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|モロッコ|スラム街から「セメント-ゲットー」に

【カサブランカIPS=アブデラヒム・エル・オウアリ】

過去に起こった悲劇(1981年のパンを求めるスラムのデモ群集に警官・軍隊が発砲、多くを虐殺した事件、2003年5月にカサブランカの金融中心街で起こったスラム出身者による自爆テロ)が、モロッコのスラムの抱える諸問題を浮き彫りにしているが、「モロッコ政府のスラム対策は依然として不十分なものである」と専門家は語る。貧困層の世帯を、従来のスラムから新しいが粗末な作りの建物に集団移転させることが、必ずしも貧民層の中で醸成されてきた緊張関係を解消することにはならないだろう。

 
2003年5月16日、オサマ・ビン・ラディンのアルカイダネットワークとの繋がりがあると見られるテロリストがカサブランカの金融街の中心で引き起こした自爆テロは、40名以上の死者と100名以上の重軽傷者を出した。それから約半年後、ドリス・ジェットウ首相は、「モロッコ政府は毎年100,000戸を目標に、国内の低所得者層を対象とした住宅を建設する」意向であることを発表した。

 
それと同時に、トウフィク・ヒジラ住宅・都市化担当相(Minister-delegate)は、「モロッコ政府は、各市内のスラム地区(=社会不安の温床、特にカサブランカのスラム街は自爆テロリストの供給拠点と見なされている)を撲滅する実行可能な開発計画を有する都市に対して財政措置を優遇する」と発表した。

「5.16自爆テロ事件」は、モロッコ政府に国内のスラム地域に居住する約150万人の貧困層の存在を再認識させることとなったようだ。しかし残念ながらそのことが必ずしもスラム問題の解決に向けた具体的な行動計画へと繋がっていくことはなかった。政府当局は、スラム住民を物理的に不安定で危険な掘立小屋からアパートに移転させたのみで、これらの「元スラム住民」をモロッコ社会に統合したり、移転先地域全体の社会開発のプロセスをこれによって生み出すという努力はなされなかった。

カサブランカ建築家組合前理事長で国際建築家組合(IUA:100カ国以上の職能団体を含む国際建築家組織)科学委員のAzdine Nekmoucheは、政府のスラム撲滅計画について「これには深刻な問題がある」つまり「これでは住民はスラムからセメントで固められた街に移されているだけだ」と語った。

また、「スラム住民のために建設された建物は『縦に聳え立つゲットー』である」とNekmouche は言う。「なぜならこの計画には他の住人との接点を持たせようというUrban Mixtureの概念がないからだ。同等の社会経済レベルに属する市民たち(この場合、スラムの貧困層)を特定の小さな区画に押し込めることで、我々は新たなゲットーを作り出しているにすぎない」「つまり、(ゲットーでは)その地区の住民にとって良き目標となり、他の住民を(将来に向かって)動機付けるような人物がいないということです」とNekmouche 語った。

カサブランカのIdriss el Harti大通り沿いを見渡せば、近代的なビルが並んでいるが、実はその背後に22年前に建てられた低所得者用のアパート群が隠れていることは誰も想像できないだろう。

モウレイ・ラシッド(Moulay Rachid)地区は元ベン・ムシク(Ben M’sik)スラム街の住人のために建設されたところである。ここにスラム住民たちが移されたのは1984年の冬であった。しかし、彼らの新しい「家」は当時まだ完成しておらず、9平方メートルの一部屋に「台所」を兼ねた洗面台、壁と床はコンクリートむき出しの状態で、各入居者が残りの仕上げ作業をすることとなっていた。

モハメッドKが家族と共にラシッド地区に移り住んだのは15歳の時であった。あれから21年経過したが、彼は当時学校に通学するために毎日10キロ以上の道程を歩かなければならなかったこと、ラシッド地区では各ブロックが鎖のフェンスで囲まれていたのを今でも覚えている。「当時ラシッド地区にはバス亭さえありませんでした」とモハメッドは語った。

「私は当時、私達(元Ben M’sikスラム住民)は人間として扱われていないと感じていました。後に当局がフェンスの撤去を行ったとき、私の友人が『どうやら当局は、我々がようやく飼いならされたと、得心がいったようだ』とコメントしたのですよ」とモハメッドは語った。

ラッシド地区への移転より3年遡る1981年6月20日、数十人のモロッコ軍兵士と警察部隊がBen M’sikスラムに侵入し、バンを要求するスラム住民のデモ鎮圧にとりかかった。住民のデモは当初基本生活物資の価格高騰に対する抗議であったが、次第にサボタージュや流血の衝突へとカサブランカで最も貧しい地区を舞台に事態は悪化していった。

軍隊・警察が住民に対し実弾を発砲し徹底的な弾圧で臨んだことから、数千件にのぼる残虐行為が報告された。そして犠牲者達は集団墓地に埋葬された。この事件の後、モロッコ政府は、Ben M’sikを含む全国のスラム「=緊張地帯:tension zones」の問題と向き合わざるをえなくなった。

1981年の「Ben M’sikスラム暴動」は、モロッコ政府にとって、2003年の「5.16自爆テロ事件」時のように、本来であれば、スラム問題が差し迫った未解決の問題であるということを再認識する機会となるべきであった。

カサブランカは、モロッコ王国最大の都市で経済の中心であるとともに、国内のスラムの約半分が集中している場所である。モロッコ政府当局は、Ben M’sikスラムの大半を撤去した後、(元スラム住民の移転先である)ラシッド地区がもう一つの巨大スラム街であるアルマシラと近いことに気づいた。

アルマシラスラムは、モロッコ政府当局が1976年(「Ben M’sikスラム暴動」に先立つ5年前)にカサブランカ-ラバット有料高速道を建設するために数百人のBen M’sikスラム住民を移転させた際に生まれたスラム街である。それまでBen M’sikスラムで社会的な緊張を引き起こすような問題が引き起こされたことはなかったので、スラム住民の移転はスラムからスラムへの単純な移転として処理され、移転住民たちにはアパートが提供されることもなく、(「5.16自爆テロ事件」後のように)移転先にアパートが建設されることもなかった。

「5.16自爆テロ事件」で、カサブランカの金融中心街を爆破した自爆テロリストはこのアルマシラスラム地区から現れた。

「人口過密で失業率・非識字率が高く、住民が物価高騰に喘いでいるラシッド・アルマシラ両地区の実情は、アルカイダと繋がるような過激派にとって、(自爆テロリストを含む支持者を獲得する)格好の舞台と映っている」と専門家は指摘する。

「ラシッド・アルマシラ両地区は、モロッコ裁判所に送られてくる犯罪者の主な供給源になっている」。カサブランカ法曹界のメンバーであるモハメッド・チェムジー弁護士はIPSの取材に応えて語った。「なぜなら、いっこうに改善しない生活条件への絶望から、若者たちは犯罪に走るのです」とチェムジー弁護士は説明した。「そして、この自暴自棄が、過激派のリクルーターの標的になるのです」

モロッコ政府によるラシッド地区を市に昇格させようとする10年以上前からの努力にも関わらず、同地区内の社会・文化関連インフラの状況は改善されていない。それどころか、ラシッド地区の指導者達は自らの権力を乱用しているように思える。

住民達の証言によると、ラシッド地区のスタジアムは今や完全に放棄され、犯罪者にとって便利な隠れ家と化しており、一方、テニスクラブ「ラ・ラケット・ドール」はある種の市庁舎であるかのように違法に改装され、地区代表の親族で地区議会議員が地元行政を食い物にしている、という。

「ラシッド地区の市政開発など、単なる幻想に過ぎない」とチェムジー弁護士は語った。

また、ラシッド地区には広大な工業団地があるが、「それはどちらかというと働く女性や少女達が青春を埋もれさせる墓場のような所だ」とチェムジー弁護士は言う。「彼女たちは若く、やる気一杯で工業団地に入るが、結局は背中の曲がった老婆のようになって出てくることになる」

この工業団地も、スペイン、アルジェリア、中国からの不当に安価な商品の流入に厳しい競争を強いられている上、税金の値上げ、政府の不十分な支援が重なり、多くが倒産や閉鎖の危機に直面している。

「ラシッド・アルマシラ両地区の住民には開発の恩恵に預かる十分な機会が与えられていない。そこで民間セクターによるイニシャティブに大いに期待したいところだが、その選択をした場合でも複雑な問題が山積している」

逆説的に言えば「ラシッド地区に民間イニシャティブを導入しようとする試みは、奥行きが知られていない未知の洞窟を探検するようなものです。まず最初に直面する問題は複雑な行政手続でしょう」と、チェムジー弁護士はIPSの取材に語った。

「新たな店を1軒開設するための単純な許可を取得するだけでも、長い官僚的な手続きを経なければならないのが実情です。すなわち、あなたが把握できるのは手続きを開始した日のみで、いつ手続きが終わるかは神のみが知るというありさまです」

「さらに民間イニシャティブへの障壁となるものは、ラシッド地区に横行する不正・腐敗の構造です」「将来、ラシッド地区に投資しようとする者は、直ちに腐敗した地区役人や関係機関の気まぐれに奔走されることになるでしょう」と、チェムジー弁護士は語った。

モロッコ政府のスラム根絶政策は、1981年の「Ben M’sikスラム暴動」や2003年の「5.16自爆テロ事件」への対応の際に見られたように、殆どが散発的かつ対処療法的なものに終始している。

にもかかわらず、モロッコ国内の一部の市は2007年に、そしてその他の諸都市は2010年にそれぞれ「スラムのない街」を宣言することを予定している。しかし、専門家の間では、(単にスラム街を地図上より根絶することよりも)むしろ「ゲットーをなくす:Ghetto-free」街を目指した施策の方がモロッコにとって有益ではないかという点で、一致を見ているようだ。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

収入への道は今、東へ延びる

【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

バルカン半島の数千人にのぼる男たちはより良い収入を求めて東に向かっている。その内の多くは、トラックを運転してイラクの米軍基地に食糧を運搬する仕事に従事している…。バグダッドはベオグラード(旧ユーゴスラビアの首都)から2400キロ離れている。また、イラクの米軍基地に留まって働く者も少なくない(基地ではマケドニア人やバルカン半島出身の労働者が各種サービスを提供している)。

イラク、ロシア、中東各地の新しい仕事、すなわちそれらの地域に食料を運搬する仕事から得られる月収は最高2000ドルであり、旧ユーゴスラビア地域(現在のスロベニア、セルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア)における平均月収が200ドルに満たないことを考えれば魅力的な収入である。

 トラック運転手たちは、フロントガラスに道中の安全を保障する「新たなパスポート」―旧ユーゴスラビア大統領シップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito、1892年~1980年)の写真―を掲げて、目的地に向かって旅立っていく。チトー大統領が逝去したのは25年も前のことだが、彼が非同盟運動の礎を築いた中心人物の1人(※1960年、チトーは、エジプトのナセル、インドのネルー、ガーナのエンクルマ、インドネシアのスカルノと第1回非同盟会合を開催した:IPSJ)であることから、彼の写真は今でも(中東地域で)広く好感を持って受け止められている。
 
「イラク人達は今でも彼(チトー)を覚えている」とトラックドライバーのミロラッド・ミレティッチ(58歳)はIPSに語った。「チトーの写真は幸運をもたらすお守りのようなもので、この写真をフロントガラスに掲げると国境を問題なく通過できる」
 
彼ら長距離運転手には幸運あるいはチトーの写真が伝える「親善」のイメージが必要である。「(チトーの写真を掲げていることで)不安が解消され、知らない土地で助けが必要なときでも物事がスムースに運ぶ」とミレティッチは語った。「(イラクの)チクリットとモスル近郊でクロアチア人ドライバーを巻き込む事件が起こってから、運転手は皆、不安で一杯なんだ」 
 
2人のクロアチア人運転手イヴォ・パヴチェヴィッチとダリボル・ブラゾヴィッチは3週間前、輸送車の車列が何者かに襲撃された際に殺された。これに対して、クロアチア外務省は危険地域への輸送の仕事を取らないよう警告を発したが、イラク、アフガニスタンに向かうクロアチア人トラック運転手の数は増加し続けているのが現状である。
 
この傾向は、中東方面や長大なシベリヤ、モスクワ近郊での事件に直面しながらもロシアへの物資の運搬に従事するセルビア人の場合にも当てはまる。
 
最近モスクワ郊外で発生したそのような事件を紹介すると、中部セルビアの街Kragujevacから出稼ぎにきていたヒリスティヴォイェ・ルーキッチ(58歳)はモスクワ郊外で電子部品を運搬中、無理やり車から引きずり出された。ルーキッチはこの経験を「不愉快な冒険」を振返っているが、彼はその後5日間、小さな家で身を隠さなければならなかった。「ロシアには2度と行かない」とルーキッチは言う。
 
しかしほとんどのバルカン半島出身の運転手は危険を覚悟で東への運搬業務に従事している。今日、ギリシャ、トルコのハイウェイ沿いにはどこでも、ヨルダン、イラク、アフガニスタンと行き交うボスニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人運転手の姿を見つけることができる。「この沿線はあたかも動く『小さなユーゴスラビア』ですよ」とミレティッチは言う。

彼は今までに4回イラク入りしており、現在5回目となるイラクの米軍基地への物資運搬の準備を進めている。「前回の輸送隊にはクロアチア人、ボスニア人、それとセルビア人も何人かいました」「(イラクでは)マケドニア人の出稼ぎ労働者が私たちを泊めてくれたのですよ」と、ミレティッチは言う。

1990年代の内戦はこれらの人々を引き裂いた。「私たちは決して当時の内戦のことは口にしません」とミレティッチは言う。「私たちの(今直面している戦争)は生き残りをかけたものですから、すなわち、日々を生きていくためのバンを得ることの方が、政治よりも重要な問題なのです」

「運転手達の収入を求めた東への旅は、旧ユーゴスラビア地域の人々の人口移動の方向性が東に傾きつつる現状を反映したもので、(従来西へ向かっていた)伝統的な人口動態の方向が『劇的に変化した』ものです」とセルビア労働・雇用・社会性政策省(Ministry for work, employment and social policy)のイヴァナ・チブロヴィッチはIPSに語った。

1960年代、少なくとも100万人の労働者がバルカン半島からドイツ、フランス、スイスに出稼ぎに出かけて行った。後に、より職能レベルの高い比較的小数の人々が西側に移住していった。そして90年代の内戦時代には約40万のセルビア人青年達が米国、カナダ、オーストラリアへと移住して行った。その結果、保守的に見積もっても海外在住のセルビア人は約300万人にのぼる。セルビアの人口は約750万人である。

ボスニア・ヘルツェゴビナの場合、政府の推計によると、内戦中に国を離れたボスニア人は約100万人にのぼり、彼らは戦後もそのまま海外に留まる傾向にある。この在外ボスニア人は全ボスニア人人口の4分の1を占める。

「(内戦中海外移住せず)旧ユーゴスラビアに留まった人々にとって、経済状況はひどいものだった」と社会学者のスレコ・ミハロヴィッチはIPSに語った。「1995年に平和が回復すると、それまで可能であった海外移住の様々な道は閉ざされてしまった」。そして(今まで移民を受入れてきた)西ヨーロッパ諸国の労働市場が収縮し「今や人々は受入れてくれるところはどこへでも仕事を求めて向かわざるをえない状況です」と彼は語った。

この現状を象徴しているのが、中東諸国への長距離トラック輸送車列の出発点であるクロアチア―セルビア国境の街バトロビッチの光景である。「収入さえ良ければ、私は行きます」とミレティッチは言った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

|開発|食糧援助があなたの傍の小さなスクリーンに

【ロンドンIPS=サンジェイ・シュリ】

あなたは干ばつの被害を受けた地域上空を旋回している飛行機のコックピットにいます。そして数千人もの飢餓に苦しむ人々が地上で待っています。彼らの命はあなたの行動にかかっているのです。飛行機を山の急斜面に移動させ最初の救援食料を投下してください。

(画面が切り替り)その救援食料を搭載したトラックがぬかるむ危険な道を進んでいますそして――あなたが運転するトラックと食料を待ち望む飢餓に苦しむ人々の間に――反乱兵が現れます。

 
あなたは、仮想現実の世界に構築された食料支援任務の真っ只中にいるのです。

ローマに本部を置く世界食料計画(WFP)が公開した世界の飢餓問題をテーマとした最初の人道援助ビデオゲーム「食料部隊:Food Force」は、インターネットから無償でダウンロード可能でウィンドウズ、マックどちらのパソコンでもプレイが可能である。その目的は、世界における食糧支援の必要性を、子供たちが理解できる言語で認識を高めることにある。

このゲームは、ソニーのプレイステーションが提供する最新ゲームのような複雑さには太刀打ちできないかもしれないが、ゲームに熱心な子供たちの興味を惹きつけるには十分な内容を持っているとのことである。

「コンピュータゲーム業界は常に進化しており新たな技術が常に導入されている。しかしこのFood Forceは、これだけ洗練されたレベルのゲームとしては初めてのものとなります」と、WFPロンドン事務所のグレッグ・バローはIPSに語った。「このゲームには三次元の立体キャラクターが登場し、音楽パッケージも備え付けられている。プレーヤーは、ゲームを通じて人道援助活動が直面する様々な挑戦を疑似体験し、そこである程度洗練された作業をこなしていけるように作られている。

「市販のゲームソフトに慣れている子供たちでも、Food Forceを同様のレベルのゲームと認識するでしょう」とバローは言う。

このゲームの対象年齢は、8歳から13歳で、シェイラン(Sheylan.)という架空の島を舞台に、食糧支援が必要な人々に救援食料を届ける6つのミッションが収録されている。

プレーヤー達は、Food Forceの緊急援助要員を駆使してゲームを進めていく。これらのキャラクターは飛行機やヘリコプターを操縦し、武装した反乱軍兵士達と援助物資輸送車列のルートについて交渉をし、時間制限内に食料調達の兵站パズルを解く。そして最終的には、創意工夫して、目的地のコミュニティーに対して長期的な食料の安全を確保できる体制を構築していく。

プレーヤーはそれぞれのミッションをクリアする毎に点数を獲得でき、世界中のプレーヤーと比較することができる。

Food Forceは、木曜日(4月14日)にボローニャで開催された世界児童書フェア(the International Children’s Book Fair)で発表され、現在英語版が利用可能であるが、その他の言語版についても近く公開予定である。

WFPは、学校の教師がこのゲームに関心をもち、授業で活用しながら食糧問題を取り上げて行くことを希望しているFood Forceのゲームウェブサイト(http://www.foodforce.konami.jp/)にはダウンロード可能な教師用パッケージも用意されている。

「Food Forceは、両親が安心して子供達に自宅でプレイするよう励ませれる作品であり、また、教師が授業の中で使用したいと思うような作品です」と、4月14日の発表のなかでWFPのニール・ギャラガ広報部長は語った。「多くの父兄が、ビデオゲームで描写される血や暴力に子供たちが晒されていることを問題にしています。その点Food Forceは、楽しくアクション満載の(従来の問題あるビデオゲームに代わる)選択肢になると思います」

世界食料計画は世界最大の人道支援機関で、毎年80カ国以上の平均9000万人の人々に(内、5600万人は空腹に喘ぐ子供たちである)食糧援助物資を届けている。

また、ゲームウェブサイトが提供するものはゲームに留まらない。このサイトを通してプレーヤーは、クリックの先に飢餓の現実があることを知る。そして、そのサイトを通じて、世界で飢餓に直面している人々に少しばかりの貢献をする機会が与えられるのである。

「このゲームの開発にはかなりの時間を要しました」と、バローは語った。「WFPは多くの手段を通じて、飢餓対策上直面する様々な挑戦について説明してきました」「このゲームは、市販の商用ゲームに夢中になっている世界の全ての子供達を対象に、彼らが飢餓問題に対する認識を高めていくことを目的としています」

WFPは今回のゲームに対する反響を詳しく分析して後続のゲーム開発を進めるかどうか検討したいとしている。「私たちはこのゲームがどの程度成功するのか、そして、どのくらいの子供たちと教育機関が関心を持って活用してくれるかを知りたい」と、バローは語った。

「今日、子供たちとのコミュニケーションには最新の技術が欠かせない」と、ギャラガは語った。「世界の先進国の子供たちは、いつ餓死するとも分からない状況の中で床につくのがどのようなことなのか理解できない。Food Forceはハラハラドキドキするダイナミックなゲーム展開で子供たちの興味を引き出し、エイズ、マラリア、結核による死亡者の合計を上回る犠牲者を出している『飢餓』に対する理解を深めることを目的としています」(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

日系人強制収容の不当性を訴えた闘士86歳で逝去

【IPS Japanアーカイブ】

フレッド・コレマツは、第2次世界大戦期のローザ・パークス(米国公民権運動の母)と称される人物だが、40年間正義を待ち続けたこの日系アメリカ人は、水曜日(3月30日)、北カリフォルニアのカークスプルで86年の生涯を閉じた。

フレッド・コレマツ(Fred Toyosaburo Korematsu)の40年に及ぶ(第二次世界大戦中の日系人強制収容の不当性を訴えた)闘争は、カリフォルニア州オークランド刑務所の檻の中から始まった。彼の訴えは敗訴を重ねた末に米最高裁でも否決され有罪が確定した(1944年)。ところが最後は一転して犯罪歴は抹消され……しかも米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」「大統領自由勲章」が授与された。

 
コレマツがたどった軌跡は、米国公民権史に名を残す言語道断な事件の中でも最も酷いものの1つである。

日本軍による真珠湾奇襲攻撃から間もない1942年2月、当時のフランクリン・D・ルーズベルト大統領は、全ての日系人の強制収容を認可(大統領命令9066)、12万人に及ぶ日系人は市民権の有無に関わらず各地の収容所に送り込まれた。(※この大統領令は、カリフォルニア・ワシントン・オレゴン及びアリゾナ州在住で日本の血を引く人々全員を、老若男女を問わず、手荷物以外の財産を処分して有刺鉄線で囲まれた収容所に移住することを命じたもので、日系人はその後ほとんど3年間を収容されて過ごすことになった。= IPS Japan)
 
コレマツ氏の両親もこの時収容所に送られたが、コレマツ氏は収容所行きを拒否、当局によって逮捕、起訴され、刑務所に収監された。そして1944年米最高裁はルーズベルト大統領の強制収容措置の正当性を支持、コレマツ氏の訴えを却下した。

ここでアメリカ市民権組合(ACLU)北カリフォルニア支部の専務理事兼弁護士のアーネスト・ベーシック氏(Ernest Besig)が登場する。当時ベーシック弁護士は、日系人の強制収容措置の違憲性を訴えるテストケースを探しており、コレマツ氏への協力を申し出た。ベーシック氏は、コレマツ氏の保釈金5000ドルを用意したが、憲兵はコレマツ氏の釈放を拒否した。
 
コレマツ氏は保釈どころか日系アメリカ人を一時収容する競馬場に連行され(他の日系人収容者と共に)馬小屋に暫く抑留された後、ユタ州トパーズ収容所に送られた。

一方、コレマツ氏の日系人強制収容の違法性と彼自身の無罪を訴える訴訟は悉く退けられた。1944年、日系人収容措置はやっと解除され、コレマツ氏はサンフランシスコに戻ってきた。彼は製図工として働き家族を養ったが、「前科者」としてその後大企業や公的な職につくことは出来なかった。
 
それから約40年経過した1981年、法史研究科のピーター・H・アイロンズ氏は、米法務省に対してコレマツ事件関係の裁判所記録の原文を請求した。そこでアイロンズ氏は、検察側が(証拠隠しを行い)最高裁で偽証していたことを見出した。

2年後、裁判所は特赦を申し出たがコレマツ氏はこれを拒否、再審を要求した。まもなく連邦裁判所は、コレマツ氏は不確かな証拠に基づいて裁かれたとして彼の当時の有罪判決を無効とし、コレマツ氏の犯罪歴は抹消された。

こうしてコレマツ氏は(40年の闘争の末)米国法史の暗黒部分に終止符を打った。

5年後、ジェラルド・R・フォード元大統領は、日系人強制収容措置を「国家的な過ち」として非難した。1983年、連邦議会の調査委員会(日系アメリカ人の排除と拘禁に関する委員会)は全員一致で、日系人の強制収容を人種的な偏見と戦時のヒステリー状況、及び政治指導層の失敗により引き起こされたものであり、軍事上も強制収容する正当性はなかったと結論づけた。

5年後、当時のロナルド・レーガン大統領は、日系人強制収容措置を「深刻な不法行為」であるとし、コレマツ氏を含む数千人の生存中の元収容者に対して、1人当たり2万ドルの賠償金を支払うことを決定した。そして1999年、当時のビル・クリントン大統領はコレマツ氏に対して、米民間人最高の栄誉とされる「大統領自由勲章」を授与した。

「我が国の正義を希求する長い歴史の中で、多くの魂のために闘った市民の名が輝いています……プレッシー、ブラウン、パークス……」。クリントン大統領は有名な公民権関連の事例を挙げながら続けた。「その栄光の人々の列に、今日、フレッド・コレマツという名が新たに刻まれたのです」

クリントン大統領が言及した「プレッシー」と言及した人物は靴職人ホーマー・プレッシー氏のことで、1890年彼が30歳の時、東ルイジアナ鉄道の「白人専用席」に座った罪で投獄された。

人種問題にとりつかれていた当時の社会状況を反映して、プレッシー氏は「8分の7は白人、8分の1は黒人」と分類された。当時のルイジアナ州法の規定ではこの分類は「黒人」に相当し、従って、プレッシー氏は「有色人種席」に座ることが法的に妥当と判断された。

プレッシー氏はこの判決を憲法違反として最高裁まで上告し続けた。(プレッシー対ファーガソン裁判
)しかし彼の訴えは却下され、後の1954年に米最高裁が従来の「隔離すれども平等」の規定を否定するまで陽の目を見ることはなかった。

その違憲判決の契機となった訴訟はブラウン対教育委員会事件」として知られ、当事者の少女は小学3年生のリンダ・ブラウンであった(クリントン大統領が言及した2人目の人物)。彼女は、黒人であるがゆえに、僅か7ブロック離れた所に白人の小学校があるにも関わらず、鉄道操車場を超えてカンザス州トペカにある黒人小学校まで1マイル(約1.6キロ)の道程を歩いて通学しなければならなかった。

リンダの父オリバー・ブラウン氏は娘を近くの白人学校に入学させようとしたが、校長に拒否された。そこでリンダ・ブラウンは、全米黒人向上協会(NAACP)トペカ支部の支援を得て1951年、トペカ教育委員会を提訴した。

裁判で、全米黒人向上協会は「学校の人種隔離政策は、黒人の子供たちに彼らが白人より劣っているというメッセージを送っている。従って、学校が本質的に平等な教育環境を提供する場として機能していない」と主張した。

この訴訟は米最高裁まで持込まれ、1954年最高裁は「公的教育の分野において『隔離すれども平等』という原則は成り立たない。隔離した教育施設は本質的に平等ではない」との裁定を全員一致で下した。

このリンダ・ブラウンの訴訟チームを率いたのがサーグッド・マーシャル氏で、彼は後に全米初の最高裁黒人判事に就任した。

ローザ・パークス氏(クリントン大統領が言及した3人目の人物)は、「公民権運動の母」を称せられてきた人物であるが、1955年12月、彼女が市営バスで白人乗客に席を譲るのを拒否した当時、アラバマ州モントゴメリーで裁縫婦として働いていた。

バスの運転手の通報によりパークス氏は逮捕され、裁判の結果、地域条例違反で有罪の宣告を受けた。彼女のこの行動は、その後全市にわたる黒人による市バスボイコット運動へと発展し、それは1年以上に亘って繰り広げられた。そしてこのボイコット運動を通じてそれまで無名のマーチン・ルーサー・キング牧師が一躍全米で知られる存在となり、結果的に、米最高裁による市バスにおける人種隔離を違法とする裁定へと繋がっていった。

しかしながら、フレッド・コレマツ氏にとって、2004年4月、米最高裁が、キューバのグアンタナモ湾米海軍基地に同時多発テロ以降(アラブ系の人々を)「敵性戦闘員」として収容していることを不当とする訴えに、米司法当局が応えられるか否かの判断を迫られている現実は、かつての記憶(日系人強制収容の悪夢)を再び呼び覚ますものであった。

コレマツ氏(当時84歳)は、裁判所の友(friend-of-the-court:係争中の事件の当事者ではないが、かかわりのある第三者として裁判所に意見を述べることのできる人)の意見書の中で、「政府(ブッシュ政権)の採用している極端な立場は、私にとって全く馴染みのものです。(=ルーズベルト政権が当時日系人に対してとった極端な立場)」と述べている。

結局、米最高裁は、グアンタナモ湾(米海軍基地)に外国籍の人々を法的手続きなしに抑留するブッシュ政権の政策は憲法違反であるとの裁定を下した。
 
「今日、アラブ系アメリカ人の中には、かつての日系アメリカ人と同様の経験を強いられている人々がいます。私たちは決してその過ちを繰り返してはならない」とコレマツ氏は語った。

アメリカ市民権組合(ACLU)北カリフォルニア支部専務理事のドロシー・エーリッヒ氏は「もしフレッド・コレマツ氏がいなかったら、第二次世界大戦中の日系人強制収容(―最も恥ずべき米国史の一時期―)の事実は、私たちの歴史の中の単なる付随的な事件として人々の記憶に残ることもなかったでしょう」と、IPSの取材に対して語った。

「コレマツ氏の行動は、世代を超えた全ての人々の心の扉を開けたのだと思います。同時多発テロ直後の時期にあって、「市民の自由」を守ろうとするアメリカ市民自身の能力は、60年前に自らの憲法で保障された権利を守るべく静かに立ち上がった1人の人間の勇気ある行動によって、計り知れないほど、高められたのです」

翻訳=INPS Japan浅霧勝浩

|カンボジア|終戦から25年、いまだ貧困にあえぐ戦争未亡人

【バッタンバンIPS=サム・リス】

1975年から79年までクメール・ルージュ(KR)の支配下で大虐殺を経験したカンボジアでは、1998年時点の政府調査で成人女性の5.2%が未亡人となり、全世帯の4分の1が母子世帯であった。母子世帯の割合は現在19%に減少したが、大量の成人男性が亡くなって男女比のバランスが崩れたことで、残された未亡人は大家族の稼ぎ手として筆舌に尽くしがたい苦労を重ねている。

北部オカンボ村のファン村長によれば390世帯のうち91世帯が未亡人を家長とし、負債を抱えながら、農業に携わって毎日を凌いでいる。スレイ・ラ(65才)の夫は11人の子供を残して1978年に亡くなり、ラ自身もKRに殺されかけた。現在、9人の子供が結婚し、孫が33人。毎朝4時に起床し、歩いて10キロ先の畑に行きスイカを栽培する。300キロの米の収穫は地代となり、スイカの収入も借金の返済に費やされ、自由に動くことができること意外、生活ぶりは戦時中と変わらない。

 バッタンバンの女性問題本部(Department of Women Affairs)シム・メアリー部長代行によれば、同地区のおよそ18万世帯のうち3万世帯以上を率いるのが未亡人である。そのうち60%はKR政権下で夫を亡くし、20%が80年代の内戦で、残りはマラリヤ、エイズなどの疾患で夫を亡くした。未亡人を家長とする世帯は母親が組織に属さず、農地も所有せず、大勢の子供を育てるために所有物を売り払ったりするので典型的に貧しい。

同村のチャン・スーム(69才)の夫は77年にKRに連れ去られ、数日後に殺害されたといわれている。スームはキノコや、カポックの果実や葉を採取して一家を支えている。生活は苦しいが、罪を罰することが若い世代への手本となるので2006年に予定されているKRの裁判を歓迎する。裁判のために使う予算は、究極的に貧しい者に還元されると信じている。

プノンペン北部のトラパンチョー村の未亡人オー・レイン(59才)は裁判に価値を見出さず、「貧しい人に直接予算を配分すべきだ」と言う。レイン自身も政府軍兵士をかくまったとしてKRに殺されかけたところを侵攻してきたベトナム軍に救出された。この兵士はフン・セン首相のボディガードとなり、今もレインを頻繁に訪ねてくる。
 
 フン・セン首相補佐官でありカンボジア人権委員会の委員長を務めるオム・イエンティンによれば、KRによって夫を殺害された多くの未亡人は涙を流すことも禁じられてきた。

過去25年の戦争と紛争によりもっとも打撃を受け、いまだに戦禍から立ち上がることができずにいる未亡人について、IPS Asia-Pacificならびに国際交流基金後援の紛争報道プログラムによる「プノンペン・ポスト」紙のサム・リス記者の報告を紹介する。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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|カンボジア|終戦から25年、いまだ貧困にあえぐ戦争未亡人

「失敗国家」を1つに繋ぎとめる試み

【プレトリアIPS=モギヤ・ンドゥル】

今週末、コンゴ民主共和国で新たな軍事作戦が実施された。同国からの報道によると、先週9人の国連平和維持部隊のメンバーを殺害した地元民兵組織の武装解除を実施するために、約800人の国連部隊がコンゴ北東部のイツイ地域に配備されていた。

A memorial service in Kinshasa for nine Bangladeshi peacekeepers. (Photo: Schalk van Zuydam) Credit: PictureNET Africa
A memorial service in Kinshasa for nine Bangladeshi peacekeepers. (Photo: Schalk van Zuydam) Credit: PictureNET Africa

“Nationalist and Integrationist Front”派の民兵組織は、それまで地元コンゴ住民を襲撃し、ここ数週間で約7万人の住民が家屋を捨てて避難していた。

民兵による襲撃でバングラデシュ人の国連兵士が殺害されたことに端を発した今回の国連部隊の作戦で、約60人の民兵が射殺された。犠牲となった国連部隊の兵士は、1万6000人以上がコンゴ国内に展開する国連コンゴ監視団(Monuc:日本はMonuc経費の20%を負担)の一部を形成する部隊だった。

 この数日間の出来事は、コンゴ民主共和国(DRC)に平和を定着させることの難しさを物語っている。コンゴでは5年間に及んだ内戦を収拾するために2002年に停戦合意がなされたが、同国の東部地域ではその後も内紛が続いている。

「コンゴは国家としての呈をなしていない。内政の基盤は極めて脆弱」と、亡命コンゴ人青年で組織する圧力団体“Congres Panafricain (COPAN)のジェームス・マランダ外交部長は言う。「例えば、コンゴ東部のカサイ地方で問題が発生すれば、政府は首都キンシャサから人を派遣して解決にあたる。しかし派遣される人物はカサイがどんな所かすら知らないといった具合だ」。マランダ氏は木曜日、COPANがプレトリア(南アフリカの行政上の首都)で南アフリカ協会(AISA)との協力で開催された会議で、そのように述べた。

コンゴ内戦は、コンゴ政府と、ウガンダ及びルワンダの支援を受けた様々な反乱グループ間の抗争であるが、戦闘行為、あるいは戦火に巻き込まれた地域に蔓延した病気、食糧不足などにより、死亡した人数は300万人にのぼると言われている。

コンゴ内戦は1998年、ウガンダ、ルワンダ及び当時のコンゴ大統領ローレン・カビラ氏の対立に端を発する。ウガンダ・ルワンダ両国はその前年カビラ氏を支援し、それまでコンゴに長期支配を敷いていたモブツ・セセ・セコ氏の追放に重要な役割を果たした。しかし、その後カビラ氏が両国の思惑通りに動かないことが判明すると、両国はコンゴ国内の反対勢力を支援し、反カビラ武装闘争を始めた。

特に、カビラ大統領が、1994年のルワンダ大虐殺を引き起こしコンゴに逃亡したフツ族民兵組織が、国境を越えてルワンダを攻撃し続けている問題について有効な対策を打てなかったことが両国介入の背景にあると思われる。

カビラ大統領は、アンゴラ、ナミビア、ジンバブエの介入によって前任者のように政権の座を追われる事態は避けれたが、後に暗殺された。しかし外国軍の駐留はコンゴ財政を大幅に圧迫することとなった。コンゴは様々な鉱物資源、ダイヤモンド、木材に恵まれており、コンゴ内紛に介入した諸国は、非合法にそうした資源の収奪を行っている。

昨年末、ポール・カガメルワンダ大統領は、コンゴ側に展開するフツ族民兵組織に対処するためコンゴ領内に軍隊を進めると再び脅迫してきた。それを裏付けるように、ルワンダ軍が国境を越えてコンゴに侵入したという報告が各地でなされている。

「残念ながら、ルワンダ軍はなおもコンゴ領に留まっている。カガメ大統領は、なおも『自衛』を口実にコンゴ領内に軍隊を留めている。ルワンダによるコンゴの内政干渉に対して何らかの手を打たなければならない」と、木曜の会議に参加したAISA研究員のヤジニ・フネカ・エープリル氏は語った。

一方、COPAN議長のイブ・カマング氏がコンゴを蝕んでいる要因としてルワンダを非難するのは適切でないと警告した。「私たちコンゴ人はフツ人の武装勢力(interahamwe)の武装解除など国内問題を自ら解決できないできた。そして今、そのツケに直面しているのだ。私たちは、そのツケの原因として非難の対象となってもらう都合のいい身代わりを探しているにすぎない」と語った。

インヤルワンダ語の“interahamwe”は、「共に戦う者」「共に立ち上がるもの」を意味し、ルワンダの大量虐殺を引き起こした者達に付けられた名前である。

コンゴ内戦終結に向けた交渉は南アフリカを仲介に行われ、その結果、反乱軍指導者、民間反体制派代表、そして故ローレン・カビラ氏の子息ジョセフ・カビラ大統領が率いる政府関係者の3者で構成する暫定政府を設置することが合意された。

しかし、木曜日の会議に参加者した代表団の中には、今回の和平プロセスから一般のコンゴ市民の大半が締め出されている問題を指摘し、「中央政府に市民の声を届けるには市民が力を合わせる必要がある」と主張するものもいた。

カマング氏は言う。「私たちはコンゴを再建する必要がある。ただしコンゴの人々は、地方レベルなどより小さな行政単位の下にまず再編成されるべきである。そしていったん自分たちを組織化できるようになれば、暫くそのレベルで自治を経験し、そして徐々に自由意志で大コンゴを再構築すべきである」

カマング氏は「ここで言う地方分権の考え方は地方の分離独立を訴えるものではない」と慎重に語った。コンゴでは1960年に南西部のカタンガ地域の分離独立運動が粉砕された経緯があり、「分離独立」の話題はタブーとなっている。

「私たちは分離独立を支持しているのではない。アフリカ大陸で2番目に大きな面積を占めるコンゴはあまりにも多くの民族から構成される多民族国家である故に、地方で起こっている問題が理解できない首都キンシャサの人々によって一極支配できる国ではないと言っているのだ」とカマング氏は語った。

また木曜日の会議では、6月にコンゴで予定されている選挙についても触れた。

南アフリカ大学の政治学講師ディリク・コッツェ氏は、僅か2年間の移行期間で、コンゴ国民が、例えば裁判所(選挙において投票の信憑性を決定するのに重要な役割を果たす)などの公的機関が各々独立を守って機能するようになったと信頼を寄せるようになるかは疑わしいと思っている。移行期間は2002年の和平合意に始まった。

コッツェ氏は2000年の米国大統領選挙に際して示された効果的な司法システムの重要性に言及して、「移行期間は信頼醸成のためにあるもので、移行期間が長ければ長いほど、国民の間の信頼も醸成されることとなる」「(米国大統領選挙の際には)人々は裁判所に判断を仰ぎ、裁判所はブッシュ氏の勝利を宣言した。そして米国の人々は裁判所の判定を受け入れた。もし裁判所のような機関が存在しなかったならば、民主党のアル・ゴア候補は戦い続けただろう」と語った。

またコッツェ氏は「選挙結果が各々の指導者の思惑に沿わなかった場合に内戦が再発するのを防ぐためにも、コンゴ各地に武装割拠する派閥の動員を解く必要があるだろう」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

|HIV/AIDS|中国|河南省のエイズ孤児、重い口を開く

【北京IPS=アントアネタ・ベズロヴァ】

中国河南省で、政府の売血プログラムに協力した多くの貧しい住民がHIV感染をしたというスキャンダルが2001年に明るみにでて以来、中国政府は、ゆっくりではあるが、表面化しつつあるエイズ危機に対して、従来の独善的かつ時には攻撃的であった姿勢を改めつつある。

2003年12月、中国政府が国内におけるHIV感染に関して問題を公表した際、保健問題の専門家たちはエイズ問題に対する中国政府の方針転換に拍手喝采を送った。中国の指導者層はHIV/AIDSをもはや外国の問題とは見なしていないし、国内で深刻化しつつある現状を隠そうとはしていない。温家宝総理が昨年「エイズは国家を破壊しかねない」と警告したように、今や中国政府はエイズ問題と正面から取り組む覚悟をしている。

その中国において河南省の数千にのぼるエイズ孤児の状況ほど、エイズ問題の深刻な未来を示唆しているものはないだろう。中国において、彼らは2重のハンディを負っている:孤児であることと、エイズで死亡した人々の元に生まれたことである。彼らは両親不在の中、親の愛情や世話、教育を受けることなく生きていかなければならない。

Map of China
Map of China

 生活のために売血して(エイズ感染し死亡した)両親に残された孤児の話は、かつては隠蔽・検閲の対象とされたが、今日では徐々に知れ渡るようになり、地元官僚はスキャンダルの発覚に言葉を失っている。話の一部は河南省のソーシャルワーカーが集めたものが伝えられた。また一部は、2003年に中国における対エイズ活動が評価されてマグサイサイ賞を受賞したガオ・ヤオジェ博士が近く出版予定の河南省のエイズ感染を取り扱った本に掲載される予定である。

「私はシンカイ郡ドンフー村生まれのウェンです」。近親者の死亡日を克明に綴った日記の主である17歳の少女は記している。「2000年8月。私の両親は売血したことが原因でエイズを発症。私の家族は貧しく、両親は医者に診てもらうためのお金が必要でした。私は当時中学2年生だったけど、両親の看護と家事をするために学校を辞めなければなりませんでした」

「2000年12月、母他界…」

「2001年8月19日、父他界。家には11歳の弟と私が後に残されました。両親が残してくれたものは約500グラムの小麦粉、僅かな現金、雄牛1頭と豚1匹だけです。でもそれらは叔父さんが持ち去ってしまいました。弟と私はお腹を空かして、3つのがらんとした部屋を見つめるしかありませんでした。私は時々、両親が私たち兄弟のために食事を作ってくれる夢を見たのを覚えています。でも目を覚ますと、目の前にあるのは空っぽの粘土屋根と風と雨の音だけでした」

ウェンの両親は、他の多くの農民と同様、1990年代に政府の採血所で売血をしたことが原因で感染した。多数の提供者が同じ採血装置に繋がれたことから、感染者ウィルスが装置を介して多くの提供者の体内に広がっていった。

当時財政難に悩む河南省の役人たちは、医療費を捻出する手段として血液の売買に飛びついた。そして一旦血液ビジネスに手を染めると、血液の売買が禁止された後も、豊富な収入源を手放そうとはしなかった。

エイズ感染で大きな被害を蒙った河南省で15年に亘って活動してきたガオ氏の推計によると、河南省の58郡において平均2万人が売血をしていた。この推計に基づけば、河南省だけで100万人の農民が社会的にタブーとされている売血により感染したことになる。ソーシャルワーカーの証言によると、河南省のある郡では、必要な治療費が捻出できず村全体の大人が死の床にあった。

「皆、大変苦しみながらも、次から次に亡くなっていく」と3年前からエイズが蔓延した河南省の村を訪問しているソーシャルワーカーのチュン・トーは言う。「エイズ感染者がより人間らしく尊厳を持って死ぬのを手助けするのには、あまりにも時間がなさすぎる。しかし(残された)孤児たちに出来ることは沢山ある」と、チュンはIPSに語った。

香港に拠点を持つチュン・トーのNGO「チー・ヘン財団」は、現地当局の警戒をかわして現地でエイズ孤児の就学支援を開始することができた数少ない団体である。「郡によっては支援を拒否されたところもあります」と、チュン・トーは振り返る。「しかし、どこにいっても私たちの活動は『火消し作業』に過ぎないという点を強調することにしています」「私たちは放火犯(エイズ蔓延の責任者)を探そうとしているのではなく、火を消そうとしているのです」

3年前、チー・ヘン財団は400人の孤児の教育費を支援するプログラムを開始した。今日、支援対象者は2000人に増加し、最も若年者で5~6歳、最年長者で大学進学の準備をしている。

ハーバード大学を卒業して香港で金融業を営んでいたチュン・トーは、自らの貯蓄を使ってこのプログラムを始めた。中国での義務教育は9年、子供たちが学校に留まるために必要なものは、教科書代と様々な雑費である。一学期に必要な学費は僅か300元(36米ドル)だが、その金額は、日々の糧でさえ親戚に依存せざるをえない孤児たちにとっては、手の届かない額である。

さらに河南省は中国でも最も貧しい地域であり、大躍進(※1958年に毛沢東が発動した急進的増産運動、2000万人以上の餓死者が出たといわれる= IPS Japan)に続いた数年に亘る飢饉で、100万人の農民がこの静かな僻地で餓死した。今日においてさえ、農民の多くは土壁の家に住み、年に約300米ドル程度の収入での生活を余儀なくされている。

「子供たちが義務教育の9年間を通して学校に通えるように支援するためには3000元(362米ドル)が必要です」とチュン・トーは言う。

彼は当初、なんとか元同僚や米国の慈善団体から資金を集めたが、今日では財政難のため、途中で孤児達への支援を諦めなければならないかもしれない事態を恐れている。「私の夢は、孤児達1人ひとりのためにトラストファンドを設立することです。でも今は、一学期ごとに、資金集めに奔走しているのが現実です」と打ち明ける。

ガオによる河南省のHIV/AIDS患者数から推計して、同省全体でのエイズ孤児数は100万人近いと思われる。公式統計では、河南省でHIV/AIDS患者と確認されたものは僅か3万5000人であるが、そのうち900人は既に死亡している。一般に保守的と考えられている同公式統計を当てはめたとしても、エイズ災禍の影響を受けた子供の数は4万人から8万人にのぼる。

幸い残された孤児達で自身がHIV感染しているものは大変少ない。しかし感染した子供は、学校をドロップアウトしていった。また、多くがいじめの対象にされ、中には自殺したものも数十人にのぼる。

常日頃から「子供は国家の輝かしい未来」と子供重視の姿勢を表明してきた中国共産党政府にとって、エイズ惨禍に見舞われた子供達の話は、内政の不安材料となっている。政府は、このエイズの流行を放置しておけば遠隔地における大規模な抗議行動へと発展する引き金になりかねず、将来的には深刻な社会問題を引起しかねない、と次第に警戒感を抱くようになった。

昨年、政府は河南省において、エイズ孤児となった子供達を対象に寄宿舎学校を建設し、無料で教育を提供する大規模な施策を実施した。その結果、河南省全体で「太陽の家」と名づけられた学校が22校建設された。しかし、その多くが子供達不在のままとなっている。

「子供たちは、その施設では孤立しているように感じるのです」とチュン・トーは言う。「なぜなら河南省の者なら誰でも『太陽の家』に住むこと=その子供の両親はエイズで失くなった、ということを知っているからです」  

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

国際女性デー、性奴隷にとっては絵に描いた餅

【パリIPS=ジュリオ・ゴドイ】

年間数百万人に及ぶ欧州への旅行者のうち、数十万人が性奴隷という身の上となっている。彼女たちにとって、国際女性デーは、ほとんど何も意味しない。

「この問題における数字については実に慎重を期す必要があります」と、フランス人弁護士でこの度出版された人身売買と性奴隷をテーマとした本の著者マティアダ・ンガリピマ氏は、IPSの取材に答えて語った。「しかし、性的搾取に反対して活動しているほとんどの多国籍機関やNGOも、欧州においては年間20万人から50万人が非合法な人身売買組織の犠牲者となっているという点で合意している」

 人身売買の犠牲者のほとんどは若い女性で、後に売春行為やポルノ作品のモデルを強要されている。また犠牲者の子供の中には、虐待を受けたり、強制的に麻薬取引に引き込まれるものもいる。
犠牲者の中で最も多いのは南からの流入者で、マグレブ地域(アフリカ北西部のモロッコ~リビア地域)やアフリカから欧州の地中海沿岸に上陸してくる。その他犠牲者の流通ルートには、バルカン半島からギリシャやイタリアを経由するものと、東欧からドイツを経由するものがある」とンガリピマ氏は言う。

国連児童基金の推定では、東欧からの性奴隷にされた犠牲者の10%から30%は未成年者である。
国連は人身売買と移民の密入国を明確に区別して捉えている。国連の報告書によると「移民の密入国の場合、危険かつ非人間的な扱いの下で行われる場合も少なくないが、密入国者はその手続きを承知している」「しかし人身売買の場合、犠牲者は全く同意していないか、あるいは最初の段階で同意したとしても、その同意は運び屋による強制、詐欺、虐待によって獲得したものであり意味をなさない」

「もう1つの大きな相違は、密入国の場合、密航者が目的地に到着した時点で密入国プロセスは終わるが、人身売買の場合、運び屋が不正な利益を挙げるために継続的に搾取が行われる」と国連の報告書は指摘する。欧州警察の推計では、人身売買から挙がる収益は年間数十億ドルにのぼる。

ンガリピマ氏は、今月出版予定の著書『性奴隷:欧州の試練』の中で「性奴隷と人身売買の問題は欧州が直面している最も緊急な課題である」と指摘している。

「欧州連合が最も緊急に求められていることは、各国の多種多様な法律をすり合わせ人身売買の禁止を規定した国連協定に十分合致した内容に調整することである。そして、この問題を今日のように縦割りで取り扱うのではなく、地球規模の共通ルールに則って対処すべきである」とンガリピマ氏は言う。

「また、近年人身売買事件にフランスとドイツの役人が関与していたと見られているケースにあるように、官僚腐敗の問題にも着目しなければならない」とンガリピマ氏は言う。

2001年、駐ブルガリアフランス大使のドミニク・シャサードは、ストラスブルク及びフランス東北部の諸都市のブルガリア人売春婦に対してビジネスビザを発給していたことが発覚し、即座に解任された。

そして捜査は、ソフィア(ブルガリアの首都)のフランス大使館の上級スタッフが怪しい複数の旅行代理店を共謀してビザを発給し、それが後に売春婦を斡旋する人身売買組織の運び屋に使用されたことを明らかにした。

ドイツでは、ウクライナで大量に発給されたビザについての捜査が行われており、人身売買組織にそれらのビザの多くが発給されたがどうかを調べる予定だ。野党キリスト教民主連合はジョセフ・フィッシャー外務大臣をして、「人身売買の運び屋と売春斡旋業者の共犯」と呼んで非難した。

ンガリピマ氏は「これらのケースは欧州における政策の欠点を説明するもの」と言う。「一方で政府は、非合法な移民の流入を防ぐため移住関連の政策を厳しくした。しかし、この問題は人身売買の問題と比較すれば小さな問題に過ぎない。そしてもう一方で、官僚が性奴隷へのビザ発給に関与していた」

また各国政府は、欧州レベルで関連国内法の調整を行い、人身売買を禁止する国連協定の内容を具現化する一方で、人身売買の犠牲者に対する法的な保護やリハビリを実施すべき」と語った。「性奴隷や人身売買組織への対応は、現金送金チャンネルの停止や容疑者の銀行口座凍結など、麻薬マフィアや組織犯罪に対して従来適用してきた手段を講じるべき」と語った。

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

|メキシコ|「インディアン」という言葉が侮辱の意味で用いられるところ

【メキシコシティーIPS=ディエゴ・セバジョス】

先住民の少女ファウスティナ(9歳)は、彼女がスペイン語がうまく話せないことと、母親が伝統衣装を身にまとっていることを理由にクラスメートから向けられるいじめから逃れるために、2003年メキシコシティーの学校に通うのを止めた。

彼女は今、街の道端でアコーディオンを弾いて物乞いする父親の傍らで日々を過ごしている。「私はもう学校には行かないわ。だってみんな私に辛くあたるし笑いものにするのよ。だから行かない方がいいの」とファウスティナは言う。彼女の父は、IPSに対して、一家が2001年に、仕事とより良い生活を求めてどのようにしてメキシコ南部のオアハカ州から首都メキシコシティーに出てきたかを語った。

 「食べ物を買うために小銭を恵んで頂けないでしょうか?」父親はアコーディオンを奏でながらこの台詞を1日何百回も繰り返す。その父親のズボンの裾にしがみついて、実年齢の9歳よりずっと小さく見えるファウスティナは落ち着きなく微笑んでいる。

ファウスティナと父親は、2000万の人口を抱えるメキシコシティーに在住する約100万人のメキシコ先住民(ナフアトゥル、ミシュテカ、サポテカ、マザフアその他のエスニックグループ)の内の2人に過ぎない。その内、約34万人が今なお各々の土着の言語を話している。

彼らの大半は貧しく、「インディアン」という言葉が侮辱を意味する言葉として使われる都会の中で、低賃金で働かされ、差別に晒されている。

メキシコシティーに拠点を持つNGO「先住移民会議」(首都在住の先住民の権利を擁護する活動に従事)が実施した調査に基づく推計によると、約4500人の6歳から12歳の土着言語で育てられた先住民の少年少女が学校に通っていない。

「ここには多くの先住民が暮しているが、私たちは必ずしも全ての者が施し物に依存して生きている訳ではない。また、必ずしも全ての者が、各々のコミュニティーや文化と断絶した訳ではない」と「先住移民会議」広報担当のラリサ・オーティスはIPSに語った。彼女自身も先住民移民の娘であるオーティスは、首都にはメキシコ先住民が作り上げたコミュニティーが存在することを説明してくれた。

この説明を裏付けるように、公的調査資料によると、首都には、メキシコ先住民のみが居住する地区や建物群が存在する。彼らは首都に移り住んできたか、あるいは、ここで生まれた者たちで、これらのコミュニティーでは伝統文化や習慣の多くがなんとか継承されている。

NGO「先住移民会議」は、先住民の文化保全を支援しており、政府に対して、先住移民が伝統的な組織形態と文化を維持する権利を尊重するように働きかけている。また、多言語、多文化教育の実施、先住民が運営するメディアの開設、そして先住民に影響を及ぼす施策に関してメキシコ先住民の「声と票」を認めるよう、ロビー活動を展開している。

しかしファウスティナは、そのような権利が存在することさえ知らない。彼女は同じ部族メンバーの誰からも遠くはなれて、両親がメキシコシティー中心部の歴史地区に借りた部屋で暮している。

「私は今は学校に行かないけれど、多分いつか戻るわ」。ファウスティナはたどたどしいスペイン語で、彼女の母親がかつて故郷で暮していた頃と同じような服装をしていることが問題にされて、如何にいじめを受けたかを語った。

「母が私に会いにくると、みんな私たちのことを笑ってひどい事を言ってきたわ。だから学校には行かない方がいいの」とファウスティナは言う。

「ファウスティナのようなケースは沢山あります。先住民は蔑まれた扱いを受け、『最も汚い、そしてきつい仕事』に従事させられ、ほとんどの場合貧しい生活を余儀なくさせられています」とオーティスは言う。

メキシコシティーで家政婦として働いている女性のおよそ90%は先住民である。そして男性の場合、先住民の大半は建設現場の作業員かごみ清掃要員として働いている。

国家人口評議会の最新の統計によれば、メキシコの全人口1億530万人中、およそ1000万人が先住民であり、その内、60%が土着の言語を話す。

しかし一方で、メキシコの人口の約60%がメスティソと呼ばれる先住民とヨーロッパ人の子孫の混血であることを考慮すれば、先住民の影響は(メキシコ文化の中に)より克明に見出すことが出来る。政府の推計に拠れば、メキシコ先住民の75%は小学校課程を修了しておらず(全国平均の2倍)、一方、非識字率は30%以上(全国平均の3倍)にのぼる。

メキシコの小学4年生の25%が基本的な読み書きの技術を習得するのに対して、先住民の子弟の場合、その比率は8%にまで落ち込む。

一方、先住民子弟の73.2%(全国平均より22.7%多い)は年齢に比べて体格が小さい。そして、5歳以下の先住民子弟の60%は栄養失調に苦しんでいる。先住民の平均余命が73.2歳である一方、その他の人口では76.2歳であった。

国連児童基金(UNICEF)の報告によると、メキシコにおいて、先住民の子供たちは、他のどのグループの子供たちと比較しても最も不均衡かつ弱い立場に置かれている。そして報告書は「その大半は貧しい生活を余儀なくされており、栄養失調に罹っているものも多い」と付け加えている。

ファウスティナのような先住民の少女にとっては状況は更に深刻だ。メキシコのいくつかの最貧地域では、15歳以上の先住民女性の非識字率はじつに87.2%にのぼる。また、先住民女性で小学校卒業レベル以上の教育を受けた者は、先住民の男性の場合15.8%であるのに対して、わずか8.9%に過ぎない。

2000年9月、メキシコはミレニアム開発目標(MDGs)に署名して他の国際社会コミュニティーに足並みを揃えた。国連総会で採択された開発目標は、不平等と貧富の格差を是正するための明確な目標を定めている。

中でも基本的な目標の1つは、全ての子供が小学校に通える環境を実現することと、2015年までに男女が等しく学校教育にアクセスできる環境を整えることである。

ファウスティナは将来どこかの時点で学校に戻ることを希望している。しかし、当面父親は、彼女にとって最良の選択は、街中での物乞いに連れて行くことだと考えている。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

平和と民主主義が常に共存するとは限らない(ブトロス・ブトロス-ガリ元国連事務総長、IPS国際評議員)

【国連IPS=ブトロス・ブトロス・ガリ

民主主義の普及が世界をより平和にするというのは本当だろうか。「民主主義による平和」論(デモクラティック・ピース)の考え方は、ドイツの哲学者イマヌエル・カントが恒久平和構想の一部として1795年に定式化したものだ。

この考え方は理想主義的過ぎるとして長らく軽んじられてきたが、1980年代に入って再び流行りだし、ついには米国政府の公式教義となった。

しかし、この理論は、民主主義国が平和主義的だということを言っているのではなく、民主主義国どうしが戦争をしないということを言っているに過ぎない。

 「民主主義による平和」論は次の3つの説明を提示する。

第一。戦争の費用と便益をめぐる討論に市民が参加することで、軍事的な冒険が市民の福祉に与える危険、さらには、政治家が次の選挙で落選するリスクが明らかにされる。

第二。とりわけ立法・行政の分離を定めた憲法上の制約、および、民主主義国の意思決定過程の複雑化により、指導層の自律性が失われ、彼らによる恣意的な行き過ぎが防がれる。

第三。民主的な政治文化は交渉を通じた解決を好み、国内においてコンセンサスを作り出すための規範と手続きを国際的に広める。

しかしながら、これは、民主主義国が互いに戦争をしないということに過ぎず、民主主義国はしばしば、非民主的で「野蛮」な国に対しては平和的でない態度で臨む。

西側の民主主義国が行った植民地主義的な征服からクーデター支援、米国が最近イラクに対して仕掛けた「予防戦争」に到るまで、「もし民主主義国が当然に平和を望むのならば、民主主義国の軍隊は当然に戦争を望む」と言ったトゥクヴィルの観察を正当化する事例には事欠かない。

もうひとつ、民主主義に現在移行しつつある国々の問題もある。ハンガリー・ポーランド・チェコ共和国・ブラジル・チリ・韓国・タイ・台湾、そして程度は低いがフィリピンなどは成功した方だろう。

また、民主化の途上で武力紛争が起こった事例もある。アルメニア対アゼルバイジャン、ロシア対チェチェン、クロアチア対セルビアなどがそうだ。

民主化の中で少数民族に発言権が十分与えられないこともある。これについては、コソボや東ティモールなどの例がある。

重要なのは、民主的プロセスに必要な主体や制度を発展させるための長期的方針だ。政治政党、司法制度、市民社会、自由な報道、非政治的な職業軍人システムなどを作らなくてはならない。

西側民主主義国は、こうした方針を推し進めることが長期的に彼らの利益にかなう最もよい方法であることを理解しなくてはならないだろう。

翻訳/サマリー=INPS Japan浅霧勝浩