ホーム ブログ ページ 212

米ロ対立で今後の核問題協議に悪影響か

0

【国連IPS=タリフ・ディーン】

ロシア政府が米国人内部告発者で現在はモスクワに滞在しているエドワード・スノーデン氏に一時的亡命を認めたことを引き金に、米ロ間の政治的対立が激化しており、国連を舞台とした両超大国間の関係にも悪影響が出かねない情勢となっている。

米国政府は8月7日、翌月初めにモスクワで開催することが予定されていたバラク・オバマ大統領とウラジミール・プーチン大統領による米ロ首脳会談を延期する決定を下した。しかし、スノーデン問題の余波はこれにとどまらず、両国間の対立は今後、シリアの内戦イランの核問題、核兵器削減提案などの政治的に微妙な問題にも悪影響を及ぼすとみられている。

ロシア政府は、シリア制裁を目的に欧米諸国主導で出された国連安保理決議案に対して、中国政府とともにすでに4回も拒否権を行使している。その結果、シリアに対する国連制裁が今後なされる可能性はきわめて低くなっている。

匿名を条件にIPSの取材に応じたあるアジアの外交官は、「今後米ロ関係が悪化すれば、国連安保理はさらに機能不全に陥っていくことになるでしょう。またそれは同時に、(米ロ両国が中東の関係国と開催に向けて困難な調整を進めてきた)『シリア問題をめぐるジュネーブ会議』の開催が不可能になることを意味します。」と指摘した。

また、米ロ超大国間の対立の悪化は、国連総会(193が加盟)が今年9月26日に史上初めて「核軍縮に関するハイレベル会合」の開催を予定している中で進行している。

オバマ大統領は、6月にベルリンのブランデンブルク門で行った演説の中で、(ロシア政府に対して)核兵器の一層の大幅削減を呼び掛けた。そしてその提案は、同じくベルリン演説で提案された2016年に開催予定の「第4回核安全保障サミット」において、議題に取り上げられるものとみられていた。

国際核兵器廃絶キャンペーン(ICAN)の共同代表でオーストラリア運営委員会の議長でもあるティルマン・A・ラフ氏はIPSの取材に対して、「米国政府は、スノーデン氏をめぐるロシア政府との不和を、核軍縮議論を進展させない口実に利用することが考えられます。」と指摘したうえで、「だからこそ、核兵器を保有していない184の国連加盟国は、9つの核兵器国の人質にされている現状に終止符を打つべきなのです。つまり、これらの非核兵器保有国が主導して核兵器禁止条約(NWC)の交渉を開始し、核兵器廃絶への道を切り開くべきなのです。」と語った。ラフ氏は、メルボルン大学ノッサルグローバル保健研究所の准教授でもある。

公式の核兵器国である国連安保理5常任理事国(米国、英国、フランス、中国、ロシア)の他に、インド、パキスタン、イスラエル、そしておそらくは北朝鮮の4か国が非公式の核兵器国となっている。

Photo: The writer addressing UN Open-ended working group on nuclear disarmament on May 2, 2016 in Geneva. Credit: Acronym Institute for Disarmament Diplomacy.
Photo: The writer addressing UN Open-ended working group on nuclear disarmament on May 2, 2016 in Geneva. Credit: Acronym Institute for Disarmament Diplomacy.

アクロニム軍縮外交研究所のレベッカ・ジョンソン所長は、IPSの取材に対して、「米ロ両国にはあまりにも多くの共通利害があり、ロシアがエドワード・スノーデン氏に一時的亡命の権利を与えたからといって、それらが損なわれることはないでしょう。」と語った。

「これは冷戦への回帰とはならないだろう」と、ジョンソン氏はそれほど悲観的な様子もなく語った。

ジョンソン氏は、「プーチン大統領は核科学者イーゴリ・スチャーギン氏を11年間も収監(1999年にスパイ容疑で拘束、04年に15年の禁固刑が確定したが、2010年に米国とのスパイ交換によって身柄を引き渡された)し、米国と同じように、安全保障に関する情報や諜報部門の活動やミスが露見することを避けることに熱心です。」と指摘した。

「したがって、米ロ両国はスノーデン氏をめぐって表向きは対立しているが、両国にとって最も重要な共通の利害とは、ある種の軍備削減関係を維持することにあるだろう。」と語った。

またジョンソン氏は、「核兵器が及ぼす非人道的帰結に対する懸念を表明する国がますます増える中、おそらくロシアと米国は、核兵器を世界的に禁止すべきとの高まる声を鎮めようとして、国連総会ハイレベル会合でP5(5大国)の強い連帯を見せようとするでしょう。」と語った。

ラフ氏は、「核兵器は、地球上の全ての人類に、想像を絶する致命的な危険をもたらすものなのです。」と語った。

ロシアと米国は、世界の1万7270発の核兵器のうち1万6200発(94%)を保有しており、この生存上の脅威を取り除くために重い責任を負っている。

「しかし、両国は新しい核兵器を開発し、核戦力近代化のために両国で毎年750億ドル以上を費やしています。これは米ロ両国が核を永久に保有し続ける姿勢のあらわれに他なりません。」とラフ氏は語った。

「核兵器を廃絶することは、世界で最も緊急な課題であり、その他の問題のために妨げられることがあってはならないのです。」とオーストラリア赤十字社の国際医療顧問でもあるラフ氏は語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

関連記事:

オバマ・マジックは消えた―熱意を上回った警戒心

地政学的通貨としての核の価値を国連は引き下げることができる

核兵器禁止へ道を切り開く国際会議

ジェネリック医薬品で数百万人の命を救った現代のロビン・フッド

【ジュネーブIDN=マーティン・コー】

今回は、これまで途上国でエイズをはじめとする難病に苦しむ数百万の人々の命を救うために、誰よりも尽力してきたといってよい偉人を終日取材する機会があった。

その人物とは、インド最大のジェネリック医薬品企業「シプラ」社(1935年創業)の会長で同社の顔とも言うべきユスフ・ハミード博士(77歳)である。先般ムンバイの本社で取材に応じてくれたハミード博士は、目を輝かせながら、実に様々なトピックについて語ってくれたが、彼の口から弁舌巧みにアイデアが次々と繰り出される様子は、あたかも「大河」をほうふつとさせるものだった。

こうした非凡なハミード博士が持つ独特の迫力と魅力は、彼の明晰な科学的思考(ハミード氏はケンブリッジ大学で化学博士を取得)と、不公正を正し世界の貧しい人々のためになることをしたいという情熱、さらには、発想を実践的な製品に転換できる卓越した技能と、そこから同時に収益もあげるというビジネス原則が融合し合ったところに由来しているようだ。

Cipla
Cipla

ハミード博士は、高品質なエイズの抗レトロウィルス(ARV)薬を、途上国、とりわけアフリカ諸国の人々でも入手できるような低価格による供給を可能にした立役者として、世界的に有名な人物である。

しかしそこに至るまでに、ハミード博士をはじめとする保健活動家のネットワークや国際機関は、少数の多国籍製薬企業が特許を盾にエイズ薬品市場を独占してきた旧来の体制と対峙しなければならなかった。

それまでエイズ治療には、患者一人当たり年間12,000ドルから15,000ドルがかかっていた。しかしハミード博士は、従来高価で服用が面倒だったARVの中から最も効果的な3種(=ラミブジン/スタブジン/ネビラピン)を混合した「トリオミューン」という錠剤を開発し、患者一人当たり年間350ドルで提供すると発表した。

この発表がなされたのは2001年のことだが、当時これに深刻な危機感を募らせた多国籍製薬企業は、ハミード博士を、特許で保護されている3種の薬を混合してジェネリック版を提供している「特許侵害者」と非難した。

しかし、ハミード博士の行動は、世界中のエイズ患者と患者を支援するグループにとっては朗報で、大きな希望をもたらすものだった。ハミード博士は、彼らにとっていわば現代の「ロビン・フッド」なのである。

Robin Hood

国連機関によると、2001年当時に高価なエイズ治療薬を入手できるアフリカ人は4000人しかいなかったが、2012年にジェネリックのエイズ治療薬を利用した人は世界で800万人を超え、患者一人当たりの年間コストも85ドルまで下がっていた。

この間、ジェネリックのエイズ治療薬によって多くの人命が救われたが、その8割はインドの製薬会社が供給したものであった。しかし世界のエイズ患者の数は、依然として4000万人近くに及ぶことから、さらに大がかりな対策がとられなければならない。

2003年に強制実施権(強制実施権が発動されると、当該特許権者の事前承諾を得ることなくその技術を使うことができる:IPSJ)を世界で最初に発動したマレーシアも、ハミード博士の行動の恩恵を受けた国の一つである。強制実施権発動の動機は(価格が安い)シプラ社製の3種のエイズ薬を輸入することだったが、特許を有する大手製薬各社が対抗策として医薬品の値段を下げたため、マレーシア保健省は、特許薬を従来より安価に大量に輸入して、より多くのエイズ患者に治療を行うことができた。

がん治療に目を向ける

ハミード博士は現在、次なる関心を抗がん剤に移しつつある。昨年シプラ社は、主力のジェネリック抗がん剤3種(腎臓がんの治療薬ソラフェニブ、肺がんの治療薬ゲフィチニブ、脳腫瘍の治療薬テモゾロミド)の価格を、最大75%引き下げた。この判断についてハミード博士は、「がん患者が手頃な値段で抗がん剤を入手できるように、かつて私たちがエイズ治療薬に対してとったと同じような行動を起こす時が来たのです。」と語った。

ソラフェニブのオリジナルの抗がん剤で、ドイツの製薬大手バイエル社が特許を持つ「ネクサバール」だと、月間5091ドルの治療費がかかり、一般のインド人には手が出ない。強制実施許諾を得たインドのナトコ社はジェネリック薬を160ドルで販売しているが、シプラ社は昨年、価格をさらに124ドルにまで引き下げた。

ハミード博士はまた、その他の疾病に関する最新の科学的動向もきちんと把握しており、解決策を常に模索し続けている。

今回の取材では、ハミード博士に、数年前に猛威を振るった鳥インフルエンザ耐性マラリアが広がっている問題、さらには多剤耐性肺結核の脅威について質問したが、それぞれの疾患に対応できるジェネリック医薬品を作り上げるために、これまでどのような取り組みを進めてきたかについて、詳細に語ってくれた。

また、致死率が高い多剤耐性結核に対して、博士が最も効果が期待できると考えている、現在研究中の新薬に関する学術論文を手渡してくれた。

シプラ社は現在、従業員20,000人で、34か所の製造工場において、65の薬効分野に及ぶ2000以上の医薬品を製造している。製品の販売網は170か国におよび、年間売り上げは14億ドルを超える。

Mahatoma Gandhi/ Wikimedia Commons
Mahatoma Gandhi/ Wikimedia Commons

シプラ社は、1939年に同社を訪れたマハトマ・ガンジーが説く「民族主義と自主・自立の精神」をモットーに発展した製薬企業で、今日ではインドのジェネリック医薬品の筆頭格メーカーとしての地位を築いている。当時、ガンジーは欧州大戦勃発に伴う医薬品不足に対応するため、シプラ社の創業者であるフワージャ・アブドゥル・ハミード(ユスフ・ハミード博士の父)博士を訪れ、医薬品のインド国内における生産を始めるよう要請したのだった。

不透明な未来

ハミード博士は、インドの製薬業界の前途にはいくつかの暗雲が垂れ込めているとみている。そのひとつは、2005年にインド政府が世界貿易機関(WTOの規則に従って「物質特許制度」を導入した問題である。それ以前のインドでは、製法特許(有効成分の合成方法に関する特許)のみが認められていたため、先進国の製薬会社が特許をもつ医薬品と同一成分の薬を作っても、製造法さえ違えば国内では特許権の侵害にならなかった。しかしWTOの「知的所有権の貿易関連の側面に関する協定」(TRIPS協定)に従って新たに物質特許(有効成分を保護する)が導入されたことにより、以後地元製薬企業は、特許薬のジェネリック版を製造する場合、政府から強制実施許諾を得なくてはならなくなった。

「個々の特許薬ごとに、政府に強制実施許諾を申請して取得するプロセスは大変煩雑なのが現状です。必要なのは、特許を所有する製薬会社に対して4%の特許使用料を支払うことで自動的に強制実施許諾(=義務条件付きライセンス)を取得できる制度を構築することです。」とハミード博士は語った。

そして2つ目は、インドを含むいくつかの途上国が、欧州や米国と自由貿易協定(FTA)を結ぼうとしていることである。ハミード博士は、これらのFTAには、締結国が、新たなジェネリック薬を製造・使用することを著しく妨げる条項が含まれている問題を指摘した。

さらに3つ目は、医薬品を生成するうえで不可欠な医薬品有効成分(APIの製造を強化する必要に迫られていることである。多くの国が、要求される医薬品の形状や量に従って最終製品を生成することが可能だが、医療品有効成分を生成できる国はインドと中国を含む一部の途上国のみである。

ハミード博士は、インドでは国内産業からのニーズがあるにも関わらず、既に国内におけるAPIの生成量が減少し、逆に輸入分への依存を深めていると現状を指摘したうえで、「もし中国とインドが海外へのAPI供給をしなくなれば、世界の製薬産業は崩壊に直面することになるだろう。」と警告した。

CIPLA

またハミード博士は、多くのジェネリック新薬が当局による安全検査待ちの状態にあり、とりわけ認可決定のペースも最近かなり遅れがちになっていることから、薬事行政の効率化と価格決定方針の改善が必要だと語った。

ハミード博士は、以前からの宣言通り、今年3月末にシプラ社の社長を退任して、会社の舵取りを他企業から抜擢した専門家チームに支えられた弟(M.K.ハミード氏)と甥に託し、4月1日に非常勤会長に就任した。

この経営者交代については、シプラ社の今後の方向性について様々な憶測が流れたが、今回ユスフ・ハミード会長と1日を過ごしてみて、少なくとも彼が生きている限り、インドをはじめ世界の途上国で病気に苦しんでいる貧しい人々のために、薬を作り続けるという大義が裏切られることはないと感じた。(原文へ

翻訳=INPS Japan

関連記事:

│カンボジア│欧印貿易交渉で抗レトロウィルス薬入手困難に?

|インド|国境なき医師団「特許より患者優先を」

|インド|癌治療薬独占をもくろむノバルティス社の訴訟に怒り高まる

エジプト、核を巡る外交攻勢を強める

【イスタンブールIDN=ファリード・マハディ】

アラブ諸国とトルコの強力な支持を背景に、エジプト政府は核兵器を手始めとした中東大量破壊兵器フリーゾーン実現に向けた外交攻勢を強めている。

ニューヨークで5月3日から28日にかけて開催予定の核不拡散条約(NPT)運用検討会議を数日後に控えて、エジプト政府は、様々な会合の機会を通じて、「長年紛争に苦しんできた中東地域は非核地帯としなければならない」とする過去40年に亘る同国の主張を改めて繰り返した。

またエジプト政府は、NPT運用検討会議に出席予定の全ての関係国・機関宛に書簡を提出し、その中で、「(今年の)NPT運用検討会議は、従来の中東非核化決議を確認した1995年の(国連)決議について、その後全く進展がなされていないことを遺憾とすべきである。」と訴えた。

またエジプト政府は、同書簡の中で、中東の全ての国が参加して中東非核化への合意を目指す国際会議を2011年までに開催するよう呼びかけている。

核保有国イスラエル
 
 イスラエル
は中東で唯一の核兵器保有国であり、核弾頭の保有数はインドとパキスタンの保有核の2倍以上にあたる200基以上と伝えられている。

イスラエル政府は、NPTへの加盟を拒否しつつ、この軍事用核計画を厳しい秘密主義の管理のもとに維持していく方針を続けている。

ベンヤミン・ネタニヤフ首相はバラク・オバマ大統領が4月13日・14日両日に主催した核安全保障サミットへの出席を拒否した。同首相はNPT運用検討会議にも欠席すると見られている。

先述のエジプト政府による書簡は、全てのアラブ諸国をはじめ、トルコ及び多くのアフリカ、アジア、ラテンアメリカの国々、さらにはフランスとスカンジナビア諸国からの力強い支持を得ていると報じられている。

米国は、中東大量破壊兵器フリーゾーン構想を直ちに実現すべきとするエジプト政府の提案を支持しないかもしれないが、少なくとも「拒否権」は発動しないだろう。

核不拡散

NPT運用検討会議
開催を控えた4月26日、エジプト外務省は全ての国々に対して「NPTに加盟するよう」呼びかけた。

外務省報道官は声明の中で、エジプト政府はNPT運用検討会議への参加を通じて「全ての国々がNPTに加盟するよう働きかけていきたい」旨を述べた。

また同報道官は、「イスラエルはNPTへの加盟を拒否することで、中東の平和と安全を危機に陥れ、実効性のないものにしてしまっています。」と強調した。

また同報道官は、「中東から全ての大量破壊兵器を取り除くという目標は新しいものではなく、エジプト政府は従来から国際会議の場や、考え方を共有する国々、とりわけアラブ・アフリカ諸国や欧州諸国の一部とこの目標実現に向けた協議を重ねてきました。」と強調した。

イランの核開発計画

同報道官は、イランの核開発計画を巡る国際情勢に言及して、「イランの核開発問題は軍事行動を通じてではなく、あくまでも政治的に対処されるべきというのがエジプト政府の立場です。」「エジプト政府は、軍事的な選択肢を拒否し、この問題に関心を持つ欧米諸国に対して政治的な手段による解決を目指すよう促していきます。私たちは、いかなる軍事行動も、それが中東地域の安全と安定に及ぼす結果に鑑み、断固拒否します。」と語った。

また同報道官は、「全ての国々が、原子力の平和利用というNPT加盟と引き換えに保障されている利点から恩恵を受ける権利があります。しかしNPT加盟国は同時に、NPTの規定を順守しなければなりません。」と強調した。

エジプトの立場

一方、エジプト情報省(SIS)は、NPT運用検討会議の1週間前に、エジプトの立場を説明した公式文書を発表した。その序文には「(中東)地域の平和と安定に向けたエジプトのビジョンは、パレスチナ問題の公平で公正な解決や、国際的な正当性を有する全ての決議を完全履行といった原理原則に立脚している。」と記されている。

この公式文書はまた、「エジプトの立場は、(中東)各国の独立と主権を尊重し、中東地域を軍拡競争、とりわけ大量破壊兵器の取得を巡る争いから遠ざけ、地域全体の軍縮に取組んでいく原理原則に立脚している」旨を強調している。

エジプトはNPT運用検討会議に際して、エジプトの歴代政府が1961年以来、核兵器及び全ての大量破壊兵器一般(核兵器・生物・化学兵器)に関して「明確で一貫した立場」を堅持してきた旨を強調する予定である。

エジプト政府はそのうえで、「中東地域から、核兵器を手始めに大量破壊兵器を一掃する一方で、域内の全ての国々が、こうした兵器の保有、拡散、使用、及び全ての関連実験を禁止する全ての国際的な合意に加盟するべき」とした計画を強く主張する予定である。

またエジプト政府は、全中東諸国を「あらゆる国際管理・査察体制の下に組み込み、いかなる状況下においても、特定の国や大量破壊兵器に対して例外を認めないよう」要求する予定である。

主要点

エジプトの立場は以下の主要点に基づいている。

-(中東の)いかなる国も、大量破壊兵器を保有することで安全が保障されることはない。安全保障は、公正で包括的な平和合意によってのみ確保される。

-核兵器開発問題、中東大量破壊兵器フリーゾーン構想、及びイスラエルの「軍事優勢主義」の立場に関して、イスラエルからの「前向きな対応」を引き出せなければ、アンバランスな中東の安全保障状況は一層悪化する。

-中東大量破壊兵器フリーゾーン設立を呼びかける中で、エジプト政府は、域内のいかなる国に対する差別的或いは不公平と考えられる措置を拒否する。

-エジプト政府は、いかなる武器や国も特別扱いすることを拒否する。また、中東域内のいかなる国に対しても特別な地域を譲許することを拒否する。

-中東における大量破壊兵器武装解除を行うプロセスは、国際社会による包括的な監督、とりわけ国連とその専門機関のもとで実施されなければならない。

-エジプト政府は、中東の非核化を求めたいくつかの国連決議、とりわけ1981年に採択された国連決議487号の履行を要求する。

米国の核の傘を拒絶する

エジプト政府は、中東包括和平案の一部として米国政府が核攻撃から中東地域を守るとした提案を拒否した。

米国による「核の傘」の起源は米ソ冷戦時代に遡り、通常、日本、韓国、欧州の大半、トルコ、カナダ、オーストラリア等の核兵器を持たない国々との安全保障同盟に用いられるものである。また、こうした同盟国の一部にとって、米国の「核の傘」は、自前の核兵器取得に代わる選択肢でもあった。
 
 事実、エジプトのホスニ・ムバラク大統領は、5年ぶりとなる訪米中の2009年8月19日、バラク・オバマ大統領に「中東に必要なものは平和、安全、安定と開発であり、核兵器ではありません。」と主張した。

ムバラク大統領はそうすることで、1974年以来エジプト政府が国是としている「中東非核地帯」設立構想をあくまでも推進する決意であることを改めて断言した。

またムバラク大統領は、首脳会談に先立つ8月17日、エジプトの主要日刊紙アル・アハラムとの単独インタビューに答え、「エジプトは中東湾岸地域の防衛を想定した米国の『核の傘』には決して与しません。」と語った。

核兵器でなく平和を

「米国の『核の傘』を受け入れることは、エジプト国内に外国軍や軍事専門家の駐留を認めることを示唆しかねず、また、中東地域における核兵器国の存在について暗黙の了解を与えることになりかねない。従って、エジプトはそのどちらも受け入れるわけにはいかないのです。」とムバラク大統領は語った。

ムバラク大統領は、「中東地域には、たとえそれがイランであれイスラエルであれ、核保有国は必要ありません。中東地域に必要なものは、平和と安心であり、また、安定と開発なのです。」と断言した。「いずれにしても、米国政府からそのような提案(核の傘の提供)に関する正式な連絡は受けていません。」と付け加えた。

同日、エジプト大統領府報道官のスレイマン・アワド大使も、米国の「核の傘」について論評し、「『核の傘』は、米国の防衛政策の一部であり、この問題が取り沙汰されるのは今回が初めてではありません。ただし今回の場合、問題が中東との関連で取り沙汰されている点は新しいと言えます。」と語った。

アワド報道官は、現在浮上している中東地域に向けられた米国の「核の傘」疑惑についてコメントし、「そのようなものは形式においても内容においても全く承認できない。今は米国の『核の傘』疑惑について話題にするよりも、むしろイランの核開発問題について、欧米諸国・イラン双方による柔軟性を備えた対話の精神を基調として、取り組むべきです。」と語った。

アワド報道官はまた、「イランは、核開発計画が平和的利用を目的としたものであることを証明できる限り、他の核不拡散条約(NPT)締結国と同様、核エネルギーの平和的利用によって恩恵を受ける権利があります。」と付け加えた。

「このイランに対する取り組みには、2重基準との誹りをかわすためにも、同時並行で、イスラエルの核能力の実態解明に向けた真剣な取り組みが伴わなければなりません。」とアワド報道官は強調した。

エジプトのイニシャチブ

これら一連のアワド報道官による発言は、「中東非核地帯」設立を目指して35年に亘ってエジプト政府が取り組んできた方針に一致するものである。ムバラク大統領は、1990年4月、このイニシャチブを更に推し進めるべく、守備範囲を更に拡大した「中東大量破壊兵器フリーゾーン」構想を新たに提案している。

このエジプトの取り組みは殆どのアラブ諸国の支持を獲得し、最近でも22カ国のアラブ諸国で構成するアラブ連盟のアムレ・ムサ事務局長がこのイニシャチブの正当性を改めて是認する発言を行った。

核兵器廃絶に取組む世界キャンペーンである「グローバルゼロ」のメンバーでもあるムサ事務局長は、「中東の非核化は必ず実現しなければならない問題です。」と繰り返し宣言した。

アフリカ系アラブ人

こうしたエジプトの外交攻勢は、アラブ諸国の支持を頼みとしたものである。アラブ諸国の内、9カ国(モーリタニア、モロッコ、アルジェリア、チュニジア、リビア、スーダン、チャド、ジブチ、ソマリア)が2009年に新たに非核地帯となったアフリカ大陸に位置しており、いずれもアラブ連盟の構成国である。

また、中東地域に影響力を伸ばしている地域大国トルコも、中東非核地帯設立を目指すエジプト外交を、強力に支持している国の一つである。

大きな支持にも関わらず…

中東を核兵器及びその他の大量破壊兵器フリーゾーンとする構想に対して、中東地域及び国際社会から強い支持が集まっているにもかかわらず、潘基文国連事務総長は、この目標達成の可能性について強い疑念を表明した。

ワシントンで開催された核安全保障サミット前夜の4月12日、潘事務総長は、「中東を非核地帯とする提案については、中東和平プロセスを巡る政治状況を含めて様々な理由により、今日までなんら進展がみられません。」「私たちは中央アジアをはじめ多くの地域で、関係国の合意をとりつけ非核地帯の設立を成し遂げてきました。しかし中東非核地帯を巡る交渉は行き詰ったままになっている。」と語った。

明らかに潘事務総長は、長年に亘る中東非核地帯設立という目標を阻んでいる重大な理由については語らなかった。-結局、イスラエルは国連の正式な加盟国なのである。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩

This article was produced as a part of the joint media project between Inter Press Service(IPS) and Soka Gakkai International in Consultative Status with ECOSOC.

関連記事:
|政治|核軍縮に関しては、依然として他国に率先措置を求める
|軍縮|エジプト、米国の「核の傘」を拒絶する

元大使の著書でイランの2003年の核問題決定の内実が明らかに

0

【ワシントンIPS=ガレス・ポーター

2007年の米諜報機関の見解にあるように、イラン政府は2003年末に秘密の核兵器計画の停止を決断した。しかし、フランスの元駐イラン大使が先ごろ発表した回顧録には、イラン政府がそうした計画を実行していたわけではなかったことが示唆されている。

フランソワ・ニクロー元大使は、イラン政府高官との会話から、イラン政府の当時の核問題責任者で8月3日に新大統領に就任したハサン・ロウハニ師が核兵器に関するいかなる研究プロジェクトが進行してきたのかについて状況を把握していない、との感触を得たことを詳述している。

7月26日の『ニューヨーク・タイムズ』への寄稿記事でニクロー氏が紹介した会話ではまた、ロウハニ師が、核兵器に関連したすべての研究を停止せよとの命令に研究者らを従わせることに苦労している様子も描いている。

ニクロー氏の記した2003年のイラン核政策の状況は、イランはすでに「核計画を停止している」とした2007年の米国家諜報評価の内容とは異なっている。この評価によれば、イラン政府指導層はかつて、核兵器製造に向けた研究開発計画を一度は組織したことになる。

ニクロー氏は、ロウハニ師が「過去および進行中の核活動の詳細を報告するよう、民間・軍事組織を問わず、イランのすべての省庁に対して求める通達を出した」ことを、あるイラン政府高官が2003年10月末に打ち明けてくれたことを回顧している。

このイラン政府高官との会話は、ロウハニ師が英仏独の外相と2003年10月21日に取り決めを結んだ直後のことだったという。

またニクロー氏は、「この高官は『ロウハニ師とその側近らが直面している最大の困難は、イランのように秘密主義的なシステムの中で、何が起きているのかを正確に把握することだ。」と説明した。』と記している。

ニクロー氏はその数週間後、「ロウハニ師の親友」であるというもう一人の政府高官から、ロウハニ師の核政策チームが核兵器に関連したプロジェクトを停止するよう指示を出したと伝えられた。

ニクロー氏によれば、このイラン政府高官は「(ロウハニ師の)核政策チームは、研究者らの抵抗にあい大変に苦労している。」「なぜなら、研究者らに何年も従事してきたプロジェクトを急にやめるよう説得するのは困難だからだ。」と語ったという。

ニクロー氏は、IPSへの電子メールの中で、「ロウハニ師が核問題の責任者になった時の最初の難題は、イランの核分野において何が起こっているのかを明確に把握することであったに違いない。」と指摘したうえで、「イラン政府が核兵器計画をかつて承認したことがあるとは考えられない。」と記している。

ロウハニ師は1989年以来、国家最高安全保障委員会(SNSC)の事務局長の要職にあり、核兵器計画を開始するいかなる政府決定を知りうるばかりか、それに関与していたはずである。

「最高指導者のアリ・ハメネイ師も含め、イラン指導部のほとんどの人が、核関連の研究活動が(水面下で)進行したことに驚いていたはずだ」とニクロー氏はIPSの取材に対して語った。

こうしたニクロー氏の回顧は、イラン政府の承認なしに核兵器関連研究プロジェクトが開始されたという、これまでに公になっている情報と一致する。

核兵器を保持しないというイラン政府の方針にもかかわらず、多くの高官らは、核兵器製造「能力」を持つことが、実際に核兵器を持たずにイランに利益を与えるものだと考えていた。

しかし、そうした能力の持つ実際の意味合いについては論争の種となっていた。政界に豊富な人脈をもつテヘラン大学の政治学者ナセル・ハディアン教授は、核兵器そのものではなく「核兵器能力」を保有するという、こうしたオプションに関する2つの潮流について、2003年に記している。ひとつの定義は、イランは「原子炉用の燃料を製造する能力のみを持つ」というものであり、他方は、「核兵器を製造するのに必要なあらゆる要素と能力を持つ」というものであった。

ロウハニ師が2003年に核政策の責任者として任命される以前に、政府の決定によってこの論争に公的な終止符が打たれることはなかった。そして、明確な政策不在のまま、軍や国防省につながる研究所のメンバーらが、国家最高安全保障委員会(SNSC)も知らないままに、1990年代後半に核兵器関連研究プロジェクトを開始したのである。

このようなプロジェクトは、SNSCが、イラン原子力庁(AEOI)や国防省、あるいは、核兵器に関連した「国防産業機構」の管理下にある軍産複合体に対するコントロールを十分果たしえていない時期に始まったものである。

1990年代中ごろまでには、AEOIが、その活動への監視の甘さを突いて、SNSCからの承認を得ずに重大な政策的意味合いを持つ行動に出ていた。

イラン核交渉チームの報道官だったセイード・ホセイン・モサビアン氏は、AEOIがアブドゥル・カディール・カーン博士のネットワークから1995年にP2型遠心分離機の設計情報を購入するという、政策に関連する重大な事柄をSNSCに対して連絡してしなかったとロウハニ師が2004年1月に自分に対して明らかにした、と回想録に記している。ロウハニ師によれば、AEOIは、「インターネットでP2型遠心分離器に関する情報を見つけ、研究を進めているところ」だと述べてごまかそうとした、という。

ロウハニ師が2003年10月に核政策の責任者として任命された際、国際原子力機関(IAEA)はイランに対して、すべての核活動に関する完全な説明を要求した。イラン国内のすべての民間・軍事組織に対して核活動に関する報告を求めたロウハニ師の通達は、同氏が、IAEAに対する完全協力の政策へとイランを転換させるとIAEAに約束した直後になされたものだった。

同時にロウハニ師は、それまで様々な機関が兵器関連の原子力研究を始めることを可能にしていた政策の抜け穴を塞ぎ始めた。

ロウハニ師は、初めから核兵器関連研究プロジェクトにかかわっていた官僚機構からの抵抗があるだろうと予想していた。彼は後に応じたインタビューの中で、「サボタージュ」も含め、新しい核政策の遂行にあたって問題が起こるであろうと予想しているとモハンマド・ハタミ大統領(当時)に伝えた、と回想している。

ロウハニ師の新核政策をめぐるその後の事態の成り行きを見ると、ロウハニ師は、核兵器はイスラム法によって禁じられているというハメネイ師の公式見解を利用して、そうした研究プロジェクトの禁止を守らせようとしたことがわかる。

核関連活動を報告し、原子力を軍事適用するいかなる研究もやめるようロウハニ師が10月末に官僚機構に対して命令したころ、ハメネイ師は、「我々の敵によるプロパガンダとは違い、我々は基本的にいかなる形の大量破壊兵器の製造にも反対する」と演説している。

その3日後、ロウハニ師はシャールード工業大学の学生に対して、ハメネイ師は、核兵器は宗教的に禁じられているとの見解だと述べた。

その同じ週、『サンフランシスコ・クロニクル』紙のロバート・コリアー記者に対して、保守紙『ケイハン』の編集者でハメネイ師のアドバイザーであったホセイン・シャリアトマダリ氏が、ロウハニ師の通達を無視し抵抗しようとする研究者らとロウハニ師の核政策チームとの間の緊張についてほのめかす発言をしている。

ハメネイ師は、そうしたプロジェクトに従事する研究者らに対して、「(核兵器は)イスラム教で禁じられていると認めよ」と迫った、とシャリアトマダリ氏は語った。また、禁止に抵抗する研究者らは「秘密裏に」研究を進めていたと示唆した。

米諜報部門が2007年11月の評価でイランはすでに「核兵器計画」を停止しているとの判断を下したのち、ある米諜報筋は、主要な情報源は、2003年に核兵器関連活動が停止されたことに不満を訴える人物らとある高位の軍人との間の2007年のやり取りの傍受記録だと述べた。

しかし、米情報筋は、いかなる種類の作業が停止されたのかについては語らず、それが[イラン]政府の管理下にあった「核兵器計画」であるという(米国の主張を裏付ける)さらなる証拠も示そうとはしなかった。

ニクロー氏の回想は、2007年の[米国による]評価は、イランの「核兵器計画」と、イランの体制によって承認あるいは調整されていない研究プロジェクトという重大な区別を覆い隠していることを示唆している。

またニクロー氏はIPSの取材に対して、イランの弾道ミサイル計画を管理しているイスラム革命防衛軍(IRGCも、当時秘密の核兵器計画を進めていたと考えている、と語った。IRGC自身の官庁は旧国防省と1989年に統合されて新しい省となったが、このことは、そのような秘密の計画があったとすれば、必然的により広範な軍の共謀があったことを示唆している。(原文へ

※ガレス・ポーターは、米国安全保障政策専門の歴史家で、中東情勢を中心に長年IPSに分析記事を寄稿してきた調査ジャーナリスト。米国のアフガン戦争に関する報道で、2012年に英国の「ゲルホーン・ジャーナリズム賞」を受賞。

翻訳=IPS Japan

関連記事:

国連の査察機関、2003年以前のイラン核兵器研究について詳述する

│米国│対イラン軍事攻撃への反対論強まる

2030年までに世界的な軍縮の実現を目指して

|ネパール|子どもの権利を守るには、児童労働に関する社会認識を打破することが必要

【カトマンズIPS=マリッカ・アルヤル】

昨年12月のある日、ネパールの首都カトマンズに本拠を置くNGO「社会サービスと人権における児童と女性」(CWISH)に勤める児童保護官プラディープ・ドンゴルさんは、市内に多数構えている事務所のうちのひとつから緊急連絡を受けた。

その事務所に急行したドンゴルさんが目にしたのは、CWISHのスタッフが保護した11才の少女だった。彼女の目は落ちくぼみ、両手は痣(あざ)だらけで、頭は所々で髪の毛が抜け落ちていた。

話を聞いてみると、この少女(リーマさん:仮名)は、働いていた家での虐待に耐えきれず逃げてきたことがわかった。

リーマさんは、カトマンズから400kmほど離れた村で3年生として小学校に通っていたが、両親の判断で、カトマンズに住む見ず知らずの若い夫妻の下で働くことになった。

その夫妻はリーマさんの両親に、リーマさんを自分たちの家に同居させたうえで、良い学校にも通わせ、幼い息子の「姉」として家族同様に面倒を見ると約束していた。

しかし、リーマさんを待ち構えていた現実は全く違っていた。学校に通わせてもられないどころか、与えられた食事は残飯ばかりで、しかも夫妻の子どもの世話をはじめあらゆる家事をさせられたうえ、給料は一切もらえなかった。

また、リーマさんは家族との連絡もほとんどとれないなかで、殴られたり髪を引っ張られたりと、日常からさまざまな暴力を受けていた。

ある日、リーマさんは夫妻の息子を学校に送って行く途中、その近くの学校で教鞭をとっているCWISHのスタッフに出会った。リーマさんは帰宅後、夫妻にその学校に通いたいと相談したところ、殴られる始末だった。

翌日、リーマさんは夫妻に家を飛び出し、CWISHの事務所に保護を求めて駆け込んだのだった。

ネパールの5~17歳の児童770万人のうち、314万人が労働に従事しており、しかもその3分の2は14歳以下の子どもたちである。

また、児童擁護団体の「プラン・インターナショナル」と「ワールド・エデュケーション」が行った緊急調査によると、児童労働者のうち16万5000人以上が家事労働をしているという。

「子どもたちが直面しているこうした苦境は、個人の家という密室のなかで起こっていることから、表沙汰になりにくく、残念ながら社会の注目を集めるに至ってはいません。」とSWISHチームリーダーのビシュニュ・ティミシナさんは語った。

ビシュニュさんは、この問題の背景として、農村の子どもたちを都市部の個人宅に連れて帰って働かせるという慣習の存在を指摘した。それは具体的には、裕福な家庭の夫妻が、農村部の貧しい家庭を廻り、都会でのより良い生活と進学・就職を保障するという約束と引き換えに、子供の中から一人を引き受けて連れ帰るというものである。

国連開発計画(UNDP)の2023年度人間開発報告書によると、ネパールの貧困状況は近年改善傾向を見せてきているものの、国際比較では依然として調査対象187か国のうち157位である。こうした申し出があった場合、生活苦にあえぐ両親にとって、自分の子どもを働きに出す誘惑には抗しがたい。

ネパール中央統計局が発行した2010年―11年版「生活水準調査」報告書によると、ネパール国民の3割以上が1月当たり14ドル以下の生活を送っていた。

また全国民の約8割が、リーマさんの実家のように農村部で自給自足の生活を営んでおり、子供たちには両親の農作業や家事仕事を手伝うことが期待されている。

さらにネパール農村部に暮らす5歳以下の子どもの約半数は、栄養失調状態にあり、コミュニティーには、一次医療(プライマリーヘルスケア)や初等教育、安全な飲み水へのアクセスといった基本的なサービスが欠けている状態にある。

農村部から都市部へと児童を引き寄せるこうした慣習が、勢いづいた背景には、1990年代の産業化の進展がある。この時期、中間層が成長していたことに加えて、政府軍とネパール共産党毛沢東主義派(マオイスト)ゲリラ間の内戦(人民戦争=1996年~2011年)に伴う人口の国内移動が活発になったことから、低賃金労働者への受容が生じたのだった。

子どもたちは、母親たちが現金収入を求めて伝統的な家事(料理、洗濯、幼児・高齢者の世話等)を放棄していくなかで生じた空白を、瞬く間に埋めていった。

先述の「プラン・インターナショナル」と「ワールド・エデュケーション」が行った緊急調査によると、都市部と農村部で家事仕事に従事している子供たちの数は、それぞれ62,579人と61,471人で、ほぼ拮抗している。

子どもの権利擁護に取り組んでいる活動家によると、児童労働問題に組むうえで最大の障害の一つが、ネパール社会に広く見られる、「児童労働は必ずしも悪いことではない」とする社会認識である。

「ネパールには元々、子どもは働くことで『労働の価値』を学ぶ、という考え方が根強くあり、それも一つの背景となっています。」と、中央児童社会福祉委員会(CCWBのプログラムマネージャーのニタ・グルン氏は語った。

その結果、ネパールでは、児童労働を禁止する関連法規を実行するのが、困難な状況にある。

国際連合児童基金(ユニセフ)ネパール事務所の子ども保護担当官のダニー・ルハール氏はIPSの取材に対して、「人々は、子どもたちが近所の知人や親戚や友人の家で働いているのを見てもそれをごく普通の生活の一部と受け入れてしまっています。」と指摘したうえで、「ネパール社会が児童の家内労働を受け入れないようになるためには、まずはこの意識を打破する必要があります。」と語った。

ネパールはすでに「子どもの権利条約」、国際労働機関(ILO)の「最悪の形態の児童労働の禁止と撤廃を確保する即時の効果的な措置を求めた」138号条約及び「就業の最低年齢を義務教育終了年齢以上とするよう規定した」第182号条約に批准しており、こうした国際協定は2007年の暫定憲法を通じて国内の諸法令(1992年児童法、2000年児童労働禁止法、2002年カマイヤ〈=債務労働者〉労働禁止法)に反映されている。

しかしこうした国際法や国内法を制定したものの、それに伴う執行体制の整備がなされなかったため、家庭内児童労働の問題について、どの政府機関がどの法律の執行を担当するかについて明確になっていないのが現状である。

現在、人口3049万人のネパールに児童保護観察官は、わずか10人しかいない。

しかも彼らの担当はフォーマルセクター(鉱業、観光業、タバコ団行、カーペット工場他)のみで、政府のどの部署が個人の家のようなインフォーマルな職場で働かされている児童の保護や社会復帰を担当するかについては、明確になっていない。

「(インフォーマルセクターで)暴行や搾取があった場合、まず政府のどこの部署が担当するか、そして、どの法律・法令が適用されるかについて混乱がおこるので、極めて深刻な問題です。」とユニセフのルハール氏は語った。

例えば、リーマさんが雇用主のもとから逃れた際は、一時避難所に連れて行かれ、事件は政府の労働事務所に対して届け出がなされた。

その後リーマさんを搾取した夫妻は、当局からの強い勧めにより、彼女に210ドルの金銭的補償を行い彼女を解放すると約束した。こうしてリーマさんは安全に故郷の村に戻ることができたが、未だに夫妻からの補償金を受け取っておらず、労働事務所における事件のステータスも依然として手続き中のままである。

「書類上は、加害者に責任をとらせる法規があるのですが、実際に適用されることはほとんどありません。つまり被害者の保護は、未だに優先されていないのが実態です。」と、子どもの権利活動家のカーマル・グラゲインさんはIPSの取材に対して語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

関連記事:

政治的奈落に落ちるネパール

|パキスタン|レンガ作りの奴隷にされる労働者

|UAE|家庭内労働者を保護する新法が間もなく施行される

|米国|国境を要塞化しても、最終解決策にはならない

【シアトルIPS=ピーター・コスタンティーニ】

米国における移民を巡る議論に困惑している人は、あの「マジノ線」を思い出してみたらどうだろうか。

マジノ線」とは、1930年代に、当時のフランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(André Maginot、1877年―1932年)の提唱で、来るドイツの侵攻に備えてフランス政府がドイツ―フランス国境沿いに構築した長大な要塞線のことである。しかしナチスドイツは、第二次世界大戦初期の対仏電撃戦において、マジノ要塞の北限(フランスは中立国のベルギーとの国境にマジノ線を延長していなかった:IPSJ)をやすやすと迂回して英仏連合軍を圧倒、わずか6週間でフランスを降伏させた。

残念なことに「マジノ線」は、こうした経緯から、過去の戦略思考に基づいて作られた「無用の長物」の代名詞のように語られるようになってしまった。しかし当時マジノ氏は、少なくとも、フランスの生存を脅かす差し迫った脅威に立ち向かおうとしていたのである。

一方、我が国(=米国)の「マジノ氏ら」は、米国とメキシコの国境沿いに1130キロに及ぶ長大な壁を構築し、国境警備隊を増員(約1万8000人→3万8405人)し、(米軍がアフガニスタンで使用していた)無人偵察機(ドローン)や振動・画像・赤外線による地上無人センサー等まで配備して、「恐るべき」不法入国外国人による「侵攻(=流入)」と阻止しようと躍起になっているが、実際には米国への不法移民の入国数は2000年にピークに達しており、その後は下降線をたどっている。つまり、脅威として捉える時期はとうに過ぎ去っているのだ。

2008年に世界同時不況が始まって以来、米国からメキシコに帰国した人数は、メキシコから新たに米国に入国した人数を僅かながら上回った。そして現時点で、両国間の純移動率(特定の時期、場所における移入民と移出民の差)はほぼゼロである。また、米国における不法滞在移民の数も、2007年のピーク時と比較すると、今日では約8%減少している。

結局のところ、こうした移民の流入は、悪影響どころか、むしろささやかながら、米国の経済・社会の幅広い分野において利益をもたらしているのである。

メキシコから米国への大量の人口移動は1990年代半ばに始まるが、その背後には強力な「プッシュ要因」と「プル要因」が作用していた。メキシコでは、1994年に発効した北米自由貿易協定(NAFTAにより、多くの貧しい農民が(安価な米国産農産物に対抗できず)耕作を放棄して土地を離れていった。また同年発生した通貨(ペソ)危機により、実質賃金は約20%下落した。一方、同時期の米国経済はIT分野を牽引力とする好景気(戦時下を除けば史上最長の景気拡大)を経験しており、低賃金労働者に対してさえ、賃金の引き上げが行われていた。

これほどの経済の一極集中は、将来再び起こりそうにない。現在では両国の景気循環は、より密接に連動するようになっている。現在メキシコでは、教育、就業機会が増える一方で、出生率が低下し続けており、メキシコ人を米国への出稼ぎへと駆り立てる「プッシュ要因」は、中長期的には、今後も縮小していくかもしれない。

しかし我が国の「マジノ氏ら」は、依然として幻の敵(=不法入国外国人)に対する強硬な構えを崩しておらず、費用対効果が低く、時には非生産的ですらある様々な対処策を要求し続けている。

世界で最も豊かな国と比較的貧しい国(中進国)の間に横たわる米国=メキシコ国境の全長は、2000マイル近く(=3141キロ)に及び、その大半はソノラ砂漠(日本の本州がそっくり入る)北限を通過している。つまりいかに国境線を武装化したとしても、移民の流入からこの長大な国境を完全に守りことは不可能である。また、国境警備に費やされる莫大な予算、技術、人員に対する費用対効果が疑問視されるようになって既に長い年月が経過している。

一方、米国=メキシコ国境線が「マジノ要塞化」されたことで、越境は以前よりもより危険で過酷なものとなっている。しかし、成功するまで繰り返し越境を試みようとする者たちを止めることはできない。また、米国内の不法移民労働者の30%から40%は、合法的に米国に入国し、そのまま滞在期限を過ぎで生活しているものたちである。つまり、米国への移民の流入を効果的に抑制する唯一の要因は、米国の労働市場が冷え込むか、反対にメキシコの労働市場が改善するか、である。

また国境強化措置は、想定外の悪質な結果をもたらしている。「コヨーテ」と呼ばれる悪名高い不法移民の密輸業者(越境時のガイド役)の費用が3倍に跳ね上がり、移住希望者に大きな負担としてのしかかる一方で、その追加利益は主要な国境地帯を支配している麻薬密売組織に流れ込んでいる。また、人口密集地に近い国境地帯の警備が大幅に強化された結果、越境が試みられるポイントはますます自然環境が過酷な砂漠地帯へとシフトしており、引き続き夥しい数の人々が命を落としている。

また国境の要塞化は、従来の循環型移住を妨げる結果をもたらしている。メキシコから米国への移住パターンの大半は、昔から1年か2年ごとに国境を行き来する出稼ぎ型で、最終的にはメキシコに戻ってよりよい生活を構築することが目的であった。ところが、越境に伴う費用と危険性が大きくなったため、米国での滞在期間を長くするか、あるいは、帰国を諦めてそのまま米国に永住し、家族を呼び寄せる選択をする不法移民がこのところ増加している。

不法移住は、一世紀以上に亘る米国・メキシコ両国の経済の浮き沈みを通じて、両国の文化・経済に、深く根付いてきたものである。つまり、違法ではあるが、スピード違反や駐車違反と同じように捉えられているのが実情である。

あるいは違法移住の問題は、国際的な不法侵入の一種と見ることもできるだろう。つまり、悪意なく不法侵入したものの、長期にわたって滞在し続けた場合、米国のコモン・ロー(慣習法)は、「時効取得」の概念に基づいて権利の取得を認めているのである。

不法移民がもたらす経済効果については、大半の労働経済学者が、米国生まれの労働者に総合的に恩恵をもたらしているほか、経済全般を活性化し、財政バランスの改善にも貢献しているとの見解を示している。

さらに低賃金労働者の利益を代表している労働組合やコミュニティー組織も、不法移民を暗闇から引き出して適切な法的地位を付与し、労働で連帯していくことで、米国の労働市場全体を健全化できるという考えを、圧倒的に支持している。

それでは、不法移民がいかなる罪も犯しておらず、しかも米国社会に貢献しているのならば、彼らが市民権を取得するための道筋は、どうして、移民排斥派の議員らが頻繁に言及する「恩赦」ということになるのだろうか?

私たちは、「マジノ線(=米国とメキシコ国境の壁)」をあと何マイル延長させるかという議論よりも、むしろ、全ての低所得世帯の生活水準の向上を図りながら、不法移民を米国経済に統合していく最善の方法を議論することに心血を注ぐべきである。

また、国境を武装化し罪もない移民らを収監するためにボーイングレイセオンといった軍需産業や矯正施設運営企業に膨大な予算を惜しげもなく投入する代わりに、その予算のほんの一部でもメキシコや中央アメリカの移民送出地域に雇用、住宅、教育、医療保健対策費として送ったほうが、よっぽど支出に見合った成果を得ることができるだろう。そして私たちが圧倒的に賢明な人間でありたいと思うならば、その残りの予算を米国本国で同じように使うこともできるだろう。

米国への不法移民の数が10年前や15年前の水準に再び戻ることは、ほとんど考えられない。しかし、もし本当の意味での経済復興が実現して再び不法移民の数が増加に転じるようなことがある場合は、既に国内にいる低所得労働者を搾取することなく、適正な労働需要を満たす新たな未熟練労働者に十分なビザ(査証)を発行する移民改革が実施されなければならない。

そのような移民改革を実現するには、この問題について常に協議と調整を図れる態勢が構築されなければならない。そのための具体的な方策としては、既にコミュニケーション、貿易、金融など他の分野において実現している、移民問題に関わる全ての利害関係者(労働者、経営者、コミュニティー活動家、学識経験者)が参画した政府委員会を創設することが挙げられる。

また、真の意味で、米国=メキシコ国境に関する安全保障問題に対処するには、前アリゾナ州司法長官のテリー・ゴダード氏の主張に耳を傾けるのも悪くない。ゴダート氏は、報告書の中で、不正資金をマネーロンダリングしたり、国境を越えて不正資金や商品(麻薬など)を運搬する能力を攻撃するなど、(国境地帯に勢力を張っている)多国籍犯罪カルテルの急所を突く方策を詳細に説明している。

米国の著名なコメディアンで風刺作家のスティーブン・コルベア氏は、移民排斥派の議員が提唱している「国境のセキュリティーを強化する(Border Surge)」方策について、「それはイラクではうまく機能しましたよ。なにせ、バグダッドへの潜入を図ろうとするメキシコ人はほとんど見かけないからね。」とコメントした。(原文へ

翻訳=IPS Japan

関連記事:

│米国│連帯する不法移住労働者

|労働|世界中で、労働者たちはまともな仕事を要求している

|米国|国土安全保障省監査総監、移民拘留所の不当待遇を明かす

|UAE|Tシャツで始める失明患者の救済

【ドバイWAM】

世界には治療可能な失明症(白内障緑内障ビタミン欠乏症等)で苦しんでいる人が4千万人いる。これは世界の全盲人口の実に8割に相当する。しかし患者の大半は途上国に暮らす貧しい人々で、治療費が払えないか、あるいは、治療という選択肢があることを知らないために、失明の状態で放置されているのである。

中東のドバイを拠点にこれまで様々なチャリティーキャンペーンを展開してきたオンラインプラットフォーム「juuduu.com」は、UAEのヌールドバイ財団と連携して、失明症に関する啓蒙活動と巡回眼科診療キャラバン(Mobile Eye Camps)活動を支えるための資金集めを開始した。

「途上国の貧しいコミュニティーで暮らすことに伴う様々な不便、しかも四六時中暗闇に囲まれていなければならないというハンディキャップを負った状態を想像してみてください。」とjuuduu.comマーケティング部長のタリク・マゾルカ氏は語った。
 
「そのような全盲患者にとって治療を受けるということは、単に視力が回復するということにとどまらず、まさに再び生きる望みを与えられるようなものなのです。私たちは、地域コミュニティーの協力を得ながら、パートナーであるヌールドバイ財団が実施している巡回眼科診療キャラバンを通じてできるだけ多くの盲目患者に治療を受ける機会を提供したいと考えています。」

juuduu.comでは、このキャラバン運転資金を集めるために特製Tシャツをはじめとしたキャンペーン商品を販売している。また、特設ウェブサイトを通じて、この治癒可能な失明症に関する基本情報と、この病が比較的容易に予防・治療できる事実を発信し、この問題に対する一般の人々の認識を高めるキャンペーンを展開している。

ヌールドバイ財団のマナル・タルヤムCEOは、「当財団は世界の支援を必要とする数百万の人々に援助の手を差し伸べてきました。これまで、一次医療施設が整っていない村々に対しては、病気予防キャンペーンや巡回治療キャラバンを実施してきました。当財団は、CSR(企業の社会的責任)に取り組む企業との協力を通じて得た支援や資金をもとに、多くの国々で(2013年現在、アジア・アフリカ10か国:IPSJ)で、単に治療を施すだけではなく、患者の人生を変え、周りのコミュニティー全体が成長・繁栄するような持続可能なプログラムを展開しています。」と語った。(原文へ

翻訳=IPS Japan

関連記事:

|報告書|世界経済に悪影響与える児童栄養不良

|東南アジア|栄養強化小麦という戦略

│ネパール│女性への暴力根絶なるか

【カトマンズIDN=シャイリー・バンダリ】

2008年5月23日、10人のネパール人女性が、史上初めて女性だけのチームとしてエベレスト登頂に成功した。この歴史的な成功は、ネパールの女性たちにひとつのメッセージをもたらした。「女性が征服できない頂上は世界にはない」。

本国のネパールでは世界最高峰登頂というこの快挙を「ネパールの女性にとっての大躍進」として大いに祝福された。一躍時の人となった遠征隊のメンバー(シュシミタ・マスキ、シャリリ・バスネ、ニンドマ・シェルパ、マヤ・グルン、ポージャン・アチャルヤ、ウシャ・ビスタ、アシャ・クマリ・シン、ナワン・フティ・シェルパ、シュヌ・シュレスタ、ペマ・ディキ・シェルパ)は、その知名度を生かして国内各地の学校を訪問し女性の機会均等を訴えるキャンペーンに参加している。

 
長年に亘って女性がつねに周縁的な役割ばかりを持たされてきたネパール社会では、このことは非常に大きな意味を持つ。今日ネパール女性は、不人気な王政と10年に亘って戦ったネパール共産党統一毛沢東主義派(マオイスト)率いる内戦の参加者として、そしてギャネンドラ前国王の独裁政治に終止符を打った2006年の大衆デモの参加者として、文字通りその役割が改めて見直されつつある。
 
 1996年の内戦勃発まで当時のネパール王国において女性や少女が武装して戦う光景は想像できないものであった。しかしマオイストの人民解放軍では、兵士の3分の1以上を女性が占めており戦力の大きな部分を担っていた。ネパール女性たちは、政治に深く関与するのみならず、彼女たちの多くが家計の唯一の稼ぎ手となっており、こうした中で、女性の地位は改めて評価されはじめている。

「変化の担い手」

ネパールでマオイストと王党派の和平調停に関与したスイスのギュンター・バチェラー氏は、2006年に平和と民主主義を叫んで大衆デモを引き起こしたネパール人女性たちを「変化の担い手」と呼び、彼女たちが民衆革命を成功裏に導いた立役者であったと述懐している。

「人権侵害や免責、人間の安全保障の問題が、国中で女性運動を生み、国家機関の中だけではなく、カトマンズなどの街角で女性たちが声を上げることになった。」バチェラー氏はこうした見解を、「人間対話センター」が2010年8月に発行した報告書「ある調停者の見方―女性とネパールの和平プロセス」のなかで展開している。

こうした活躍にも関わらず和平交渉の席に多くのネパール女性を参加させるという目標は達成できなかった。しかし、主要政党の女性議員や個々の女性活動家の中には、準備会合や諮問会議、キャパシティビルディング活動への参加や包括和平合意(CPA)後に平和復興省となった平和復興事務局との協議への参加を果たした者もいた。

「とりわけ、各政党代表、平和復興事務局、地域代表、国際アドバイザーで構成された『平和タスクフォース』(ネパール平和移行イニシアチブ支援)には多くの女性が参画した。」とバチェラー氏は述懐している。

2006年に和平合意が成立する以前から、女性運動は成功を収めていた。2002年には、中絶が合法化され、女性が誕生と同時に財産を相続することができるようになった。2006年には、最高裁が、妻が不妊の場合に夫は妻と離婚できるとする法律を破棄した。そしてまもなく女性が子供に市民権を付与する権利が認められた。また同年には、国家公務員の3分の1を女性とするよう定められたほか、選挙制度は比例代表制が導入され政界進出への門戸が大きく開かれた。

その結果、南ネパール制憲議会(定員601議席)には、将来の憲法上の女性の権利にかかわる重要案件に関しては声を一つにして行動する197名の女性議員が誕生した。また、サハナ・プラダン氏がネパール初の女性外務大臣に就任した。

また、2009年には、ネパール議会は、ドメスティック・バイオレンス(家庭内暴力)を犯罪化する法案を通過させた。

こうした一連の進展により、ネパールは国連安保理決議1325号を具体的に実施に移した数少ない国となった。同決議(今年10月31日に10周年を迎えた)は、平和・安全に向けての取り組みの中での女性の平等な権限及び参加、並びに性的虐待を含むあらゆる暴力から女性を保護するよう求めている。

現場の実情

またこうした成果の背景には1990年代にネパールの民主政治復活を求めて最前線で活動したビンダ・パンデイ氏のような女性の活躍があった。「ネパールの新憲法に男女平等が明記されることは極めて重要なことです。」と女性・平和活動家でFundamental Rights and Directives Principle Committeeの議長をつとめるパンデイ氏は語った。同委員会は将来におけるネパールの市民権のありかたを示し新憲法に具現化する任務を課されている。

パンデイ氏は未解決の数多くの問題について、「ネパール女性はアドボカシー活動においては今のところ成功を収めています。しかし政治制度は圧倒的に男性に支配されている世界ですから、具体的な主張を、とりわけ女性に対する性暴力の防止や犠牲者に対する支援を法制化するということになると、より説得力をもつスキルを身に着ける必要があります。」と語った。

明らかにこの見解を共有するネパール最高裁判所は、政府に対して、性差に基づく暴力撲滅年と宣言した2010年を有効に活用し、女性に対する暴力を犯した者を不必要な遅延なく罰する「裁判所」を設置するための必要前提条件を検討するよう求めた。

しかし、ネパールでは女性への暴力に関する統計は整備されておらず、問題の実態を把握することは難しい状況にある。人権問題に関するネパール初のポータルサイトである「INSEConline.org」によれば、2008年には国内で225件の強姦事件があったという(未遂を含む)。犠牲者は33カ月から63歳の233人の女性でその内162人が16歳の少女であった。いくつかの事件では犠牲者は強姦の後に殺害されている。また、31件については犠牲者は複数の男性に暴行を受けていた。

法の不在

INSEConlineは当該事件の犯人についてもプロフィール分析をおこなっている。これによると犯人の年齢層は13歳から79歳で大半が犠牲者の身近にいるものであった。また、彼らの大半が法律の抜け穴ゆえに罪を追求されることはなかった。このことについてネパール最高裁判所のスリカント・パウダー報道官は、「法の不在」という観点から、こうした犠牲者に対して補償したり社会復帰を支援したりする方策が不在な点を批判している。

もう一つの未解決の問題は、毎年ネパールからインドに数千人の単位で若い少女たちが家族によって主に家政婦等の名目で「売られる」人身売買の問題である。人権団体によると、彼女たちの多くは売春婦にさせられ、残酷な搾取に晒されている。

またもっとも酷い人権侵害に晒されているのは未亡人と(不可触賤民カースト)ダリットの女性たちである。国連女性開発基金(UNIFEM)によれば、ネパール国内に未亡人は80万人でその内76%が35歳未満である。夫を失うことによって女性は社会的に孤立し、法律が執行されない環境の中で、差別や暴力、性的な搾取の餌食になりやすくなる。

最も貧しいダリットの未亡人ともなると、時にその環境そのものが女性の不幸や死因にもなりえるのである。このような実態はカトマンズの南約40キロにあるラリトプール地区で起こった事件の犠牲者の事例が端的に物語っている。彼女は家畜が数匹死んだことを咎められ、激しく殴打された後に投獄され無理やり自分の排泄物を食べされられる虐待をうけた。彼女は強制的に罪を認めさせられたのち、ようやく釈放された。彼女は裁判所に訴えでたが、結局彼女を虐待した人々は罰金を支払っただけで断罪されることはなかった。

ビンダ・パンデイ氏のような女性活動家は、ネパールの男性議員達に対して性差に基づく暴力を公に糾弾するよう求め続けている。しかし彼女たちの声が聞かれるかどうかは未知数である。バチェラー氏はネパールの各党国会議員たちは制憲議会を党利党略と自身の勢力拡張のための駆け引きの舞台に利用していると非難している。

「女性国会議員達は‐その多くが初めて政界に足を踏み入れた人々‐当然ながら、こうした各政党の男性指導者たちによる不毛な争いを止めることはできなかったのです。」とバチェラー氏は嘆いた。

翻訳=IPS Japan戸田千鶴

|UAE|今年のラマダンキャンペーンが広範な支持を獲得

【ドバイWAM】


アラブ首長国連邦(UAE)の「100万人の貧しい子供たちに衣服を」キャンペーンにより、これまでに、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、アルバニア、イエメン、レバノン、エジプト、ジブチ、セネガル、タンザニア、マラウィ、ヨルダン、パキスタン、インド、ウガンダ等で、貧しい子供たちの間に笑顔が広がっている。

UAE副大統領でドバイ首長のムハンマド・ビン・ラーシド・アール・マクトゥーム殿下は、7月11日、今年のラマダンキャンペーンの一環として世界の貧しい子供たち100万人に衣服を寄付するための資金集めキャンペーンを開始した。

資金集めキャンペーンは、故ザイード・ビン・スルタン・アルナヒヤン首長(UAE初代大統領)の9年目の命日でUAEの「人道活動の日」にあたるラマダン19日目(=7月28日)まで実施される予定である。

各方面からの支援は、これまでの予想を上回るペースで集まっており、100万人分の服を寄付するための目標額とされた4000万ディルハム(約10億6500万円)は、開始から最初の10日間(7月21日まで)で達成された。そこでマクトゥーム殿下は、支援対象国を、新たにサウジアラビア、ドイツ、タンザニア、その他中南米及びアフリカ諸国(合計46か国)に拡大するよう指示した。

キャンペーンの実施機関である赤新月社UAE支部によると、これまでに衣服が寄付された子どもたちの数は国別で、ボスニア・ヘウツェゴヴィナが10,000人、イエメンが100,000人、レバノンが50,000人、エジプト100,000人、タンザニア100,000人、インドでは200,000人であった。また、ヨルダンではシリア人難民キャンプの子どもたち5000人に衣服が寄付された。またキャンペーン事務局は次のステップとして、レバノン、ヨルダンのシリア難民の子供たちや、フィリピンの貧しい子どもたち(推定80,000人から100,000人)等に衣服を届ける予定である。(原文へ

翻訳=IPS Japan

関連記事:

|UAE|ボランティア「大使ら」がシリア難民とイド・アル=フィトルを祝う

|UAE|ドバイ首長、ラマダン月を迎えて554人の囚人に恩赦を与える

|UAE|真の慈善事業は、民族や宗教の違いに左右されない

|タイ|「性産業」犠牲者の声なき声:サオカム(仮名)の場合

【バンコクAPIC/IPS Japan=浅霧勝浩

「私はミャンマーの少数民族シャン族出身の17歳で、タイのメーサイと国境を挟むビルマ(ミャンマー)のタチレイで家族は母と義父の2人がいます。人身売買の被害にあった当時、私は15歳で、結婚させられて20日ほど経ったところでした。

そこにブローカーの女性が『バンコクに行って働く気がないか?』と誘いをかけてきました。私は夫と別れて出稼ぎに行きたかったので、そのブローカーから10,000バーツの手切れ金を前借して離婚し、地元の友人と一緒にブローカーについてタイに行くことにしました。

 しかし、後で分かったことですが、働き始めてから返す借金はその10,000バーツに留まらず、ブローカーの手数料(10,000バーツ)、移動費、アパート代など合計50,000バーツに膨れ上がっていました。
 
 友人と私はメーサイ経由でタイに越境しました。国境を越えると男が待ち構えており私たちは森の中にある小屋へ連れて行かれました。そこには私たちの他に10名ほどの女性がいました。私たちは全員バンに乗せられ一旦バンコクまで運ばれそこから様々な目的地に分かれていきました。

私は他の2人の少女達とバンコク市南部のBang Kaeに連れて行かれました。2・3日すると一人の女性が訪ねてきました。私たちは裸になるように言われ、身体をチェックされました。彼女は『肌の色が白くかわいいから客が気に入るだろう』と言って私を気に入ったようですが、隣にいた子は気に入らなかったようです。

後で聞かされましたが、その娘はそれからどこかよそに送られたそうです。その後、Melrose Massage and Saunaという所に連れて行かれました。職種については、ブローカーはMassage and Saunaとのみ伝えてきただけで詳しい説明はしてくれませんでした。私は伝統的マッサージのようなものだろうと考えていました。

その職場には200人程の女性が働いていましたが、仕事の内容が売春であることは到着して初めて知らされました。ただし、ミャンマーの故郷を出発するに当たって契約書に署名されられており、『もし逃げたら故郷の両親に危害を加える』と脅されたため、どうすることもできませんでした。マッサージパーラーでは、ます、新入りの研修と称して、ポルノビデオを見せられ、複数の男性スタッフ相手に様々な性行為をさせられました。

職場に投入されて最初の3カ月は、一回のサービスあたり2,000バーツの値段がつけられ、その内500バーツが取り分でした。しかし、その後少し太ったせいもあり、私の値段は500バーツ(取り分は400バーツ)に落とされました。時々ある警察の巡回に際しては、私のように身分証明書をもたない売春婦は建物の裏に隠されました。

HIV/AIDSのことはミャンマーで聞いていました。村の中にもバンコクに出稼ぎにでた人がエイズで死にました。バンコクにでてきてこの仕事をさせられるようになって、HIV/AIDSに感染しないかと不安でした。しかし、どうしようもないので、自分は大丈夫だと言い聞かせながら、早く借金を返して故郷に帰ることだけを考えていました。
 
 コンドームはエイズ感染から体を守ってくれると聞いていたので、客にはいつも使用するよう頼みました。また、店側も、コンドームの使用を拒否する客に対してはサービスをしなくてもいいように規則を決めていましたので、そのような客に遭遇した場合は、ママさんに連絡して対処してもらうことができました。ただし、顧客の中には性行為に際して乱暴な人もおり、コンドームが破れるのではないかと心配することが少なくありませんでした。

店には毎週水曜日と土曜日に医者が検診に廻ってきていました。売春婦には3カ月ごとに血液検査が義務付けられており、感染が判明するとその場で追い出されました。私たちは、借金を返して生きていくためにも、健康には気を遣うようにアドバイスされていました。結局、その店に連れてこられて約1年後の8月に警察が事前通告なしに店を捜索し、私は他の12人の娘達と共に保護されました。

ここでは(人身売買の犠牲者を収容する更生施設)、職業訓練の一環で裁縫を学んでいます。この技術は故郷に帰ってからも役に立つと思います」

関連記事:
|ネパール・インド|「性産業」犠牲者の声なき声:売春宿から1人でも多くの犠牲者を救いたい
|タイ|政府によるエイズ対策の転換(前半)
HIV/AIDS蔓延防止に向けたカンボジア仏教界の試み