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米国のイラン核武装説は「危険な幻想」(ピーター・ジェンキンス元英国IAEA大使)

【ロンドンIPS=ピーター・ジェンキンス】

今年出版された『危険な幻想(Dangerous Delusion)』は、英国でもっとも優れた政治評論家のひとりであるピーター・オズボーン氏と、2003年のイラク戦争に向けていかに英国世論と議会が誤った方向に導かれたかについて強力な議論を展開してきたアイルランドの物理学者デイビッド・モリソン氏による著作である。

この著書は、米国の新保守主義派(ネオコン)や、リクード(イスラエル右派勢力)支持者、サウジ王室関係者の怒りを買うことになるだろうが、一方で、イランの核計画がイスラエルの生存やペルシャ湾岸アラブ諸国の安全保障、さらには世界平和に脅威を与えるとしたこうした勢力による主張をどう考えたらよいか思い悩んできたすべての人々の目を開かせるものとなるだろう。

情熱と簡潔さ、そして、ユウェナリスの時代以来のよき批評の特徴である義憤をもって記された本書は、読者にとっては退屈かもしれない詳細を省き、数時間で読める本に仕上げられている。

著書の冒頭に記された本書の目的は、核活動をめぐる欧米諸国とイランの間の対立は不必要かつ非合理的なものであるという点を議論することにある。イランの意図に関する懸念が、これまでも、そして現在も、正当なものとみなされる限り、そうした懸念は、イランが2005年以来自発的に行おうとしている措置と、より踏み込んだ国際監視によって、和らげることができるであろう。

国際的な法的枠組である核不拡散条約(NPT)が、この話の機軸を構成している。1962年のキューバ危機後のデタント(緊張緩和)期の成果のひとつであった同条約は、核兵器の拡散抑制に大きな成果を収めてきた。イラン(当時は親米のパーレビ朝イラン:IPSJ)は、NPTが発効した1970年当初からの加盟国である。

1968年、ある米国政府の高官は、上院で行った証言の中で、新たに起草されたNPTでは、軍事および民生の両方で使用可能な核技術の取得は禁止されていないと述べた。

この当時、加盟国は破滅的な(核)兵器の拡散を制限することを目的とした条約を遵守することに関心を持ち、そこから逸脱しようとする国に対しては、核物質使用に関する国際査察を頻繁に行うことで抑止力になると想定されていた。

イランの問題は、1974年のインドによる核実験に始まる。インドはNPTを批准どころか署名すらしておらず、核爆発装置のためにプルトニウムを使用していたが、欧米諸国は、インドの核実験に直面して、NPTの起草者らはウラン濃縮のような軍民両用技術を非核兵器国が取得するのを妨げない大失敗を犯したと解釈した。

そこで欧米諸国は、原子力供給国グループ(NSG)を創設し、新興国が原子力関連技術を取得することをますます困難なものにしていった。このことは、ある意味では、NPTのほとんどの加盟国の同意を得ないまま同条約を改定していったに等しい。

そして、1990年代になると、イスラエルの政治家らが、イラン(1979年の革命で反米のイラン・イスラム共和国になっていた:IPSJ)には核兵器計画があり、核弾頭製造まであと数年のところまで来ていると公に主張し始めた。

結果として、イラン・イスラム共和国の反体制派が2002年に、イランは秘密裏にウラン濃縮工場を建設していると主張した際、多くの国連加盟国が、イランがNPTに違反しているか、まさに違反しようとしていると信じたのである。その際に米国とその一部の同盟国が掻き立てた危機感はあまりにも深刻なものだったので、イランが濃縮工場を隠匿しようとする意図さえ実際にあったかどうかという証拠が存在しないしないにもかかわらず、その点は無視されたのである。

さらにイラン政府が、一部の科学者・技術者が(IAEAのみならずイラン政府当局に対しても)未申告の核研究に従事していたと認めたことで、核物質の導入180日前までにウラン濃縮工場を申告する義務は、反体制派の内部告発がなければ守られなかったであろうと人々は考えるようになった。

イランは2004年以来、IAEA理事会や国連安全保障理事会による非難、ますます厳しくなる経済制裁、国連憲章に違反しての米・イスラエルによる軍事攻撃の威嚇など、様々な苦悩に晒されてきたが、仮にイランが実際に核兵器の取得を意図しているとの証拠があるのならば、こうした苦悩を強いる国際社会の仕打ちも合理的で正当なものだと言えるだろう。

しかし、オズボーン・モリソン両氏がこの著書の中で明言しているように、実際にはイランに核武装の意図があったという証拠はないのである。それどころか、2007年以来、米国の国家情報評価(NIEは、核兵器用の燃料にするためにウラン濃縮工場を使うとのイランの決定は存在していないと強調しているし、IAEAはイランの既知の核物質はあくまで民生用だと繰り返し述べている。さらに、イランにおける証拠のある唯一の核兵器活動は、多くのNPT加盟国が行っていると考えられる類の研究だけである。

オズボーン・モリソン両氏は、イラン問題をこれほどまでに非合理的に扱う理由は、米国がイランを中東の大国にしないと決意しているためと結論付けている。

しかしこの見方は彼らの議論の中でも最も疑問の残るものだと考える向きもあるかもしれない。なぜなら、その他にも以下のような理由が考えられるからだ。つまり、①イランを中東地域におけるライバル国とみなし、米国に対する戦略的要求を正当化する必要があるイスラエルサウジアラビアによる、ワシントン、ロンドン、パリを舞台にした活発なロビー活動の存在、②想像上のNPTの抜け穴を塞ぐことに執心している拡散対抗措置を標榜する専門家の影響力、③イラン・イスラム共和国のテロと人権侵害に関する前歴、④苦い記憶から生まれたイラン・イスラム共和国に対する敵意、などである。

また本書では、政治家の偽善が、正当にも、2人の著者の怒りの矛先となっている。2010年、ヒラリー・クリントン米国務長官(当時)は、対イラン経済制裁を正当化して、「我々の目標は、一般のイラン国民に害を与えることなく、イラン政府に圧力をかけることだ。」と宣言した。

また2012年、再選を目指すバラク・オバマ大統領は、「我々は、イランに対して史上最も厳しい経済制裁を加えており、経済に打撃を与えつつある。」と誇らしげに語った。

しかし、著者らのもっとも激しい怒りは、主流メディアに向けられている。つまり、主流メディアが、イランは以前から今日に至るまで核兵器を開発しようとしているという考えを、事実を無視してパブリック・ディスコース(公共政策に関わるような場面での発言や記事、報道等)の中に埋め込み、反イラン的なプロパガンダに道筋を作っていると断罪している。

主流メディアは、経済制裁あるいは武力行使によってイランの核の野望を抑えることができるという想定を是認することによって、ジョージ・W・ブッシュ並びにトニー・ブレア政権による対サダム・フセイン開戦論に疑問を呈することができなかった過去の過ちを繰り返す危険を冒している。

なお、『危険な幻想』は6月のイラン大統領選挙の前に執筆されているため、イラン政府に現実主義的な外交路線が再登場した場合、オズボーン氏とモリソン氏が迫っている「正気への訴え」を西側の政治家が考慮することになるのかどうか、という問題は取り扱っていない。

「(西側自由主義国に住む)我々は、イランを罵り罰するこうした必要性を我々がなぜ感じてきたのかを改めて問うべき時にきている。そうすれば、すべての当事者に満足のいく合意に至ることは、驚くほど簡単なことだと気づくのではないだろうか。」(09.02.2013) IPS Japan

※ピーター・ジェンキンス氏は、ケンブリッジ、ハーバードの両大学で学んだ後、33年にわたって英国の外交官として、ウィーン(2度)、ワシントン、パリ、ブラジリア、ジュネーブに駐在。最後の任務(2001~06)は、英国のIAEA大使、国連大使(ウィーン駐在)。2006年以降は、「再生可能エネルギー・省エネパートナーシップ」代表を務めるかたわら、国際応用システム分析研究所(IIASA)代表の顧問を務め、企業部門に対して紛争解決と国境を超えた諸問題の解決をアドバイスする研究機関「ADRgAmbassadors」を元外交官らと設立した。

|視点|気温上昇とともに、食料価格も高騰していくだろう(レスター・R・ブラウン、アースポリシー研究所創立者)

【ワシントンIPS=レスター・R・ブラウン】

現在ある農業は、きわめて安定的な気候の中、1万1000年にわたって発展してきたものである。人類はこの気候システムのなかで、生産を最大化するために農業を進化させてきたのだ。しかし現在、気候が突如として変動しつつある。年が過ぎるごとに、農業システムが気候システムとの調和を失ってきているのだ。

数世代前には、インドでのモンスーンの不発生(=雨季の不在)やロシアでの厳しい干ばつ、米国トウモロコシ地帯での熱波など、異常な気象が発生した場合でも、すぐに事態は正常に戻るだろうと誰もが思っていた。しかし今日、戻るべき「正常」は存在しない。地球の気候は常に流動的で、頼りなく、予測不能な状態になっているのだ。

Lester Brown
Lester Brown

1970年以来、地球の平均気温は華氏1度以上上昇してきた。もし今後も私たちがより多くの石油や石炭、天然ガスを燃やすこれまで通りの生活を続けたならば、今世紀末までにはさらに華氏11度(摂氏6度)は上昇すると見られている。そしてこの気温上昇は、地理的に不均等な形で(赤道地域よりも高緯度地域、海洋よりも陸地、沿岸地域よりも大陸内部でより高くなって)顕在化してくる。

地球の気温が上昇すれば、様々な面で農業への影響がでてくる。高温のため受粉が妨げられ、基本農作物の光合成が減少する。また高温は、植物の脱水も進行させる。トウモロコシも、太陽への露出を避けようと葉を丸めてしまうため、光合成が減少するのである。

地球の気温上昇は、山地の氷河の融解を通じて間接的に作物産出に影響を与えている。巨大氷河が縮小し、小規模氷河が消滅すると、河川を支える雪解け水やそれに依存する灌漑システムは減少していく。山地の氷河が失われつづけ、そのために雪解け水の流量が減ると、人口密度が高いいくつかの国において、前例のない水不足と政情不安が引き起こされるかもしれない。

科学者らは、高温によってより干ばつが多くなると予想している。近年干ばつの影響を受ける陸地が非常に多くなっていることがその証左だ。アメリカ大気研究センター(NCAR)の科学者らは、地球上の陸地のうちきわめて乾燥した状態にある場所が、1950~70年代の20%をはるかに下回る状況から、近年では25%に近づいていると報告している。

科学者らは、地球の気温が上昇すると、熱波の頻度と厳しさが増すのではないかと考えている。別の言い方をすれば、農作物を減らす熱波は今や、農業の風景の一部になったと言えるだろう。このことはとりわけ、世界が適切な食料安全保障を確保するために、穀物備蓄を増やさねばならないということを意味する。(原文へ

レスター・R・ブラウン『満杯の地球、空っぽの皿:食料不足の新たな地政学』(ニューヨーク、W・Wノートン社)からの抜粋。本稿の裏付けとなるデータや映像、スライドは以下で無料ダウンロードできる。www.earth-policy.org/books/fpep.

翻訳=IPS Japan

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|シリア|化学兵器の使用による今後軍事介入論議が高まるか?

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【アブダビWAM】

ダマスカス郊外の3つの病院では担ぎ込まれた数百人の患者が、呼吸に苦しみながら横たわっていた。中には子供の姿も多く、医者や両親が懸命に蘇生措置を試みていた。霊安室には、銃弾や爆弾によってではなく、化学兵器によって命を奪われた多くの遺体が折り重なって安置されていた。21世紀の現代において、このような大規模な虐殺がおこなわれたのは前代未聞である。」とアラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙が8月23日の論説の中で報じた。


従って問題となるのは、バラク・オバマ大統領が(1988年のフセイン政権によるハラブジャ事件を念頭に)シリア政府を牽制する意味で使用した「レッドライン」という言葉である。オバマ大統領はシリアが化学兵器を使用した(=レッドラインを越えた)場合の対応について明らかにしていないが、今回の化学兵器使用(*1)に対して具体的な行動がないとすれば、それは「レッドライン」の許容範囲が大統領の知らぬうちにシフトしたということになるのだろうか。それとも、シリアで起こっていることについて、国際社会が無関心になってしまったということになるのだろうか。シリアでは絶望感が高まっている。

「首都ダマスカス郊外で21日に勃発した化学兵器による攻撃がもたらした犠牲者の規模もさることながら、(長引く内戦にもかからず介入を躊躇してきた)米国への信頼、西欧諸国の誠実さ、そして国連の対処能力に対する疑問がシリア国民の間で高まっている。」とガルフ・ニュース紙は論説の中で報じた。

また同紙は、「国際社会は今回の惨事の規模に驚くあまり事態の把握ができなくなっているのだろうか?」と疑問を呈したうえで、「数千人の無辜の市民を攻撃した21日の化学兵器使用は、今後のシリア内戦の様相を変えていくだろう。」と報じた。

また同紙は、西側諸国はジレンマに直面していると指摘した。国連は既に2年におよぶシリア内戦を終結に導く政治的解決策を見いだせないでおり、事態打開を目指すいかなる試みも、国連安保理でロシアと中国が繰り返し拒否権を発動したことで、各国の意見対立のみが浮き彫りにされてきた。

これまで査察団は、シリアの化学兵器に関する包括的な査察を行うことができずにおり、結果的に内戦に火を注ぐことになった。しかし21日の化学兵器使用により、国際社会の介入を求める声は今後拡大していくもの思われる。米国と国連は、今後の対応がもたらす影響を慎重に考慮しながらも何らかの行動を起こすよう迫られている。
 

「一方で、化学兵器が再び使用され、オバマ大統領の所謂『レッライン』の許容範囲がシフトし続ける可能性もある。しかし、今回の事件でシリア紛争が抱える危険性の度合いが高まったのは確かである。」と同紙は報じた。

またガルフ・ニュース紙は、「これまで米国が中東危機に介入してきた成績は決して芳しくない。むしろ、通信簿の内容は近年悪化している。」と付け加えた。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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 *1)1月21日の化学兵器使用はちょうどシリア政府の要請で国連査察団がダマスカスに到着した時期に起こったもので、シリア政府によるものかどうかについては定かではない。一方シリア政府は、化学兵器の使用は、外国の軍事介入を促すために反政府勢力が行った犯行と主張している。

|UAE|レバノンのトリポリで爆弾テロ

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【アブダビWAM】


アラブ首長国連邦(UAE)のアンワル・ムハンマド・ガルガーシュ外相は、8月23日にレバノン北部の(スンニ派住民が8割を占める)トリポリ市内の2つのモスクで金曜礼拝直後に車載爆弾が相次いで爆発した事件について、「シリア情勢が緊迫化している中で、レバノン国民の間に暴動の種をまき同国の安定と治安を揺がそうとした行為であり、UAE政府はこれを非難するとともに、今後の経過を重大な関心を持って見守っていく。」との声明を出した。

またガルガーシュ外相は、レバノンの各派に対して、国の統一と安定を揺るがそうとするテロリストの陰謀から祖国と国民を守るために団結して事態の鎮静化を図るよう呼びかけた。

また外相は(被害にあったモスクで導師をつとめるシリア政府に批判的なスンニ派聖職者を狙ったとみられる)今回の2つの爆弾テロ事件と15日にベイルート南郊外(=イスラム教シーア派組織ヒズボラの拠点地区)で起きた爆弾テロ事件の犠牲者の家族に哀悼と同情の意を表するとともに、負傷者の早期回復を祈った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【リオデジャネイロIPS=ファビオラ・オルティス】

公式統計や学術調査によるとブラジル南東部のリオデジャネイロ州では、過去20年間に92,000人近い人々が失踪しており、しかもその大半が、殆ど捜査されることもなく未解決事件とされている。

アマリウド・デ・ソウザさん(43)は、州都リオデジャネイロ市を囲む丘陵地帯に広がる多数の貧民街(ファヴェーラ)の中でも最大規模のロシーニャ(Rocinha)貧民街に、妻と6人の子どもと暮らしていた。

デ・ソウザさんの住居は、丘を登り切ったところの「ロウパ・スジャ(汚い洗濯物)」と呼ばれる細い路地に面したわずか10平方メートルほどの建物だった。

その近辺には街灯はなく、衛生環境は劣悪で、上下水道も未だに整備されておらず、ゴミの収集も行われていない。

デ・ソウザさんは、家族を養うため、建設労働者として働く傍ら様々な雑務をこなしていた。そして非番の日にはよく魚釣りに出かけていた。

6月14日の日曜日、デ・ソウザさんが魚釣りから帰って自宅にいたところ、戸口に20人ほどの軍警察官が現れ、これから尋問のために軍警察治安部隊(UPP本部まで連行すると告げられた。

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UPPは、リオデジャネイロ州政府が州内各地の貧民街の犯罪捜査、とりわけ麻薬密売組織を締め出す目的で創立した特殊部隊である。同州政府は、2014年のサッカーワールドカップ2016年のオリンピックがリオデジャネイロで開催されるのを念頭に、公共サービス(水道導入、公共衛生・教育プログラムの提供等)の向上を盛り込みつつ、貧民街の治安回復に主眼を置いた「広域警備・犯罪防止戦略」を2008年から実施している。

リオデジャネイロ州政府はこの戦略に基づいて2011年11月に警察軍特殊作戦部隊(BOPE)を中心とする治安部隊3000名をロシーニャ貧民街に投入し、それまで同地を実質支配していた重武装の麻薬組織の一掃を図った。そして2012年9月、UPPの設置をもって、同貧民街の(麻薬密売組織からの)完全解放を宣言していた。

軍警察の車に押し込められたのが、ゼ・ソウザさんに関する最後の目撃情報である。

リオデジャネイロではこの2か月ほど(政治への不満や汚職の多発に対して)激しい抗議活動が続いているが、デ・ソウザさんの失踪事件は警察腐敗を象徴する出来事として、大いに注目を浴びることとなった。今では、「アマリウドはどこ?」という言葉とともに、彼の顔写真を載せたポスターが街中に貼られている。

アムネスティ・インターナショナルのジャンディラ・ケイロス氏は、「軍警察の動向には不審な点が多い。もし尋問が目的ならば、デ・ソウザさんはUPP本部よりはむしろ地元の警察署に出頭すれば済むことだったはずだ。」とIPSの取材に対して語った。

アムネスティ・インターナショナルは、300百万人にのぼる世界各地の支援者に対して、リオデジャネイロ州政府及び連邦政府(連邦警察局を管轄する部門)に対して、デ・ソウザさん失踪事件について、徹底した捜査の実施と、目撃者の保護、そして違反者の訴追を求める書簡を送るよう呼びかけている

「軍警察はデ・ソウザさんを釈放したと主張していますが、これまで彼に関する情報は何も見つかっていません。デ・ソウザさん(或いは彼の遺体)の所在が全く不明なのです。もし彼が既に亡くなっているとすれば、少なくともきちんとした埋葬をしたいというのが家族の希望なのです。」とケイロス氏は語った。

デ・ソウザさんが釈放後歩いて出所したとする軍警察側の主張は、UPP本部に取り付けられている監視カメラの映像を確認すれば裏付けられるはずだが、軍警察は事件当夜はカメラが故障していたとしている。また、デ・ソウザさんを逮捕した際に使用されたパトカーのGPS装置は、当日電源が繋がっていなかったとされている。

一方地元警察は、この事件を、UPPの要員か麻薬密輸業者による殺人事件とみて捜査している。

デ・ソウザさんの家族は、生きて再会する希望を失いつつある。またこの失踪事件は、近隣住民の間に、警察に対する憤りと十分に保護されていないことへの不安感を広める結果となった。

デ・ソウザさんの妻エリザベス・ゴメスさんは、怒りに震えながら「軍警察は、夫を逮捕した際、彼が所持していた書類も押収していきました。夫が失踪して既に1か月が経過し、手元にはもう現金がありません。せめて、適切な埋葬をするためにも、夫の遺骨は帰ってきてほしいです。『アマリルドはどこ?』という質問に対する答えがほしいのです。」と語った。

ブラジルでは、この注目を集めたデ・ソウザさんの失踪事件によって、これまでに忽然と「失踪」した数知れない人々のことが問題になり始めている。そしてそうした未解決事件の大半について、主に警察官の関与が疑われている。

「治安研究所(Public Security Institute)」によると、リオデジャネイロ州では1日平均15人が失踪しているという。そしてそれらの主な原因は、殺人、家族内不和、精神的問題などである。

また、リオデジャネイロ連邦大学の社会学者ファビオ・アラウジョ氏の調査によると、1991年から2013年5月までに、リオデジャネイロ州で9万1807人が失踪したとみられるという。

この調査によれば、2011年の失踪者数は5482人、そして翌年の2012年の失踪者数は5934人であった。また失踪者の大半は、各地の貧民街或いは郊外の貧しい地区に住む男性であった。

またアラウジョ氏は報告書の中で、警察は民兵組織(強奪その他の組織犯罪に関与している非番の警察・軍関係者で構成)や麻薬密輸組織と同様に、「極めて暴力的」であり、「これらの組織は時には互いに争うが、時には(失踪した犠牲者の)死体を隠すために協力し合っている。」と記している。

8月13日、リオデジャネイロ州議会人権委員会による公聴会が開かれ、失踪人の家族や人権活動家が証言した。

2008年6月に失踪した当時24歳の技術者パトリシア・アミエイロさんの兄弟であるアドリアーノ・アミエイロさんは、「私の妹の車が警察によって銃撃され、もう5年も戻ってきません。」「今は姉に再び生きて会えるとは思っていませんが、彼女の遺体を埋葬できない状況では、私たち家族はこの問題に踏ん切りをつけることができないのです。」と証言した。

現在、連邦上院では、強制失踪犯罪を刑法の新たな条項に分類する法案審議が進められている。

ブラジルでは犠牲者の遺体が消失するケースが頻繁に報告されている。その背景には、遺体が発見されなければ、警察が捜査を中止する慣行が影響しているものと考えられる。

市民団体「Rio de Paz(平和なリオ)」のアントニオ・カルロス・コスタ代表はIPSの取材に対して、「この国は、生命に対する罪に関しては、罰せられない国と言わざるを得ません。」「数千人に及ぶ人々が失踪しても、政府当局は犠牲者に何が起こったか気にかけようともしません。そして失踪事件の多くが、警察署に登録さえされないのです。それどころか、失踪事件に警察官自身が関与していることも少なくないのですから。」と語った。

またコスタ氏は、「公式統計の内容は確かに『恐ろしい』ものです。しかし、実際の失踪者数はこうした公式統計よりも多いのが現実です。また、リオデジャネイロ市の周辺にはこうした犠牲者の遺体を埋める秘密の埋葬所が点在しています。」と語った。

「私たちは人の生命が失われることに無感覚になってしまう文化に生きています。そしてこの文化はこの国の権力者の姿勢によく表れています。」とコスタ氏は語った。

リオデジャネイロ州議会人権委員会のマルセロ・フレイソ委員長は、デ・ソウザさんの失踪に関する調査には「大きな矛盾点」があり、検察当局と地元警察に対して、事態を明らかにするように8月に入って公式に要請した。

フレイソ委員長は、デ・ソウザさんがロシーニャ貧民街における麻薬取引に関与していた疑いがあるとする軍警察当局の主張について、デ・ソウザさん自身と彼が失踪しているという主張の信頼性を貶めることを狙ったものであるとみている。

フレイソ委員長は、IPSの取材に対して、「(警察の主張とは異なり)デ・ソウザさんや彼の家族が麻薬取引に関与していた証拠はありません。」と指摘するとともに、リオデジャネイロ州内における失踪事件を捜査する、検察局、連邦警察局、社会扶助・人権擁護活動家からなる独立タスクフォースの創設を提案している。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【プノンペンIPS=シンバ・シャニ・カマリア・ルソー】

サムリン・チェイ(22)さんは、4歳の時に両親が亡くなって以来、プノンペンの王宮近くを流れる川沿いでストリート・チルドレンとして生活していた。ある日、「ミトゥ・サムラン(Mith Samlanh)」のソーシャルワーカーに出会うまでは。

「ミトゥ・サムラン(クメール語で「友人」という意味)」は1994年に設立されたNGOで、独自の斬新な方法で、路上生活を余儀なくされている若者の(家族、学校、職場、カンボジア文化等への)社会復帰と自立を支援する活動を行っている。

この団体には「ロムデン」と「フレンズ」という2つの研修レストランがあり、保護されたストリート・チルドレンは、ここで料理人として(「ロムデン」では主にカンボジア料理、「フレンズ」では主にアジア・西洋料理)の訓練を受けることができる。これらの研修レストランのユニークな点は、子どもたちの自立支援という側面に加えて、現代版及び伝統的なカンボジア料理を提供する名物レストランとして、地元カンボジアのみならず国際的にも高い評価を獲得していることである。

サムリンさんがこのNGOに出会って研修レストランで働き始めたのは15才の時だった。彼はこれによって自分の住み家と将来を手に入れたのである。「(研修レストランでは)クメールの伝統料理をはじめ、接客のノウハウやサービス産業について学びました。またその間、宿泊先も提供されました。」とサムリンさんはIPSの取材に対して語った。

3年間の訓練の後、サムリンさんは新たに同研修レストランの講師として働かないかと持ちかけられた。サムリンさんは、元ストリート・チルドレンとして、かつての自分と同じような境遇の子どもたちを手助けできる機会を得られたと感じている。

「子どもたちにとって、ストリートの生活は過酷です。食べ物が十分得られないし、自分の身を守れる保証もどこにもありません。多くが麻薬常習者になっていきますが、この世の中に私たちの将来を気に掛ける人なんてどこにもいないように思えるのです。」

「ここでは、ストリートに暮らしていた生徒たちに自分自身の経験を話すことで、彼らにも諦めないで頑張れば道は開けてくるという自信を着けさせることができるので、この仕事に大いに満足しています。」

カンボジアでは総人口1500万人のうち、44.3%が18歳未満の青少年である。公的統計によれば、カンボジア国民の35%が貧困線(1日45セント)以下の暮らしを余儀なくされている。また国際連合児童基金(ユニセフ)によると、1~2万人の子どもがプノンペンの街頭で働いているという。

14歳からプノンペンの街頭で働いてきたボファ(17)さんも、そうした子どもの一人である。ボファさんは、両親にとって路上のケーキ販売による収入だけで8人家族を養うのは困難だった、と振り返る。

「十分な食料を買うだけの売り上げがなかったり、学校にも通わせてもらえない時期もあり、辛かったです。」「状況が変わったのは、『ミトゥ・サムラン』のソーシャルワーカーが街頭の私たちに声をかけ、食料を提供してくれるようになってからです。彼らは、私にコンピューター技能や伝統料理を作る技術の習得に興味があるか尋ねてきました。当初、自分が家族から離れれば、ケーキ売りを手伝えなくなるので家族が困るのではと思い躊躇しました。」とボファさんはIPSの取材に対して語った。その後、ボファさんは支援を受け入れた。

カンボジアの就労状況は極めて厳しい。毎年労働市場に新たに流入してくる40万人の若者を吸収できるだけの経済力が国にないのだ。その結果、労働省の統計によると、国内で仕事を見つけることができない基礎教育や職業訓練経験がない20~30万人の若者が、単純労働を求めて毎年国外に流出している。

「ストリート・チルドレンは、教育を受ける権利を失っているのが現状です。」「そこで、3から14歳までの子どもに対しては、公立学校への編入が容易になるように非公式教育を提供しています。一方、15~24歳の青少年は就学よりも就職に関心を示す傾向にあるので、私たちの研修センターにおいて職業訓練を提供しています。」とフレンズレストランの広報担当メンホーン・ゴさんは語った。

「訓練プログラムでは、子どもたちにクメール人として母国の文化に誇りを持つとともに、自信を着けさせることを主眼にしています。つまり、研修生たちは自尊心とともに公衆衛生管理や接客の技術を体得していくのです。そして研修を終了した者に対しては、職探しの支援を行っています。」

こうした膨大な数の若者が深刻な問題に直面している現実に、カンボジア政界もようやく注意を向けざるを得ない状況が生まれてきている。

今日カンボジアの有権者の約半数は25才以下であり、先月行われた総選挙では、若者の雇用促進を訴えた、野党カンボジア救援党(CNRPが大きく躍進した。

他方で、フン・セン首相率いる与党は22議席を減らしており、生活の質が向上しないことへの若者の怒りが表れたものと、広く見られている。

「家族に楽をさせるのが私の夢です。そのためには、いつの日か自分の家を持ち、起業してクメール料理を世界の人々に紹介できるようになりたいと考えています。」とボファさんは語った。

「私は『ミトゥ・サムラン』に来て以来、自分の将来について、より積極的に考えられるようになりました。というのは、ここで職業訓練を受けることができたお蔭で、今や、自分の夢を実現する技術をまもなく身に付けることができるからです。」(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【アブダビWAM】

世界のイスラム教徒は、そろそろ人類が成し遂げてきた21世紀の英知を受け入れる時にきている。
 
ラマダン明けの日(今年は8月7日に終了、8日から祝祭期間開始)については、今日では科学的に随分前もって正確な日を特定できるようになっており、イスラム教徒はこうした科学的手法を採用すべきである。

「各国で長老らが三日月を裸眼で観察してラマダン明けの日を確認する(=ウルヤ)手法は、今から1000年以上前の預言者ムハンマド(570頃~632)の時代に既存知識を結集して編み出されたもので、当時としては理にかなっていたといえよう。しかし、当時の唯一の移動手段は馬かラクダで、通信手段もこうした騎乗のメッセンジャーを通じた手紙の交信(相手に届くまでに数日から数か月を要した)に限定されていた。」とアラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙ガルフ・ニュース紙が8月8日付の論説の中で報じた。

「しかし世界は当時からは大きく様変わりしており、イスラム教徒も今日では、車・航空機・船舶で移動し、通信手段にインターネットをはじめ、携帯電話、電子メール、インスタントメッセージを利用するようになっている。また今日イスラム諸国には、最先端の病院、学術施設、巨大な商社、そして最も先進的な都市を見ることができる。」

「すなわち、今日ではいつラマダン明けの三日月が登るのかを科学的に正確に計測し、直ちに世界中に知らせることが技術的に可能である。そして、そうしたからといって、イスラム教徒としてのあるべき姿になんら悪影響が及ぶものではない。むしろ、ビジネスや休暇日程が立てられず、生活に不必要な支障をきたしている今日の問題を解決することになるだろう。」

「科学的手法を採用することでイスラム世界におけるイドを1つに統一することが可能となる。イスラム諸国は、そろそろラマダンの開始と終わり(=イド)を、こうした方法で同じ日に祝えるよう、統一を図るべきである。もしイスラム諸国が、イスラム教の重要な年間行事であるラマダンやイドについて、統一した対応ができないならば、イスラム世界における紛争にどうして終止符を打つことができるだろうか?」

「ラマダンのはじめと終わりの日を科学的な観測に基づいて統一することは、イスラム教を傷つけるものではなく、むしろ神の祝福である。イスラム諸国は旧来の手法に終止符を打ち、21世紀の時代に即した観測方法を受け入れる時にきている。」とガルフ・ニュース紙は結論付けた。(原文へ

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「エジプト国民は分裂回避のため互いに一歩引き、友好国の支援を受け入れるべきだ」とUAE紙

【アブダビWAM】

アラブ首長国連邦(UAE)の英字日刊紙「ナショナル」は8月16日、「分裂状態が続くエジプトが再び安定を取り戻すのは遠い将来のように思えるが、それに向けた努力を惜しんではならない。安定復帰以外の選択肢は、エジプトはもとより、中東地域全体にとって想像もつかないことである。」と指摘したうえで、「エジプトに再び安定と平和を取り戻す道は困難だが決して不可能ではない。」との論説を掲載した。

「現在のエジプトは危険なコースをたどっている…つまり、一旦論争が暴力化すれば、社会内の亀裂と憎しみを増幅させるほうが、それを止めさせるよりもはるかに容易になるという自明の理が、今エジプトでは、現実のものとなってしまっているのである。」

同紙は、アルジェリア、レバノン、シリア、北アイルランド、バルカン半島諸国の例を挙げて、社会の分裂を煽る容易さと反比例して、一旦紛争に発展してしまってから再び事態の鎮静化をはかるのは、極めて困難である、と警告した。


「7月4日に軍によって解任されたムハンマド・モルシ前大統領の支持者が、カイロ東部のラバ・アルアダウィヤモスク周辺と中心部のナハダ広場の2カ所で、モルシ氏の復権を求めて座り込みを続けていた事態については、当局による対応が明らかに必要であった。

しかし、8月14日に暫定政府が実施した強制排除では治安部隊の攻撃でデモ隊側に600人近くの死者が出るなど、事態収拾どころか、安定回復への道を一層複雑にする結果となった。しかしエジプト社会の安定回復は不可能ではない。」とナショナル紙は報じた。

また同紙は、14日の強制排除の後にホスニ・ムバラク時代への回帰を髣髴とさせる戒厳令が全土に敷かれたことに言及し、「エジプト国民は、現状から一歩引き、友好国の助けを受け入れるべきだ。」と報じた。

「エジプト国民は、今般非常事態宣言と外出禁止令が再び全土に敷かれた(ムバラク時代の30年は戒厳令下にあった:IPSJ)この機会に、一歩下がって現状を冷静に再考すべきである。また、今こそエジプトの友好国、とりわけエジプトで対立する両勢力(暫定政権側とムスリム同胞団側)に影響力を持つ諸グループを国内に抱える湾岸諸国が、事態打開に向けた協力の手を差し伸べる時にきている。」とナショナル紙は付け加えた。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【IDN/Pressenza広島=マーゼン・クムスィーヤ】

私とオリバー・ストーン監督は、8月6日に人類史上初めて核爆弾が投下された広島の地で講演をする機会がありました(講演内容は本原稿の下段に掲載しています)。また2日後の9日9日にも、第2の核爆弾が投下された長崎の地で話をすることになっています(注:原稿執筆時は8月7日:IPSJ)。

1945年に米国が行った広島・長崎両市への原爆投下は、今日に至る人類の歴史において、もっとも恐ろしい国家テロ行為です。私は、これまでにも恐怖で身震いするような(原爆被害の)写真や映像を見たことはありますが、実際に広島の被爆地を訪れて感じたものは全く異なった次元のものでした。私は、太陽が眩しく照りつける8月6日の午前8月15分、各地から平和記念公園に集ったさまざまな背景を持つ人々とともに、原爆ドームの横で3分間地面に身を横たえました。私たちは空を見つめて、68年前のこの時間に、頭上に投下された核爆弾が上空600メートルで実際に爆発した恐怖を、こみ上げる涙に震えながら想像しようと試みました。しかし、実際に人口密集地の住民の頭上に核兵器を投下し、一瞬にして数万人もの生身の人間を焼き尽くして骨だけにし、さらに数万人の肉体を焦がして皮膚をぼろきれのようにした恐怖を、いかにして想像することができるでしょうか。さらにそれ以上に想像しがたいのは、同じ人間に対してそのような悲惨をもたらす決定をした「人間の心の闇」に他なりません。


オリバー・ストーン監督とピーター・カズニック教授は、米国の教科書で現在も教えられている神話とは異なる、原爆を投下した真の理由について、明晰な説明をしてくれました。しかしその真相が何であったとしても、(原爆投下を指示した)ハリー・トルーマン大統領と将軍たちが人類にもたらした惨たらしい現実は、なにも変わりません。当時、放射線中毒が人体に及ぼす影響については、医学関係者のみならず、それまでの実験に関する詳細な報告を受けていたトルーマン大統領も理解していました。私は今回の初来日以来、多くの被爆者や彼らの子孫と面談し、白血病やその他の癌、あるいは先天性奇形等を患って亡くなっていた子供たちの話を聞きましたが、そのあまりの痛ましさに圧倒されました。一時訪問者の私ですらこのように感じるということを考えれば、まして日本に暮らしている人々の原爆に対する心情は、察して余りあるものがあります。

ところで、広島の原爆死没者慰霊碑からは、ナショナリズムや戦争(を肯定する)気配はまったく感じられません。それどころかそうした気配からは遠く隔絶した存在のように思いました。つまり広島の事例は、戦争の犠牲者であっても、(加害者への憎しみを植え付け、武力と団結の必要性を強調する)戦争やナショナリズムが(将来の悲劇を繰り返さないための)解答ではないと理解することが可能だということを示しているのです。そこで私は、世界のより多くの人々が、広島から学ぶことで、多くのホロコースト博物館が醸し出しているシオニズムと戦争を肯定する誤ったメッセージを変革し、それに代わって、平和を支持する構造を築き上げていってほしいと切に願うものです。

また広島では、多くの子どもたちや若者が自発的に愛と平和を訴える活動に参加しているのを見て、感銘を受けました。会場では高校生たちが世界中の核兵器を禁止するための署名を集めていました。また、数百人規模の市民が、地元の電力会社に対して原子力の利用をやめるよう求めるデモ行進を行い、私も参加しました。その際、私たちが被っているパレスチナの彩り豊かなクーフィーヤが歓迎され、彩り豊かなデモ隊の横断幕や旗の中で映えたのを印象深く思います。私が広島で目にしたのは、日本に関する海外報道ではあまり触れられてこなかった、日本の人々が抱いている平和への希望や先の戦争の痛みであり、一部の右派政治家や第二次世界大戦における日本軍の残虐行為さえ否定する一部の人種差別論者に敢然と立ち向う素晴らしい人々の姿でした。

私はパレスチナ人訪問者として、とりわけ日本の諸都市が、規律正しく整然としていることに感銘を受けました。すべてが完全に機能しているように思えます。鉄道の発着時間は分単位で正確であり、数百万人の乗客を、市内及び各市を結ぶ広域ネットワークで運んでいます。また、日本の通りは、きれいに保たれており、(もちろん)私たちの自由な移動を妨げる(イスラエルにあるような)分離壁やチェックポイントに出くわすことはありませんでした。

人々は整然と通りを渡り、ゴミは自分で携帯したゴミ袋に入れて持ち帰っています。行列を飛び越えるものはおらず、家々や道行く車はきれいに掃除が行き届いています。そして、ほぼすべての人々が、(周りに迷惑にならないように)低い声で語り合い、お互いに礼儀正しく接しています…このように私の目に映った日本の社会は、穏やかで平和に満ちていました。

また日本は、多くの国々と同じく、西洋式の資本主義が浸透した社会でもあります。つまり、この国においても、マクドナルドやスターバックス、はたまた売春婦や腐敗した政治家を目の当りにすることができるのです。日本社会は、他国と比較してより均質的な特徴を持っています、しかし一方で、人口1億2千万人を抱える大国でもあります。そして、日本を短期間でも訪問した人ならだれでも、この国には驚くほど多様な発想やコンセプトが共存していることに気づくことでしょう。

また(広島の前に訪問した)名古屋では、環太平洋連携協定(TPP)への反対を呼びかける市民団体が市内の主要な広場で開催していた集会を訪れました。この集会の主催者は、日本では数少ない先住民コミュニティーのひとつ(アイヌ)に属しているイサマンという名の素晴らしい人物でした。そして広場には多くの市民が食事を携えて立ち寄り、情報交換を行っていました。また、同じ広場の片隅では、一人の若い音楽家が、日本から遠く離れたパキスタンに学校を建設するための寄付を求めて、ギターを演奏していました。

また名古屋では、日本のプロレタリア文学の代表的な作家である小林多喜二氏(1903年~33年)の著作に関する討論会に参加しました。聴衆は様々な背景を持つ30名ほどで、会場の玄関で靴を脱ぎ、赤いスリッパに履き替えて、元書店の店主が語る小林多喜二作品に関する議論に熱心に聞き入っていました。小林多喜二は幼少から文才に恵まれた人物でしたが、発表した作品が当時の政府当局に問題視されたため、後に(北海道開拓銀行職員の)職を追われたうえに、30歳の時に特高警察による拷問で死亡した人物です。最も有名な作品は、蟹工船で酷使される貧しい労働者の悲惨な生活と、仲間への思いやり、そして船主の残虐さを描いた「蟹工船」です。日本では、バブル崩壊後の若い世代における非正規雇用の増大と、働く貧困層の拡大、低賃金長時間労働の蔓延などの社会経済的背景に、このジャンルの文学作品が見直されるようになっているようです。

現在、多くの日本人が、もっと人間を大事にする社会を希求し、パレスチナも含めた世界的な連帯を支持しています。私は名古屋と広島への訪問をとおして、このことを強く感じました。これまでの日本滞在中に、集会で、街頭で、電車で、或いはレストランで出会った様々な人々のことを振り返ったとき、いみじくもこれまで私が米国やパレスチナなど様々な国で出会ってきた人々のことが思い出されました。もし誰かがカメラを担いでさまざまな国を回り、この点に着目したドキュメンタリーを撮ったら素晴らしいだろうと思いました。もしそのようなドキュメンタリーを製作すれば、他国に住んでいる人とまるで双子のような人物がそれぞれの国に住んでいることがわかるでしょう。そしておそらくそのドキュメンタリー作品は、私たちを互いに近い存在にしてくれるでしょう。私はこのあとの、長崎、大阪、東京、京都を訪問する予定ですが、大変楽しみにしています。そして今回の日本訪問の成果とともに、依然として希望を失わないであらゆる困難に立ち向かっている祖国パレスチナに帰国するのを楽しみにしています。

以下に私が原爆投下から68年目を記念して8月6日に広島で行った講演内容を記します:

こんばんは、お招きいただきありがとうございます。また日本を訪問することができて、大変光栄に思います。

ここ広島では、私たちは戦争の悲惨さを最も痛感させられます。ここでは「よい戦争」というものはないのだという事実と、戦争に戦勝国も敗戦国もないという現実を改めて認識することができます。戦争は一般の人々に苦しみをもたらす一方で、富める者をさらに富ませます。つまり、戦争の勝者はカネであり、人々は常に敗者なのです。だからこそ、(第二次世界大戦において欧州連合軍最高司令官を務めた)ドワイト・アイゼンハワー大統領は、退任演説において軍産複合体による「正当な権限のない影響力(Power)」について警告したのでした。オリバー・ストーン監督が先ほどの講演で私たちに気づかせてくれた権力こそが、まさにこの点であり、米国の納税者が犯罪的なイラク戦争のためにさらに3兆ドルもの負債を抱えて苦しむ中で、焼け太りしてきたのが、他ならぬこの軍産複合体なのです。そして、広島と長崎に破壊的状況をもたらした理由について、そしてパレスチナの破滅(ナクバ)を作り出した理由について、公然と虚偽の発言をしたのが、他ならぬ、原爆投下を命じた同じトルーマン大統領だったのです。

 戦争とは、かつて米海兵隊のスメドリー・バトラー将軍がいみじくも指摘した通り、貧乏人の犠牲の上に金持ちがさらにお金を生み出すための、ペテンに他ならないのです。だからこそ、人々が力を合わせて止めようとしない限り、戦争は続いて行くことになるのです。ベトナム戦争や南アフリカ共和国の例にあるように、私たち人民だけが戦争を止めることができます。私が最も希望を見出しているのが、まさにこの人民の力なのです。

私は、世界に1200万人いるパレスチナ人のひとりですが、その約3分の2が難民であり、残りは私たちの歴史的な土地の僅か8.3%に押し込められながら、暮らしていくことを余儀なくされています。こんなことがどうして起こってしまったのか、そして、どうすれはこの人民に対する戦争を止めさせることができるでしょうか?

パレスチナ人は、もともと西アジアの「肥沃な三ケ月地帯」に住む人々の総称でした。人類文明の鍵となる一里塚が、カナンと呼ばれるこの地に始まったのです。動植物を家畜化しはじめ、アルファベットを発明し、そして法律と宗教がこの地から発達しました。

この土地は、宗教と文化の発展という点においては、実に1万1千年以上の文明化の歴史を持っています。その間、パレスチナを何か1つのものにしてしまおうという様々な試みは、ことごとく失敗しました。つまり、パレスチナ人をすべてキリスト教徒やムスリムに変えようとしたり、ユダヤ人に変えようとした、結果的に長続きしなかった試みのことです。欧州の十字軍はこの好例といえるでしょう。しかし、パレスチナと呼ばれる土地の歴史の97%の部分は、多宗教的でかつ多文化な土地として、存続してきました。

しかし19世紀末から、パレスチナに「ユダヤ国家」を作るという、新たな「シオニズム」と呼ばれる政治思想が発展してきました。当時、パレスチナ人口のうちユダヤ人は3%にも足りませんでした。このシオニズムという植民地主義的な考え方は、西側諸国とくに英国が支援し、のちに米国が一層熱心に支援するようになりました。

冷酷に組織化されたプロジェクトとして、現地のパレスチナ人を民族浄化する事業が始まりました。そして無数の虐殺が起こり、530ものパレスチナの町や村が完全な破壊の憂き目に遭いました。このとき生じた難民化は、依然として、第二次大戦後世界最大の規模のものです。その意味で、私の祖母もひとりのヒバクシャなのです。

今日、700万のパレスチナ人が難民であり、同時に500万人のパレスチナ人が、依然として私たちの歴史的な土地の僅か8.3%に押し込められながら、現在も暮らしています。イスラエルという国家はパレスチナの破壊の上に打ち立てられました。例えば今のイスラエルには、土着のパレスチナ人を具体的に差別する55の法律があります。国際的な法定義によれば、それはアパルトヘイト(民族差別)国家であることの要件を満たしています。

それでいながらシオニストらは、他の全ての帝国主義国家がしてきたように、私たち犠牲者に対してテロリスト呼ばわりすることを演出しています。欧州の植民地主義国家は、こうしたことをアメリカ大陸やアフリカ、そしてアジアにおいても行ってきました。彼らは、自分たちは文明をもたらす開拓団と自認し、野蛮で劣った者たちから自分たちを守るのは当然だと言うのです。しかし、実際は、植民地化というもの自体がすでに暴力です。そして、侵略した人びとよりも10倍もの土着の人々が殺されてきています。

イスラエルという国家による占領と植民地化がどんなに残忍かについて話せば、いくらでも話は尽きることがないでしょう。人が住んでいる家を壊し、土地から人々を引きはがすやり方について、多くの殺人や拷問について、尽きることのない話があります。子どもたちの骨は兵士に折られてきました。そして学校には白リン弾が撃ち込まれました。この話にはイスラエルの核武装さえ続くこととなってしまいました。最近では、国際法に違反しているイスラエル人の入植地から、パレスチナ人の村に対して不法投棄されている有毒廃棄物が問題になっています。その他には、弁護士の面会やまして裁判官にすら一度も会ったことのない、何年も拘留されている政治犯たちの話もせねばなりません。また、平和的なデモに参加しただけで殺害された友人たちのことも話さねばなりませんし、私自身の家族の苦難の歴史についても話さねばなりません。しかし、これらすべてをお話しするには、今は時間がありません。

パレスチナ人はこうした過酷な攻撃に対して、過去100年もの間、抵抗してきました。パレスチナの抵抗は実に様々な形態をとりましたが、大半は非武装でした。平均約10年ごとの頻度で、これまで13回の大きな抵抗運動が起きています。ちなみに南アフリカはアパルトヘイトのもと、15回の抵抗運動がありました。

私たちパレスチナ人は、いつも革新的な方法で闘ってきました。例えば1929年にパレスチナの女性たちが120台の車を集めて、エルサレムの旧市街をデモ運転したことがありますが、これは人類史上初めて、車を使ったデモとなりました。私たちは植民地主義者のシオニズムを支持するのを止めるよう、オスマン帝国大英帝国にロビー活動も行ってきました。また、納税拒否運動をはじめ、さまざまな形の市民的不服従の形を模索してきました。

また同時に国際的な連帯に支援を求めてきました。これによって今までに何万人もの海外支援者が私たちの闘いに加わりました。ISMと呼ばれる国際連帯運動もあります。また、南アフリカのアパルトヘイトに対する闘いのように、「ボイコット・投資撤収・制裁運動」(BDS)がありました。こうした幅広い連帯運動は本当に重要なものですから、ぜひとも参加を呼び掛けたいと思います。こうした運動を通して、私たちの目に政府の偽善が明らかになっていきます。表向きは民主主義や人権を謳う一方で、人種差別政策、専制政治、戦争などの、あらゆる形の人権侵害を支持する偽善政治のことが明らかになって行きます。

私たちは、地球という、この小さな青い惑星を共有しています。しかし同時に、イスラエルのような国が地球を破壊しかねない核兵器に時代に生きています。従って世界の出来事に対して無関心を装っている余裕はありません。かつてドイツの哲学者ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルは、「人類は歴史に学ばないということを、歴史から学んだ。」と言いましたが、この言葉は間違いだと、いつか言ってやらねばなりません。私たちは共通の歴史から学ぶことができるのです。そして現在インターネットのおかげで、私たちは、核兵器と戦争に反対する世界的な蜂起を開始しつつあるのです。人民の力が世界的な連帯を通じて最終的に実現された時、私たちは戦争との闘いに勝つだけではなく、貧困や気候変動、無気力、無関心のもたらす様々な問題にも打ち勝つことができるでしょう。これこそが、私たちが犠牲を払ってでも得る価値がある未来だと、思っています。

仏教には、「この世界の不幸に、喜んで参加しましょう」という言葉があります。この参加というのが重要な鍵に他なりません。それでは皆さん、この世界にある様々な不幸に、喜んで参加しようではありませんか。ご清聴、有難うございました。アリガトウ、サンキュー、シュクラン[アラビア語で「ありがとう」の意]、平和、サラーム[アラビア語で「平和」の意]。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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【プノンペンIPS=シンバ・シャニ・カマリア・ルソー】

サムリン・チェイ(22)さんは、4歳の時に両親が亡くなって以来、プノンペンの王宮近くを流れる川沿いでストリート・チルドレンとして生活していた。ある日、「ミトゥ・サムラン(Mith Samlanh)」のソーシャルワーカーに出会うまでは。

「ミトゥ・サムラン(クメール語で「友人」という意味)」は1994年に設立されたNGOで、独自の斬新な方法で、路上生活を余儀なくされている若者の(家族、学校、職場、カンボジア文化等への)社会復帰と自立を支援する活動を行っている。

この団体には「ロムデン」と「フレンズ」という2つの研修レストランがあり、保護されたストリート・チルドレンは、ここで料理人として(「ロムデン」では主にカンボジア料理、「フレンズ」では主にアジア・西洋料理)の訓練を受けることができる。これらの研修レストランのユニークな点は、子どもたちの自立支援という側面に加えて、現代版及び伝統的なカンボジア料理を提供する名物レストランとして、地元カンボジアのみならず国際的にも高い評価を獲得していることである。

サムリンさんがこのNGOに出会って研修レストランで働き始めたのは15才の時だった。彼はこれによって自分の住み家と将来を手に入れたのである。「(研修レストランでは)クメールの伝統料理をはじめ、接客のノウハウやサービス産業について学びました。またその間、宿泊先も提供されました。」とサムリンさんはIPSの取材に対して語った。

3年間の訓練の後、サムリンさんは新たに同研修レストランの講師として働かないかと持ちかけられた。サムリンさんは、元ストリート・チルドレンとして、かつての自分と同じような境遇の子どもたちを手助けできる機会を得られたと感じている。

「子どもたちにとって、ストリートの生活は過酷です。食べ物が十分得られないし、自分の身を守れる保証もどこにもありません。多くが麻薬常習者になっていきますが、この世の中に私たちの将来を気に掛ける人なんてどこにもいないように思えるのです。」

「ここでは、ストリートに暮らしていた生徒たちに自分自身の経験を話すことで、彼らにも諦めないで頑張れば道は開けてくるという自信を着けさせることができるので、この仕事に大いに満足しています。」

カンボジアでは総人口1500万人のうち、44.3%が18歳未満の青少年である。公的統計によれば、カンボジア国民の35%が貧困線(1日45セント)以下の暮らしを余儀なくされている。また国際連合児童基金(ユニセフ)によると、1~2万人の子どもがプノンペンの街頭で働いているという。

14歳からプノンペンの街頭で働いてきたボファ(17)さんも、そうした子どもの一人である。ボファさんは、両親にとって路上のケーキ販売による収入だけで8人家族を養うのは困難だった、と振り返る。

「十分な食料を買うだけの売り上げがなかったり、学校にも通わせてもらえない時期もあり、辛かったです。」「状況が変わったのは、『ミトゥ・サムラン』のソーシャルワーカーが街頭の私たちに声をかけ、食料を提供してくれるようになってからです。彼らは、私にコンピューター技能や伝統料理を作る技術の習得に興味があるか尋ねてきました。当初、自分が家族から離れれば、ケーキ売りを手伝えなくなるので家族が困るのではと思い躊躇しました。」とボファさんはIPSの取材に対して語った。その後、ボファさんは支援を受け入れた。

カンボジアの就労状況は極めて厳しい。毎年労働市場に新たに流入してくる40万人の若者を吸収できるだけの経済力が国にないのだ。その結果、労働省の統計によると、国内で仕事を見つけることができない基礎教育や職業訓練経験がない20~30万人の若者が、単純労働を求めて毎年国外に流出している。

「ストリート・チルドレンは、教育を受ける権利を失っているのが現状です。」「そこで、3から14歳までの子どもに対しては、公立学校への編入が容易になるように非公式教育を提供しています。一方、15~24歳の青少年は就学よりも就職に関心を示す傾向にあるので、私たちの研修センターにおいて職業訓練を提供しています。」とフレンズレストランの広報担当メンホーン・ゴさんは語った。

「訓練プログラムでは、子どもたちにクメール人として母国の文化に誇りを持つとともに、自信を着けさせることを主眼にしています。つまり、研修生たちは自尊心とともに公衆衛生管理や接客の技術を体得していくのです。そして研修を終了した者に対しては、職探しの支援を行っています。」

こうした膨大な数の若者が深刻な問題に直面している現実に、カンボジア政界もようやく注意を向けざるを得ない状況が生まれてきている。

今日カンボジアの有権者の約半数は25才以下であり、先月行われた総選挙では、若者の雇用促進を訴えた、野党カンボジア救援党(CNRPが大きく躍進した。

他方で、フン・セン首相率いる与党は22議席を減らしており、生活の質が向上しないことへの若者の怒りが表れたものと、広く見られている。

「家族に楽をさせるのが私の夢です。そのためには、いつの日か自分の家を持ち、起業してクメール料理を世界の人々に紹介できるようになりたいと考えています。」とボファさんは語った。

「私は『ミトゥ・サムラン』に来て以来、自分の将来について、より積極的に考えられるようになりました。というのは、ここで職業訓練を受けることができたお蔭で、今や、自分の夢を実現する技術をまもなく身に付けることができるからです。」(原文へ

翻訳=IPS Japan

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