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HIV/AIDS蔓延防止に向けたカンボジア仏教界の試み

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【HIV/AIDS研究事業現地取材からの抜粋】

カンボジア仏教界は、ポル・ポト政権下で僧侶の大半を虐殺されるなど壊滅的な打撃を受け、現在も再建途上の段階にある(カンボジアには約3,700の寺院があり、約50,000人の僧侶と9,000人の尼僧が仏教界と伝統的なモラルの再建に従事している)。

しかし、内戦後の価値観の混乱に伴う諸問題(拝金主義と人身売買の横行、性行動の早期化/カジュアル化とHIV/AIDSの蔓延等)に直面して、伝統的なモラルの体現者としての僧侶の役割が改めて見直されるようになってきている。

 
カンボジア政府も、かつて村落共同体の中核として人々の精神生活に大きな影響を及ぼし、青少年のよき指導者であったパゴダ(寺院)の僧侶の役割を再び重視するようになっており(カンボディア政府が仏教界の再建に実質的に着手したのは、1988年に55歳未満のカンボジア人が僧侶になることを禁止した法律を撤廃してからである)、1997年からは、国連児童基金(UNICEF)の支援も得てHIV/AIDSの蔓延防止に向けた仏教界との積極的な提携を模索している。ここでは、ポル・ポト時代の破壊の傷跡が深く残るカンボディア仏教界が、人心の救済を目指して、隣国タイ仏教界の活動を範としつつHIV/AIDS対策に取り組もうとしている現状を報告する。

性感染症と社会的/宗教的価値観 

 カンボジアは伝統的に仏教国(国民の95%が仏教徒)で、誠実さ、正直さ、謙虚さ、家族の絆が重視

Map of Cambodia
Map of Cambodia

されてきた。しかし、1975年~79年に政権を掌握したポル・ポト政権は原始共産主義を政治理念に掲げ、従来の家族の絆に代えてクメール・ルージュの指導者(オンカー)を頂点とする新たな秩序を基本とする社会体制の創造を試みた。

その際、知識層と共に僧侶も粛清の対象とされたため、その大半が虐殺された。僅か4年間のポル・ポト時代が、数千年に亘って受け継がれてきたカンボジアの人々の価値観を根本的に変革するまでには至らなかったが、従来の社会規範、道徳規範に深刻な傷跡を残したことは否定できない。

ポル・ポト政権崩壊後のカンボジアの極貧環境に洪水のように押し寄せた物質主義は、伝統的価値観に更に深刻な悪影響を及ぼした。現在のカンボジアでは、拝金主義と性情報の氾濫が若者の価値意識を混乱させている。一方、かつてないモラルの退廃とエイズの蔓延に危機感を募らせているカンボジア人も少なくなく、仏教の教えを根本とした伝統的な価値観への回帰を志向する人々も増えてきている。このように、カンボジア社会における社会的/宗教的価値観の位置付けは様々である。
   
国連機関の支援を得て隣国タイ仏教界の取り組みに学ぶ

カンボジア政府は2000年3月、HIV/AIDS対策について、従来の保健衛生セクターに限定せず仏教界を含む様々なセクターと連携したアプローチ(Multi-sectoral Approach)を採用する方針を発表した。これに対して、カンボジア仏教界は、パゴダを拠点とした(カンボジアでは、全ての人々がテレビやラジオにアクセスできるわけではないが、パゴダや僧なら全国のコミュニティーにあり、誰でも簡単にアクセスすることができる)アドボカシー活動や僧侶によるHIV/AIDS予防/感染者のケア等を視野に入れた協力をしていく方針を打ち出し、具体的な協力の可能性を隣国タイ仏教界の経験に学ぶ目的で、2001年4月、国連児童基金(UNICEF)の支援を得て仏教界の代表団をタイに派遣した。

カンボジアより早い段階でHIV/AIDSが深刻な社会問題に発展したタイでは、仏教界は当初からHIV感染者に対する差別を戒めたり、責任ある行動をとるよう促してきた。1993年頃より僧侶自身が率先してHIV感染者達の中に入り、説法の内容を具体的に実践していくことで人々にエイズ患者達との共存を訴えていく運動が、タイ北部及び東北部を中心に活発になった。

「宗教の戒律を説くのみでは差別に苦しむHIV感染者たちの救済にはつながらない。単なる言葉ではなく、私達の具体的な行動を通じてメッセージを発していくことが重要である。人々にHIV感染者の差別をやめるよう説くならば、まず私達がHIV感染者の人々と共に行動して仏教の教えを実践すべきである。」(Phra Phongthep, タイの僧侶)

僧侶達の活動内容はパゴダによって様々だが、エイズ孤児のケア、ホスピス運営、HIV感染者を対象とした瞑想センターの運営、NGOと協力したHIV感染者の収入向上支援、パゴダでのHIV/AIDS教育の実施、エイズ患者の家庭の巡回訪問等、多岐にわたっていた。

カンボジア仏教界の指導者達はその際のタイ訪問を通じて、いかに無数の僧侶や尼僧達が献身的にエイズ患者と接しているか、そしてその結果、いかに多くのエイズ患者が差別によって傷ついた心を癒され、人間としての尊厳と自尊心を取り戻すことに成功しているかを目の当たりに観察し、大いに勇気付けられた。

「仏教の教えとその実践者である僧侶達を有効に活用して、寺院や寺院経営の教育機関、大学などにおいてHIV/AIDS対策を実践しているタイの経験は、カンボジアにおいても大いに生かすことができる。カンボジアでは、仏教界も再建途上にあり僧侶、尼僧の大半が文盲で経験不足という状況にあるが、近い将来彼らに必要な知識と技術を訓練し、タイのように仏教界が率先してHIV/AIDSの予防とケアを実施し、カンボジア社会の進むべき正しい道を示していけるような体制を構築したい。」(H.H.Buo Kry, supreme patriarch of the Dhammayuth sect)

カンボジア政府としてはタイでの成果を踏まえて、再建途上ではあるものの農村部を中心に今なお民衆心理に大きな影響力をもつカンボジア仏教界の役割に期待しており、僧侶を性行動に関する自己抑制(Abstinence)のモデルとして活用することで、ますます低年齢化が進んでいる青少年の性行動を遅らせたいと考えている。

「宗教関係者、特に仏教の僧侶による支援は、草の根レベルにおけるHIV/AIDS対策を行う上で、大変効果的である。僧侶達は、忠義、誠実さといったポジティブなイメージを体現する存在であり、彼らがエイズ患者の救済に取り組む姿は、一般のカンボディア人のエイズ患者に対する偏見を払拭するのに大いに役立っている。」(Dr. Tia Phalla, NAA)

「以前は、HIV/AIDS患者が村ででると、その家族まで偏見の対象となったものだが、僧侶がHIV/AIDS感染の特性や安全に共存できること、そして差別ではなくコミュニティーで支えていくことの重要さを説いてまわった結果、HIV/AIDS感染者に対する村人の姿勢は変わってきている。」(Nhean Sakhen, Social Worker of Banteay Srei)

従来型の支援に加えて内面の癒しを伴う精神的な支援も必要:

「カンボジアでは大半の寺院がポル・ポト政権時代に破壊され、経験豊かな僧侶の大半が虐殺されたため、タイのようにパゴダを拠点とした病院やホスピスを組織的に運営できる状態ではない。現段階で最も効果的なアプローチは、僧侶を訓練し、エイズ患者を抱える家庭を巡回して患者の精神的なケアを行う体制を構築していくことである。このような、パゴダではなく家庭を拠点としたHIV/AIDSのケア体制の場合、その中核となるのは患者の家族であり、地域コミュニティーの協力と理解が不可欠である。HIV/AIDS対策において重要なのは患者の身体的な状態に留まらず、自分が家族やコミュニティーに受け入れられているかどうかといった精神面の健康が極めて重要となる。我々は、僧侶による巡回診療/カウンセリングと平行して、エイズ患者をとりまく人々に対する啓蒙活動を通じて、HIV/AIDSの問題を共通の課題として向き合える社会的土壌を育んでいきたい。」(Dr. Mey Nay, UNICEF) 

(カンボジア取材班:IPS Japan浅霧勝浩、ロサリオ・リクイシア)

|UAE|外相がトリポリで発生したフランス大使館テロ攻撃を非難

【アブダビWAM=4月24日】


 アラブ首長国連邦(UAE)のシェイク・アブダッラー・ビン・ザーイド・アール・ナヒヤーン外務大臣は、4月23日にリビアのフランス大使館を標的にした爆弾テロ事件を強く非難するとともに、テロ行為に毅然と対峙するフランスとの連帯を表明した。

23日午前7時頃、首都トリポリにあるフランス大使館の近くで自動車爆弾が爆発し、フランス人警備担当者2人と近くの家にいた少女が負傷した。大使館の建物も大きく損壊した。

アブダッラー外相は声明の中で、「UAEは、今回のテロ事件の実行犯と犯罪行為を非難するとともに、国際社会は、犯行の動機や起源に関わらず、あらゆるテロ行為に毅然と対峙し、立ち向かっていく必要性を強調する。」と述べた。


 またアブダッラー外相は、負傷した大使館スタッフの早期回復を祈念するとともに、(カダフィ独裁体制崩壊後の)歴史的な過渡期にあって、治安の確立に努めているリビア政府に対する支援を再確認した。

翻訳=IPS Japan

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核不拡散から核兵器の完全禁止へ

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【メルボルンIDN=ティム・ライト】

3月初め、核兵器がもたらす人道的影響と、核攻撃に際して国際援助機関に効果的に対処能力がないという点に関する画期的な会議が、ノルウェー政府の主催によりオスロで開催され、120か国以上の政府、赤十字、複数の国連機関が参加した。この会議から発せられたメッセージは明確で、「核兵器が再び使われないようにする唯一の方法は、速やかにそれを違法化し廃絶する」というものであった。

外交官や専門家、市民社会によるこの初めての集まりは、2010年の核不拡散条約(NPT運用検討会議で採択された最終文書から生まれた、人道主義を基盤にした核軍縮への新しいアプローチの一環であった。2010年の会議では、核兵器国であるロシア・米国・英国・中国・フランスを含む189のNPT加盟国が、「核兵器の使用がもたらす壊滅的な人道的帰結への深い懸念」を表明していた。

NPT加盟国は、2015年NPT運用検討会議の準備のため、2013年4月22日から5月3日までジュネーブにふたたび集う。核軍縮を前進させることに真の関心を持つ人々は、この会議を、オスロで生まれた勢いを前に進め、メキシコが今年後半か2014年初めに主催予定の「核兵器の人道的影響に関するフォローアップ会議」への支持を固める機会だとみている。また、多くの政府が、核兵器を禁止する普遍的な条約の交渉を開始するよう呼びかけを行うだろう。

人道主義という言説

Oslo Conference/ MFA
Oslo Conference/ MFA

とりわけノルウェー、スイス、オーストリア、南アフリカ共和国、メキシコなどの政府は、核軍縮に向けた人道主義を基盤にしたアプローチへの支持を明確にし、人間の健康、社会、環境に核兵器が及ぼす壊滅的な影響が、これらの兵器に関するあらゆる議論の中心に置かれるべきだと主張している。世界的な「赤十字・赤新月運動」や「核兵器廃絶国際キャンペーン」もまた、人道的な影響について強調しようとしてきた。

特に注目すべきなのが、オスロ会議が、68年に及ぶ核時代の歴史の中で、諸政府が純粋に人道主義的な視点から核兵器の問題に迫ろうとした初めての会議だったという点である。核軍縮や不拡散に関するこれまでの議論は、地政学や国家安全保障上の関心から論じられてきた。しかし、地雷クラスター弾の禁止に導いたプロセスが示しているように、人道的な言説が重要な第一歩となる。つまり、新しい政治的連合が形成され、長年の行き詰まりが乗り越えられる可能性があるのだ。

軍縮外交

9つの核兵器国のうち、オスロ会議に出席したのはインドとパキスタンの2か国だけであった(北朝鮮とイスラエルは欠席)。国連安保理の5つの常任理事国(=核兵器5大国)は、事前に示し合わせたうえで会議を欠席した。人道的な影響に焦点を当てることで、核不拡散や核軍縮に対する既存の「ステップ・バイ・ステップ・アプローチ」から関心が逸らされることになる、というのがその理由であった。しかし、核兵器なき世界を実現させるための多国間条約交渉は、既に15年以上にも亘って停滞している。この交渉における最後の主要な成果は1996年の包括的核実験禁止条約であるが、依然として発効に至っていない。

今日、しばしば「唯一の多国間軍縮交渉フォーラム」とされるジュネーブ軍縮会議の交渉上の優先事項は、兵器級核分裂性物質の生産を禁止する条約である(これは核不拡散のための措置であって、核軍縮措置ではないが)。一般的に、核兵器国は自国の核兵器を削減する法的拘束力のある約束事には消極的であった。しかし、ロシアと米国は、自国の作戦配備核弾頭の数を制限することに二国間で合意している。

Photo: UN Geneva
Photo: UN Geneva

NPT運用検討会議は、核兵器を保有する9カ国の内の4カ国(インド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮)が不参加だが、依然として、軍縮と不拡散について議論するための主要な外交フォーラムである。しかし核兵器5大国は、NPT第6条の「核軍縮義務」の履行に繋がるいかなる期限設定も、一貫して拒否してきている。核兵器5大国は、「核兵器なき世界」という考え方に賛同する姿勢を示す一方で、今後数十年にわたって核戦力を維持するという明確な意思を持って、核戦力の近代化に数百億ドル規模の予算を投じているのである。

普遍的禁止に向かって

核不拡散条約は、核兵器を持たない184か国に対して、核兵器を取得しないよう義務づけている。この意味で、NPTは核兵器の部分的禁止に資するものであり、これを地域的な非核兵器地帯が補完している。しかし、NPTは核兵器の使用を明確に禁止していないし、核兵器5大国による核保有も禁じていない。むしろ、NPTは、核軍縮に向けて誠実に交渉を行うことをすべての加盟国に義務づけているのである。

この核軍縮条項にも関わらず、核兵器5大国は、核戦力を維持し近代化することは完全に正当な行為だという見方を打ち出している。これらの国々は、核兵器なき世界の実現までには数世紀かかるとみているのだ。そこで、非核兵器国が主導する核兵器禁止条約の交渉は、この既得権に対する強力な挑戦となるだろう。つまりそれは、あらゆる国家に対して核兵器を非正当化し、軍縮プロセスを加速させる一助となるだろう。

ICAN
ICAN

核兵器国からの支持がなかったとしても、核兵器禁止の効果は相当なものになるはずである。例えば、英国による核搭載潜水艦の更新に対抗する根拠を与えることになる。また、米国の核兵器配備を認めている5か国(ベルギー・ドイツ・イタリア・オランダ・トルコ)に対して、これを拒否するよう求める圧力が強化されることになるだろう。そして、オーストラリアや日本のような国々に対して、拡大核抑止への参加を再考させることになるだろう。また、核兵器を製造する企業に資金を提供しないよう、世界の金融機関に促すことにも繋がるだろう。

化学兵器や生物兵器、対人地雷、クラスター弾を禁止する条約はすでに存在する。これらすべての条約は、そうした兵器の備蓄を大幅に削減するうえで大きな影響力を持った。核兵器もまた、禁止されるべき時機がすでに熟しているのだ。ノーベル賞受賞者のデズモンド・ツツ師がオスロ会議で述べたように、「核兵器は、誰がそれを保有しようとも、嫌悪すべきものであり、深刻な脅威である。どんな国籍、宗教の人間が住んでいようとも、放射能に汚染された大火で都市を焼き尽くすと脅しをかけることは、許されるものではない。」(原文へ) 

翻訳=INPS Japan

※ティム・ライト氏は、核兵器廃絶国際キャンペーンの豪州代表。

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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非人道性の最たる兵器(池田大作創価学会インタナショナル会長)

│チュニジア│新しい抵抗としての文化

【チュニスIPS=ジュリアーナ・スグレナ】

ニカブでほとんど顔が見えないチュニジア人女性のエラは、大学当局によるニカブ禁止に5か月間反対してきたが「のれんに腕押し」だったと語る。他方、首都チュニスの別の場所では、チュニジアの伝統的な衣装を身にまといチュニジア国旗で肩を包んだ一団の学生が、ハーレム・シェイクと呼ばれる、起源は1980年代初期の米国だが、最近チュニジアにもオンラインで人気がでてきている踊りに興じていた。

この2つの光景は、過激な宗教的サラフィ―主義者と世俗的なチュニジア人との間の対立を表すものだ。後者は、イスラム主義者の台頭によって、独裁者ザイン・アル=アービディーン・ベン・アリーが追放されたジャスミン革命の成果が失われつつあると主張している。

頭の先から足先まで黒衣に包まれたエラは、宗教の尊重と従順を望む保守派の希望を体現するものであり、一方「抗議のダンサー」たちは、文化こそが革命後のチュニジア民主化に向けた新しい抵抗の形態だと見なす活発で多様性に富んだ新世代の登場を象徴するものである。

最近、“WELD EL 15”というラップ歌手が「Boulicia Kleb(警察は犬だ)」という歌をYouTubeにアップしたことを咎められ懲役2年に処されるという事件があった(動画は65万回以上再生されている)。またこの音楽ビデオの監督と主演女優も懲役6か月の判決を受けた。

「警察当局は、歌手、とりわけラップ歌手を逮捕するためにマリファナの使用容疑など麻薬取締法を適用しています。」と若き映画監督のアドネン・メデブ氏はIPSの取材に対して語った。同氏は2011年のジャスミン革命を国内からドキュメンタリー記録した人物として知られている。

また、貧者を意味する「ズウェルワ」という名前のグラフィティ(落書き)集団のオーサマ・ボアジラ氏とチャヒーン・ベリチェ氏は、「民衆は貧者への権利を求めている」という落書きを工業団地の壁に書いたという罪で、昨年11月3日に逮捕された。4月10日、2人に評決が下り、「公共物」を傷つけた罰金として、それぞれに50ドルの支払いと壁の掃除が命じられた。

これに対して、「ゼウェルワ」は、この裁判をベン・アリー時代の手法を髣髴とさせる「政治裁判」だと批判した。

また最近は、内務省前がこうした文化的な抵抗活動が行われる最も有名な場所の一つとして注目を集めるようになっている。毎週水曜日になると、左翼「民衆愛国党」党首であったチョクリ・ベレイド氏の暗殺(2月6日)に抗議する人々がこの地で座り込みの集会を開くのだ。画家でチュニジア芸術家組合のアモール・ガダムシ事務局長は、「誰がベレイド」氏を殺害したのかという我々の問いに内務省が応じるまで、毎週金曜日にここに座り込んで要求をし続けていきます。」とIPSの取材に対して語った。

ガダムシ氏は、「ベレイド氏の暗殺は暴力が悪化してきている環境の中で起こった最悪の事件で、国中がショックを受けました。私たちはチュニジア政府に事件の真実を究明し、犯人を見つけ出すよう求めています。」と語った。

芸術家らは、ベレイド氏の死を悼んで同氏が暗殺された自宅の前に建てた同氏の像がサラフィ―主義者によって破壊されたのを契機に、毎週水曜日の内務省前での座り込み抗議デモを始めた。ガダムシ氏は、国内各地に落書きや先の革命を讃える歌詞がついた政治的ラップ音楽が急速に広まっている現状を指摘して、「今や文化こそが私たちの抵抗の手段なのです。」と語った。

彼らがあえて政府の建物を選んで抗議活動を行っている現象は、与党「アンナハダ党」に対する不信感が高まってきていることを物語っている。穏健派イスラム政党である「アンナハダ党」は、2011年10月に行われた政変後初の制憲議会選挙において勝利を収め、左派の世俗派政党(共和国評議会とエタカトル)と連立政権を樹立した。

しかし連立政権は、その後宗教過激派による跋扈を許してしまっているとして、批判に晒されるようになっている。

こうした過激集団の一つに「革命擁護連盟」(LPR)という集団があり、政府と親密な関係や、野党やチュニジア労働総同盟(UGTT)の活動家らとの多数の衝突が広く知られている。

またLPRのメンバーは、2012年10月にチュニジア南部の都市タタウイヌで起こった地元政党党首ロフティ・ナクボウ氏の撲殺事件やベレイド氏の像の破壊に関与したことを認めている。

「彼ら(=LPRの構成員)は、アンナハダ党の名の下に活動しています。すなわち彼らはアンナハダ党出身あるいは党に近い者、ないしは、アンナハダ党が雇った元受刑者や同党に魂を売った者達なのです。」と、労働党のスポークスマンであるジラーニ・ハマニ氏はチュニジア・ライブ紙が1月に行った取材において語っている。

政府はこうした主張を退けているが、チュニスの人々はLPRはこれまで犯罪行為を犯しても当局に罰せられたことがないと指摘している。またUGTTも再三にわたってLPRの解体を求めているが、未だに実現していない。

政府が暴力を見て見ぬふりをする中、多くのチュニジア人は、想像力を駆使した非暴力の抗議活動に訴えるしか選択の余地がないと感じている。

こうしたなか、先の革命の際と同じく、インターネットが果たす重要な役割に注目が集まっている。活動家らは、サラフィ主義者の一団が、チュニスのメイン通りであるハビブブルキバ通りで「世界演劇デー」祝っていた芸術家らを攻撃した2012年2月25日を、今に続く文化戦争の発端と考えている。目撃者がIPSに語ったところによると、現場にいた警察官たちは、暴徒たちが芸術家らを襲う中、暴徒を支援するか、傍観を決め込んでいたという。

またハーレム・シェイクその他の文化的抗議を示す動画は、ネット上で急速に広まり、時には主流メディアからの関心さえも惹きつけてる。

一方、チュニジアの若者たちは、文化的抵抗運動を引き起こす発端となったハビブブルキバ通りを何度も封鎖し、治安部隊に対する抵抗意志を示すため、通りの真ん中に座り込んで読書をするなどの抗議行動を起こしている。

また同じような調子で、“Art Solution”を名乗る一団は、バーリ・ベン・ヤーメド監督のもと、ダンサーたちが、国立劇場の前や、ベルベデーレ庭園、カスバー広場、貧しいチュニスの郊外など、考え付く限りのあらゆる「公共の場所」で踊りを披露する抗議キャンペーンを開始した。

これには、しばしば見物人や通行人が踊りに加わり、先の革命初期段階に見られた自然発生的な抗議集会の雰囲気が作り出されている。

「踊りは単に非暴力的な抗議の方法であるというだけでなく、身体は解放とよき生(健康と幸福な状態)の表現でもあるのです。」と作家のジャミラ・ベン・ムスタファ紙は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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情報不足で困難に陥る難民支援

アラブの民主主義と西側社会(エミール・ナクレー:CIA政治的イスラム戦略分析プログラム元ディレクター)

|視点|鄧小平の中国とアラブの専制政治を混同してはならない(シャストリ・ラマンチャンダラン)

平和と戦争の種を持つ教科書

【エルサレムIPS=ピエール・クロシェンドラー】

エルサレム旧市街にあるダル・エルエイタム・イスラム孤児院(イスラム基金が運営する中等学校)では、パレスチナの12年生たちが歴史の試験の準備をしている。教師たちの背後にある壁には、第二次インティファーダ(2000~05)で殺害された2人の「殉教者」の肖像画が掛けられている。

同じころ、テルアビブでは、ガザ地区との境界に接するユダヤ人集落エシュコル村から野外学習にきた6年生たちが、1948年5月14日にダヴィド・ベングリオン首相がイスラエル国家独立宣言を読み上げた「独立記念館」を見学している。

「国連が分割計画を採択しましたが、アラブ人がそれを受け入れなかったために実現せず、その翌日、独立戦争が勃発したのです。」とイスラエル人ガイドのリリー・ベン・イェフーダさんが、生徒たちに説明している。

再びエルサレムのダル・エルエイタム・イスラム孤児院。歴史担当のイヤド・エル・マリキ先生が「ユダヤ人は、パレスチナとイスラエルの2つの国家を望んでいました。しかし彼らは、20年後の1967年にヨルダン川西岸をパレスチナ人から奪い、入植したのではなかったでしょうか?」と生徒たちに問いかけている。

1947年11月29日、国連総会は、英国によるパレスチナ統治を終わらせ、ユダヤ人とアラブ人によるそれぞれの独立した国家を設立するために土地を分割することを認める決議を採択した。

この決定は、イスラエル人にとっては半年後の国家創設を意味し、一方、パレスチナ人にとってはイスラエルの建国によって自らの土地にいながら多数派から少数派に転落する「ナクバ」(大災厄の意)の前兆を意味した。

先日発表されたパレスチナとイスラエルの教科書を研究した報告書には、「(パレスチナ人とイスラエル人を各々対象とした)2つの教室で共通の歴史における基本的な瞬間がどのように教えられているかを観察すれば、「歴史的な出来事は、虚偽やでっち上げではないにしても、子ども達に国家史観を定着させるために、政府が恣意的に選別した内容が提供されていることが分る。」と記されている。

ベツレヘム大学のパレスチナ人助教授サミ・アドワン氏らが執筆した『自らの物語の犠牲者か?イスラエルとパレスチナの教科書における「他者」の描き方』という報告書によると、双方とも、紛争から生まれたそれぞれの民族的物語に拘束されているという。

「双方の教科書とも他者を否定的な固定観念で捉える一方で、他者の文化、宗教、日常生活に関する情報が含まれていません。」とアドワン助教授はIPSの取材に対して語った。

1993年のオスロ合意では、双方が「互いの正当な政治的権利を承認し」、二国家解決策に向けて交渉することが決められた。しかし、それから20年、二国家解決はおろか、相互の承認すらなされていない。

アドワン助教授は、こうした行き詰まりの原因は「子ども達を教育し将来大人として身に付けるべき政治信条を育む上で決定的な役割を果たす」教科書の地図に最も象徴的に表れているという。2009年~12年の間に出されたパレスチナ94種、イスラエル74種の教科書における3000以上の文章を分析した本報告書は、こうした地図に両者を分かつ国境が消されている点について、国境とともに他者の歴史的主張まで葬り去ろうとする双方の意図が読み取れる、と指摘している。

この報告書のもう一人の著者であるテルアビブ大学のイスラエル人教授ダニエル・バルタル氏(児童の発育と教育研究が専門)は、「こうした教科書により、パレスチナ人とイスラエル人双方の子ども達が、ヨルダン川と地中海に挟まれた地域全てが本当に自分の故国だと信じて育っているのです。」と語った。

また報告書は、「これらの教科書では、他者の行動は、自らのコミュニティーを破壊ないしは支配しようとするものとされる一方で、自らの行為は平和的で自衛のためのものだとしている。」と指摘している。

異なる両者の教育制度

イスラエルの教育制度(1948年設立)は、世俗の学校、国立の宗教学校、そしてユダヤ教超正統派の宗教組織が運営する学校(国家は干渉しない)からなり、それぞれが使用している教科書も多岐にわたっている。

一方、2000年初頭に設立されたパレスチナの教育制度は、同じ教科書を採用するなどイスラエルの精制度よりも、より均質なものである。

アドワン助教授は、双方の教科書は、各々の民衆が経験している現実を反映したものとなっていると指摘し、「イスラエル人は、パレスチナ人が自分たちを攻撃する機会を待っていると見ています。一方、パレスチナ人は、みずからの土地をイスラエル人に奪われていると見ているのです。」と、語った。

また報告書は、殉教や自己犠牲の美化に関する教えについても比較分析している。

パレスチナの6年生の言語の教科書には、過去の自爆攻撃を思い起こさせる禁止命令「降伏よりは死を、前に進め!」という表記が記されている。

一方イスラエルの2年生の教科書には、初期のシオニストであるジョセフ・トランペルドール氏(1880~1920)がアラブ人の攻撃からユダヤ人入植地を守って戦死した際の言葉とされる「祖国のために死ぬのはよいことだ(日露戦争にロシア兵として従軍した同氏が日本で捕虜生活を送っていた時に日本兵から聞かされて感動し、以後座右の銘とした言葉)」が紹介されている。

平和構築への影響

オスロ合意が締結されて暫くの間、イスラエルとパレスチナ両政府は慎重に歩み寄りを模索したが、当時バルタル教授は、来るべき平和な時代に備えて、イスラエルの国定教科書の編纂を統括する責任者だった。

バルタル教授は、「(政府が教科書に)国史観を明記する目的は、第一義的には、国民をその価値体系のもとに動員し、大義のために戦えるように養成することにあります。」と指摘したうえで、「しかし同じように、教科書によって人々を平和の方向に向かわせることもできるのです。」と語った。

1990年代、イスラエル政府はパレスチナ難民問題に折り合いをつけようとした時期があった。この時期、イスラエルの教科書に、「イスラエル独立戦争時、パレスチナ人は自らの選択で逃げたのではなく、多くの場合、逃亡を余儀なくされた」ことを公式に認める表記が初めて登場した。

また2007年には、リベラル派であったユーリ・タミル教育相は、イスラエルで使われるパレスチナ系イスラエル人の生徒たちが使用するアラブ語の教科書に、パレスチナ人の強制移住を示す「ナクバ」という言葉を使うことを認めた。

しかしその2年後、「ナクバ」という言葉は教科書から削除された。ベンヤミン・ネタニヤフ首相は、その言葉は「反イスラエルのプロパガンダである」として、削除決定を正当化した。

こうした背景を踏まえれば、「大人たちが作った教科書は、未だに子供たちを平和な時代精神へと育む内容となっていない」と指摘したこの研究結果は、今後のパレスチナとイスラエル間の平和構築を考える上で深い意味合いを持っていそうである。

その結果、この研究報告書の内容は、両者間の紛争と、互いに相違する双方の主張を小さく映し出す鏡のような存在として注目を集めつつあるが、パレスチナ側の教科書の内容を長らく批判してきたイスラエル政府は、この研究報告書の内容を全面的に受入れられないとしている。

従来からパレスチナ側の声明を監視してきた諜報部の上級将校でイスラエル戦略担当省のヨッシ・クーパーワッサー長官は、「我々の子ども達は平和を愛するように教えられています。しかしパレスチナ側は、私たちを憎むように教えているのです。」と、IPSの取材に対して語った。

またイスラエル教育省は、この研究結果が公表される1カ月も前の段階で、「研究結果は『あらかじめ決められていたものであり』、内容は偏見に満ち、専門性がなく、客観性に著しく欠けている。」と批判する声明を出した。

「これは学術的な研究ではなく、むしろイスラエルとその教育制度の名声を汚すことを意図した政治的な報告書に他なりません。」とクーパーワッサー長官は批判した。

アドワン助教授によると、一方でパレスチナ自治政府はこの報告書の内容をある程度評価している、という。

アドワン助教授は、「教科書にはもっと相手側の人間的な側面に関する表記が盛込まれる」ことを期待しているが、一方で「日々の現実もきちんと反映されたものでなければならない。」と考えている。

テルアビブでは、毎日数十人のイスラエル人少年少女が、国家創設の聖地である「独立記念館」を訪問し、歴史的なイスラエル国家の独立宣言を再現している。

一方、イスラム孤児院/中等学校が授業を行っているエルサレム旧市街では、パレスチナ人の子ども達が、国家建設はあたかもはかない夢であるかのように、大半が過度の期待を持つことなく、国歌を斉唱している。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|UAE|家庭内労働者を保護する新法が間もなく施行される

【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙は4月18日、家庭内労働者を人身売買斡旋業者による搾取から保護する法律の制定が約束された、と報じた。

「ナショナル」紙によると、外務省のアブドゥル・ラヒム・ユシフ・アル・アワディ法務担当局長は、この点について「立法手続きは時間を要するが、間もなく制定されます。」と述べた。
 アワディ局長の発言は、ドバイで保護された35人の人身売買の犠牲者についてまとめた報告書の発表の席で行われた。35人のうち4人を除いて全員が就労目的、うち19人が家庭内労働者としての職を約束されて渡航していた。

「斡旋業者に就労機会があると約束され、渡航したがUAEに到着してみると仕事はなく、大半が売春を強要されていました。」とドバイ女性基金のモナ・アル・バハール看護・リハビリ担当部長が語った。
 35人のうち27人はUAE到着一週間以内に(約束が嘘であったと告げられるか虐待に晒されることで)人身売買の犠牲になったことを知った。10人中9人の犠牲者が性的暴行を受けていた。
 アワディ局長は、「UAEはこれまで人身売買犯罪の防止に全力で取り組んできたが、今年は、ドバイを含む国内の空港で、啓蒙活動をさらに強化していきます。」と語った。
 人身売買の犠牲になった女性たちの教育レベルは概して低く、半数以上が全く教育を受けていないか小学校までの教育しか受けていない。
 

報告書をまとめたUAE人身売買対策委員会は、人身売買の犠牲者を保護するための訓練プログラムを、警察及び関連機関に提供している。また女性たちが助けを求められるホットラインも開設した。
 「今日、人身売買の犠牲者の間にも、どこに保護を求めればよいか認識が高まってきており、自ら保護を求めて訴え出るケースが増えてきています。」とアワディ局長は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【ステパナケルト(コーカサス・ナゴルノカラバフ共和国)IPS=エンゾー・マンギーニ】

イリーナ・グリゴリアン(60)さんの声は、お昼ご飯を待ちわびた230人の子どもたちの叫び声にかき消された。彼女は、コーカサス地方ナゴルノ・カラバフ共和国の首都ステパナケルト(人口50,000人)で幼稚園の園長を務めている。グリゴリアン先生は、子どもたちの喧騒にもにこやかに笑いかけている。

しかし、「平和にチャンスを与えよ」という、グリゴリアン先生のデスクの後ろの壁に貼られたポスターの標語は、モスクワから2400キロ南の霧深い山岳地帯に位置するこの街をとりまく環境が、決して望ましい状態ではないことを示唆している。

ナゴルノ・カラバフ共和国は、アゼルバイジャンとアルメニアとの間の長く忘れ去られた紛争の中心に位置している。

旧ソ連時代、ヨシフ・スターリン(当時ボリシェヴィキの民族問題担当人民委員)がナゴルノ・カラバフを自治州としてアゼルバイジャンの下に置くことと決定して以来、アルメニア人口の多い(当時住民の94%)同地では自治権拡大を求める声が絶えることがなかった。

ソ連崩壊間近の1980年代末から、ナゴルノ・カラバフ自治州では隣国アルメニアへの統合を求める市民の活動が活発になり、ステパナケルトでも大規模なデモが発生した。これに対して、アゼルバイジャン政府は自治州を廃止し、ナゴルノ・カラバフを直轄統治下に置いた。

1991年末、ナゴルノ・カラバフ側は人口19万1000人(この時点で75%がアルメニア系住民)をもって「ナゴルノ・カラバフ共和国」としての独立を宣言、これに対して、アゼルバイジャン政府は翌92年1月、分離主義運動鎮圧を名目に軍事介入に踏み切り、93年までの戦闘で一時はナゴルノ・カラバフ全土の7割近くを制圧することに成功した。しかし、このことがナゴルノ・カラバフ側を支援するアルメニアの軍事介入を招くことになった。

アルメニアとアゼルバイジャン間の戦闘は本格化し、1994年にロシアとフランスの仲介による停戦が合意されるまでに双方で約30,000人の死者と1,000,000人を超える難民を出した。停戦時に引かれた現在のナゴルノ・カラバフ共和国とアゼルバイジャンの境界線はソ連時代のものよりも数キロ東側(=アゼルバイジャン側)にシフトしており、緩衝地帯はアルメニア軍が支配している。

今日、アルメニアとアゼルバイジャン両国は、公式には引き続き戦争状態にある。一方、ナゴルノ・カラバフ共和国(人口150,000人)は、事実上、独立状態を維持しているものの、アルメニア以外に独立を承認している国はない。こうした不安定な状況から、紛争を生き延びた人々は、停戦から20年近くたった今でも、戦争の影に怯えながら、日々ストレスと不安を抱えて生きていくことを余儀なくされている。

「戦時には地元の中学校(ギムナジウム)で教えていましたが、私が受け持った男子生徒のうち80%は戦闘で死んでしまいました。」とグリゴリアン先生は当時を振り返って語った。

「私はあのような悲劇を二度と繰り返してほしくない。だからこの幼稚園では、戦争のことについて話しませんし、子ども達に憎しみについて教えないのです。」

グリゴリアン先生は戦争の記憶について多くを語らないが、1992年当時、ここスケパナケルトの街を包囲したアゼルバイジャン軍が、郊外の町(シュシャ)の高台にグラッドミサイル発射台を配置して、連日市街にロケット攻撃をしかけていた際の街の様子を鮮明に覚えている。

当時、スケパナケルトの市民は、アゼルバイジャン兵がグラッドミサイルの装填に1回につき18分かかる事実を知ると、(攻撃が中断される)18分の時間を利用して、街を移動したり、僅かな時間ながらも日常に平静を取り戻そうとした。

「(街が包囲された当時)隣の教室から子供たちの父兄が制限時間18分のサッカーの試合をしている音が聞こえてきたのを覚えています。」とグリゴリアン先生は語った。

またグリゴリアン先生は、現在、アルメニアのNGOと、かつてナゴルノ・カラバフ地域に居住していたアゼリー人難民をつなぐ団体「公共外交研究所」の活動にも積極的に参加している。

グレゴリアン先生は、長年にわたって共存してきたアルメニア人とアゼリー人コミュニティーが引き裂かれている現状は嘆かわしく、双方の民衆と平和活動家らが直接対話を重ねることで、再び関係を構築していきたいと希望している。

グリゴリアン先生は、同胞のアルメニア系市民に対しては、「もし平和を願うのならば、ナゴルノ・カラバフ共和国周辺にも設けられた緩衝地帯を放棄するとか、難民化したアゼリー人の帰還を認めるとかいった譲歩が必要だ。」と説いている。

「次の世代の子ども達まで、戦争で失いたくありませんから。」グレゴリアン先生は、現在もアルメニアが占拠しているナゴルノ・カラバフと、アゼルバイジャンとの軍事境界線では小競り合が頻発しており、アゼルバイジャン政府が定期的に脅迫じみた声明を発していることに、このままでは近い将来本格的な軍事衝突が再発するのではないかと懸念を深めている。

また、グレゴリアン先生のようなNGOや平和活動家らによる国境を越えた民間外交の努力は、2009年ごろまでは、インターナショナル・アラートミンスク・グループをはじめとした国際社会からの支援が行われてきた。しかしその後、いずれの対話イニシアチブも行き詰まりを見せてきている。

地政学が平和の機会を妨げる

ナゴルノ・カラバフ共和国には議会も外務省もあるが、国際的にはほとんど承認されていない。アゼルバイジャン政府も、同共和国を「占領」しているアルメニア政府を交渉相手とはしても、ナゴルノ・カラバフ共和国政府を相手にしようとはしない。

ナゴルノ・カラバフ共和国のカレン・ミルゾヤン外務大臣は、「我々はアゼルバイジャン側と交渉のテーブルにつく用意があるが、問題は先方に当政府関係者と交渉する意思がないことです。」と語った。

ミルゾヤン外務大臣は、昨年7月の大統領選挙で2期目の再選を果たしたバコ・サハキャン大統領(投票率64%)によって数か月前に任命された。

「私たちは(今回の選挙で)国民から明確な信任を得ました。国民は自由と独立を求めているのです。私はその目標を達成するためには、必要な譲歩をする用意があります。」と語った。

ただし外務大臣の言う「譲歩」が現実的に何を意味するのかは明確ではない。

ナゴルノ・カラバフ共和国政府は、イルハム・アリエフ大統領が率いるアゼルバイジャン政府が国際的に反アルメニアキャンペーンを展開する一方で、国内においても反対者の口を封じていると非難している。

専門家らは、こうした批判の根拠を裏付ける多くの事例を指摘しているが、コジャリ虐殺事件についてアゼルバイジャン当局の発表内容の信頼性を疑わせるような調査報道をおこなったとして8年半の禁固刑を言い渡された同国のエイヌラ・ファトゥラーエフ記者の件もその一つである。なお、ファトゥラーエフ氏は、その後2011年5月に無罪判決を受けている。

コーカサス南部の独立系シンクタンク「地域研究センター」のリチャード・ギラゴジアン氏は、緩衝地帯からのアルメニア軍の全面撤退など、(現状を転換するには)大胆かつ想像力に富んだ政治的信頼醸成措置がとられなければならないと考えている。

「アルメニアとアゼルバイジャンは政治的な膠着状態に陥っており、このことが両国の利益を損なう結果となっているのです。また両国の対立は、トルコや西欧諸国をはじめとした多くの国々のエネルギー安全保障を確保する上で地政学的な要となるカフカス地域全体の安定を脅かしかねないのです。」とギラゴリアン氏は語った。

アゼルバイジャンからトルコに石油・天然ガスを運ぶ、バクー・トビリシ・エルズルムパイプラインの他、トルコとグルジアの港まで伸びているバクー・トビリシ・ジェイハンパイプライン及びバクー・トビリシ・スプサパイプラインは、いずれもナゴルノ・カラバフ共和国の境界からわずか数マイル離れたところを通過している。

こうしたことから、専門家らは、国際社会がナゴルノ・カラバフ問題をこのまま放置していれば、紛争が勃発した場合、ロシア・トルコのような近隣の大国が巻き込まれたり、欧州諸国に深刻なエネルギー危機をもたらすような深刻な波及効果が生じかねないと警告している。また、両国は大型の最新兵器で軍備の増強を行ってきており、勢力も拮抗しているため、有事の際には数年前のグルジア紛争のような短期間の戦闘で終わらないリスクが指摘されている。

「長年にわたって、ナゴルノ・カラバフの帰属問題がアルメニア、アゼルバイジャン双方にとって国家の誇りや国のアイデンティティーの問題とされてきたため、ますます譲歩を難しくしてきた経緯があります。」とギラゴシアン氏は語った。

ギラゴシアン氏は、両国と堅固な外交関係を有し、軍事基地さえ構えているロシアが、より積極的に仲裁の役割を果たすべきだと考えている。(原文へ

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|UAE|外務省、スリランカ難民のその後について声明を出す

【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)のサイード・アル・シャムシ国際機構担当外務次官は、以下の声明を発表した。「2012年10月14日、貨物船『ピナクル・アビス号』が航行中に沈没しかけた船から45人のスリランカ国籍の人々(タミル人)を救出し、UAEのジャベル・アリ港に移送した。」

「UAE政府が国連難民高等弁務官事務所(UNHCRによる接見をアレンジしたところ避難民全員が政治亡命を願い出た。審査の結果38人には亡命が認められたが、拒否された7名はその後自らの意志でUNHCRと国際移住機関(IOMを通じて本国に帰還した。

「UAEは彼ら難民(その後1人が出産し総計39人)に住宅・食糧・医療支援を提供、これまでにUNHCRは20人の受け入れ先を確保し、一部は既に再定住を終えている。残りの19人については、UNHCRが引き続き受入国の確保に努めるとともに、安全を確保した形で本国に帰還させる可能性についても検討している(一方、人権擁護団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは迫害の恐れがあるためUAEに本国送還をしないよう求めている:IPSJ)。UAE政府は引き続きUNHCRと協力して解決策を模索するとともに、国内滞在中の待機難民への支援を継続していく。」

UAEはUNHCRと長年に亘る協力関係を有しており、最近では今年3月末に高等弁務官がUAEを訪問している。またUAEは、世界最大規模の緊急支援物資をドバイの国際人道シティに擁しており、UNHCR災害救助プログラムを構成する緊急支援物資の主要補給基地を提供している。

シャムシ外務次官は、「UAEは世界各地の人道災害に積極的に援助の手を差し伸べており、難民危機に際しても、国際社会の一員として引き続き積極的かつ責任ある役割を果たしていく。」と語った。(原文へ

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【キガリIPS=エドウィン・ムソニ】

ルワンダ西部州カロンギ区のバーナード・カユンバ区長は、19年前にたった100日間で約100万人もの命を奪った虐殺のことを忘れることができない。

犠牲者の規模については確定的な数字は明らかとなっていないが、1994年4月6日に発生したルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領とブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺(首都キガリ上空で両者が搭乗した航空機が撃墜された)からルワンダ愛国戦線 (RPF) が同国を制圧する7月までの約100日間に、少数派のツチ族80万人と、穏健派のフツ族が虐殺されたと見られている。

虐殺の犠牲者の大半はツチ族で、殺害に加担した人々の大半がルワンダで多数を占めるフツ族(フツ系の政府とそれに同調する過激派、一般住民)だった。しかしヒューマン・ライツ・ウォッチが1999年に発表した報告書『誰ひとり生かすな:ルワンダ大虐殺』には、「多くのツチ族が、虐殺を生き延びたが、それは見知らぬフツ族住民による勇気ある行動や、隠れ家や食糧を何週間にも亘って提供してくれたフツ族の親族、友人による支援による賜物だった。」と記されている。2005年までキブエ県として知られていた西部州カロンギ区は、1994年当時わずか数日の間に多数の命を奪った虐殺2件の舞台となった地である。

多くの人々がキブエ市街地の教会や学校に逃げ込んだ一方で、約30,000もの人々が、街から40キロほど離れたビセセロ丘陵地帯に逃げ場を求めた。カユンバ氏もその一人だった。犠牲者数に関する公式統計はないが、この丘陵地帯で数万人が虐殺されたと考えられている。当時19才だったカユンバ氏はこの虐殺を生き延びたが、当時のことを片時も忘れたことがない。

「私は、学校にいけないことや空腹であるということがどういうことか、当時の経験から良くわかります。だからこそ、区長として地区で困っている人々に支援の手を差し伸べるとき、私は誰よりも公平でいられるのです。」と、カユンバ区長はIPSの取材に対して語った。ルワンダでは、今年も4月7日から13日を「虐殺記念週間」とし、様々な追悼行事が行われた。

カユンバ氏は、「私が今日こうして区長でいられるのは、ルワンダ政府が行っている『ジェノサイド生存者支援援助基金』(FARG)によって、大学授業料の補助を受けることができたからです。もしそれがなければ、私はどうなっていたか、想像できません。」と語った。

FARGは1998年に設立され、およそ30万人の虐殺生存者への支援を行ってきた。これまでに1億2700万ドルが投じられ、年間予算のおよそ6%を使っている。中等教育の6万8367人、高等教育の1万3000人以上が教育費の支援を受けた。国民の約60%が一日当たり1.25ドルの貧困ライン以下の生活を送るルワンダで、初等・中等教育が無償化されたのがようやく2010年に入ってからであり、FARGの支援は大いに役にたった。また、FARGは、医療、住居、社会扶助などの支援も行っている。

もっとも、FARGの運営に問題がないわけではない。2011年に地元紙『ニュー・タイムズ』が報じたところでは、FARGは、本来なら受益者であるべきでない1万9000人への支援を打ち切ったという。これは、当時の支援対象者の実に3割にも及んでいた。

また住宅供給プロジェクトの質についても、FARGは現在厳しい視線に晒されている。

2011年、ルワンダの会計監査院長官は、FARGが供給した住宅は、実際に執行した予算に見合う品質ではない、と語った。また、2006年から2007年にかけて実施された監査報告書には、「本来住宅供給を受けるべき虐殺の生存者や貧困層の多くが実際には支援を受けられておらず、依然として多くが住宅支援を必要としている状況にある。」と記されている。

それに対してFARG関係者は、これまでに500家族を除いて300,000人の虐殺経験者に対する住宅供給は完了しており、残りも今年12月までに完成予定であること、また、こうして建設された住宅40,000戸のうち、15,000戸がFARG資金によるもので、残りがNGO、各国大使館、教会を含む政府支援プログラムを通じて建設されたことを明らかにした。

またFARGのテオフィル・ルベランゲヨ事務局長は、「住宅品質に問題アリ」とした会計検査院長官の指摘について、「(虐殺事件から間もない)1995年当時、雨露を凌げるシエルターを供給することが最大の課題であり、住宅建築を請け負う業者の質について十分な注意が及ばなかった側面があります。」と説明した。また、「2003年当時、FARG資金の建設物件について、請負業者が適切なサービスを提供できなくなり、結果的にFARGが騙された形になった事例があったことは認めます。」と弁明した。

ジェノサイド生存者団体「イブカ」(「記憶」を意味する)のジャン・ピエール・ドゥジンギゼムング代表は、「多くの生存者は勇気と決意を持って虐殺の経験から立ち直ろうとしている」と指摘したうえで、「生存者たちは憎しみと差別が死をもたらすことを学びました。ですから人々は、この国の未来のためにもそうした分断を乗り越えたコミュニティーの調和を築き上げていく選択をしたのです。」と語った。

しかし虐殺の体験がトラウマとなり未だに怒りと恐怖に苛まれながら暮らしている人々も少なくないのが現状である。ルワンダ西部ムランビに住むジョセー・ムニャギシャリさん(51)もそうした一人だ。彼女は、1994年のジェノサイドの時に首に槍が刺さって体が麻痺し、さらにマチェーテ(山刀)で襲われた右足の傷が感染症を引き起こし切断せざるを得なかった。

「事件後、私は治療を受け、住宅も手に入れ、息子は無料で教育を受けられるようになりました。しかし私の足が返ってくるわけではありませんし、自分の足で再び立てないという現実は何も変わらないのです。」とムニャギシャリさんはIPSの取材に対して語った。彼女はFARGが提供する住宅と学資支援を受けているが、こうした支援を得ても、彼女の過去の傷を癒せていないのは明らかである。

しかもムニャギシャリさんは、現在恐怖の中に暮らしている。というのも、彼女に傷を負わせた人々が刑務所から出所し、自宅からわずか100メートルのところに住み始めたのだ。「私はそれ以来、彼らが再び私を殺しにやってくる悪夢に苦しめられています。」と、彼女は元加害者宅を指さしながら語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

津波が来たらツイートを

【コロンボIPS=アマンサ・ペレラ

2011年3月11日に巨大な津波が宮城県気仙沼市を襲ったとき、避難先の中央公民館の屋根に上った内海直子さん(59)の手元にあった外界との連絡手段は、電池切れ寸前の携帯電話のメールだけであった。

内海さんからメール(「火の海 ダメかも がんばる」)を受けた夫は次に、9500キロ以上離れたロンドンにいる息子の直仁さんにメールを打った。直仁さんがロンドンからこの緊急事態をツイッターで発信(「『拡散お願いします!』障害児童施設の園長である私の母が、その子供たち10数人と一緒に、避難先の宮城県気仙沼市中央公民館の3階にまだ取り残されています。下階や外は津波で浸水し、地上からは近寄れない模様。もし空からの救助が可能であれば、子供達だけでも助けてあげられませんでしょうか。」)したところ、このメッセージが猪瀬直樹副知事(当時)の目に留まり、急遽、東京消防庁による、屋根に避難した彼の母親を含む400人以上の救出が始まったのである。この話は、メディアや情報拡散に関する国際NGOインターニュース」の報告書『最後の1マイルとつながる:東日本大震災における通信の役割』で紹介されている。

報告書は、津波発生後に効果的に通信を行う上で、新しいメディア、とりわけツイッターフェイスブックといったインターネット・ベースの形態が果たした役割について検証している。

「インターニュース」人道情報プロジェクトの責任者ジャコボ・キンタニーラ氏は、「ツイッターやフェイスブックのような新しいメディアは、ハイチの例や、現在シリアでまさに起こっている事態に見られるように、災害対処の準備や緊急事態への即応において果たす役割が大きくなってきています。自分の生存を他人に知らせたり、生存者に対して食料配給所位置を教えたりできるのです」とIPSの取材に対して語った。

日本南部のツイッターユーザーたちは、津波が襲った最初の1時間のうちにハッシュタグを作成し、それがのちに、支援を求めたり支援活動の指示を行ったりする人にとって、ツイッター上のキーワードとして機能した。

「ツイッター・ジャパンは特定の情報に関するタグを作成した。ツイッターの世界的ネットワークは、津波によって取り残された生存者の捜索・救援を促した。」と、インターニュース報告書は指摘している。

グーグルは津波から90分後に安否確認サービス「パーソンファインダー」を立ち上げた。このツールには、5000人のボランティアが参加し、90日後の公開までに60万人以上の被災者の個人情報が入力された。また、「インターニュース」の報告書は、フェイスブックの情報が生存者と彼らを探す人々との間で個人の情報を素早く交換することに役立ったとしている。

3・11から6年前の2004年12月26日、インドネシアからスリランカ、インド南部沿岸を大きな津波が襲った(インド洋大津波)。それ以来、3月11日14時46分の地震発生から毎分1万1000件以上発せられたツイッターのメッセージのようなものが強く求められていた。

スリランカ東部マラダムナイの生存者らは記者に対して、津波から2週間たっても、誰に支援を求め、誰に死亡・行方不明者の情報を尋ねたらよいかわからなかった、と話していた。

このアジアの津波によって引き起こされた死と破壊は、スリランカのような被災諸国に、早期警戒情報伝達システムの再考を促した。災害時と被災後における新しいメディアの役割が、注目されるようになったのである。

スリランカの専門家らは、数百万人とは言わないが、数千人に早期警戒情報を伝える最善の方法は携帯電話だと指摘している。

スリランカ赤十字協会(SLRCで早期警戒システム・即応問題に関するプログラム責任者を勤めるインドゥ・アベヤラタネ氏は、「伝播力の強い携帯電話がもっとも効果的だ」とIPSの取材に対して語った。

また、スリランカのような国では、携帯電話とインターネットによる通信が、早期警戒と予報に関する大きな空白を埋めるかもしれない、と考える専門家もいる。

「次々と明らかになったのは、『予想あるいはリスクアセスメント上の失敗』ではなく『通信の失敗』でした。ユーザーが情報を深く知り、情報発信者に到達する可能性を持った、タイムリーで個別ニーズに応じた情報が必要となっているのです。」と、「環境気候技術財団」のラリーフ・ズベアー主席研究員(気候変動問題専門家)は語った。

全国規模の災害対応を監視するため2005年に設置された「災害管理センター」(DMC)は、今ではスリランカ最大の携帯電話企業「ダイアローグ」と接続され、数百万人の契約者にメッセージを送ることができる。このシステムが前回使用されたのは2012年4月12日。この日、津波の警戒情報により一部の海岸で住民が避難した。

DMCのサラト・ラル・クマール副所長は「ある条件の下だと効果を発揮します。」と語った。ツイッターやフェイスブックといったより高度なメディアの効果は、地理的な位置関係や、誰がもっとも大きなリスクに晒されているかといったことなど、さまざまな条件に依存している、という。日本ですら、犠牲者の多くが新しいメディアをほとんど使わない高齢者が占めた東日本大震災(死亡者の65.8%が60歳以上の高齢者)では、こうしたソーシャルメディアの効果も限定的なものにならざるを得なかった。

「インターニュース」の報告書によると、インターネットや携帯電話を使った通信は大きな能力を持ってはいるが、その効果は、電気が使えるか、それらがどの程度浸透しているかといったことによって決まるという。

インターネットの浸透率が11%であるスリランカでは、その効果は都市圏以外ではほとんど期待できない、とクマール氏はいう。スリランカ政府は、警官を動員したりハンドマイクを使ったりと、早期警戒情報を伝えるためにさまざまな方法を使っている。2012年4月には、早期警戒タワーやDMCの地域職員派遣、赤十字など他団体の利用が試みられた。

SLRCのアベヤラタネ氏は、「どの方法が他の方法よりも効果的だったか判断するのは難しい。」と指摘したうえで、「スリランカのように技術へのアクセス状況が土地によってかなり異なっている国では特に、従来の方法と新しい方法を組み合わせることが重要です。」と語った。

アベヤラタネ氏もクマール氏も、タワーを設置したり携帯電話で知らせたりして早期警戒の能力を高めることは結構なことだとしつつも、テレビやラジオといった伝統的なメディアの能力を高めることも同様に重要だと語った。

「インターニュース」のキンタニーラ氏は「結局、多くのプラットフォーム、多くのチャンネルを使ったアプローチが必要だということです。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

INPS Japan

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