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|トルコ|行き過ぎた新自由主義経済政策が「内なる平和」を脅かす

【アンカラIPS=ジャック・コバス】

「内なる平和を、そして世界に平和を」は、トルコ共和国建国の父であるムスタファ・ケマル・アタトゥルク初代大統領が1931年に打ち出した国是である。これは、因果関係について述べたものであるが、5月末のイスタンブールでの事件を発端にトルコ全土に広がった抗議活動の波は、この因果関係が逆方向でも作用することを示している。

抗議活動が発生して約1週間が経過したが、トルコはそれまで、2011年から中東全域に飛び火した「アラブの春」や欧州南部を席巻した深刻な社会経済不安の影響を免れていた。

今でもなお、経済状況は2000年代ほど好景気ではないものの、依然として好調である。つまり深刻な経済危機に直面している地中海両岸の国々(=北アフリカと南欧諸国)と同じような状況がトルコに持ち上がった主な原因は、政治的リーダーシップの問題である。

与党公正発展党は、好調なエーゲ海沿岸及びイスタンブールの高級不動産に対する外国直接投資と大規模な国営企業の民営化政策により財政改革に成功し、国民の圧倒的な支持を得た。しかしそれと同時に、与党の間ではライバル不在の奢り高ぶる感情が醸成されていった。

この感情は2011年の総選挙で大勝して以来、与党の主要な政治家が政策に関する透明性と説明責任を次第に曖昧にし始めたことに現れている。与党党首で首相のレジェップ・タイイップ・エルドアン氏と側近らは、「一般のトルコ国民の懸念について考え、前回与党を支持しなかった国民の約半数を取り込む努力をすべき」とする信頼できる顧問らの提言に、謙虚に耳を傾けようとはしなかった。

政治プロセスは南欧諸国にみられたような不透明なものとなり、国民の基本的自由に対する政府の態度も、中東諸国のような傲慢なものとなった。「もうたくさんだ」というトルコ国民の突然湧きあがったかのような感情の発露の背景には、こうした与党による政治運営の実態があった。抗議運動がはじまって最初の6日間で、3人の死者と1000人を超える負傷者、そして1700人の逮捕者がでている。

観測筋の中には、今回の危機は「キス」とともに始まったと指摘するものもいる。これは恋人たちが公共の場において愛情表現をすることを禁じた今年5月の政府決定を指している。一方、トルコ国民による不満の兆候はもっと早い時期に遡ると指摘する専門家もいる。

従来から女性は少なくとも3人の子どもを出産すべきと度々表明してきたエルドアン首相は、2012年5月と同年秋に、女性の人工妊娠中絶と出産のために帝王切開を受ける権利を制限する法案を審議しようとしたため、反発した女性団体が抗議デモを行った。

より最近では、トルコ議会(与党が550議席のうち、326議席を占める)が、アルコール飲料の販促と消費を厳しく取り締まる法案を通過させ、エルドアン首相もアルコール飲料に高率の税金をかけると公約する一幕もあった。

President of Ukraine Petro Poroshenko interview with Turkey’s President Recep Tayyip Erdogan/ By President.gov.ua, CC BY 4.0

こうした中、従来与党の経済政策に対する評価から与党を支持してきた世俗派の有権者からは、国民のライフスタイルにまで干渉するエルドアン首相のやり方は受け入れられないとする不満の声が上がり始めていた。

トルコ国民は同時に、資本家階級と労働者階級の間の所得格差を拡大させた与党による行き過ぎた新自由主義経済政策に嫌気がさしている。

ゲジ公園(イスタンブール中心部のタクシムに唯一残った緑地)を再開発してショッピングモールと高級共同住宅にする決定は、今回同地を発火点に全国に広がった反政府抗議運動の原因というよりは、むしろ引き金だったと考えるべきだろう。

既に公園に隣接するジュムフリイェット通り周辺は、商業施設や高級住宅地、ショッピングモールを建設する敷地を確保するために取り壊し作業が進んでいる。またイスタンブールの記念碑的な場所であるタクシム広場(1920年のトルコ革命と世俗的な共和制国家の誕生を記念する碑が建つ場。国の近代化を推進した初代大統領アタチュルクの銅像もある:IPSJ)には、大きなモスクが建設される予定である。

非政府系の独立調査機関が2012年に発表した報告書によると、人口7500万人のトルコには、85,000のモスクが存在し、そのうち17,000は過去10年(=エルドアン政権が発足して以来)に建てられたものである。

それとは対照的に、トルコには学校が67,000校、病院が1,220棟、医療施設が6300件、公営図書館が1435件しかない。トルコ文化観光省の年間予算は、スンニ派を代表する(国民の80%がスンニ派)宗教局の予算の半分にも満たない。

一方、2002年以来、カタールサウジアラビアからの資本と米国及びオランダの年金基金が大半を占める直接投資は、集中的に投機的な高級不動産プロジェクトに向けられてきた。その結果、国際コンサルティング会社CBREによると、トルコでは2000年から2012年の間に、ショッピングモールが46件から300件と急拡大し、イスタンブールだけでも、現在2百万平方メートルの敷地がショッピングモール用地として建設中である。

さらに今年になって一連の民営化計画(鉄道、国営航空、国営エネルギー企業、高速道路、橋梁ネットワーク等)が発表され、巨額の外資を導入した巨大な建設プロジェクト(ボスポラス海峡に架ける3本目の橋、イスタンブールに3つ目となる空港、イスタンブールに中東最大規模となるモスク、そしてさらに多くの高級不動産開発へとつながる人工の第二ポスポラス海峡建設計画等)が進行する予定である。

5月27日に始まった(ゲジ公園の再開発計画に対する)抗議活動は、超然とした政府の行政運営に対する一般市民の不満を反映したものであり、概して自然発生的で平和的なものだった。しかし、全く容赦のない警察当局による弾圧と、エルドアン首相の扇動的な発言にが引き金となって、思わぬ政治危機へと発展してしまった。その結果、今後のトルコの民主主義の行方さえ不透明な状況に陥っている。

IPSでは、トルコの政界関係者と著名なジャーナリストへの取材を行ったが、新たに進行中の事態という事もあり、概して時局を論じることに慎重な姿勢を示した。

トルコ人イスラム神学者で穏健なイスラム教義と宗教間対話を説いてきたフェトフッラー・ギュレン師の個人秘書は、IPSの取材に対して、ギュレン師は今週末にも声明を発表する予定です、と語った。現在ギュレン師は自らの意思で、米国ペンシルベニア州で亡命生活を送っているが、彼の信奉者は世界で数100万人に及んでいる。

5日になっても抗議の勢いが収まるどころか、労働組合に続いて6日には新たに学生組織も抗議行動に参加するとの発表がなされるなど、騒ぎが長期化しかねない事態に及んで、穏健派で政治的にも賢明な采配で評判の高いアブドゥラー・ギュル大統領ビュレント・アルンチ副首相が、警察による過度の暴力を謝罪するなど、事態の収拾に乗り出した。

今後抗議活動が沈静するか否かは、北アフリカに外遊中のエルドアン首相の帰国後の発言内容にかかっている。しかし、デモの参加者を「暴徒」と呼び、「ゲジ公園の再開発計画は予定通り進めるつもりだ。ショッピングモールがいやならモスクを建てるまでだ。」とした外遊前の発言に近いものが繰り返された場合、事態が収拾する可能性は遠のいてしまうだろう(7日に帰国したエルドアン首相は、反政府デモを「破壊行為に走った」と非難し、即時中止を訴えるなど、対決姿勢を明確にした:IPSJ)。

トルコ政治に精通している人々にとって、現在進行している社会不安の状況は、1950年代に覇権主義的な政治を押し進めた中道右派の民主党政権下の状況を彷彿とさせるものがある。

ベテラン議員で社会民主党(SODEP)のフセイン・エルグン党首は、「1957年当時、アドナン・メンデレス首相マフムト・ジェラール・バヤル大統領は、総選挙で47%もの得票率を獲得していたことから自信に満ち溢れていました。」と指摘したうえで、「そして彼らは野党や野党所属の国会議員に対する締め付けを始めたのです。また、国会内に野党勢力を標的とした調査委員会を設けたほか、イスタンブール市内の歴史的建造物を破壊したのです。こうした強権政治がどのような結末を迎えたかはご存じでしょう。」と語った。

事実、独裁色を強めた当時の民主党政権は1960年に軍事クーデターにより崩壊した。トルコの人々は、生存中に再びそのような事態が繰り返されるようなことがないことを願っている。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|イラク|「政治・治安状況ともに混迷を深める」とUAE紙

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【ドバイWAM】


アラブ首長国連邦(UAE)のアラビア語日刊紙は6月3日、「連日爆弾テロで多くの無辜の市民が犠牲になっており、状況は悪化の一途を辿っている。」と報じた。

「混迷の度合いを深めているのは国内治安状況のみならず、政治状況も同じである。政治的緊張関係を和らげ、国内治安状況を立て直すのがイラクの政治指導者らがまず取り組むべき責任である。彼らは、各々の個人や派閥の狭量な利益の前にイラクの国益を最優先に行動すべきときに来ている。」とアル・バヤン紙は6月3日付けの論説の中で報じた。

また同紙は、5月中に派閥争いに巻き込まれて犠牲になったイラク国民は死者1000人以上、重軽傷者3000人近くにのぼり、過去5年間で最悪の月となった、と報じた。

ドバイに本拠を置く同紙は「悲惨な状況にあるイラク」と題した論説の中で、「イラク政府は今や国家統一の最大の脅威となっている国内各地のテロ活動に対して万全の体制で断固とした措置をとるべきである。」と指摘した上で、「そのためには派閥闘争に明け暮れてきた全ての政治指導者が交渉のテーブルにつき、イラク国家と国民というより高次元の利益のために、互いの対立点を協議し合い、妥協点を見出さなくてはならない。」「度重なる戦災に今なお苦しんでいるイラク国民にとって、そろそろ安定した統一政府の下で治安が確保され、まともな生活が送れる時代が到来してしかるべきである。」と同紙は報じた。

また同紙は、国連安保理や国際諸機関を含む国際社会に対して、イラク政府がこの重要な時期に、危機を乗り越え、国内の治安回復と政治的安定を達成できるよう、積極的に協力するよう呼びかけた。

同様に、アラブ連盟に対しても、イラク政府が頻発する暴力・テロ問題を解決し、国内の治安と安定を回復できるよう、支援を呼びかけた。(原文へ

翻訳=IPS Japan

|視点|ボリウッドに映る中印愛憎関係(クーノール・クリパラニ香港大学アジア研究センター名誉研究員)

実効支配線(LAC)として知られるインド・中国間の未確定国境における両国の活動は、1962年の記憶を呼び起こすかもしれない。この年に起こったアジアの2つの巨人の間の国境紛争は、いまだにインド人の心理の中に傷跡を残している。そしてこの心理は、チェタン・アナンドが脚本・監督を務めた1964年の映画『ハキーカット』(Haqeeqat)によって掻き立てられている。他方中国では、この同じ紛争が教科書で言及されることはない。

【シンガポールIDN=クーノール・クリパラニ】

インド映画は、インドの中国との微妙な関係について追求し続けている。友人あるいは敵として描くこともあれば、最近では、両国の長年の友好関係の歴史を基礎にした関係強化の可能性を示唆するものものある。

1962年の国境紛争以前、中印関係は敵対的なものではなかった。両国は、貿易や思想という紐帯によって結び付けられて、長年にわたってヒマラヤ山脈の両側で平和に栄えてきた。両国をつなぐ思想は、最初は仏教の哲学であり、20世紀初頭までには、反帝国主義・反植民地闘争であった。

1938年、あるひとりのインド人青年医師が、医療活動のために中国に向かった。27才だった。中国の抗日を支援せよとのインド民族主義指導者からの呼びかけに促されるように、ドワルカナート・コトニスは、中国での傷病人治療に馳せ参じ、最終的には毛沢東率いる八路軍の兵士になった。彼はここで将来の妻となる女性と出会い、32才の若さで病没した。中国革命の英雄として顕彰されたコトニスの像が、河北省石家荘に建てられている。革命殉教者墓地にある彼の墓は、カナダ共産党の党員・医師であり、八路軍に加わって途上の1939年に亡くなったノーマン・ベシューンの墓に向かい合っている。

この話は、V・シャンタラム監督の1946年の映画『不滅のコトニス博士』を基にしている。この映画は、広がっていた民族主義的感情だけではなく、世界全体での共産主義的な革命闘争を反映したものだ。映画では、中国共産党がジャワハルラル・ネルーとインド国民会議に対して発した、抗日闘争支援の呼びかけについても触れられている。

コトニスはこの呼びかけに応えた。そして大長征でも八路軍と行動を共にし、医師として献身的に赤軍傷病兵の治療にあたった。彼が将来の妻であるQing Lanに言い寄るシーンからは、当時の中印関係の微妙なニュアンスが伝わってくる。彼は、中国茶に「チニ」(ヒンディー語で「砂糖」の意)は要らない、と彼女に語る。この中国人の体は甘さで満たされているということを暗示したのだ。彼らの婚姻について、村人たちには、中印両国の緊密さを象徴するものだと説明された。司令官の聶栄臻(じょう・えいしん)将軍は、インドと中国からそれぞれとって、息子に「イン・フア」(Yin Hua)という名を与えた。

インドと中国が帝国主義のくびきから解き放たれた主権を獲得しようとしていたこの時期は、相互に共感と友情にあふれていた時代であった。国際的な共産主義組織「コミンテルン」が宣伝した価値観が世界中で共有され、中国共産党とインドの民族主義闘争の指導者の間には響きあうものがあった。共通の民衆による闘争が観念され、互いに力を与え合っていた。

しかし、1950年代末までにはインドと中国の間に政治的な対立が持ち上がる。主に、国境紛争とチベット問題をめぐるものだった。中国との友好は難しいものになり、映画の世界も大きく変わった。1950年代末の映画では、密輸者や悪党(『ハウラー橋』1958年)、スパイ(『愛の崇拝者』1970年)として中国人は描かれた。また、中国は国家安全保障上のリスクとみなされ、『青い空の下で』(1959年)に見られるように、民衆間の交流をポジティブなものとして描くことは一時的に禁止された。

『ハキーカット』

1962年の国境戦争の後、レトリックはより厳しいものになった。1964年の『ハキーカット』(「現実」の意)は、ネルーにこの作品を捧げるという宣言から始まる。1962年の人民解放軍による侵攻に際してラダックで国境防衛に従事し、命を捧げた兵士たちの姿を描いている。パノラマ的な場面はラダックの風景の美しさを捉え、インド東北部の荘厳さを映し出している。

映画では、準備を周到に整えた大規模な中国軍に、何の準備も戦略もないインド軍が装備も不十分なまま圧倒される様を対比的に描いている。そしてラダックの人々は、中国軍と戦うインド兵をもてなし、支援している様子が描かれている。ヒマラヤの不安定な高地にある山岳地点に到達したインド兵たちは、中国兵が拡声器で流す、「ヒンディ・チニ・バイ・バイ」(Hindi-Chini Bhai-Bhai)つまり、インド人と中国人は兄弟であるという古いスローガンをひっきりなしに聞かされることになる。

しかし、スローガンは空しく響き、撤退かそれとも「羊やヤギのように……虐殺されるのか」と問う中国兵の姿が次に映しだされる。インド軍は、戦闘の準備をしながらも、先に攻撃してはならないという命令に従う。

映画では、金の飾り物を戦争のために供出する女性の姿、共和国記念日にインド軍を観閲するネルー首相のニュース映像が挟み込まれる。『ハキーカット』は軍服に身を包む男たちを持ち上げる一方で、中国人を無慈悲で友/敵両方の顔を持った存在と描くことで、インド人の連帯感を強め、さまざまな政治的立場の人々に対して、インド存続の危機を訴えている。

『ハキーカット』は中国のプロパガンダにも焦点を当て、中国の意図は拡張主義とアジアの不安定化にあると示唆している。ラダックに終結する中国軍を見つめるインド兵は、敵方の目的は、彼らの祖先(モンゴル人と中国人の混同:IPSJ)であるチンギス・ハーンの精神を実現すること、すなわち、彼らが歩き回ったすべての土地を中国領として奪取することにあるのだろうと冗談を交わす。

あれから約40年、ボリウッド(インドの映画業界)のあるコメディー映画が中国に対する21世紀の見方を表している。中国武術の高揚した雰囲気の中における、ドジで俗物的なインドの英雄についてのコメディーである。2009年の映画『チャンドニー・チョウクから中国へ』(From Chandni Chowk to China、CC2Cと略される)は、はじめて中国ロケを行ったボリウッド映画だ。映画は万里の長城の引きの映像から始まり、中国の伝統的な剣術へとズームしていく。最初に、チンギス・ハーンは中国のもっとも成功した兵士として崇められているという説明が入る。

中国の悪党たちは、残虐で無慈悲だが、きわめて賢い。両者に人種的なステレオタイプがあるものの、映画の中のキャラクターは、人種的あるいは政治的な偏見を互いに持っていない。両者は、怪しげで、けっして高貴とは言えないキャラクターだが、過去のインド映画とは違う描き方になっている。

1962年の中国の裏切りの傷は残っているが、国家の心理は、中国人を完全な形で描くことができるまでには回復している。つまり、今日インド映画に登場する中国人は、悪い人あり、良い人あり、そしてまた、日々の生活にやっとの普通の人々ありと様々である。先述の映画のインドの英雄は、賢い中国の悪人に対して、下卑た人物として描かれているが、最終的には誠実なものが勝つという物語の構成になっている。映画は同時に、洗練された中国武術や中国伝統医療、両国の民衆の間の友情にも価値を認めている。インド人の母と中国人の父との間に生まれた双子サキとスージーがこれを体現するものだ。スクリーン上で中国文化の美しい側面を映し出すボリウッドの能力は、21世紀国家としてのインドの自信のほどを表している。

駐印中国大使が2012年初めに語ったように、ボリウッドのソフト・パワーが今後も続くなら、そして、CC2Cで描かれたような態度が今後も支配的ならば、最近の紛争も、敵意ではなく、友好と相互尊重の精神でもって解決することが可能であろう。(原文へ

翻訳=IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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|タイ|政府によるエイズ対策の転換(前半)

【バンコクAPIC/IPS Japan=浅霧勝浩

タイは90年代初頭に政府、産業界、メディア、NGOなど社会のあらゆるセクターを動員したエイズ対策を実施して当初の爆発的なエイズの流行を抑制することに成功した世界でも数少ない国であるが、この思い切ったエイズ対策が可能になった背景には、今日もタイで「ミスターコンドーム」と親しまれている人物の活躍があった。

タイでは当初エイズは同性愛者やIDU(薬物常用者:静脈注射の共用で高い確率で感染する)など一部の限られた人々の間に感染する外来の病気であり、最初の事例発見後数年が経過しても一般のタイ人には関係ないと考えられていた。

Mechai Viravaidya
Mechai Viravaidya

 
また、タイ政府は1987年を”Visit Thailand Year”と定め、軌道に乗ってきた外国投資を背景に観光産業を大幅に飛躍させるべく世界各国で政府を挙げた観光客誘致に取り組んでいた時期であり、政府は観光イメージを損なう恐れのあるエイズ問題に対して、沈黙する姿勢をとった。メチャイ・ウィラワイヤ氏は、当時既に欧米で解明されていたHIV/AIDS感染パターンから推測して、買春率が高いタイ社会はHIV/AIDS流行の危機的な状況にあり、政府主導の強力な教育キャンペーンが必要との見解を政権内部で働きかけたが政策に取り上げられなかった。

そこで、メチャイ氏は、官房長官としてではなく、タイのNGOであるPDA(Population & Development Association)の総裁としての立場で、エイズの感染経路と予防法を説明する各種教材(オーディオテープ、ビデオ、パンフレット、本など)を作成し、メディア、政府、産業界に対してエイズ予防キャンペーンを実施した(注1)。しかしそれに対する政府の反応は鈍かった。

PDA
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1988年、メチャイ氏は官房長官の職を辞して1年間渡米し、ハーバード大学に客員研究員としてエイズ対策の最先端を研究する一方、ロックフェラー財団を初めとする将来のタイにおけるエイズ対策事業を支援することになる援助機関を開拓した。この頃、タイにおけるHIV/AIDS感染は同性愛者間の流行からIDU間の流行の波に移っていた。

タイ政府は、National Sentinel Surveillance Surveyを開始し、ハイリスク人口における流行状況のモニタリングに着手したが、メチャイ氏が主張する一般国民を対象とした強力な教育キャンペーンは実施されなかった。メチャイ氏はそこで1989年6月にカナダのモントリオールで開催された国際エイズ会議に基調講演者として参加し、タイから送られてくる最新のデータに基づいて、エイズに晒されているタイ社会の危機的な状況を国際社会に対して訴えた(注2)。

その直後、メチャイ氏はタイに帰国したが、政府はエイズ問題を依然として性行動に起因する問題ではなく、あくまでも医療分野の問題とする立場をとり、沈黙を守っていた(注3)。一方、タイのエイズ流行は既に第2波のIDU間の流行を超えて第3波の売春婦間の流行が始まっていた(感染率約6%)。

PDA
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メチャイ氏は、”Mr. Condom”と異名をとった家族計画キャンペーン等でのメディアに対する圧倒的な知名度(注4)と政府、産業界、NGO、及び英米学術機関との太いパイプを活用して、あえてタイ「性産業」の既得権益者(売春宿経営者、一部警察・政治家等)の反対を押し切って、大胆なエイズ予防キャンペーンを実施した。

以降、Chuan氏は「性産業」の既得権益層の徹底的な攻撃にあい、新聞各紙もChuan氏の政治生命は長くないと予想する事態となった。ついに当時のチャートチャーイ首相は欧州周遊中、「タイにエイズ問題はない」と改めて言明せざるをえなかった。巨大な既得権益勢力の抵抗にあって、政府も軍も公式にエイズ問題に取り組む姿勢を打ち出すことは出来なかった。
 
 メチャイ氏は、反対勢力に対して先手を打つために、すぐさま、タイ「性産業」の象徴的なパッポン通りにボランティアと賛同者を引き連れて乗り込み、”Condom Night with Mechai”と題した派手なデモンストレーションを実施する一方、タイ政界のトップに対して直接的なアプローチを敢行した。

パッポン通りでは、メチャイ氏は拡声器ごしに「エイズとの戦いに勝つために皆が結束しなければならない。私たちタイ人は嘗て首都アユタヤを2度ビルマ人に奪われたが最後は奪回できた。このエイズとの闘いにも勝つことができるのだ。」と訴え、ヘリウムを充填したコンドームを風船代わりに人目を惹きながら、エイズ防止のメッセージのプラカードを並べて行進した。

会場では、道行く人々を巻き込んで、キャンペーンT-shirtsを懸賞にしたコンドームの膨らまし大会、各種性感染症を表記したダーツを使ったクイズ大会、Miss Condom Beauty(注5)を選ぶコンテストなど、数々の奇抜な催しで多くの群集を惹き付けた(注6)。このイベントにはメチャイ氏の後輩ハーバード大学MBAの学生達がスーパーマンのような衣装に身を包んだCaptain Condomに扮してGo-Go-Barを廻りSafe Sexを訴えた。メチャイ氏自身も、バーやナイトクラブに立ち寄り、コンドームを配布しながら、「これが(コンドーム)あなたの命を救います。このことに慎重でなければ死ぬのですよ。」と訴えて廻った。

この突然のイベントには、タイ国内のメディアのみならず、諸外国のメディアもこぞって取材に訪れた。メチャイ氏は各国のメディアを前に次のように演説した。「タイであからさまにエイズ防止キャンペーンを行うことは、観光客を遠のかせることにはなりません。なぜなら、ニューヨーク、ロンドン、パリといったタイよりもエイズ感染率が高い都市に対して、相変わらず多くの人々が訪れているではないですか。
 

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重要なことは、我々がエイズの問題に正面から真剣に取り組むことで、タイを訪れる観光客に対して、この死をもたらす病の問題について我々は無頓着ではないですよという姿勢をしっかり伝えることです。もし仮にエイズが本当に旅行者を遠のかせるのならば、それは買春目的の観光客ということですからタイにとってはいいことではありませんか。エイズと効果的に戦うために私たちに今残されている時間は3年しかありません。もしそれまでに売春婦を通じて急速に広がっているエイズの流行を阻止できなければ、手の打ちようがなくなってしまいます。」そして、メチャイ氏の主張は、タイ全土のみならず、世界各地に配信され、大きな反響を引き起こした。

次に、メチャイ氏は、タイ政界の実質上の最高権力者であるチャートチャーイ首相及びChavalit将軍へのアプローチを試みた。メチャイ氏は、まずチャートチャーイ首相に対して、首相を首班とする国家エイズ対策委員会の創設を具申したが、拒否されたばかりか、政府が管轄する488のラジオ局と6つのテレビ局においてエイズ関連の情報を放送することも断られた。

しかし、Chavalit将軍は、近年深刻化していたタイ軍人間のエイズ感染の拡大と保健省発表の数値の低さ(注7)に懸念を持っており、「3年以内に対策を講じないと手遅れになる」と主張するメチャイ氏の主張を受け入れ、1989年8月14日、上記政府系メディアの中から軍が実質的に管轄する3分の2を動員して3年間に亘るエイズ防止教育キャンペーン(注8)を実施することを発表した。

一方チャートチャーイ政権は、それでも様々な理由を挙げて抜本的なエイズ対策を実施することに抵抗した。例えば、政府がエイズ対策に慎重な理由として、1.エイズの流行は一時的でまもなく収束するとの説を挙げる、2.予算不足から段階的な戦略を立てる必要性を強調する、3.エイズ感染関連情報は、他国がタイを中傷するために使用することを防ぐために徐々に公表していく必要性を説く等、を挙げたが、その間にも、HIV/AIDS感染は急速に深刻化し、1990年の2月にはタイ全国の関係者を戦慄させるチェンマイ大学によるタイ北部(Chiang Mai, Lampang, and Lamphun)で実施されたランダムサーベイの結果が報告された。
 
 これによると、性感染によるHIV/AIDS感染率は保健省発表の全国数値10%を遥かに上回る59%~91%にのぼった。また、チェンマイの売春婦における感染率は44%~72%で一般の庶民が出入りする下級売春宿ほど感染率が高い傾向が確認された。また、感染者の44%は未成年で、売春婦として働いて6ヶ月から1年で約70%がHIV/AIDSに感染しているという結果が出た。

そして、この傾向は1990年6月に発表された全国の売春宿の女性を調査した保健省のNational Sentinel Serveillance dataでも前年を6%も大幅に上回る14%という結果で裏付けることとなった。(後半に続く)

注1:「もしタイ人が今エイズの脅威に気付かなければ、すぐにエイズは蔓延し手をつけられない事態になる。」「私たちはこの病気を抑えこまなければならない。今、行動しないと、手遅れになるかもしれない。」(Mechai Viravaidya, 1987)

注2:この際、タイにおいてもエイズは6つの波(1.男性同性愛者、2.IDUs、3.売春婦、4.買春顧客、5.買春者の妻又は恋人、6.母子感染)を経て蔓延すると警告した。「エイズがタイの一般市民の間に爆発的に広がる事態を回避するには、今すぐにタイ社会の全てのセクターの参加を得て圧倒的なエイズ対策教育を実施しなければならない。」(Mechai Viravaidya, 1989)

注3:一方、タイ政府の中にもエイズ問題に積極的に取り組むべきとの意見は出始めていた。当時公衆衛生大臣のChuan Leekpai氏は1988年10月、「エイズはタイにとって深刻な問題であり、これ以上の感染を防ぐためにも、我々はタイの巨大な『性産業』を抑制しなければならない。」と発言し、マレーシア政府がタイ国境地域の売買春産業地域Hat Yaiへの買春観光自粛を勧告して地元「性産業」関係者と対立した際にも「性産業」を擁護しない姿勢をとった。

注4:メチャイ氏は、タイ政府の国家経済開発局を皮切りに政府官僚として国内の開発問題に取り組む一方、GNPというペンネームでタイの貧困問題、経済格差など開発に関する本音の部分を新聞・雑誌に寄稿し、タイ内外で好評を博した。また、Nicholaというペンネームで人気ラジオのパーソナリティーを勤めたり、人気テレビドラマに主役で登場するなど、タイのメディアでは若い頃から有名人であった。

注5:「私はミスユニバースに対抗してミスコンドームのビューティーコンテストをプロモートしたい。なぜなら、こちらの方が多くの人の命を救うことになりますからね。」(Mechai Viravaidya, 1989)

注6:これらの手法は家族計画キャンペーンの際に使用したものを参考に実行されたが、今回のエイズ防止キャンペーンは、家族計画キャンペーンの時のようなジョークとユーモアで群集を惹きつけるという手法はとらなかった。この点をメディアに質問されてメチャイ氏は、「確かに家族計画の時には常にユーモアを使っていたが、エイズにユーモアは使えない。人が死ぬことに関してなんら可笑しいことはないからね。」と答えている。

注7:1989年の保健省発表のHIV/AIDS感染者数は10,000人であったのに対して、他のサーベイデータは150,000人から200,000人を示していた。

注8:キャンペーン広告の作成にはメチャイ氏のハーバード時代に支援を約束したロックフェラー財団が資金支援に乗り出した。このようにタイ国軍が全面的にメチャイ氏のエイズ防止キャンペーンを後押ししたことから、他のタイ政府系各局の中にも国軍系メディアの前例に従うところも出てきたが、一方で、メーチャイ氏のエイズ宣伝は過剰でタイの観光産業に悪影響を及ぼすとする政府内の批判も根強く、エイズ関連情報の放送を徹底的に拒否する放送局も少なくなかった。

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地政学的通貨としての核の価値を国連は引き下げることができる

【国連IPS=タリフ・ディーン

国連総会(193が加盟)は今年9月に初めて核軍縮に関するハイレベル会合を開催するが、核兵器保有国がこの致命的な兵器を段階的になくすか廃絶すると明確に約束する見通しは、ほとんどない。

ストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が6月3日に発表した世界の軍備動向に関する2013年の年次報告書によると、英国、米国、ロシア、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエルの8か国が保有している作戦配備されている核弾頭の数は、2013年初頭時点で約4400発である。

このうち約2000発が高度な警戒態勢下に置かれているという。

グローバル安全保障研究所の所長でワイドナー大学法学部の客員教授(国際法)であるジョナサン・グラノフ氏は、IPSの取材に対して、「軍備管理と核軍縮におけるスローペースを転換するために必要なのは、高度な政治的意思です。」と指摘したうえで、「例えば、ある国のリーダーが『私の国は非核兵器地帯にある114の国のひとつです。我が国は、安全保障を核兵器に依存している国々が世界全体を非核兵器地帯化することによって利益を得る支援をしたいと考えています。』と国連総会の場で述べたらどうなるでしょうか。」と語った。

SIPRI年次報告書は、核軍縮を実際の行動に移すという、2010年の核不拡散条約(NPT)運用検討会議で厳粛になされた誓約を実行する必要性について焦点を当てている。

「約束とは実際に何かを意味するものでなくてはなりません。」とグラノフ氏は言う。

SIPRIによれば、すべての核弾頭がカウントされた場合、8か国が保有する核弾頭の合計は、2012年初頭の1万9000発に対して、計1万7265発になるという。この減少は主に、「戦略攻撃兵器の一層の削減および制限のための措置に関する米国およびロシアの間の条約」(新START)の条件に従って、ロシアと米国が戦略核を削減しているため、さらには、老朽化、陳腐化した核兵器を退役処分しているためである。

またSIPRIは、「それと同時に、法的に核兵器国と認められている5か国(中国、フランス、ロシア、英国、米国:P5)は、新型の核兵器運搬システムを導入するか、将来的な導入を発表しており、核兵器を永久に保持する意志を明確にしている。」「またP5の中では、中国だけが核戦力の拡大を行っているようだ。」と指摘している。

一方P5以外の核兵器保有国では、「インドとパキスタンが核兵器の備蓄とミサイル運搬能力を拡大している。」と指摘している。

SIPRI年次報告書はこうした分析結果から、「核兵器保有国が真に核を放棄しようとしているかどうかについては、またしても、希望を見出せるような材料がほとんど見いだせなかった。」と述べている。

SIPRI軍備管理・軍縮・不拡散プログラムのシャノン・カイル上席研究員は、「これらの国々で進行中の長期的な核近代化計画を見れば、核兵器が依然として国際的な地位とパワーを象徴するものであることがわかります。」と語った。

カイル氏は、9月に予定されている国連総会の軍縮問題ハイレベル会合が、核兵器廃絶に向けて何らかの成果を生み出しうるかというIPSの質問に対して、「世界の核戦力の現在の状況からすれば、国連総会が、核兵器保有国に核兵器廃棄を開始させるか、核戦力態勢や作戦実務を変更させることを求める具体的な措置を採択できるとは、あまり考えられません。」と述べたうえで、「しかし、既存の規範強化という点で国連総会は積極的な役割を果たしうるし、核軍縮を追求するという政治的誓約を過小評価してはなりません。」と語った。

そのためには、まずもって、国家安全保障戦略や防衛態勢における核兵器の役割と重要性を低減するよう、核兵器保有国に政治的圧力をかけ続けることが必要である。

これは例えば、核兵器保有国を説得して核兵器の先制使用をしないと宣言する政策を採用させるとか、法的拘束力のある消極的安全保証(非核兵器国に対して核兵器を使用しないと保証すること)を提供させることなどを通じてなしうるだろう。

カイル氏は、「国連総会は、長期的には、国際的地政学の通貨としての核兵器の価値を引き下げ、核保有を非正当化することに貢献し、その取り組みを強化することができるでしょう。」と語った。

さらにカイル氏は、「これは確かに、相当な忍耐と外交的一貫性を必要とする長期的なプロセスになるでしょうが、それが規範形成に及ぼす重要性には無視しえないものがあります。」と付け加えた。

一方、グラノフ氏は、「バラク・オバマ政権が新START批准を上院で勝ち取るために必要だと考えた取引材料の中には、核戦力の近代化という内容が含まれています。その内容を見ると、単に核兵器を安定的な状態に保つというものもありますが、中には、核兵器の能力(正確性と安定性)を実際に向上させるような内容もあることから、垂直拡散の一形態と見なしうるものもあります。」と語った。

「こうした措置に予算をつけるべきでありませんが、仮に予算がついたとしても、軍の地戦略的な計画のために、実行に移されていません。」とグラノフ氏は語った。

グラノフ氏は、(オバマ政権の)こうした行動は、核兵器の地位を認めたり、核兵器なき世界に向かうとのNPTの下での誓約を放棄したりすることを意味する訳ではありません、と語った。

カイル氏は、この点について「(オバマ政権の行動は)きわめて困難な国内の党派的環境において、穏健的な軍備管理措置を達成するために必要な短期的な政治取引であるにすぎないのです。」と語った。

一方グラノフ氏は、「現在世界各国の政策が正しい方向に進んでいないと結論付けてしまうことは正しくありません」と指摘したうえで、「ジュネーブでは(多国間の核軍縮交渉を前進させるための提案を策定する)オープン参加国作業グループ」が始動し、勧告を行うことになっていること」さらに、「先頃ノルウェー政府が多数の国の参加を得て、核兵器の使用が及ぼす恐るべき人道的帰結に焦点を当てた大きな会議を開催したこと」を挙げ、「こうした活動は我々の未来にとってよい先ぶれになっています。」と語った。

またグラノフ氏は、こうした活動にP5が加わっていないことについて「奇妙なことだ」と批判しつつも、「しかしこのことは、これらの(核兵器保有)国が望むならば、協力をし、同じ戦略と立場に至ることができるということを示しています。」と指摘した。

グラノフ氏はそのうえで、「我々の任務は、政治的な優先順位の中で核兵器廃絶の問題を上にあげ、P5が核軍縮に協力するよう仕向けることです。」と語った。

カイル氏は、SIPRI年次報告書が北朝鮮を核兵器国のリストに入れていないのはなぜかというIPSの質問に対し、報告書が、北朝鮮の核兵器能力に関して述べた「核戦力に関する章」において、同国が作戦配備できる(軍事的に使用可能な)核兵器を製造したかどうかは不明だと指摘している点を挙げたうえで、「作戦配備できる兵器とは、単なる核爆発装置とは異なり、製造のためにより高度な設計と工学的技術を要するのです。」と語った。

さらにカイル氏は、「我々は、2013年のSIPRI年次報告書の中で、北朝鮮のプルトニウム製造活動に関する公知の情報に基づいて、同国の核保有最大数は6~8発と見積もっています。」「しかし、ここでもまた、北朝鮮が作戦配備可能な核兵器を実際に製造したかどうかは明らかでなかったため、報道発表の表の中には含めなかったのです。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|タイ|政府によるエイズ対策の転換(前半)

【バンコクAPIC=浅霧勝浩】

Mechai Viravaidya
Mechai Viravaidya

タイは90年代初頭に政府、産業界、メディア、NGOなど社会のあらゆるセクターを動員したエイズ対策を実施して当初の爆発的なエイズの流行を抑制することに成功した世界でも数少ない国であるが、この思い切ったエイズ対策が可能になった背景には、今日もタイで「ミスターコンドーム」と親しまれている人物の活躍があった。

タイでは当初エイズは同性愛者やIDU(薬物常用者:静脈注射の共用で高い確率で感染する)など一部の限られた人々の間に感染する外来の病気であり、最初の事例発見後数年が経過しても一般のタイ人には関係ないと考えられていた。

 また、タイ政府は1987年を”Visit Thailand Year”と定め、軌道に乗ってきた外国投資を背景に観光産業を大幅に飛躍させるべく世界各国で政府を挙げた観光客誘致に取り組んでいた時期であり、政府は観光イメージを損なう恐れのあるエイズ問題に対して、沈黙する姿勢をとった。メチャイ・ウィラワイヤ氏は、当時既に欧米で解明されていたHIV/AIDS感染パターンから推測して、買春率が高いタイ社会はHIV/AIDS流行の危機的な状況にあり、政府主導の強力な教育キャンペーンが必要との見解を政権内部で働きかけたが政策に取り上げられなかった。

PDA
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そこで、メチャイ氏は、官房長官としてではなく、タイのNGOであるPDA(Population & Development Association)の総裁としての立場で、エイズの感染経路と予防法を説明する各種教材(オーディオテープ、ビデオ、パンフレット、本など)を作成し、メディア、政府、産業界に対してエイズ予防キャンペーンを実施した(注1)。しかしそれに対する政府の反応は鈍かった。

1988年、メチャイ氏は官房長官の職を辞して1年間渡米し、ハーバード大学に客員研究員としてエイズ対策の最先端を研究する一方、ロックフェラー財団を初めとする将来のタイにおけるエイズ対策事業を支援することになる援助機関を開拓した。この頃、タイにおけるHIV/AIDS感染は同性愛者間の流行からIDU間の流行の波に移っていた。

タイ政府は、National Sentinel Surveillance Surveyを開始し、ハイリスク人口における流行状況のモニタリングに着手したが、メチャイ氏が主張する一般国民を対象とした強力な教育キャンペーンは実施されなかった。メチャイ氏はそこで1989年6月にカナダのモントリオールで開催された国際エイズ会議に基調講演者として参加し、タイから送られてくる最新のデータに基づいて、エイズに晒されているタイ社会の危機的な状況を国際社会に対して訴えた(注2)。

その直後、メチャイ氏はタイに帰国したが、政府はエイズ問題を依然として性行動に起因する問題ではなく、あくまでも医療分野の問題とする立場をとり、沈黙を守っていた(注3)。一方、タイのエイズ流行は既に第2波のIDU間の流行を超えて第3波の売春婦間の流行が始まっていた(感染率約6%)。

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メチャイ氏は、”Mr. Condom”と異名をとった家族計画キャンペーン等でのメディアに対する圧倒的な知名度(注4)と政府、産業界、NGO、及び英米学術機関との太いパイプを活用して、あえてタイ「性産業」の既得権益者(売春宿経営者、一部警察・政治家等)の反対を押し切って、大胆なエイズ予防キャンペーンを実施した。

以降、Chuan氏は「性産業」の既得権益層の徹底的な攻撃にあい、新聞各紙もChuan氏の政治生命は長くないと予想する事態となった。ついに当時のチャートチャーイ首相は欧州周遊中、「タイにエイズ問題はない」と改めて言明せざるをえなかった。巨大な既得権益勢力の抵抗にあって、政府も軍も公式にエイズ問題に取り組む姿勢を打ち出すことは出来なかった。
 
 メチャイ氏は、反対勢力に対して先手を打つために、すぐさま、タイ「性産業」の象徴的なパッポン通りにボランティアと賛同者を引き連れて乗り込み、”Condom Night with Mechai”と題した派手なデモンストレーションを実施する一方、タイ政界のトップに対して直接的なアプローチを敢行した。

パッポン通りでは、メチャイ氏は拡声器ごしに「エイズとの戦いに勝つために皆が結束しなければならない。私たちタイ人は嘗て首都アユタヤを2度ビルマ人に奪われたが最後は奪回できた。このエイズとの闘いにも勝つことができるのだ。」と訴え、ヘリウムを充填したコンドームを風船代わりに人目を惹きながら、エイズ防止のメッセージのプラカードを並べて行進した。

会場では、道行く人々を巻き込んで、キャンペーンT-shirtsを懸賞にしたコンドームの膨らまし大会、各種性感染症を表記したダーツを使ったクイズ大会、Miss Condom Beauty(注5)を選ぶコンテストなど、数々の奇抜な催しで多くの群集を惹き付けた(注6)。このイベントにはメチャイ氏の後輩ハーバード大学MBAの学生達がスーパーマンのような衣装に身を包んだCaptain Condomに扮してGo-Go-Barを廻りSafe Sexを訴えた。メチャイ氏自身も、バーやナイトクラブに立ち寄り、コンドームを配布しながら、「これが(コンドーム)あなたの命を救います。このことに慎重でなければ死ぬのですよ。」と訴えて廻った。

この突然のイベントには、タイ国内のメディアのみならず、諸外国のメディアもこぞって取材に訪れた。メチャイ氏は各国のメディアを前に次のように演説した。「タイであからさまにエイズ防止キャンペーンを行うことは、観光客を遠のかせることにはなりません。なぜなら、ニューヨーク、ロンドン、パリといったタイよりもエイズ感染率が高い都市に対して、相変わらず多くの人々が訪れているではないですか。
 
重要なことは、我々がエイズの問題に正面から真剣に取り組むことで、タイを訪れる観光客に対して、この死をもたらす病の問題について我々は無頓着ではないですよという姿勢をしっかり伝えることです。もし仮にエイズが本当に旅行者を遠のかせるのならば、それは買春目的の観光客ということですからタイにとってはいいことではありませんか。エイズと効果的に戦うために私たちに今残されている時間は3年しかありません。もしそれまでに売春婦を通じて急速に広がっているエイズの流行を阻止できなければ、手の打ちようがなくなってしまいます。」そして、メチャイ氏の主張は、タイ全土のみならず、世界各地に配信され、大きな反響を引き起こした。

次に、メチャイ氏は、タイ政界の実質上の最高権力者であるチャートチャーイ首相及びChavalit将軍へのアプローチを試みた。メチャイ氏は、まずチャートチャーイ首相に対して、首相を首班とする国家エイズ対策委員会の創設を具申したが、拒否されたばかりか、政府が管轄する488のラジオ局と6つのテレビ局においてエイズ関連の情報を放送することも断られた。

しかし、Chavalit将軍は、近年深刻化していたタイ軍人間のエイズ感染の拡大と保健省発表の数値の低さ(注7)に懸念を持っており、「3年以内に対策を講じないと手遅れになる」と主張するメチャイ氏の主張を受け入れ、1989年8月14日、上記政府系メディアの中から軍が実質的に管轄する3分の2を動員して3年間に亘るエイズ防止教育キャンペーン(注8)を実施することを発表した。

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一方チャートチャーイ政権は、それでも様々な理由を挙げて抜本的なエイズ対策を実施することに抵抗した。例えば、政府がエイズ対策に慎重な理由として、1.エイズの流行は一時的でまもなく収束するとの説を挙げる、2.予算不足から段階的な戦略を立てる必要性を強調する、3.エイズ感染関連情報は、他国がタイを中傷するために使用することを防ぐために徐々に公表していく必要性を説く等、を挙げたが、その間にも、HIV/AIDS感染は急速に深刻化し、1990年の2月にはタイ全国の関係者を戦慄させるチェンマイ大学によるタイ北部(Chiang Mai, Lampang, and Lamphun)で実施されたランダムサーベイの結果が報告された。
 
 これによると、性感染によるHIV/AIDS感染率は保健省発表の全国数値10%を遥かに上回る59%~91%にのぼった。また、チェンマイの売春婦における感染率は44%~72%で一般の庶民が出入りする下級売春宿ほど感染率が高い傾向が確認された。また、感染者の44%は未成年で、売春婦として働いて6ヶ月から1年で約70%がHIV/AIDSに感染しているという結果が出た。

そして、この傾向は1990年6月に発表された全国の売春宿の女性を調査した保健省のNational Sentinel Serveillance dataでも前年を6%も大幅に上回る14%という結果で裏付けることとなった。(後半に続く)

注1:「もしタイ人が今エイズの脅威に気付かなければ、すぐにエイズは蔓延し手をつけられない事態になる。」「私たちはこの病気を抑えこまなければならない。今、行動しないと、手遅れになるかもしれない。」(Mechai Viravaidya, 1987)

注2:この際、タイにおいてもエイズは6つの波(1.男性同性愛者、2.IDUs、3.売春婦、4.買春顧客、5.買春者の妻又は恋人、6.母子感染)を経て蔓延すると警告した。「エイズがタイの一般市民の間に爆発的に広がる事態を回避するには、今すぐにタイ社会の全てのセクターの参加を得て圧倒的なエイズ対策教育を実施しなければならない。」(Mechai Viravaidya, 1989)

注3:一方、タイ政府の中にもエイズ問題に積極的に取り組むべきとの意見は出始めていた。当時公衆衛生大臣のChuan Leekpai氏は1988年10月、「エイズはタイにとって深刻な問題であり、これ以上の感染を防ぐためにも、我々はタイの巨大な『性産業』を抑制しなければならない。」と発言し、マレーシア政府がタイ国境地域の売買春産業地域Hat Yaiへの買春観光自粛を勧告して地元「性産業」関係者と対立した際にも「性産業」を擁護しない姿勢をとった。

注4:メチャイ氏は、タイ政府の国家経済開発局を皮切りに政府官僚として国内の開発問題に取り組む一方、GNPというペンネームでタイの貧困問題、経済格差など開発に関する本音の部分を新聞・雑誌に寄稿し、タイ内外で好評を博した。また、Nicholaというペンネームで人気ラジオのパーソナリティーを勤めたり、人気テレビドラマに主役で登場するなど、タイのメディアでは若い頃から有名人であった。

注5:「私はミスユニバースに対抗してミスコンドームのビューティーコンテストをプロモートしたい。なぜなら、こちらの方が多くの人の命を救うことになりますからね。」(Mechai Viravaidya, 1989)

注6:これらの手法は家族計画キャンペーンの際に使用したものを参考に実行されたが、今回のエイズ防止キャンペーンは、家族計画キャンペーンの時のようなジョークとユーモアで群集を惹きつけるという手法はとらなかった。この点をメディアに質問されてメチャイ氏は、「確かに家族計画の時には常にユーモアを使っていたが、エイズにユーモアは使えない。人が死ぬことに関してなんら可笑しいことはないからね。」と答えている。

注7:1989年の保健省発表のHIV/AIDS感染者数は10,000人であったのに対して、他のサーベイデータは150,000人から200,000人を示していた。

注8:キャンペーン広告の作成にはメチャイ氏のハーバード時代に支援を約束したロックフェラー財団が資金支援に乗り出した。このようにタイ国軍が全面的にメチャイ氏のエイズ防止キャンペーンを後押ししたことから、他のタイ政府系各局の中にも国軍系メディアの前例に従うところも出てきたが、一方で、メーチャイ氏のエイズ宣伝は過剰でタイの観光産業に悪影響を及ぼすとする政府内の批判も根強く、エイズ関連情報の放送を徹底的に拒否する放送局も少なくなかった。

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|報告書|イランが核を保有しても地域のパワー・バランスは崩れない

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【ワシントンIPS=ジム・ローブ、ジョー・ヒッチョン】

米国のシンクタンク「ランド研究所」が5月17日に発表した新しい報告書によれば、イランが核兵器を保有した場合でも、米国や米国の中東における同盟国(イスラエルや湾岸地域のアラブ君主国家)にとって重大な脅威にはならない、という。

『核保有後のイラン:核武装したイラン政府はどう行動するか?』と題された報告書は、もしイランが核兵器を取得することがあったとしても、それは、攻撃的な目的ではなく、おそらくはイスラエルや米国などの敵対国からの攻撃を抑止することを目的としている、と断定している。

この50ページの報告書は、イランが核保有すれば、スンニ派が支配する近隣諸国との間に緊張が高まることになるだろうが、イランが他のイスラム教国に対して核兵器を使用する可能性は低いだろうと結論づけている。また、ランド研究所の国際政策アナリストで報告書の著者であるアリレザ・ネイダー氏によれば、イランは「アラブの春」や内戦状態にあるシリアバシャール・アサド政権を支援した結果、中東における影響力が低下してきているが、核武装でこの流れを止めることはできないだろう、と結論付けている。

「イランの核兵器開発は外敵からの攻撃を抑止する能力を強化することにはなるが、中東の地政学的秩序をイランにとって有利な方向に変えることにはつながらないでしょう。」「中東地域の覇権を目指すイランの挑戦は、国際的な信用力の低下、経済の弱体化、限定的な通常軍事能力のために制約されています。つまりイランは、たとえ核武装したしても、衰退国家であることに変わりないのです。」とネイダー氏はIPSの取材に対して語った。

報告書はいくつかの結論を導き出しているが、その全てにおいて、イランが概して国際関係においては合理的アクターであると想定している。

ネイダー氏はイランについて、中東における(イランが見るところの)米国支配の秩序を弱体化させようとする「修正主義国家」と呼んでいるが、「イランには領土奪取の野望はなく、他国を侵略、征服、占領しようとはしていない。」と強調している。

さらに報告書は、イランの軍事ドクトリンは基本的に防衛的な性質のものだとみている。この背景には、イランが位置する中東地域が対立含みで不安定なものであることに加えて、スンニ派とアラブ人が多数を占める同地域において、イランがシーア派とペルシア人が多数を占める国家であるという事情が影響している。

イランはまた、イラクとの8年にわたった凄惨な戦争(1980年~88年)で100万人もの国民が命を落としており、未だにこの痛手から回復できていない。

この新しい報告書は、核武装化したイランは果たして米国とその同盟国によって「封じ込め」うるのか、中東で攻撃的な政策にでたり、核兵器を実際に敵に対して使用するのを抑止しうるのか、という論争が米国内で高まっている中で発表された。

イラン自体は、核兵器開発疑惑を激しく否定しており、米国の諜報当局もこの6年間、イランの指導層は核開発の決断を下していない、と一貫して主張してきた。ただし、もしそうした決断が下されたならば、[既存の]核計画の進展度合いとインフラ状況からして、1発の核兵器を速やかに製造することは可能だと、としている。

バラク・オバマ大統領をはじめとした米政府首脳部が繰り返し明言してきたとおり、米国の公式政策は、イランによる核兵器取得を「予防」することであり、現在の外交的手段や深刻な影響を伴う経済制裁をもってしても、なおイランに核兵器計画の相当部分を抑制させることに失敗したならは、軍事行動も辞さない、というものである。

米政権は、核を保有したイランは、イスラエル国家に対する「存続上の脅威」とみなしている。さらにこのような見方は、イスラエル・ロビーが最大の影響力を持っている米議会で、より熱心に支持されている。

さらに米政権によると、イランの核保有はイラン自身やその同盟集団、とりわけレバノンのヒズボラを増長させ、敵に対してこれまでより攻撃的な行動を活発化される恐れがあり、その結果、とりわけサウジアラビアやトルコ、エジプトといった中東の他の大国に独自の核兵器計画開始を余儀なくさせるような「連鎖効果」を引き起こしかねない。

しかし、イランに対する「予防戦略」(とりわけ、軍事行動に頼るという部分)に対して批判が徐々に強まり、イランが核武装化しても、現在の支配的な見方が想定するほど、危険な存在とはならないだろう、との論が出てきている。

例えば1年前、国家諜報官(中東・南アジア担当)を2000年から05年まで務めたCIAの元分析官、ポール・ピラー氏が、『ワシントン・マンスリー』誌に長い文章を寄稿したが、その題名は「核保有したイランとは共存可能:イランの手に核が渡るという恐怖は大げさであり、それを予防する戦争など問題外だ」というものであった。

より最近では、オバマ政権第一期で国防総省中東政策部門のトップを務めたコリン・コール氏(「新アメリカ安全保障センター(CNASアナリスト」)が、2本の報告書を発表している。ひとつは、中東における「連鎖効果」を疑問視するものであり、もうひとつは、5月13日に発表された『すべてが失敗したとしても:核兵器国イラン封じ込めという難題』と題された報告書である。コール氏はこの中で、例えば、イランの核に脅威を感じる国家に対して米国の核の傘を提供するなどの「封じ込め戦略」について詳述している。これによって米国は、イランが核兵器を使用したり、ヒズボラのような非国家主体に核を移転することを抑止でき、中東各国に自前の核能力開発を思いとどまらせることができる、というのである。

さらに、2002年の著書『迫りくる嵐:イラク侵略に賛成する理由』でリベラル派や民主党支持者ら多数をイラク侵略賛成に回らせたケネス・ポラック氏(元CIA分析官、現ブルッキングズ研究所)は、出版予定の新著『考えられないこと:イラン、核兵器、米国の戦略』の中で、イランが核を保有した場合の封じ込め戦略について同じく論じることになっている。

ブルッキングズ研究所もCNASも現政権に近いと見られているため、ネオコン論者の一部は、これらの報告書は、オバマ政権が「予防戦略」を捨て、別の名による「封じ込め」に走るための舞台を設定する「観測気球」だと警戒する論陣を張っている。

歴史的にペンタゴンと緊密な関係を保ってきたとみられるランド研究所からネイダー氏の先述の報告書が出たことは、同じような見方を招くであろう。

ネイダー氏の報告書は、イランが核兵器を取得すれば湾岸のアラブ君主国家との緊張が高まり、中東の不安定性が増すであろうことは認めている。さらに、イスラエル・イラン間における、不注意による、あるいは偶発的な核交戦は「危険な可能性」として残るという。報告書の検討対象外としつつも、「連鎖効果」についても「十分な考慮」を払うべきだとしている。

報告書は、イランがイスラエルに対して強力なイデオロギー的嫌悪を抱いているにも関わらず、イスラエルを核攻撃すれば自国の体制崩壊をほぼ確実に招くことから、攻撃には踏み切らないだろう、と論じている。

ネイダー氏の見方では、イスラエルは、イランが核能力を獲得することで、イスラエル軍のパレスチナやレヴァーント地方、或いはより広い地域での軍事作戦を大幅に抑制することになるイランの同盟相手に対する「核の傘」になるのでないかと恐れている。

しかし報告書は、ヒズボラなどの同盟に対して核抑止力を拡大することはないだろうとしている。なぜなら、これらの集団の利害は、イランのそれと常に、あるいは時々であっても、一致するとは限らないからだ。またイランは、それらの集団に対して核兵器を移転することもなさそうだと同報告書は見ている。(原文へ)

翻訳=IPS Japan

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|UAE|日本企業5社がマスダールの学生に実務研修を提供

【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)のマスダール科学技術大学院大学(MIST)は、日本の大手5社が、昨年に引き続き8週間にわたる日本での夏季実務研修をUAEの学生に提供する予定であると発表した。

実務研修プログラムは、日本国際協力センター(JICEが、経済産業省(METIの後援を得て実施している。

山野幸子JICE理事長は、「今年で2年目となる、日本企業5社で実施される実務研修は、学生の皆様にとって各々の研究分野における最新の技術を習得する良い機会となるでしょう。研修に先立って実施される語学研修やビジネスエチケット講習、文化学習フィールドトリップ等が、受入企業関係者との交流を一層深めるうえでお役にたつことを期待しております。皆様を心から歓迎するとともに、8週間にわたる日本滞在期間を通じて、皆様が充実した学習経験を得られることを希望しております。」と語った。

フレッド・モアヴェンザデMIST学長は、「研修生たちは、文字通り知識移転の受け皿として、日本の大手企業において各々の研究分野における最新の技術を学習します。MISTは今後もUAE政府の支援を得ながら、引き続きJICEの研修プログラムを通じた学生向け海外研修の機会を拡充していく予定です。生徒たちが日本滞在中に新たな洞察を得て、祖国の経済成長に貢献するクリーン・テクノロジー関連の専門技術を持ち帰ることを期待しています。」と語った。(原文へ

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過ぎ去った時代の核戦力に固執する米国とロシア

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【国連IPS=ジョージ・ガオ】

19世紀末のロシアの劇作家アントン・チェーホフ(1860年~1904年)は、ドラマチックな劇を作るためのひとつの黄金律を残している。それは、弾を込めた銃を劇の冒頭で観客に見せたなら、最終場面までにその銃で撃たなくてはならない、というものだ。

しかし、演劇に関するチェーホフのこの喩えは、今日の世界の兵器に適用されたならば、問題を生じるだろう。そこには、一部の国々が国際的な影響力を生み出すテコとして利用している、推定1万7300発の核兵器が含まれるからだ。

「プラウシェア財団」の「世界の核備蓄レポート(World Nuclear Stockpile Report)」によると、ロシアが推定8500発、米国が7700発の核を保有している。核兵器を保有する他の7か国はこれよりもはるかに少ない。フランスが300、中国が240、英国が225、パキスタンが90~110、インドが60~110、イスラエルが60~80、そして最近では北朝鮮が10発以下である。

「1発の核兵器の使用を必要とする軍事作戦があるとは考えにくい。10発でも人類の経験を超える大惨事をもたらし、50発となるともはや想像もつかない。」と語るのは、ワシントンの平和・安全保障関連団体「プラウシェア財団」のジョセフ・シリンシオーネ代表だ。

「敵が核兵器を使用するか否かを問わず、米国への攻撃を思いとどまらせるのに実際に必要な[核兵器]数は、きめわて少ない。安全寄りにみても、数百発もあれば十分です。」とシンシオーネ氏はIPSの取材に対して語った。

「数千発もの核が必要だという考えは…時代遅れで非合理的、かつ非常に高くつく冷戦時代の遺物のようなものです。」

米国の核予算は機密扱いだが、シリンシオーネ氏は、今後10年で核兵器とその関連事業(ミサイル防衛、核活動の環境浄化、既存核戦力の技術的更新など)のために6400億ドルを費やすと推定している。

The first launch of a Trident missile on Jan. 18, 1977 at Cape Canaveral, Florida. Credit: U.S. Air Force
The first launch of a Trident missile on Jan. 18, 1977 at Cape Canaveral, Florida. Credit: U.S. Air Force

核軍縮・不拡散を世界規模で推進する上での米国の役割について、シンシオーネ氏は、「米国はおそらくこの問題についてもっとも大きな影響力を持っていますが、単独では無理でしょう。最も重要なことは、ロシアと共に核戦力を減らしていかねばならないということです。」と語った。

2011年2月5日、米国とロシアは、新しい戦略兵器削減条約(STARTを発効させた。両国は、2018年までに核弾頭を1550発にまで削減し、両国の保有する大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、核弾頭搭載可能な重爆撃機の合計を800にまで削減することに合意している。

「例えば、米露が1980年代、90年代のように、核戦力を半減することに合意できれば、世界で歓迎されるでしょう。そして、どちらの国においても、官僚や政治家の反対勢力が抵抗を続けることはきわめて難しくなるでしょう。」とシリンシオーネ氏は言う。

しかし、この数年、核軍縮・不拡散に関する米国の取り組みは失速気味である。カーネギー国際平和財団核政策プログラムの責任者ジョージ・パーコビッチ氏は、この失速の原因は、部分的にはワシントンにおける国内政治に起因すると言う。

パーコヴィッチ氏は今年4月に発表した研究論文『(己の欲するところを)他者にも施せ:擁護可能な核ドクトリンに向けて』の中で、「比較的小人数の専門的な知識を持つ専門家や官僚のコミュニティーが、米国の核政策を決定している」と述べている。

パーコヴィッチ氏は、「このコミュニティーのメンバーは、米国への核の脅威や、そうした脅威に対応する最善の方法について、事実を捻じ曲げている。」「彼らのこうした態度は、米国の安全保障上の利益のためではなく、『弱腰で職責に値しない』という国内のライバルからの攻撃から自身のキャリアを守るという動機に起因している。」と主張している。

核は米国主導の体制転覆を抑止する

またパーコヴィッチ氏は、前記の研究論文の中で、「イランや北朝鮮、パキスタンは、自前の核を持つことで米主導の体制転覆を抑止しうると考えている。つまりこれらの国が恐れるのは、いずれも核兵器を持っていなかった2003年のイラクと2011年のリビアが辿った運命だ。」と指摘している。

将来的に米国の国益に反して行動している国(抑圧的な国であるか否かに関係なく)が体制転覆を防止するために核の保有を目指した場合、米国政府はどのように対処すべきかというIPSの質問に対して、パーコヴィッチ氏は、「それは非常に難しい問題だ」と回答した。

「核兵器の唯一の役割は、自らの国への侵略を防ぐという点にあるので、侵略を恐れる国家や指導者は、核保有あるいは米国との同盟を魅力的なオプションと考えがちです。」

「国家が核を保有しなくても、侵略あるいは体制転覆を恐れなくてもよくなれば、核不拡散は容易に達成できるでしょう。」

「しかしここではっきりと問題になってくるのは、一部の政府は自国民や隣国に対して極めて残虐で抑圧的なため、そうした政権を転覆させるような試みはしないと誓うのは困難だということです。」とパーコヴィッチ氏は付け加えた。

パーコヴィッチ氏は、米国が抑圧的体制に対して圧力をかける場合は、政治的・道義的手段、或いは制裁のみに制限し、対象国が隣国を攻撃したり核保有を追求したりしない限り、軍事行動は起こさないと明確にすることが必要だと提言している。

『核の恐怖:核兵器の歴史と将来(Bomb Scare: The History and Future of Nuclear Weapons)』の著者であるシリンシオーネ氏は、イランや北朝鮮の場合、核をめぐって張り合うことは逆効果だと論じている。

「(両国にとって核保有を追及することは)安全保障環境を好転させるどころか、逆にさらなる孤立を招くだけだと思います。核保有を追及する政策は、両国を真に支援して経済を築き、影響力を増大させるような国際的連携をかえって妨げる結果となるのです。」

「すなわち、これらの国が核を取得したり保持したりすることを阻止しようとするならば、彼らの正当な安全保障上の懸念に応える必要があります。少なくとも、これらの国を攻撃しない、あるいはその隣国からの攻撃もないという安全保障上の確証をこれらの国に与えることが必要になってきます。」

オバマ大統領の核の遺産

バラク・オバマ大統領は、昨年12月にワシントンの国防大学で行った演説の中で、「ミサイルにはミサイル、弾頭には弾頭、砲弾には砲弾という過去の時代は、もう過ぎ去った。」と述べた。

シリンシオーネ氏は、核軍縮・不拡散の追求は、オバマ氏にとって若いころから重要な問題だったという。オバマ氏が大統領として初めて行った、2009年4月のプラハでの外交演説と、再選後初めての外交政策演説は、いずれも核兵器をテーマとしていた。

「大統領は数多くの緊急の問題に直面しているが、その中でも、地球全体を破壊の脅威にさらしているのは、地球温暖化と核兵器という2つの問題だけなのです。」とシリンシオーネ氏は語った。

ワシントンの中では核軍縮・不拡散への反対意見も強いが、地球温暖化や移民問題、税制改革などにおける反対勢力と比較すれば、それほど強力なものでもない。

シリンシオーネ氏は「今日核問題は、大統領が比較的少ない時間で米国と世界の安全保障を大きく改善しうる領域です。」と指摘したうえで、「核を削減しようというオバマ大統領の取り組みは、ジョン・F・ケネディ大統領が1960年代に始め、ロナルド・レーガン大統領が1980年代に加速した歴史的な『弧』の最後を締めくくるものになるかもしれません。」と語った。

「(オバマ大統領は)それをやるのに3年半の任期を傾けることができます。今始めれば、任務を完遂することは可能でしょう。オバマ大統領は、核兵器の数を減らし、究極的にはその脅威を地球上からなくすという後戻りできない道に、米国の核政策を乗せることが、可能なのです。」とシンシオーネ氏は語った。(原文へ)

翻訳=IPS Japan

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│アルゼンチン│独裁者ビデラ、獄死す

【ブエノスアイレスINPS=マルセラ・ヴァレンテ】

37年前に軍事クーデターを引き起こしアルゼンチン史上最も凄惨な軍事独裁体制を敷いたホルヘ・ラファエル・ビデラ元陸軍総司令官が、5月17日、連邦刑務所で老衰のため死去した。87才だった。

ビデラは、ブエノスアイレス州東部のマルコス・パス市にある連邦刑務所の一角で、軍事独裁政権時代(1976年~83年)の人権侵害事件で有罪判決を受けた他の服役囚とともに複数の懲役刑(終身刑+15年)に服していた。

公判中ビデラ被告は「私は誰も殺していない。」と証言したが、人道に対する罪として起訴された全ての件について、事件の黒幕として有罪判決が下された。事実、ビデラ被告自身、ジャーナリストのマリア・セオアネとヴィセンテ・ムレイロが出版した著書「独裁者」の中で、著者のインタビューに答えて「(軍事政権時代)支配統制は行き届いており、私自身は全てを超絶した存在だった。」と述べている。

人権擁護団体や軍事独裁政権の被害者・遺族らは、一般刑務所におけるビデラ元総司令官の死はひとつの象徴的な出来事だとしつつも、真相解明のプロセスの中の一環に過ぎないと考えている。

アムネスティ・インターナショナル・アルゼンチン支部のマリエラ・ベルスキ代表は、アルゼンチンが中南米諸国や途上国世界全体にとって、軍事独裁時代の真相究明と法に基づく裁きを追求する先進的なモデルとなっている点を強調したうえで、「ビデラは軍事独裁政権が犯した最も残虐かつ凄惨な行き過ぎの首謀者として記憶されるでしょう。しかしここで最も重要なことは、裁判が行われてビデラが有罪になり、彼が獄死したという事実です。」と語った。

さらにベルスキ氏は、「独裁者の死によって「[人権侵害究明の]プロセスを終わらせられてはなりません。アルゼンチンが先導しているこのプロセスは(同じく過去に軍事独裁政治を経験した)他の中南米諸国においても引き継がれていくべきものなのです。」と警告した。

南米南部共同市場(メルコスール)人権公共政策研究所のビクター・アブラモヴィッチ事務総長は、「ビデラの獄死は、非常に重要かつ象徴的なできごとです。」と指摘したうえで、「10年前だったらこのような展開は想像さえできなかったでしょう。今日、法律や進捗ペースはそれぞれ異なるものの、(軍事独裁時代の)真相を究明しようという動きが、この国の他にもチリ、ブラジル、ペルー、コロンビア、ウルグアイ、そして(元独裁者ホセ・エフライン)リオス・モントが(5月10日に)懲役80年の判決を受けたグアテマラに広がりを見せており、様々な興味深い議論が噴出してきています。」と語った。

また米州人権委員会の前副理事でもあるアブラモヴィッチ氏は、「元独裁者が一般刑務所で獄死したという事実は、全ての人が法の前では平等であるという原則を再確認する出来事となりました。」と付加えた。

アルゼンチンでは、1983年以来、軍事独裁期の人権侵害により422人(その大半が軍人)が裁判にかけられ、378人が有罪、44人が無罪となっている。また軍の秘密施設で行われた拷問等に関する調査が進展したおかげで、この2年間は裁判件数が急速に増えている。2012年には24件の裁判が行われ、134人が有罪、17人が無罪となった。

アルゼンチンで軍事独裁政権の責任追及を行っている市民グループ「Grandmothers of the Plaza de Mayo(マヨ広場のおばあさん)」は、これまでに、政治犯とされた両親とともに拉致されたり、身柄拘束先で母親が出産した子供たちを100人以上特定している。そしてこのような背景を有する人々の中には、マルティン・フラスネダ人権担当大臣のような国会議員をはじめ、市議会議員、政府高官など公な職に就いているものも少なくない。

1976年3月24日、当時陸軍総司令官だったビデラは、当時の大統領マリア・エステラ・マルティネス・デ・ペロン(イサベラ・ペロン)をその座から失脚させた軍事クーデターで政権を掌握し、自身を含む陸海空3軍の最高司令官で構成される軍事評議会を設置、5日後の29日に大統領に就任した。

ビデラの独裁時代(1976年から大統領を退任した81年まで)に、後に「汚い戦争」とよばれる左翼ゲリラ掃討を名目にした苛烈な弾圧政策が実行され、多くの民衆が拉致、拷問、殺害などの憂き目にあった。政府の記録では約1万1000人が強制失踪(拉致)されたとされているが、人権擁護団体は犠牲者の合計を3万人と推計している。

軍事独裁政権は[ビデラ退陣後も英国とのフォークランド戦争の敗北の責任をとってレオポルド・ガルティエリ大統領が退陣した]83年まで続いたが、その後成立したラウル・アルフォンシン政権の下で、軍事独裁政権における関係者に対する裁判が始まった。ビデラは1985年に、66件の殺人、306件の誘拐、93件の拷問、26件の窃盗の罪により、終身刑に処せられた。

ビデラは他の軍関係者とともにその後5年間に亘って軍刑務所に収監されたが、特別待遇を受けたため、メディアや人権擁護団体の批判に晒された。そして1990年になるとカルロス・メネム大統領(1989年~99年)の恩赦により解放された。

しかし1998年になると、ビデラは、新たに政治犯の子どもを誘拐した容疑(それまでこの容疑で有罪が確定しておらず、従って、恩赦の対象にならなかった)で再逮捕された。

ビデラをはじめとした人権侵害に関わったとされる人々に対する公判が再び本格化したのは、大統領による恩赦と人権侵害に対する訴追免責がアルゼンチン最高裁判所で憲法違反と判断された2005年以降のことである。2010年には、政権担当当時にコルドバ州で行ったとされる人道に対する犯罪容疑(31人の左翼政党員の殺害、6人の誘拐、拷問)で終身刑の判決を受け、さらに2012年には、左翼系活動家の子どもを強制的に軍人の養子にしていた事件に関与していた罪で懲役50年の刑に処された。

ビデラはこの他にも、アルゼンチン中央部のサンタフェ州及び北部トゥクマン州で軍事独裁政権が行ったとされる人道に対する犯罪に関与したとして起訴されていた。

ビデラは、一連の公判において、「民間法定に自分を裁く権限はなく、自分はキンチネル政権による政治的復讐劇の標的にされた「政治犯」だと主張した。ビデラが生前最後に出廷した公判は、5月14日に開かれた「コンドル作戦」(1970年代と80年代に当時アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイを支配した軍事独裁政権が連携して、左翼活動家の捜索・捕縛・交換・処刑を行った軍事作戦)への関与について審議されたものだったが、この際ビデラの顔色は悪く、歩行もままならず、声も震えていた。

にもかかわらず、ビデラは公の場で自らしてきたことについて悔やむ姿勢を見せることはなかった。それどころか、この際の公判でも自分が無罪であるとの従来の主張を繰り返し、犯罪は命令を受けた部下がやったことだと主張した。

またビデラは、3月のスペイン雑誌「Cambio」によるインタビューが最後のメディア取材となったが、その際、アルゼンチン国軍の若い兵士らに向けて「共和国の体制を守るために」クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル現政権打倒に立ち上がるよう檄を飛ばしている。(原文へ

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

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