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|アラブ世界|ISESCO、宗教に対する犯罪の罰則化を訴える

【ラバトWAM】

イスラム教育科学文化機構(ISESCO)は、国際連合に対して、宗教を標的としたあらゆる形の犯罪に対して罰則を適用する国際法を成立させるよう要求した。

ISESCOは、9月9日に発表したコミュニケの中で「フロリダ州の教会「ダブ・ワールド・アウトリーチ・センター」(テリー・ジョーンズ牧師)が9月11日に予定していたコーラン焼却集会は、キリスト教各派の教会、キリスト教、ユダヤ教の聖職者、欧州委員会、米国政府、教皇庁諸宗教対話評議会から非難され、世界中でイスラム教徒による抗議運動を引き起こす引き金となった。」と指摘し、すべての宗教を中傷するあらゆる行為を非合法化する行動を直ちにおこすよう訴えた。

 また同機構は、「イスラム教やイスラムの聖地に対する差別的な攻撃がこのように法的な抑止力が不在な中で継続されている現状は人類にとっての汚点である。」と主張した。同コニュニケは、ダブ・ワールド・アウトリーチ・センターの計画を厳しく糾弾するとともに、全てのイスラム教徒コミュニティーに対して、このような挑発的かつ敵意に満ちた態度に接してもイスラム教の高尚な価値観を遵守した行動をとるよう訴えた。

そしてその具体的な方策として、イスラム教徒中心的な価値観を広く知らしめ、イスラム教に対する歪められたイメージや誤解を解く努力をしていくことを推奨した。(原文へ

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

|輸送と環境|持続可能な交通政策を目指すアジア

【バンコクIDN=浅霧勝浩】

アジア太平洋地域の都市人口は今後20年で毎日15万人ずつ拡大し、現在の16億人が2030年には27億人にまで拡大するであろう。これは、人口移動のパターンや自家用車の利用にも影響を与える。

アジア太平洋地域は、他の地域と比べて、世界で自動車がもっとも多いところである。結果として、交通部門は地球温室効果ガスの発生源としてはもっとも高い成長をみせている。世界全体の温室効果ガスの13%、エネルギー関連CO2排出の23%をこの部門が占めている。

名古屋にある国連地域開発センター(UNCRD)によれば、これによって、人間の健康や都市環境の質、経済生産性、社会的公正、その他の持続可能性に関するあらゆる側面が悪影響を受けるという。

 このことを前提として、「環境面から持続可能な交通(EST)アジアイニシアチブ」がUNCRDと日本の環境省の合同で始められた。ESTの本質的な要素に対する共通の理解をつくること、温室効果ガスの削減など、複数部門にわたる環境・交通問題に地域・国家両レベルで対処するため統合的なアプローチが必要との理解を広めることを目的としている。

現在の参加国は、ASEAN加盟国、アフガニスタン、バングラデシュ、ブータン、中国、インド、日本、モルジブ、モンゴル、ネパール、パキスタン、韓国、スリランカである。

このイニシアチブの下で、2005年に愛知県で「第1回地域ESTフォーラム」が開かれた。この会議で出された「愛知声明」は、12のテーマ領域を基礎として、持続可能な交通に関する目標の包括的リストを提示している。

声明は、目標達成に向けた進展を参加国が定期的に報告する基礎を築いた。その後、アジアの44都市が「環境面から持続可能な交通の促進に関する京都宣言」に署名し、愛知声明で打ち出された目標を承認している。

2009年、ESTアジアイニシアチブは、「環境面から持続可能な交通を低炭素社会とアジアでの緑の成長のために促進するソウル声明」を作成した。この声明はとくに、持続可能な環境と気候変動に対処するために共通の利益をもたらすウィン-ウィン解決に向けた、地域の努力の必要に焦点をあてている。

「持続可能な環境の新しい10年」をテーマとして8月23日から25日まで開かれた「第5回地域ESTフォーラム」では、交通部門に関するさまざまな問題を討議し、とりわけ途上国と移行期経済にある国家を念頭において、さまざまな持続可能な政策オプションに関する参加国間の共通理解を醸成していく戦略的な基盤を構築することを目指した。

タイのバンコクで開かれたこのフォーラムは、タイの天然資源環境省との協力でUNCRDが主催した。日本の環境省や国連アジア太平洋経済社会委員会など多くの国際組織、ドナー組織からの支援も得ている。

フォーラムは幅広い関連問題を取り上げ、アジアからの参加者は、パートナーシップの構築や資金調達メカニズム、都市・地方部の鉄道設置、バス高速輸送、省エネ、持続可能な貨物輸送など、「持続可能な交通」という枠組みの下で多くの経験交流を行った。

交通と持続可能な開発の問題が2011年の「持続可能開発委員会」第19回会議(CSD19)で検討されることもあり、「第5回地域ESTフォーラム」はCSD19に対する地域からのインプットを行う役割を期待された。

その主要成果は、法的には拘束力のない「2020バンコク宣言:2010-20年の持続可能な交通に向けた目標」である。2020年に向けて、持続可能な交通に関する数値目標を打ち出している。バンコク宣言で出された自発的目標は、CSD19への貢献として提示される。

エネルギー
 
 
交通部門はアジアのめざましい経済成長に貢献する重要ファクターであるが、アジアにおける第3位のエネルギー消費部門でもある。そのエネルギー消費は、他の経済部門、他の地域よりも伸びが高く、モータリゼーションの急速な進展と、経済開発による旺盛な交通需要がそれを加速している。

UNCRDによれば、これはアジア太平洋地域におけるエネルギー安全保障に悪影響を与えるだけではなく、大気汚染、世界的な温室効果ガスの排出、交通渋滞、交通事故による死傷、貨物輸送の非効率化、都市への急激な人口移動、経済生産性の喪失などの点でもよくない影響がある。

持続可能な開発に関する世界サミット(WSSD、2002年)で採択された「ヨハネスブルク実施計画」は、各国政府や関連主体に対して、持続可能な開発に向けた交通政策の実施を呼びかけた。

この戦略は、交通の安価性・効率性・利便性だけではなく、都市の大気の質と健康を改善することを目指し、環境面から見てより健全で安価、社会的に受け入れ可能な車両技術を発展させるなど、温暖効果ガスの削減を図ることを目標としている。

のみならず、持続可能でエネルギー効率がよいマルチモード型交通システム(大量公共輸送システムなど)の開発への投資を促進し、パートナーシップを育てることも目指している。

ヨハネスブルク実施計画でなされた約束に沿って、適切な政策的枠組み、組織・政府上の構造、パートナーシップと資金調達メカニズムを作ることが、効率的で安全、CO2をあまり排出しない交通システム・サービスを作るために肝要だとUNCRDは考えている。

「統合的な交通政策を広範に作っていく必要がある。でないと、アジアの交通を積極的に変えていく機会はしばらく失われることになるかもしれない」とUNCRDは警告する。

統合的な交通戦略とは、持続可能なモードへのインセンティブを高めること、自家用車の保有を抑えていくことなどを含む。

持続可能な交通のすべての側面は、互いに補完しあうような形で作られねばならない。都市・農村の両方で自動車に依存しない公共交通システムを作ること、複数モードの貨物輸送インフラ、資金面からみて実行可能な運用・維持に関するビジネスモデル、住民の行動パターンに影響を与える広報と宣伝、省エネと温暖効果ガス抑制を達成するためのクリーン技術といったものが、その要素になるだろう。

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

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世界中の人々のための音楽(民音音楽協会)

【東京IDN=浅霧勝浩】

そのレパートリーの奥行きの深さと次元の広がりは、美しい音楽と華麗な演技が荘厳なる融合をとげたオペラを始め、壮観で躍動的な創作をなすバレエ、魔法のような指揮捌きから紡ぎだされる、感動的なクラシック音楽の調べ、人々の心に歓喜と幸福の息吹を吹き込む、ミュージカル、ジャズ、民族音楽、舞踊、等、他に匹敵するものが無いと言うよりは、途方もなく素晴らしいものであると言える。

Min-on
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 この全てが「民衆音楽」即ち「人々のための音楽」である。民主音楽協会(民音)は、「音楽が人の誇りを呼び覚ます」との理念の下に、まさにこの「民衆音楽」をもって、人々の生命(いのち)を豊かにし、国籍、人種、世代の壁を乗り越えて、人々の視野を広げてゆく事を使命として、活動を推進している。 

民音の社会的使命の基盤となる音楽文化の役割について、著名な仏教指導者であり、作家、哲学者でもある、民音創立者の池田大作博士は次のように述べている。「優れた音楽には、直接、人間の心に語りかける不思議な魅力があります。この魂と魂の共鳴には、時代を超え、距離を越え、民族を越え、人々の心と心を結びゆく力があるのです。そうした文化の交流こそ、人々が互いの偏見や過去の憎悪を乗り越え、平和な社会を創出する上で、重要な役割を果たせると確信しています。」 

民音のもう一つの使命は、世界中の良質で最上な音楽と舞台芸術を、庶民の手に届く値段で、全ての人々に対して提供することである。 
 おそらく民音は、現在世界における舞台芸術のプロモーターとしては、最大規模の民間・非営利団体であり、日本全国に、毎年500円(約5USドル) の会費を支払う120万人の「賛助会員」を擁して支えられている。一般的に公的資金給付や企業献金によって支えられている、国内外の多くの財団法人とは異なり、民音は賛助会員の会費を基金として運営されている。 

民音はまた、東京国際音楽コンクールを主催すると共に、全国の小中学校及び高等学校を対象に無料コンサートなども開催している。 

東京の行政・経済の心臓部である新宿区の中心に建つ民音文化センターには、民音音楽博物館が併設されており、図書館には12万枚以上のLPやCD、4万5千点を越える楽譜や音楽資料、約3万冊の音楽関連の書籍等を所蔵している。また、音楽博物館には世界中から収集された古典ピアノを始め、アンティークの各種オルゴールや民族楽器等が展示されている。 

民音は1963年の創設以来、世界平和を求める人々の心に具体的な形をもって応えられるように、人と人とを結ぶ架け橋を築く舞台芸術貢進の新たな機会を創り続けてきた。1965年には独立した財団法人として認可を受け、以来、日本最大級の民間文化交流機関の一つといえる程に成長を遂げている。 

「私達は、世界的な新たなるルネッサンス運動と言えるような、世界中の音楽文化の復興を願い、仕事をさせて頂いていています。そのためにも、明日を担う創造力に満ちた世代の、芸術を志向する心を触発する事を目的とした、音楽プログラムを提供できるよう心がけています。」と、民音の代表理事を務める小林啓泰氏は語る。 

こうした活動を目にしてきた人達は、民音は「東京のMETである」と表現する。「MET」とは、即ち、世界中で知られているニューヨーク市のメトロポリタン・オペラ・アソシエーションのことであり、アメリカで最大のクラシック音楽の団体として、年間220回のオペラ公演を主催している。 

しかし実際には、民音が「MET」を大きく凌ぐことは否めない事実である。 

103カ国 

民音は40年以上に渡って、102カ国・地域と共に、音楽、舞踊、舞台芸術の文化交流行事をもって、世界中に友情の輪を広げてきた、と小林氏は語る。本年秋には民音が招聘する、カメルーン国立舞踊団の公演をもって、103カ国・地域との文化交流を果たす事になる。 

民音はまた、世界各国において、日本の著名な音楽や舞台芸術のグループの公演を企画して、日本文化を海外に紹介する大きな役割を果たしてきた。こうした海外公演は、JMF(フランス青年音楽協会)やICCR(インド文化交流評議会)等の各国団体と協力関係を結びながら、海外における日本文化に対する理解を育み、相互交流を果たす目的をもって行われてきた。 

民音が、1979年に開始した「シルクロード音楽の旅」と題する公演シリーズは、10回に渡り、イラク、インド、中国、旧ソビエト連邦、モンゴル、トルコ、エジプト、シリアといった国々のアーティストを招聘して開催された。2007年に一旦シリーズを終了したが、その後2009年には、同シリーズが再開され、エジプト、ギリシャ、ウズベキスタンの芸術家による合同公演が行われている。日本においては、一般的に民族音楽・民族舞踊等に対する関心は薄く、総人口の1パーセント以下の人々しか興味を示さないという現状の中で、こうした公演を開催する事は、真に大志を抱いた試みであったと言えよう。 

民音はまた1981年に、ヨーロッパからミラノ・スカラ座の全キャストを日本に招聘して、日本で初の試みとなる世界第一級の正真正銘のオペラ公演を実現した。また、1999年には、ケニア、ナイジェリア、南アフリカ等のアフリカ諸国から音楽家・舞踊家を招聘して、エチオピアの舞踊団の25回公演ツアーをもって、「アフリカ音楽紀行」と題するシリーズが開始された。その後もこのシリーズは継続されて、2001年にはザンビアからのグループ、そして、2003年にはモロッコからのグループの公演が行われている。 

民主音楽協会は、日本における世界の民族音楽のレコード制作の第一人者としても知られており、世界からアーティストが日本公演に訪れる際に、録音スタジオにおいてレコーディングを行っている。 

また、世界中の若き指揮者の登竜門となる音楽コンクールを開催し、過去30年以上に渡り、海外から招聘したアーティストによる無料の学校コンサートを行って、120万人を越える日本の子供達がその恩恵をこうむってきた。 

民音音楽図書館は、日本国内では最大級の所蔵を有して、一般市民に開放されている。 

1991年に民音が主催して開始された東京国際振付コンクールは、この種のものとしては世界でも指折りの存在であり、世界中から十数名の振付師と舞踊団の参加をもって開催され、将来活躍が期待される若い芸術家のための貴重な舞台を提供している。 

前代未聞の存在 

「日本において、民音のような大変に幅広く各種の音楽を網羅した活動を展開している団体は、他に類を見ない。」と、音楽評論家であり日本作曲家協会会長を務める石田一志氏は語り、「実際には、全世界を見渡しても同等の団体は存在しないのではないか」と言葉を継いだ。 

民音の小林啓泰代表理事はIDNのインタービューに対して「私共は、現在まで102カ国・地域からアーティストを招聘してまいりましたが、一般的な多くの日本人にとっては、それらの国々の中でも、レバノンやヨルダンなど、世界地図の上で何処にあるかを指し示せない国が、少なくとも50カ国くらいはあると思います。」と、語った。 

そして、「中東のある国から芸術家を招聘した際、チケット販売を委託している業者から、苦情が寄せられたことがありました。彼らは、『その国について知っている人はあまりいないし、知っていたとしても内戦が起こっている国であると言う事だけで、そのような国に音楽文化と言えるものがあるとは思えないというのが普通です』と言って、『民音は、そんな国から招聘した芸術・文化の公演を見るために、チケットを購入する人がいると思っているのですか』と、疑問を投げかけられたこともありました。」と、実例を紹介してくれた。 

民音に勤めた過去34年間の経験をふり返って、小林氏は多くの実例をあげながら、「民音では通常約二時間の公演を行っていますが、少々疑問視されるようなアーティストのグループであっても、2時間の公演を見てくださるうちに、お客様の心の中に何かが変化してゆくのを、今まで何度も実際に見てきました。」「実際に、公演終了後にお客様に書き込んでいただいているアンケートの中には、『今日、私は人生で初めて、この国にもこんなに素晴らしい芸術文化があるという事を、学ばせてもらいました。』とか、『いつかこの国に行ってみたいという気持ちになりました。』との声を寄せて下さっています。」と語ってくれた。 

また、音楽博物館の館長代行を勤める上妻重之氏は、「私共は、イラン・イラク戦争の最中に、中東の国々からアーティストのグループを招いて公演を行った事がありました。」と、過去の思い出を語りながら、民音の公演が、お互いに紛争状態にある国々から招いた芸術家の間にも、より良い相互理解を生む手助けとなってきた事実を紹介してくれた。 

「その時、各国のアーティスト達は、各政府機関の間の取り決めをもって来日していた事から、初対面の時はお互いにあまり友好的ではありませんでした。しかし、日本各地を旅して、公演を繰り返して共に過ごす時間が長くなるに連れて、お互いの心の中で少しずつ何かが変ってゆくのが見えて、とても嬉しく思いました。公演旅行の終盤には、同じ舞台に立って演技する彼等の間に、国家間の敵意や憎悪を乗り越えて、お互いに尊敬しあう友情の絆が、ありありと見て取れました。」と、しみじみと語ってくれた。 

また、上妻氏は、中米四カ国からアーティストを招いた際、地理的に隣接する国々でありながら、互いの国を訪れたことが無いという事を知り、大変に驚いたと言う。遠い日本まで来て初めてお互いに出合う機会を得て、お互いに芸術家として尊敬しあい、友情を育むことが出来たことについてふれて「この機会が、其々の国に帰った後も継続される、相互交流と友情の始まりになった事は明らかです。」と語った。 

民音は紛争に苦しむ国々からもアーティストを招聘してきた。「そうした国々からのアーティストの公演には、日本の一般的な市民、特に青少年にとって、大変に素晴らしい側面あり、公演を見た学生達から、民音に対して『何をしたら、あのような国々の人達を支援できるか、是非教えてください』といった手紙が寄せられることがあります。」と、小林代表理事は語る。 

子供達は、学校に来て演奏してくれる音楽家達を通して、そうした紛争に苦しむ国がある事を学び、その国や其処に住む人達についてもっと知りたいとの思いを募らせる。子供達の心に、その芸術家達の音楽に対する敬意が芽生え、テレビでその国の紛争の悲惨な状況を見れば、その芸術家達に対して、個人的な友情や同情さえ感じるようになるのである。 

痛みを共有する 

もう一つの実例として、エチオピアの国立舞踊団のメンバーが、愛媛県の学校の生徒達と会って交流した後に、一人の女子高校生が書いたものを紹介してくれた。「今日まで私は、エチオピアについて殆んど何も知らないという程、本当に無知であった事を白状します。でも今日からは、この国で何が起こっているかを、もっと身近に見ていこうと思い、ニュース等をしっかりと追ってゆく事にしました。いいニュースであれば、あの人達のためにも幸せに感じるでしょう。でもそれが、飢饉とか戦争とかで、あの人達が苦しむような悪いニュースだったら、あの人達の痛みが私自身の痛みに感じられると思います。」 

小林氏は、民音の試みが観客の心の中に、他者に対する関心の思いを喚起している事実を誇りに思っている、と語ってくれた。 

民音が公演の度に配るアンケートに対する回答を見れば、日本の観客は一般的に、外来の文化に触れる事により、感銘を受け感動している事が明らかである。また、開発途上国から来たアーティスト達にとっても、いつものように他よりも劣る立場にいる人々として見られるのではなく、豊かな美しい彼等の文化を演じ示してゆける事が、彼等にとって誇りの源泉となっている事は明らかである。 

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「このような文化交流は、相互に尊敬し感謝しあう心を基盤にした、大変に貴重なものであると言えます。」と、民音広報宣伝部の山口幸雄氏は語る。そして、「文化交流は、どの様な国であれ他国より優れた文化や他国より劣った文化などありえない、という大変に重要な認識を生むことになります。また、文化交流には、他の国々の人々や、彼等の文化に対して、偏見や偏狭な思いを持つ事を諫止する働きがあります。」とも語った。 

民音は今後も、その活動の範囲を更に拡げ続けてゆく事を志向しながら、現代の世界において重要な役割を果たしてゆく事を確信している。「文化交流は、漸進的で、賛美されることの無い、遠回りに思えるような活動ですが、実は、相互理解と平和に向かう最も確実な道であります。」と、小林氏は結論して、「なぜなら、今までこの道を進んで来て、私達自身が成し遂げた事を実際にこの目で見て来たからです。そして、私達はこれからも弛むことなくこの仕事に精一杯取り組んでまいります。」と語ってくれた。

IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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ロシアの熱波が世界に警鐘を鳴らす

【ウィーンIPS=スティーブン・リーヒー】

Smoke from hundreds of wildfires blankets Moscow. Credit: Citt/flickr/creative commons license

アイオワ州北部の農村にある風力発電なら、温室効果ガスを生まない電気を年間30万ドル分作れるかもしれない。しかし、米国政府が実際にやっていることは、エタノール燃料の製造に対して大量の補助金を提供することだ。しかし、それは地球温暖化には何の効果もない、と地球政策研究所のレスター・ブラウン氏は言う。

ロシアで熱波が発生し、世界的な穀物不足が懸念されている。モスクワでは、8月9日、最高気温37度を記録し、28日連続で30度越えとなった。8月の平均気温が21度だから、猛烈な暑さである。この暑さで、少なくとも1万5000人が亡くなっている。

穀物への被害も深刻で、ロシア、カザフスタン、ウクライナでは、干ばつによって生産が4割以上減るだろうとみられている。これら3国で世界の穀物輸出の25%を占めているが、ロシアのウラジミール・プーチン首相は、ロシアはすべての穀物輸出をストップすると発表している。

 すると、世界中で穀物不足が生じることになる。すでに、今年8月時点で、食料高騰に悩まされた2007年8月よりも小麦やとうもろこし、大豆の価格が高くなっている。

ブラウン氏は、「ロシアの熱波は、世界的な食料供給がいかに脆弱であるかについて、警鐘を鳴らしてくれている」と語る。

「そのような状況の中、米国で生産される穀物のうち25%を大量の補助金によってバイオ燃料生産に費やすのは誤っている」とブラウン氏は主張する。「エタノール補助金をやめ、真の二酸化炭素削減に向けて緊急に動き出すべきときだ」。

ロシアの熱波と世界的な食料危機、地球温暖化対策の関連について考える。(原文へ
 
翻訳/サマリー=IPS Japan

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|Q&A|「これ以上、地球温暖化を進行させる訳にはいかない」(レスター・ブラウン、アースポリシー研究所創立者インタビュー)

│スーダン│なかなか進まない少年兵の除隊

【南スーダンIPS=ザック・バドーフ】

ティモシーがスーダン人民解放軍(SPLA)に11才でむりやり入れられたとき、最初にされたことはぶたれることだった。そしてティモシーは駐屯地で、他の兵隊の荷物を運んだり、服を洗ったり、薪を集めたり、食事を作ったりするよう命じられた。 

ティモシーには十分な食べ物が与えられなかった。なぜなら、彼自身によれば、「食べ物は村から集めなきゃいけなかった。SPLAからは特に与えられなかった」からだ。

ティモシーは4月末にSPLAから除隊された少年兵91人のうちのひとりである。2005年に南北スーダンの間で和平協定が結ばれて内戦に終止符が打たれたはずだったが、実際には少年兵が雇われ続けていた。依然として、SPLAには900人の少年兵がいるとみられている(2005年には3000人)。 

SPLAは、国連との協定で、今年12月までに少年兵の使用をやめると約束している。しかし、ある元少年兵によれば、今でも「軍に戻らないか」と電話がかかってくることがあるという。 

少年兵の社会復帰を阻んでいるものは、食料難だ。ひとたび軍から放逐されると、食べる手段を失ってしまうのである。 

南スーダンのユニティ州には「南部スーダン動員解除・軍縮・社会復帰委員会」(SSDDRC)が置かれているが、資源不足のために、除隊された少年兵に対する援助を十分行えずにいる。頼りになるのは、世界食糧計画(WFP)のような国際機関だ。 

ティモシーは、幸運なことに、家族が彼を食べさせることができた。WFPは、ティモシーの家族の別の子どものために3ヶ月分の食糧を供給することで、側面支援した。ティモシーは、もう軍隊に戻るつもりはない。 

南スーダンの少年兵除隊問題について報告する。(原文へ

翻訳/サマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩 

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|軍縮|被爆地からの平和のシグナル

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【ベルリンIDN=ラメシュ・ジャウラ】

米国が消し去ることができない核の痕跡を残した2つの地-マーシャル諸島のビキニ環礁と日本の被爆地ヒロシマ-が、新たな平和のシグナルと共に、再び歴史的な観点から国際社会の注目を浴びている。 

7月25日から8月3日にブラジリアで開催された国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界遺産委員会は、マーシャル諸島ビキニ環礁の世界遺産(文化遺産)登録を決定した。 

米国は、第二次世界大戦後、冷戦の始まりと連動して、太平洋のマーシャル諸島にあるビキニ環礁において、核実験を再開することを決定した。そして、地域住民を立ち退かせた後、1946年から58年の間に、52年の世界初の水爆実験を含む核実験を67回に亘って実施した。

 ユネスコによると、ビキニ環礁には、1946年の核実験でラグーンの底に沈められた数々の船舶や、水爆実験で出来た巨大なブラボークレーター(ブラボーは実験に使用された水爆の名称:直径1.8キロ、深さ70メートル)など、核実験の威力を伝えるうえできわめて重要な証拠が保存されている 

この実験は、広島に投下された原爆の7000倍もの威力によって、ビキニ環礁の地質、その自然環境、そして放射能を浴びた住民の健康に深刻な爪あとを残した。 

「ビキニ環礁は歴史を通じて、その地上の楽園というイメージとは逆説的に核時代の夜明けを象徴する存在であり続けた。同環礁は、マーシャル諸島共和国初の世界遺産登録地となった。」とユネスコは述べている。 

ビキニ環礁の歴史をたどると、1885年にドイツが植民地化する前には僅かな数の船が訪れた記録が確認される程度である。その後第一次世界大戦(1914年~18年)中の1914年に、日本の海軍が他のマーシャル群島と共に同地を占領、1920年には国際連盟の決定により、日本の委任統治領となった。 

日本は南洋庁(パラオ諸島のコロール島に設置)を通じてビキニ環礁を統治したが、1939年に第二次世界大戦が勃発するまでは、概ね現地の諸問題に関する運営については、同地の伝統的な支配層の手に委ねた。その後ビキニ諸島は、1945年に第二次世界大戦が終結した後は、86年にマーシャル諸島が独立するまでの約30年の期間、太平洋諸島信託統治領の一部として米国の支配下におかれた。 

原爆ドーム 

一方広島の場合、1996年、広島市の平和記念碑(原爆ドーム)が「世界最初の原爆が引き起こした悲劇の象徴」として世界遺産に登録された。 

原爆は1945年8月6日、広島県産業奨励館の上空で爆発、秒速440メートル、一平方メートル当たり35トンの爆風が地上を襲った。同館の建物は破壊され僅かな壁と鉄骨のみが残った。 

戦後、この建物跡は広島市民に「原爆ドーム」の通称で呼ばれるようになり、1966年、広島市は原爆ドームの永久保存を決定、その後定期的に保存工事が行われている。 

2010年広島平和記念式典-毎年8月6日に広島平和記念公園で開催-が今までの式典と異なるのは、過去最多の74カ国(昨年より15か国多い)の代表が参加した点である。 

また昨年10月に原爆記念碑に献花したジョン・ルース駐日米国大使が、(原爆を投下した)米国の外交官として初めて今年の広島平和記念式典に参列したことは、前向きな動きとして多くの日本人に歓迎された。また核保有国であるフランスと英国も、今回初めて平和記念式典に代表を参列させた。 

 また潘基文氏は現職の国連事務総長として初めて、広島平和記念式典に出席し演説を行った。 
 
韓国出身の潘氏は、20万人以上の死者をだした1945年8月の広島・長崎への原爆投下時、まだ幼い子供(1歳)であった。第二次大戦終結から今日に至るまで原爆の影響で命を落とした人々は40万人を超え、犠牲者はいまも増え続けている。「私がここで何が起きたのかを十分に把握したのは、しばらく後になってからのことでした。」と潘事務総長は語った。 

潘事務総長は、そうした認識を背景に、核軍縮と核不拡散を最優先課題に掲げ、2008年10月には、核軍縮に向けた5項目提案(①すべてのNPT締約国、とくに核保有国が条約上の義務を果たし、核軍縮に向けた実のある交渉に取り組む。②安保理常任理事国が核軍縮過程における安全保障について協議を始める。③包括的実験禁止条約発効、兵器用核分裂物質生産禁止条約の交渉を直ちに無条件で開始する。④核保有国が自国の核兵器について説明責任を果たし、透明性を確保する。⑤他の種類の大量破壊兵器の廃絶や通常兵器の生産・取引の制限など補完的措置をとる。)を打ち出している 

潘事務総長は、世界最強の国々によるリーダーシップ、国連安保理への新たな関与、そして新たな活力に沸く市民社会の動向など最近の核廃絶に向けた前向きな動向について触れ、「私たちの力を合わせる時がやって来たのです。」と語った。 

潘事務総長はまた、「同時に、私たちはこの勢いを保たなければなりません。」と語り、自身も9月にニューヨークで軍縮会議を招集し、核軍縮に向けた交渉を推し進める決意を述べた。 

潘事務総長はまた、被爆者の証言を世界の主要言語に翻訳したり、「地位や名声に値するのは核兵器を持つ者ではなく、これを拒む者である」という基本的な真実を教えるなど、学校における軍縮教育の必要性を強調した。 

グローバル・ゼロ 

潘事務総長は、彼自身が「深く感動した日」という長崎訪問の後、広島に来訪した。長崎では、原爆博物館を訪問し多くの被爆者の方々とも面談している。潘事務総長はまた、爆心地に建立した原爆落下中心地碑に献花したほか、別に建立されている原爆朝鮮人犠牲者追悼碑も訪問した。 

潘事務総長は、「長崎訪問を通じて、核兵器は禁止されなければならないという私の確信はより強固なものとなりました。」と語り、全ての国家に対して、5項目提案を支持し、出来るだけ早期に核兵器禁止条約(NWC)制定に向けた交渉に同意するよう強く訴えた。 

「私たちはともに、グラウンド・ゼロ(爆心地)から「グローバル・ゼロ」(大量破壊兵器のない世界)を目指す旅を続けています。それ以外に、世界をより安全にするための分別ある道はありません。核兵器のない世界という私たちの夢を実現しましょう。私たちの子どもたちや、その後のすべての人々が自由で、安全で、平和に暮らせるために。」と潘事務総長は語った。 

潘事務総長は訪問した広島、長崎双方において被爆者団体の代表と面談した。そして広島では記者団に対して、被爆者と対話をとおして、核兵器のない世界実現に向けて「一層努力していく決意を固めました。」と語った。 

また潘事務総長は、被爆者の核廃絶に向けた献身的な取り組みに多くの人々が鼓舞されてきたことについて、「(被爆者の方々の)苦しみは想像を絶するものであり、彼らの勇気と不屈の精神は並大抵のものではありません。」と語った。 

また潘事務総長は、広島の歓迎会での挨拶の中で、核兵器の廃絶は「私たちの共通の夢(Common Dream)というよりも、むしろ常識的な(Common Sense)政策なのです。」と語った。 

このところ、米国とロシアが核備蓄量の3分の1削減を約した戦略兵器削減条約(START)合意など、幾つかの勇気づけられる公約が世界の核兵器国によってなされてきている。また、今年4月にワシントンDCで開催された核安全保障サミットと、5月に国連本部で開催された2010年核不拡散条約(NPT)運用検討会議の双方においても、進展がみられた。 

潘事務総長は、「そしてなによりも」、世界の宗教界、弁護士、医師、環境問題専門家、労働指導者、女性、人権活動家、政策責任者等の代表に加えて、世界の4000都市の市長が参画した平和市長会議の運動など、「市民社会にも(核廃絶を求める)新たな活力が見られます。」と語った。 

「かつて核兵器政策の責任者の地位にいた者や元軍人でさえ、(核軍縮を求める)声をあげているのです。」と、潘事務総長は語った。また、潘事務総長は国連と企業経営者の連携を進めるグローバル・コンパクト・ジャパン・ネットワークでの演説の中で、平和への責任については第一義的には政府にあると指摘しつつも、経済界が果たせる重要な役割についても強調した。 

企業の投資、雇用判断、コミュニティーとの関係、環境や安全保障への取り組みは、そのあり方次第で、「ある国の紛争に火を注ぐ緊張関係を創出したり悪化させることもあれば、一方でその国の平和を維持することにも貢献できるのです。」と潘事務総長は強調した。 

潘事務総長の広島平和記念式典での挨拶は、国連が青年層の(核廃絶への)願望を共有するのみならず、核兵器なき世界の実現にむけた彼らの取り組みを支援する内容であった。このことは、広島平和記念式典に先立って8月1日に広島で開催された青年平和総会及びアジア青年平和音楽祭においても示されていた。 

創価学会インタナショナル(SGI)の池田大作会長の核廃絶を求める呼びかけに応えて、広島県、長崎県、沖縄県を含む日本各地の創価学会青年部員は、NWCの制定を求める署名運動を展開した。 

このキャンぺーンを通じて、合計2,276,167人の署名が集められ、同青年部は、5月にニューヨークにおいて、国連及び核兵器不拡散条約(NPT)運用検討会議に対して署名を提出した。その後NPT運用検討会議では、NWCに十分な注意を払う必要性を強調した最終文書が全会一致で採択された。 

民衆の声を結集して核廃絶を目指す、青年によるキャンペーンを率いてきた白土健治創価学会青年平和会議議長は、広島・長崎・沖縄3県サミットの参加者に対して、「創価学会青年部が6カ国の青年を対象に実施した意識調査の結果は、ほとんどの民衆が『核兵器が廃絶された方が安心できる』と考えているというものでした。」と語った。 

意識調査は日本、韓国、フィリピン、ニュージーランド、米国、英国の10代から30代の青年層を対象に実施され、4,362人が回答した。 

調査結果によると、67.3%が、「いかなる状況においても核兵器の使用は受け入れられない」と回答した。一方、僅か17.5%が、「核兵器の配備を、国の存続が脅かされている状況下において最後の手段として認める」と回答し、6.1%が、「国際テロや大量虐殺を防止するためならば認める」と回答した。(原文へ) 

翻訳=IPS Japan 

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

|パキスタン|今こそ支援の手を差し伸べるとき

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【アブダビWAM】

「今こそパキスタンに支援の手を差し伸べる時だ。7月末から2日間に亘ってパキスタン北西部を襲った集中的豪雨とそれに伴う洪水により、カイバル・パクトゥンクワ州のスワト渓谷だけでも45の橋が倒壊するなど、スワト(Swat)、シャングラ(Shangla)両地区へのアクセスが不可能となっている。

パキスタンは36時間を越える過去数十年で最も激しい豪雨を受けて国家非常事態宣言を発令した。」と、アラブ首長国連邦(UAE)の日刊紙が報じた。

「現時点で洪水による死者は800人以上にのぼっており、100万人以上が家・田畑を失い被災難民となっている。向こう数日間で濁流は容赦なくさらに南下を続けシンド州に流入し、より大きな被害をもたらすだろう。」とガルフニュースは8月2日付の論説の中で報じた。

 「パキスタン政府は未だに公式な支援要請を行っていないが、友好国は積極的にパキスタン政府に連絡をとり必要な支援物資を特定すべきである。UAEはいち早く行動をおこし、毛布、テント、衣料品、食料を含む緊急支援物資を現地に送り届けた。被害が拡大する様相が明らかな現状から今後の事態を考えると援助物資の重複を心配することなく積極的に新たな支援を現地に対して差し伸べるべきである。例えば、過去2日間、17機のヘリコプターが支援活動に従事しているが被害に対して投入機数が少ないのは明らかである。パキスタン軍はさらにヘリコプターを有しているが、今後保有台数を上回る台数が必要になる可能性もある。」と同紙は付け加えた。

国連人道問題調整事務所(UNOCHA)のパキスタン現地事務所は、「100万人以上の生活が洪水被害により深刻な影響を受けており、国連スタッフはパキスタン政府と協力して避難先、医療支援、飲料水、食料の供給に努めている。」と語った。

「今は、タリバンやアルカイダが国内で活動しているとするパキスタン政府に向けられた疑惑をめぐっる議論をするときではない。同国の国民は早急な緊急支援を必要としているのであり、国際社会は一刻も早くこの緊急事態に応えて各国ができる支援のありかたを見出すべきである。」とガルフニュース紙は結論付けた。

翻訳=IPS Japan戸田千鶴


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|パキスタン|「タリバン、パキスタン軍を翻弄する。」とUAE紙

|軍縮|広島原爆記念への準備が進む

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【東京IDN=浅霧勝浩】

核廃絶はまだ近い将来に実現しそうな状況ではない。しかし、米国、英国、フランス(米英仏)の3カ国は、明らかに広島・長崎への原爆投下65周年を、今日起こっているパラダイムシフトを世界に印象付ける適切な機会と捉えているようだ。 

これらの核保有3カ国は、1945年の広島原爆投下の死没者を慰霊するために毎年8月6日に開催される平和記念式典に、今年初めて政府高官を参列させる予定である。

Photo: Hirohima Peace Memorial Park. Credit: Wikimedia Commons
Photo: Hirohima Peace Memorial Park. Credit: Wikimedia Commons

 また潘基文国連事務総長も、8月5日に長崎市、そして翌日6日に広島市を訪問し、同地で原爆の犠牲となった韓国人被爆者らの慰霊碑を訪れる予定である。潘氏はまた、6日には歴代国連事務総長としては初めて、広島平和記念式典に参列し、続いて広島平和記念資料館を訪問する予定である。 

日本の毎日デイリーニューズは、7月30日付の電子版でこうした動きに対する日本の全般的な感情を反映して、「心強い動きである。米英仏と国連事務総長の決断をたたえ、参加を心から歓迎したい。」と報じた。 

米英仏はいずれも日本と友好関係にあるが、先の第二次世界大戦においては(日本と戦い原爆を投下した)連合国側に参加していたことから、これまで広島平和記念式典に代表を参列させることを控えてきた。 

「また米国政府関係者の間には、広島、長崎への原爆投下が日本の降伏を促し、米兵ら『100万人の命が救われた』などの主張が依然として根強い。また米国社会には日本軍による真珠湾攻撃を「卑劣」とする怒りもある。さらに核保有国の米英仏と日本とでは核兵器についての見解も異なる。」と同紙は報じた。 

 しかし2009年4月に「核兵器なき世界」に言及したバラク・オバマ大統領のプラハ演説が、流れを変える転機となった。オバマ大統領は演説の中で、米国は核兵器を使用した唯一の核保有国として行動する「道義的責任」があると述べた。 

「オバマ大統領の演説は、将来における(核のない世界という)究極の目的に人々の目を向けさせ、日米間に横たわる当時の原爆使用についての感情的な相違を緩和する効果をもたらした。おそらくこのことが、核問題で協調姿勢をとってきた米英仏3国の初の広島平和式典参加につながったのではないか。そして、こうした流れは2009年10月にジョン・ルース駐日米大使が広島原爆慰霊碑に献花したことからもうかがえる。」と同紙は報じた。 

この画期的な原爆投下65周年の節目となる8月6日の平和記念式典を前に、7月27日から29日にかけて「2020核廃絶広島会議」が開催された。この3日間に亘る会議は平和市長会議(核なき世界を実現するという共通の目標のために団結した4000以上の都市の市長と自治体関係者からなる国際機構)が主催したもので、関心をもつ市民に加えて、市民社会組織、自治体、各国政府の代表が参加した。 

潘事務総長は参加者へのメッセージの中で、「明確にしておきたいのは、安全を保証し、核兵器の使用から逃れる唯一の方法は、それを廃絶することなのです。」と述べ、核廃絶こそ全ての人々に安全を保障する最良の方策である点を強調し、核廃絶に向けた地球規模の努力をさらに進めるよう訴えた。 

「核軍縮・廃絶は夢だと片付けられることが多いが、核兵器が安全を保証するとか、一国の地位や威信を高めるとかいった主張こそが幻想なのです。国家がそうした主張をすればするほど、他の国も同じような態度をますますとるようになります。その結果、すべての国が危険に陥ることとなるのです。」と潘事務総長は語った。 

また潘事務総長は、「核兵器廃絶を達成するための平和市長会議が提唱する『2020ビジョン運動』の予定表はとくに重要です。また私は、広島・長崎の原爆を生き残った『被爆者』として知られる方々が、自分たちの体験した核兵器の恐怖を世界に語ろうと決意したことを深く称賛します。」と述べ、さらに、「すべての指導者、とくに核兵器国の指導者に対し、1945年の原爆投下で瓦礫と化した経験を持つ広島と長崎を訪ね、核戦争が引き起こした激烈な現実をじかに見るよう強く求めます。」と語った。 

核兵器廃絶への5項目計画 

Ban Ki-moon/ UN Photo
Ban Ki-moon/ UN Photo

潘事務総長は、メッセージの中で、核兵器廃絶へ向けた具体的なアプローチとして2008年10月に自身が提唱した「5項目計画」について言及した。その計画はまず、NPT加盟国に対して、新たな条約或いは強力な検証システムに裏打ちされた相互補強的な枠組みを通じて、核軍縮に関する交渉を進めるよう求めている。 

また国連安全保障理事会に対して、軍縮プロセスにおいて安全保障を強化するための他の方策を検討するよう求めている。具体的には、①法の支配、説明責任および透明性の強化。②核兵器以外の大量破壊兵器の廃棄を進めること。③ミサイル、宇宙兵器、通常兵器の制限等である、これらは全て、核のない世界を構築するためには必要不可欠な措置である。 

平和市長会議が主催した「2020核廃絶広島会議」は、この国連事務総長による5項目計画を支持し、全ての政府に対して、2020年までに核兵器を廃絶するための核兵器禁止条約(NWC)の締結に向けて、即時交渉を開始することを強く呼びかけている。 

「この目的を達成するために、包括的な法的プロセスへの支持を表明している各国政府は、志を同じくするNGOと協力し、NWC締結に向けた交渉を促すために2011年に特別核軍縮会議を開催すべきである。」と市長たちは訴えた。 

包括的核実験禁止条約(CTBT) 

また市長たちは、全ての政府に対し、核兵器及び関連基幹施設の開発、実験、製造、近代化、配備、使用を中止するよう要求した。 

「この点に関しては、各国が、包括的核実験禁止条約(CTBT)を緊急かつ無条件に発効させるようさらなる努力をすべきである。CTBT の発効にその署名と批准が必要な未加盟の9カ国には特に責任がある。」 

また市長たちは、「『非核兵器地帯条約の議定書』の発効にも尽力すべきであり、その責任は核保有国にある。」とし、各国政府に対し、核兵器及び軍関連支出を大幅に削減し、その予算を市民の便益及び環境保全の目的に利用することを求めた。 

「私たちは、米国議会に対し『核兵器施設や核兵器システムの近代化目的の支出を停止し、核兵器プログラムに関する支出を冷戦時代レベルよりも遥かに引き下げ、それらの予算を各都市の直面する緊急課題へ配分すること』を求めた全米市長会議を高く評価します。この目的達成のため、地方自治体や各国政府及び市民は、核兵器を支援したり核兵器による恩恵を享受している事業体への投資引き上げを検討することができる。」 

また市長たちは、核兵器の共有を合意している、又は核の傘に隠れている全政府に対し、軍事並びに安全保障の理念、概念、方針から核兵器を排除、拒絶することを要求した。 

さらに市長たちは、各国政府に対し、核兵器開発の直接的又は間接的な援助となるような核関連輸出を行わないことにより、NPT に基づく核拡散防止の責務を果たすことを要求した。 

そして唯一の被爆国として核兵器廃絶の先頭に立つと明言した日本政府に対しては、「一例としては、広島や長崎へ各国、特に核保有国の首脳を招致し、各国政府やNGO が、核兵器が人類にもたらすであろう未来について議論し、これらの兵器廃絶に求められる緊急性を認識し、核兵器禁止条約実現に向けて協力する会議を開催することが可能である。」と述べ、日本政府が目的達成に向けて積極的に行動することを求めた。 

また各国政府及び国連に対しは、再検討会議の最終文書に明記された核軍縮教育を広く実施するよう求めた。そしてその内容については、「広島・長崎の被爆の実相と被爆者のメッセージを正しく伝え、若者たちの批判的思考能力、指導力及び核兵器廃絶に向けた信念を育てるものでなければならない。」と記されている。 

「またこのような教育は地域、家庭、学校、職場、及びコミュニティにおいても行われるべきである。」同会議はまた、「核兵器に関する情報を次世代に正しく伝える革新的手段を開発する必要性」を訴えている。(原文へ) 

翻訳=IPS Japan 

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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仏教指導者、核兵器禁止条約の早期実現を訴える(池田大作SGI会長インタビュー) 

│パレスチナ│映画│ある街の「非武装の勇気」

【ワシントンIPS=エレン・マッシー】

アイド・モラール氏は、一見ただの物静かな小柄な男に過ぎない。しかし、このまったく無名な男が、パレスチナの非暴力抵抗運動の顔になったのである。

モラール氏は、最近封切られた映画「バドラス」の主人公である。この映画は、イスラエルの設置する「セキュリティ」壁に対抗して、平和裏に抵抗運動を進めるヨルダン川西岸(ウエストバンク)バドラス村の人々を描いている。

ワシントンDCとエルサレムを拠点とするジャストビジョン(Just Vision)が制作した本作品には、次のようなシーンが力強く映し出されている:数十本のパレスチナ国旗をはためかせながら麓のイスラエル軍とブルドーザーに対峙するために岩だらけの丘を歩いて下ってくる村人達の姿、ブルドーザーで無残に掘り起こされ曲がりくねった根をさらけだして赤土に横たわる(おそらく太古からそこに育ってきたであろう)オリーブの木々、そして抗議者の様々な表情…まだあどけない子供達の顔、あたかもこの地の生活と苦悩を顔に刻みこんだような、よく日焼けした皺だらけの老人の顔、しかしこの地に生きることに誇りを持ち、決してこの地を追い立てる迫害には屈しない固い決意と信念に満ちた表情…。

 しかしこの映画のもつ強力なメッセージ性は、欧米のメディアに浸透しているパレスチナ人抵抗運動のイメージとは対照的な点にある。欧米のメディアでは、緑のバンダナとマスクをしたハマス戦士の姿から、イスラエル軍の戦車に投石する子供たちの姿まで、パレスチナ人による「暴力的な抵抗」のイメージが大勢を占めており、本作品「バドラス」のプロデューサーであるロニット・アブニ氏が言う(パレスチナ人による)「非武装の勇気」という側面がヘッドラインを飾ることはない。

先週ワシントンDC地域で催された上映会の一つに出席した地元選出のブライアン・ベアード民主党下院議員は、2009年にオバマ大統領が「パレスチナ人は暴力を放棄しなければならない」と発言したカイロ演説を含むパレスチナ人に対する非暴力の訴えについて言及し、「マハトマ・ガンジーやマーチン・ルーサーキング牧師のような指導者が必要だ」と観衆に語りかけた。そしてモラール氏の方に向き直って「皆さんの目の前に、まさにそのような指導者がいます。」と語った。

ベアード下院議員とミネソタ州選出のキース・エリソン民主党下院議員の両氏が出席した上映会は、米国連邦議会からほんの数百ヤード離れた場所で開催された。両議員は上映後に開催した討論会にもモラール氏、プロデューサーのロニット・アブニ氏、ジュリア・バッカ氏と並んで参画した。

エリソン議員は、下院議会のある議事堂のフロアで有志と共にこの映画のチラシを配っていることを打ち明けた。エリソン議員は、「(議員達から)どれほどの関心を獲得したかは未知数ですが、チラシ配布をやめるつもりはありません。」と語った。

ベアード、エリソン両議員はイスラエル・パレスチナ紛争に対する米国の政策に関して熱心に取組んでおり、下院議会において、しばしば米政界の大多数の意見に反する立場をとってきた。また両議員はゴールドストン報告書を非難する米下院決議に反対した数少ない議員であり、2008年末から翌年初めに実施されたイスラエル軍によるガザ侵攻後にガザ地区を訪問した最初の米国議員団のメンバーでもある。

このように米国の議員が参画して映画「バドラス」の存在について語ることこそ、映画のメッセージを一般の人々に伝えていこうとする制作者達の悲願である。なぜなら映画「バドラス」は、ベルリン国際フェスティバルや先週ワシントンDCで開催されたばかりのシルバードックスフェスティバル等、世界中の映画祭で成功を収めているにもかかわらず、(政治環境が明らかにイスラエル政府支持の)米国では大手の映画の配給元を見つけるのが極めて困難だからだ。

この点についてプロデューサーのアブニ氏は、「映画のテーマが(米国では)あまりにも政治的に厄介なものなのです。私たちは様々な障害にぶつかることになるでしょう。」と打ち明けた。

映画「バドラス」の米国プレミアショーは、60年に及ぶパレスチナ紛争への注目が高まる中で開催されることとなった。ヨルダン川西岸地区(ウエストバンク)におけるユダヤ人入植地政策を巡っては、オバマ政権とメンヤミン・ネタニヤフ首相の間で不協和音がおこっており、さらに先月にはイスラエル軍が公海上で(ガザ地区への救援物資を輸送中の)船上の平和活動家を急襲し殺害するマビ・マルマラ号事件が勃発するなど、占領下にあるパレスチナ領域を巡る国際世論の圧力は変化しつつある。

映画「バドラス」が誕生し、制作者やベアーズ、エリソン両議員のような政策責任者がそのメッセージを多くの人々が聞くべきだと熱心に訴え続けている今日の動きこそがそうした新たに生じつつある変化の一例といえよう。

エルサレム旧市街近くのシェイク・ジャラ村におけるユダヤ人入植地拡大計画に対する抗議運動から、ウエストバンクのビリン村、ニリン村におけるイスラエル当局によるセキュリティ壁建設に対する抵抗運動、そして、今回のイスラエル軍による襲撃事件に先立ってガザへ物資を運んだ5隻の支援船など、非暴力の抗議運動は、パレスチナ占領地域におけるイスラエルの諸政策に対して、事件でもなければほとんど注意を払わない国際世論の無関心にもかかわらず、粘り強い抵抗を継続している。

このような非暴力的な抗議行動は、時として成功を導いている。バドラス村では、イスラエルがセキュリティ壁の設置位置をグリーンラインに近づけ、村の土地の95%を守ることができた。

一方シェイク・ジャラ村では、昨年11月以来の毎週の抗議活動にも関わらず、ユダヤ人入植者の住宅建設が今週になって開始された。しかし映画「バドラス」に描かれているように、村の抗議行動は、多様な宗教、人種、国籍に属する人々が行動をもとにすることに成功している。

映画制作者は、イスラエル当局と対峙した活動家によって現場で撮影された不安定ながら臨場感がある映像と、非武装の抗議参加者への対応に戸惑うイスラエル国境警備隊を含む全ての当事者へのインタビュー、そして各種メディア報道の内容を巧みにつなぎ合わせることで、バドラス村の出来ごとのみならず、パレスチナ占領問題全体をとりまく多面的な側面を観客が理解できるように工夫を凝らしている。

6月中旬に米国映画協会で催された上映会に出席したアイド・モラール氏は、観客に対してシンプルながら率直な英語表現で「今私達が目にしたのは異なる種類のイスラエル人です。」と語った。彼が言及したのは映画の中に登場したバドラス村でパレスチナ人の村人たちと行動を共にするイスラエル人活動家達のことである。

「米国からもバドラス村をはじめセキュリティ壁の建設ルートにある村々に活動家達が合流して行動を共にしています。こうした私たちの非暴力の抗議活動を支えてくださっている米国の人々を誇りに思っています。」とモラール氏は続けた。

抗議活動の現場から数千マイル離れたところで群衆を前に穏やかな物腰ながら明確なメッセージを伝えつづけるモラール氏や映画制作に携わった人々の存在こそが、この映画「バドラス」が持つ最も強力な側面かもしれない。この映画が描いた内容は、バドラスというパレスチナの一つの村、そしてそこで非暴力運動に身をささげる一人の人間に焦点をあてたものにすぎないかもしれないが、この作品は世界が往々にして見過ごしがちな、こうした無名の村人たちの顔や声を生き生きと伝えている。

映画「バドラス」は、来週パレスチナ自治政府の所在地ラマラとエルサレムで公開される予定である。(原文へ)

翻訳=IPS Japan

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|輸送と環境|「危険を克服し、更なる安全輸送を目指す」(江森東)

【東京IDN=浅霧勝浩】

Azuma Emori
Azuma Emori

江商運輸株式会社、今では商社が輸入した危険物-主にファインケミカルと飲料用アルコール-を、港から関東一円(東京都及び隣接5県)の顧客工場まで輸送しているが、の歴史を紐解くと、そこには長い人間のドラマを垣間見ることができる。1969年に先代の江森良夫氏が同社の前身を設立する前は、江森石油株式会社が、東京都、埼玉県で27のガソリンスタンドを経営していた。

息子の江森東氏-現江商運輸社長-が話してくれた同社の歴史は、敗戦から驚異の回復力を持って戦後の「日本」を築きあげた日本人の弾力性を体現したものである。

終戦から6か月前の1945年2月、鎌倉時代(12世紀)から続く埼玉の料亭の跡継ぎであった江森社長の父、良夫の元にも召集令状が届き、陸軍兵士として船で朝鮮に運ばれた。

関東軍勤務を命じられた良夫は、そこから当時日本が実質支配していた「満州国」行きの軍用列車に乗ったが、中国・朝鮮国境通過後、列車は南に方向を変え、最終的には中国南部の広州にたどり着いた。

Gosho Unyu

良夫はそこで僅か3つの戦闘に参加したところで、本国日本は広島・長崎に原爆が投下され間もなく降伏、現地で終戦を迎えることとなった。良夫の部隊は「八路軍」(1937年から1945年まで日本と戦った「新四軍」と並ぶ中国共産党革命軍)の捕虜となった。

息子の東社長は、2年間の捕虜生活を経て中国から帰国した父が話してくれたことをよく覚えている。父良夫は捕虜収容所で日本軍士官達の会話に注意深く耳を傾けていた。それは当時、あらゆる情報が軍士官達のもとに集まってくるからであった。彼らは、「石油こそが時代の要請に不可欠なものであり、日本の敗因は、ある意味で石油不足が原因だ。」と話していた。

戦時中の度重なる爆撃で荒廃し、厳しい食料不足に苦しむ日本に帰国した父良夫は、新しい時代の要請に対応できる新たなビジネスを始めなければならないと確信した。そして、代々続いた実家の料亭を再建するのではなく、代わりにガソリンスタンド経営のビジネスを始めた。こうして江森石油株式会社が誕生した。

しかし時代は下って石油ショックが起こる4年前(1973年)頃になると、父良夫は、石油業界の将来の見通しを憂うようになっていた。そして1969年、江森石油株式会社のタンクローリー部門を分離独立させ、江森運輸を設立した。そしてその8年後、会社名を現在の「江商運輸」に変更した。

当時石油危機が囁かれる中、ガソリンスタンド経営にも陰りが見えていた。

Gosho Unyu


石油についての噂

息子の東社長は当時を思い出して、「当時は世界の石油資源が向こう20年から30年で枯渇するという噂が実しやかに語られていました。そうした状況でしたから、私が拓殖大学を卒業した頃には、父は次々とガソリンスタンドを閉鎖していました。タンクローリーはまだ稼働していましたが、既に自社の石油は運んでいませんでした。」と語った。

「幸い、当時近所に大きな石油備蓄施設があり、父はそこの石油を運ぶことができたのです。そのような状況を見て、私は危機感を覚えたものです。つまり、運送事業経営の安定化を確保するには、日本の基幹産業とリンクした荷物を取り扱うようにしていかなければならないと思ったのです。」と、IDNの取材に応じた江森東社長は語った。

こうした危機感から、息子の東社長は、会社の将来はファインケミカルと飲料用アルコールにあると確信し、それに合わせて会社の運営体制を徐々にシフトしていった。「当初はまだ本格的なファインケミカルの時代ではありませんでした。当社のタンクも鉄製だったので、ファインケミカルを入れるとタンクは腐食しゴムは溶ける状態でした。ですから私は時代の要請に適応できるよう、少しずつステンレスタンクに代えていったのです。」

「私は当時若かったですからどこでも飛び込んで多くの人に会い、自分の考えを聞いてもらいました。幸運なことに、拓殖大学の先輩方を始め年配の方々に可愛がってもらい、多くの助言やチャンスを得ることができたのです。」と江森社長は語った。

江森社長は、当時父親の経営する会社に入社したが、父からそうするように命令されたわけではないという。「実のところ、当時父は運送ビジネスを閉じて貿易部門に活動を絞ることさえ考えていました。もし当時父が私にこの運送会社で働くよう命令していたら、多分違った仕事を選んでいたかもしれません。そんな訳で、当時は時代の要請に応えられない会社なら倒産しても構わないと思っていましたから、思い切ったことができました。また当時はそういうことができた古き良き時代であったのかも知れません。」

その後二つの大手商社(伊藤忠商事、三菱商事)との信頼関係を構築した江森社長は、両社が輸入する基幹産業にリンクした荷物(ファインケミカルと飲料用アルコール)の関東地域における輸送を独占的に手掛けている。

Gosho Unyu

「私たちは、顧客との人間関係を醸成するのはもちろんのこと、荷主企業の厳しい要求に応えられる高い品質を常に向上させていく努力を続けなくてはなりません。」と江森社長は言う。「この点についてISO(国際標準化機構が定めた規格)が日本で導入された際に会社としてどうすべきか取引先に相談しました。その際の回答は、多額の費用を必要とするISOを必ずしも要求・推薦はせず、他の方法でも日本における安全基準を満たしていける方法があるというものだったのです。」

そこで江商運輸はトラック運送事業者の安全・安心・信頼の証となる「Gマーク(安全性優良事業所)」を危険物輸送の会社としては早い段階で認証を獲得した。「結果論ですが、今ではGマークなしに貿易会社の工場内にトラックが乗り入れることは殆ど不可能になっています。荷主企業は安全面に関しては極端と言っていいほど厳しく、私達危険物を扱う運送業者に対して要求されるレベルはかなり高いものです。」と江森社長は語った。

江商運輸は全日本トラック協会が実施するGマーク(有効期限2年)を2005年に取得し、それ以来認証資格を保持し続けている。


更なる安全輸送を目指して

江商運輸では、安全輸送の品質とともに、運転手の安全確保を重視しており、その観点からドライブレコーダー(DR)を導入している。(同社が導入したDRは、事故の映像記録も行うが、運転中のデータが全て記録される仕組みとなっている。さらに点数で総合評価をするようなシステムとなっている。)

「当社が事故防止対策に取組むきっかけは、特別なことではなく、『輸送の安全確保が第一義である』ということだと思います。私どもの輸送品目は危険物の液体が中心であることから、荷主企業から求められる品質基準が非常に高いレベルであることなども影響しています。荷主企業の工場等で積荷の危険物、劇毒物を一滴でもこぼしてしまったら、それは『始末書』ものなのです。こうした、厳しい安全・品質要求レベルに慣れているため、当社はDR導入前も事故はまったくといっていいほどありませんでした。」と江森社長は説明した。

このように安全基準の維持・向上に厳しく取組んできた江商運輸だが、それでも更にDR導入を決意させた理由があった。

「大型トレーラーなどは車体が大きいだけで世間から『怖い』というイメージが持たれています。目の錯覚で『幅寄せされた』など間違った証言を裁判所でされるときもあるでしょう。その際に、問題となる事故前後の映像を収録したDRの映像があれば、不必要な争いを避けることができます。」と江森社長はDRが従業員を守るツールであることを強調した。また続けて、「走行距離が圧倒的に長い営業用の緑ナンバートラックは、それだけ『もらい事故』に遭遇する確率も高くなりますから。」とも語った。

江商運輸は、輸送品目が液体の危険物ということと、輸送車種が大型トレーラーが主力ということもあり、同社の運転手は、危険物や毒物関係を取扱う資格や牽引免許など、各種資格保持者が揃うプロ集団である。「これまでの安全対策も運輸安全マネジメントに基づいてぬかりはありません。」と、江森社長は語った。

そうであっても、DRを導入する際は会社として様々な面で気を遣ったという。

「一番のポイントはDRを全車に一気に導入することでした。」と東社長の息子で専務の江森学氏は語った。江森専務は、安全面をはじめ同社の実務を一手に担当している。

「DR導入に際しては都内に所有する車両のみが助成措置の対象でしたが、運転手全員に対して公平を期する観点から、都外に所有する車両も含めて全営業所の全車両への搭載を完了しました。最初は管理する側もされる側も手探り状態でしたが、双方が改善点を提案し合い、現在では日々の業務に完全に溶け込み稼働しています。」

「DRの導入で一番苦労したのはアイドリングです。荷卸し時など液体ポンプを稼働する必要があるため、アイドリングをとめられません。つまり荷卸し作業のせいでDRの点数が低くなってしまうのです。その後、試行錯誤を経て、最近は当社の業務特性にセンサー設定を詳細に調整できるようになり、運転手に不利益な思いをさせないで済むようになりました。」と江森専務(34)は説明した。

地域への貢献活動

江商運輸は主に危険物を取り扱うことから、地元警察署に協力して交通安全活動を推進するとともに、東京消防庁が主催する様々なボランティア活動にも積極的に参加している。

江森社長は、長年に亘って東京都消防庁管轄の葛西危険物安全協会の役員を務めてきた。同団体は、危険物を取り扱う運輸会社、ガソリンスタンド、関連工場で構成されており、職員への安全教育や東京消防庁と協力した防火意識の向上を目的とした広報活動を展開している。江商運輸は、東京消防庁が毎月14日に実施する防災啓発活動にも積極的に参加している。こうした活動が評価され、2009年3月、東京消防庁は江森東社長に消防行政協力賞(消防総監賞)を授与した。

「父が城東交通安全協会の副会長をつとめる一方で、私は子供向け交通安全教室の開催や、交通安全チラシの配布、交差点での歩行者誘導など、交通安全活動に従事しています。また毎月14日には地元の消防署に協力して同署の広報車の運転も担当しております。」と、江森専務は語った。

Manabu Emori

江森社長は現在59歳だが、ずっと以前からの考えに従って、55歳になったら頃から、会社を代表して前面にでるのは控え、代わりに息子の専務に公的な場に出る機会を譲ってきたという。

「私は息子がどうのように考えているかは分かりませんが、彼には自身の努力で取引先等との信頼に基づく人間関係を構築していってもらいたいと考えています。どうしてもそうした人間関係だけは相続させることができるものではありませんから。時代は常に刻々と変化しており、ファインケミカルを取扱うことが時代遅れとなってしまうことだってあり得ます。先のことは分かりません。だからこそ、息子には会社を時代の要請に適応させるには何をすべきか彼なりのセンスを磨いていく中で、戦略を立てていってもらいたいのです。」と、江森社長は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

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