ホーム ブログ ページ 241

米国の覇権を脅かす厳しい試練

0

【ブリュッセルIDN=ジャヤ・ラマチャンドラン】

2001年9月11日に旅客機が世界貿易センタービルに激突したとき、マシュー・グッドウィン氏はデトロイトの教室でベトナム戦争についての講義を受けていた。

現在は英国の名門シンクタンク英王立国際問題研究所(チャタムハウス)のアソシエイトフェローを勤めているグッドウィン氏は当時を振り返って、「窓の外を見ると、車が道路の真ん中にラジオをつけたまま止まっており、事態の進展を把握しようと多くのアメリカ市民が車を取り囲んでラジオに聞き入っていました。それはまるで映画の一シーンのようでした。しかし、9・11同時多発テロ事件(=9.11事件)の影響は米国国内にとどまらなかったのです。」と語った。

 9・11事件は、概ね国際関係に及ぼした影響(新たな同盟の構築、『テロとの戦い』、対アフガニスタン戦争、イラク進攻を正当化する理由)から語られることが多いが、グッドウィン博士は、同事件の影響は各国の国内政治の分野、とりわけ主に次の3つの現象となって表れたと指摘している。

-西側民主主義国家の市民は以前よりも安全保障問題に関心を持つようになった。

-各国の政党政治が影響を受けた。9・11事件前から欧州各国の極右政党は、移民問題、(差別撤廃による)人種統合政策、法と秩序の問題を巡る一般市民の不安に焦点をあてて支持層を拡大していたが、事件によってさらなる勢いを得た。

-公共政策が影響を受けた。9・11事件を契機に欧州各国の政府は、暴力的な過激思想の防止やムスリムコミュニティー内の過激化傾向にいかに対処するかについて一層真剣に考えざるを得なくなった。

「しかし事件から10年が経過したが、私たちはあらゆる形態の暴力的な過激思想がなぜ人々を引きつけるのか、その正確な原因を理解するにはまだ程遠い位置にいます。おそらくその原因について説得力のある説明ができるようになるには少なくともさらに10年の年月が必要なのかもしれません。」とグッドウィン氏は付加えた。

ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスのマイケル・コックス教授は、「米国がテロリストの攻撃を受けた時…米国の世界における地位は圧倒的で全く脅かすことすら不可能に思えたものでした…しかし10年が経過し、米国の自信は揺らぎ当時とは全体的に異なった国になってしまいました。中国が興隆し多額の米国債務の買い取るまでになっている中で、かつてのように確信をもって米国の覇権について語るものはほとんどいません。」と語った。
 
コックス教授は、チャタムハウスの月刊誌「The World Today」に寄稿したレポートの中で、「ソ連との冷戦に勝利し、建国以来200余りの歴史の中で最も繁栄した10年を謳歌してきた米国は、21世紀を迎えた時、国際関係において各種難題に直面していることは認識していたものの、自国にとって深刻な脅威になるものはないと過信していた。」と記している。

「事実、21世紀初頭においてはこうした楽観論が圧倒的に世論の大勢を占めていたため、冷戦終焉前夜にポール・ケネディ教授のような有識者が米国の衰退は長期的には不可避だと熱心に論じて米国世論が先行きを不安視した一時期があったことさえ思い出すものはほとんどいなかった。ケネディ教授は、(1987年に発表した『大国の興亡』の中で)米国ほどの巨額の財政・貿易赤字を抱え、同時に海外に安全保障上の責任負担を抱えている国が、そのまま世界の覇権を維持しつづけることは不可能であり、地位低下は避けられない、と結論付けた。」

しかしこうした米国衰退論は、ジョージ・W・ブッシュ大統領が2000年にクリントン大統領から政権を引き継いだ時点では、『奇異』に映ったし、事実、9・11事件後の報復措置として米国が莫大な資源を動員し始めた際には、『現実離れしたもの』として受け止められた。

コックス教授は当時の米国の軍事覇権の状況について、「当初評論家たちの反応は、(米国の軍事力が世界を圧倒している現状に)深く感銘しているようであった。あの著名な『衰退論者』であるポール・ケネディ氏でさえ、2002年に発表した論文『舞い降りた鷲』の中で、米国は単なる超大国にとどまらず、一国がこれほど圧倒的な力の優位を持ったことは歴史上類例を見ない、と米国の抜きんでた軍事力の怪物ぶりを驚嘆とともに熱心に描写していた。」と記している。

「当時は、左は批判的なヨーロッパ人から右は米国のネオコンに至るまで、『米国は過去の帝国と同じ道を辿るだろう。ただし1つ明らかな違いは、ポトマック河畔の新ローマ帝国(米国)の場合、衰退はまだ先のことで、繁栄は今後も100年は続くだろう。』という考えに反対するものはほとんどいなかったように思われる。」

もし私たちが9・11事件以来、世界がいかに変貌したかについて十分に理解しようとするならば、コックス教授がいみじくも指摘しているように、このような10年前に米国社会を席巻していた楽観論を今日改めて振り返ってみる価値は十分あるであろう。21世紀初頭、アメリカ人は自信に満ち、政府はあたかも米国に不可能なことはないかのような態度で振る舞った。イラクに侵攻した際も、そうした行動が中東と世界における自らの立場にどのような深刻な影響を及ぼしかねないかということにほとんど注意を払うことさえしなかったそれから10年が経過し、今日の米国はかつての面影をとどめないほど大きく変貌してしまった。

米国が大きく変貌したことを示す明確な兆候は2008年のバラク・オバマ氏の大統領選出である。コックス教授はその背景には、アメリカ国民が、2003年にイラク戦争を引き起こし2007年にはさらに金融危機を招いた2期に亘る共和党政権を、もはや信用しなくなっていた点を指摘している。

「オバマ大統領が公約の全て実現してきたかどうかは、議論の余地のある問題だが、明らかなことは、彼の劇的な登場の背景には、国際社会における米国の立場を回復し再び経済恐慌に突入するのを回避するには、何か思い切った新しいものが必要と考える米国民の切実な危機意識があった。」

「しかし増え続けるアフガニスタン及びイラクにおける米兵の死傷者、こうした戦争を遂行するために要する膨大な経済負担、『テロとの戦争』遂行のために用いられた手段が米国の依って立つ信念そのものを危うくしかねないなどの現実に直面して、多くのアメリカ人は自尊心を傷つけられるとともに、米国の国際社会における役割についても、次第にその意義を見出せなくなってきている。」とコックス教授は記している。

「世界がもはや意図する方向に向かっていないとアメリカ人に自覚させたものは経済危機が米国の生活様式に及ぼした影響であった。2011年に実施された世論調査では自分の子ども達の世代は自らの世代より生活レベルが向上するだろうと考えていたアメリカ国民は全体の僅か4分の1に過ぎなかった。またアメリカ国民は、国際社会を席巻している変革は、身の回りで起こっている出来事に対処する能力を急速に阻害していると強く感じている。」とコックス教授は語った。

コックス教授は、「近年、次の世紀はアジアの世紀だとか、覇権の中心が西から東へ移動しているなどの議論が数多く行われてきたが、ゴールドマンサックスのジム・オニール氏のような経済学者が少し前に指摘しているように、米国が中東やアフガニスタンのタリバンに対して戦争を仕掛けている間に、いわゆるBRICS(ブラジル、ロシア、インド、中国)とよばれる新興諸国は、高い経済成長を実現した他、新たなパートナーシップを構築し、米国や欧州同盟諸国よりいち早く経済危機から抜け出すことに成功した。」と結論付けた。

一方ジェイソン・バーク氏は、異なった視点から、「9・11事件から10年が経過し、上層部の指導力、支部組織のネットワーク、幅広いイデオロギーのいずれについてもアルカイダによる脅威は弱まっている。」と主張している。

9月に出版された「The 9/11 Wars」の著者でガーディアンとザ・オブザーバーの南アジア特派員であるバーク氏は、アフガニスタンのカブール郊外に車で出かけ、タリバンによって多くの貴重な彫刻が破壊された博物館や同じく無残に破壊された旧王宮を通過し、轍のついた道伝いに進んでリシュコール村を訪れるようアドバイスしている。

「元アフガニスタン大統領(ムハンマド・ダーウード)の名前にちなんだ『ダーウードの庭』として知られる森林の中の空き地と小川を超えると古いアフガン軍の基地にたどり着く。10年前の2001年の夏、ここはパキスタン人及びアラブ人ボランティアに軍事基礎訓練を施しタリバンとともに戦うために新兵を前線に送り出す軍事拠点であった。またここは同時に、アルカイダが選別したテロリストに、都市攻撃の技術を指導する小規模の特別訓練施設が置かれた場所でもあった。」とバーク氏は記している。

現在、リシュコール村は、米軍特別部隊がアフガニスタン国軍特殊部隊に軍事訓練を施す場となっている。一方、『ダーウードの庭』は少なくとも週末にはピクニックに訪れる家族連れで賑わっている、とバーク氏は報告している。

バーク氏は、2011年5月にパキスタン北部のアボタバートで米特殊部隊がオサマ・ビンラディン(同地に最大6年間隠れていたとみられる)を殺害した事件は、「ビンラディンが率いてきた過激派組織を新たに発展させる契機となったのではなく、長年に亘る同組織の衰退傾向に終止符を打つ契機となった。」と確信している。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

関連記事:
|テロとの戦い|225,000人死亡でもアフガン、イラクに民主主義は根付かず
|米国|「腐ったリンゴ」は木の近くに落ちた

|視点|大震災後、日本の勤労精神と倫理は再生するか?(高村正彦衆議院議員・元外務大臣)

0

【東京IDN=高村正彦】

東日本大震災からまもない、悲惨な爪痕が未だ至る所で感じられた時期に、米国のローレンス・サマーズ前米国家経済会議(NEC)委員長が「日本は今後、坂道を転がり落ちるように貧しい国になっていくであろう」とコメントしたと聞きました。

サマーズ氏がどのような根拠でそのような結論に至ったのか分かりませんが、私は、そんなことは絶対にないと思います。日本は必ず、再び昇る太陽のように、この惨事から復活すると確信しています。

66年前、日本は第二次世界大戦で敗北しました。約300万人の方々が亡くなり、主要都市はほとんど焼け野原になりました。当時私は子供でしたが、「日本は四等国になったんだ」という話を聞かされたことを覚えています。しかし世界中の多くの人々が「日本はもうだめだろう」と思った中で、日本は立ち上がって、立派に復興を成し遂げました。

 日本という国はピンチに強いんだと思います。よくも悪くも、日本人というのは同じ方向に走り出す傾向があります。ピンチには最悪の状態から走り出すわけですから、みんな、いい方向へ走り出すのだと思います。

キリスト教なき資本主義
 
約100年前に、マックス・ウェーバーが、「資本主義というものは、資本の蓄積と技術革新があれば、それだけで成立するものではない。『資本主義の精神』というものが必要であり、それがないところで資本主義を実践しようとすれば、市場は単なる博打場になってしまうだろう。」と述べています。

「資本主義の精神」というのは何か。マックス・ウェーバーは、「それは『正直に勤勉に働くことが、神の御心に叶う』と説くプロテスタントの精神であり、こういう気持ちがまさに資本主義の精神である。」と述べています。

なぜ日本の場合、資本主義の精神(=プロテスタントの精神)がなくて、資本主義が成功したのかと言えば、日本には日本なりの資本主義の精神があったのだと思います。江戸時代(1603年~1867年)の初期に、日本では既に、「働くこと自体を尊きこと」とみなし、儲けを第一義としない「商人道」というものが成立していたと言われています。

日本は、「商人道」という「資本主義の精神」に相当する精神的背景を得て、キリスト教国以外で初めて資本主義を成功させ、敗戦から僅か23年で世界第2位の経済大国になることができたのです。

しかし、成功してしまうと、今度は日本社会にある変化が起きました。いつの間にか、その「商人道」は薄れて、儲けそのものが目的になってしまったのです。当時批評家の中には、そうした日本の姿を例えて「モノで栄えて、心で滅ぶ国だ」と批判する人たちもいました。

儲けそのものが目的になると、人々は額に汗してモノをつくるよりも、お金を右から左に動かしたほうが手っ取り早いと考えるようになりました。その結果、本来、産業の僕(しもべ)であるべき金融が、産業を僕にしてしまったのです。

職業の道徳原理が「儲け」優先主義に取って代わられた事例として、「建築物の安全基準を無視して(経費がかかる)鉄筋を抜きとる耐震偽装問題」や、「商品の産地を偽って消費者に高く売りつけようとする産地偽装」があります。

そのような偽装事件が起これば、当局は規制を強めざるを得ません。すると市場に悪影響を及ぼし、資本主義が機能不全に陥ってしまいます。その結果、心で滅ぶと、モノだけでは繁栄を維持できなくなるのです。そして、近年そうした建築・産地偽装にまつわるスキャンダルがおこり、段々おかしくなってきたところに、大震災が日本を襲ったのです。

しかし、日本は必ずまた立ち上がります。世界中の人々は、大震災後、食物の奪い合いもおこらず、被災者が助け合いながら、秩序正しく活動していることに驚いています。中国や韓国でも「日本を見習うべきではないか」という声が出てきているのです。

懸念

ただし、だからといって今後の日本について心配がないわけではありません。「国民はいいが、政治がだめだ」ということです。「そう言うお前も政治家の端くれとして、今日の政治状況を招いた責任があるだろう。」と言われれば、全くそのとおりです。しかし、これをどうするかというのは、大きな問題だろうと思います。

菅直人前首相(8月26日に辞任)はかつて、「国務大臣になるということは、一般国民を代表して、官僚組織が悪いことをしないように見張るために大臣になるのだ。」と語ったことがあります。

今度の大震災についても、こうした政治問題が表面化しました。例えば、私は、外国の大使館の人と付き合う機会が多いのですが、大震災の直後の日本政府とのやり取りについて質問を受ける機会が度々ありました。つまり今回の大震災に際しても、各国の大使館は日本政府に支援の申し出をしたのです。彼らの話によれば、1995年に勃発した阪神大震災の際にも、同様の支援を申し出たのだが、当時の日本政府(当時は自民党が与党政権)は大体2・3日で各々の申し出に対する返事を返してきたと言うのです。

しかし今回は、申し出をしてから3・4週間経過しても(菅直人政権の)日本政府からなんの返事も帰ってこなかったと口々に不平を言うのです。当然ながら、彼らの批判の矛先は窓口となった官僚に向けられました。

そうすると、担当の官僚たちは、「支援の申し出は、全部リストにして上層部に上げているが、政治家から返事が返ってこない。」と弁明したそうです。そこで大使館員が、「単にリストを作成して上げるのではなくあなたたち官僚は専門家なのだから、優先順位を付けて上げれば、(政治家から)もっと早く回答が帰ってくるのではないか。」と提案したところ、「残念ながら、もしそんなことをしたら、政治家から『余計なことをするな』と怒られてしまいます。」と言っていたそうです。

また大震災/大津波のあと、深刻なロジスティックな問題が持ち上がりました。つまり被災地のガソリンスタンドにガソリンが届かないことから、車の使用が困難となり、被災者の方たちが食糧調達できない、あるいは他の地域から被災者に食糧を届けようと思っても届けられないという事態が起こっていました。従って、被災地のガソリンスタンドにどのようにしてガソリンを届けるかが、石油業界にとって大きな問題となりました。しかしほとんどの道路は瓦礫で寸断されタンクローリーが入れない状態でした。そこで検討した結果、小型車にドラム缶を積んで届ける以外に方策はないという結論に達したそうです。

石油業界の人たちはこの結論をもって総理官邸を訪問し、現行の法律では認められていないドラム缶によるガソリン輸送について非常時における特別措置として許可してもらいたいと訴えたそうです。しかし、総理官邸からの回答は、規則違反になるので許可できないというものでした。

その2・3日後、彼らはどうしても、それ以外に届ける術がないということで、再度総理官邸に赴き、今回は石油業界のある責任者の方が「事故が起こったら、私がすべて責任をとるからやらせてください。」と言って再度特別許可を求めたそうです。すると総理官邸の回答は一転しで、「そうか、あなたが責任をとるのか。それなら、やってくれ」と言われたそうです。

菅直人政権は震災後、復興に関係する会議を20もつくっています。しかし20もつくると、権限、役割分担の境が分かりにくくなってしまいます。中には、民間の委員が会議に入って、1時間半か2時間会議をやって、何も決まらないというケースも耳にしています。

広がる官僚的形式主義

菅政権と東京電力は共同で「統合対策本部」というものをつくりました。それで、(福島第一原発事故を収拾するための)工程表が完成すると、統合対策本部ができているにもかかわらず、東京電力が記者会見を開き、「その工程表は東京電力が作成した」と発表したのです。
 
 また「福島第一原発にたまっている放射能に汚染された水を浄化する装置をつくる」という発表をした際も、具体的に説明したのは東京電力の人でした。統合対策本部の事務局長である総理補佐官も同席していたので、私は彼が、「政府は東京電力と一緒に責任を負う」という話をすると思っていました。ところが、その総理補佐官は終始無言をとおし、記者会見の最後になって、「これは政府が強く迫って、東京電力にやらせたものです」とだけ発言したのです。つまり、それが成功すれば政府の手柄、失敗したら東京電力の責任、と言わんばかりの発表の仕方をして、本当にそれでいいのかと疑問に思いました。

さらにひどいのは、事故初期にとられたとされる原発への海水注入についての説明内容です。いまなお真実は藪の中ではっきりとしたことは分かりません。東京電力が海水を自ら注入していたが途中で作業を停止したという説明です。はたして海水注入の中断は菅総理の指示によるものだったのか、それとも菅総理の考えを東京電力の人が忖度(そんたく)して、現場に止めさせたのか、そこは、わかりません。

しかし「東京電力は海水を入れると廃炉になってしまうから、営利会社として入れるのをためらっていた。それを菅総理が強い指導力を発揮して、海水を入れさせた」という、政府が2カ月間流し続けていた情報が、全くデタラメだったということは、間違いない事実です。

福島第一原発事故が発生して以来、東京電力には多くの問題が持ち上がっていたことから、東京電力を悪役に据えることは容易だと思います。しかしだからといって政府がこのような発表をするのは間違っていると思います。政府と東京電力の関係とは、たとえ政府が、全ての問題の責任を東京電力のせいにしたとしても、東京電力は、それを「違います」と言えない関係なのです。(原文へ

翻訳=IPS Japan

高村正彦氏は、法務大臣(第70・71代)、防衛大臣(第3代)、外務大臣(第126代・140代)を歴任。本記事は、IPS Japanと尾崎行雄記念財団の共同プロジェクトの第一弾で、政経懇話会における高村氏の講演(5月26日開催)を元に作成したものである。
 
関連記事:
「人生の本舞台は常に将来に在り」―明日への希望(石田尊昭:尾崎行雄記念財団事務局長)
|日本|誇りと慎重さをもって(海部俊樹元総理大臣インタビュー)

ベルリン・ブランデンブルグ交通・物流協会を取材

0
Filmed by Katsuhiro Asagiri, Multimedia Director, President of IPS Japan.

2011年9月8日、東京都トラック協会(TTA)の代表団は、ラメシュ・ジャウラ国際協力評議会会長(IPSドイツ代表)の協力を得て、ドイツにある「ベルリン・ブランデンブルグ交通・物流協会(VVL:Verband Verkehr und Logistik Berlin und Brandenburge.V.)」を訪問し、ドイツ・ユーロ圏の物流事情のヒアリングと東ト協から『グリーン・エコプロジェクト』の取り組みを説明し、情報交換をおこなった。IPS Japanからは浅霧勝浩マルチメディアディレクターが代表団一行に同行取材し、ドキュメンタリーを制作した。

関連記事:

|日独交流150周年|日本の運送業界団体、エコプロジェクトのパートナーを求めてドイツへ

|輸送と環境|紙と鉛筆があればできるエコ・プロジェクト(遠藤啓二)

「第1回低炭素地球サミット」(中国大連市)を取材

社会変化を引き起こす都市暴動

【シカゴIDN=キーアンガ=ヤマタ・テイラー】

ロンドンを初めとして英国中を席巻している都市暴動は、カイロからリスボン、サンチアゴからマディソンまでを覆っている世界的な蜂起の一部分であり、すでに弱められていた公的部門の最後の部分を破壊しようという新自由主義に対して立ち上がったものである。

ロンドンの蜂起は、公的部門縮減の悪影響が有色人種の若者にいかに不平等に降りかかってくるかを示している。あらゆる立場の政治家が暴動参加者を犯罪者呼ばわりし、メディアが略奪と混乱を描く中で問われなければならないことは、「なぜ彼らは自分たちのコミュニティを焼き打つのだろうか?」ということだ。

 その問いに答えるには、1960年代のアメリカの都市暴動の歴史を振り返ってみる必要があるだろう。

1960年代半ば、多くのアフリカ系アメリカ人が、人種差別と警察の人権侵害に対して、全米で立ち上がった。当時なんらかの形でそうした抗議活動に参加した人数は50万人を超えると見られているが、この数値はベトナム戦争に従軍した米兵の総数(553,000人)とほぼ同じである。

デトロイト、タンパ、ヒューストン、シカゴ、フィラデルフィア、プラットヴィル(アラバマ州)という全く背景の異なる全米の諸都市で、蜂起に参加した人々は、米国の民主主義や社会全般に関する基本的な問題を提起した。

事実、こうした蜂起は一時的な不満の爆発に止まらず継続的な現象として全米各地に広がりを見せたことから、ついには連邦政府も政策の転換を余儀なくさせられたのである。その結果、従来は周辺的な政治課題だった都市問題(住宅不足、警察の横暴、教育、失業問題等)を、当時のリンドン・ジョンソン大統領が「国家のもっとも緊急な課題」と位置づけるようになった。

従って、議論の余地はあるが、1960年代の都市暴動は同年代で最も重要な政治イベントとなった。60年代の初めにはわずか6億ドルだった住宅・都市関連予算は、その終わりには30億ドルにまで膨らんだ。住宅・都市開発省も設置された。

このような成果にもかかわらず、現在も依然として、民衆蜂起の経験は否定的なものとして描かれることが少なくない。

たとえば、『デトロイト・フリー・プレス』紙に対する2007年のある投書はこう書いている。

「1967年の長く暑い夏から40年がたった。しかし、その1週間の影響は依然として残っている。すでに始まっていた白人の逃避の流れは洪水のごとくになり、デトロイトは全米でもっとも人種隔離的な都市になってしまった。家々や事務所が焼き打たれたという事実が、暴動の経験として人々の頭の中に残っている。今日、それらの建物のほとんどが壊された。しかし、土地は依然として空き地のままである。」

今日の貧困状況は直接的に60年代の出来事に結び付けられ、都市の衰退を招いた本当の理由(その後40年間の公共政策の貧しさ)は無視されている。

さらに言えば、こうした認識のあり方は、同じく60年代に起こった公民権運動が非暴力的で統制の取れたものであったとの見方と対を成している。

多くの人びとは、「60年代の都市暴動はよいものか、悪いものか」という認識パターンにとらわれているようだ。しかし、それは、民衆蜂起が当時の政治的言説に与えたダイナミズムを低く見るものだ。アフリカ系アメリカ人たちの蜂起は、長らく「見えないもの」とされてきた彼らによる、政治的討議の場への「強引な入場」といえるだろう。

そこで今の英国に戻ってみる。この国において、最後に人種主義や貧困が語られたのはいつのことだろうか。ロンドン暴動の後、この種の議論が世界中で巻き起こることになった。数週間前なら考えられなかったことだ。

もちろん、暴動は長続きしない。アドレナリンは消え、いつかは国家の政治の中に回収されていく。立ち上がった者たちの生活に本当の変化をもたらすためにさらに必要とされているのは、戦略と政治、そして組織化である。(原文へ

※キーアンガ=ヤマタ・テイラーは、『国際社会主義者レビュー』誌の編集委員。

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩

水はスマートな都市拡張の命綱(ストックホルム国際水研究所所長アンダース・バーンテル氏インタビュー)

【国連IPS=タリフ・ディーン

2050年、世界の都市に住む人口は、現在の世界全体の人口と同じ60億人にまで拡大するとみられている。このような状況の中で、都市はいったいどうやって水を確保するのか。とりわけ、世界の都市拡大のうち95%を占めるであろうといわれる途上国においてはどうなのか。IPS国連総局のタリフ・ディーン記者が、ストックホルム国際水研究所のアンダース・バーンテル所長に聞いた。

Q:急速な都市化が水の供給に与える影響は今後どれだけ深刻なものになるでしょうか。

A:おそらく、対処すべきより重要な問題は、水がいかに都市の成長に影響するのかということです。それは、都市が今日どのような選択を取るのかということによります。短期的、中期的、長期的にきちんと計画を立てている乾燥地帯の都市は、水不足による災害や経済的な損失を避けることができるでしょう。

 各々の都市は、旱魃や洪水に日頃から備え、いざという時に損失を回避するという賢明な方策を選ぶことができます。また、排水溝から環境汚染物質を垂れ流す代わりに、街中の水を循環、浄化、再利用することで全体として都市に利益をもたらすという選択も可能なのです。

Q:国連は、都市住民を水不足の脅威から守るにあたってどのような役割が果たせるでしょうか。

A:国連はすでに、知見の蓄積や資源の動員において一定の役割を果たしています。それによって都市は、水管理、持続可能な水と衛生施設の改善、災害への耐性向上などを図ることができるのです。

国連ハビタットや国連開発計画(UNDP)、国連国際防災戦略事務局(UNISRD)、国連環境計画(UNEP)、世界気象機関(WMO)、世界保健機関(WHO)などの組織がとりわけ大きな影響力を与えています。

Q:差し迫った災害を避けるために各国政府がすべきことはなんでしょうか。インフラへの投資でしょうか?健全な水管理でしょうか?

A:まず、問題解決型の思考から、解決策を事前に計画する思考に変えることです。問題解決型とは、水不足が起きるのを待ってからそこに新しい水を供給する、といったやり方のことです。

しかし、今日多くの場所で行われている「水不足に対処するために水を移動する」というやり方は、今後は機能しないでしょう。なぜなら、それは例えれば、体重が増加した際に大き目のベルトを購入することで対処するようなもので、都市にとっても環境にとっても、健全な解決策とはいえないものです。

私たちはこれまで以上に、水に対する投資をしなければなりません。今のままでいけば、水需要は向こう20年以内に地球の供給能力を40%超える可能性があります。大規模に水を使用するほとんど全ての当事者は、一層の効率化につとめるとともに(河川や海の)水質汚染を防ぐための技術や水処理の方法に、さらなる投資ができるはずです。

経済協力開発機構(OECD)は、何よりも電気、輸送、テレコミュニケーション分野を含むインフラ(経済基盤)の新設・改善により多くの資金が必要になるだろうと予測しています。

こうしたインフラへの投資は、長期的な都市の経済成長、美観整備、環境にやさしい雇用創出へとつながります。どのような技術を選択するかは各々の都市をとりまく環境にもよりますが、こうした投資に対する短期・中期・長期における費用対効果は有望なことから、今から行動をおこすことが求められます。

おそらく、持続可能な発展を実現するためにもっとも重視すべきことは、水とエネルギー、食べ物の管理を改善することでしょう。エネルギー生産のための水使用の効率化を図り、水再利用によってエネルギーを生産し、食物利用の無駄を省く機会は無数に存在します。

そうすれば水資源を大幅に節約することが可能となるだけでなく、増加し続ける都市人口を支える能力を向上させ、結果的に都市そのものを活性化することが可能になるのです。(原文へ

翻訳=山口響/IPS Japan戸田千鶴

 関連記事:

|エチオピア|世界遺産地域の開発で諸部族が危機に

|トルコ-イスラエル|「トルコの決定はネタニヤフ政権への警告」とUAE紙

0

【ドバイWAM】

「イスラエル大使の追放を決定したことでトルコは中東における威信を高めることだろう。」とアラブ首長国連邦(UAE)紙は報じた。

また日刊紙「ガルフ・ニュース」は、「トルコがイスラエル大使の追放と軍事協力の停止を決定したのは必ずしも驚くにはあたらない。

両国間の緊張は、9人のトルコ人が死亡したイスラエル軍によるパレスチナ支援船強襲事件以前から高まっていた。トルコ政府は、2008年から09年にかけて行われたイスラエル軍によるガザ地区侵攻以来のイスラエル政府の政策に対する怒りを明確に表明していた。」

しかしイスラエル政府がトルコ籍の援助船に乗船していた平和活動家を襲撃したことについて謝罪を拒否したため、トルコ政府としては、国際的に自らの主張の正当性を示すためにも、ネタニヤフ政権との外交関係レベルを引き下げる措置を取らざるを得なかった。トルコもイスラエルも、米国の強力な同盟国である。

 従ってトルコの今回の決定は、マビ・マルマラ号襲撃事件のみが原因ではなかった。ネタニヤフ右派政権は、中東和平問題の平和的解決や既に4年に亘るガザ包囲を緩和することに全く関心がない立場を明確にしてきたことから、他の西側諸国も、時期の違いはあるが、イスラエルとの外交関係格下げを検討してきた経緯がある。

ガルフ・ニュース紙は、「トルコの決定は、イスラエルに対して、国際法に逆らいながら他国にのみ譲歩を期待し続けることはできないとの警告となるものだ。」と強調するとともに、「イスラエルと外交上の対決を演じたトルコは、新たに得た中東における威信を強化することとなった。」と付け加えた。

「トルコ問題の専門家は、今回のトルコ政府の決定が最終的なものではないことを理解している。トルコ政府は常に現実主義の外交政策をとってきており、イスラエルとの軍事協力を再開する可能性も十分ありうる。」と同紙は報じた。

「しかし、暫くの間、トルコは中東のヒーローとしての地位を享受する資格を(今回の決定によって)獲得したといえよう。」とガルフ・ニュース紙は結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

関連記事:
|パレスチナ|「アッバス議長、主権国家としての国際承認を目指す」

|アラブ首長国連邦|慈善家の寄付で多くの囚人が釈放される

【ドバイWAM】

ラマダン期間中にアラブ首長国連邦(UAE)市民から寄せられた善意の支援により、ドバイで拘留中の多くの囚人が再び日常を取り戻せるかもしれない。

「同情者」という呼称以外匿名を希望したある市民がラマダンに際して、ドバイ刑務所宛てに100万ディルハム(約272,000ドル)の寄付を行った。この寄付は借金の返済不履行で収監中の多くの囚人の債務返済に充てられることとなっている。

 ドバイ刑務所には、負債の返済手段に窮した様々な国籍の人々が、不透明な未来に不安を抱きながら収監されていたが、聖なるラマダンに際して、コミュニティーの篤志家からの支援という形で神が彼らに助けの手を差し伸べたのである。先述の市民の他、数名の篤志家がドバイ矯正・懲罰局に対して寄付を行った。

ドバイ矯正・懲罰局の担当者は、ラマダン月に首長国コミュニティーから差し伸べられたこの素晴らしい人道支援を称賛した。彼らの博愛心により多くの囚人(その多くが一家の唯一の稼ぎ手)が釈放されることになるだろう。

「寄付金は囚人の債務返済に充てられ、囚人は釈放され家族との再会を果たすことができます。また、寄付金の一部は、刑期終了後に本国に帰還する航空券代を支払うあてがなく支援者の登場を待っている外国人手稼ぎ労働者に対する支援にあてられます。ちなみに、囚人の多くは、借金がかさんで返済不能状態に陥った結果、裁判所から返済不履行で有罪判決を受けた人々です。」とモハメッド・フマイド・アル・スワイディ矯正・懲罰局長は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

関連記事:
|アラブ首長国連邦|今年も午後の労働禁止時間制を施行

|バルカン半島|かつてユーゴスラビアという国があった

0

【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

何十年にもわたって、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)は人間の顔をした共産主義国家であった。教育と医療は無料で、雇用は保証され、家や小規模ビジネスの個人所有が認められていた。人びとは、他の東欧諸国に比べて高いレベルの生活を享受し、ビザなしに海外にわたることができ、政府は市民に開かれていた。そして非同盟運動を率いる盟主国として、国際社会において確固たる地位を占めていた。しかし、20年前の6月25日にすべてが終わった。

この日、旧ユーゴで最も先進的なクロアチアとスロベニアの両共和国が一方的に独立したのである。両国は、(現在のセルビア共和国の外に在住する)全てのセルビア人の保護者を自認し「すべてのセルビア人はひとつの国に住む必要がある」とするスロボダン・ミロチェビッチ(当時)を悪の権化だとみなしていた。

「(90年代の内戦で)15万人もの人命を失い、莫大な経済的損失をこうむった今、旧ユーゴに住んでいた2400万人にとって独立して何の利益があったかを語るのは非常に難しい。確かに彼らは自らの国を持ったことを誇りにしています。しかし、旧ユーゴと比べれば、ほぼ全ての国に独立国としてやっていくために不可欠な要素が欠けているのです。」と歴史家のプレドラグ・マルコヴィッチは語った。

現在のスロベニア(200万人)、クロアチア(460万人)、ボスニア・ヘルツェゴビナ(420万人)、セルビア(750万人)、モンテネグロ(65万人)、マケドニア(200万人)は、かつての旧ユーゴとはかなり異なる場所である。ユーゴスラビア内戦で各国を率いた3人の指導者、クロアチアのフラニョ・トゥジマン、ボスニア・ヘルツェゴビナのアリヤ・イゼトベゴヴィッチ、セルビアのミロシェビッチはすでに死亡している。

旧ユーゴの構成国の中で欧州連合(EU)に加盟しているのは、最も経済水準が高いスロベニアだけである(2004年)。クロアチアは2013年に加盟予定、モンテネグロとマケドニアがその次の候補である。一方セルビアは、依然としてEU理事会による加盟候補国承認待ちであり、ボスニア・ヘルツェゴビナは1992円から95年に亘った内戦の被害から未だに回復していない。

「EU加盟は私たちにとって自然な選択肢でした。しかし旧ユーゴスラビア連邦時代と比べてEUにおける我々の声は小さなものと言わざるを得ません。」とスロベニアの経済学者であるジョゼ・メンシンガ-は語った。

社会学者のミラン・ニコリッチは、「1991年から95年にかけての戦争は、人命などの直接的な被害に加えて、共感や連帯、犯罪への非寛容といった価値観を崩壊させてしまいました。しかし世界も1991年から大きく変化しています。私たちは皆、未来を向いていかなければならないのです。」と語った。

旧ユーゴ解体がもたらした多くの壊滅的な結果の中でも、経済危機は特に深刻である。生産力は下がり、輸入依存の経済になってしまった。また、市場経済への転換により大量の失業者を出した。さらに世界的な経済危機が、こうした苦境にさらに追い打ちをかけている。

スロベニアの失業率は、旧ユーゴの中でもっとも低く約10%。しかし、ボスニア・ヘルツェゴビナでは40%にも達する。生産力は1989年のレベルにいまだ達していない。

旧ユーゴ構成国6か国の対外債務は1710億ドルで、旧ユーゴ時代の240億ドルを大きく上回っている。その内訳は、最も低いマケドニアで25億ドル、最も高いクロアチアは640億ドルにのぼっている。

(スロベニアを除いて)旧構成国における生産レベルは内戦前の最高レベルであった1989年水準(旧構成国の統計学者はこの年をベンチマークに使っている)にまで未だに回復されていない。

「もし内戦がなかったら、ユーゴスラビアはEUにとっくの昔に加盟し、発展のレベルは少なくとも1989年の2倍にはなっていただろう。」とニコリッチ氏は嘆く。

しかし、多くの人びと、とりわけ若者にとっては、こうした嘆きはほとんど意味をなさない。旧構成国の教科書の記述内容はまちまちで、きわめて皮相な歴史しか記述されておらず、若者たちはかつてユーゴスラビア社会主義連邦共和国という国があったこともほとんど知らないのが現状である。

セルビアのKraljevo出身のボジャン・スタンチッチ(22歳)は、クロアチアのアドリア海沿岸地域で最も有名な観光地について聞かれて「ドブロクニクってなに?クロアチアの街だって?それじゃあ外国の街だね。いつか行ってみるよ。」と語った。

しかしより年配の世代については、多くの人々が今でも旧ユーゴへの郷愁の念を抱いている。

クロアチアのザグレブでペンションを経営しているダラ・ブンチッチ(65歳)は、「ベオグラード(旧ユーゴの首都で現在はセルビア共和国の首都)には親族がおり、よく訪れます。ベオグラードには今でも大国の首都を思わせる輪郭が残っています。旧構成国は今は小さな独立国家になったが、友人にはベオグラードを見学にいくように勧めています。それは私たちクロアチア人が独立した祖国をいかに誇らしく思っているかという感情とは別に、ベオグラードが私たちにとっての共通の歴史の一部ということに違いがないからです。」と語った。

「20年前まで、私は2歳のとき以来毎年、2か月間を親族がいるクロアチアの海岸沿いの町で過ごしました。だから私は、旧ユーゴ時代の35年間の内、6年間という年月をクロアチアで暮らしたのです。何者もこうした事実や、古き良き旧ユーゴ時代の思い出を、私から奪うことはできないのです。」とベオグラード出身のサーシャ・ジャクシッチ(55歳)は語った。

旧ユーゴの記憶について報告する。(原文へ

IPS Japan戸田千鶴

関連記事:
|セルビア|ムラジッチ逮捕で和解とEU加盟への期待が高まる
|バルカン半島|ベオグラードのアラブ・セルビア友好協会

|軍縮|核兵器なき世界には核実験禁止が不可欠

【東京IDN=浅霧勝浩】

国際社会にとって、「核実験に反対する国際デー」が制定されて2周年となる8月29日は、核兵器のない世界に向けたそれまでの進展を喜ぶとともに、目標が達成される前に依然として様々な障害が前途に横たわっている現実を再認識する機会となるだろう。

国連が指摘するとおり、「喜べる理由」とは、それまでに南半球のほぼ全域が、一連の地域条約により、既に一つの非核兵器地帯を形成しているという事実である。

Image: Nuclear-Weapon-Free Zones (Blue); Nuclear weapons states (Red); Nuclear sharing (Orange); Neither, but NPT (Lime green). CC BY-SA 3.0
Image: Nuclear-Weapon-Free Zones (Blue); Nuclear weapons states (Red); Nuclear sharing (Orange); Neither, but NPT (Lime green). CC BY-SA 3.0

これらの非核化条約は、ラトロンガ条約(南太平洋)、ペリンダバ条約(アフリカ大陸)、バンコク条約(東南アジア)、トラテロルコ条約(ラテンアメリカ及びカリブ地域)、アトランティック条約(南極)である。さらに2009年3月には、初めて対象の非核兵器地帯全体が赤道以北に位置する、「中央アジアに非核兵器地帯を創設するセメイ条約」(カザフスタン、キルギスタン、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの五カ国が加盟)が発効している。

 「核実験に反対する国際デー」の重要性は、2009年12月2日の国連総会で(この記念日制定を問う)決議64/35号が全会一致で採択されたことからも明らかである。同決議の前文には、「人類の生命と健康への破壊的で有害な影響を回避するために、核実験を終わらせるためのあらゆる努力がなされるべきである。」「核実験の終焉は、核兵器のない世界を実現するための鍵となる方策の一つである。」と記されている。

「核実験に反対する国際デー」が宣言されて以来、その目標や目的に関する数多くの重要な進展、議論、イニシアチブがなされてきた。しかし核軍縮をめぐる今日の状況は、7月28日に長野県松本市で開催された国連軍縮会議に出席した須田明夫軍縮会議(CD)日本政府代表部大使がいみじくも指摘したように、むしろ複雑である。

第23回国連軍縮会議in松本」は、7月27日から29日まで、国連軍縮部(アメリカ・ニューヨーク)・国連アジア太平洋平和軍縮センター(ネパール・カトマンズ)主催で開催され、政府関係者、有識者、シンクタンク、国際機関、NGO、マスコミ関係者等約90名が出席した。この会議は他の国連会議とは異なり、「軍縮・核不拡散問題に対する一般市民の理解と支持を高める方策として」従来から一般に公開されてきている。

国連軍縮会議は1989年以来、毎年日本の地方都市で開催されているが、今回は主要テーマである「核兵器のない世界に向けた緊急の共同行動」の下、議題として「2010年NPT運用検討会議行動計画の実施」、「核兵器保有国による核軍縮に向けた方策」、「軍縮会議と兵器用核分裂性物質生産禁止条約交渉(FMCT)の展望」、「核兵器禁止条約交渉(NWC)に向けた具体的方策」、「平和と軍縮に向けた機運の促進と市民の役割」が話し合われた。

今年の会議では、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて、原子力の安全と保安についての議論も焦点の一つとなった。また、開催地の高校生と軍縮・不拡散分野の専門家が軍縮を通じた平和と安全保障を推進する重要性について話し合う特別セッション:「高校生との平和・軍縮トーク」も開催された。

日本政府の公式見解

Map of Japan
Map of Japan

須田大使は、今回の会議の主要テーマに関する日本政府の見解を説明して、「核軍縮に関する現在の進捗状況についてお話をするとするならば、ここ2・3年にみられたいくつかの重要かつ前向きな動きを列挙することができます。今日における核兵器のない世界に向けた機運は高いといえるでしょう。こうした中、私たちは核兵器廃絶に向けた核軍縮プロセスをめぐる協議を深めていくべきです。」と語った。

また須田大使は、「しかし同時に現実も直視しなければなりません。確かに非核兵器地帯包括的核実験禁止条約(CTBT)への批准国拡大という面では、ある程度の進展が見られましたが、多国間協議を通じた核軍縮の分野では、既に2年以上前になる(バラク・オバマ大統領による)プラハ演説や、昨年5月のNPT運用検討会議以来、ほとんど動きが見られないのが現実です。」と警告した。

須田大使は会議参加者に向かって、「核兵器を削減し最終的には廃絶へともっていくプロセスの中で、核兵器製造目的に使用する基本原料の生産を禁止すること、すなわち原料を遮断(カットオフ)することが、さらなる軍縮を実現するための確固たる不可欠な基礎となるのです。」と語った。

しかしジュネーブにおける軍縮会議(CD)は、まさに兵器用核分裂性物質生産禁止条約(カットオフ条約:FMCT)を巡ってパキスタンが「同条約は差別的であり隣国インドを利する」とまで主張して反対していることから、(既に15年にわたって)交渉が停滞している。しかし須田大使はFMCTの有効性について、NPT体制の枠外にある国々による更なる核拡散を防止できるほか、「この条約は、少なくとも核兵器保有国に対しても核分裂性物質の生産を禁止し、それに関する査察を受け入れることを義務付けることにより、NPT体制下における(核保有国と非保有国の間の)差別的な構造を緩和することができる」点を指摘した。

須田大使はさらに、FMCTが軍縮プロセスを不可逆的なものとすることによって、世界に存在する核兵器の総量を継続的に削減するための確固たる法的基礎を築くものとなること、そして、核兵器保有国が核分裂性物質の備蓄量を一旦自主的或いはなんらかの理由で削減すれば、再び元のレベルに戻ることはできなくなる点を指摘した。

米国政府の見方

スーザン・バーク米国不拡散担当大統領特別代表は、喜ぶべき理由として、2010年5月の核不拡散条約(NPT)再検討会議で採択された64項目の行動計画と中東に関する決定(中東の非核兵器地帯化を話し合う会議を2012年に開くとした決定)を挙げ、これらが実行されればNPT体制を強化することになると語った。

また軍縮について、バーク特別代表は、新戦略兵器削減条約(新START)が2011年2月5日に米露両国政府間で発効し、合意事項が実施に移されている点を指摘した上で、「米国政府は、引き続き段階的なプロセスを経て、ロシア政府との将来的な合意を目指す中で、戦略、非戦略、配備、未配備を含む全体的な核兵器の数を削減していきたい。」と語った。
 
もう一つの前向きな動きは、6月30日と7月1日にパリで開かれた核兵器国5カ国(米国、英国、中国、フランス、ロシア:いわゆるP5)による、第1回NPT運用検討会議フォローアップ会合である。ここでP5諸国は、NPT運用検討会議最終文書第5項に規定されているステップや行動計画が求めている報告、努力義務を含む、核軍縮という共通の目標にむけた協議を行った。この会合はまた、2009年9月にロンドンで開かれた、軍縮と不拡散に向けた信頼醸成措置に関する会議のフォローアップでもあった。「これらの会議をP5諸国間の通常の対話の枠組みへと発展させるため、P5諸国は第3回会合を2012年(次のNPT運用検討サイクルが開始される)5月にウィーンで開くことで合意しました。」とバーク特別代表は語った。

またバーク特別代表は、米国政府は引き続き包括的核実験禁止条約(CTBT)批准にコミットしており、議会上院と米国民に対して同条約のメリットを説明していること、また、FMCT交渉を前進させるよう、パートナー諸国と引き続き協力していくと断言した。

IAEA
IAEA

国際原子力機関(IAEA)の定例理事会は2010年12月、原子力の平和利用を支持する立場から、IAEA主導で緊急の際に原子力発電に使用する低濃縮ウランを提供する「核燃料バンク」の設立案を承認した。これはIAEA加盟国の原子力発電所に対する燃料供給が紛争による輸送ルートの途絶などでストップし、国際市場での購入も不可能な場合に、IAEAが市場価格での供給を保証するのが目的である。

バーク特別代表によると、米国政府は2015年NPT運用検討会議までに5000万ドルの拠出を表明している「平和利用イニシアチブ」を実施するためにIAEAと密接な協力を行っている。米国は既に80カ国以上が関与するプロジェクトに900万ドル以上を拠出している。このイニシアチブには日本と韓国が資金拠出に同意しているが、米国は引き続き他の国々にも資金拠出を積極的に呼びかけている。

バーク特別代表は、NPT運用検討会議で合意された2012年に中東非核地帯化に向けた国際会議を開催する件について、「まず着手すべきは開催国とファイシリテーターを決定することですが、それはまもなく実現の見込みです。米国は、英国、ロシアとともに2012年の会議を成功させる方策について中東諸国と密接に協議を重ねているところです。」と語り、米国政府として中東会議の成功にコミットしている旨を指摘した。

またバーク特別代表は、(会議のあり方に関する懸念に配慮して)「会議の成功や同様の努力は、外部から押し付けられるものではありません。(2012年の)中東会議の成否は、全ての関連事項について建設的な対話を行える雰囲気作りを、中東域内の国々が積極的に行えるかどうかにかかっているのです。」と語った。

青年ピースフォーラム2011

「第23回国連軍縮会議in松本」(7月27日~29日)に続いて、広島・長崎・沖縄の青年ら900人が集い、「ピースフォーラム2011」が、7月31日、長崎市の原爆資料館・平和会館ホールで開催された。創価学会青年部の代表は、核兵器廃絶に向けた市民社会による一層の努力を呼びかける「3県サミット平和宣言」を発表した。同平和宣言は、世界の指導者が核兵器のもたらす現実を自らの目で確かめるとともに核時代に終止符を打つための「核廃絶サミット」の意義を込め、2015年NPT運用検討会議の広島・長崎での開催を訴えている。

同宣言は、「核兵器は人類の生存権を根源的に脅かす『絶対悪』であり、その廃絶こそが平和の文化構築のために欠かせない。」と述べている。同宣言はまた、核兵器は国際人道法に反するとしたうえで、核兵器禁止条約(NWC)を準備する会議を出来るだけ早く招集するよう訴えている。この宣言は、池田大作創価学会インタナショナル会長が本年の平和提言の中で述べている見解に基づくものである。
 
フォーラムの席上、浅井伸行青年平和会議議長は、田上富久長崎市長に57,000羽を超える「平和の折鶴」を贈呈した。これらの折鶴は、SGIがタイ文化省の協力を得て今年の2月までに同国内20ヶ所で開催した「核兵器廃絶への挑戦」展の来場者の手で、一羽一羽折られたものである。

Tomihisa Taue, Mayor of Nagasaki City, attended the United Nations Conference on Disarmament Issues at the Hotel Buena Vista in Matsumoto City, Nagano Prefectureon July 27, 2011.
Tomihisa Taue, Mayor of Nagasaki City, attended the United Nations Conference on Disarmament Issues at the Hotel Buena Vista in Matsumoto City, Nagano Prefectureon July 27, 2011.

創価学会のイニシアチブを歓迎しつつ、田上市長は「広島と長崎の人々だけが核兵器に反対する声をあげるのではなく、同様の気持ちを持つ世界中の多くの人々の声を結集することが大事です。その意味で、タイの人々が思いをこめたこれらの折鶴を受け取ることができ、本当に嬉しく思います。」と挨拶した。

また今年のピースフォーラムには、長崎総合科学大学(NIAS) 長崎平和文化研究所の大矢正人所長、「長崎の証言の会」代表委員の広瀬方人氏、その他、核兵器廃絶に向けた活動を展開している市民社会組織の代表が参加した。

創価学会の広島、長崎、沖縄の青年平和会議と女性平和文化会議は、1989年以来ほぼ毎年8月、一堂に集い、青年の手で平和運動を推進する諸行事を開催してきた。また彼らは長年にわたって核兵器の脅威に関する数多くの意識調査を行ってきた。

日本で800万世帯以上を擁する仏教系NGOである創価学会は、50年以上にわたって核廃絶に向けた取り組みを行ってきた。2007年、SGIは「核兵器廃絶へ向けての民衆行動の10年」キャンペーンを開始し、世論を喚起し、核兵器のない世界に向けて行動する世界的な草の根ネットワークの形成を支援している。(原文へ

翻訳=IPS Japan

関連記事:
|軍縮|被爆地からの平和のシグナル
|軍縮|五大国が核軍縮について協議
|軍縮|パキスタン、核分裂性物質生産禁止条約に強硬に反対

すべての形態の平等に銃を向けた男(ウテ・ショープ)

0

ムスリムを極端に嫌っていただけではない。彼は、多文化主義を忌み嫌い、女性を嫌っていた。それが、彼の自称「マニフェスト」を貫く赤い糸である。

アンネシュ・ブレイビク[7月22日にノルウェーで起きたテロ事件の容疑者]のイスラム教への敵視は、国家人民主義、原理主義的なキリスト教の考え方に由来している。彼の目的は、男性が女性の上位に、白人が非白人の上位に、キリスト教徒がイスラム教徒の上位に来る階層的な秩序を、崩壊の危機から救うことにあった。

ブレイビクは、男女平等と「ジェンダーの主流化」を達成し男性のアイデンティティーを抹消しようとする「全体男女同権主義」の撲滅を訴えるブロガー”Fjordman”を自身の思想的模範と仰いて、自称「マニフェスト」の中に同氏の主張を数多く引用している。離婚、経口避妊薬、同性愛…これらはブレイビクにとって、神の天罰が下るべき憎悪の対象であった。

Norwegian terrorist Anders Behring Breivik’s fake police ID (forged police identification card) in plastic bag as evidence item on display at 22 July Information Center in Regjeringskvartalet, Oslo, Norway. / By Wolfmann – Own work, CC BY-SA 4.0

【ベルリンIDN=ウテ・ショープ】

 ブレイビクは、伝統的な家父長的家族秩序を守って、「ベビーブーム」を再興する必要があると考えていた。「女性は、大学の学士号以上をとってはならず、外界から孤立した「性特別区」を創設せねばならない―彼はそのように考えていた。

マルクス、レディー・ガガ、メンズ・ヘルス誌

ブレイビクは、「フランクフルト学派の『文化的マルクス主義』が、多文化主義への道を開き、『全体主義的な』ラディカル・フェミニズム(急進的男女同権主義)を呼び込んだ、と主張している。マルクスはブルジョア家庭を破壊し、『女性コミュニティー』の建設を切望した。ヴィルヘルム・ライヒヘルベルト・マルクーゼらが、女性上位の社会を作り上げた。結果として、『欧州文化の女性化』がいまや『完成の域に達している』」と主張している。

また、「男性優位の最後の砦である、警察、軍隊も今や脅威に晒されている。それでも物足りないかのように、『メンズ・ヘルス(Men’s Health)』誌のような男性雑誌でさえも、『女性化された男性』を公開している、また、ハイディ・クルム、マドンナ、レディー・ガガのような人間は「人種の混交」と道徳の最悪の弛緩を体現する人びとである。」との主張を展開している。

ブレイビクはまた、若い女性の性行動を判断基準に欧州諸国を「性道徳」に基づいてランク付けしている。それによるとノルウェーを最低ランクに、マルタ(かつてテンプル騎士団の本拠地があったところ)を最高ランクに位置づけている。彼は性病というテーマにもとらわれている。それは、彼の母親と血のつながらない姉妹が性病に冒されていたことと関連しており、「私の姉妹と母親は私と私の家族を恥にさらしただけではなく、自分たち自身も恥じていた。男女同権主義者達が引き起こした性革命の影響で、私の家族は崩壊したのだ。」と書いている。それにしても、ブレイビクはなぜ女性だけを悪者扱いするのであろうか?

コントロールを失うことに対する恐怖
 
 
ブレイビクの自称「マニフェスト」には、事態の成り行きについて制御できなくなることを極端に恐れている彼自身の心理が反映されている。彼は、性的関心、柔軟さ、男性アイデンティティーの解体は全て女性化(feminization)がもたらしたのとみなしている。まさにこの点に、詳細に違いはあっても、ナチス(国家社会主義)、急進イスラム主義、その対極にあるイスラムを敵視する保守勢力等、全ての独裁的・全体主義的なイデオロギーに共通して見られる核心部分をみてとることができるのである。

クラウス・テーヴェライトは代表作『男たちの妄想』の中で、20世紀初頭の右翼「義勇軍」やナチス信奉者の心理を支配した「(女性との)肉体的混合」に対する病的な恐れを分析している。当時彼らは、「銃を持つ女性」を恐れたものが、ブレイビクにとってこの恐れの対象は「男女同権主義者」に変化している。かつてナチスは、「男らしくない」ユダヤ人を軍隊的な男らしい役割モデルを衰退させた元凶とみなした。今日、ノルウェーでこれにあたる偏見の対象がイスラム教徒と男女同権主義者ということになる。

モハメド・アタの鏡像

おそらくブレイビクは女性に対するある種の嫉妬を抱いているのだろう。彼の自称「マニフェスト」には、あらゆる犠牲を払っても「名誉」を守ろうとするムスリム戦士に対する深い賞賛の気持ちが随所に記されている。「名誉」こそ「最も重要なもの」とブレイビクは記している。

ブレイビクは、言葉や写真で自らを厳格な修道士にたとえているが、彼の姿は皮肉にもイスラム原理主義に殉じた(9・11同時多発テロの首謀者とみなされている)モハメド・アタのそれに近づいている。アタもまた、極端に女性を恐れ、集団虐殺を招く「純潔のカルト」を喧伝していた人物である。またブレイビクは、アタと同じく、自身を公共の大儀のために殉じる「殉教者」とみなしている。
 
ブレイビクは、男女間や社会の幅広い階層や民族間において高いレベルの平等が実現している今日のノルウェー社会にあって、欧州の歴史の中で国民国家の興隆を背景に軍隊階級組織の中で育まれてきた「男らしさの模範」が消失しつつあると嘆いている。

軍事訓練は、兵士が殺戮という「仕事」を遂行できるように、自らの感情を完全に封じ込め肉体を支配できるよう鍛えあげることを目的としている。そこでは感情移入は「女性的なもの」すなわち弱さと臆病を象徴するものとみなされ、封殺の対象となるのである。これが世界のほぼ全ての軍隊及び専制的なイデオロギーが追求するパターンであり、「コントロール狂(control freak)」のブレイビクもこのパターンに分類できる。
 
しかし欧州諸国の中で、どうしてノルウェーのような国から、ブレイビクのような「殉教者」が生まれてしまったのだろうか?ノルウェーは、バイキングの時代(8世紀~11世紀)以降、他国に戦争を仕掛けたことはなかった。事実スカンジナビア諸国では、男女間の平等を図ることが、男性優位主義と「戦士の英雄視(Heldenkriegertum)」に対する最大の防御と考えられてきた。しかし、こうした政策も、個々の病理に対しては、必ずしも効果が無いということは明らかである。

しかし比較的平等主義的な社会が確立したノルウェーでは、暴力と支配妄想に囚われたブレイビクのような人物は孤立した存在とならざるを得ず、ブレイビクは結局、単独で凶行に及ぶ決断をしたのだ。(原文へ

※ウテ・ショープは、ドイツ在住のフリーのジャーナリスト。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

関連記事:
│ノーベル平和賞│マハトマ・ガンジーには何故授与されなかったのか?(J・V・ラビチャンドラン)
|欧州|極右の台頭で被害を受けるロマ人