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|2015年科学技術会議|核実験探知を極める

【ウィーンIPS=ラメシュ・ジャウラ

ある国際会議が開かれ、核実験の探知、暴風雨や火山灰による雲の追跡、地震の震源の確定、巨大氷山の流れの監視、海洋生物の移動の観察、飛行機の墜落地点の確定能力に関する進展について話し合われた。

6月26日まで5日間にわたって開かれた「2015年科学技術会議」は、オーストリアの首都ウィーンを1997年以来本拠としている包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)準備委員会が主催している学際的な会議(2年に1度開催)で、今年で5回目となる。

会議には、世界各地の科学者や専門家、政策立案者、国家機関の代表、独立の学術研究機関、市民団体などから、1100人以上が集まった。

「2015年科学技術会議」は、CTBTO監視ネットワークのセンサーが探知した重要な知見に着目した。つまり、2013年にロシア・チェリャビンスク上空で爆発した、少なくともこの100年間で地球に落下した最大の流星のことである。

また、ブルキナファソ・アルジェリア間を飛行予定であったエア・アルジェリア航空機がマリで2014年7月に墜落した際に、墜落地から960キロも離れたコートジボワールにあるCTBTOの監視ステーションで事故が探知されたことも報告された。

「2015年科学技術会議」の重要性は、CTBTOが、いかなる主体であれ、地球上のどこであれ(大気圏、水中、地下)核爆発実験を行うことを違法化する包括的核実験禁止条約(CTBT)を履行させるという任務を持っているという点にある。また、核爆発実験が探知されることなく実施されることがないように信頼のおけるツールを開発するという目的も持っている。

CTBTO

それは例えば、地震、水中音響、超低周波音(低すぎて人間の耳では聞き取れない周波数の音)、放射性核種のセンサーである。会議に参加した科学者や専門家らは、この4つの最先端技術が実際にどのように利用されているのかについて、プレゼンテ―ションやポスター発表で説明した。

170の地震監視ステーションが、主に地震によって引き起こされる地球の衝撃波を探知する。しかし同監視ネットワークは、鉱山爆発や、北朝鮮が2006年、09年、13年に行った核実験のような人為的な爆発も探知する。

CTBTOの11の水中音響監視ステーションは、海洋における音波を「聴く」。爆発による音波は深海でも伝わる。世界中の地表にある60の超低周波音監視ステーションも、巨大な爆発によって引き起こされる極度に低い周波数帯の音を聞き分ける。

CTBTOの80の放射性核種探知局は、大気中の放射性分子を測定する。そのうち40局は、地下核実験の「確証」となりうる希ガスを探知することもできる。この測定結果だけが、他の方法によって探知された爆発が実際に核実験によるものであったかどうかを明確に示すものとなる。

CTBTOの国際監視システム(IMS)は、完成時には337施設となり、地球上で行われる核爆発実験の証拠を監視することになる。

CTBTO国際データセンター(IDC)のW・ランディ・ベル局長によれば、今回の科学技術会議の重要なテーマは、「IMSとIDCを今後維持し活用していく際に益々重要となる活動成果を最適化することにある」という。

この20年間、国際社会はCTBTOの世界的な監視システムに10億ドル以上を投資してきた。データは同機構の加盟国が利用できるが、その用途は核実験の検証目的に限定されていない。全ての監視ステーションは、ウィーンのIDCと衛星回線でつながれている。

CTBTOのトーマス・ミュツェルブルク報道官は、「私たちの監視ステーションは、探知すべき事象が起きた国と同じ国にある必要はありません。実際には、監視ステーションの設置場所からずっと離れたところで起きた事象も探知することができるのです。例えば、北朝鮮の最後の核実験は、遥か遠いペルーでも探知されました。」「条約の183の加盟国は、生のデータと分析結果の両方にアクセスすることができます。各国のデータセンターを通じて、加盟各国はそのデータを分析し、探知された事象の性格についてそれぞれの結論を導き出しているのです。」と語った。パプアニューギニアやアルゼンチンの科学者は、データは「きわめて有益なもの」だと語った。

CTBTOのラッシーナ・ゼルボ事務局長は、『ネイチャー』誌のインタビューに対してデータ共有の重要性を強調して、「自己のデータを他に提供することで、外部の科学者コミュニティとつながり、進展めまぐるしい科学技術の変化に対応していくことができるのです。CTBTOはこれによって組織の存在感を高めるだけではなく、自らも創意工夫することができます。データが別の目的に奉仕しうることが理解できれば、一歩引いてみて、より広い状況に目を向け、どうすれば探知能力を高めることができるかが理解できるようになるのです。」と語った。

ゼルボ事務局長は開会の挨拶のなかで、「私がこの組織に対して情熱を注いでいることを皆さんは何度も聞かされていることと思います。今日私は、情熱を持っているというだけではなく、平和に奉仕する科学への情熱を同じくする皆さんとお会いできて非常に嬉しく思っています。現代の最も優秀な科学者が、核兵器を完璧なものにするために働くのではなく、核実験の探知を完璧なものにするためにこうして集っているということが、まさに子どもたちの将来への希望なのです。」と語った。

また国連の潘基文事務総長は、次のようなメッセージを送って、会議の流れを方向づけた。「CTBTOの強力な検証体制と最先端の技術を考えれば、CTBTの発効をさらに遅らせることは許されません。」

南アフリカ共和国のナレディ・パンドー科学技術相は、「我が国はCTBTOを一貫して支持してきた」と指摘したうえで、「南アフリカ共和国は20年以上にわたってアフリカにおける核不拡散の先頭に立ってきました。私たちは核開発を放棄して1996年にペリンダバ条約に署名しました。これはアフリカに非核地帯を創設したもので、2009年7月にようやく発効しました。」と語った。

参加者は科学者による発表とは別に、パネル討論においてCTBTの監視コミュニティが現在特に関心を寄せている様々なトピックについて話し合った。CTBT発効後に実施される現地査察における科学の役割に言及したものもあった。

この議論は、2014年にヨルダンで行われた「統合現地訓練」(IFE14)の経験から多くを得ている。IDCのベル局長は、「IFE14は、CTBTOの現地査察能力の構築において、これまでで最大かつ最も包括的な訓練だ」と述べた。

参加者はまた、核保安という問題を乗り越える際に最新の技術が果たしうる機会についても話し合う機会を持った。「グローバル安全保障のための技術グループ」(Tech4GS)のメンバーは、「市民のネットワーク:技術革新の将来」というパネル討論でウィリアム・ペリー元米国防長官と議論を行った。

ペリー元長官は、「私たちは核軍拡競争の瀬戸際にいます。」「しかしこの流れを巻き戻せないとは思いません。今はまさにこの動きを止め、反省し、この問題を討論して、『何もしない』ことと『新たな軍拡競争』に替わる第三の選択や代替策がないかどうか考える時期にきています。」

「2015年科学技術会議」の一つのハイライトは、「学術界の関与を通じたCTBTの強化」に焦点を当てたCTBTアカデミックフォーラムであった。フォーラムでは、エミー賞受賞プロデューサーでドキュメンタリーやネットワークニュースの監督でもあるボブ・フライ氏が、核実験と大量破壊兵器である核兵器のない世界をもたらす「次世代の批判的なものの見方をする人々」を育成していく必要を強調した。

William Perry speaking during the Tech4GS panel/ CTBTO

フォーラムでは、オーストリア、カナダ、中国、コスタリカ、パキスタン、ロシアの教師や教授の観点から、印象的なCTBTのオンライン教材やCTBTに関する教育の経験についての意見が交わされた。

科学と政策の橋渡しとなることを見据えて、フォーラムでは、専門家を招いて、「政策決定者に対する技術教育と科学者に対する政策教育」について話し合われた。参加したのは、レベッカ・ジョンソン氏(アクロニム軍縮外交研究所)、ニコライ・ソコフ氏(ジェイムズ・マーチン不拡散研究センター)、フェレンス・ダルノキ-ベレス氏(ミドルベリー国際問題研究所)、エドワード・イフト氏(ジョージタウン大学安全保障研究センター)、マット・エドリン氏(ブリティシュ・コロンビア大学科学学部)などである。

Photo: The writer addressing UN Open-ended working group on nuclear disarmament on May 2, 2016 in Geneva. Credit: Acronym Institute for Disarmament Diplomacy.
Photo: The writer addressing UN Open-ended working group on nuclear disarmament on May 2, 2016 in Geneva. Credit: Acronym Institute for Disarmament Diplomacy.

CTBTの技術的問題を外交官やその他の政策決定者の訓練と統合し、CTBTや広範な核不拡散・軍縮に関する政策的問題に対する意識を科学者の間で高める必要性について広く合意がなされた。

他方で、ジャン・ドゥペレス氏(CTBTO渉外・議定書・国際協力担当)、ピース・コードン氏(米国科学発展協会)、トーマス・ブレイク氏(ダブリン先進科学研究所)、ジェニファー・マックビー氏(米国科学者連盟)がパネリストとなった別の討論では、学者の間の、さらには学者を超える新たなつながりを生み出し、市民社会と若者、メディアを効果的につなげることを視野に入れて、さらに先を見据える議論があった。

あるパネリストは、「進歩は漸進的なものです。しかし、進歩は自動的に訪れるものではありません。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【国連IPS=タリフ・ディーン】

世界の核大国なら国連安保理の決議を妨害したり国連総会による非難を避けたりすることができるかもしれないが、重要な国際的監視機関である包括的核実験禁止条約機関(CTBTO)からの監視の目を免れることはできない。

文字どおり、その監視ネットワークは秘密の核実験を探り当てるために耳を澄ましている。また、地震や火山の噴火をほぼリアルタイムで探知し、大規模な暴風雨や氷山の崩壊を追跡している。

そしてそのネットワークは眠らない。供用開始以来18年、主に地上・地下の核実験を探知するために24時間の監視を続けているのだ。

CTBTOの監視網は、世界中の大気圏・水上・地下で行われる核爆発実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)への違反を予防する手段である。

「CTBTOの国際監視システムは、創設者が予想していたよりも遥かに多くの任務を抱えることになりました。つまり、現在および将来の地球の様子を監視するという任務です。地球の異常を見、聴き、感じ、嗅ぐ巨大な聴診器にこの監視システムをなぞらえる人もいます。」とラッシーナ・ゼルボCTBTO事務局長はIPSの取材に対して語った。

それは、人間が聞くことのできない大気圏の放射性物質と音波を探知する世界唯一のネットワークであるという。

この監視システムには現在300の拠点があり、その一部は、地上・海上の遠隔地にある。

監視網は、地震(地球の衝撃波)、水中音響(水を通じて音を測定する)、超低周波音、放射性核種の4種類のデータをとらえる。ネットワークは現在9割が完成している。

IMS/ CTBTO
IMS/ CTBTO

この監視システムが完成した暁には、地球の隅々まで効率的に監視する337の拠点ができることになる。

「CTBTは、まだ発効していないうちから命を救っています。」と国連の潘基文事務総長は言う。

現在、この監視ネットワークは毎日15ギガバイトのデータを収集し、オーストリアのウィーンにあるCTBTOのデータ分析センターにリアルタイムで送っている。

そこから、毎日の分析レポートが183の加盟国に送られて、それぞれの利用や分析に供される。

地球を見、聴き、嗅ぐこの普遍的な監視システムの運用がCTBTOの任務である。

CTBTOは2年に一度、科学・技術に関する会議を開いているが、今年の会議は6月22日から26日にオーストリアの首都ウィーンのホーブルク宮殿で開催された。

CTBTOの監視ネットワークは驚異的な成果を残している。2013年2月12日、94の地震監視局と2つの超低周波音監視局が、北朝鮮による核実験実施の発表から1時間以上も前に、核爆発を探知し、条約加盟国に通知していたのである。

その3日後の2月15日、CTBTOの超低周波音監視局が、大気圏に突入しロシア・チェリャビンスクの上空で分解した流星からのシグナルを探知した。

超低周波音を探知できる世界で唯一のシステムだと言われるCTBTOの監視ネットワークは、その際、爆発する火球によって引き起こされた衝撃波を記録した。

このデータによって、科学者らは、流星の位置を把握し、エネルギーの放出や緯度、大きさを測定することができた。

そしてこの監視システムの大気サンプリングは、2011年3月の福島第一原発事故で放出された目に見えない放射性物質のプルーム(汚染源から立ち上る汚染物質)が世界中に拡散する様子をとらえた

それによれば、日本国外での放射性物質は害を与えるレベルよりも下であった。CTBTOによれば、この情報によって、世界各国の安全当局がどのような方針を採ればよいのか決めることができたという。

またこの監視ネットワークによって、大地震の後に各地の津波センターがリアルタイムで早期警戒を発することができる。さらには、より正確な気象予報のための気象モデルを改善し、火山爆発に関する知見をもたらしている。

加えて、害を及ぼす火山からの塵に関する警告をリアルタイムでパイロットに発するために民間航空当局が利用する警戒情報を発し、気候変動に関するより正確な情報を出し、地球の核の構造に関する理解を増進し、気候変動が海洋生物の移動習性に及ぼす効果を追っている。

データにアクセスするために、CTBTOはヴァーチャル・データ利用センターをつくり、さまざまな分野の科学者や研究者に研究のためのデータを提供し、新たな知見を導く手助けをしている。

好意的な意見が多くの学者からは寄せられている。

「国際監視システムは、地球の核、大気、海洋、環境を監視する素晴らしいツールです。」と語るのは、カリフォルニア大学バークレー校のレイモンド・ジーンロズ教授(地球物理学・天文学)である。

ハーバード大学地球惑星科学部の石井水晶教授は「私たちは、CTBTOのデータによって、そこで何が起こっているのか、地球の歴史がどう進化してきたのかといった地球内部の奥深くを観察することができます。」と語った。

CTBTO国際データセンターのランディ・ベル局長は、「グローバルなデータは、数十年単位に及び、高品質で精度も高いので、極めて貴重なものです。データは、地方、地域、全世界的な出来事を分析するのに利用できます。」と語った。

ランディ局長は、自身の第一の任務は核実験を探知することであるとしつつも、「データを科学のためにも利用することで、データ利用を求める専門家が増えています。」と語った。

「自分にとってはノイズとしか見えないものが、他人にとってはシグナルになるかもしれないのです。」とランディ局長は指摘した。

他方、CTBTO国際データセンターは、厳格な基準を満たす出来事を把握するために、一日に3万回以上の地震のシグナルを分析している。

CTBTOは、多くの国がそれぞれの地震監視システムを備えているが、CTBTOのそれは「グローバルで、恒久的なもので、精度が高く、データが平等に利用できる特徴がある」としている。

その地震ネットワークは、サブサハラアフリカ、東部・南部アフリカ、インドネシア、南極にまで広がった超低周波音の監視ネットワークとなっている。

CTBTOはまた、世界で最も遠隔地にある海洋で、アンデス山脈や太平洋北部周辺で起こった地震を探知する地下監視ポストのネットワークを持っている。

そのデータは、インド洋におけるクジラの特定の種の移動習性を追うために使われてもいる。

「世界の国々がこの『世界の耳』を作るために10億ドルを投資してきました。」とゼルボ事務局長は語った。

「国際社会は、核実験禁止条約への違反を探知するという元々の目的のためにこの監視システムが使わなくても済むように願いつつ、このシステムへの投資を続けています。データが民間や科学目的に転用されることは、世界が今すぐに手にできる見返りであり、ひるがえって、核実験禁止条約への支持を増やすことにもつながるのです。」

「科学者らや諸組織によるデータ利用が増えるにつれ、その価値はより明白になってきています。」とゼルボ事務局長は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|児童労働|シリア危機の隠された悲劇|

【国連IPS=カニャ・ダルメイダ】

今年1月時点で22万人の命を奪い84万人を傷つけた紛争では、時として死者統計以上のことを見ることが困難である。

シリア内戦は、民主派の活動家とバシャール・アサド大統領下の堅固な独裁制との間の対立として始まったが、現在は世界で最も厳しい紛争のひとつとなった。4つの別個の武装集団がこれに加わり、地域のその他の国々も巻き込んでいる。

数百万人が飢餓の危機にあり、シリア難民の数はいまやパレスチナ難民に続いて世界で2番目に多くなっている。こうした中、これまではあまり知られてこなかった戦争関連の惨状が、新聞の見出しに競って現れてきている。

7月2日、国際連合児童基金(ユニセフ)と「セーブ・ザ・チルドレン」は共同で、シリア危機の隠された一面、すなわち、地域における児童労働の拡大に関する報告書を発表した。

ヨルダンの首都アンマンで発表されたプレスリリースでユニセフは、「シリアの子どもたちは、世界が紛争を終わらせることができないために多大の犠牲を払わされている。」と述べた。

「この報告書は、シリアの子どもたちが、調査した世帯の4分の3以上において家計に貢献していることを明らかにした。ヨルダンでは、すべてのシリア人の難民児童の半数近くが共同あるいは単独で家族の稼ぎ手となっており、レバノンの一部では、たった6才の子どもが働いているという」。

「すべての労働児童のうちもっとも脆弱な子どもたちは、武力紛争や性的搾取、集団での物乞いや児童人身売買のような違法行為に関わっている子どもたちである」とプレスリリースは述べている。

ユニセフのデータによると、紛争が勃発する4年前以前には、シリアは中所得国であった。民衆は通常の生活水準を享受し、識字率は9割を誇っていた。

しかし、今年半ばまでには、シリア国民の5人に4人が貧困線以下の暮らしをしており、760万人が国内避難民と分類されている。

すべての都市や町から住民がいなくなり、経済活動が崩壊して、失業率は2011年の14.9%から今年は57.7%まで急上昇した。

国連難民機関は、約330万人が国外に逃亡し、近隣諸国の難民キャンプや一時的なシェルターで暮らしていると推計している。女性と子どもが難民の半分以上を占める。

シリア国内にとどまっている住民の大部分(64.7%以上)が、「極度の貧困」生活を送っていると分類され、もっとも基本的な食べ物や衛生上の必要も満たすことができていない。

専門家によれば、だとすれば、子どもたちが主たる稼ぎ手になり、家族の生計を支えるために街頭に出てさまざまな産業に従事することは不思議ではないという。

ヨルダンに逃げたシリア人難民で12才のアフメドは、ユニセフからの聞き取りにこう答えている。「私には家族への責任があります。自分はまだ子どもだと思うし学校にも行きたいけど、家族に食べ物を持ってくるには自分が働くしかありません。」

『小さな手、重い負担:シリア紛争がいかにして子どもたちを労働に追いやっているか』と題された報告書は、推定270万人のシリア人の子どもが学校に通っていない、としている。

教育機会がなく、人道支援の配給も少なくなる中、この子どもたちは、児童労働の真の部隊を構成しているか、あるいは今後そこに加わる危険性がある。

「ヨルダンでは、避難先で働く子どもの大多数が週に6~7日は働いている。3分の1の子どもは1日8時間以上働いている。」「1日あたりの収入は4~7ドルである。」と報告書は述べている。

児童労働の広がりは、教育や認知の発達への後戻りできない阻害であり、人生の後の段階においてよい職に就ける機会を制限するというだけではなく、若い人々の身体をも傷つける。

「セーブ・ザ・チルドレン」は、「ヨルダンのザータリ難民キャンプの労働児童のうち約75%が健康問題を抱え、約40%がけが・病気・不健康を抱え、レバノンのベッカー高原で働く児童の35.8%が、読み書きができなかった」と推定している。

数多くの世帯を飢餓が捉えてしまうようなこうした紛争の状況下では、あらゆる産業がまともなものに見えてしまう。

たとえばベッカー高原では、移住農業動労者にかつて日給10ドルを与えた地主らが、しばしば親と一緒に同じような仕事をしている児童に日給4ドルしか与えていない。

Syrian refugee children learn to survive at a camp in north Lebanon. Credit: Zak Brophy/IPS.

都市の中心部や自動車修理工場、各種作業場、建設現場などが「人気」のある職場だ。10才のシリア人男児が、レバノン中の街で、大工仕事や金属加工、自動車修理などの仕事にフルタイムで従事している。

街頭での労働は子どもたちにとってもっとも危険な職のひとつである。最近、レバノンの2つの主要都市を調査したところでは、1500人以上の児童のストリート労働者がおり、そのうち73%がシリア難民であったという。

子どもたちは、物乞いや行商などで1日平均11ドルを稼ぐ。他方で、売春のような違法行為に従事すれば、小さい子どもでもたった1日の労働で36ドルものお金を手にすることが可能だという。

ユニセフによれば、児童労働の問題は、子どもの人権と教育をシリア危機への人道的対応の中心に置く目的で2013年に立ち上げられた「ロスト・ジェネレーションをなくすキャンペーン」の「達成にとって中心的な課題である」という。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【国連IPS=バレンティーナ・イエリ】

社会的・宗教的不寛容、紛争、暴力的な過激主義、環境破壊が益々正義と平和を脅かしている世界において、国連が世界秩序を保ち持続可能な開発を推進する方策を見いだそうとしている。

今年、今後15年間の開発目標(SDGs)を設定する「ポスト2015開発アジェンダの策定」は、世界各地で持続可能な開発を実現するためのターニング・ポイントになるだろう。

21世紀の難題に対する解決策を見つけるには、普遍的、包括的、変革的なパラダイムを創り出さねばならない。このパラダイムへのカギを握るのが、世界市民教育である。

Global Education First Initiative
Global Education First Initiative

国連の潘基文事務総長が、世界市民教育を主要原則の一つに掲げた「グローバル・エデュケーション・ファースト・イニシアチブ(GEFI)」を2012年に立ち上げて以来、教育の役割が非常に強調されてきた。

今年、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)で世界市民教育に関する政策を概念化し実行する必要性に関する決議が採択され、5月19日~22日に韓国の仁川(インチョン)で開催された「世界教育フォーラム」で「教育の未来に関するインチョン宣言」が採択されて以降、世界市民教育に関して多くの措置が実施されてきた。

次のステップは、9月の国連総会でSDGsが採択される際に教育関連目標の中に世界市民教育を入れ込むことだと活動家らは言う。

6月15日、韓国の国連代表部が、米国、フランス、ナイジェリア、カタールの国連代表部、欧州の2600以上のNGO連合体である「コンコルド」のような市民団体や、1300万人の会員を擁する創価学会インタナショナル(SGI)、インター・プレス・サービス(IPS)と協力して、世界市民教育概念に対する意識を高めるためのセミナーを開催した。(セミナーの模様は下のバナーをクリックして見ることができます。)

韓国のハン ジョンヒ国連代表部次席大使がIPSのインタビューに答え、世界市民教育と、平和な世界をつくりだす上での同概念の意義について語った。

Q:世界市民教育とは何でしょうか?

A:一般的に言って、教育は機能的な面から定義されます。学校へのアクセスとか、職業準備における教育の質とかいったことです。しかし、世界市民教育の新しい枠組みは、教育の方向性に関するものです。

世界市民教育が推進すべき3つの主要な側面があります。第一に「存在している感覚」。早い段階から、どのような市民になるべきかを生徒に教えていくのです。子どもたちは、気候変動や不寛容、暴力的過激主義といった将来の問題に関する感覚を養うべきなのです。

Wikimedia Commons
Wikimedia Commons

第二に「世界市民になる責任と特権の感覚」。世界市民教育は、基本的な人権の価値、尊厳、民主主義の真の意味を理解することによって、多文化的な多様性と相互の尊重を含むものです。

第三に「同情と共感」。世界市民教育の革命的な側面は、教育の次の段階への移行、あるいは職業探究ということではなくて、教育に対して全体的なアプローチを行う点にあります。これは、私たちの世紀の複雑な問題に対処するための最適なアプローチです。

世界市民教育のもう一つの重要な概念は、包摂性です。

憎悪と暴力は、孤立の感覚やつながりの欠如に由来します。包摂性を教えるとは、異なった社会的、政治的、経済的側面を受け入れるということです。こうして、人間は尊重されていると感じ、社会において能動的な役割を果たすことができるのです。

Q:なぜ韓国が世界市民教育を主導しているのですか?

A:この数十年で韓国が急速な発展を経験してきたからです。韓国の歴史を振り返ってみると、ひどい貧困の歴史がありました。しかし、教育に投資し、民主的価値を推進することを通じて、発展を達成したのです。

今日の韓国は、人権の尊重に基礎を置く多文化、多民族、多宗教な社会です。キリスト教徒、イスラム教徒、儒教徒、仏教徒が隣り合って生活しています。韓国は、教育と寛容、平和の積極的な例なのです。一つのロール・モデルとして、私たちは、偏見や先入観なく、世界市民教育に貢献し、意識を喚起したいのです。

Q:なぜ世界市民教育を国連のポスト2015年開発アジェンダに持ち込んだのですか?

A:国連がいかにして、そしてなぜ新しい「持続可能な開発目標」(SDGs)を追求しているのか今こそ考えてみるべきでしょう。国連がまず優先すべきは、正義や繁栄に加えて、人間とこの地球の尊重でしょう。これらは、価値重視の目標であり目的です。国連のアジェンダは、「平和と安全」、「持続可能な開発」、「人権」という三本柱を基盤としています。これらの問題はすべて教育と結びあわされており、世界市民教育は、寛容と責任を促進することによって「平和と安全」の、包摂性と公正を通じて「持続可能な開発」の、そして、人間であることの特権と民主的価値を理解することを通じて「人権」の、それぞれ解決策となるのです。

Q:世界市民教育の方法論について教えてください。

A:世界市民教育は、複数のステークホールダー(利害関係者)の参加を基盤としていなくてはなりません。つまり、教師や学生だけではなく、世界中の社会・経済・文化の専門家、NGO、若者グループなどの参加が必要です。

世界市民教育は、教科書ではなくひとつの方法論的なパラダイムに則って行われるべきもので、教室の全ての生徒による討論と参加を基礎とすべきものです。新たなAV機器を利用した方法論や、参加型の討論、フィールドワークや交換プログラムもいいでしょう。教室を再活性化し、平和と安全に実質的に貢献する新しいシステムが必要です。

世界市民教育は、「啓蒙と西洋の」価値のパラダイムを繰り返すものではありません。逆に、包摂性を強調することによって、先進国と途上国との間の最大公約数を見つけようとするものです。

しかし、多くの子どもたちがいまだに学校に行けない現状を考えると、世界市民教育には、予算と、その実行のための具体的な方法が必要です。世界市民教育はまた、参加型で、成果を共有するようなものでなくてはなりません。

そうするためには、民間部門の協力も得ながら、地球上のどんな遠い場所においても、インターネットやコンピューター、携帯電話の利用を通じたICTを発展させることが重要です。例えば韓国では、サムソンのような民間企業といくつかの教育プロジェクトを進めています。

Q:世界市民教育が直面する主な課題は何でしょうか。

A:残念なことに、資金の調達に依然として難があり、国ごとの不平等が大きいのです。

最近、教育のためのグローバル基金が提案されましたが、開発や「グリーン気候基金」のような他の多くの基金の例に見られるように、これは容易なことではありません。

すべての子どもを学校に送るために途上国を支援することを目指した既存の世界的基金として、「教育のためのグローバル・パートナーシップ」があります。

しかし、より多くの資金、改善された能力開発、途上国で利用するより多くのICT機器などが必要です。

もう一つの問題は、多くの国の政策において、教育が依然として最重要課題とみなされていないことです。これは本当に問題です。それぞれの国が教育に十分な投資をしないかぎり、世界市民教育は達成できません。従って、倫理的な「企業の社会的責任」(CSR)を発展させるうえで、民間部門の協力は欠かせないのです。(原文へ

翻訳=IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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【国連IPS=カニャ・ダルメイダ】

GCED(世界市民教育)という言葉を聞いたことはあっても、国際開発の世界に入り込まないかぎり、その頭字語が何を意味するのか十分には分からないかもしれない。

世界133か国、8万人以上の子どもたちのニーズに応える支援団体「SOS子ども村」のソフィア・ガルシア‐ガルシア氏は、まさに「世界市民教育」をテーマに15日に国連本部で開催されたセミナーで、非常にうまいまとめをした。

Sofia Garcia- SOS Children’s Villages/ Office of Secretary General’s Envoy on Youth

ガルシア氏は、「SOS子ども村」も参加する「ラテンアメリカ・カリブ海における子どものためのグローバル運動」が行った最近のプロジェクトを振り返って、国連の2015年以後の「持続可能な開発目標」(SDGs)に関してラテンアメリカ10か国で1080人の児童・生徒への意見聴取を行った結果について説明した。

「『SOS子ども村』は親からの保護を受けていない子どもを支援しています。彼らはたいてい、きわめて低い自尊心しか持ち合わせていません。」とガルシア氏は満員の会場に対して語りかけた。

「しかし、私たちが自分たちの活動について説明を始め、『あなたの声を聴きたい。あなたが変わるお手伝いをしたい』と語り始めてものの10分もしないうちに、これまでは口を開くことは許されないとさえ考えていた子供たちが、突然『大統領になりたい』などと言いだすのです。」

この活動は、提案されている17項目のSDGsをイラスト入りで子どもに分かりやすく伝えた『私たちの望む世界』という書籍の刊行につながった。

The World We Want/ the Global Movement for Children in Latin America and the Caribbean

「これは世界市民教育が持つ本当の力です。」とガルシア氏は力説した。

韓国、米国、フランス、ナイジェリア、カタールの国連代表部が後援し、欧州の2600以上のNGO連合体である「コンコルド」のような市民団体や、1300万人の会員を擁する創価学会インタナショナル(SGI)インター・プレス・サービス(IPS)共催したこのパネル討論は、世界市民教育の主な要素について紹介する啓蒙的な場となった。

「生存権や自由への権利の次に来るべきものは、教育を受ける権利です。」「それ(=教育を受ける権利)は全ての自由へのカギを握り、尊厳の基礎となります。つまり、その他すべての権利は、教育を受ける権利の実現いかんにかかっているのです。」と、ナイジェリアのウスマン・サルキ国連代表部次席大使は語った。

しかし、今日の現実は、サルキ次席大使の信念を反映するようなものではない。国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が発表した最新の「万人のための教育(EFA:Education for All)」グローバルモニタリング報告書によれば、5800万人の子どもが学校に通っておらず、さらに1億人が初等教育を終えることができていない。

さらに、児童労働者が1億6800万人、大人の失業者が2億人いる。事態の緊急性は明らかだ。

さらに言えば、約7億8100万の人々が、読み書きができない状況にある。基本的な読み書き能力だけでなく、コンピューター・リテラシーが、ますます、「人間らしいまともな生活」と「貧困生活」の境となっている今日の世界において、これは衝撃的な数字だ。

しかし、世界市民教育とは、単に子どもを学校に通わせればいいという数字上の問題ではない。すなわち、世界市民概念とは、ユネスコによれば、「より広い社会と共通の人類に属しているという感覚」に関係したものなのである。

世界市民教育とは、教室での教授法を転換し、文化的理解と市民の意識の紐帯を創り出し、人権や平和、公正を基盤にした21世紀の世界市民性を涵養(かんよう)していくことを目的としたものである。政策提言はグローバルな規模で起こっているが、世界市民教育の実行は元来地域的な性格を持つものであり、各国の教育当局に従ってなされ、各国や各地域の特定のニーズに見合うように調整されるものである。

世界市民教育概念は、不平等に満ちた世界で機会の平等を生み出すためには基本的な読み書き能力の問題だけでは不十分だと認識している。もっとも豊かな国ともっとも貧しい国の格差は、植民地時代には35対1であったが、今日では80対1にまで拡大しており、世界で最も裕福な85人が、世界の半数の人口が所有する富の合計よりも多くの富を所有しているのである。

むしろ、教育の質こそが、富の格差を縮小し、平和や安全、暴力的過激主義の抑制といった困難な課題の解決を導くものであろう。

ナイジェリアのサルキ副次席大使は、先進国からますます多くの人々が「中東の戦域」に向かっている事実を指摘しつつ、「はたして、こういった人々が無教養だと言えるでしょうか? 実際は彼らの多くが教育を受けており、テロ活動の首謀者は教育レベルの高い人々が多いのが現実です。問題は、彼らがどのような教育を受けてきたかということです。つまり、教育を受けても一方で視野が狭くなるということもありえるのです。」と語った。

Global Education First Initiative
Global Education First Initiative

世界市民教育概念の起こりは、国連の潘基文事務総長が「グローバル・エデュケーション・ファースト・イニシアチブ(GEFI)」を始めた2012年にさかのぼる。韓国が主要な役割を果たしたキャンペーンが行われ、この動きは、6月末に交渉を経て策定される予定のポスト2015年のアジェンダに関する「ゼロドラフト」成果文書に統合された。

既に、世界市民教育を中心とした数多くの国際的動き、草の根の動きに息吹が吹き込まれ、成果を上げてきている。

例えば、世界市民教育は、ユネスコの2014年~17年の教育プログラムの主要な戦略領域の一つになっている。他方で、「SOS子ども村」のような団体が、最も脆弱な集団を巻き込むために独自の形態の教育を行うことで、彼らの活動の全面に、そして中核にこの世界市民教育概念を据えるようになってきている。

UN Secretariat Building/ Katsuhiro Asagiri
UN Secretariat Building/ Katsuhiro Asagiri

「SOS子ども村」の「ポスト2015年アジェンダ」に関するアドバイザーであるガルシア氏はIPSの取材に対して、「当団体では、離別の危機にある家族、あるいは親からの保護を失った子どもへの緊密な支援を行っています。つまり私たちにとって、非公式教育は正式な教育と同じぐらい重要なのです。」と語った。

「学ぶ場所はいくらでもあります。教室はその一つにすぎません。」と、15日のイベント終了後にIPSの取材に応じたガルシア氏は語った。

この種の思考は、全世界で3億7000万人を数え、その多くが、地域の言語からオーラル・ヒストリーに至る古来の知識継承に取り組んでいる先住民族に対して世界市民教育の恩恵を広げていくのにきわめて重要な役割を持っている。

先住民族が「ポスト2015年アジェンダ」において一定の地位を占めようと努力する中、世界市民教育は、これまでは周縁化されてきた人々をより包摂的で持続可能な枠組みに取り込むのに必要な独創的な戦略を提供することができるかもしれない。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|世界教育フォーラム|世界市民促進のための質の良い教育を

開発・平和のカギを握る世界市民教育

世界の核兵器―量的削減は停滞の一方、近代化は加速

【国連IPS=タリフ・ディーン】

「9か国が保有する世界の核兵器備蓄は、このところわずかしか減っていない。他方で核戦力の近代化は急速に進んでいる。」とストックホルム国際平和研究所(SIPRI)が15日に発表した最新の年鑑で警告している。

同年鑑によれば、米国とロシアが継続的に核戦力を削減し続けているため、世界の核弾頭の総数自体は減少しているという。

「しかし、10年前より(削減の)ペースは鈍化している。」と同年鑑は指摘している。

同時に両国は、その他の核兵器運搬システムや核弾頭、生産に関しては、「広範かつ高価な」長期的近代化計画を進めているという。

現在、世界の9か国(米国、ロシア、英国、フランス、中国、インド、パキスタン、イスラエル、北朝鮮)が、約1万5850発の核兵器を保有し、そのうち4300発が作戦配備の状態にある。さらに、おおよそ1800発が、警告即発射態勢に置かれている。

SIPRIのシャノン・カイル上席研究員は、「核軍縮を優先的に進めることへの国際的な関心が改めて高まっているにも関わらず、核保有国で進められている(核戦力の)近代化計画は、どの核保有国も近い将来に核兵器を放棄する意図がないことを示しています。」と語った。

アボリション2000」調整委員会の委員で「核時代平和財団」ニューヨーク支部のアリス・スレイター支部長はIPSの取材に対して、「SIPRI年鑑を読んで残念に思ったのは、9つの核兵器国すべて、とりわけ、米国・ロシア・英国・フランス・中国の5つの主要核兵器国が核戦力近代化を進めていることです。」と語った。

「1970年に発効し95年に無期限延長された核不拡散条約(NPT)で5大国は、『核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、誠実に交渉を行うこと』を約束しています。」とスレイター氏は指摘した。

またスレイター氏は、「にもかかわらず、5年毎のNPT運用検討会議で何度も繰り返されてきた約束違反(例えば米国に関して言えば、新たな爆弾製造工場2か所と、新型核兵器を運搬するミサイル・爆撃機・潜水艦に関して今後30年間で1兆ドルを投入する)によって、世界が化学・生物兵器に関してそうしてきたように、核兵器を違法なものとして禁止し、核兵器を禁止する条約の交渉を始めるよう求める非核兵器国による世界的なキャンペーンが新たに力を得てきています。」と語った。

SIPRIによれば、米国とロシアを別にすれば、他の核保有国は核弾頭数についてはずっと少ないものの、新型の核兵器システムを開発・配備するか、今後そうする意図を明らかにしている。

中国の場合は、核弾頭数自体も微増するかもしれないという。

インドとパキスタンは核兵器生産能力を拡大しており、新たなミサイルシステムを開発している。

SIPRI年鑑は、北朝鮮は軍事的核計画を推進しているが、その技術的進展度合は公的な情報源だけからは判断できないとしている。

この最新のSIPRI年鑑は、昨月までニューヨークで開催され失敗に終わったNPT運用検討会議の後に出された。

SIPRIのタリク・ラウフ氏(軍縮・軍備管理・不拡散プログラムディレクター)は、「参加した161か国が努力の成果をほとんど示せなかったNPT運用検討会議の失敗は残念なことだった。」と語った。

最終文書に関する合意は、英国とカナダの支援を受けた米国によって阻止されたという。「これらの国が掲げた理由は、中東で核・生物・化学兵器と弾道ミサイルを禁止する国際会議に2016年3月に出席するようイスラエルに対して圧力をかけることに断固として反対する、というものだった。」

イスラエルは中東で唯一NPTに参加していない国であり、核兵器を保有していると言われる。

他にNPT運用検討会議で議論された重要な問題としては、核兵器の人道的影響をめぐる問題がある。オスロ(2013年3月)、ナヤリット(14年2月)、ウィーン(14年12月)で開催された「核兵器の人道的影響に関する国際会議」(非人道性会議)の結果を受けて、159の非核保有国がこの動きに賛同している。これらの会議では、いかなる国家、国際援助機関、その他の機関も、核兵器爆発が人間、環境、食料、社会経済に与える影響に対応する能力はないとの結論が出されていた。

これら諸国は、生物・化学兵器と同じように、核兵器に関しても法的拘束力のある禁止を求めている。

5つの公式核兵器国(中国・フランス・ロシア・英国・米国。安保理で拒否権を持つ常任理事国でもある)はそうした要求を拒絶し、核兵器が偶発的あるいは意図的に爆発させられる危険性はないと頑なに主張している。

「こうして、大量破壊兵器がない安全な中東を求める動き、そして、世界的な核兵器廃絶につながるようなステップへの機会は、少なくとも2020年に開催される次のNPT運用検討会議までは失われてしまいました。」とラウフ氏は語った。

「NPTの192の加盟国であっても、インド・イスラエル・パキスタンのようなNPT非加盟国であっても、この状態に甘んじているわけにはいきません。なぜなら核兵器の危険性は地球上の全ての人間に及ぶからです。」と、核の検証、不拡散、軍縮を取扱う国際原子力機関(IAEA)の高官を2002年から12年まで務めたことがあるラウフ氏は語った。

スレイター氏はIPSの取材に対して、「この2年間、ノルウェーやメキシコ、オーストリアにおいて、核戦争の壊滅的な人道的帰結の問題に関して、市民社会と諸政府が協力して一連の会議を成功させてきました。」と語った。

成果文書を採択できず決裂に終わった2015NPT運用検討会議でも、107か国が、核軍縮に向けた「法的欠落を埋める」ことを求めたオーストリア主導の「人道の誓約」に署名している。

こうした非核保有国は、核保有国の「安全保障上の」懸念の人質となることを拒否し、核保有国抜きでも核兵器を違法化するために前進すると誓っている。

スレイター氏は、「とりわけ南アフリカ共和国は、現在の核を「持つ国」と「持たざる国」の体制を『核のアパルトヘイト』に例えるなど雄弁な発言が会場の注目を浴びました。」と語った。

広島・長崎への原爆投下から70年、交渉が始まることが期待されると同氏は言う。

「核保有国の参加がなければ効果的でないとの意見もありますが、口では『核軍縮を』唱えながら、他方では米国の『核の傘』の下で軍事同盟に守られているいわゆる『イタチ国家』〈米国の核の『傘』の下にある国々:原文『weasel states』のweaselには『ずるい人』という意味もある:IPSJ〉に対するプレッシャーは大きくなるだろう。」とスレイター氏は語った。

先週、北大西洋条約機構(NATO)の構成国であり、米国の核の庇護の下にあるオランダ議会が、法的欠落を埋めるための「人道の誓約」の賛同を求める決議を採択した。

「米国の核抑止力に依存しているNATOやアジア諸国が、世界各地で核兵器禁止条約を求める活発な草の根キャンペーンからの圧力を感じる中、世界を支配し私たちを人質にとってきた核保有国と同盟国間の結束力は弱まるだろう。」とスレイター氏は語った。(原文へ

翻訳=INPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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FBO連合が差し迫る核惨事に警告

|国連|「2015年以後の開発アジェンダの中心に世界市民を」の声

【国連IPS=タリフ・ディーン】

デンマーク政府が1995年3月に「世界社会開発サミット」(WSSD)を主催した際、コペンハーゲンで開催されたこの国際会議で出された結論のひとつは、「民衆を開発の中心に据えた新たな社会契約が必要」というものであった。

しかし、この要請に対するその後20年に亘る実行状況は芳しくないものの、国連は現在、「世界市民」という新たな装いの下で、同じ目標を追求しようとしている。

現在国連は、「われら人民は」で始まる国連憲章の精神を確認し、2015年以後の開発アジェンダの総仕上げに取り掛っている。他方で、貧困、飢餓、失業、都市化、教育、核軍縮、ジェンダーエンパワーメント、人口、人権、地球環境など、民衆に関する多くの問題に焦点を当てるように、市民社会からの要求が強まっている。

Global Citizens Festival 2014, Central Park, NYC. Pictured l to r, Global Citizen Project Co-founder Hugh Evans; World Bank President Jim Young Kim, actor Hugh Jackman, UN Secretary-General Ban Ki-moon and the group No Doubt. UN Photo/Eskinder Debebe

ニューヨークのセントラルパークで昨年9月に開催され、著名人が勢ぞろいした「世界市民フェスティバル」で演説した潘基文国連事務総長はこう謳いあげた。「私たちの世界にはもっと太陽光発電や風力発電が必要です。しかし、もっと強力なエネルギー源があると私は思います。それは民衆の力にほかなりません。」

国連韓国政府代表部大使で国連経済社会理事会(ECOSOC)副議長の呉俊(オ・ジュン)氏は、「世界社会開発サミット」20周年に際して、「世界社会開発サミットで出された三大目標のうち、貧困根絶は2000年に採択されたミレニアム開発目標(MDGs)に盛り込まれたものの、他の2つである『生産的雇用の拡大と失業の削減』と『社会的統合』は盛り込まれませんでした。」と語った。

呉大使は先週のECOSOC会合で、「3つの主要目標を同時に追求するという、「世界社会開発サミット」で謳われた統合的アプローチが忘れ去られています。」と指摘したうえで、「国連の新開発アジェンダがどこに由来するのかを再検討してみる必要があります。」と語った。

また呉大使は、「経済成長それ自体は必要なものですが、貧困と不平等を削減するには十分ではありません。」と述べ、強力な社会政策や統合的で持続可能な開発の必要性を強調した。

Ambassador Oh Joon of the Republic of Korea. UN Photo/Mark Garten

さらに呉大使は、「同様に、効果的に対処する必要のある社会・経済・環境分野の間には多くのつながりがあります。」と指摘した。

他方で、来たる9月に世界の指導者が集まる国連総会で2015年以後の開発アジェンダが採択されるのを前にして、世界市民概念の重要性が増している。

IPSの取材に応じた非営利の研究・政策提言団体「第三世界研究所」(ウルグアイ)のロベルト・ビッシオ所長は、2015年以後の状況における世界市民概念の意義について、「市民権(citizenship)という言葉で諸権利(rights)、とりわけ、政府に説明責任を果たさせ税金の使い道を決める権利を意味するとすれば、私たちは世界市民という存在からは依然として程遠いところにいます。」と語った。

実際、7月にアジスアベバで開催される開発金融会議や、2015年以後の開発アジェンダを採択する予定の9月の国連総会に向けた現在の議論の中に、「市民権」という切口はほとんどみられない。

かわりに着目されているのは、「複数の利害関係者主義(Multistakeholderism)」の概念だという。

「株主」(shareholder)に対抗する概念としての「利害関係者」(stakeholder)は、企業の行動によって影響を受ける人々に対して企業にもっと説明責任を持たせようとする中から生まれてきたものだった。

「今日、インターネットにおける、あるいは、国連との『パートナーシップ』における『複数の利害関係者による統治』とは、企業が、必ずしもそのプロセスの中で説明責任を果たすことなくグローバルガバナンスの中で一定の役割を与えられる状況を指しています。」とビッシオ氏は指摘した。

「これは、市民にとっては権利の増進ではなく後退を意味します。」「他方で、もし開発金融会議が、多国籍企業による租税回避に対抗するために国家間で課税協力を行う国連のメカニズムを承認することになれば、市民権概念(とらえどころのない『世界市民』概念を含め)も強化されることになるかもしれません。」と、世界的な市民団体のネットワークである「ソーシャル・ウォッチ」の事務局も務めるビッシオ氏は語った。

チリのエドゥアルド・フレイ・ルイスタグレ元大統領は、民衆志向の政策の成功を指摘しつつ、「1995年に自分が国を率いていた時には、民主主義や社会的公正を推進する多くの取り組みを支持していました。」と語った。

この25年間でチリは、貧困率を38.6%から7.8%へ、極度の貧困率を13%から2.5%へと減らすことに成功したという。

「『世界社会開発サミット』は、世界の不平等を正す進歩的な社会的公正を作り出す新たな開発モデルの形成につながった、国家元首らによる史上最大の会議でした。このサミットで打ち出された行動計画に現れているように、その際、民衆が開発の中心に据えられたのです。」とルイス-タグレ元大統領は語った。

Heads of State and High-Level dignitaries who attended the World Summit for Social Development, in Copenhagen, Denmark from 6-12 March 1995.   UN Photo/J. Mydtskov
Heads of State and High-Level dignitaries who attended the World Summit for Social Development, in Copenhagen, Denmark from 6-12 March 1995. UN Photo/J. Mydtskov

またルイス-タグレ元大統領は、この計画を実行し達成された成果を強調して、「チリは社会開発への投資を拡大してきたし、現在のミシェル・バチェレ大統領の下で、不平等の問題に対処するために現在もその取り組みを進めています。」と語った。

ラテンアメリカは、貧困を削減してきたとはいえ、他の地域と比較すれば依然として「最も不平等な」地域であり、現在、人口の28%にあたる1億6700万人が貧困下にあり、7100万人が極度の貧困下にあるという。

しかし、ルイス-タグレ元大統領によれば、緊急の課題として、「誤った」開発を避けるために収入分配を改善することにつながる新たな財政的契約と租税改革について検討することが挙げられるという。汚職や組織改革の問題にも取り組まねばならない。

「その意味で、世界社会サミットは1995年当時と同じく今日でも意義を持っています。さらに言えば、貧困と不平等と闘うためには倫理的な基礎と持続的な取組みが必要です。この岐路にあって、この『道徳的運動』に諸政府がさらなる推進力を与える時期に来ていると思います。」とルイス-タグレ元大統領は語った。

国際労働機関(ILO)の元事務局長でチリの元国連大使であるフアン・ソマビア氏は、「まだ妥結していない新たな「ポスト2015年」開発アジェンダのゼロ・ドラフト(原案)は1990年代の精神とダイナミズムを再興したものであり、交渉のよい基礎になりました。」と、経済社会理事会の会合で語った。

「この文書は、民衆を中心とした、貧困根絶のための持続可能な開発概念を基礎として、17の目標と69の指標を掲げたものであり、きわめて野心的なビジョンを掲げていました。」とソマビア氏は語った。

諸問題への取り組みに関しては、国連からの政策的支援が肝要だとソマビア氏は言う。

「国際社会は、(かつて『世界社会開発サミット』で)持続可能な開発の3つの要素について議論しながらこれまで実行に移してきませんでした。従って今後の根本的な課題は、統合的な思考を確保し、開発アジェンダの3つの柱(『貧困の撲滅』、『生産的雇用の拡大と失業の削減』、『社会的統合』)の間にある相互作用を明確に説明する方策を作り出していくことです。」とソマビア氏は語った。

Juan Somavia, Director-General of the International Labour Organization (ILO). UN Photo/Evan Schneider

ソマビア氏はまた、「この困難な任務を実行するには、ニューヨークおよびジュネーブの国連事務局による取り組み、国連の資金、国連の事業計画、さらには、国連が活動する地域での様々なネットワークを必要とします。」と指摘したうえで、「(9月の国連総会で)新開発アジェンダが採択されてからすぐにこのプロセスを始めないかぎり「よいもの」は実行されないだろう。」と警告した。

この取組みには、市場と国家、社会、個人の間のバランスを認識することが必要である。

「最近では、民衆の国連に対する信頼が低下しています。」「国連が新開発アジェンダをどのように提示するかが、この問題に対処するにあたっての重要なポイントとなります。『社会開発サミット』の行動計画が民衆からの信頼の重要性を認識したように、新たな開発アジェンダもまた、現在の(民衆の国連に対する)信頼感の欠如を(国連が)認識し、その問題に対処していかなければなりません。」とソマビア氏は明言した。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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世界市民教育の重要性が増している

|国連創立70周年|グラス半分の水(パリサ・コホナ前国連スリランカ政府代表部大使)

世代を超えて受継がれる平和と友情の絆

【伊勢/東京IDN=浅霧勝浩】

第67代全米さくらの女王ノエル・マリー・ベルヘルストさん(24)は、6月4日、首相官邸に安倍晋三首相を表敬した際、これまで日米親善に関わってきた無数の人々に思いを馳せながら、「(三重県)伊勢市への旅を通じて、日本の美しさ、人々の温かい心、そして(日本の議会制民主主義の父と言われた)尾崎行雄の精神を感じました。日本とアメリカは友達です。」と日本語で挨拶をした。

ジョー・ヘック下院議員(ネバダ州選出)のスタッフとして米連邦議会で働いているベルヘルストさんは、安倍首相が4月29日に連邦議会上下両院合同会議に戦後日本の首相として初めて招かれ、民主主義の原則と理想を共有する日米関係を一層深めていきたいと訴えた演説を議場で聞いていた。ベルヘルストさんが「私は総理の演説に感銘を受けた多くの聴衆の一人です。」と伝えると、首相は「まさにおっしゃるとおり、日本とアメリカは友人です。先般の米連邦議会での演説では会場の皆さんから盛大な拍手を頂き、深く感動しました。尾崎行雄がワシントンに寄贈した桜は日米友好の象徴であり、アメリカの人々には、春に桜の美しい花を見るとき、日本との友好の絆を思い出していただければありがたいと思っています。」と応じた。

“Washington C D.C. Tidal Basin cherry trees” by USDA photo by Scott Bauer – United States Department of Agriculture. Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons

ポトマック川河畔の桜並木は米国有数の景勝地となっており、1912年に当時東京市長の尾崎行雄がワシントンDCに寄贈した3000本の桜を記念した全米桜祭りが、1935年(昭和10年)以来、戦争の一時期を除いて、3月末から数週間にわたって盛大に催され、首都ワシントンDCの春を告げる風物詩となってきた。さらに今年はウィリアム・ハワード・タフト大統領が、桜の返礼にハナミズキの木を日本に寄贈して100周年にあたることから、今年4月の全米桜祭りでは、米国郵便公社と日本郵便共同による記念切手が発効されるなど、日米友好100年の歴史を改めて振り返る機会となった。

全米さくらの女王のプログラムは、戦後全米桜祭りの復活にも尽力した州協会全米協議会(NCSS)が、日本との平和友好の絆を再び育んでいくことを祈念して1948年にはじめたもので、以来毎年、桜のプリンセスが国内各州と合衆国領から選ばれ、全米桜祭りの期間中に開催されるグランドボール(女王選出大会)において、駐米日本大使が回すルーレットでその年のさくらの女王が選出されている。

そして全米さくらの女王は、毎年5月下旬から6月上旬にかけて日本を訪れ、皇族、首相、衆議院議長(尾崎行雄記念財団会長)、駐日米国大使、都知事などを表敬訪問、また自治体や民間のイベントに出席するなど、日米の友好と親善をさらに深める役割を果たしている。

2015年の全米さくらの女王に選出されたベルヘルストさんはまず、尾崎行雄を顕彰するNPO法人「咢堂香風」の招きで、シャペロン(女王の後見人)のエイミー・アンダさんとともに尾崎行雄ゆかりの地、三重県の伊勢市と、鈴木英敬三重県知事を表敬するため県庁所在地の津市を訪問した。

全米さくらの女王一行が伊勢市の宇治山田駅に到着すると、アメリカ国旗を持ってプラットフォームで待ち構えていた「咢堂香風」のメンバーが温かく一行を歓迎し、昼食後伊勢神宮に参拝した。

Ms. Verhelst offered prayers at Ise Grand Shine along with Ms. Erica Minami, the Flowering Dogwood Queen from Ise City/ Katsuhiro Asagiri of IPS Japan.

全米さくらの女王はここで、アメリカ国民を代表して、日米親善の一層の深化と両国の繁栄を祈った。「深い森に抱かれ、この静寂で清らかな空気に満ちた聖域で祈りを捧げていると、この地が2000年の長きにわたって五穀豊穣と平和の祈りが捧げられてきた地であることが肌で感じられます。今、私の目の前に広がる美しい景色は、不思議と私がアメリカで想像してきた日本のイメージそのものなのです。私の父方の祖母が日本人だと聞いていますが、私が生まれるはるか前に若くして亡くなったそうで、日本の出身地など詳しいことは知りません。それでも、ここに立っていると、その日本人の祖母や私を日米親善の使節としてこの地に導いでくださった日米の多くの方々のスピリットを感じ、感謝の気持ちでいっぱいになります。」とベルヘルストさんは語った。

ベルヘルストさんは参拝の途中で立ち寄った、昨年キャロライン・ケネディー駐日米国大使が植樹したハナミズキの苗木を思い出していた。「あのハナミズキは、尾崎行雄による桜寄贈100周年を記念してバラク・オバマ大統領が新たに日本に寄贈した3000本のハナミズキの一本です。ケネディ大使は、植樹に際して、『日米同盟も(このハナミズキのように)生きたパートナーシップですから、継続的な手入れと世話が必要です。それぞれの世代が平和への努力を続けその誓いを新たにしていく責務があるのです。そしてその責務を果たすのは私たちの番です。』と述べたと聞いています。私たち日米の若い世代が、この平和への責務を引き継ぐ番だと思います。」と語った。

全米さくらの女王一行は、鈴木健一伊勢市長への表敬訪問、皇學館大學での文化交流ののち、尾崎咢堂記念館を訪問し、ハナミズキの記念植樹式に臨んだ。「咢堂香風」のメンバーは、全米さくらの女王の訪問に合わせて、今年4月に実施したさくら絵画コンクールの出品作品を館内の壁一面に展示し、満開の桜を演出していた。「尾崎咢堂記念館では、ここ伊勢でお迎えした歴代の全米さくらの女王に、館内の庭園に桜又はハナミズキの木を植樹いただいています。全米さくらの女王によって植樹された木は、尾崎行雄ゆかりの日米親善のシンボルとして永遠に大切に育てられていくことでしょう。ここでは、ベルヘルストさんはいつお越しいただいても全米さくらの女王です。ベルヘルストさんをはじめ、歴代の全米さくらの女王が、木の成長を見に近い将来ここに戻ってこられることを心から楽しみにしています。」と奥本謙造館長は語った。

記念植樹後、尾崎咢堂記念館の展示を視察したベルヘルストさんは、63年にわたって尾崎行雄を国会に送り続けた伊勢の人々の平和と日米友好に対する長年に亘る想いに触れ、さくらの女王の役割の重責を改めて実感したという。ベルヘルストさんはIDNの取材に対して、「私は伊勢の地を訪れて、100年に及ぶ桜とハナミズキの親善交流の背景にある、日米友好と平和を支えてきた多くの人々の尊い思いに触れ、この地に大きな足跡を残した尾崎行雄についてもっと知りたいと思うようになりました。」と語った。

Tree planting ceremony was held at Ozaki Gakudo Memorial Hall of a dogwood tree which was donated by the U.S. President Barack Obama on the 100th anniversary of the gift of Cherry trees to Washington D.C. by Yukio Ozaki/ Katsuhiro Asagiri of IPS Japan

尾崎行雄と伊勢の人々

尾崎行雄は、日本が明治維新で封建体制に終止符を打ち、近代国家として新たな国の形を模索していた時期に、表舞台に登場した活動家である。尾崎は、国民の声が国の政治を動かす議会制民主主義こそ新生日本の根幹をなすべきと確信し、1880年代には明治政府に対して英国型の立憲君主制度に範を置く憲法の制定と、議会の開設を訴える民衆運動を展開した。

Ozaki Yukio Memorial Foundation
Ozaki Yukio Memorial Foundation

1890年に第1回衆議院総選挙が実施されると三重県宇治山田市(現在の伊勢市)から立候補し、以後国政を舞台に、日本に民主主義の原則と理念を根付かせるための活動を追求していった。そして尾崎が唱えた米英民主主義国との協調外交と軍縮が進められた1920年代の大正デモクラシー期には、日本を代表するリベラルな政治家として国際的にも知られるようになった。1930年代になると、次第に強まる軍部の影響を批判するとともに、婦人参政権運動を支持した。第二次大戦中は、軍部の拡張主義を批判し、米国との戦争に反対したため、しばしば逮捕・投獄され、刺客に命も狙われた。そんな尾崎を当局の圧力を顧みず支援し続け、議会へと送り続けたのが伊勢の人々である。

「地元に2000年の歴史を持つ五穀豊穣と平和を祈念する伊勢神宮があるこの地の人々は、尾崎の唱える民衆のための政治と民主主義国家アメリカとの友好親善に、夢を託したのです。彼らの尾崎に対する支持は、軍国主義が台頭した暗い時代も変わることはありませんでした。」とNPO法人「咢堂香風」の土井孝子理事長は語った。

全米さくらの女王のプログラムディレクターでもあるアンダーさんは、「全米さくらの女王のプログラムは、日米の親善とともに、若い女性の可能性を引出し、夢に向かったチャレンジを応援していくという目的を持っています。米国ではワシントンに桜を寄贈した人物として有名な尾崎ですが、日米関係が最も厳しい時代にあっても、民主主義の理念と日米友好の意志を貫徹し、時代に先行して女性参政権を支持していたことを知り、感銘を受けました。」と語った。

Kokichi Mikimoto/ Mikimoto Pearl Island
Kokichi Mikimoto/ Mikimoto Pearl Island

そうした尾崎を熱心に支援し続けた地元の名士に、世界で初めて真珠の養殖に成功し、全米さくらの女王が戴冠する真珠の王冠を寄贈した御木本真珠の創業者、御木本幸吉氏がいる。全米さくらの女王一行を御木本真珠島に迎えた柴原昇取締役は、海女によるアコヤ貝の採取実演を披露した後、別室で実際に採取した貝から取り出した真珠を全米さくらの女王とシャペロンに贈呈した。柴原氏はIDNの取材に対して、「創業者の御木本幸吉の夢は、自分の作った真珠で世界中の女性を美しく飾ることでした。その夢を実現するには、尾崎行雄が目指した民主主義の理念に基づく平和と信頼関係が諸外国との間になければなりません。御木本幸吉は、日米友好を訴えた尾崎の最大の理解者の一人でした。私たちは二人の意志を引き継ぎ、関係機関・団体のみなさまと連携協力し、これからも民間外交の一端を担っていきます。」と語った。ベルヘルストさんは、そのあと案内された御木本真珠博物館で、御木本幸吉が1939年にニューヨークの万博に出品した真珠製の「自由の鐘」を見学した。この作品は「百万ドルの真珠」としてアメリカの人々から称賛されたが、展示期間中に第二次世界大戦が勃発し、尾崎や御木本の願いもむなしく、2年後には日米両国は戦争へと突入していった。

敗戦後失意のどん底にあった尾崎に温かい手を差し出したのが選挙区の伊勢の人々だった。尾崎は叙勲を固辞し、政界からの引退を決意していたが、選挙区の支援者らが中心となって、立候補の届け出から選挙運動まですべて行い、女性参政権が初めて認められた戦後初の選挙で、尾崎はトップ当選で国会に復帰することとなった。そして、再び民主主義の復活と世界平和の確立のために尽力しようと決意した尾崎に手を差しのべたのが、戦前に親交のあったジョセフ・グルー前駐日大使をはじめとする米国の政府要人たちであった。

Ozaki Yukio Memorial Foundation
Ozaki Yukio Memorial Foundation

1950年、尾崎行雄はグルー前大使や、同大使前任者のウィリアム・キャッスル両氏らが代表を務める「日本問題審議会」の招待により、三女の相馬雪香を伴って渡米、連邦議会上下両院合同会議でも演説し大歓迎を受けた。米国滞在中、尾崎は東京市長時代に「日米友好の証、ポトマック桜」を寄贈した民主主義者として紹介され、当時依然として険悪だった対日感情を改善し日米相互理解の懸け橋となるべく積極的にテレビ番組への出演や政府要人、米国市民との対話集会に参加し、両国間の友好関係の基礎を作った。

尾崎はその4年後、日本の民主主義の復活と日米友好の発展を祈念しながらこの世を去った。1956年、国会議員と民間有志により設立された尾崎行雄記念財団が全国に寄付を呼びかけ、1960年、議会制民主主義の父として尊敬されている尾崎のビジョンを推進する目的で国会の前に尾崎記念会館(現:憲政記念館)と時計塔が建てられ、衆議院に寄贈された。

その後、尾崎行雄の意志を継いだ相馬雪香は尾崎行雄記念財団の副会長として、尾崎のビジョンに基づく民主主義と平和の啓蒙活動に尽力した。とりわけ、1979年に設立した「難民を助ける会」の活動に関連して1997年には地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)のメンバーとして、ノーベル平和賞を共同受賞している。さらに相馬雪香が晩年最も力を入れたのが尾崎咢堂の精神を今後の日本の政治に生かしていける人材を育てる「咢堂塾」の設立と運営であった。石田尊昭事務局長と1998年に立ち上げた「咢堂塾」は、今年で17年目を迎え、衆議院、参議院議員を始め、県会議員、市議会議員、市長、大学教授など、次代を担うリーダーを輩出している。「全米さくらの女王のプログラムと、『咢堂塾』は、人種、信条、文化の壁を越えて、人間の尊厳を大切にする民主主義の理念と日米友好の遺伝子を引き継いだプログラムだと思います。尾崎行雄記念財団としても、今後の全米さくらの女王との交流事業を通じて、日米の多くの先人に支えられてきた歴史の意義を踏まえながら、世界の平和に寄与する日米のリーダー間の交流も進めて参りたいと考えています。」と石田事務局長は語った。

Ozaki Yukio with his son, Yukiteru and daughter Yukika visiting cherry trees by Tidal Basin, Wshington D.C. in June 1950/ Ozaki Yukio Memorial Foundation
Ozaki Yukio with his son, Yukiteru and daughter Yukika visiting cherry trees by Tidal Basin, Wshington D.C. in June 1950/ Ozaki Yukio Memorial Foundation

ちなみに、ベルヘルストさんが首相官邸を表敬訪問した翌日、安倍首相は、ウクライナと週末に主要国首脳会議(G7サミット)が開催されるドイツに向かう直前、羽田空港において、2016年に日本で開かれる来年のG7サミットを伊勢市に隣接する三重県志摩市で開催すると発表した。その際伊勢神宮についても言及し、「各国の首脳には、日本の豊かな伝統と文化、そして美しい自然を感じで頂きたい。」と語った。「暗い戦争の時代を乗り越えて尾崎行雄を支え続けた伊勢の人々にとって、米国を始め世界の民主主義国の首脳を地元にお迎えできることは、特別の意味合いがあります。」と土井孝子理事長は語った。(原文へ

翻訳=INPS Japan

https://www.youtube.com/watch?v=nDKJ-YIz-9A

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Japan-US Bonds of Peace and Friendship Bequeathed To Future Generations

By Katsuhiro Asagiri | IDN-InDepthNews Special Report

ISE | TOKYO (IDN) – When Noelle Mary Verhelst, the 67th United States Cherry Blossom Queen, paid a courtesy call on Prime Minister Shinzo Abe in Tokyo on June 4, she said in fluent Japanese: “During my trip to Ise City, I was impressed with the beauty of Japan, people’s warmhearted kindness and the legacy of Ozaki Yukio. Japan and the U.S. are good friends.”

Verhelst, who currently works as a legislative correspondent for Congressman Joe Heck (NV-3), was in the audience when Abe was invited to address a Joint Meeting of the U.S. Congress on April 29 as the first Japanese Prime Minister since WWII and appealed for further deepening of the U.S.-Japan relationship based on shared principles and ideals of democracy. Verhelst said to the Prime Minister: “I was one of audiences who were impressed with your address.”

The Prime Minister responded: “As you rightly said, the U.S. and Japan are good friends. I was deeply touched when I received a great ovation from the audience on that occasion. Cherry trees donated to Washington D.C. by Yukio Ozaki are the symbol of the U.S.-Japan friendship and I hope Cherry Blossom in spring would serve as a reminder of friendship. ”

Rows of cherry trees along Potomac River have been known as one of the foremost aesthetic landscapes in the U.S. National Cherry Blossom Festival. The Festival has been held every year since 1935 – in commemoration of the gift of 3,000 cherry trees donated to the city of Washington D.C. by Yukio Ozaki, mayor of Tokyo in 1912 – on a grand scale for several weeks starting late March, except for a temporary period of WWII. It has become a seasonal tradition that signals the dawn of spring in the U.S. capital.

Ozaki Yukio Memorial Foundation
Ozaki Yukio Memorial Foundation

As this year marks the 100th anniversary of the gift of dogwood trees, donated to Japan by the then President William Howard Taft in reciprocity and appreciation for the cherry trees from Japan, the centennial friendship between the U.S. and Japan was once again the main focus during the festival this year including the joint issuance of commemorative stamps by United States Postal Service and Japan Post Co., Ltd.

The Cherry Blossom Princess program, including the selection of the U.S. Cherry Blossom Queen, was initiated in 1948 by the National Conference of State Societies (NCSS), which helped to re-launch the first post-World War II Cherry Blossom Festival that year with an aim to promote peaceful relations with Japan. Since then, Cherry Blossom Princesses have been selected from each state and the U.S. territories every year. The U.S. Cherry Blossom Queen is chosen by a random spin of a wheel of fortune by the Japan Ambassador in Washington D.C. at the Official Cherry Blossom Grand Ball during a National Cherry Blossom Festival.

The U.S. Cherry Blossom Queen visits Japan from late May to early June every year to further deepen the U.S.-Japan friendship by paying a courtesy call on a member of the Royal family, Prime Minister, the Chairperson of the House of Representatives (also the chairperson of Ozaki Yukio Memorial Foundation), the U.S. Ambassador to Japan, and the governor of Tokyo. She also participates in events organized by local governments and non-governmental organizations.

Accompanied by Amy Anda, NCSS U.S. Cherry Blossom Queen Chaperone, Verhelst, visited Ise, the city historically associated with Yukio Ozaki at the invitation of NPO Gakudo Kofu and then proceeded to Tsu, capital city of Mie Prefecture where they paid a courtesy call on Governor Eikei Suzuki.

As the delegation arrived at Uji Yamada Station, it was warmly greeted by Gakudo Kofu members waving the U.S. flags on the platform. After a lunch in their honour, they were escorted to Ise Grand Shrine.

At the main sanctuary, the 2015 U.S. Cherry Blossom Queen prayed for further deepening of the U.S.-Japan Friendship and prosperity of both nations on behalf of the people of the U.S.

“Praying at the sanctuary filled with tranquil and seraphic air surrounded by deep woods helps me understand that this is a place where prayers for peace and prosperities have been offered for over 2000 years. The beautiful scenery (that) opens out before my eyes right now strangely matches my very image of Japan, which I used to picture in the U.S. I was told that a grandmother on my father’s side was Japanese but I even do not know where in Japan she was from as she passed away young long before I was born. However, standing here, I feel overwhelmed with gratitude as I feel her spirit and those of so many people who led me here as an emissary of the U.S.-Japan friendship,” Verhelst told IDN.

Recalling a dogwood tree she had earlier stopped by on her way to the main sanctuary, which was planted by the U.S. Ambassador Caroline Kennedy, Verhelst said, “It was one of 3,000 dogwood trees gifted by President Barack Obama in commemoration of the 100 anniversary of the gift of cherry trees by Yukio Ozaki. Ambassador Kennedy at the tree-planting ceremony said that the U.S.-Japan Alliance is a living partnership that needs continued stewardship and care and that it falls upon each generation to tend and renew the commitment to peace. She then said that it is our turn. I firmly believe that it is our turn to succeed this responsibility for peace.”

After paying a courtesy call on Kenichi Suzuki, Mayor of Ise, the delegation participated in a cultural program at Kogakukan University. After the cultural program, the group was welcomed at Ozaki Gakudo Memorial Hall, where a tree-planting ceremony for a new dogwood tree was held in Verhelst’s honor. The tree was one of 3,000 given to Japan by President Barack Obama. Entering the memorial hall, the delegation was greeted by hundreds of water paintings of cherry blossom drawn by children of Ise, which filled walls of the building.

Ozaki Gakudo Memorial Hall annually organizes cherry blossom painting competition to honor the U.S.-Japan friendship. “We have invited successive U.S. Cherry Blossom Queens who visited the city of Ise to plant either Cherry trees or Dogwood trees with credit to each queen in our garden. These trees have been and will be cared eternally by people of Ise as the symbol of the U.S.-Japan friendship associated with Yukio Ozaki. Here, you will always be received as a U.S. Cherry Blossom Queen and we look forward to all successive Queens to come back here to see the growth of their trees.” said Kenzo Okumoto, curator of Ozaki Gakudo Memorial Hall.

After the tree-planting ceremony, Verhelst visited the exhibition hall. According to her, here she learned of a strong bond between Ozaki and people of Ise who kept sending Ozaki as their representative with their wishes for the U.S.-Japan friendship and peace to the Japanese parliament for 63 consecutive years and realized a new and important role of the U.S. Cherry Blossom Queen.

“Through my visit to Ise, I feel honored to be exposed to precious feelings of so many people who have supported the U.S.-Japan friendship and peace behind the century long friendship exchange between cherry trees and dogwood trees and this experience has prompted me to get more interested in learning about Yukio Ozaki who made such a significant mark here,” Verhelst told IDN.

Yukio Ozaki and the people of Ise

Yukio Ozaki came to mainstream as an activist when the Japanese society, after putting an end to feudalism through Meiji Restoration in 1868, was groping for a new political form as a modern nation. Convinced that parliamentary democracy should constitute the bedrock of new Japan, Ozaki launched a democratic movement calling on the Meiji government to establish a constitution based on the British model and to open an elected national assembly (Diet) during 1880s.

When the first general election for the lower house of the Diet was held in 1890, Ozaki ran from a constituency of Ujiyamada City (present Ise city) and relentlessly pursued constructive discussions at the Diet to allow democratic principles and ideals to take root in the Japanese society. Ozaki came to be known overseas as well during the Taisho Democracy period in the 1920s when disarmament was pursued and cooperative diplomatic stance was adopted towards democratic nations such as the U.S. and Britain.

During 1930s, as an independent politician, he criticized the growing influence of the Japanese military and advocated the right of women to vote. During the WWII, Ozaki was often arrested and imprisoned. Assassins threatened him for his criticism of military adventurism and war with the U.S. Despite all pressures from authorities not to do so, people in Ise continued to send Ozaki back to the Diet.

“Having grown up with a culture of praying for peace and prosperity at Ise Grand Shrine at the heart of their daily lives, people in Ise placed their hope in Ozaki who pursued the cause of parliamentary democracy and the U.S.-Japan friendship based on democratic principles with relentless courage. And their love and support for Ozaki did not change even during the darkest period of military dictatorship.” said Takako Doi, President of Gakudo Kofu.

Anda, who is also a director of the U.S. Cherry Blossom Princess Program, said in an interview with IDN: “The U.S. Cherry Blossom Princess Program is tasked to empower young women and develop their potential while promoting the U.S.-Japan friendship. In the U.S, Ozaki has been known as the person who donated cherry trees to the city of Washington D.C. but I am pleased that my visit to Ise this time gave me an opportunity to learn more about his life including the fact that he carried through his belief in democratic principles and the friendship with the U.S. even during the darkest days of the U.S.-Japan relations and was ahead of his time in advocating for women’s suffrage in those days.”

Among ardent supporters of Ozaki in Ise was Kokichi Mikimoto, founder of the Mikimoto Pearl Company, credited with creating the first cultured pearl. Mikimoto donated the ceremonial Pearl Crown to be placed upon a newly selected U.S. Cherry Blossom Queen during the National Cherry Blossom Festival, held annually in Washington, D.C. Noboru Shibahara, director of Mikimoto Pearl Island Co., Ltd. welcomed the delegation to the island. After viewing a pearl harvesting demonstration by Ama divers, Shibahara presented the freshly harvested pearls to the Cherry Blossom Queen and her Chaperone.

“Our founder Kokichi Mikimoto’s dream was to adorn the necks of all women around the world with pearls. He duly understood that in order to realize his dream, peace and trusted relations among nations have to exist based on democratic principles as advocated by Yukio Ozaki. Mikomoto was one of Ozaki’s most sympathetic supporters. We at Mikimoto Pearl Company will continue to play a part of popular diplomacy in cooperation with organizations and groups concerned while succeeding the wills of the two gentlemen,” Shibahara told IDN.

The people of Ise lent a helping hand to Ozaki who was in the depth of despair after WWII. Ozaki firmly declined a conferment of the order of merit and he was determined to retire from the political scene. However, ardent supporters in his constituency filed his candidacy and conducted his election campaign thus re-electing Ozaki with largest number of votes at the first national election in 1946 after women suffrage was granted.

It was then that Ozaki once again decided to dedicate the rest of his life for the recovery of democracy in Japan and for world peace. In this, he was supported by his old friends in the U.S. including the former U.S. Ambassador to Japan Joseph C. Grew who held important positions in the U.S. government.

In 1950 Ozaki, accompanied by his daughter Yukika, went to the United States at the invitation of the American Council on Japan, an advisory group of prominent Americans interested in promoting a meaningful U.S. policy toward Japan. It included among its leaders Ambassador Grew and his predecessor Ambassador William R.Castle, Jr. They were instrumental in having Ozaki speak before both Houses of Congress, appear on TV program and meet the American people to help the then hostile feelings of Americans toward Japan and to lay the foundations for amicable relations between the two countries. Ozaki served as a bridge of understanding in those critical days after the war.

Ozaki died on October 6, 1954, while praying for the recovery of Japan’s democracy and the development of the U.S.-Japan friendship. Ozaki Yukio Memorial Foundation, established by Diet members and volunteers from private sector, called for donations across the nation and The Ozaki Memorial Hall (present Memorial Hall of Constitutional Politics) and Clock Tower were built in front of the Diet in 1960 to promote the vision of the man revered as the father of Japanese parliamentary democracy and was donated to the House of Representatives.

After that Yukika Soma who succeeded Ozaki’s wishes as vice president of Ozaki Yukio Memorial Foundation dedicated herself to promote awareness campaign of democracy and peace based on Ozaki’s visions. Soma founded Association for Aid and Relief (AAR Japan) in 1979, which was awarded the Nobel Peace Prize in 1997 as a member organization of the International Campaign to Ban Landmines (ICBL).

In her later career, Soma mostly dedicated herself to the management of “Gakudo Juku”, a private academy established in 1998 together with Takaaki Ishida, Secretary General of Ozaki Yukio Memorial Foundation, to train personnel who can put into practice Ozaki’s spirit in Japanese politics in the future.

The academy has so far produced leaders who lead the next generation such as members of House of Representatives, members of House of Councilors, prefectural assembly members, city council members, mayors, and university professors.

Ishida told IDN: “I think that the U.S. Cherry Blossom Princess program and Gakudo Juku have both succeeded genes of democratic ideals that value human dignity and the U.S.-Japan Friendship transcending racial, religious, and cultural differences between two nations. Through exchange events with the U.S. Cherry Blossom Princess program in the future, Ozaki Yukio Memorial Foundation is interested in exploring the possibility of advancing exchanges between leaders from both nations who can contribute to world peace while taking into account the historical significance nurtured by numerous predecessors in both nations.”

Interestingly enough, on the day subsequent to the U.S. Cherry Blossom Queen’s courtesy visit to the Prime Minister’s office, Abe announced at Haneda international airport before departing for the Ukraine and the G-7 summit in Germany that next G-7 summit in Japan will be hosted at the city of Shima, next to Ise in Mie Prefecture.

Ozaki Yukio with his son, Yukiteru and daughter Yukika visiting cherry trees by Tidal Basin, Wshington D.C. in June 1950/ Ozaki Yukio Memorial Foundation
Ozaki Yukio with his son, Yukiteru and daughter Yukika visiting cherry trees by Tidal Basin, Wshington D.C. in June 1950/ Ozaki Yukio Memorial Foundation

Referring to Ise Grand Shrine near the summit venue, Abe said: “I hope world leaders will feel the rich culture and tradition and beautiful nature there.” “For people of Ise who supported Yukio Ozaki through generations beyond darkest days of WWII, being able to welcome democratic leaders of the world including the U.S. has a special significance.” said Doi. [IDN-InDepthNews – 20 June 2015]

Top photo: Noelle Mary Verhelst, the 67th United States Cherry Blossom Queen and Amy Anda, NCSS U.S. Cherry Blossom Queen Chaperone, received a big welcome from citizens of Ise, a community historically associated with Yukio Ozaki, widely revered as the father of Japan’s Parliamentary Democracy/ Photo by Katsuhiro Asagiri of IPS Japan

Second photo: At the entrance of GHQ in Tokyo, General Douglas MacArthur seeing off Yukio Ozaki who stopped by his office on his way to Washinton DC in May 1950/ Ozaki Yukio Memorial Foundation

Bottom photo: Ozaki Yukio (Center) with his son Yukiteru(Right) and daughter Yukika (Left) visiting cherry trees by Tidal Basin Washington D.C. in June 1950/ Ozaki Yukio Memorial Foundation

2015 IDN-InDepthNews | Analysis That Matters

|国連創立70周年|グラス半分の水(パリサ・コホナ前国連スリランカ政府代表部大使)

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【コロンボIPS=パリサ・コホナ

国際連合が創設されて70周年を迎える今年、この組織がこれまで成功を収めてきたかどうかを問うのは当然のことだろう。長年にわたってメディア、とりわけ欧米先進国のメディアには、国連の失敗をあげつらう傾向がある。

未解決の朝鮮半島問題、コンゴ内戦の泥沼、ベトナム戦争時の無力、冷戦の大部分の時期における国連の無能力、ルワンダ虐殺時の機能不全、イスラエル・パレスチナ紛争を終結に導く能力のなさ等、不快な例の多くがヘッドラインを占めてきた。

Amb. Palitha Kohona. Credit: U.N. Photo/Mark Garten
Amb. Palitha Kohona. Credit: U.N. Photo/Mark Garten

しかし、ダグ・ハマーショルド事務総長(当時)が簡潔に述べたように、国連は人類を天国へ連れて行くためでなく地獄から救うために創られた機関である。同じように、もし国連が存在しなかったらそれに代わるものが創設されなければならなかったであろうとも言われている。

疑心暗鬼と敵対意識が世界に広がっている現在の実情を考えると、今日、国連を一から創設できるとはとても思えない。失敗を指摘する様々な批判はあるものの、国連はこの70年で多くのことを成し遂げてきた。むしろ、これまで存在した中で、最も成功した真にグローバルな政治組織であるとさえ言えるかもしれない。

壊滅的な第二次世界大戦の灰のなかから立ちあがった国連の主要目標のひとつは、世界大戦の再発を防止することにあった。その意味では国連は成功を収めたと言えるだろう。戦後70年間、大国間の軍事衝突は起きていない。地域規模、二国間、国内における紛争や代理戦争は数多く起き、多数の死者と推定不能な経済的被害を引きおこしたが、第三次世界大戦の勃発は避けられてきた。

一方国連は、会員制の私的なクラブのようなものだと言われてきた。そのメンバーが、クラブが何をすべきか決定するからである。世界全体ではもっと高次元の期待を抱いているかもしれないが、国連自体は、その加盟国と憲章が認める範囲内の活動しかできないのである。最も効果的な成果は、全会一致が達成された際に得られる。

その憲法(国連憲章)が制定された経緯によって、国連の権力は厳格に制限されている(この点については詳しく後述する)。同時に、第二次世界大戦の勝者(=当時の連合国)の権利と特権が露骨に非民主的な形で確保されているため、政治的、経済的、社会的力の中心が戦後かなりシフトした今日の世界においては、このことが国連に幻滅を感じさせる主要因となっている。

その設立の経緯、そして、安全保障理事会の5大国に与えられた拒否権によって、国連の行動の自由は、拒否権を保持する5大国が認める状況のみに限定されている。従って冷戦時代は(米ソが拒否権を連発したために)国連の機能は相当に麻痺し、東西対立の危険な時代に身動きがとれない事態が続いた。

その後冷戦が終結し、国連が多くの場面において有益な前進をもたらすのではないかとの期待が高まった。しかし、まもなく大国間の対立が再燃したため、国際社会は新たな不確実性の時代に入り込んでしまっている。

同様に、南北関係も植民地時代にまで遡る疑念から、常に緊張関係を孕んできた。旧宗主国(=西側先進国)に対する不信感は、開発途上国の人々の先進国に対する態度に影響を与え続け、一方で西側先進国の人々が示す「我々こそが一番よく知っている」という横柄な態度が、関係をさらに複雑にしてきた。G77は、もともとは開発途上国の経済・社会の発展を推進するプラットフォームとなることが意図された連合組織だが、もはや77か国に収まらなくなっており、(安保理5大国の一員である)中国を入れれば、今日134か国にまで拡大されている。そしてその構成メンバー全てが、もはや必ずしも(かつてのような)貧しい途上国ではなくなっている。

また同様に、冷戦期に東側にも西側にもつかない勢力であることをもともと目指していた非同盟運動は、非同盟勢力としての一貫した焦点を持てず、近年様々な方向に引っ張られている傾向があり、その結果、グループから離脱する国もでてきている。さらに近年安保理が、本来なら国連総会の責任範囲に属する問題についてまで、全ての国連加盟国を拘束する決定を下す傾向を強めてきており、これに対する批判も高まってきている。

5大国が支配する安保理は、一定の状況下において国際社会全体に対する立法措置をとる任務を自らに課し、圧倒的多数の国連加盟国がそうした法形成に影響力を行使する機会を奪ってきた。

一方で積極的な面を見れば、世界の人権、社会的・経済的権利の基準が、国連の活動によって相当に改善してきた。国連は、1948年の世界人権宣言以来、市民的・政治的権利、社会的・経済的・文化的権利、女性の権利、子どもの権利、先住民族の権利、障害者の権利、人種差別[の撤廃]などについて基準を設定する数多くの多国間条約を次々に採択してきた。

A view of the meeting as Security Council members vote the draft resolution on Nuclear-Test-Ban Treaty on 23 September 2016. UN Photo/Manuel Elias.
A view of the meeting as Security Council members vote the draft resolution on Nuclear-Test-Ban Treaty on 23 September 2016. UN Photo/Manuel Elias.

これらの世界的に合意された基準を手にした世界は、1945年よりも確実によい場所になっている。確かに、多国間条約の締結や、条約の加盟国になることが、それ自体で個人が置かれている状況を改善するわけではない。しかし、これらの普遍的に受け入れられた基準の存在そのものが、ときとしてさらなる圧力を生み、さらに高い目標に向けて努力するインセンティブを生み出すのである。

国連はまた、国際的な「法の支配」をかつてないほど発展させてきた。事務総長の執務室には550以上の多国間条約が寄託されているが、その大部分は国連の下で交渉されたものである。それらは、環境、海洋、航空、人権、軍縮、テロ、組織犯罪、宇宙空間、海運、交通規則など、人間関係のほぼあらゆる側面を網羅している。

これらの条約に含まれている複雑なルールのネットワークは、かつてなかったほど、個別国家の行動基準を定めてきた。こうして定められた国際的な「法の支配」は国家のレベルにまで徐々に浸透していき、多くの領域において各国内の法の支配の発展に影響を及ぼしてきた。

国連及び国連諸機関は、共通の利益がある様々な課題に関して国際社会を動員することに成功してきた。国境を越えてテロが跋扈し、多くの国にとって脅威になるなかで、国連はこの脅威に対処するために諸国家と資源を動員することに成功している。

専門知識が結集され、資源が動員され、必要とする国家に訓練が提供され、テロの脅威に対する市民の意識が高められた。国連及び諸機関が存在しなければ、これらの前進が達成されたかどうかは疑わしい。もちろん、さらにすべきことはたくさんある。

同様に、大被害を引き起こす可能性があったエイズの拡大や豚インフルエンザ、鳥インフルエンザなどの健康上の脅威、そして最近のエボラ出血熱問題などに対する世界的な対応も、国連やその関連機関を中心に回ってきた。この種の脅威に対して、人々の意識を急速に高め、加盟国を動員して迅速に対応させた国連の能力は印象的なものであった。

国連の天災・人災への対応によって、数多くの命が救われ、被害は緩和された。環境や海洋、持続可能な開発といった領域での国連の継続的な取組みによって、人類にはさらなる利益がもたらされることだろう。

国連は、これまで語られていない暴力や悲劇を産み続ける可能性のあるグローバルな状況を正常化することに成功してきた。カンボジアは、国連が仲介した和平工作やその後の平和維持活動の結果として、数十年に及ぶ紛争を経て、安定し、ますます繁栄する国となってきた。

四半世紀に及ぶ紛争を経験した東ティモールは、国際社会の平和的一員として自らを確立してきた。国連はまた、モザンビークアンゴラをなだめすかしながら、平和の新時代をもたらした。

南アフリカのアパルトヘイトから民主主義と多数決原理への移行は、国連に血のにじむような努力によって促進されたものだ。旧ユーゴスラビアの継承諸国家を、当初の爆発的な暴力の時代を経て平和へと導いた国連の役割にも、やはり小さからぬものがあった。国家継承という複雑な法的問題に対しても、国連の想像力に富んだ対処がなされた。

このことは、国連活動の死活的で拡大する領域へと私たちを導く。すなわち、平和維持活動である。イスラエル国境、及びインド・パキスタン国境における最初の平和維持活動以来、国連の役割は大きく拡大し、その平和維持部隊には複数の次元にわたる任務が与えられてきた。

現在、国連は16か国において平和維持活動を実施している。民生、警察、軍事部門などさまざまな領域で12万2000人の職員が従事し、122か国が自発的にこれを支えている。

平和維持活動のコストは71億ドルを超え、国連の活動全体の中でもっとも高コストの部門となっている。国連の平和維持活動は、今では、民間人の保護など、その任務を果たすために攻勢的な役割を担うことが許可される場合もある。

平和維持活動に関しては印象的なサクセス・ストーリーがある一方で、批判も少なくない。もし国連平和維持活動の任務が、現場発の質のよい情報と、受入国政府を含めたより構造化された協議の後に構成されているならば、もし任務が明確に定義され、軍事部門によく説明がなされ、適切な装備が与えられ、経験と訓練度に基づいて隊員が選抜されていたならば、もし活動が定期的に再検討され出口戦略がよく描かれていたならば、平和維持活動はもっと成功しているかもしれない。残念なことに、一部のミッションは半永久的に継続される傾向がある。

時代が進むにつれ、現在の政治的・経済的状況を反映するように国連を改革すべきだとの声が強まってきている。もっとも困難な課題は、第二次世界大戦後の世界の権力構造を反映した安保理(常任理事国5か国と非常任理事国10か国で構成)の改革であろう。拒否権を有する5つの常任理事国のうち2つは欧州の国であり、欧州連合(EU)の加盟国でもある。また、選出される非常任理事国についても(地域グループから候補を選ぶため)2か国はEUの加盟国になる可能性が高い。

UN Flag on opening day of the General Debate. UN Photo/Mark Garten
UN Flag on opening day of the General Debate. UN Photo/Mark Garten

現在のところ、安保理15カ国のうち、西欧・その他グループはニュージーランドを含む6か国、アフリカは3つの非常任理事国、ラテンアメリカ・カリブ海地域は2か国、東欧が1カ国、そしてアジアは非常任理事国2か国と常任理事国(中国)である。

安保理の構造におけるこのような不均衡は維持できるものではない。もっとも、70年前の戦争の勝者に特権を与えるような制度が、あらたな戦争によって修正されることがあってはならない。しかし、急激に変化した世界の社会的・経済的現実が、国連に改革を導入する呼び水となるかもしれない。

国連の官僚機構を真に効果的なものにすることがもう一つの課題である。大口拠出国からの批判に常に晒されながらも、国連は70年間なんとか歩みを進めてきた。歴代の事務総長の下で、国連をよりダイナミックで、現代のニーズにより迅速に応えられる組織に改革しようとの試みが断続的になされてきたが、今こそ、この問題に包括的に取り組むときではないだろうか。国連は、任務に対して加盟国が満足いくように効率的に成果を出せなければならない。(原文へ

翻訳=INPS Japan

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