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|輸送と環境|若き企業家、輸送業界の明日を見つめる(佐久間恒好)

「いかに文明が進んでも、人の心を機械的に動かすことは出来ません。」と佐久間恒好氏は自身の哲学的な所見を述べたうえで、「“真心をこめて運ぶ”ということは、同時に“御客様のこころ(想い)”を運ぶことであり、それが荷主様の期待にお応えすることと信じています。」と語った。

多才で先取の気概に富む佐久間氏は、しっかりと地に足をつけながら未来を見据えた若き企業家である。佐久間氏が経営する株式会社商運サービスは、東京都練馬区に本社を置き、従業員40名、保有車両台数38台の地元の優良企業で、一般貨物及び産業廃棄物輸送のほか、梱包・荷役、保管・物流管理、及び「野菜工場」を手掛けている。

佐久間氏は大学4年の時、父で創業者の勇が大病で倒れたことから、突然会社の運営を任されることとなった。しかし彼が実質的に経営者として手腕を発揮するには、まず「トラック野郎」という言葉に象徴される当時の雰囲気を改革するという難題を乗り越えなければならなかった。

【東京IDN=浅霧勝浩】

 佐久間氏は2004年に父が他界すると、代表取締役に就任した。彼は、「『もっと生きたい』と願った父が今も生きてくれていたら…」と、現実を受け入れながらも創業者の無念に想いを馳せている。佐久間氏の母も、肺がんによる不自由を抱えながらも発病後14年という年月を立派に生き抜いた。

「私はこうして健康に生きていられるということだけで幸せだとつくづく思うのです。しかも私には父が遺してくれた会社と一緒に働ける素晴らしい従業員がいるのです。」と佐久間氏は語った。

このような社長を得て、商運サービスの従業員・管理職員の間には、共に会社をとおして社会に貢献していこうという、強い絆で結ばれた共同体意識が根付いている。佐久間氏は、このような社員の協力を得て、徐々に経営規模と取引先を拡大していった。現在、荷主様企業には、日本旅客鉄道株式会社(JR)、埼玉生活協同組合(埼玉COOP)、東京銀座の老舗デパート「銀座和光」、モンドセレクションで2010年最高金賞を受賞した堂島ロールで有名な株式会社モンシュシュ等がある。
 
 商運サービスは、2008年以来、トラック運送事業者の安全・安心・信頼の証となる「安全性優良事業所(Gマーク)」(2年毎に更新)に認定されている。同社では、安全運転・法定速度をモニターするタコグラフを導入し、経営者と従業員が一体となった完全法定遵守に努めている。(2011年3月現在、「Gマーク」を取得している運送会社は15,197社で全体の18.1%を占めている。)

また商運サービスは、日本全国に430拠点を有する「ハトのマークの引っ越し専門」で知られる「全国引っ越し共同組合連合会」に加盟している。

さらに「環境問題」は、佐久間氏が大変重視している分野である。商運サービスは、燃費の向上とCO2排出量削減を目指すグリーン・エコプロジェクト(東京都トラック協会が運営)に参加し、ドライバー一人一人が燃費目標をたて、タコグラフを活用した運転実績の検証を行うなどの努力を通じて環境への取り組みを推進している。

今回の取材で佐久間氏は、昨年就任した東京都トラック協会青年部本部長としての取り組みと抱負について語ってくれた。佐久間氏は、同時に、東京都と近隣7県(神奈川県、千葉県、栃木県、埼玉県、群馬県、茨城県、山梨県)からなる地域組織「関東トラック協会」の青年部会長、並びに全日本トラック協会傘下の全国組織「全国物流青年経営者中央研修会」(北海道、東北、関東、中部、北信越、近畿、中国、四国、九州地区から構成)の代表幹事も務めている。

佐久間氏は、これら3つの立場で全国を回り、会員と協議する中、長引く経済不況の影響が東京よりも地方の運送会社により深刻に表れている実態を目の当たりにしてきた。とりわけ、地方諸都市の若者人口の減少と運送業への就職を希望する若者が減ってきている現状を憂慮している。

「地方では運送会社の従業員の平均年齢が50代後半というケースも珍しくありません。地方の深刻な状況に比べれば、当社も含めて、東京の運送会社は恵まれていると思います。」と佐久間氏は言う。佐久間氏は、東京の会員にも、国全体として運送業界が直面している厳しい現状について危機感を共有してもらいたいと考えている。

東京都トラック協会青年部には現在507の会員が加盟しているが、従来青年部主催の交流行事に出席する会員数はかなり限られたものであった。そこで佐久間氏は青年部本部長就任以来、「まずはこうした交流行事に顔をだすことから共に活動していこう」と呼びかけてきており、少しずつ参加者が増えてきている。

佐久間氏が青年部の活動を通じて最も重視しているのは、会員である青年経営者たちと、運送業界の将来は自分たちの双肩にかかっているという意識を共有していくことである。この点について佐久間氏は、「東京都トラック協会の親組織においても、業界が直面している問題に対する危機感を私たちと共有する先輩方が増えてきており、今後の青年部の活動に希望を見出しています。」と語った。
 
また佐久間氏は、3組織のトップとして、運送業の将来を見つめた社会目標の実現に関しては、不動の信念を貫く覚悟でいる。彼は、東京都トラック協会の練馬支部青年部部長時代、小学生の子ども達を対象とした大型トラックを使った安全教室(内輪差や死角についての実地研修を含む)を思い立ち、近くの小学校に交渉に訪れた。ところが対応にでた校長は「大型トラックを入れたら校庭が傷む」として取り合おうとはしなかった。

そこで佐久間氏は、校庭は非常時に大型消防車が入れるように設計されている点を指摘し、安全教室実施の重要性を訴えた。校長はそれでも納得していなかったが、判断をPTAに委ねることに同意した。いざ父兄が佐久間氏の提案を知ると、是非実施してもらいたいということになり、地元警察も後援に入って大盛況の内に交通安全教室は実現した。その後、この安全教室は様々な学校からの要請で実施され、商運サービスは、2009年11月には石神井警察署から感謝状を授与された。

この経験から手応えを感じた佐久間氏は、安全教室を全国のトラック協会と警察署との協力のもと、10月9日の「トラックの日」に合わせて全国的に実施できないものか模索している。

また佐久間氏には、自身に課した大きな目標がある。それは、トラック運転手の社会的な地位を、航空機のパイロットや船舶の船長と同じくらい社会的なステイタスが持てる職業になってほしいという目標である。確かに、トラック運転手こそが、産業化社会を維持する上で欠かせない陸上輸送の基幹を担っている存在である。そのことからも、トラック協会の青年部が、佐久間氏のこうした大望を実現するために果たせる役割は大きい。

このような志を抱いている佐久間氏が、今年1月に開催された「全国物流青年経営者中央研修会」年次会合において、代表幹事として仲間と共に打ち出したスローガンが、「原点回帰、未来へ繋げ、絆と想い」である。

「『原点回帰』とは、私たち一人一人が運輸業界に夢と希望を持って踏み込んだ時の気持ちをもう一度思い出そうという意味です。『未来へ繋げ』とは、すなわち次世代に繋いでいくこと。そして『絆』とは、先輩方がトラック協会を通じて育んでこられた貴重な人間関係を大切に継いで育んでいくこと。そして『想い』には、決して諦めないで、子供たちのために立派な会社を作っていくというメッセージが込められています。」

「私は、このスローガンの下で、全国の青年経営者の大切な仲間達とともに、明日の運送業界全体のために歩んでいきたいと思っています。」と佐久間氏は抱負を語った。

また佐久間氏は、関東トラック協会青年部会長に就任以来、この関東組織には、全国各地の地域組織を牽引していく存在になってもらいたいとの思いから、新たな継続事業を模索していた。「私は、大きな予算をかけなくても、会員が参画しやすく、しかも社会的なインパクトを生み出せる、そんな事業を探していました。ですから、どんぐりを使った事業を見出した時は、大変嬉しく思いました。」

「関東トラック協会青年部会の周年行事としてたまたま研修先として訪れた化粧品会社にて、そちらの社員と地元住民とが連携し、どんぐりを拾い苗木を育て、植樹している活動を知ったのです。」と佐久間氏はその時の喜びを振り返って語った。

その後、商運サービスの職員が1890個のどんぐりを拾ってきて、会社で苗木を育てている。佐久間氏は、関東トラック協会青年部の次回総会で、この「どんぐりの苗木を作る」計画を同協会の新規事業として提案するつもりである。

「これならば、協会のメンバーがお金をかけることなく、年間を通じて気軽に参加することができます…つまり、ゴルフコースや山に出かけた際に、どんぐりを拾って、簡単に苗木を育てられるのです。そしてそうした苗木を、関東トラック協会として、例えば、10月9日の『トラックの日』に合わせて環境CSR(企業の社会的責任)事業として寄付することもできるのではないでしょうか。」

どんぐりの苗木が育つには2年かかる。まさに「大きな樫(かし)も小粒のどんぐりから(偉人も偉業も一夜にしてなったものはないから辛抱が大切である)」という諺(ことわざ)のとおりである。

どんぐりは、古代ギリシャで庶民の食卓にのぼったり、日本では縄文人があく抜きして焼き上げたものを食したりするなど様々な文化において貴重な栄養源であった。しかし現代社会においては、もはや重要なカロリー源ではなくなっている。
 
 2010年11月、佐久間氏は「野菜工場」という新規ビジネスに乗り出した。「わが社は、渡辺博之教授を中心とする玉川大学との最先端の共同研究・開発を行なうアグリフレッシュ株式会社とアライアンス契約を結び、山梨県韮崎市に完全人工光型植物工場を建設しました。私たちは、パートナーに野菜工場の運営と営業を委託し、顧客に対して工場の野菜を搬入しています。」

佐久間氏の野菜好きは父親譲りである。野菜工場は無農薬の理想的に調整された環境の下で年間を通じた安定的な野菜栽培を可能にしている。また、天候・季節・土壌条件を問わず、露地栽培よりはるかに大きな単位面積当たりの収穫量を実現している。

「現在野菜工場では、例えば、バジルを市場に一括売りしたり、赤茎ほうれんそうを栽培し、コーヒーとイタリア料理を提供するカフェとして全国展開している有名レストランに出荷しています。」と佐久間氏は誇らしげに語った。

赤茎ホウレンソウは、ビタミンA、C及び鉄分、カルシウムを豊富に含んでいる。また高タンパク質、低カロリーの縁黄野菜である。

また植物工場は、もうひとつの異なった観点から重要な会社の資産となっている。それには事業の多角化と雇用の保障を確保したいという佐久間氏の狙いが隠されている。「これによって、もし経済状況が悪化し、やむなく運転手の削減を迫られる事態になったとしても、『野菜工場』での仕事を職員に提供できるのです。」と佐久間氏は説明した。これも、業界の明日を見つめたうえでの佐久間氏の経営者として一つの解答である。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

グリーン・エコプロジェクトと持続可能な開発目標(SDGs)
株式会社商運サービスホームページ

SDGs for All
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「人生の本舞台は常に将来に在り」―明日への希望(石田尊昭:尾崎行雄記念財団事務局長)

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Ozaki Yukio Memorial Foundation
Ozaki Yukio Memorial Foundation

 尾崎行雄は、1890年の国会開設とともに衆議院議員に選ばれ、以後、連続当選25回。没する前年まで国会議員を務め、生涯現役を貫きました。軍国主義が一世を支配するに及んでも、平和の信念を曲げず軍縮を説き続け、命を狙われたことも一度や二度ではありません。

その尾崎が残した言葉――「人生の本舞台は常に将来に在り」。

 これは、憲政記念館(旧尾崎記念会館)に建てられた石碑にも刻まれています。尾崎は76歳のとき、三重を遊説中に風邪をこじらせ中耳炎を併発。心身共に疲弊する中、この言葉が浮かび上がったといいます。「昨日までは人生の序幕に過ぎず、今日以後がその本舞台。過去はすべて人生の予備門で、現在以後がその本領だと信じて生きる」―という人生観です。

尾崎曰く、「知識経験は金銀財宝よりも貴い。しかるに世間には、六、七十歳以後はこの貴重物を利用せずに隠退する人がある。金銀財宝は、他人に譲ることが出来るが、知識経験は、それが出来ない。有形の資産は、老年に及んで喪失することもあるが、無形の財産たる知識経験は、年と共に増すばかりで、死ぬ前が、最も豊富な時である。故に最後まで、利用の道を考えねばならぬ。」(1935年「人生の本舞台」より)

知識や経験は、年を重ねるたびに増えるものです。そして昨日までに得たものを、今日以後に生かす。昨日は今日のための、今日は明日のための準備・訓練期間だということです。たとえどんなに大きな悲しみ、後悔、迷い、悩みであっても、考え方・生かし方ひとつで、次の一歩を踏み出すための大きな「糧」となります。

この度の震災で被害に遭われた方々に対して、このような言葉を今の段階で軽々しく持ち出すべきでないことは重々承知しています。まずは、心の整理と癒しが必要でしょう。しかし同時に、常に明日を見つめ、そこに希望の光を見出すことで人は強くなれると信じています。今この瞬間は、明日のため、未来のためにある――その前向きな思いこそが、被災地の復興と日本の再生に向けた一歩に繋がるのではないでしょうか。

石田尊昭(IPS Japan理事)

*原文は月刊『世論時報』5月号(世論時報社)に、「明日への希望」というタイトルで掲載されたものです。

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石田尊昭ブログ「永田町の桜」

今年もまた、桜の季節がやってきました(原稿執筆時は4月6日)。この時期、毎年ニュースになるのが、米ワシントンにあるポトマック河畔の桜並木です。1912年、当時東京市長を務めていた尾崎行雄(憲政の神。1858~1954)が、ヘレン・タフト米大統領夫人の要望を受けて寄贈したものです。日米友好の証として、ワシントンの春を彩る3000本の桜は、来年で100年を迎えます。

今、日本は未曽有の大震災に見舞われ、社会全体が大きな不安感に覆われています。被災地の惨状と、避難所で厳しく辛い生活を強いられている方々を思うと、胸が苦しくなるばかりです。このような非常時に、いきなり桜の話題を持ち出すなど「不謹慎」と思われるかもしれません。

しかし、桜を贈った尾崎の信念に触れて頂くことが、被災地の方々をはじめ、社会全体が少しでも元気を取り戻せる一助になるのではないかという思いから、あえて取り上げました。

|パレスチナ|「アッバス議長、主権国家としての国際承認を目指す」

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【アブダビWAM】

「パレスチナ国家の承認を求める決議案が来る9月の国連総会に提出されるだろう。」とアラブ首長国連邦(UAE)の日刊紙が5月18日付の論説で報じた。

「同決議案提出の背景には、イスラエルとの交渉を通じた2国間解決案が今日に至るまで全く進展していない状況がある。パレスチナ側は、既にラテンアメリカの数カ国がパレスチナ国家を承認した実績を受けて、今度は独立パレスチナ国家に対する幅広い支持を国際社会から獲得しようとしている。」と、カリージタイムズ紙は報じた。

 
数十年にわたる紛争、度重なる和平交渉の失敗、そして非合法なユダヤ人入植地の拡大に伴う構造的な領土の侵食に危機感を募らせたパレスチナ側は、一方的な独立宣言に踏み切る必要性を強く考えるようになった。こうした背景から、パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス大統領は、最近応じたニューヨークタイムズの取材の中で、「こうした動きを人目を引くための政治活動と見做すべきではない。」と強調した。
 
「国連が1967年の境界に基づいてパレスチナ国家を承認することが絶対必要である。そうすればパレスチナ人は、国土が他国に軍事占領された国連加盟国としての立場で交渉に臨むことができる。現状のままでは、いかに交渉に臨んでも、相手側のいかなる条件を強制的に受け入れるしかない征服された人々の交渉に過ぎないということになってしまう。イスラエル政府は明らかにパレスチナ側のこうした動きを警戒しており、ベンヤミン・ネタニヤフ首相も来る訪米の際には、パレスチナ国家の国際承認に向けた動きを阻止するべく一層強力なロビー活動を展開するものと見られている。米国もパレスチナ側のこうした動きに批判的で、『このような一方的な動きは、和平調停を危うくするだけだ。』と警告している。」と、ドバイに本拠を置く英字日刊紙は報じた。

散々もつれた末にイスラエル側の条件に沿って出来上がる和平調停はどのようなものになるだろうか?既に和平交渉はユダヤ人入植地問題を巡って暗礁に乗り上げており、米国の仲介で再開に漕ぎ着けたいくつかの協議でさえも、イスラエル側の入植地建設停止拒否に直面して頓挫している。

「イスラエルは時代が変わりつつあるということを理解しなければならない。パレスチナ問題は、中東全域及び湾岸地域の国々が等しく解決を望んでいる問題である。さらに、中東・北アフリカを席巻している民衆革命の成功を受けて、民衆の力で変革をもたらすことが可能だという確信をパレスチナの若者たちも共有するようになった。彼らはイスラエルの軍事力や権力をもはや恐れてはいない。数日前の『ナクバ』記念日にイスラエル/パレスチナ各地で勃発した衝突事件の背景にはこうした変化があることをイスラエルは理解すべきである。」と、カリージタイムズ紙は結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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【アブダビWAM】

「今年もパレスチナ人は、多くの同胞が家を追われ難民となった『ナクバ』記念日を迎えた。この節目はパレスチナ国家の将来について真剣に考えるよい機会である。パレスチナ人が故郷に還る権利を認めることはイスラエル-パレスチナ紛争を終わらせる鍵であり、この点について交渉の余地はない。」とアラブ首長国連邦(UAE)の日刊紙は報じた。

 ガルフ・ニュースは、5月16日付の論説の中で、数十万人のパレスチナ人がイスラエルが建国された1948年に強制されて難民になったことは歴史的事実である。彼らは諸外国で生活を立て直さざるを得なかったことからも明らかなように、パレスチナ人は自らの選択で難民となったわけではない。

その後国外での生活を余儀なくされた人々の数は、1948年の「ナクバ」を経験した世代に止まらず、その子孫も含めて数百万人に及ぶ。彼らが住んでいる仮の家屋は、イスラエルに奪われた故郷の市や村の代わりにはなりえないのである。

「ナクバ」記念日を迎える中、イスラエル/パレスチナ各地で衝突が勃発した。少なくとも10名のパレスチナ人がエルサレム、レバノン国境、ゴラン高原、ガザ地区でイスラエル兵士により殺害された。一方、パレスチナ人達はヨルダン川西岸地区(ウエストバンク)及びガザ地区で「ナクバ」を記念してデモ行進を行った。

「パレスチナ人が追い込まれている切迫した状況を考えるとこうした行動は理解できる。パレスチナ国家樹立を巡る和平交渉は、暗礁に乗り上げて既に久しく、中東カルテット(米国、ロシア、欧州連合、国際連合)も主要先進国も交渉再開に動いている様子はない。」

「暴力を終息させるには、和平プロセスはパレスチナ人の大義に対して正義をもたらすものでなければならない。」

「そしてそれが実現するまでは、パレスチナ人が自らの声を伝えようと必要な手段に訴えたとしても、それを非難すべきではない。従って、暴力の連鎖が手に負えなくなってしまう前に、平和的解決に向けた努力がなされるべきである。」と、ガルフ・ニュース紙は結論付けた。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

食糧援助を求める北朝鮮

【ワシントンIPS=カンヤ・ダルメイダ】

1990年代、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)では、控えめに見積もっても約100万人が飢餓にあえいだ。今現在、同国は第二の食料危機の時代にはいりつつある。

今年の2月と3月、世界食糧計画(WFP)は、国連食糧農業機関(FAO)、国際連合児童基金(UNICEF)とともに、北朝鮮全域において国民の栄養状況に関する調査を行った。3月末に発表された報告書によれば、現在、人口2200万人の北朝鮮で350万人が深刻な栄養不足にある。今年末までに食糧が完全に枯渇することが見込まれる中、人口の15%を上回る国民が飢える可能性があるという。

 アミール・アブドラWFP事務局次長は先週、「私たちは、早急に北朝鮮国内に援助物資を持ち込まなければ、既に飢餓状態にある数百万人の人々にとって手遅れとなりかねない状況に直面しています。私たちはとりわけ最も弱い立場にある子供、母親、老人、大家族への影響を心配しています。」と語った。

政府による食料配給はかつてない低レベルにあり、1日に必要なカロリーの半分も提供できていない状態である。「北朝鮮における穀物および食料安全保障に関する評価ミッション報告書(CFSAM)」によると、配給を受けている世帯(総人口の68%)は栄養摂取量を極限まで引き下げている。この状況は、政府が相次ぐ洪水災害から配給量の半減をやむなく決定し、「1日の食事は2回にしよう」キャンペーンが張られた1990年代を彷彿とさせるものである。

北朝鮮は、過去6年間で最も寒さが厳しい冬に見舞われた。政府が十分な穀物を輸入できない中、凶作と口蹄疫被害(国営メディアによると1万頭以上の牡牛、乳牛、豚が感染した)が重なり、北朝鮮は再び深刻な人道危機に直面している。

食糧支援を阻む政治

各国による対北朝鮮人道援助は、過去30年にわたって、増減を繰り返してきた。その背景には、人道支援の必要性を認識しつつも、金正日総書記による孤立政策、核開発問題に加えて、援助供与国側にも支援物資が本当に必要な人々のもとには届いていないのではないかという深い疑念が広がっている事情がある。
 
2年前の段階では、米国が北朝鮮に対する最大の食糧援助国で、2008年から09年にかけての実績は17万トンであった。しかし当時は、このレベルでも、WPFが2010年までに北朝鮮の人々の最低限の栄養摂取量を維持するために必要と見積もった305,000トンには届いていなかった。その後、米国と韓国が北朝鮮支援を停止したことから、既に激減していた北朝鮮国内の食糧供給事情は一層厳しい局面に見舞われることとなった。現在では中国が北朝鮮に対する最大の食糧援助国となっている。

米議会が設立したワシントンの国立平和研究所(USIP)は、5月5日、「与えるべきか与えざるべきか」というテーマで討論会を開催した。米国際援助庁(USAID)のアンドリュー・ナツィオス元長官は、「従来、北朝鮮への食糧支援を巡る討論には、常に軍縮問題と『史上最悪の警察国家』に対する外交姿勢を問う議論がつきまとってきた。しかし、同意できない国の国民は助けられないという立場を採用したとしたら、米国政府は、大規模な食糧支援を現在実施しているスーダンのような国はもちろんのこと、どの国に対しても食糧支援は行わないということになってしまいます。」と語った。

その上でナツィオス元長官は、ハーバート・フーヴァー大統領が(商務長官時代の)1921年から23年にかけて、ソビエト連邦に対し6000万トンの食糧支援を行った事例を引き合いに、「権威主義体制を存続させることなく民衆を救わねばならない。」と語った。

僧侶で人権活動家のPomnyum Sunim師は、「このように(北朝鮮が直面している)複雑な状況を考えれば、私たちは人道支援の原点に立ち返り、困っている人々のために何が必要か、どのように支援をしていくのかを考えるべきです。」と付け加えた。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

*フーヴァー大統領は商務長官在任中の1921年、ロシア革命後の混乱により飢饉で苦しんでいるソ連・ウクライナ地方や大戦後のドイツの人々に食糧支援を提供した。その結果、評論家が共産主義ロシアを助けていなかったかどうか問い合わせたとき、フーヴァー氏は、「2千万の人が飢えている。それらの政治が何であっても、それらは食べさせられるべき」と反論した。(出典:Wikipedia)

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│ブラジル│家庭内の銃を放棄できるか

【リオデジャネイロIPS=ファビアナ・フレシネ

Credit: Viva Rio
Credit: Viva Rio

ブラジル国内にある推定1600万丁の銃のうち8割は一般市民が保有しているという。そのうちほとんどが未登録・違法なものである。

4月7日、リオデジャネイロ西方のレアレンゴで、ある学校の元生徒が60発の銃弾を放って12人の児童を殺害するという事件が起こった。これを受けて、銃所持を抑制するキャンペーンが政府・民間の両方で始まっている。

同じような動きは2004年から05年にかけてもあった。このときは、たとえ違法な銃であっても放棄すれば罪に問われないという方式が採用され、50万丁以上の銃を回収することに成功した。

 非暴力の社会作りに取り組むNGO「ビバ・リオ」のルベム・フェルナンデス代表によれば、銃放棄の際に名前を出さなくてもよいようにするなど、いくつか改善できる点があるという。

NGO「ソウ・ダ・パズ」(私は平和を目指す)によると、ブラジル国内の銃は1600万丁で、そのうち政府部門が保有するのが200万丁。正式に登録されているものは700万丁しかないという。

フェルナンデス氏によれば、1970年代以来、ブラジルの殺人発生率は毎年上がり続けてきたという。2010年の故殺の件数は4万3016件である。

「ビバ・リオ」の推定では、銃放棄の取り組みが進んだことで、この2年間で5000件の殺人を減らすことができたという。

フェルナンデス氏は、銃放棄により熱心なのは女性だと話す。なぜなら、女性は、家庭内において男性による銃の利用に怯えているからだ。

他方、6年前には、銃販売違法化をめぐって国民投票が行われているが、60%の反対により否決されている。

ブラジルにおける銃蔓延の状況について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩

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【国連IPS=タリフ・ディーン】

アラブ世界において政治的騒乱が広がり、それが自国の安全に与える影響についてイスラエルが神経質になる中、2012年に暫定的に開催が予定されている中東地域非核化をめぐる国際会議の行く末が危ぶまれている。

長く待ち望まれていたこの会議の提案は、2010年5月に国連本部で開かれた核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議において189の加盟国が承認したものである。

イスラエルは会議の最終文書を批判しつつも、2012年会議の参加問題については、結論を下さずにいた。

 しかし、イスラエルに対して友好的だったエジプトのホスニ・ムバラク大統領の失脚など、アラブ世界において政治的蜂起が広がるにつれ、イスラエルの懸念は深まってきた。とりわけ、ますますイスラエルにとって敵対的になる環境下での自国の安全について神経質になっている。

イスラエルは、非公式な場では、未申告の核保有こそが自国の安全保障を確保する最良の方法であるとの立場を示してきた。

かなりパレスチナ寄りの政権がエジプトで誕生するなど、政治的環境の変化は、中東非核化を目指した会議へのイスラエル不参加を正当化するものとなるかもしれない。

エルサレムに拠点を置く『パレスチナ・イスラエル・ジャーナル』誌のヒレル・シェンカー編集長は、IPSの取材に応じ、「イスラエルとイラン政府が参加しなければ会議は成功しないが、それには、注意深く手の込んだアプローチが必要となるでしょう。」と語った。

地域の専門家によれば、イスラエルは自国の核保有を公式に宣言していないが、イランは核保有を目指している、と見られている。

シェンカー氏は、アラブ世界で進行中の社会革命の影響に関しては、「事態が不確実であり明らかに現状に終止符が打たれたという感覚が広がることで、安全保障と協力のための中東の枠組みへの動きがますます必要とされることになるだろう。」と語った。

またシェンカー氏は、提案されている中東会議が実際開かれるかどうかは、今後任命される国連特使の力量に負うところが少なくないと考えている。国連特使は、関係各国の政府、市民社会の代表などと協議し、中東会議の枠組みと開催地を定める役割を負うことになる。
 
一方「核政策に関する法律家委員会(LCNP)」の会長で「今こそ平和を求めるアメリカ人の会」の運営委員を務めているピーター・ワイス氏は、中東会議の行方に懐疑的な人物の一人である。ワイス会長は、IPSの取材に対して、現時点の見解と断ったうえで、「イスラエルは核兵器を最後まで放棄しようとはしないだろうから、この会議からは何ら成果を期待できないでしょう。また、イスラエルはおそらく会議には参加しないだろうし、仮に参加したとしても、自国の核放棄の条件として、他国がのめないような条件を出してくるでしょう。」と語った。

また『パレスチナ・イスラエル・ジャーナル』誌の特別号「中東非核地帯―現実的か理想的か?」に寄稿したワイス会長は、「エルサレムやロンドンでの公的会議は別としても、この問題が公に議論されているということは、イスラエルにおいてこの問題について何らかの動きがあることを示しています。」と語った。

ワイス会長によると、4~5年前ならイスラエルの核に関する話題はタブーだったという。

他方、長年にわたってイスラエルを擁護してきた米国は、中東会議の準備を前にしてすでに条件を提示しているという。

イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、昨年7月に米国のオバマ大統領と会談した際、2012年の会議においてイスラエルだけを名指しして取り上げないとの保証を得ている。

ホワイトハウスのある声明を見ても、「すべての国家が安心して参加できるようならば会議は開かれるだろうし、イスラエルを名指しするような動きがあれば会議は開かれないだろう。」としている。
 
シェンカー氏は、「イスラエルに対してNPT加入と核施設の査察受け入れを迫ることは、プロセスのひとつの最終目的ではあるだろうが、もし2012年の会議の参加を包括的なものにし何らかの成功を導こうとするならば、そのことを現段階での入口の条件にすべきではない。」と語った。

またシェンカー氏は、「2012年会議の成功の基礎は、アラブ連盟が2002年にベイルートで開いたサミットで採択されその後の会議でも何度も確認されてきている『アラブ平和イニシアチブ』を基礎とした2トラックのプロセスにあります。」と語った。

一つ目のトラックはイスラエル・パレスチナ、あるいは包括的なイスラエル・アラブ和平に向けた道を模索するものであり、もうひとつのトラックは、非核兵器・非大量破壊兵器地帯など、中東の地域安全保障・協力体制への道を探るものである。

日本における原発事故が会議の行く末に与える影響について、シェンカー氏は、「核の問題に取り組む中東地域の安全保障体制を作ることが急務だという意見を強めることになるだろう。」と語った。

イスラエルの紙面及びオンラインメディアは、通常は国内問題かイスラエルに直接関係のある話題ばかりを取り上げる傾向にあるが、福島での原発事故に関しては数週間にわたって大きく取り上げている。

「ネタニヤフ首相すら、以前よりも原子力に熱心でなくなってきたと発言しています。」とシェンカー氏は付け加えた。

シェンカー氏は、(ドイツ社会民主党に近い)フリードリッヒ・エーベルト財団主催のものも含め、主に学者や安全保障専門家を中心としたイスラエルの良識ある人々との会合など、いくつかの関連ある動きに関わってきたという。それらの動きの中で、2012年の会議にどうやったらイスラエルを参加させることができるか、という問題が話し合われている。

第二に、市民社会による「中東の安全保障・協力に関する会議」(CSCME)が2011年1月にドイツで開かれた。イスラエル、イラン、エジプト、パレスチナ、イラク、シリア、トルコ、クウェートからの参加があり、ちょうどチュニジアの「ジャスミン革命」と時を同じくしていた。

第三に、日本の市民団体「ピースボート」が2011年3月に地中海で「ホライズン2012」と呼ばれる会議を開いている。イスラエル、エジプト、ヨルダン、レバノン、パレスチナ、国連からと、核戦争防止国際医師の会(IPPNW)の欧州代表の参加があった。

シェンカー氏によると、イランからの参加者も招請を受けていたが、テヘランのギリシャ大使館がビザを発行しなかったため、参加できなかったという。

これらの会議の目標は、2012年会議を成功に導くにはどうすればよいか、ということであった。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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|輸送と環境|企業の社会的責任は単なる宣伝文句ではない(水野功)

【IDN東京=浅霧勝浩】

東京都日野市にある千代田運輸株式会社社長の水野功氏にとって、企業の社会的責任とは単なる宣伝文句ではない。それは水野社長と95名の社員が日々の業務の中で実践してる公約なのである。

2002年から千代田運輸では、日本から5100キロ離れたネパールのヒマラヤ山脈の麓で植樹活動を行っている日本のNGOに対する支援活動を行っている。日本ではミルクパックは資源ごみとしてリサイクル会社で換金が可能である。そこで、水野社長と千代田運輸の社員は、各家庭からミルクパックを会社に持ち寄り、同NGOの活動資金の一部として継続的に提供しているのである。

水野功氏が父で創業者水野勉氏の後を継いで代表取締役社長に就任したのは1986年、33歳の時であった。千代田運輸は、功が生まれた1953年に創業、大型車・乗用車の輸送(陸送、海上輸送)、引越業務のほか、物流センターの運営、車両部品の販売を手掛けてきた。

 
水野功氏は、日本がオイルショック後の経済不況にみまわれていた1975年に慶應義塾大学を卒業した。その後、同大学院のビジネススクールで1年修学ののち、小売業大手の株式会社イトーヨーカ堂に就職した。イトーヨーカ堂では本部を中心に6年勤めたが、その内2年は創業者で名誉会長の伊藤雅俊氏の秘書として働いた。

功はその後日野自動車販売に入社、自動車販売の全般について学ぶとともに多くの友人知己を得た。そして1986年、健康に不安を感じていた父勉の要請に従い、千代田運輸に入社した。日野自動車での4年間の勤務は、その後の両社の関係を円滑にする貴重な経験であった。

父勉は水野陸送創業から3年目となる1956年、日野グループから資本参加を受け入れるとともに、役員2名を迎え入れ、日野グループ傘下の運輸会社「千代田運輸」として発展していく選択をした。1990年、日野自動車は、千代田運輸が提携関係開始以来購入した日野車が500台に達したことを記念して、表彰式を執り行っている。

安全第一

従業員の福祉こそ会社繁栄の基礎とのモットーから、水野社長は従業員の「安全第一」を企業の社会的責任における最重要の要素と考えている。「私は、運転手の安全確保の観点から、人的ミスを最小限に抑えるためには、たとえ多額の出費を強いられたとしても会社は安全対策に万全を期す義務があると考えています。」と水野社長はIDNの取材に応じて語った。

「最近の福島第一原発事故に関わる東京電力の事例を見ていて、やはり安全対策に関しては、『十分』というものはないのだということ改めて確信しました。安全対策はどんなに取り組んでも、一つの事故で信用を失いかねないわけですから。」と水野社長は付加えた。

「私たちが扱う商品車両は大型で高価なものが少なくありません。当然保険をかけていますが、事故がおこれば、一台当たり最高7千万円にも及ぶ商品を運んでいるわけですから会社の損失は大きなものとなります。」と水野社長は付加えた。

水野社長は商品車両の輸送でいくつか事故を経験した6・7年前のことを振り返った。千代田運輸では、早くから自動車部品など荷物運搬用のトラックには運転手の運行状況を記録するデジタルタコグラフを搭載していたが、当時、工場から直接販売店に一台ごとに運転して輸送しなければならない大型商品車両については、デジタルタコグラフは搭載されていなかった。

「セーフティーレコーダー」

「幸い、私はデータテック社の『セーフティーレコーダー』という素晴らしい機器に巡り合いました。デジタルタコグラフは特定の車両に固定して使用しなければならないのに対して、セーフティーレコーダーは、シガーソケットから電源をとれる持ち運び可能なタイプなのであす。また危機にはGPSの他、5つのセンサーとコンピューターソフトウェア―が内臓されており、運転手の運行状況を5角形のグラフに点数(100点が満点)で記録していく仕組みになっています。」と水野社長は語った。

この機器は比較的高価なものだが、水野社長は440台を購入し、千代田運輸及び系列会社の全ての運転手に対して、彼らが商品車両や運搬車両(もしデジタルタコグラフが搭載されていない車両の場合)を運転する際には必ず装着することを義務付けた。その上で、新たに7段階からなる評価システム(高い評価グレード順にA,B,C,D,E,F,N)を導入した。「その後、私たちは2年前までにN評価がない状態を達成しました。そして今ではF評価がほとんどない状態にもってきています。つまり、全体的な運転技術はこれにより向上させることができたのです。」

「私は、運転手の皆さんの安全運転への意欲を高める目的で、毎月、運転評価システムで最も高いポイントを獲得したトップ30人の運転手のリストを会社の掲示板に掲載し、また半年毎に最優秀ドライバーに対する表彰を行っています。この評価システムは全ての系列会社にも適用しており、そうすることで、私は毎月各社ごとの運行レベル(評価に基づく平均値)を的確に把握できるのです。」と水野社長は付加えた。

しかし「セーフティーレコーダー」を導入した当初、中には第三者に運行状況を監視されるのを嫌う運転手もおり、「メモリーカードを差し込むのを忘れた」「電源を入れるのを忘れた」等の言い訳をして使用をためらうものも散見された。

しかし水野社長は交通事故を防ぐにはこの機器の装着を会社の規範にしなければならないと確信していた。まもなく、東京-広島間(700km)の長距離輸送でも100点を出す運転手が現れるようになると、「あいつができるのなら、俺にもできる。」という競争意識が芽生えるようになり、結果的に運転手たちがよりよい点数、すなわち自らにとってより安全な運転を目指して競い合うようになった。こうしてまもなく状況は好転していった。

これらの機器にはGPSが搭載されており常に運転手の所在地と運行スピードを記録するため、もし事故に遭遇した際、客観的なデータとして運転手の立場を保護してくれる役割が期待できるという側面もある。

また水野社長は、全国に5つある営業所全てにアルコール検知器を設置した。このシステムはコンピュータ端末・ウェブカメラを経由して本社とつながっており、運転手の顔、名前、アルコールテストの結果、及び血圧が記録され、本社でデータを確認できるようになっている。

またこのシステムは、本社が全国5つの営業所を通じて全ての運転手の点呼を行う役割もはたしている。こうすることによって、千代田運輸の運営側は、運転手の日々の健康状態(例えば、運行時にアルコールを飲んでいるか否か等)を把握できるのである。「アルコールの検知器の導入にはかなりの費用が掛かりましたが、十分価値のある投資だったと確信しています。なぜなら、事故を最小限に抑えることは、わが社の信用のみならず、わが社で働いてくれている運転手を守ることになるのですから。」と水野社長は語った。

従って、千代田運輸が2002年にISO14001を取得し、3度にわたって更新(3年毎)を重ねてきているのは、当然の成り行きだろう。「おそらくわが社は、運送会社としては西東京ではもっとも早い時期にISO14001を取得しています。」と水野社長は誇らしげに語った。

千代田運輸は、超大型積載車で商品トラックや乗用車を運搬した日本で最初の会社である。日本では、1960年代初頭から車の製造が急増し、それに伴う陸送システムの向上を余儀なくされた。このころ超大型積載車のサイズもさらに巨大化し、千代田運輸をはじめ、陸送会社の中でもトレーラーを新たに導入する会社が現れたのもこの時期である。
 
当時は鉄道会社においても、1965年に12台の自動車の運搬が可能な2階建て自動車専用貨車が導入されるほどであった。また海運業界も、商品車両輸送専用の船舶を新たに就航させた。1972年、千代田運輸は、日野自動車から委託を受けていた中型車の陸送能力が間もなく限界に達すると判断、日野自動車側と相談し、新たに海上輸送を開始した。

千代田運輸にとって船舶を利用するメリットは、商品車両を届けるまでに走行メーターをあまり動かさないで納車できるので商品価値が高くなり顧客に喜ばれる点である。また、海上遠距離便には、陸送に伴う交通事故のリスクを避けれるメリットもある。2011年現在、千代田運輸は、船舶会社15社と25航路を契約し、全国ネットで月間5000台の海上輸送を実施している。

コミュニケーション

水野社長は、従業員の安全保護を重視する一方、従業員と地域コミュニティーとのコミュニケーションを積極的に図っている。従業員には家族同伴のバーベキュー大会や忘年会を開催している。また地域コミュニティーに対しては、様々な活動を展開している。1992年以来、水野社長は、地元児童達の社会見学を会社で受け入れ、運輸業が果たしている社会的な側面について子供たちに話をしている。

また2003年以来、日野中央公園および日野市役所周辺で開催される「“ひの”の春を楽しむ会」に協力し、靴の販売、パフォーマンス・スピーチ舞台用のトラックの提供、立て看板及び、分別回収用のごみ箱(可燃・不燃・ビン・缶・ペットボトル)の制作・設置を行っている。また、日野自動車日野工場の敷地内で開催される「さくらまつり」にも靴販売とうどん販売で参加し、積極的に地域とのコミュニケーションを図っている。(原文へ

千代田運輸株式会社ホームページ

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|米国|2001年のタリバン提案拒否がビンラディン逃亡を可能にした

【ワシントンIPS=ガレス・ポーター】

ジョージ・W・ブッシュ大統領が、タリバン政権が2001年10月中旬に提案してきたビンラディン容疑者を穏健派イスラム諸国に引き渡し裁判にかけるとする案を拒否したとき、米国政府は事実上ビンラディン氏のテロ活動に終止符を打つ唯一の機会を放棄したも同然であった。

当時ブッシュ政権には、ビンラディン容疑者を捕縛する軍事計画はなく、タリバン提案を拒否した数週間後、このアルカイダの指導者はパキスタンに逃亡することに成功した。

 タリバン政権最後の外相をつとめたワキル・アフマド・ムタワキル氏は、昨年カブールでIPSの取材に応じ、2001年10月15日当時、イスラマバードで米側に秘密会談を持ちかけ、ビンラディン氏の身柄をイスラム諸国会議機構(OIC)に引き渡し9・11米国同時多発テロ容疑で裁判にかける提案をおこなったことを打ち明けた。同元外相は、タリバン政権崩壊後18か月に亘ってバグラム空軍基地に拘束されたが、今はハーミド・カルザイ政権に許されてカブールに在住している。

イスラム諸国会議機構(OIC)は、イスラム諸国(57国)をメンバーとして構成されサウジアラビアに常設事務局を置く穏健な国際機構である(国連に対して常任代表を有している)。OIC加盟国の判事によるビンラディン裁判が実施されていたら、米国による如何なる制裁よりも、アルカイダのイスラム組織としての信用により大きなダメージをもたらしていたかもしれない。
 
また秘密交渉に際してムタワキル外相は、まず米国がビンラディン氏の9.11同時多発テロへの有罪関与を証明する証拠を提出すべきとする9月下旬以来の要求を取り下げていた。この要求は米国がアフガニスタンのタリバン関連施設への空爆を開始した2日後にあたる10月5日にもタリバンの駐パキスタン大使アブドゥル・サラム・ザイーフ氏によって繰り返されていた。

当時タリバンの外相がビンラディン容疑者を1か国ないしは数か国による裁判にかける新たな提案をしたとの大雑把な報道が流れていた。しかしムタワルキ元外相が昨年IPSに打ち明けるまで、いずれのタリバン関係者も秘密交渉の詳しい内容について語っていなかった。

またムタワルキ氏は、米国との秘密交渉に際して、ビンラディン容疑者をアフガニスタンと2カ国のイスラム諸国が共同で設立する「特別法廷」で裁くという2つ目の提案をしたことも明らかにした。

当時米政府当局は、ムタワルキ氏をタリバン指導者ムハンマド・オマル師の信任を得ている人物と考えていた。駐パキスタン米国大使館が本国に宛てた1998年12月の報告には「彼はオマル師に最も近い政治顧問であり、1997年にはオマル師の外交窓口になっている。」と記されている。

タリバン政権による新提案は、米国が2001年10月7日にタリバン施設を標的としたアフガニスタン爆撃を開始したほぼ直後になされている。このことは明らかにタリバン政権が爆撃とその後に続くであろう米国の攻撃を恐れて、ビンラディン容疑者の取り扱いに関して譲歩する姿勢を示したものと考えられる。

しかしこの段階でブッシュ大統領は、こうしたタリバン側からの新提案を「耳を傾けるまでもない。交渉などありえない。」と宣言して全く取り合わなかった。

しかし米国諜報当局は、数か月前からタリバン政権の内部においてビンラディン容疑者の扱いについて深刻な意見の対立があるとの報告を入手しており、ブッシュ大統領も9月下旬の段階ではその報告に基づいて、タイリバン政権高官との秘密折衝をする権限を米中央情報局(CIA)職員に許可していた。

ジョージ・テネット元CIA長官は回想録の中で、CIAイスラマバード支局長のロバート・グルニエ氏がパキスタンのバルチスタン州でタリバン政権で2番目の実力者オスマニ師と会見したことを記している。

しかしグルニエ支局長はオスマニ師に3つの選択肢を伝える権限しか与えられていなかった。すなわち、タリバン政権ががビンラディン容疑者を米国に引き渡すか、米軍独自にビンラディン容疑者を捜索するのを許可するか、或いはテネット元長官が回想録に記したところの「彼を明確に除去する方法で自ら正義を遂行する」かという選択肢であった。

さらにグルニエ支局長は、10月2日にもオスマニ師に対して、オマル師を追放しビンラディン容疑者を直ちに米国に引き渡すとラジオで声明を出すという提案を行っているが、オスマニ師は先の3つの選択肢とともにこの提案も拒否した。

10月3日、ブッシュ大統領は、「タリバン政権はアフガニスタン国内のアルカイダ組織関係者を引き渡すとともに、彼らのテロ訓練所を破壊しなければならない。さもなくば交渉などあり得ない」と語り、タリバンとの交渉拒否を公に表明した。

ムジャヒディン戦争(1979年以降のソ連によるアフガン軍事介入に対するイスラム諸派による軍事抵抗)時期にCIAパキスタン支局長を務めたミルトン・ベアーデン氏は、ブッシュ大統領がムタワキル外相の新提案を拒否した2週間後にワシントンポストに対して「タリバンにとっては、イスラムの価値観に則った形でビンラディン問題を解決する(=ビンラディン容疑者の身柄をイスラム諸国による裁判で裁く)という面子を保つ方策が必要だった。」と見解を述べている。

「しかし当時の米国政府は、タリバンの言い分に一切耳を貸しませんでした。」とベアーデン元CIA支局長は語った。

ブッシュ大統領は、タリバンと交渉は拒否したものの、一方でビンラディン容疑者を捕捉する軍事計画も予定していなかったため、実質的にビンラディン容疑者と副官達に逃走する自由を与えることになってしまった。事実、ブッシュ大統領はその時点で、ビンラディン容疑者のアフガニスタンからパキスタンへの越境を阻止するために、どの程度の軍事作戦が必要とされるかさえ、把握していなかったのである。

ブッシュ大統領がそうした軍事作戦計画を持ち合わしていなかった背景には、ディック・チェイニー副大統領ロナルド・ラムズフェルド国防長官率いる同政権の安全保障チームの思惑が影響していた。当時両氏はビンラディン容疑者と副官達の捕縛を目的とするいかなる対アフガン軍事作戦にも強硬に反対していた。

ラムズフェルド国防長官とポール・ウォルフォウィッツ次官は、2001年夏の段階でアルカイダが米国へのテロ攻撃を画策しているとするCIAの警告を取り合わなかったばかりか、9・11同時多発テロ後も、同事件がビンラディン容疑者とアルカイダによるものとするCIAの結論に懐疑的であった。

当時のチェイニー氏とラムズフェルト氏の主眼は、あくまでもサダム・フセイン政権打倒のためのイラク進攻に向けた準備が第一義であり、ビンラディン容疑者の問題を、イラク進攻計画の障害にはさせない覚悟であった。

ブッシュ大統領がアフガニスタンに対する軍事作戦を指示する決断をした後の段階においても、アフガニスタン軍事作戦の最高指揮官であるトミー・フランクス米中央軍司令官は、ビンラディン容疑者の捕縛或いはパキスタンへの逃走阻止のための軍事計画の作成を指示されることはなかった。

CIAが2001年11月12日にビンラディン容疑者がカンダハルを発ちパキスタン国境付近のトラボラ地区の洞窟地帯に向かったとの報告を入手した際、フランクス司令官はこの事態に対処するための術を持っていなかった。当時第3軍所属米クウェート駐留軍司令官であったデイヴィッド・W・ラム大佐によると、フランクス司令官は、米大3軍司令官のポール・ミコラセック中将にアルカイダとパキスタン国境の間に(ビンラディン一行の逃亡を阻止する)部隊を派遣できるかどうか尋ねたという。

しかし当時第3軍はクウェートにそうした要請に対応できるだけの兵員も輸送手段も持っていなかった。

ボブ・ウッドワードの著書「ブッシュの戦争」に記されている国家安全保障会議の議事録によると、「そこでフランクス司令官はやむを得ず、パキスタン軍にビンラディン容疑者のパキスタンへの入国を阻止するよう要請せざるを得なかった。」とラムズフェルド国防長官が同会議に証言している。

しかしラムズフェルド長官や政権内の政策顧問たちは、ビンラディン容疑者がパキスタン軍統合情報局(ISI)の長年に亘る同盟者であり、パキスタン軍が彼の捕縛を手助けするはずはなく、このような要請はしょせん滑稽な茶番劇に過ぎないことを知っていた。
 
 クランクス司令官とパルヴェーズ・ムシャラフ大統領の会談に同席したウェンディー・チェンバレン駐パキスタン大使によると、司令官は大統領にトラボラ地区周辺のアフガン‐パキスタン国境地帯に軍を展開するよう要請し、大統領はインドとの国境警備にあたっていた6万人のパキスタン軍を再配置することに同意した。

ただし条件としてムシャラフ大統領は、兵員の再配置には米軍による航空輸送支援が必要と指摘した。ラム大佐によると、その要請に応えるには米軍の一個航空旅団にあたる数百機のヘリコプターと数百人の支援要員が必要だったが、当時の米軍は、その方面にそうした大規模な航空部隊を擁していなかった。

オサマ・ビンラディン容疑者は、外交・軍事いづれの対策も拒否したブッシュ大統領の政策により、事実上パキスタンへ逃亡する道筋が保障されたのである。

ブッシュ政権がビンラディン容疑者の逮捕に真剣でなかったことを言外に認めるかのように、ブッシュ大統領は2002年3月13日の記者会見において、「ビンラディンはもはや重要ではない。」「私は彼にそんなにかまっていられないのだ。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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アフガン増派に疑問を投げかける戦略家

│タイ│学問の自由の試金石となる王政論議

【バンコクIPS=マルワーン・マカン-マルカール】

タマサート大学の歴史学教授ソムサック・ジェムティーラサクル氏(53歳)は、タイ社会のタブーに

触れたことから、昨年12月の中旬以来、様々な非難・中傷に悩まされている。彼のやったことは、タイの国体である王政に関して異なる見方を提示しようとしたことである。

ソムサック教授が12月10日の憲法記念日の講演で言及したのは、不敬罪を規定した刑法112条の見直し、特権を持った枢密院の役割の見直し、王政に関する「一方的見方」を刷り込む教育の見直しなどであった。

本人は、決して王政転覆を狙ったものではないと語る。「私はただ、変化する世界とともに王政も変わる必要があるということ、そして、人々がそれについて自由に討論する必要があるという自分の主張を述べただけです。」とソムチャック教授は語った。

 しかし、この講演以降、彼の自宅には脅迫電話が入るようになり、怪しい男がバイクに乗って彼をつけ回すようになった。また彼のフェイスブックには、「タイから出ていけ」「おまえは投獄されるべきだ」「おまえは善良なタイ人ではない」等の書き込みがなされた。また軍関係者の中には、今後は言葉の脅迫にとどまらないだろうと警告する向きもいる。

タイ陸軍のプラユット・ジャンオーチャー司令官は、4月7日のインタビューの中で、名指しを避けつつも、(ソムチャック教授を)「体制を転覆」しようとする「精神異常の学者」を決めつけ非難した。

チュラロンコン大学政治学部のヴェングラット・ニティポ助教授は、「(ソムチャット教授が提起した)諸課題は、学術界で議論するに当たり、最も気を遣わなければならないテーマです。私たちは法律の枠から逸脱しないよう、いつも議論の範囲を制限し、発言内容を自ら検閲せざるを得ないのです。」と語った。

またニティポ助教授は、「ソムチャック教授を脅迫したり、逮捕しようとする動きは、かえってこの問題を巡るタイ社会の内部対立を深めることになりかねません。タイの学術界は、この問題について議論をリードしていく役割があると思います。」と語った。


このように学術界が王党派や、軍、保守政界に対して公然と議論を挑む今日の現状は、タイの政治文化を研究してきた専門家の間で「前例のない動き」と見られている。

米国のタイ政治学者デイヴィッド・ストレックフス氏は、「制度としての王政を批判的に検証し民主主義を一層前進させようとする組織的なアプローチは、タイ現代史において初めての動きだと思います。ソムチャット教授と彼を支持するグループは、王室を非難が及ばない位置に据えてきた1947年以来の法律にあえて挑戦することで、君主制度を立憲制が敷かれた後のあるべき場所に位置付けようとしているのです。」と語った。

1939年までシャムとして知られたタイは、1932年まで絶対王政を強いていたが、同年フランス留学経験をもつ改革派を中心とする立憲革命が勃発し立憲君主制が打ち立てられ、民主化への道が開かれた。その後タイは、野心的な軍事指導者達による18回のクーデターと一連の軍事独裁政権を経験してきた。

タイには王室に関する不敬罪(禁固3年~15年)があり、IPSの調べによると、2009年には164件が立件されている。投獄されたのは、政治活動家や、王政を侮辱するようなコメントをウェブに書き込んだ者などである。なお、野党議員1名と学者1名が不敬罪に問われ国外逃亡している。

近年、政府当局による大学への締め付けが強まっている。あるバンコクの大学では、タイの民主主義における王政の役割について尋ねられた学生の試験答案を開示するよう政府から要求があった。また、ウェブ上で王政について記述しただけで大学への入学を拒否された学生の事例もあった。さらに消息筋の情報によると、政府の治安部門の機関から各大学に対して、不敬罪にあたる恐れのある学内グループを監視するよう要請があったという。

しかし、ソムチャック教授らの行動に触発され、王政について議論したいという学生たちは増えており、彼らの欲求がこうした当局からの締め付けで抑えられているわけではない。タマサート大学のある学生は報復を恐れて匿名を条件に、「これは学問のやり方で議論していかねばならないテーマなのです。」と記者に語ってくれた。

タイにおける王政のありかたを巡る諸議論について報告する。(原文へ

翻訳/サマリ=IPS Japan浅霧勝浩


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