麻薬マフィアの対立について語った。

トウモロコシはメキシコではとくに象徴的な存在であり、その起源を示すものとみなされている。現在59の原種に209の派生種があり、メキシコ国民の食糧事情にとって不可欠の要素である。

農務省と生産者組合によると、メキシコは毎年2200万トンのトウモロコシを産出しているが、需要を満たすためにさらに1000万トンの輸入を行っているという。

約300万の農家が約800万ヘクタールでトウモロコシを栽培している。そのうち3分の2は、農家の消費だけの目的で栽培されている。

ニューヨーク大学政治学部の研究者オマール・ガルシア・ポンセ氏はIPSの取材に対して、「トウモロコシ栽培地の自治体(州の下部組織)の経済悪化は、麻薬栽培と強く関連しています。」と語った。

ポンセ氏の見方では、トウモロコシ栽培による収入減少は、メキシコが世界有数のマリファナ、ケシ栽培の国になってしまった原因であるという。

ニューヨーク大学のガルシア・ポンセ、オインドリラ・ドゥーブ、ケビン・トムの3氏は2013年8月、『トウモロコシ(maize)から意識の混濁(haze)へ:農業への衝撃とメキシコ麻薬セクターの成長』と題する研究報告書を出した。トウモロコシ価格の低下が、トウモロコシ栽培にもっとも気候的に適した地域での違法作物の栽培を増加させている、としている。

著者らは、2200以上の地域に関して、1990~2010年の生産、農業雇用、収入のデータを分析した。また、トウモロコシ価格の麻薬栽培に与える影響を測定し、拡大し続ける麻薬セクターの暴力的な結果について指摘した。

調査では、NAFTAがトウモロコシ貿易の自由化を余儀なくさせ、輸入割り当てを拡大して関税を押し下げると同時に、メキシコにおけるトウモロコシ価格の急落を招いた、としている。

トウモロコシ価格は1990年から2005年までの間に59%下落し、農家の収入は25%減少した。

と同時に、トウモロコシ栽培に適した地域での麻薬関連の殺人は平均で62%増えたと報告書は指摘している。

2007年に始まった世界食料価格危機の結果、2008年までにトウモロコシ価格は8%上昇し、トウモロコシ栽培に適した地域での麻薬関連殺人は12%減った。

この期間、トウモロコシ非栽培地域と比較して、麻薬押収量は16%増え、麻薬関連作物を根絶した農地の面積も8%増加した。

メキシコ原産トウモロコシの生産は、遺伝子組み換えトウモロコシの商業的生産の認可という脅威によって危機にさらされている。

「(低下する)トウモロコシ価格は、メキシコにおける麻薬貿易の急拡大につながっている」と調査報告は指摘している。この調査は、メキシコにおける麻薬密輸の拡大において農村の収入激減が果たす役割について指摘した初めてのものである。

調査では、代替作物の存在するシナロア、ゲレーロ、ミチョアカン、チアパス、オアハカ、タマウリタス、ユカタン、カンペチェの各州について検討している。麻薬作物の根絶は、シエラマドレ山脈の西側・南側と、近接する沿岸地域に集中している。

防衛省(SEDENA)の統計によると、マリファナを根絶した農地の面積は1990年の5400ヘクタールから2003年には3万4000ヘクタールに増えた。しかしその後は減少に転じ、2010年の数値は1万7900万ヘクタールであった。

保守的なフェリペ・カルデロン大統領の6年に亘った任期(2006年12月から2012年11月)の間、国軍が9万8354ヘクタールの麻薬栽培地を破壊した。また、エンリケ・ペニャ・ニエト大統領の任期1年目にあたる2013年には、5096ヘクタールが破壊された。

ケシ栽培の根絶は1990年の5950ヘクタールに始まり、2005年には2万200ヘクタールに増え、2010年に1万5331ヘクタールに減った。2006年12月から2012年11月の間に、国軍が8万6428ヘクタールを破壊した。

2013年には、1万4419ヘクタールが根絶された。

違法作物の話題はトウモロコシ栽培地帯ではタブーになっている。農家が畑で密かに麻薬を栽培しているとのうわさは広がっているが、誰も自分が関係あると正面切って認めようとはしない。

「ある生産者が麻薬を栽培していると聞くことはあるが、人びとは恐れをなしてそのことを口にしようとしない」とハリスコゲレーロ両州の農民たちは、匿名を条件にIPSの取材に応じて語った。

2011年以来、メキシコのメディアと司法省は、少なくとも2人の小農が中部プエブラ・ゲレーロ両州で麻薬を栽培したとして逮捕されたと発表している。

ペニャ・ニエト大統領は、260億ドルの予算と、2014年に農村地帯で「大規模な改革」を行うと発表している。しかし、これらの措置が小農の状況を変えるかどうかについて専門家は懐疑的だ。

「もし政府が一部の州に集中し、資源分配の構造を変えないならば、農村地帯の状況、とりわけ麻薬栽培をめぐる状況に変わりはないだろう」とキンタナ氏は語った。

他方で、「もし遊休地が耕作され、生産性が上がり、貧しい先住民の小農に技術支援がなされるならば、問題は解決に向かうかもしれない。」とキンタナ氏は語った。同氏は、NAFTAによる対農村生産支援解体の影響を減ずるために、トウモロコシの最低保証価格を主唱している。

ガルシア・ポンセ氏は、「もっとも脆弱な農民の支援にさらに力を入れること」を提案している。「農村の状況と、違法作物の栽培へと農民の目を向けさせるインセンティブの問題は、公的政策によって無視されている」。

また先述の研究は、トウモロコシ価格の低落によって、麻薬カルテルがある地方に登場する可能性が5%上昇している、と結論づけている。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【アブダビWAM】

パキスタンのサラ・イムランちゃん(7歳)は、アラブ首長国連邦(UAE)のメイク・ア・ウィッシュ財団の計らいで、一日お姫様になりたいという夢が叶えられることになった。

アブダビ・グランドカナルにあるリッツ・カールトンホテルに到着したサラ姫は、多くの学生やホテル従業員の温かい歓迎を受けた。

THE RITZ-CARLTON ABU DHABI, GRAND CANAL
THE RITZ-CARLTON ABU DHABI, GRAND CANAL

サラちゃんは白血病を患っており、現在アル・アインのタワン病院で治療を受けている。今回の計らいに対してサラちゃんの母親は、メイク・ア・ウィッシュ財団に感謝の気持ちを伝えた。

同財団は、命に係わる病状で苦しんでいる子供たちに希望と元気と喜びに溢れた人間らしい経験を深めてもらおうと、子どもたちの夢を叶える活動を展開している。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【トロントIPS=ポール・ワインバーグ】

カナダの保守政権が先住民族との関係において直面している難題の多くが、カナダ建国の父とされるジョン・A・マクドナルド卿・初代首相の生誕200周年(1月11日)に予定されているイベントにおいて前面に出てくることになるかもしれない。

無党派・非営利の「生誕200周年記念委員会」(カナダ政府が100万ドル、民間ドナーから30万ドルの寄付によって成り立っている)が組織するイベントでは、教養のある政治家で演説の名手、ユーモアの提供者であり、ばらばらだった英領北米植民地を1867年に北米大陸を跨る「カナダ連邦自治領」へと最終的に作り上げた政治家としてのマクドナルド卿の足跡に重点が置かれることになっている。

cropped image of John A. Macdonald, Prime Minister of Canada, ca. 1875 by George Lancefield
cropped image of John A. Macdonald, Prime Minister of Canada, ca. 1875 by George Lancefield

同記念委員会のアーサー・ミルンズ広報官は、「マクドナルド卿が下した判断や個人の人格(例えば、彼はよくアルコール依存症の人物として語られ、冗談の種にもなっている)について「取繕う」つもりはありません。」と指摘したうえで、「自国の歴史に疎いとされるカナダ国民が、建国の父について語り合う契機にしたいと考えています。」と語った。

またミルンズ広報官は、「いくつかの点で、私たちはマクドナルド卿が先住民族を対象に行った政策の後遺症と未だに取り組んでいる」ことを認めた。

しかしミルンズ氏は、スティーブン・ハーパー政権がマクドナルド卿生誕200周年に際して打ち出そうとしている、同氏に関する政府解釈についてはコメントを避けた。

今日、カナダ西部のファースト・ネーションズ(カナダの先住民族のうち、イヌイットもしくはメティス以外の民族)の部族の一部が、オイルサンドエネルギー計画とパイプラインの建設に反対している。ハーパー政権が、英国王(ジョージ3世)名で出された「1763年宣言」に始まる条約の下で憲法上必要とされている先住民族との協議と和解の手続きを怠ったのが原因だった。

またハーパー政権は、マクドナルド卿が(先住民の「野蛮さ」を矯正するためとして)キリスト教会が運営する寄宿学校を設置した1876年から、それが公式に閉鎖された1996年までの間に、強制的に通わされた約10万人の先住民族の子どもが蒙った身体的・性的暴力の確実な事例に関する完全な文書を、裁判所が主導する調査委員会に提供することを拒否している。

歴史家のジェイムズ・ダシューク氏は、今日のカナダにおいて先住民の人びとが直面している諸問題(貧困、高い肥満率、乏しい栄養、短い平均余命、守られない条約、とりわけカナダ北西部に関する1876年の諸条約)は、マクドナルド政権にまでさかのぼることができると主張している。1867年から1891年の期間の大部分、マクドナルド卿が首相(第1代及び第3代)と先住民問題相(Minister of Indian Affairs)を兼任していた。

ダシューク氏は、新しい学術書『平原を浄化するー疾病、飢餓政策と先住民人口の喪失』の著者である。同書は、1600年代のヨーロッパ人との最初の接触に始まって、一部の先住民部族の絶滅につながった、カナダ北西部における天然痘、インフルエンザ、結核などの感染症の拡大について記述している。

Pupils at en:Carlisle Indian Industrial School, en:Pennsylvania (c. 1900). Source: Frontier Forts/ Public Domain
Pupils at en:Carlisle Indian Industrial School, en:Pennsylvania (c. 1900). Source: Frontier Forts/ Public Domain

「マクドナルド首相が先住民族に対して行った『飢餓政策』に注目すべきとしたダシューク氏の呼びかけは、従来政治的にタブーとされてきた領域に踏み込んだものです。」と匿名を希望したダシューク氏の別の同僚が指摘した。カナダ政府は1876年の諸条約により、先住民に対して飢饉の際には食料供給を保証するとしていたにもかかわらず、マクドナルド首相は、レジャイナから西部平原との境界に接するアルバータに到る地域で、(先住民が衣食住の柱としていたバッファローの消滅に伴い)困窮し栄養不良に苦しむ先住民に対して配給をあえて差し止める決定を下した。これは、先住民らを伝統的な土地から特定の保留地へと追い出し、そのあとに白人による植民と、国土を横断するカナダ太平洋鉄道の建設に道筋をつけることが目的だった。

「マクドナルド卿が国を建設したことは否定しえませんが、彼のようなやり方で国を作ったことの付随的被害は、カナダの先住民族との関係における遺産だと言えるのです。」とダシューク氏は語った。

ダシューク氏は、カナダの歴史のあまり知られていない側面を調べるという困難な取り組みを行わず、「理論」と「脱構築」にばかり注目している「自己言及的」な自らの歴史学界のあり方についても、容赦ない批判を浴びせている。

「私たちはカナダ国民として、国家が私たちに代わって何をしたのかということに関するこの種の議論を行ってきていません。カナダ国民は自らの歴史について、とりわけ歴史の醜悪な部分について知らないのです。」と、レジャイナ大学准教授のダシューク氏は語った。

マクドナルド卿は、首相として多くの任務を背負っていたにも関わらず、なぜ先住民族問題にもわざわざ取り組んだのだろうか。当時彼が直面していた問題はとりわけ、カナダ太平洋鉄道敷設に関する収賄疑惑や、英語圏でプロテスタント系のオンタリオと仏語圏でカトリック系のケベックに分断されていながら、依然として大英帝国との関連を持っていたこの新しい国を統合しつづけるという課題であった。

さらに彼の軍隊は、メティ(様々な先住民族とヨーロッパ人の混血)が、政府が土地提供の約束を順守しなかったとして北西部で起こした2回の蜂起(レッドリヴァーの反乱、ノースウェストの反乱)を鎮圧した。この問題は、マニトバ州のメティ側の主張の一部を認め当時の政府側の問題点を指摘した2013年のカナダ最高裁判決のテーマである。

 Métis and First Nations prisoners following the North-West Rebellion, August, 1885. / Public Domain
Métis and First Nations prisoners following the North-West Rebellion, August, 1885. / Public Domain

レジャイナにあるファースト・ネーションズ大学の歴史家で、サスカチュワン州の「マスコウペタン・ソールトゥー・ファースト・ネーションズ」のメンバーでもあるブレア・ストーンチャイルド氏は、「伝統的な先住民の文化を、寄宿学校を通じて消去していったマクドナルド卿の政策は、『文化的大虐殺(Cultural Genocide)』に等しいものでした。」と指摘したうえで、「しかし、(先住民とはじめとする有色人種に対する)白色人種の優越という社会ダーウィニズム的な発想が広く共有されていた19世紀のカナダあるいは世界という文脈から、マクドナルド卿だけを取り出して(現在の価値観を適用して)考えることは適切ではありません。」と語った。

またストーンチャイルド氏は、「明らかに、(マクドナルド卿は)カナダの創始者であり、物事に熱心に取り組む献身的な人物でした。これらは彼の優れた点でした。しかし、彼もまた時代の申し子であり、先住民のことを白人と平等あるいは先進的な存在だとはみなしていませんでした。それどころか、基本的に同化が必要な劣った存在だと捉えていたのです。」と指摘したうえで、「カナダ大平原における先住民人口の縮小(1880年代にはわずか2万人になっていた)は、弱い民族は消える運命にあるという当時の人種主義的な理論に合致しているようにも見えます。」と語った。

ライアソン大学教授で歴史家のパトリス・ドゥティル氏は、現在新作の著書のためにマクドナルド卿に関する学術論文を集めている。ドゥティル氏は、「カナダの初代首相に関して『明瞭な結論』を導くことには気が進みません。」と語った。

ドゥティル氏の説明によれば、マクドナルド卿は、政府が市民のための政策をほとんど実施せず、一方で政治家が道路や運河、鉄道、港湾などの建設に力の大半を傾けていた19世紀の野蛮な「レッセフェール(自由放任主義)」の時代を駆け抜けた人物であるという。

「労働者は悲惨な条件で働き、女性は殴られ、孤児は搾取され、先住民族は飢餓に追い込まれ、労働者は死ぬまで働かされ、カトリック教徒はしばしば貶され、ユダヤ教徒は非難された。それが当時の『カナダ』という国の現実でした。」とドゥティル氏は語った。

一方でドゥティル氏は、「カナダ政府の先住民族に対する扱いについて問題があったことは否めません。しかしカナダ政府は、米国と同様に領土を北米大陸の西方に拡大していきましたが、戦争を通じて先住民を「殲滅(せんめつ)」しようとした米国政府ほどの極端な政策(エイブラハム・リンカーン大統領が推進したミネソタ州のスー族皆殺し政策等)はとりませんでした。」と指摘した。

This painting shows "Manifest Destiny" (the belief that the United States should expand from the Atlantic to the Pacific Ocean). This popular scene of people moving west captured the view of Americans at the time. Called "Spirit of the Frontier" and widely distributed as an engraving portrayed settlers moving west, guided and protected by Columbia (who represents America and is dressed in a Roman toga to represent classical republicanism) and aided by technology (railways, telegraph), driving Native Americans and bison into obscurity. The technology shown in the picture is used to represent the outburst of innovation and invention of modern technology. It is also important to note that Columbia is bringing the "light" as witnessed on the eastern side of the paintings she travels towards the "darkened" west./ Public Domain
This painting shows “Manifest Destiny” (the belief that the United States should expand from the Atlantic to the Pacific Ocean)./ Public Domain

さらに、カルガリー大学名誉教授で先住民族の歴史が専門のドナルド・スミス氏は、「マクドナルド卿についていかなる結論を下す前に、彼が行った対先住民政策の全容を解明する歴史家によるさらなる研究が必要です。」と語った。

例えばマクドナルド卿は、カナダ東部において資産を保有する先住民の成人男子に対して、条約上の地位を失わせることなく連邦選挙への参政権を与えることに賛成していたという。

「このトピックは極めて難しいものです。なぜなら、(1867年前後の)カナダ西部だけではなく、中部および東部におけるマクドナルド卿の対先住民政策の検討が必要とされるからです。現在の価値基準ではなく、マクドナルド卿が生きた時代の基準で判断すれば、彼は複雑だが比較的寛容な人物として浮かび上がってくるのです。」

ところで、カナダにおける先住民の人びと、あるいは保留地に居住しているいわゆる「条約認定インディアン」は、1960年まで参政権を持った完全なカナダ市民とはならなかった。

ジェイムズ・ダシューク氏は、「マクドナルド卿生誕200周年や、カナダの米英戦争(1812年)や第一次世界大戦(1914年~18年)への関与についての来たる記念日に際して、ハーパー政権が『好戦愛国的』で『自民族中心的』な解釈をいかにして押し出そうとしているのか、ということがおそらく問題になるでしょう。」と指摘した。

ハーパー首相自身は、1月11日のマクドナルド卿の199回目の誕生日に際して、彼の功績を公式ウェブサイトに挙げている。「カナダ太平洋鉄道の完成、北西騎馬警察の創設(のちに王立カナダ騎馬警察)、(メティによる)ノースウェストの反乱の鎮圧」がその内容で、その背景にあったカナダ先住民やメティの悲劇的な裏の歴史については言及していない。

民族の語りを研究しているクィーンズ大学の歴史家ブライアン・オズボーン氏は、現首相はカナダの創始者に「保守的な」顔を与えようとしている、と見ている。「ハーパー首相は、ジョンAマクドナルド卿に関して党派的な政治的見方をとっています。なぜなら、マクドナルド卿は(ハーバー現首相と同じ)保守党の党首でもあったからです。」とオズボーン氏は語った。(原文へ

翻訳=INPS Japan

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