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ブチャの住民の証言(4):「息子が助かったのは奇跡でした-服のフードに救われたのです。」(アラ・ネチポレンコ)

【エルサレムDETAILS/INPS=ロマン・ヤヌシェフスキー】

ロマン・ヤヌシェフスキー by РОМАН ЯНУШЕВСКИЙ
ロマン・ヤヌシェフスキー by РОМАН ЯНУШЕВСКИЙ

ロシア占領後のウクライナの町ブチャで、道路の真ん中に市民の死体が散乱しているという陰惨な写真と映像が全世界に衝撃を与えた。これは21世紀としては完全に異様な光景である。そして、多くのロシア人は、「これは演出だ」というロシア当局の説明を容易に、そして喜んで信じた。しかし、ロシアがどう感じようと、この恐るべき映像は分水嶺となったのである。ロシアと世界中のロシア人は、これから違った扱いを受けることになる。ブチャはロシア軍による犯罪の悲劇的な象徴となったのだ。

第一報によれば、イルピン、ホストメリ、マカロフ、ボロディヤンカでも、占領中に同様の残虐行為が行われたとのことだ。そして、状況が何倍も悪いとされるマリウポリについては、まだ触れていない。

イスラエルの通信社「ДЕТАЛИ(=Details)」は、この街で一体何が起こったのかを、独立した公平な立場で理解しようとするものだ。そして、ブチャの住民が語った内容は戦慄を覚えるものだった。私たちのドキュメンタリープロジェクト「Come and See」の枠組みの中で、ロシアによる軍事侵攻が始まって以来、この町で起こっていることについて集めた住民の証言を公開します。

以下は、ブチャに住むアラ・ネチポレンコさん(49歳)の証言である。3月17日、ロシア兵が14歳の息子ユーリの目の前で夫ルスランを射殺し、さらに10代の息子も殺そうとした。しかしユーリは奇跡的に一命を取り留めた。

ルスラン・ネチポレンコと息子のユーリ 写真:ファミリー・アーカイブス
ルスラン・ネチポレンコと息子のユーリ 写真:ファミリー・アーカイブス

「私は49歳で、長年、保育士として幼い子どもたちを相手に働いてきました。ある時、健康上の理由から、幼稚園の管理職の仕事に移りました。夫のルスラン・ネチポレンコ(47)は、ブチャのエコロジー企業で弁護士として働いていました。私たちの子供はここで生まれました。3人の素晴らしい息子たちです。そして、かつて私の両親は、この街を作るために若い頃ここに来ました。夫の実家が原発事故後、チェルノブイリから避難していたことが出会いのきっかけです。

アラとルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブス
アラとルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブス

(ロシアによる軍事侵攻が始まった)昨年の2月24日は二人とも休みで、早起きする予定も全くありませんでした。朝6時頃、何かの音で目が覚めましたが、すぐには何の音か分かりませんでした。ルスランは私よりもぐっすり眠っていて、目を覚ましませんでした。しかし、すぐにその音は次第に大きくなり、やがて爆発音だと分かりました。

スマホの電源を入れ、SNSを開くと、ボロディミル・ゼレンスキー大統領から「戦争が始まった」というビデオメッセージが届いていました。私たちの町はホストメリ空港の近くにあり、いち早くロシア侵攻の話を聞くことができました。

息子のムーが家族会議を開いてくれて、そこですべてを天秤にかけた結果、私たちはここに残ることにしました。私たちは民間企業で働いており、自分たちの家があり、隣には風呂場やストーブ、薪もありました。火鉢もタンドール(壷窯型オーブン)もある。停電になれば、自分たちの食べ物を直火で調理することができますし、どんな状況でも自給自足が可能でした。また、夫と子どもたちはボーイスカウト運動に参加した経験から、屋外でもどう生き延びるかを知っていました。また、停電に備えて発電機も持っていました。停電になっても、携帯電話の充電くらいはできるように、定期的に発電機をつけていました。食料もありました。私たち自身が誰かに脅威を与えるわけでもなく、危険もあまり感じませんでした。そこで私たちは、この紛争は長くは続かず、自宅で生き延びられると判断したのです。

私たちには3人の息子がいて、末っ子のユーラは14歳です。一番活発で落ち着きがない子ですが、家族会議では、彼に役割を与えることにしました。主人は以前市役所に勤めていたので、そこの知り合いに連絡を取ったのです。その知人から、「人手が足りない。機転が利く人が欲しい」と言われ、ユーラは3月3日からボランティアとして電話応対の仕事を始めました。ブチャ地区では、すでに18時から夜間外出禁止令が出されていました。当日ユーラは当直で、職場から電話をかけてきて、「仕事が終わらないし、食事も提供されるので、ここで一晩過ごします。」と伝えてきました。翌朝走って帰宅すると、朝食だけ食べ、「お母さん、職場に走って帰るよ、みんなが待っている。」と言って再び職場に出かけていきました。

しかし4日に帰宅すると、息子は一転してとても不安そうにしていました。「明日も当番なの」と聞くと、「そうだけど、町中をロシア軍の戦車が走っているから、もう二度と出勤したくない。」と答えました。職場にはCCTVカメラが設置されており、市庁舎や学校、教会の外にもロシアの戦車がいるのが見えたという。ユーラは、とても深刻なことだと理解したのです。持ち前の好奇心を和らげ、本当の危険を察知したのだと思います。一方、ロシア兵は、私たちの街にどんどん定着していきました。

アラ・ネポチレンコと息子たち。上にいるのがユーラ。写真:ファミリー・アーカイブス
アラ・ネポチレンコと息子たち。上にいるのがユーラ。写真:ファミリー・アーカイブス

私たちにとっての悲劇は、3月17日に起こりました。その後、もうこれ以上ブチャにはいられない、危険だと悟ったのです。その2日後の19日、私は子どもたちを連れて街を出ました。両親は家に残り、出て行くことを拒みました。

私の両親もブチャ地区の比較的近くに住んでいました。しかし、電話の調子が非常に悪く、3月8日からは電気もガスも止まってしまいました。主人は定期的に自転車で実家を訪ねていました。私たちの無事を知らせ、食べ物を届けていたのです。両親宅には発電機もなく、連絡はこうして一方通行でした。たまたま、実家の庭にある幼稚園に、ロシア軍が司令部と検問所を設けたため、両親宅にたどり着くために迂回することも、回り込むことも不可能になりました。身分証明書を携帯していれば、ロシア軍は原則的に、私たちの移動を認め、誰が地元の人間かを把握しているようでした。

AP Photo/Vadim Ghirda
AP Photo/Vadim Ghirda

その日、夫は市役所の近くで人道支援物資が配布されることを知りました。私たちは、夫の高血圧の薬が切れていたので、薬と発電機用のガソリンが入手できればと期待しました。ユーラは自ら志願して夫と一緒に行くことにしました。配布場所があまり近くないので、2人は自転車で行くことにしました。夫は、自分と子どもに白い腕章をつけ、自転車とリュックサックにも白い切れをつけて、ロシア兵に民間人だとわかるようにしていました。

タラソフスカヤ通りの人道支援物資配布場所に向かう途中、路地から突然、ロシア兵が出てきて行き先を尋ねながら、自転車から降りるように命じました。彼らは両手を挙げて、「薬をもらいに行っている。」「民間人だから脅威はないし、武器は持っていない。」と答えたそうです。

夫のルスランはユーラを庇いながらやや前に出てロシア兵と話しました。しかし、ユーラが後ろにいることを確かめようと少し振り返った瞬間、ロシア兵が突然彼の夫の左胸を2発撃ち、弾丸は肋骨と肺を貫きました。夫は「ああっ」と言いながら、目を開けたまま歩道に顔を伏せてしまいました。そのロシア兵は続いて息子にも2発銃弾を浴びせました。1発の弾丸は腕を傷つけ、2発目は左手の親指をかすり、ユーラも倒れました。そのロシア兵は息子に近づき、5発目の弾丸を頭部に撃ち込みました。ユーラにとって幸運だったのは、倒れた際に服のフードが引っ張られて頭を隠した形になり、銃弾はフードの布だけを破って頭部に命中しなかったことです。そうでなければ、彼もそこで殺されていただろうと思います。6発目は、そのロシア兵が夫の後頭部に撃ち込みました。

ルスラン・ネチポレンコと息子たち、写真:ファミリーアーカイブ
ルスラン・ネチポレンコと息子たち、写真:ファミリーアーカイブ

ユーラはどうすればいいかわからず、横たわっていました。ロシア兵が立ち去るのを待って、頭を上げて立ち上がり、その場を走り去りました。当時、ユーラは森に逃げ込みましたが家には帰らず、私の勤める幼稚園に駆け込んできました。私の同僚やその子供たちのように、幼稚園には家を爆撃された人たちが隠れ住んでいました。とりあえず応急処置をして、鎮静剤を投与しました。ユーラが落ち着きを取り戻すまで待ち、家に連れて帰りました。

帰宅すると、ユーラは何があったかを話してくれました。私は恐る恐る、「パパは本当に死んでしまったの?怪我をしていて、助けが必要なのでは?」と問いかけました。気丈な息子ですがこの時はさすがに怖がっていて、「ママ、お願いだから行かないで。ロシア兵はとても邪悪で、ママも殺されてしまう。」と懇願し始めました。そこで息子には「行かない」と約束しました。それでも自分に何ができるのか、じっとしていられませんでした。ウクライナ警察に相談したところ、ウクライナ軍がブチャを奪還するまでは何もできないと言われました。

それでも夫の遺体をそのままにはしておけませんでした。近所の人の話では、ロシア軍は前日に新しい兵器を中庭に設置し、前触れもなく撃ってくるから、近づくのは危険とのことでした。しかし夫の遺体は道端ならまだしも、ロシア軍の戦車が行き交う道路に倒れていたので、轢かれないかと心配でなりませんでした。一方、ロシア軍が死体を移動したら、集団墓地に埋葬されかねません。 

そこで私は、ロシア軍になんとか遺体の引き取りを認めてもらおうと考えました。私は夫が射殺される前から、毎日午後2時に両親と電話で連絡をとりあい、全員の無事を知らせることを日課にしていました。悲劇の翌日、約束の時間に父から電話がかかってきて、私はすべてを話しました。すると母が私たちのアパートに来て、途中でタラソフスカヤ通り8Aにあるロシア司令部に行き、遺体の引き取り許可を求めたと伝えてきました。司令部には、19歳くらいのとても若い兵士がいたそうです。許可はおりたのですが、既に夜間外出禁止令が適用されるまで十分な時間がなかったので、遺体の回収は翌日の午前中に行うことにしました。

夫は体重90キロのスポーツマン体型で、私の体力では動かせません。幸い、近所の二人の青年が手伝ってくれることになりました。私たちは一輪車に旗のような白い布をつけた棒をくくりつけ、遠くからでも見えるようにしました。そして母が一人のロシア兵に夫の遺体までの付き添いを頼み込み、夫の遺体にたどり着くと、母が一輪車に合図を送り、私達皆で夫を乗せて連れ帰りました。

こうしてなんとか自宅で夫に別れを告げることができました。息子たちが中庭に穴を掘り、夫の遺体を敷物で包み、穴の底に下ろして土をかぶせました。このような結果になるとは、まったく想像もつきませんでした。

ルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブ
ルスラン・ネチポレンコ、写真:ファミリー・アーカイブ

ロシア兵はなぜ、あのような行動をとったのか、なぜ発砲したのか、ずっと考えています。何とも言えませんね。しかし夫が殺害された前日、ブチャのロシア軍がさらにキーウに進撃するためにイルピンで突破を試みて、装備に大きな損失を被り、多くのロシア兵が戦死していたことが関係あるかもしれません。彼らは攻撃的で、場所を変え始め、私たちの地域にも現れました。18歳から60歳までの徴兵年齢のウクライナ人男性は、ロシア兵にとって脅威となる可能性があるので、すべて射殺するようにとの命令があったことは、今では明らかになっています。

今のところ、ロシア側はすべてを否定し、民間人を殺したのはウクライナ軍だと主張しています。しかし、これには納得がいきません。そんなことはあり得ません。

私は人前に出るのが苦手で、演説をするのも好きではありませんが、このような行為を放置しておくわけにはいかないと理解しました。もしかしたら、このことが誰かに何かを警告するかもしれないし、まだ虐殺の真相に疑いを抱いている人々の目を開かせるかもしれません。私の状況はどうすることもできませんが、私が証言することで、何らかの助けになることはできると考えています。21世紀にもこのような残虐な事件があるのは、本当に事実です。(原文へ

INPS Japan

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太平洋の首脳らが気候危機への再注目を促す

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。

【Global Outlook=フォルカー・ベーゲ】

2022年9月の第77回国連総会において、太平洋の小さな島国(あるいは「大洋」の国々)の首脳らは、地球規模の気候危機への再注目を促した。これらの国々は気候危機の原因に殆ど関与していないにもかかわらず、その影響を最も受けるという事実に基づく倫理的権威を用いて、太平洋のリーダーたちは、もっと思い切った気候アクションを要求し、新しい提案や取り組みを提唱した。(原文へ 

第77回総会のハイレベル・ウィーク(9月20日~23日) の間、12の太平洋島嶼国および地域(PICs)の政府首脳らが総会で演説し、その全員が自国の直面する気候危機を最優先の問題としていた。最初に演説したのはマーシャル諸島のデイビッド・カブア大統領で、今年7月の太平洋諸島フォーラム(PIF)の宣言から「気候変動はブルーパシフィック地域に迫る唯一最大の存続上の脅威であり続けている」という文言を引用しつつ、PICsにとって「最大の課題であり脅威が気候変動である」と主張した。他のPICs首脳らもこの立場を繰り返し、主要先進国、特にアメリカと中国に対し意見の違いを脇に置いて気候危機に対処するため力を合わせるよう要請した。パプア・ニューギニアのジェームス・マラぺ首相は気候危機への対応を「人類の最優先事項とすべき」と述べた。

先週ニューヨークでPICs首脳らにより宣言された三つの主要な取り組みが際立っている。気候変動の人権への影響について国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見を求める取り組み、化石燃料不拡散条約の推進、 そして、PICsの遺産を保全する計画「Rising Nations Initiative」である。

このうち最初の二つの取り組みを主導しているのは、太平洋の小さな島国であるバヌアツ共和国だ。9月23日の国連総会演説において、同国のニケニケ・ヴロバラヴ大統領は、「基本的人権が侵害されており、我々は気候変動を気温やカーボン排出量の尺度ではなく人間の命の数で計り始めている。もう時間切れだ。いま行動が必要だ」と述べ、気候変動問題のICJへの提起の取り組みを紹介した。その計画は「気候変動の悪影響に対して現在および将来の世代が有する権利を守るための、既に存在する義務について国際法に基づくICJの勧告的意見を求める」というものだ。司法ルートを追求するというアイディアは、5年間で二つのカテゴリー5のサイクロン(パムおよびハロルド)がバヌアツを直撃した後、バヌアツの南太平洋大学で環境法を学ぶ学生らが考案した。学生らは外務省に働きかけ、2021年9月、バヌアツ政府はICJの勧告的意見を求める運動を始めると決定した。過去1年間、バヌアツはこうした運動の先頭に立ち、太平洋にとどまらない市民社会、さらには他の国連加盟国からの支持が高まった。2022年3月には、カリブ共同体の政府首脳らがこの案に賛同し、7月にはPIFがこれに続いた。9月までに、80を超える国々が支持を表明した。ICJが勧告的意見を発するには、国連加盟国の過半数(加盟193カ国のうち97カ国以上)の賛成が必要となる。

ヴロバラヴとこの取り組みの支持者たちは、「世界の最高裁判所が法的側面を明確にすることは、さらに大きな気候アクションに拍車をかけ、パリ協定を強化することに繋がると確信している」とする一方、「国連総会を通じてICJに気候変動問題を提起することは、気候アクションを加速させるための銀の弾丸(特効薬)ではなく、人類にとって安全な地球という最終目標に近づくための一つのツールに過ぎない」と認めてもいる。

バヌアツ大統領の見方では、化石燃料不拡散条約がもう一つのツールとなりうる。ヴロバラヴはその演説において、 「気温上昇を1.5℃に抑える目標に合わせて石炭、石油および天然ガスの生産を段階的に減らし、化石燃料に依存している全ての労働者、地域社会及び国家にとって公正な、地球規模の移行を可能にする」ためとして、そのような条約の策定を呼び掛けた。化石燃料不拡散条約を求める取り組みは、国際的な市民社会運動によって担われている。バヌアツが国連総会でおこなった提案は、国際外交のレベルでこの問題をめぐる協議のきっかけとなることが期待されている。そのような条約を求める提案は、既にロンドン、パリ、ロサンゼルスを含む世界の65を超える都市および地方レベルの行政機関の賛同を受けており、最近ではバチカンとWHOも支持を表明した

条約制定運動はまだ早期段階にあるが、バヌアツは、気候変動についてICJの勧告的意見を求める決議を国連総会で可決するにあたり、必要な数の加盟国の賛同の獲得に自信を見せており、予定では10月末に決議案を提起し、年末または2023年初めに採決に臨みたいとしている。

最後に、ツバルおよびマーシャル諸島の首脳ら(カウセア・ナタノ首相およびデイビッド・カブア大統領)が9月21日、国連総会に合わせて「Rising Nations Initiative」を立ち上げた。そのねらいは、気候変動の影響で存在そのものが脅かされている太平洋環礁諸国の主権、遺産および権利の保全のため、地球規模のパートナーシップを創設することである。喫緊の課題の中には、太平洋環礁諸国の文化および遺産のリビング・リポジトリを創設すること、それらがユネスコ世界遺産指定を受けること、および、環礁の各コミュニティの適応とレジリエンスを支援するプロジェクトの構築と資金調達のためのプログラムがある。同時に、ナタノとカブアは、温室ガスの主要な排出国である先進国に対し、もっと思い切った削減策を講じるよう要求した。

PICsの頼れるサポーターがアントニオ・グテーレス国連事務総長だ。国連総会の開会演説で、グテーレスは、グローバル・ノースの先進国が化石燃料企業の超過利潤に課税し、その資金を世界中で生活費(特に食料およびエネルギーにかかる費用)の高騰に苦しむ人々や、 「気候危機によって引き起こされる損失や損害を被っている国々」 に配分することを要求した。この対象にはもちろんPICsが含まれる。国連総会に合わせて9月23日にPIF首脳らと会合を持った際、グテーレスは、 「この危機をもたらすようなことを何もしていない人々が最も大きな代償を払わされている」と述べ、また、「我々はパリ協定の目標から道を外れつつある」との懸念をPICs首脳らと共有しているとして、全面的な支援を約束した。彼は、「化石燃料の段階的な廃止」と「今まさに起き、炎上している損失と損害の問題に対処する資金の増額」を要求した。会合の共同声明は、気候危機への対処に関してPIF首脳らと国連事務総長の見解が一致していることを示している。

世界の政治においてPICsの力は大きくなく、グローバルレベルで政策に影響を及ぼす選択肢は限られている。したがって、これらの国々が国連加盟国としての立場を活用し、気候危機に関連する窮状への注目を集めたことは、いっそう称賛に値する。先週、PICsは再度、国連という舞台を賢く用いた。総会におけるインターベンション(公式会議中の発言)で、今年後半にエジプトで開催されるCOP27に期待する内容を明確にしたのである。彼らは、硬質な議論の場を作り、自分たちは溺れるつもりはない、戦うのだと再度はっきりと示したのだ。(IDN

フォルカー・ベーゲは、戸田記念国際平和研究所の「気候変動と紛争」プログラムを担当する上級研究員である。ベーゲ博士は太平洋地域の平和構築とレジリエンス(回復力)について幅広く研究を行ってきた。彼の研究は、紛争後の平和構築、ハイブリッドな政治秩序と国家形成、非西洋型の紛争転換に向けたアプローチ、オセアニア地域における環境劣化と紛争に焦点を当てている。

INPS Japan

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【ニューヨークIDN=セルジオ・ドゥアルテ

「諸国が、国際連合憲章に従い、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならないこと並びに国際の平和及び安全の確立及び維持が世界の人的及び経済的資源の軍備のための転用を最も少なくして促進されなければならないことを想起して…」(NPT前文より)

ロシアによるウクライナ戦争が収束しない中、核不拡散条約(NPT)の締約国は、2026年のニューヨーク会議に向けた11回目の条約再検討サイクルに入ろうとしている。

UN Secretariat Building/ Katsuhiro Asagiri
UN Secretariat Building/ Katsuhiro Asagiri

今回の紛争に直接または間接的に関与するすべての国が条約の締約国であり、その一部は核兵器国、あるいは自国内に核の配備を認めている国々でもある。核兵器が遅かれ早かれこの戦争で使用されてしまうのではないかという国際社会の恐れが、無謀なレトリックによって再び高まっている。

こうした恐るべき見通しがあるなか、核不拡散・軍縮体制の健全性を保ち、国際の平和と安全を維持するために、NPTの起源や履行、目的に関連したある側面や、条約の再検討プロセスの重要性を想起しておくことが有益であろう。

1946年、核兵器廃絶のための具体的な提案を行うために設立された国連委員会は、米ソ両大国間の角逐と不信のために、その任務を果たすことができなかった。その後、国際社会の大部分は、核廃絶達成に向けた中間的な措置として、核保有国の数を抑えることが共通の関心事であるとの認識を強めていった。

核不拡散条約への支持は、そうした条約が核軍縮という共通の目標に向かって前進するものになるだろうとの期待とともに高まった。

こうして、無投票で1965年に採択された総会決議2028(XX)は、18カ国軍縮委員会(ENDC)に対して、そうした条約の協議を行い基本原則を定義するよう要求した。そうした原則の最初の3つのものは、以下のようになっていた。1)その条約にあっては、核兵器国・非核兵器国のいずれも、いかなる形においても核兵器の拡散を認めてはならない。2)核兵器国と非核兵器国との間で相互の義務を容認できる形でバランスよく定めねばならない。3)条約は核軍縮に向かう一歩とされねばならない。

1965年から68年の間に、ENDCは提出された条約草案をバラバラに協議し、のちには、米ソ代表の共同議長という形で審議を行った。68年5月、最終文言に対する全会一致の合意がみられない中で、共同議長は草案への修正を提案し、彼らの責任において草案を国連総会へ送った。

さらなる審議と修正ののち、国連総会は1968年6月12日、賛成95・反対4・棄権21でついに条約案を決議2373の形で採択し、条約を諸国の署名に開放した。それから数十年、NPTは核軍備管理の分野において最も締約国の多い条約となった。今日、非締約国はわずか4つしかない。しかし、条約成立52年を経てもなお、大きな意見の対立がみられる。これまでに開催された10回の再検討会議のうち6回は、最終文書に関するコンセンサスが得られないまま終了している。

NPTは明確に、他国が追随することを防ぐという核保有国の強い関心を反映している。その主要な条項では、1967年1月1日以前に核兵器を爆発させていない国が、いかなる手段によってもそのような装置や武器を取得することを禁止するように設計されており、その義務を検証するシステムを確立している。

条約のどこにも、核軍縮に対する明確なコミットメントを記した条項はない。第6条の下では、すべての締約国が「核軍備競争の早期の停止及び核軍備の縮小に関する効果的な措置につき、並びに厳重かつ効果的な国際管理の下における全面的かつ完全な軍備縮小に関する条約について、誠実に交渉を行うことを約束する」とされているのみである。

しかしそのような協議はまだ始まっていない。米国とロシアの2大核保有国は、数十年にわたり、核弾頭や発射台の数を大幅に削減した2国間条約(=新戦略兵器削減条約)をはじめ、核戦力の制限や削減に関する多くの協定を締結してきた。

この条約は2026年までは有効だが、その他の過去の条約はすべて失効するか、破棄されるかしてきた。フランスと英国は自らの核戦力の規模に自主的な制限を課している。これらの協定や決定はNPT自体との有機的な連関がなく、核兵器の廃絶を想定しているものでもない。

NPTの非核加盟国は、いずれも核兵器を保有していない。この規範を回避しようとしたとされるいくつかの試みは、外交的または軍事的圧力によって阻止された。一部の国は「潜在的核保有」の状態にあり、核能力を急速に構築することが可能だと見られているが、これは間違いなく大きな国際的危機を引き起こし、これらの国々にとっては好ましくない帰結を生み、核不拡散体制への信頼性が失われるか、場合によっては崩壊させる可能性もある。

NPT member states/LLPI
NPT member states/LLPI

1995年、NPT再検討・延長会議は条約の無期限延長を決定した。この決定は、2つの互いに交わらない国々の集団の間の分断を固着化させることになった。すなわち、NPTによって「核兵器国」と認められた国々と、国際社会のその他の国々との間の分断である。

これら5カ国は同時に国連安全保障理事会の常任理事国でもあり、その決定にあたって拒否権を発動することができる。核兵器を取得しているがNPTに加入していない4カ国は「事実上」の核保有国だとみなされている。NPT第9条3項に定められた時間的な制約によってはこの状況を変化させることはできない。いくつかの締約国の利益の間には対立があり、条約改正もままならないであろう。

NPT成立からの30年間で条約がほぼ普遍的なものになったことで「水平」拡散のリスク、つまり保有国数が増加するリスクは大幅に減少した。国際社会の大部分が核兵器を保有しない法的義務を受諾した理由としては、NPTに加盟することで得られる利点の他に、別の理由も指摘できる。

つまり多くの国は、核爆発装置とその運搬手段を維持するために必要な経済的・財政的・産業的・技術的資源がなく、安全保障上の理由を欠いているのである。核保有を検討するかもしれない中規模国家の場合は、自国の防衛と安全保障のニーズは他の手段で満たす方が良いと考えているようだ。

現在の世界情勢において、NPTの非核保有国が核武装することは、望ましくない危険な地域競争を引き起こすことは間違いない。しかし、一部の国では、独立した核戦力を求める動機と圧力が、世論の一部に依然としてみられる。

NPT第3条は、非核兵器国が受諾した義務によって、条約遵守を検証するための効果的なシステムに関する法的基礎が提供されている。第6条は、核軍縮に向けた可能な行動について言及するのみであり、特定の措置やスケジュールについても、ましてやその結果を達成すべき期限についても定めていない。核軍縮に関する明確な義務が存在しないことで、その方向に向けた多国間のコンセンサスを作り出すことがより難しくなっている。

核兵器国とその同盟国が強く主張した1995年の条約無期限延長に沿って、合意された原則や目標に基づいた条約再検討プロセスが強化され、進展がもたらされるのではないかと期待が高まった。これに沿って、2000年の再検討会議では「核不拡散・軍縮に向けた13の実践的な措置」などの重要な合意がなされた。

しかし、この期待は長続きしなかった。2005年の次の再検討サイクルでは、主要国間の関係が急激に悪化し、過去の公約が放棄されたり否定されたりする中で、さらなる建設的な決定を求める意欲は失われた。締約国は、わずか5年前に達成された理解を認識することにさえ合意することができなかった。

この時の会議は、会期のかなり遅い段階まで意味のある話し合いをすることができず、実質的な成果文書を生み出すことができなかった。その5年後の2010年の会議では、2回連続で失敗してはならないという決意に満ちた努力があり、ほとんどの関連事項について真摯な話しあいがなされた。幅広い関心を反映して、提案された行動のリストは長いものになったが、それをフォローする行動がなかった。

The Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, signed 20 September 2017 by 50 United Nations member states. Credit: UN Photo / Paulo Filgueiras
The Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, signed 20 September 2017 by 50 United Nations member states. Credit: UN Photo / Paulo Filgueiras

最も重要な成果は、最終文書が核爆発の「壊滅的な帰結」について認識したことであろう。これが2017年の核兵器禁止(核禁)条約の交渉・採択の基礎となった。核兵器国とその同盟国からの激しい反対にも関わらず、核禁条約は2021年に発効した。その意義と波及力は疑うべくもなく、加盟国の増加は、国際社会が核兵器を拒絶している事実を表している。

1995年以前に開催された、いくつかの再検討会議が失敗したのは、フォローアップ措置に合意できなかったことが大きな原因であるが、この年以降、再検討会議の帰趨は、条約の欠陥(特に核不拡散と軍縮の約束の間の内蔵の不均衡)よりも核保有国間の関係に大きく左右されていたようである。

50年以上に及ぶNPTの歴史の中で、締約国はこの制度に一貫した忠誠を誓い、その枠組みの下で協力し続ける意思を示してきたと認識するのが公正であろう。この関連で、2015年と2022年の会議の際に議長が提示していた最終文書案の文言に対しては、過去の合意に比べれば後退していると認識されつつも、圧倒的大多数の国々が支持を与えていたという事実を想起することができよう。核兵器国がいずれの場合にあっても反対を唱えて、全会一致での文書採択には至らなかった。明らかに、これらの反対論は、条約の再検討そのものに対してというよりも、それぞれの国の地政学的な現実と関連した特定の利益に関係したものであった。

ウクライナでの戦争は2026年再検討会議の準備に明らかにマイナスの影響を及ぼすだろう。現時点では、あと数か月で戦争が終わるとは考えにくい。NPTの行く末を政治的現実全体から切り離すことなど土台不可能だが、条約再検討プロセスと条約の権威そのものを戦争の犠牲とすることはあってはならないだろう。現在の核不拡散・軍縮体制の欠陥に対処しそれを改善するための熱心な取り組みが、次の再検討サイクルには含まれてくることだろう。

Sergio duarte
Sergio duarte

遅かれ早かれ、いや、願わくはできるだけ早く、この無意味で破滅的な紛争が終わりを迎えてほしい。もし我々が幸運ならば、この戦争の帰結は、交戦当事国のみならず人類文明の大半を巻き込む相互確証破壊(=核戦争)で終わるのではなく、合理的かつ包摂的、公正で生産的な国際社会を再編成し、多国間協定への信頼を回復するための新たな機会を提供するものとなるだろう。

新しく、より公正で包摂的な安全保障のパラダイムを構築するためには、すべての当事者が自己中心的な態度を抑え、効果的で永続的な国際安全保障の仕組みは核兵器の存在とは相容れないことを明確に認識することが必要だ。すべての国家が安心感を得るまでは、どの国家も安心とは言えないだろう。(原文へ

※著者のセルジオ・ドゥアルテは、元国連軍縮問題上級代表で、現在は「科学と世界情勢に関するパグウォッシュ会議」議長。

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【カエン・マクルード(タイ)IDN=パッタマ・ビライラート】

種なくしては世界の人びとを食べさせるのに十分な食料安全保障は望めないという信念の下、タイの「希望の種子」(SOH)プロジェクトが、地域に自活的な農法を身につけさせ、収奪的な農業ビジネスから身を守ることを目指している。

タイ北部の低地ウタイターニー県カエン・マクルード村の住民のほとんどがポー・カレン民族であり、彼らの文化や伝統は種子と密接に結びついている。

Map of Thailand
Map of Thailand

この地域の習俗に詳しいワノブ・コルスクさんは、「私たちの食料は種に由来しており、地域の様々な儀式で、客人や村の長老たちに種が提供されます。例えば、炊いた米に豆やゴマと混ぜた伝統料理『ミーシ』が、結婚式などの儀式に出席する客人らに振舞われます。また、重要な儀式として、種をお供え物として僧に捧げるのです。」と語った。

地元の僧に種を捧げるという行為はタイの仏教文化に根差したものであり、僧侶はお経を唱え祈りを捧げたのちに、供物の種を村人たちに配布している。「そうすることで、村人たちは様々な種を手にして、土地に蒔くことができるのです。」と、コルスクさんは語った。

種と地域社会のつながりを維持するために、コルクスさんは現代の農業技術が種子の絶滅につながることを深く憂慮している。

遺伝子組み換え作物(GMO)のような不自然な品種を開発し、世界の食糧を掌握しようとする巨大企業があるため、村人が種をまく場合、企業から買わなければならず、純粋な品種を育てる機会がなくなっていることは知っています。たしかにこうした企業が提供する品種は、成長が早く、繁殖力が強く、見た目も良い果物が収穫できます。そのため、農家は常に購入者の立場に立たされることになるのです。」とコルスクさんは指摘した。

「その結果、自然界の植生が急速に失われています。私も以前は企業から種を購入し、タピオカのみを植えていたのですが、2016年になって土地が干上がってしまい、作物が植えられなくなったのです。どうしたら家族を食べさせることができるか途方にくれました。」とコルスクさんはIDNの取材に対して語った。

Bhumibol on agricultural practice in Chitralada Royal Villa/ By The National Archives of Thailand - The National Archives of Thailand, Public Domain
Bhumibol on agricultural practice in Chitralada Royal Villa/ By The National Archives of Thailand – The National Archives of Thailand, Public Domain

そんな時、あるテレビ番組で自活的で持続可能な農業について知った。前国王のプーミポン・アドゥンヤデート(ラーマ9世)が始めた取り組みであった。「当時の私は、自分の農業のやり方を持続可能なものにしようと必死でした。偶然、私の住む地域にあるロイヤル・イニシアチブ・ディスカバリー財団のスタッフに、自分の考えと窮状について話す機会があり、彼は私の状況を理解し、私の思っていることを実現する手立てを与えてくれたのです。」

自活的な農業について教育する「プンプン・センター」は、この地球上で1日あたり少なくとも20種の作物が失われていると推定している。かつて世界には約2万種近い米があったが、現在では200種にも満たない。同センターによると、種子の消滅は、人間にとっても動物にとっても食料の安全保障を失うことになるという。

IDNは「知識管理財団」(KMF)のハタイラート・プアングチョエイ代表に取材をし、自活的で持続可能な農業の理論をどう実践していったらよいかについて聞いた。

「国王が提示した原則を取り込んで農村の発展を加速・拡大させていくことが私たちの使命です。」とプアングチョエイ代表は語った。同財団はタイ全土の地域社会や自治体、学術組織と協力してプロジェクトを実践している。

「かつてカエン・マクルード村はファイ・カーエン野生保護区の緩衝地帯としても機能していたため、村人達は保護区を侵食していたのです。この村にスタッフを常駐させ、代替の仕事を作っていますが、それは、この土地に灌漑システムがうまく機能するようになってからでしょう。」

KMFは、コルスクさんが持続可能で自立した農業を実現するために、手を貸すことを惜しまなかった。他の村人たちとともに、アグリネイチャー・ファウンデーションが運営するコースに参加させたのだ。「交通費、宿泊費、食費は財団が負担しました。そしてコース終了後、コルスクさんはすぐに持続可能な農業を始め、最初にやったことは、財団のネットワークの支援で自分の土地に水路を作ることでした。」とプアングチョエイ代表は語った。

彼女は、「KMFが支援してきた持続可能な開発手法は、コロナ禍のような苦難の時代にも役立っています。このコンセプトのもとで栽培された農作物は、地元の人々の80%を養うことができたのです。」と語った。

「ロックダウンが発表されていた時期、私の畑には十分な数のザボンがありました。それで、村の内外の人に、私の畑に来て果物を好きに持って行ってくれていいと言いました。コロナ患者を世話する看護師たちへの感謝を込めて、果物を配ったこともありました。」と、コルスクさんはIDNの取材に対して語った。

プアングチョエイ代表はさらに、財団には、村が自活していくために3点のプログラムを実施していると説明した。つまり第一に、自らの家族をその作物によって食べさせること、第二に、地元の住民らがお互いに助け合うこと、第三に地元のネットワークが外部組織と協力して収入を増やしていくことである。

カエン・マクルード村は現在、「ロイ・プン・ルクサ地域公社」という種子を生産する企業を2019年に設立するなどプロジェクトの第三段階に入っている。「コミュニティのメンバーが種子保存に熱心であることに気づいたので、2017年にチェンマイで種子保存コースを受講してもらいました。それから村人らは自ら種を生産し、新たな植生について学び、カエン・マクルード村で100種類以上の種子を発見しました。」とプアングチョエイ代表は語った。

カエン・マクルード村が食料不足解消のためにいかに種を発見していったかについて、「ロイ・プン・ルクサ地域公社」(RPRCE)のディレク・スリスワン会長がIDNの取材に答えた。

「私はカエン・マクルード村のカレン族の学校の校長をしていましたが、村人が野菜や果物の種を買ってきて植えているのを見て、長期的には業者に頼らざるを得なくなると考え、学校の土地で土着の野菜を栽培することを教え始めました。『足るを知る経済』のアプローチと持続可能な農業の知識を教え込みました。」とスリスワン会長は語った。

のちに村人たちは村の公社に加わって、他県の村へとネットワークを拡大し種の確保や作物生産の知識を蓄えていった。

Image: (left) Direk Srisuwan, the chairman of the Roy Pun Ruksa Community Enterprise (RPRCE) and (right) Wannob Korsuk, Community Wisdom leader
Image: (left) Direk Srisuwan, the chairman of the Roy Pun Ruksa Community Enterprise (RPRCE) and (right) Wannob Korsuk, Community Wisdom leader

RPRCEを設立してから、「私たちは、ハーブもしくは野菜のような新たな作物を調べるための経済的な支援をしてくれる『生物多様性基盤経済開発局』とつながりを持ちました。私たちの目的は、地域とネットワーク内での食料不足を解消することだけではなく、農民やその他の地域、外部機関の間で地元の種の保存に関する知識を拡散し経験の交流を図ることでした。」とスリスワン会長は説明した。

「希望の種」は1月21・22両日に自分たちの活動を説明するイベントを開催した。スリスワン会長によると200人以上が参加したという。

カエン・マクルード村から35キロ離れたナコーン・サワン県からの参加者、ユラさんはIDNの取材に対して、「初めて来たのですが、『アグリネイチャー』の活動にとても感動しました。人々が協力し合って働いていること、土地や種子を保存する方法がとても多様であることを知りました。こういうやり方はこれまでに見たことがなく素晴らしいと思います。このコミュニティは小さいですが、『希望の種』はとてもうまく運営されていて、連帯感があります。」と語った。

「多様な種を見たいと思ってここに来たのですが、期待以上でした。またここに来て、次はオーガナイザーとして参加したいと思います。このイベントで学んだことを私やその近隣の地域の人々に紹介します。ナコーン・サワン県でも協力して物事を進めてはいますが、これほど固い連帯はありません。」とユラさんは語った。

もう一人の参加者、マミューさんは、「まさか『希望の種』にこれほど多くの参加者が集まるとは思っていませんでした。カエン・マクルート村のコミュニティの団結力が、このイベントの推進に役立っているのだと思います。新しい世代には、私たちの文化を守り、伝え、身近な価値観を知ってほしい。これらは、彼らが自立するために必要な要素なのです。」

SDGs Goal No. 12
SDGs Goal No. 12

プアングチョエイ代表は、彼女らの活動は「社会的実験」であると考えており、世界の潮流の変化や、気候変動による天候の変化が伝統的な栽培に影響を与えつつある中で、伝統的な農法が変化する可能性を自覚している。

「しかし、種を変異させることなく、遺伝子組み換え作物に頼らずに生産性を上げる方法を模索しなければなりません。」と、彼女は決然とした表情で指摘した。「成功が他者にとっての学びの源泉となるようなものとして、この場所を使っていきたい。だから私たちはこれを『社会的実験』と呼んでいるのです。」(原文へ

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プーチンの新START “中断 “の決断は危険

【トロントIDN=J.C.スレッシュ】

軍備管理協会(ACA)は、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が、米ロ間に唯一残る軍備管理・軍縮条約2010年新戦略兵器削減条約(新 START)の履行を停止する決定を下したことを強く批判した。

Daryl Kimball/ photo by Katsuhiro Asagiri
Daryl Kimball/ photo by Katsuhiro Asagiri

ダリル・G・キンボールACA事務局長は声明の中で、1年前のプーチン大統領による「年次教書演説」での発言について、「ロシアの違法なウクライナ侵攻を正当化しようとするとりとめのない試みだ。」と語った。

「プーチン大統領の発言は、ロシアが新STARTの立ち入り査察の再開に向けた協議に参加せず、条約の二国間協議委員会の会合にも参加せず、条約で求められている戦略核の備蓄に関するデータの共有もしないことを示唆している。」

キンボール事務局長は、「これらの行動は、新STARTの規約に大きく違反するもので許されない。他のロシア高官は以前、ロシアは条約で定められた主要制限値(配備済戦略核弾頭1550個と配備済み戦略運搬車700台)の下で維持すると述べていた。」と指摘した。

「今回の発表は、2026年2月5日に期限切れとなる新STARTの終了を意味するものではないが、新STARTの期限終了後、1972年以来初めて米ロの戦略核兵器を制限する合意がなくなる可能性がはるかに高くなった。」とキンボール事務局長は警告した。

実際、プーチン大統領による新STARTの「中断」は、ロシア自身の安全保障上の利益を損なっている。「条約条項の完全履行がなければ、ロシアは米国の戦略核兵器に関する見識や情報が得られなくなる。」

キンポール事務局長はさらに、「新STARTの中断は、核保有国に対して「早期の核軍拡競争の停止と核軍縮に関する効果的な措置について誠実に交渉を進める」ことを求めている1968年の核不拡散条約(NPT)の締約国としてのロシアの義務を損なうものである……。」と語った。

声明は以下のとおり続く:

President Biden speaks with the media at the conclusion of the U.S-Russia Summit in Geneva, June 2021. Image: U.S. Embassy Bern Switzerland / Flickr, Creative Commons
President Biden speaks with the media at the conclusion of the U.S-Russia Summit in Geneva, June 2021. Image: U.S. Embassy Bern Switzerland / Flickr, Creative Commons

「これに対し、ジョー・バイデン米大統領は、新STARTに代わる新たな核軍縮枠組みをロシアと迅速に交渉する用意があるが、ロシアはまず新STARTの査察を再開するために誠実に努力しなければならないと明言している。これは十分すぎるほど合理的な要求である。」

「もし新STARTが後継の取り決めなしに2026年に失効すれば、米露両国はそれぞれ、配備済みの戦略核弾頭の数を短期間のうちに倍増させるだろう。このような行動は、誰も勝つことのできない軍拡競争を生み出し、誰にとっても核兵器の危険性を増大させることになる。」

「我々は、バイデン政権が2月21日の発表した、米国が『世界や米露関係で起こっている他の出来事とは無関係に、いつでもロシアと戦略的軍備制限について話し合う用意がある。』とした発表を強く支持する。」

「我々はロシアに対し、新STARTの遵守を確認するための現地査察の義務を遵守し、米国とさらなる核軍縮外交を行うよう改めて要請する。」

ICAN
ICAN

「我々はまた、NPTのすべての締約国に対し、ロシアによるウクライナ戦争に対する立場に関わらず、新STARTを遵守し、米露2大核兵器保有国の間で新たな、理想的にはより低い制限値の交渉に合意することで核軍縮の責任を果たすよう、ロシアに働きかけるよう要請する。」(原文へ

INPS Japan

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ブラックリストに載ったシリアが被災を機にカムバックを果たす

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【国連IDN=タリフ・ディーン】

人権侵害、戦争犯罪、化学兵器の使用で告発されたシリアのバシャール・アル・アサド大統領は、国連総会で演説したことも、国連に足を踏み入れたこともない権威主義的な中東の指導者の一人である。

12年にわたる内戦で国民を残虐に弾圧してきたことで、米国や西側諸国からブラックリストに載せられたアサド大統領は、国連を軽視していたか、或いは本国を離れたら政権を追われることを恐れてシリアに留まったのだろう。

A poster of Syria's president at a checkpoint on the outskirts of Damascus, Jan. 14 2012./By Elizabeth Arrott - A View of Syria, Under Government Crackdown. VOA News photo gallery, Public Domain
A poster of Syria’s president at a checkpoint on the outskirts of Damascus, Jan. 14 2012./By Elizabeth Arrott – A View of Syria, Under Government Crackdown. VOA News photo gallery, Public Domain

2月6日の地震では、主に反政府勢力が支配するシリア北西部で、数千人のシリア人が死傷したと伝えられている。

皮肉なことに、この地震はアサド大統領にとって不幸中の幸いだった。彼は、サウジアラビアやアラブ首長国連邦(UAE)など、かつてシリアに対して非友好的だった国々から数百万ドルの財政・人道支援を受けているのである。

アラブ諸国では、UAEが約1億ドルを寄付したとされ、また、シリアを22カ国からなるアラブ連盟(現在21カ国)に復帰させようという動きも報じられている。

ロイターの報道によると、サウジアラビアのファイサル・ビン・ファルハン外相は、先日のミュンヘン安全保障会議で、アラブ諸国ではシリアを孤立させても効果がなく、少なくとも難民の帰還を含む人道問題に取り組むために「ある時点で」シリア政府との対話が必要だというコンセンサスが形成されている、と述べたという。

2月17日付のニューヨークタイムズの記事の見出し「シリアの地震は、のけ者国家が再び世界の舞台に這い戻る助けとなった。」は、的を射ていた。

U.N. spokesperson Stephane Dujarric/ UN Photo
U.N. spokesperson Stephane Dujarric/ UN Photo

2月22日、記者会見したステファンドゥジャリク国連報道官は、「17台のトラックが、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)、WFP(世界食糧計画)、WHO(世界保健機関)が提供する援助物資を積んでバブ・アルハワとバブ・アル・サラームの国境検問所を通過した。」と語った。

2月9日以降、合計282台の国連トラックが3つの国境検問所を通過してシリア入りした。

「同僚によると、今回の地震で特に大きな被害を受けたのは保健セクターで、シリア北西部だけで47の保健施設が被害を受けたと報告されている。12の医療施設は業務を停止し、18は部分的にしか機能していない。」とデュジャリック報道官は語った。

国連とパートナー(主に人道支援団体)は、トルコからシリア北西部への国境を越えた支援活動の規模を拡大している。

現在、シリアでは、55名の国際要員と810名の国内要員が活動している。

先週、国際移住機関(IOM)からのシェルターなどを積んだトラック10台が、アルラエ国境検問所を通過してアレッポ北部に入った。

デュジャリック報道官は、「シリア政府が援助物資の輸送にこの国境検問所を利用することに合意して以来、国連輸送チームがここを通過したのは初めてであり、これで国連が全面的に利用している国境検問所は3カ所になった。」と語った。

国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)、国連開発計画(UNDP)、国際連合人間居住計画は、建物の構造的被害状況を評価するための支援を行っている。これらの評価は、被災者が安全に自宅に帰宅できるかどうかの判断材料になっている。

デュジャリック報道官は、「より広範な地震対応に資金が不可欠であることに変わりはない。」と語った。2月20日現在、シリア・フラッシュ・アピールは、3億2910万ドルの計画に対して6850万ドルを受け取り、17%の資金を調達している。

米国国務省のファクトシートによると、2月6日にトルコ南東部とシリア北部を襲った地震は、数百万人の人々に壊滅的な打撃を与えたという。

最初の地震から数時間以内に、米国はジョー・バイデン大統領の指示のもと、連邦政府機関やパートナーを迅速に動員し、NATO同盟国のトルコやシリアのパートナー組織と緊密に連携して、緊急救命支援を提供した。

バイデン大統領は、「トルコとシリアで発生した未曾有の大地震に対応するため」、緊急難民移住支援基金(ERMA)に5000万ドルを承認する意向である。

さらに、米国は国務省とUSAIDを通じて5,000万ドルの人道支援を行っている。これにより、トルコとシリアの地震対応を支援するための米国の人道支援総額は、現在までに1億8500万ドルに達している。

米国は、「シリアのすべての被災地に対する人道的アクセスを拡大することにコミットしており、国連がバブ・アル・サラマ国境検問所へのアクセスを再開し、援助がシリア北西部に届くように計らったトルコ政府に感謝している。また、トルコとシリアの被災地に支援が届くよう、より多くの国境検問所を持続的に開放するよう働きかけている国連の取り組みを支持している。」としている。

© UNOCHA/Madevi Sun Suon UN agencies are transporting earthquake relief items from Türkiye to northwestern Syria.
© UNOCHA/Madevi Sun Suon UN agencies are transporting earthquake relief items from Türkiye to northwestern Syria.

米国財務省は、米国による制裁がシリアにおける人道支援の提供を妨げたり抑制したりしないことを強調するために、現行の制裁を回避してシリアの人々への災害救援支援のための追加的な権限を提供する広範な許可書を発行している。(原文へ

INPS Japan

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北朝鮮の核:抑止と認知を超えて

この記事は、戸田記念国際平和研究所が配信したもので、同研究所の許可を得て転載しています。

【Global Outlook=チャンイン・ムーン】

ある専門家が評したように、北朝鮮に関する進展は、我々が北朝鮮の視点で物事を見てはじめて分かる。

朝鮮半島情勢は危うさを増している。北朝鮮のリーダー金正恩(キム・ジョンウン)は、9月8日の最高人民会議における演説で核政策について詳しく定める法律の成立を宣言した際、同法を「注目すべき出来事」であり「歴史的大義」であると説明した。(原文へ 

「核兵器は我が国の尊厳と名誉を表しており、我が共和国の絶対的な力、および、朝鮮人民の大いなる誇りの源を意味する」とキムは続け、北の核保有国としての地位は撤回不能だということに疑問の余地はなかった。

「我が国の核兵器の放棄または非核化が先に来るなどということは絶対になく、また、それを目的とした交渉やその過程における取引材料もありえない」と彼は付け加えた。

新たに成立したこの法律は、これまで曖昧にされてきた詳細な事項に触れている。北朝鮮の核兵器の役割、核兵器の構成、指揮統制の構造、使用を決定するプロセス、使用の背景となる原則、使用の条件、核兵器の安全維持、管理および保護の手段、量的/質的な性能向上、そして、拡散抑止方法である。

要するに、これは国内外の聴衆に向けて、北朝鮮が自身を責任ある核保有国として提示する試みなのだ。最も悩ましい部分は、北が報復としての核兵器使用に限定していた過去の抑止戦略を超えて、核兵器の先制使用と戦術核兵器の配備を公式に認める攻撃的なドクトリンを採用したことだ。

韓国政府の反応は、北に対する核抑止力の強化に集中したものとなっている。

「強力な韓米同盟に基づく、拡大抑止の強化に答えを見いだしたい」 と韓国の尹(ユン)大統領は9月18日、「ニューヨークタイムズ」紙に語った。「拡大抑止には、アメリカの領土に配備された核兵器の使用のみならず、北朝鮮の核による挑発を抑止するために採りうるあらゆる包括的な手段も含まれる」

韓国とアメリカは、次官レベルの外交官および防衛官僚の対話チャネルである「拡大抑止戦略協議体」を通じて、ユンの北朝鮮に対する抑止計画を具体化してきた。この2カ国は、北朝鮮による核の脅し、核兵器使用の差し迫った段階、そして実際の核兵器使用の三つの段階における軍事的対応を探るため、拡大抑止の机上訓練を行うと発表した。

しかし、北朝鮮に反応してさらに抑止力を強化するというこの戦略は、平壌がその核戦力またはドクトリンをさらに強固なものにさせる恐れがある。これは、安全保障のジレンマとして知られる悪循環の典型的な事例である。

そのため、ユン政権は、北に対する拡大抑止を強調しながらも、同時に、「北朝鮮が非核化を選択するなら、明るい経済の未来が待っている」ことを約束する「大胆な構想」という形で、北朝鮮に対話を求めるメッセージを送った。

しかし、平壌はユンの計画を「大胆な妄想」だとして退け、韓国との対話を拒否した。

韓国政府は、北朝鮮の非核化を譲れない目標とし、北の核兵器に先制使用の可能性があれば、反撃だけでなく予防的攻撃も行う基本ドクトリンを採用し、いかなる状況下でも北朝鮮と核兵器削減協議を行わないとの原則を強調してきた。それに鑑みれば、対話が外交交渉の扉を開くとは考えにくい。

欧州議会のオランダ選出議員であるミヒール・ホーヘフェーンは、9月19日、延世大学北朝鮮研究所における講演で、韓国政府の立場と対照的な考えを提唱した。ホーヘフェーンは、北朝鮮は既に核施設、材料、弾頭およびミサイルを保有しているだけでなく、 6回の核試験を実施し、その核装置をより小さく、軽量で、多様なものとすることでその核戦力を大いに拡大してきたと述べ、北朝鮮は事実上の核保有国だ、と結論付けた。

このオランダの議員は、これらのことを考慮せずに完全かつ後戻り不能な非核化を外交交渉の直接の目標とすることは非現実的だ、と主張した。さらに、北朝鮮は、アメリカの核の傘の下にいる韓国からのそのような要求を受け入れることは決してないだろう、という。

したがって、現段階での最善策は、北朝鮮との平和的共存の道を探ることだ、とホーヘフェーンは述べた。それには、北朝鮮への制裁に対する柔軟さと、緊張緩和および信頼醸成のための熱心な努力が必要となるであろう。

これは果たして、答えとなりうるだろうか?

もし、ユン政権が絶対的に非核化に固執し、かつ、拡大抑止の強化を支持する方針が、この問題に対する根本的な解決を追求するうえであまり役に立たないなら、ホーヘフェーンが提唱する、北朝鮮を核保有国として認知し、核武装した平壌との平和的共存を追求することは、韓国にとって辛い事実となるだろう。

まさに、韓国の国民感情を踏まえれば、そのような一歩は想像しがたい。

非核化のナラティブ、あるいは、現状維持を受容するというナラティブのいずれも、実行可能な選択肢とは思われない。それが問題だ。

「我々は北朝鮮の核問題を取り上げるのをやめて、朝鮮半島における平和的共存のみについて話すべきだ」と、元・韓国国家情報院長である李鍾贊(イ・ジョンチャン)氏は、韓国のニュース雑誌「時事ジャーナル」の最近のインタビューで述べた。「北朝鮮に関して進展をもたらす唯一の方法は、北朝鮮の視点で物事を見ることだ。もう韓国はアメリカ、中国の両国に対し、自国の考えを述べる時だ」

イ氏の見解は、以下のように要約することができる。第1に、彼は、北朝鮮の核兵器を直ちに排除して初めて平和が訪れると考えるよりも、平和構築を進めながら非核化の呼び水を入れることが可能だと考えている。第2に、彼は戦略的共感、すなわち我々が北朝鮮にこうあってほしいということよりも、北朝鮮の条件に基づいてその意図を理解することを呼び掛けている。第3に、彼は、韓国はアメリカや中国に盲目的に追随するよりも、寛容な解決策を見いだすための創造的な取り組みを採用してほしい、と考えている。

この経験豊富なベテランによる、常識、理性そして経験的伝統の原則に根差した解決策を求める洞察に満ちた主張は、以前にも増して大きく響くものがある。

チャンイン・ムーン(文正仁)は、世宗研究所理事長。戸田記念国際平和研究所の国際研究諮問委員会メンバーでもある。

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非同盟運動は生まれ変わろうとしているのか?

【国連IDN=タリフ・ディーン

1960年代と70年代、116の加盟国からなる非同盟運動(NAM:61年に旧ユーゴスラヴィアのベオグラードで設立)は、当初ユーゴスラビア、インド、エジプト、ガーナ、インドネシア、ザンビア、アルジェリア、キューバ、スリランカといった国々によって導かれた最大かつ最強の政治連合(現在の加盟国は120か国)であった。

「非同盟」という概念が国連で政治的に支持されるようになったのは、89年頃まで続いた冷戦の最盛期である。

Gamal Abdel Naser, Džavaharlal Nehru i Josip Broz Tito na Brionima/ By Tanja Kragujević - Stevan Kragujević, CC BY-SA 4.0
Gamal Abdel Naser, Džavaharlal Nehru i Josip Broz Tito na Brionima/ By Tanja Kragujević – Stevan Kragujević, CC BY-SA 4.0

78年2月にNAMの議長に就任したスリランカのジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ大統領(JRJ)は、冷戦を続ける米ソ両国のどちらとも強く与せず、政治的に独立しているとされるNAMに懐疑的であった。

米国の報道記者とのインタビューで、ジャヤワルダナ大統領は「非同盟」についての政治的な神話を格下げし、世界に「非同盟国」は米国とソ連の2カ国だけであり、「他のすべての国々は、恐らく懸命にも、政治的、経済的に米国かソ連と連携している。」と断言して、物議を醸した。

そして今、米国に次ぐ世界第二の経済大国となった第三の国、中華人民共和国が新たな超大国として台頭してきた。

特にアジアとアフリカのいくつかのNAM加盟諸国は、中国からの経済・軍事援助に大きく依存し、政治的に中国に同調しているため、中国の台頭は非同盟の概念を損なう恐れがある。

この新たな展開は、次のような問いを引き起こす。特に、国連で新たな冷戦が勃発し、拒否権を持つ常任理事国である中国とロシアが対米、英、仏で足並みを揃えている時、NAMはまだ生きているのか、それとも生まれ変わろうと努力しているのか、といった疑問が生じるのだ。

この分裂は、シリア、ミャンマー、アフガニスタン、イエメン、そして最近ではウクライナなどにおける軍事紛争や内戦を巡る行き詰まりをもたらし、国連加盟国を政治的に分裂させることにもなっている。

欧州連合(EU)のピーター・スタノ報道官は2月17日、最大の貿易相手国で1998年にNAMの議長国だった南アフリカ共和国が、非同盟の立場からさらに遠ざかり、急速にロシアとの政治・軍事同盟に傾斜していると指摘されている点を引用した。

しかし、南アフリカ当局者はこれを否定し、非同盟運動の原則に則り、現在も公式に「非同盟」であると主張している、と『ニューヨーク・タイムズ』紙は報じている。

Hewa Matara Gamage Siripala PALIHAKKARA/ APLN

元スリランカ国連大使のH.M.G.S. パリハッカラ氏は、IDNの取材に対して「私の知る限り、どの政府も昔の非同盟諸国の『運動』を復活させようとはしてはいません。しかし、非同盟の 『理念』と、インド太平洋に迫り来る対立/冷戦に対処するための改革については、よく議論されています。」と語った。

また、「非同盟運動(NAM)の『制度』と非同盟の『理念』を混同する傾向もあります。これは非同盟運動というダイナミックな概念に対してあまりにも単純な態度です。NAMという運動や制度は、冷戦の終結とともに内部の惰性で消えていきましたが、非同盟という考え方は生き続け、新興国が人間・領土の安全や経済的繁栄を追求する空間をダイナミックに作り出しました。」と指摘した。

「このような国々は、経済的な利益を『全方位』から得たいがために、ある勢力争いの『間違った側』にいるという認識から生じる不利益や制裁を受けることはできないし、受ける必要もありません。非同盟とは、距離を置いたりおとなしくしていたりする外交ではなく、むしろ積極的に関与する強固な外交を指す言葉です。」

スリランカ外務省の元外務次官であるパリハッカラ氏は、「この考え方の有用性は、『インド太平洋』での紛争につながりかねない、既に進行中の勢力争いと迫り来る対立の文脈において、より鮮明になるだろう。」と述べ、「アジアがこれまでに築いた豊かな繁栄が損なわれ、大陸が感じ始めている安全の欠如が深刻化する可能性があります。」と指摘した。

インド・アジア・ニュース・サービスの国連特派員で、ニューデリーに拠点を置くシンクタンク、政策研究協会の非駐在シニアフェローであるアルル・ルイス氏は、IDNの取材に対し、「インドは負債や低成長といった問題について話しているが、これは開発途上国の相当数の国々に影響を与えている課題です。しかしインドは負債の問題に直面していないし、先月の国連の発表では経済成長は6.7%、IMFでは6.1%と主要経済国の中で高成長を記録しています。」と語った。

「インドはこうして、開発途上国の間で自らの指導的立場を強化するために、これらの問題を強調しているのです。このことは、『グローバルサウスの声』構想において、自国の利益を代弁しているようには見えないので、一定の信頼性を与えることになります。」

ルイス氏はまた、「NAMは、キューバなどの国が主導的な役割を果たし、ロシアに偏った政治的なものになる傾向があります。」と指摘した。

最近では、2019年までベネズエラがNAMの議長国を務め、16年にサミットを主催したが、政府首脳や国家レベルの参加はあまり得られなかった。

ルイス氏は、「冷戦の終焉とともに、一極集中の世界では非同盟は意味を失ってしまいました。現在、議長国アゼルバイジャンの指導の下、非同盟運動は復活を目指す途上にありますが、12月にはウガンダがこれを試みる番であり、それは経済や開発の利益に基づくものになるでしょう。ここでもまた、旧来の極論が通用する可能性は低く、特に先進国自身が経済的なストレスに直面している現在では、非同盟運動の復活や極めて困難だろう。」と語った。

NAM創設国の一つであるインドは、「グローバルサウスの声」モデルを通じて、経済、健康、その他の開発問題に焦点を当てつつ、先進国に構造的問題の解決を期待するのと同様に、グローバルサウスの国々が協力して解決策を見出すことに重点を置いた取り組みを進めています。」とルイス氏は語った。

G77 plus China
G77 plus China

1960年代から70年代にかけては、総会決議で116カ国が一斉に投票することは、ほとんどなかった。

イスラム協力機構(OIC)、77か国グループ(G-77)、中南米・カリブ海諸国、アフリカ連合(AU)、西欧諸国など、様々な地域グループや連合は、ほとんどの場合、投票に先立って非公開で意思決定を行っている。

しかし、国連のほとんどの投票において「群集心理」が働いているとはいえ、予定外の投票が代表団を驚かせることは稀にある。

あるスリランカ大使は、本省から送信された、主に新たに着任した代表団に向けたメッセージについてこう語った。「もし予定外の採決に直面し、外務省からの指示がない場合は、右を見てユーゴスラビアの採決状況を確認し、左を見てインドの採決状況を確認しなさい。もし両大使が席を立つのが見えたら、トイレまでついていけばいい。」(「席を立つ」のは、厄介な記録投票から逃れるための政治的戦術である)

Panorama of the United Nations General Assembly, Oct 2012" by Spiff - Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikipedia
Panorama of the United Nations General Assembly, Oct 2012″ by Spiff – Own work. Licensed under CC BY-SA 3.0 via Wikipedia

1979年9月、ハバナでの首脳会議でスリランカがNAMの議長国をキューバに引き継いだ際、西側諸国と主要メディアは、ハバナのような親ソ同盟国が「非同盟」国になり得るという事実を決して受け入れなかった。

その結果、キューバがNAMの議長国を務めた1979年から83年まで、ニューヨーク・タイムズ紙は、その編集方針からか、NAMを「いわゆる非同盟運動」と表現し、紙面に掲載されるニュースのすべてにその表現を使った。83年、インドがNAMの議長国を引き継いでから、「いわゆる」のレッテルは外された。

一方、冷戦終結後も、核軍縮、自決権、国家主権の保護、さらには達成困難なパレスチナ国家の実現など、NAMの政治的使命の一部は有効であった。

Photo: UNON – United Nations Office at Nairobi
Photo: UNON – United Nations Office at Nairobi

ブトロス・ブトロス=ガリ前国連事務総長は、1995年にコロンビアで開かれたNAM首脳会議で、「1955年のバンドンにおける非同盟の誕生は、驚くべき、世界を変革する大胆な行動でした。国際政治は根本的に、そして永遠に変容したのです。」と語った。

ガリ事務総長が指摘したように、非同盟は新しい原理、すなわち連帯の原理からその政治的な力を得ていた。

しかし、米国の故リチャード・ホルブルック国連大使(1999-2001)は、その連帯を崩すために、「分割統治」という古い戦術を試みた。

国連でのアフリカグループへのお別れの挨拶の中で、ホルブルック大使は、「私は、アフリカ諸国に対し、非同盟運動との結びつきを再考するよう謹んでお願いしたい。非同盟運動は、現時点では我が国にとってアフリカの友人ではありません。あなた方の目標とNAMの目標は同義ではありません。」と語った。

ホルブルック大使は、NAMに加盟しているためにアフリカの発言力が弱まっているとして、「NAMの立場が実際にアフリカグループのためになったことは一度もない。」と指摘した。さらに、国連で最大の単一政治グループであるNAMは、独立したコーカスとして存在しなくなるか、G-77と合併すべきであると述べた。G-77は134の加盟国で構成される国連最大の経済団体で、ほとんどの途上国がこの2つの団体に加盟している。

ホルブルック大使は、アフリカ諸国は「NAMから距離を置くことを検討すべきです。そうすれば、アフリカの利益を守ることができるし、10カ国以下の急進的な国々に押されて、必要ない立場に置かれることもないだろう。」と語った。

ホルブルック氏が国連大使を辞めた後も、米国国連代表部は、彼の演説を国連総会資料として回覧し、公式に信用を与えることにした。

しかし、NAMは反撃に出た。

偶然にも、当時の議長国がアフリカの加盟国だった。そこで、NAMの議長国である南アフリカ共和国の大使が反論することになった。

ホルブルック大使の提案は、NAM加盟国全体に対する侮辱である。「NAM加盟国でもない国が、この運動のアフリカのメンバーを規定しようとするこの試みは、よく言えば不勉強、悪く言えば見当違い、誤解を招くもので、NAM加盟国全体への侮辱を構成するものである。」

「米国代表部が総会の議題として声明を発表したことは、NAMの正統性に疑問を呈する試みとしか思えない。」と、南アフリカのドゥミサミ・シャドラック・クマロ大使は語った。

クマロ大使は、NAM加盟国への書簡の中で、「南アの国民にとって、NAMは、アパルトヘイトに対する私たちの闘いを支持し、NAM域外の多くの人々が、私たちの過去の人種差別的な政権に満足するか支持する一方で、不動の立場にあったことを常に記憶することになるでしょう」と宣言した。

Singaporean Minister Vivian Balakrishnan/ By Vivian Balakrishnan. - [1]Transferred from en.wikipedia by SreeBot., CC BY 3.0
Singaporean Minister Vivian Balakrishnan/ By Vivian Balakrishnan. – [1]Transferred from en.wikipedia by SreeBot., CC BY 3.0

一方、シンガポールのビビアン・バラクリシュナン外務大臣は昨年11月の講演で、「私たちなし得る一つの方法は、よりオープンで包括的な、多国間の科学技術やサプライチェーンのネットワークを持つことができる世界を構想してみることだ。」と述べて、新しい展望を示した。

バラクリシュナン外務大臣はまた、「冷戦時代、世界の急速な二極化に対抗するために、非同盟運動が生まれたことを思い出してください。おそらく今日、私たちは歴史の中で同じような瞬間、同じような地政学的な力のダイナミズムに遭遇しており、全てのNAM加盟国にとって深く有害な結果をもたらす二極化への深淵を見つめているのです。」と指摘した。

さらに、「しかし、科学技術とサプライチェーンのための非同盟運動とはどのようなものだろうか。まだ議論は始まったばかりですが、それは多極化、オープン、ルールに基づくことが重要です。つまり、オープンサイエンス、知的財産の公正な共有と収穫、そして、単にどちらかの側に立ったということで判断されるのではなく、最も革新的で、信頼でき、信用できる存在であることを競うシステムへの取り組みが必要です。」と語った。

「特にアジアでは、今、欧州で起こっていることを見ると、分断の線がありました。かつては鉄のカーテンと呼ばれるものでした。今日のウクライナにおける戦争も、ある意味、その分断線がどこにあるかということです。私たちはアジアを二分する分断線に興味はありません。私たちが提供するパラダイムは、友好の輪を重ねることなのです。」

「どの国も-アジアには大きな多様性があります。米国と中国に対する経済的・政治的な距離感でアジアのNAM加盟国を並べると、それぞれ微妙に異なった立ち位置になります。」

Map of the current members (dark blue) and observers (light blue) of NAM (Non-Aligned Movement)/ By Ichwan Palongengi, CC BY-SA 3.0
Map of the current members (dark blue) and observers (light blue) of NAM (Non-Aligned Movement)/ By Ichwan Palongengi, CC BY-SA 3.0

「しかし、自尊心のあるアジアの国々は、罠にはめられたり、属国になったり、もっと悪いことに代理戦争の舞台になることを望んでいるとは思えません。したがって、私は、世界の他の国々が何を望んでいるかを主張しようとしているのです。実際にそれを実現できるかどうか?それは時間が解決してくれるでしょう。なぜなら、米国と中国が共存の道を歩むという理想的なシナリオはまだ残っているからです。」とバラクリシュナン外務大臣は明言した。(原文へ

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経済危機で窮地に陥るスリランカの無償教育

【コロンボIDN=ヘマリ・ウィジェラスネ】

ミレニアム開発目標(MDG)の教育に関する項目を達成し、国家独立後のサクセスストーリーの一つだと考えられているスリランカの無償教育が、この人口2200万人の国を襲った経済危機のために危機に瀕している。

急激に高騰する紙価格のために、教科書やノート(生徒らはこれをメモを取ったり演習をする際に利用する)を入手することが難しくなっており、多くの貧困層には手が出ない。演習ノートの値段は、昨年は80ぺージで50ルピー(0.14米ドル)、400ページで450ルピーだったのが、今年はそれぞれ120ルピー、920ルピーとなっている。

生徒は今月、新学期のために学校に戻ってきているが、保護者たちは教材高騰への対処を迫られている。スリランカの辺鄙な村に住んでいる保護者らは、日々ギリギリの生活を迫られている中で子どもたちの教育にどうお金を配分するかに頭を悩ましている。時には、どの子を学校に通わせどの子を通わせないかという苦しい判断もせざるを得ない。

Map of Sri Lanka
Map of Sri Lanka

スリランカ南部の村に住む「アトゥラ」(本人の希望により仮名)はIDNの取材に対して、自身の2年生から6年生までの孫5人が学校に通うことが難しくなりつつあると語った。バス運転手をしている息子の収入は学費を賄うには十分ではない。

「学校に行く時には子どもたちにきちんとした格好をさせたい。靴が破れたまま学校に行かねばならず、泣いて帰ってくる孫もいる。一体どうしたらいいのか。 これは私の家族のみならず、スリランカのほとんどの子どもが直面している問題だ。」とアトゥラは語った。

2人の子を学校に通わせているある母親は、「学校の教材費が高騰しており、信じられない物価の高騰でただでさえ苦しい家計を直撃しています。」と語った。

「2カ月ぐらい前なら、のりは1本100ルピーぐらいで買えていました。しかし、今では300ルピーも払わなければならない。12色入りの色鉛筆は580ルピーに値上がりしました。」と彼女は言う。さらに、学校のカリキュラムで必要とされるワークブックなどが値上がりしており、あるシンハラ語のワークブックはかつて225ルピー、今は500ルピーになっている。

スリランカでは1945年に無償教育が導入された。5歳以上16歳未満の全ての子どもが無償教育を受ける権利が定められ、1950年代には大学教育にまで拡大した。1950年代半ばには、国語政策の導入によって、教育は特に貧しい農村地帯でも受けられるようになった。以前は、都市部で英語を話す家庭のみが享受できる特権だった。

スリランカの識字率は1951年の13.5%から2022年には92.6%にまで上昇した。MDGが定めた普遍的な初等教育達成の目標をスリランカが実現することを可能にした、持続可能な開発における大きなサクセスストーリーだとみなされている。

スリランカには何世紀も前から素晴らしい教育の伝統があり、欧州による植民地化以前は、寺院を基礎にした「ピリウェナ」教育の伝統が支配的だった。現在、多くの教育関係者が、経済危機の影響で識字率が急速に低下することを懸念している。

厳しい経済状況の中、地元の慈善団体は、世界中のほとんどの低所得国で蔓延している非識字の罠から農村部の家族を救うために活動を続けている。

マララセケラ財団は、スリランカの偉大な仏教学者G.Pマララセケラ博士の名を冠した社会奉仕財団で、現在は彼の孫であるアシャン・マララセケラ氏が理事長を務めている。同財団は長年にわたり、農村部の子どもたちの教育支援に力を注いできた。コロナウイルスが蔓延していた時期には、オンライン教育のためのデータ通信サービスを無償で提供した。現在は、新学期を迎えるにあたり、学校の教科書を届ける活動を実施している。

同財団のマノジ・ディヴィスラガマ事務局長は、「当財団は創設以来、教育を必要とする子どもたちの支援の最前線に立ってきた。マララセケラ財団は、プログラムを実行するための資金集はしません。私たちは、恵まれない人々を支援するという使命を果たすために、自分たちのリソースを使っています。」と語った。

Credit: Lake House, Colombo.
Credit: Lake House, Colombo.

この活動には、クシル・グナセケラ氏が設立し、クリケットの名選手ムッティア・ムラリタラン氏が支援する「善の財団(FG)」などの慈善団体の支援も得ている。「彼らの支援で、私たちは人々の生活を向上させる様々な活動を行うことができた。私たちの教育への取り組みは、現在の経済的混乱やコロナ禍から始まったのではなく、大津波がこの美しい島を襲い、子どもたちの精神面での健康と教育に支障をきたしたときから始まったのだ。」と、ディヴィチュラガマは語った。

このとき、財団は2005年にハンバントタ地区に子どもたちのためのリソースセンターを設立した。「津波災害で両親を失った子どもたちの生活再建に直接介入し、彼らの心の健康のためにカウンセリングを行うことができたのです。」とディヴィチュラガマは付け加えた。

その後、同財団はハンバントタ、スリアヤウェヴァ、カタラガマの3カ所にもセンターを設置した。カタラガマは南部の極めて貧しい農村である。ディヴィスラガマは、「カタラガマの子どもリソースセンターでは、教育を受け、人生を切り開いていくために支援を必要としていた約300人の子どもたちを支援することができた。英語、数学、シンハラ語、音楽を無料で教えています。スリランカ東部のタミル系やイスラム教徒の村々でも子どもを支援しています。」と指摘したうえで、「子どもたちの教育を表面だけで見ているのではなく、根本から面倒を見たいと考え、『善の財団』と組んで、妊婦に栄養食・基本食を提供する事業を立ち上げた。」と説明した。

仏教の慈善団体であるマララセケラ財団は、子どもたちの精神的な成長にも気を配っている。スリランカの南部諸州でダーマ学校(お寺の日曜学校)に通う子どもたちのための事業をいくつか立ち上げた。学生の家族に書籍や保存食を提供している。

同財団は主に村のお寺に無償のインターネット利用施設を造り、子どもたちを集めている。カタラガマでは、財団がカタラガマ・デバレの由緒ある神殿に40台のPCを設置して貧困層の子どもたちを対象にしたオンライン教育センターを立ち上げた。DP教育プラットフォームの支援を得て、600人以上の学生を支援している。

SDGs Goal No.4
SDGs Goal No.4

マララセケラ財団が支援している父親の一人ダヤル・カピラ・ガンヘワはIDNの取材に対して、「私は定職に就いていません。毎日2500ルピー(7米ドル)を稼ぐのがやっとです。毎日働けるわけではなく、だいたい月に10~15日程度。子どもは3人で、うち2人は学校に通っているが、物価高騰で全ての教材を買うことはできない。収入を超えてしまうからだ。」と語った。

もう一人、財団の支援を受けているのは、練習帳を受け取った子どもの母親、ナディーシャだ。「私の夫は電気技師だが、毎日の定収入がないため、夫の収入だけでは日々の生活を賄うことは無理。子どもは2人で、一人は10年生、もう一人は4年生。食費に使ってしまうと、子どもの教育で使う本代は残らない。これでどうやって子どもを学校に通わせたらいいのか。いま私たちが直面している大きな問題です。」とナディーシャは語った。

こうした経験は珍しいものでない。あらゆる社会経済的背景を持つ人々が、家計の生活費と子どもの教育費のバランスを取るのに苦労している。

ディヴィスラガマは、「スリランカの無償教育制度は危機に瀕しています。今の経済危機の中では多くの家庭の子ども達が教育を受けられなくなっています。だから私たちのような財団が支援に乗り出さなければならない状況にあるのです。」と語った。(原文へ

INPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between The Non-profit International Press Syndicate Group and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

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ブチャの住民の証言(2)(3):「ポケットから手を出さないと、ここで撃ち殺すぞ。」(ナターリヤ・クリヴォルチコ)「狙撃兵はどんな明かりでも撃ってきた。」(ユーリ・クリヴォルチコ)

【エルサレムDETAILS/INPS=ロマン・ヤヌシェフスキー】

ロマン・ヤヌシェフスキー by РОМАН ЯНУШЕВСКИЙ
ロマン・ヤヌシェフスキー by РОМАН ЯНУШЕВСКИЙ

イスラエルの通信社「ДЕТАЛИ(=Details)」は、戦争犯罪の証言を集めるプロジェクト「Come and See」を立ち上げた。ウクライナの首都キーウ郊外のブチャで撮影された衝撃的な映像が公開された後、そこで一体何が起こったのかを解明するためです。ウクライナの町や村の住民で、戦争犯罪を目撃した、あるいは被害者となった人々を探し出し、直接インタビューしています。以下は、ブチャの住民ナターリヤ、ユーリ・クリヴォルチコ夫妻に直接取材した証言です。

私は看護師で、夫はエンジニアです。私たちは二人ともキーウで働いていて、郊外のブチャに住んでいました。朝、出勤して、夕方には帰ってくる。ロシアによる侵攻前のブチャ地区は、ヨーロッパ的でとても美しい街でした。

2月27日、28日、私たちは初めて街でロシア兵を見かけて衝撃を受けました。ロシア兵はとても図々しく、横柄な態度で住民に話していました。私たちのところにやってきて、市長はどこに住んでいるのかと尋ねてきました。もちろん、私たちは「知らない」と答えました。するとロシア兵は、「どうして協力しないのか。私たちはあなた方を救いに来たのだ。市長がどこに住んでいるか知らないはずはない。」と尋問してきました。私たちそれでも「知らない。」と答えました。実はみんな、市長の家が隣の通りにあることは知っていたのですが、ブチャの住民は誰もロシア兵に協力しようとはしなかったのです。

私たちが寒くてポケットに手を入れているのを見て、「ポケットから手を出せ。今すぐだ!私たちが銃を持っていることを忘れているのか!怪我をする可能性があるんだぞ。私や私の仲間が少しでも疑いを持ったら、ここでお前を殺すぞ!」と、ロシア兵の一人が怒鳴ってきました。そして、「私たち(=ウクライナ人)は洗脳されていて、何が起こっているのか理解していない。彼ら(=ロシア兵)はウクライナ人を救出しに来たのだ。」と言い始めたのです。

トラックに乗る親ロシア派の兵士(ドネツク地域)AP
トラックに乗る親ロシア派の兵士(ドネツク地域)AP

殺戮はまもなく始まりました。通りを歩くと、男性、女性、子供まで、民間人の死体が散乱していて近づけない。街のあちこちにロシア軍の小規模な部隊が展開していて、遺体を墓地まで運ぶのは危険でした。しかたなく殺された隣人を庭に埋めましたが、皆が銃で撃たれていました。ロケット弾が金切り音を上げて頭上に飛来したかと思うと、ロシアの狙撃手が建物の最上階から眼下の住民を狙撃していたのです。

ロシア人にこのすべてを読んでもらい、彼らが私たちにどれだけの苦痛をもたらしたかを理解してもらいたい。これは真実であり、偽造ではないのです。死にゆく人々が路上に横たわっていて、彼らを助けに行くことは不可能でした。もしかしたら、まだ生きている人がいるかもしれなかったのに、ロシアの狙撃兵が近寄らせなかったのです。しかも、狙撃兵は日中だけでなく、夜間も暗視装置を使って住民を狙撃していました。報道された、手を縛られたまま殺された人たちの話も本当です。これは大量殺戮(ジェノサイド)だと思います。ロシア兵たちは、文字通りウクライナという国を破壊していたのです。

ロシア軍がブチャから逃れようとする避難民の車列に発砲
ロシア軍がブチャから逃れようとする避難民の車列に発砲

隣人のインナ・ナウメンコ(50歳)は、トイレや洗濯のために必要な水を確保しようと、隣の消防署に行っていました。そこには大きな桶があり、バケツで水をすくっていました。しかし、彼女は撃ち殺されました。おそらくロシアの狙撃兵の仕業だと思います。夫は彼女を毛布に包んで庭に埋葬しました。

21世紀にこのような惨劇が起こるなんて、私たちはまだ信じられませんでした。誰もが驚き、ショックを受け、私たちが体験したこと、見たことについて、未だに話すことができない人もいます。

ブチャ地区では長い間、通信手段が寸断さえ、親戚にも無事を知らせることができませんでした。連絡が取れても、私たちがまだ生きていることが信じられないような状況でした。

街を離れたかったのですが、ずっと砲撃されていたので、とても恐ろしかったです。ある時、民間人の避難のための「人道回廊」を示され、ブチャの人々も車を走らせました。ところが動き出してほんの数分後、車が向かっている側から恐ろしい爆発音と銃声が聞こえてきました…。ロシア兵にタブーはなかったのです。私たちが奇跡的に破壊を免れていた車で脱出を決意した時、私たちもロシア兵による銃撃を受けました。幸い、銃弾が貫いたのはガスタンクの反対側だったので車ごとの爆発を免れることができました。

私たちのアパートは5階建てで、入り口は4つありますが、2つは初日にロシア兵に燃やされました。その後、ライターが投げ込まれ、屋上が燃やされました。私たちは幸い1階に住んでいたので消失は免れたのですが、軽装甲気動車の30ミリ弾が室内を貫通して台所の壁に穴を開けました。

軽装甲気動車の弾が私たちのアパートを貫通したのです。

ロシア兵は、民間人の住宅を無差別に砲撃していました。兵士らはワルシャワ高速道路を歩いていて、私たちの家はその隣、ノーヴス商店の向かいにありました。私たちはキーウから切り離され、ブチャの街にはパンがありませんでした。市長は有志を募って住民のためにパンを焼くこととし、私と娘のリュドミラは夜、ノーヴス商店に行って働きました。その店にはパン窯があり、ロシア兵が発電機を壊すまでパンを焼き続けました。それからは、どうすることもできませんでした。

リュドミラ、ナターリヤ・クリヴォルチコともう一人のブチャの住人は、夜間、市民のためにパンを焼いた
リュドミラ、ナターリヤ・クリヴォルチコともう一人のブチャの住人は、夜間、市民のためにパンを焼いた

ユーリ・クリヴォルチコ:「狙撃兵はどんな明かりでも撃ってきた。」

「2月26日から27日にかけて、私の同志であるプロツェンコ・セルゲイが行方不明になりました。彼はまた、赤いリムとミラーの付いたホンダCR-Vという美しい車を所有していました。しばらくして駅で見かけたのですが、ボロボロになっていて、赤いリムで彼の車だと分かったのです。車の惨状から彼を探しても無駄だと思いました。

当時は、ほとんど地下に隠れていました。夕方、18時くらいから門限があって、家にいても見つからないように電気をつけてはいけないのです。ロシア兵はすぐに発砲してきました。

家の近くに十字路があって、暗視装置を装備したロシアの狙撃兵がいました。ある深夜に夜タバコを吸いたくて、玄関のドアを開けると、狙撃兵がタバコの光を見たのか、私の方向へ撃ってきました。ドアが金属製でよかったです。なんとか閉めて弾丸を防ぎました。夜が長かったのを覚えています。恐らくこんなに長い夜は生まれてこのかたなかったし、これからもないだろう。夜中になると、銃声がする。とてもうるさくて、家が揺れ、地下室が揺れ、ろうそくが1本燃えていて、ライトが跳ね返っている。電池があるうちに懐中電灯を点けておけば、真っ暗闇の中で座っている必要はないだろうということで、懐中電灯を点けておきました。この家の住人は全員、私たちと一緒に地下室にいました。

それから、隣の家の地下室に移りました。窓が少なく、鉄のドアもあってよかった。車も移動しました。そこの庭はアパートに囲まれており、外の通りから見えない構造になっていました。夜にはバッテリーを取り出して、何も残さないようにしなければならなかった。ロシア軍の妨害工作や偵察隊が夜な夜な活動していて、近所にトリップワイヤーを仕掛けていたのです。近所の人の車が砲撃で炎上したこともありました。

クリヴォルチコさん一家が住んでいた家。

最初は地下に大勢いたのですが、だんだん危険を冒して、避難経路を通って街を脱出する人が出てきました。結局、私たちも3月17日に脱出することにしました。すでに朝の8時には、バールを持ったロシア兵たちがアパートを略奪するために中庭に入ってきました。庭で火を炊いていた人たちにある車を指さして「お前の車か?」 と聞くと、「違う」と答えていました。するとその車の窓を割って押し入り、バッテリーを奪って出て行きました。

自分たちのブロックより先に進むことはできませんでした。命がけで、膝をついて歩きました。とにかく、奇跡的に無傷でブチャを脱出することができました。娘はキーウにアパートを持っていて、今は皆でそこに住んでいます。この悪夢はすべて過去のものとなり、今では安心してアパートの周辺や道路を歩くことができます。でも、庭で誰かが車のボンネットを叩いたら、反射的にしゃがんで身をかわしてしまいます。(原文へ

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助けられるなら、助けよう。―ウクライナ人支援に立ちあがったイスラエル人ボランティアたち(2)ダフネ・シャロン=マクシーモヴァ博士、「犬の抱き人形『ヒブッキー(=抱っこ)』を使った心のケアプロジェクト」

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