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ケニア国民、憲法改正を拒否

【ナイロビIPS=ジョイス・ムラマ】

ケニア国民は、11月21日、国民投票に掛けられた憲法草案をきっぱりと拒絶した。

ケニア選挙委員会(ECK)の発表によると、反対354万8,477票(投票者の57%に相当)、賛成253万2,916票という。

意気消沈したムワイ・キバキ大統領は、22日のテレビ演説で、「今回の投票で、ケニア国民が提案憲法を拒否したことが明らかとなった。これは、民主主義拡大へ向けての大きな一歩である。政府は、国民の判定を尊重する」と語った。

 キバキ大統領と同氏のケニア国民連合(National Alliance Party of Kenya:NAK)は、与党連合National Rainbow Coalitionの亀裂にも拘らず、提案憲法の承認を訴えた。一方、自由民主党党首であるライラ・オディンガ道路・公共事業大臣は、野党のケニア・アフリカ民族同盟(Kenya African National Union:KANU)と組み、市民に反対票を投じるよう呼びかける運動を展開した。

提出憲法支持派はバナナを、反対派はオレンジをシンボルとし、読み書きのできないケニア市民は、投票の際にこれらシンボルを使用した。

反対派は、「提案された憲法は、大統領に対し強大な権限を与え過ぎる」と主張し、大統領と新たに設立される首相職とで執行権を分割するよう定めた前草案を採用するよう要求した。

この前草案は、首都ナイロビ郊外の民族文化劇場「ボーマス・ケニア」に因み「ボーマス草案」と呼ばれる。2003~2004年、同施設を会場として、政府、市民団体代表で構成される国民憲法会合が、ケニア新憲法はどうあるべきかについて協議を行ったのである。

同会議に先立ち、2000年には、憲法に盛り込むべき条項に関する国民の意見を聴取するため、ケニア憲法見直し委員会(Constitution of Kenya Review Commission)が設立され、全国規模の審議が行われた。同委員会は、「国民は、ダニエル・アラプ・モイ、ジョモ・ケニアッタによる権力乱用への反感から、大統領権力の制限を望んでいる」との報告を提出した。

21日の国民投票に掛けられた憲法草案は、今年7月にNAK議員が、大統領の強大な権力維持のためボーマス草案を修正して、大統領により任命される首相には執行権を認めないとしたものである。

21日の投票は、8人の死亡者を出した国民投票運動の時と異なり、穏やかに進められた。唯一の例外は、アフリカ最大のスラムといわれるキベラ(ナイロビ市内)地区で起こった暴力事件であった。キベラのランガタ選挙区は、八百長選挙を仕組んでいるのではないかと疑った若者達が、トラックの運転手に石を投げつけたことから一時騒然となったが、これは、運転手が、警察署に入る際にトラックの中身を見せるようにとの命令に従わなかったことが原因であった。

国内2万人、外国150人のオブサーバーと約6万人のセキュリティー担当者が、この歴史的な選挙を見守った。有権者は、朝の寒さをものともせず午前7時の投票開始前から長蛇の列をなした。

ナイロビのエンバカシ選挙区に住むFlorenceMakokhaはIPSの取材に応じ、「投票のためにやって来た。私の票は、選挙に影響を与えると思う。2人の息子と5時前にここに来た」と語った。

投票名簿に記載されていない者が投票に来たり、同一人物が2度も投票に現れるなど、不正行為も報告されている。多くの人が投票の際に提示するよう定められた国民身分証明書の代わりにパスポートを持って投票所に押しかけ、結局投票を許されたという事もあった。

ケニア市民の憲法草案拒否で、新たな憲法見直しに着手するかどうかの決定が下されるまで、植民地時代の憲法施行が続くこととなった。

ケニアッタ国際会議場における投票結果発表の際に、ECKのSamuel Kivuitu委員長は、市民に対し、憲法見直しを棚上げにしてはならぬと警告した。

同氏は、公式結果の発表を聞こうと会議場に詰め掛けた数百人の反対派の歓呼の中で、「国民の連帯と、統治権限は国民にあるのだということを保証するより良い憲法の制定に努力することは我々の義務である」と語った。

キバキ大統領は、2002年末の大統領就任時に、100日以内に新憲法を制定すると約束していたが、3年後の今も、ケニア国民は憲法制定を待っているのである。

憲法問題は別として、既に、国民投票の結果、政府に変化が起こるのではないかとの見方が広がっている。特に、2007年の選挙を見越して。(原文へ
 
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|バルカン半島|ベオグラードのアラブ・セルビア友好協会

【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

セルビア社会は、オスマン帝国の影響、宗教対立といった側面が取り上げられがちであるが、これらを乗り越えて良好に運営されているのがベオグラードのアラブ・セルビア友好協会である。 

アラブ・セルビア友好協会は、ボスニアやコソボにおけるイスラム教徒迫害とは異なった様相を呈している。会員のセルビア人には、アラブ人、イスラム社会に友愛の感情を抱くだけの理由がある。

 「友好国との友好関係は大切にしなければならない」と言うのは退役軍パイロットである創設者イワン・バラリッチ(Ivan Baralic)氏。友好協会は現地で「YU Marhaba」と呼ばれている。「これは象徴的な名前。旧ユーゴスラビアからとったYUを使っているが、これはアラブ語で「感謝」を意味する言葉。政治は変化しても、人々は変わらない。それがわかっているから、この協会を設立した」とIPSの取材に応えて語った。 

ユーゴスラビアは1990年代に内戦で崩壊したが、非同盟運動の創始国の1つであった。1960年代初頭よりアラブ諸国の大多数は非同盟運動に参加した。「東側にも西側にもつかない」という政策の下、ユーゴスラビアはアラブ友好国に教育、建設、軍事面の援助を提供した。セルビアはシリア、ヨルダン、イラクから何千人もの工学、薬学、医学留学生を受け入れた。空軍学校で学んだ何百人もの留学生は、帰国してエリート・パイロットになった。 

大学ではセルビア語の習得を必須とした。セルビア人と共に何年間も学習、生活を続けるうちにセルビア人女性と結婚し、職を得てセルビアにとどまった者も多い。そのほとんどは医者、薬剤師として成功。その子どもたちもアラブ系の名前でテレビのニュース司会者、ジャーナリストとして活躍している。 

協会の正会員は500人だが、バラリッチ氏によれば催し物の参加者はこれを数百人上回る。アラブ文化と中東諸国情勢に関する講義が定期的に開催されている。アラブ各国はクラブハウスに旅行者情報、企業情報を掲示することができる。会員によるアラブ料理の夕食会、ベリーダンス、イード(ラマダン明けの祭り)などの催しもあり、アラブ諸国の大使、外交官も定期的に訪れている。 

会員の多くは90年代初期までアラブ諸国で働いた経験のある建設関係の技術者、労働者、通訳、軍人などである。多くは中東諸国に何年も滞在した経験を持つ。 

80年代にはイラクで建設業に従事するセルビア、ユーゴスラビア出身者の数が2万人に達した時期があり、大規模ダム、高速道路、空軍基地などを建設した。2003年までイラクを支配したバース党本部も建設したが、1991年湾岸戦争において米軍の空爆より破壊されてしまった。 

ピーク時にはユーゴ企業に年間17億ドルの収入をもたらした。べオグラード大学の東洋アラブ研究学部は70年代後期から80年代にかけて非常に多くの学生を受け入れ、アラビア語通訳の需要に応えた。セルビア人卒業生の多くはアラブ諸国に渡り、帰国するものは少なかった。 

「イラクの仕事は楽しかった」とエンジニアとして働いた経験のあるサヴァ・コバセビッチ(65歳)氏は協会でIPSに語った。「申し分ない給料がすぐ手に入り、1ヶ月2,000ドルほど稼いだ。1年か2年もすれば、アパートを買うだけの貯金ができた」 

軍、医療関係者の多くはリビアに渡り、空軍、陸軍病院、民間病院で指導に当たった。指導期間は数年から数十年にも及んだ。 

医者として働いたステファン・ミジャシク氏(68歳)は「当時はトリポリやベンガジにユーゴスラビア人街があって、故郷にいるような気がした。私たちは西洋人のように気取らず、現地の人によく溶け込んでいた」と言う。 

全てが一変したのは、80年代後半から90年代初頭。リビアとイラクが国際社会の制裁を受けた。92年からはボスニア問題でセルビアにも制裁が加えられた。両サイドの大企業の協力関係は途切れ、新しい環境が生まれても旧交が再開される気運はない。 

「私たちはよい時代の思い出を大切にしている。イラク人は親切な友人だった。今のイラクは何だ。何年もイラクで生活した者として、とうてい受け入れることはできない」と元エンジニアのペリサ・ゼゼリ氏(65歳)は言う。 

ゼゼリ氏、コバセビッチ氏とも、協会は現在イラクで働くセルビア人との交流はないと言う。 

「怪しげな経歴の者たちが、傭兵やボディガードなどの怪しげな職業についている。私たちに共通点はない」とコバセビッチ氏は言う。 

イラクにとどまるセルビア人は現在およそ1,000人。イラクのビジネスを受け継いだ多国籍企業の石油関連施設や米国企業と契約を結んでいる。(原文へ) 

翻訳= IPS Japan 

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武力による安全保障か人間の安全保障か(シルヴィア・ボレン)

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【IPSコラム=シルヴィア・ボレン】

今日の世界は時限爆弾のようなものだ。しかし、それを解除する十分な時間はない。私たちは、武力による安全保障か人間の安全保障かという生存上の選択に直面している。

武力による安全保障とは、世界のエリートが、貧困のうちに生きている世界の大多数の人びとから自らの特権を守るために、銃や門、壁を使うことを意味する。

3つの数字が、私たちの向かっている先を明確に示している。すなわち、援助のためにかける費用が年間500億ドル、農業補助金が年間3500億ドル、兵器にかける費用が年間9000億ドル以上という現実である。

農業補助金の3%、あるいは兵器費用の1%でもあれば、学校に行ったことのない子供1.1億人と、稼がなければならないという理由で学校に行けない子供2.5億人に教育を受けさせることができる。

 
私の属するオランダの開発団体ノビブはオックスファム・グループの一部であるが、オックスファムは次の5つの権利を提唱している。

・持続可能な生命への権利
・基本的社会サービス(教育・医療)への権利
・(紛争と自然災害に対する)安全保障の権利
・社会的・政治的参加への権利
・アイデンティティへの権利

この目的のために、地域における民主主義の深化、人びとに力を与える中央政府のしくみ、グローバル規模での公正・一貫性・安定の3つが必要である。

民主主義の深化とは数年ごとの選挙だけを意味しない。自らの命の問題を自らコントロールする民衆による相互協力は、たとえばエイズやアフリカの紛争の問題においてすら、効果を発揮するのである。

翻訳/サンプルサマリー=山口響/IPS Japan浅霧勝浩

*シルヴィア・ボレン氏は、「ノビブ/オックスファム・オランダ」の代表。

|チリ|右派から見放され、裁きの場に出るピノチェト元大統領

【サンチアゴIPS=グスタボ・ゴンザレス】

リカルド・ラゴス大統領を始め、政治家がどんなに過去の人として葬り去ろうとしても、かつての独裁者ピノチェト氏は引き続きチリ国民の耳目を集めるだろう。 

抑留・行方不明者の近親者協会(Association of Relatives of the Detained-Disappeared:AFDD)のロレナ・ピツアロ代表はIPSの取材に応え「1月15日の大統領選を控え、右派、とりわけラビン氏と独立民主連盟(UDI)はピノチェト氏の影を恐れ、遂に関係を断つに至った」と語った。 

大統領候補は中道左派連立の社会党ミシェル・バシェレット氏とネオリベラルのビジネスマンであるセバスチアン・ピネラ氏。ピネラ氏の支持基盤はホアヒン・ラビン氏が率いるもっともピノチェト氏寄りの独立民主連盟(UDI)。

 ピノチェト氏は自宅軟禁にあったロンドンから2000年4月に帰国、幾つかの法廷で人道問題、汚職の罪を問われている。しかし、90歳という年齢から老齢性認知症を盾に2002年7月「死のキャラバン」裁判を皮切りに無罪放免が続いた。 

流れを変えたのは米上院調査委員会の2004年8月の発表である。ピノチェト一族が米金融機関リグス銀行に数百万ドルに及ぶ不正蓄財があるというもの。8月10日にはピノチェト氏の妻子が逮捕され、ピノチェト氏自身も11月23日に自宅軟禁に置かれた。 

これを受けてラビン氏は不正蓄財との関与を否定、ピノチェト氏が裁判を受けなくてはならないという点でラゴス大統領に同意すると声明を発表した。 

ピノチェト氏は1975年の左派119人の拉致、殺害をメディアで封じ込めようとしたコロンボ作戦の罪を問われることとなり、最高裁は12月26日にピノチェト氏側の老齢認知症の訴えを却下、裁判の続行を命じた。 

ピツアロ代表は裁判の続行を歓迎しながらも「人道問題よりも、汚職の方を重視する右派の姿勢は遺憾」とする。チリ政界に依然として大きな影を落とすピノチェト氏を巡る動きについて報告する。(原文へ) 

翻訳/サマリー=IPS Japan浅霧勝浩 

|キューバ|いまだに生き続けるアンゴラ戦争の記憶

【ハバナIPS=ダリア・アコスタ

キューバでは、12月の訪れはハリケーン・シーズンの終わりであり、酷暑の到来であるが、キューバの現代史においてもっとも劇的な時期のひとつを思い出す時でもある。1975年から88年まで35万人余のキューバ人が参戦したアンゴラ紛争である。 

キューバ軍の派遣は、1975年11月11日にポルトガルからの独立後大統領に就任した左派「アンゴラ解放人民運動(MPLA)」の指導者アゴスティニョ・ネゴの要請で同年10月に初めて実施された。キューバ軍の到着は、首都ルアンダがMPLAの対抗勢力でザイール、米国、南アフリカ支援のアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)の手中に落ちるのを阻む決め手と考えられた。

 キューバ軍の活躍は現在、それをたたえるスポット放送が国営テレビやラジオで日々流されているが、多くのキューバ人は戦争が兵士たちに及ぼした影響に思いを致す。 

「弟が戦争の話をしたことはない」とIPSの取材に応じて語ったアンヘル・サンティエステバンは、「弟ヴィラソンの手紙を読んで、死の恐怖が彼の人格を奪ってしまったこと、体だけでなく、心も死ぬものであることを知った」と言い添えた。1988年初頭の南ア軍との激戦を生き抜いた退役軍人ラファエル・アレマーニ(60)は、アンゴラ参戦部隊の大半はこうした精神的トラウマに苦しむことはなかったと主張する。 

しかし、砲撃から遠く1万キロ離れたキューバでも、残された家族は戦争の影響を実感していた。ヴィラソンの母親は息子のクローゼットを開け、息子の好きな料理を作るたびに涙を流していたという。キューバ政府の統計によれば、1960年代初頭から91年5月25日にアンゴラから完全撤退するまでに2,077人のキューバ人が死亡した。 

キューバの左派政権に対する援助は、軍事に留まらず、保健医療、教育、建設などにも及び、5万人以上の文民も参加した。1977年からアンゴラで教員の訓練に当たったオルガ・ザヤス(62)は、やりがいのある2年間だったと振り返る。 

アンゴラ内戦がキューバの人々の心に残した足跡を追う。(原文へ) 

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩 

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|アフリカ-ポルトガル|欧州によるアフリカの植民地支配終結から30年 

|アフリカ-ポルトガル|欧州によるアフリカの植民地支配終結から30年

【リスボンIPS=マリオ・デ・ケイロス

11月11日に独立30周年を迎えるアンゴラだが、6世紀近くにわたる欧州のアフリカ植民地支配が終結してから30年の歴史でもある。

40年以上続いたポルトガル独裁政治を終わらせ、同国植民地の独立に動いた若手改革派将校グループ「国軍運動」の中心人物ヴァスコ・ロレンソ大尉は、IPSの取材に応じて「ポルトガル植民地の独立は、最後の植民地帝国の終焉を意味するものであり、重要な影響を及ぼすものであった。外国の介入に起因する内戦の困難など、新興独立諸国の状況は厳しいが、とりわけアンゴラをはじめ各国は国際社会において自らの立場を確保しつつある。アンゴラとモザンビークは、東ティモールの独立と南アフリカのアパルトヘイト廃絶に大きな影響を及ぼした」と述べた。

 独立後30年を経た現在も依然ポルトガルの援助と投資に大きく依存しているアフリカの旧植民地諸国について、ロレンソ大尉はさらに、1996年に創設されたポルトガル語諸国共同体(CPLP:アンゴラ、ブラジル、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ、東ティモールが加盟)が今後果たす重要な役割を指摘した。

1961~75年の独立戦争後も2002年まで内戦が続いたアンゴラは、インフラ面でも社会問題の面でも疲弊している。だが、リスボンの新聞Diario de Noticiasによれば、こうした治安の不安やアフリカ一の物価高にもかかわらず、外国投資の流入がかつてなく伸びているという。その原因は、国際原油価格の高騰を背景に日産20億バレルを今や記録し、かつ今後5年で産油量の倍増が予想されるアンゴラの豊富な石油資源にある。

将来石油の輸出に果たすアンゴラの役割にもっとも関心を持っている国のひとつ中国は、アンゴラのインフラ再建を目的とする20億ドルの信用供与枠を最近設けた。また、通信、金融、土木、観光、農業、工業に関心のある外国投資家にとっても、今年は14.7%、来年は27%の経済成長が予測されているアンゴラ経済の魅力は計り知れない。

だがこうした高度経済成長にもかかわらず、総人口1,300万のうちの3分の2は1日2ドル以下の生活を余儀なくされており、清潔な水もヘルスケアも確保されていない。石油のみならずダイアモンド、コーヒー、水と、5,000万人を養うことのできる資源を有するとされているアンゴラの人間開発指数は世界で160位であり、腐敗防止活動を展開する国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」によれば腐敗汚職のもっとも深刻な国のひとつであるのが現状である。

被植民地国にとって独立とは何を意味するかについての議論を含め、植民支配終焉後の30年を振り返る。(原文へ

翻訳=IPS Japan

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カナダの先住民、寄宿学校での虐待への補償として17億ドル受け取りへ

【オタワIPS=ハワード・ウィリアムス】

カナダ政府は11月23日、国からの補助金を受けた主に宗教団体運営の「寄宿学校」において身体的・性的虐待を受けた数万人のカナダ先住民に対して、17億ドルの補償金を支払う「原則協定」を発表した。 

これら寄宿学校は、カナダ先住民をもっぱらヨーロッパ的な生活様式と近代カナダの文化に「同化」する最もよい手段として時の政府が考え付いたものであった。しかし、この計画は大失敗に終わる。先住民(インディアンやイヌイット)の子供たちが教員や職員に性的・身体的虐待を受けているとの確かな情報が数多く寄せられるようになったのである。


 
カナダの「カペル・インディアン寄宿学校」。インディアン生徒の親たちは施設の立ち入りを禁じられ、子供に面会するためには学校の外で野営しなければならなかった(1885年)子供たちは、自分の母語で話をしているところを見つかって激しく殴打されすらした。兄弟姉妹との会話においてすらそうだったのである。また、だまされて自分の子供を寄宿学校に差し出した先住民の家族の事例や、政府や教会の関係者に誘拐された子供の事例すら数多く現れている。 

今回の合意は、急ごしらえの記者会見の場で、アン・マクレラン副首相と「『最初の国民』会議」(「最初の国民=First Nations」とは、カナダにおいて先住民を指すための公式の用語:IPSJ)のフィル・フォンテイン議長によって発表された。「『最初の国民』会議」は、政府の承認した居留区を代表する団体で、子供たちはこの居留区から連れ去られ同化させられたのである。 

自らも寄宿学校における性的・身体的虐待の被害者であることを明らかにしたフォンテイン議長(60)にとっては、今回の合意はとりわけ感動的な瞬間であった。議長は記者にこう語った。「いくらお金を積んだところで、私たちの心の傷を癒すことはできませんが、この和解協定によって癒しへの道筋を切り拓くことはできるでしょう。それは寄宿学校の生徒たちだけにとってそうなのではなく、その子供たち、孫たちにとってもそうでしょう。今日はとてもすばらしい日です」。フォンテイン氏は、この和解は、カナダの歴史上、この種のものとしては「最大で最も包括的なもの」だとした。 

しかしながら、この協定は依然として連邦裁判所の承認を受けなくてはならない。というのも、現在は解散した寄宿学校の運営に関与した連邦政府および教会に対する数百の個別裁判およびいくつかの集団裁判が、連邦裁判所において現在審理中だからだ。 

今回の協定では、裁判所の承認を受けたのち、約8万6,000名の元児童に対して補償金が支払われることになる。マクレラン副首相は、寄宿学校の生徒1人当たり8,500ドルと、在学1年当たり2,560ドルが加算されると述べた。各個人は、何年学校に在籍したかによって、最大2万5,000ドルまでを受け取ることができる。 

年配の虐待被害者に関しては、65才以上の元生徒に6,800ドルを即時支給するよう配慮がなされる。フォンテイン氏は、被害者の平均年齢が現在60才であるため、このことは協定の特に重要な要素だと述べた。 

協定によれば、マクレラン氏が「真実と和解」のプロセスと呼ぶものについてもさらなる行動が要請されている。氏は「和解の中心に座っているものは、私たちの歴史のこの1ページを終わらせるということです。私は、われわれの共通の決意に到達したこと喜んでご報告したいと思います。われわれがこれから実行することは、この先住民学校の遺物に関する公正かつ永続的な解決となるものと固く信じます」と述べた。 

しかし協定には、先住民集団からのひとつの要求事項が含まれていない。すなわち、連邦政府が真の謝罪を行なう、ということである。この理由について尋ねられたマクレラン氏は、問題がいまだに交渉の過程にあるからだ、と回答した。同時に、ポール・マーチン首相とカナダの10州および3つの北部諸州の知事が先住民代表とブリティッシュ・コロンビアのケロウナで会談する今週にも、謝罪がなされることになるかもしれない、とマクレラン氏は示唆した。彼女は、「きわめて明確に、議長(フォンテイン氏)と首相は、寄宿学校の問題のある側面に関するその他の問題を討議することを欲するかもしれない」と述べた。 

フォンテイン氏は、合意事項は「数十年という時間をカバーし、最初の国民たる個人および集団に対する無数の出来事と数え切れない傷跡の問題に対処するものだ」と語った。 

共同記者会見にはアーウィン・コトラー司法大臣も同席した。彼は、政界入りする以前に人権派弁護士として知られた人物である。コトラー氏は、若いカナダ人を寄宿学校に押し込める政策は、「われわれの歴史の中で、もっとも有害でもっとも恥ずべき人種差別的行為だ」と語った。 

これら学校は、カナダが独立する1867年以前に英国の統治下で設立されたものである。しかしカナダ政府は、[独立後の]1970年代に到るまで同学校への資金援助を続けた。現在は全て閉鎖されている。 

1.06億ドルの「真実と和解」のプロセスの中で、「アボリジニーの癒し」基金と「真実と和解」の集いに5年間にわたって資金が提供されることになる。しかし被害者側は、いったん補償金を受け取ったら、連邦政府、あるいは学校を運営した教会を訴える権利を放棄しなくてはならない。23日の記者会見で発表された資金には、今週行なわれる連邦政府と先住民代表とのケロウナ会談で発表されるとみられる補助金が加わることになっている。 

オタワからの未確認情報によれば、連邦政府・州知事側は、34億ドル以上にものぼる10年間計画に同意するものと見られる。これは、先住民居留区における保健・教育・衛生の改善のためと、指定居留区から離れて暮らしている、あるいはこれら居留区に住む権利を失った先住民に対する「生活向上プログラム」のために使われることになる。(原文へ) 

翻訳=IPS Japan

|アフリカ-ポルトガル|欧州によるアフリカの植民地支配終結から30年

【リスボンIPS=マリオ・デ・ケイロス】

11月11日に独立30周年を迎えるアンゴラだが、6世紀近くにわたる欧州のアフリカ植民地支配が終結してから30年の歴史でもある。

40年以上続いたポルトガル独裁政治を終わらせ、同国植民地の独立に動いた若手改革派将校グループ「国軍運動」の中心人物ヴァスコ・ロレンソ大尉は、IPSの取材に応じて「ポルトガル植民地の独立は、最後の植民地帝国の終焉を意味するものであり、重要な影響を及ぼすものであった。外国の介入に起因する内戦の困難など、新興独立諸国の状況は厳しいが、とりわけアンゴラをはじめ各国は国際社会において自らの立場を確保しつつある。アンゴラとモザンビークは、東ティモールの独立と南アフリカのアパルトヘイト廃絶に大きな影響を及ぼした」と述べた。

 
独立後30年を経た現在も依然ポルトガルの援助と投資に大きく依存しているアフリカの旧植民地諸国について、ロレンソ大尉はさらに、1996年に創設されたポルトガル語諸国共同体(CPLP:アンゴラ、ブラジル、カーボヴェルデ、ギニアビサウ、モザンビーク、ポルトガル、サントメ・プリンシペ、東ティモールが加盟)が今後果たす重要な役割を指摘した。

1961~75年の独立戦争後も2002年まで内戦が続いたアンゴラは、インフラ面でも社会問題の面でも疲弊している。だが、リスボンの新聞Diario de Noticiasによれば、こうした治安の不安やアフリカ一の物価高にもかかわらず、外国投資の流入がかつてなく伸びているという。その原因は、国際原油価格の高騰を背景に日産20億バレルを今や記録し、かつ今後5年で産油量の倍増が予想されるアンゴラの豊富な石油資源にある。

将来石油の輸出に果たすアンゴラの役割にもっとも関心を持っている国のひとつ中国は、アンゴラのインフラ再建を目的とする20億ドルの信用供与枠を最近設けた。また、通信、金融、土木、観光、農業、工業に関心のある外国投資家にとっても、今年は14.7%、来年は27%の経済成長が予測されているアンゴラ経済の魅力は計り知れない。

だがこうした高度経済成長にもかかわらず、総人口1,300万のうちの3分の2は1日2ドル以下の生活を余儀なくされており、清潔な水もヘルスケアも確保されていない。石油のみならずダイアモンド、コーヒー、水と、5,000万人を養うことのできる資源を有するとされているアンゴラの人間開発指数は世界で160位であり、腐敗防止活動を展開する国際NGO「トランスペアレンシー・インターナショナル」によれば腐敗汚職のもっとも深刻な国のひとつであるのが現状である。

被植民地国にとって独立とは何を意味するかについての議論を含め、植民支配終焉後の30年を振り返る原文へ

翻訳=IPS Japan

売り子の人権を無視するビール会社

【クアラルンプールIPS=チェアン・ボファ】

ここクアラルンプールで週末に開催された「性的健康に関する地域会議」のパネルディスカッションや討論は、チャナやソフィアの日常とはあまりにかけ離れた世界だった。騒々しい音楽、お客の騒がしい声、望みもしない客からの誘い。2人がビールの売り子として働くのは、カンボジアにあるこうしたレストランだ。 

売り子たちは、ぴったりとした服を着て、お客たちにビールを売り込もうとする。しかし、多くの売り子が歩合制で給料をもらっているため、生計を維持するのは容易でない。11月17日から20日までの日程で開かれた「性と生殖・健康に関する第3回アジア太平洋会議」(Third Asia-Pacific Conference on Reproductive and Sexual Health)に参加した活動家たちによれば、彼女たちはまた危険な環境に置かれてもいる。

 チャナは、性的サービスと引き換えに男性客からお金を受け取ることがたびたびあるという。なぜなら「月にたった55米ドルという貧しい収入を補う必要があるからです」。2人の子供を持つチャナは、カンボジアで行なわれた会議の性と生殖・健康(Reproductive and Sexual Health)に関する分科会でこう語った。「この仕事をやっているとプライドがズタズタになる。たくさんのお客が私にひどいことをするから」。「同僚も、私も、こういう暴行に耐えなくちゃならない。もし断れば、家族を食べさせていくためのお金を得ることはできません。母親はとても年老いているし、まだ小さい弟の面倒も見なくてはなりません」。彼女の声が響き渡る。発言の間、エアコンの効いた室内を沈黙が支配していた。 

このようにして売春を行なうことは「間接性労働」と呼ばれている。というのも、これが女性の労働環境と経済的な圧力に起因しているからだ。こうした商売上の性的行為が起こるのがカラオケ・バーのような場所であったり、売春宿のような通常の場所以外であったりすることから、「間接的」とみなされているのである。 

さらに、このような行為は、通常15歳から39歳のビールの売り子たちを性行為を通じて感染する病気やエイズの危険にさらすことになる。なにしろカンボジアでは、15歳から49歳の女性のHIV感染率がすでに2.6%にも達しているのである。 

ビール売り子歴9年で月収58ドルのソフィアは、ビール売り子は基本的に自分で何でもやっていかなくてはならないという。乱暴な言葉を投げかけられたり望まないのに触られたりするなどの嫌がらせや不愉快な行為がバーやレストランで起こったとしても、売り子たちは店長に助けを求めることができない。ソフィアの説明はこうだ。「店長は、お客を失いたくないから売り子たちを助けたりはしないの。お客の行動とか嫌がらせに文句を言ったりしたら、ビールなんか買ってくれないもの」。 

ほとんどが国際的に有名なビール会社の製品を売るその売り子の女性たちは、推定で約4,000人いる。これらの女性たちが、推薦するブランドのビールを売ったり注いだりしている光景は、カンボジアでよく見られる光景のひとつだ。 

リプロダクティブ・ヘルスの問題に取り組む活動家たちによれば、たくさんの女性がHIV/AIDSに感染しているという話も最近ますますよく聞くようになっているという。1998年に国が行った調査では、毎年、約20%のビール売り子がHIV陽性反応を示したという。 

シエム・リアプ県のビール売り子の女性の調査を行なっているスリラクシュミ・ガナパティ氏(シンガポール国立大学)によれば、女性のビールの売り子は夜間も働き、月27日労働だという。シエム・リアプ県は、近くにアンコール・ワットがあることから、人気の観光地となっている。 

しかし、彼女らがビール会社のために売上げる金額が月2000ドルという現実からすると、彼女たちの稼ぎは少ないものだ。ガナパティ氏はいう。「ビール売りの女性たちは健康上の危険にもさらされる。仕事のためにアルコールを過剰摂取しなくてはならないからだ。その量は一晩約1.23リットルほどにもなる」。ガナパティ氏は続けて、「家族を経済的に養っていくために、しばしばお客から無理やり飲まされたあげく、仕事後に売春を強要されてそれを受け入れてしまうこともある。しかしこうした場合、コンドームの使用率は下がるし、エイズその他の健康被害にあう危険性は高まる」と述べた。 

HIVに感染した売り子は長く生きることが難しいかもしれない。というのも、彼女たちの雇い主、すなわちビール会社が、彼女たちの健康に気を配ったり、健康保険に入れたりすることがないからだ。また、彼女たちはエイズ薬(抗レトロ薬)を簡単に手に入れることもできない。 

シエム・リアプ県において同じ調査を行なっている、ゲルフ大学(カナダ)のイアン・リュベック氏は、「これらビール会社は、売り子の健康と給料に関する責任を回避しようとしている」と述べた。「カンボジアの労働法には、パートタイム労働の給与支払いに関する条項が存在しない。それをいいことに、先進国のビール会社は売り子たちを従業員ではなく製品の広告塔ぐらいにしか考えていない。だから、会社側は彼女たちを健康保険に入れようとしないのだ」。リュベック氏は、海外のビール会社がもっと責任を持つようにプレッシャーをかけていくべきだと訴える。 

すでに、ハイネケン社のような会社がこうした批判に反応をし、より露出の少ない衣装を売り子に着せたりするなどの処置を取っている。また、同社は売り子の女性を夜は家に帰すように手配したともいう。「ケア・インターナショナル(CARE International)」のような市民団体は、より多くの会社がこの動きに追随し、業界自体が、売り子と販売店の行動規則を作成するよう望んでいる。また、報道によれば、4つのビール会社が、責任あるビールの飲み方と攻撃的な客への対処の仕方を学ぶ訓練プログラムを始めることによって、労働環境を向上させる試みを始めたという。 

リュベック氏は「私たちは、ビール売りの女性たちの人権を尊重しないビール会社に対して、労働法と商法を遵守するよう要求することによって何かを行なわねばならない」と語る。また、ビールの売り子や活動家の中には、「ビールの売り子」や「間接的性労働」という用語の使用に疑問を呈する者も増えてきている。というのも、これらの言葉には、性労働を貶める意味合いがいまだに含まれているからだ。(原文へ) 

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩 

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英軍と闘ったゲリラ・元マウマウ団兵士 「あの当時の正義が、 今になったからといって正義そのものが否定されるわけではない」

1963年のケニア独立前に、中央ケニアの森林アジトから出て英植民地軍と戦った元ゲリラの兵士が、戦争について語る。

【ケニアIPS=ダレン・テイラー】

ケニア中部ニエリの丘は、一面がエメラルド・グリーンのコーヒー畑である。朝の太陽が緑の林に黄金の光を注ぐと、老人は孫にコーヒー栽培の極意を教える。

「頼むよ」、老人は厳しく命じた。そして、枯れた木を指差して「今日は、遊ばない。お前はこれを抜かなければならない」と言った。干からびた老人は、孫がしかめ面をすると振り返って、「収穫は、駄目だな。私のコーヒーはうまく行かない」とため息をついた。

デイビッド・ギシェル(74歳)は、1963年の独立前に、中央ケニアの森林アジトから出て英植民地軍と戦った元ゲリラである。

彼は、不作の予感と同様、英国との戦い、そして国を植民地主義から解放した人々に対するその後のケニア政府の扱いにまつわる思い出に苦しめられている。しかし、レジスタンス兵士、独立戦争生存者の功績を見直す動きが始まった。

ギシェル老人が言うところの「白人侵入者」に対する組織的抗戦は、1952年に開始された。彼同様、ケニア最大の部族キクユ族出身の数百人の若者が、植民地主義者を国から追放しようと誓い、マウマウ団を結成したのである。

ギシェル老人は思い出すかの様に、「我々は林に隠れた。そして、英国および国防義勇軍(ケニア人の英国協力者)への攻撃を開始する計画だった」と語った。

彼は、「我々にはナイフと斧しかなかった。古いライフルを持っている者もいた。多くが白人に撃たれた。私の体にはその時の弾が今も残っている。恐ろしかったが、独立のために戦わなければならなかった」と語る。

ハーバード大学の歴史学者で、ケニアの自由闘争に関する著書「英国のグーラーク(Britain’s Gulag)」でも知られるキャロリン・エルキンズ氏は、英国軍は1950年代に10万人強のケニア人を殺害したと推測している。その多くは、マウマウ団への支援阻止を目的にキクユ族を収容するため建てられた強制収容所で死亡した。

アン・ワホメ(69歳)は、反乱軍に食物を提供したとの容疑で国防義勇軍に逮捕され、強制収容所に入れられた。元反乱軍の兵士であった彼女の夫は、ケニアの首都ナイロビで数年前に死亡した。

彼女は、「ムワンギ・ガチョカ:元マウマウ兵士。ケニアの自由のために戦う、と新聞に掲載したが、誰も来てくれなかった。誰も関心を払わなかった」と語っている。

また、「キバキが大統領に選出され、政府援助への期待が高まったが、我々は、英国が去った時と同様、何も手にしてない」と語っている。(ムワイ・キバキと同氏のNational Rainbow Coalitionは、2002年末に政権就任)

ケニアの初代大統領ジョモ・ケニヤッタは、10年に亘る反乱の間拘束されていたため、マウマウ団と直接係っていない。彼はまた、独立への道を開いた1960年のロンドン・ランカスターハウス協議にも参加していない。

1963年の大統領就任以降、ケニヤッタは側近政治を開始。元ゲリラを農夫として出身地に追い返したのである。ケニヤッタおよび後継者のモイ大統領は共に、マウマウ団を非合法とする植民地時代の決定を覆すことを拒否してきた。

ワホメは、「彼らは我々のこと、私の夫が何のために戦ったかも完全に忘れてしまった。彼らは、盗み取るだけで、我々には何も与えなかった」と苦々しく語る。

ロンドン、ナイロビにある有能な弁護士チームが、マウマウ団の功績に対する賠償を獲得するため活動を開始した。彼らは、植民地主義的残虐行為から生き延びた人々に支払う多額の賠償金(具体的金額は明らかにされていない)を求めて英国政府を相手取り訴訟を起こす計画である。

弁護士チームの一人マーティン・デイ氏は、IPSの質問に応じ「情報も十分であり、訴訟の準備はできている。残るは、ケニアチームによる訴訟費用捻出である。近い将来、ロンドンで裁判を起こすことが可能と信じている」と語った。

デイ氏は、ケニア北部サンブル地方の放牧民を弁護し、英国に勝訴したことで知られる。

2003年、示談が成立。ケニアで演習を行っていた英国兵が放置した武器の爆発により怪我をした牧夫および死亡した牧夫の遺族に対し約700万ドルが支払われた。

ケニア人権委員会(Kenya Human Rights Commission:KHRC)も英国政府に照準を合わせている。

KHRCのワンジク・ミアノ委員長は、「元マウマウ団兵士500人強を代表し英国で賠償訴訟を起こす準備を進めている。恐らく年末になるだろう」と語っている。

マウマウ訴訟弁護団は、「英国軍がケニアで行った残虐行為は、戦争に関するあらゆる国際協定に違反する非人道的犯罪である」との論を展開する予定である。

マウマウ退役兵協会(Mau Mau Veterans Association)のマカリア・ワンイェキ氏は、「我々は、時間をかけて証拠集めを行ってきた。英国の残虐行為を記録した文書を調べ、多くの調査も行った。
ロンドンで、我々の要求の正当性が明らかになるだろう。我々は、公正な償いを要求しているだけだ」と述べている。

エルキンズ氏によると、マウマウ団を、夜中に眠っている白人を殺害し婦女子を強姦する「野蛮人」とする誹謗キャンペーンを開始したのは英国政府という。しかし、記録によれば、ゲリラが殺害した白人は少数で、入植者32名、植民地軍兵士50人という。

しかし、ギシェル老人は、「マウマウ団が、英国に協力したキユクの仲間に残虐行為を行ったのは事実」と語っている。

彼は、「それについては、話したくない。戦争だったのだ」と呟いた。

しかし、裁判は容易ではない。KHRCは、訴訟提出に必要な8万ドルの獲得に躍起となっている。
(デイ氏は、総費用を200万ドルと見積もっている。)

同氏は、「KHRCのロンドンにおける訴訟が成功しなければ、ハーグの国際司法裁判所(ICC)に訴える」としている(ICC関連記事)。

提案されたケニア新憲法(案)には、ケニア独立の犠牲となった人々を称え、10月20日のケニアッタ・デーをマシュジャ・デー(英雄記念日)とすることが盛り込まれている。キバキ大統領はまた、ケニア歴史博物館の建設を約束している。

しかし、連邦議員Gachara Muchiri氏は、これは誤った施策と主張する。同氏は、「元マウマウ兵の殆どは、貧しい人々である。自由の戦士(freedom fighters)を支援するのに金が必要な時に、何故数百万シリング(ケニアの通貨単位)を博物館建設に費やすのか」と語っている。